古代文学の常識−万葉集の時代−
 出典:「國文學」學燈社1997年7月号第42巻8号


 

はじめに  
 宮廷歌人とはどのような存在か

 柿本人麻呂や山部赤人など、専ら歌作りを任務として宮廷に出仕し、行幸・遊猟などに供奉して、それらを主宰する天皇や皇子への讃歌を詠んだり、皇族の葬礼に挽歌を奉ったりする歌人をさしていうのが、今日もっとも一般的な用法である。今日的な概念の始発点は折口信夫の「宮廷詞(詩)」にある。宮廷の古い伝承歌を折口は「大歌」と呼ぶが、万葉の時代に至り新作の大歌の必要が生じ、天皇らに代わってそれを詠む代作歌人が登場した。そこに宮廷詞人の発生があるとする(「柿本人麻呂」新版「折口信夫全集」6)。

 戦後の研究史の中では唱和四十年前後に宮廷儀礼歌の研究が集中した。その代表的成果である橋本達雄「万葉宮廷歌人の研究」は中皇子・額田王らに代作歌人の姿を認めて宮廷歌人の先駆とし、続いて第二期の柿本人麻呂、第三期の笠金村・山部赤人・車持千年、第四期の田辺福麿を宮廷歌人とし、さらに第二期の高市黒人・長意吉麻呂、初期の山上憶良らを周縁的な宮廷歌人とする。また彼らの活動期はそれぞれ持統朝・長屋王時代・橘諸兄時代に当たることを重視して、天皇や皇族出身者執政の時代に登場の機会が存在したとする。

 宮廷歌人系統の古い例には、宮殿讃めの歌い手として清寧紀に「当世の詞人」が見える。寿詞・寿歌作りを仕事とし、人々に求められて制作するのだから、人の心を体することになり、代作的にさることも多かった。

 万葉の宮廷歌人は次第に隠れていた代作者としてのその名を表し始め、歌人の誕生ともいうべき史的栄誉を担うことになるが、寿歌を奉る立場の奉仕者の心を代作的に詠むより、奉仕者を「大宮人」と概括的に捉え、それの天皇への奉仕を景として描き出すことで、寿歌の形式とするようになる。また宮廷儀礼の秘儀化の過程で、歌を奉る場はむしろ宮廷よりも離宮のような場所に周縁化する。彼らの主たる献歌の場は離宮であった。

 また人麻呂の場合は儀礼歌ばかりでなく、後宮女官らを享受者としたサロン文芸としての歌を詠み、天皇を含まぬ皇子女らの殯宮挽歌も詠む。これらは、古い時代に想定される詞人や巫祝などに対して宮廷歌人が祭式や儀式の周縁部に根拠を移した者であることを示す(森「古代和歌の成立」所収「景としての大宮人」)。しかしまさしくそれゆえに、儀礼歌から饗宴歌へ、宴の四季歌へ、という流れがさらに進む過程で、宮廷歌人はその歴史的な役割を終えていく(「雑歌」の項参照)。
 
 
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