挽歌はどのように成立したか
挽歌は家族や恋人、主人筋にあたる人などの死を悼む歌であるが、その成立に関しては、さまざまな説が唱えられていて未だ一定ではない。
さて古代の人々は人の死を「魂」が「肉体」から遊離するものと考えていたので、死者の再生を願うためには、まだ埋葬されていない状態において魂が戻ってくるようにと、呼びかけを行った。それが「葬歌」の始まりである。その後、死者に霊魂を呼び戻すという神招ぎの思想は次第に薄れてゆき、葬歌は天皇家の葬儀の場合にのみ形式的に残ることとなった。その一方で、死者を呼び戻すのではなく、死者の魂を鎮め、あの世へ送り出すというレクイエムの思想に基づいた挽歌が葬歌を淵源として発生したのである。
このように挽歌は最初モガリの屍の前で行われた哀悼の歌であったが、本来の性質を少しずつ失って、文学的な意味あいを多分に含んでくるようになるのである。
ところで、万葉集において挽歌が最初に見られるのは天智天皇の頃である。第二期の持統・文武天皇の時代には開化してゆくのであるが、その中心人物である柿本人麻呂の歌には、フィクション的性格が顕著に表れた挽歌があり、その対象はいずれも宮廷の重要な立場にいた四人の皇子(川島・草壁・高市・忍壁)達であった。
第三期以降は、挽歌が極端に少なくなるのであるが、それは持統天皇の葬儀を契機として葬儀が仏式に変わり、誦経が捧げられるようになったからだと思われる。また、高橋虫麻呂や、山上憶良などはその歌において、フィクションとしての文学性を見事に昇華させ、「死の文学」として独自の展開を示すことになるのである。
古今集の頃になると、挽歌は「哀傷歌」という名称に変わり、一つの部立を形成するようになり、歌の内容も万葉集の場合とかなり異なってくるのである。
万葉の挽歌と比べ、呪術的な部分、鎮魂的意味あいが薄れてきているのは、巨大な陵墓を作って死者の永遠性を祈るという習慣の終焉を示しており、同時に火葬の習慣化が少しずつ定着してきたことを意味している。火葬によって、人の死は無であると認識することを余儀なくされれば、挽歌本来の性質すらも次第に忘れ去られてゆくのである。 |