古代文学の常識−万葉集の時代−
 出典:「國文學」學燈社1997年7月号第42巻8号


 

 

はじめに  
 和歌への批評意識はどのように生じたか

 椎野連長年は古歌「橘の寺の長屋に我が率寝し童女放髪は髪上げつらむか」(万葉集巻十六、3821)について、寺家の屋は俗人の寝るところではなく、また成人式を迎えて髪上げした女性を「放髪丱」というから四句と五句とは重複していると述べ、「橘の照れる長屋に我が率寝し童女放髪に髪上げつらむか」と改めている。ここには仏教の立場からの批評があるとともに、四句と五句とは繰り返し的であってはいけない、四句から五句へ論理的に展開しなければならないという規範意識がある。しかし、五七調の短歌体が多い万葉集では、上二句と下三句、あるいは一から四句と五句とが言い換え、繰り返しの関係にあることが多く、そのため、例えば「伎波都久の岡のくくみら我摘めど籠にも満たなふ背なと摘まさね」(巻十四、3444)において、五句は、四句までが若い女の声であるのに対して、その姉貴分などの第三者の声であると言われるように、一首が多声的である場合が少なくない。長年の右の批評は、この五七調の短歌体の多声性を、論理的で単声的なものに改めようとしているのである。長年が3822を「脈曰」と、患者を診察するように論じるのも、一首を単声的に統一された有機体として捉えようとしているからである。その診察は、四句と五句との論理的関係を求めるものであるから、「五七五/七七」の七五調を目指すということでもある。


 押韻の観点から歌病を定めている藤原浜成「歌経標式」(宝亀三年-772年-成立)が志向するものも七五調であった。例えば、大伯皇女の「見まく欲り我が思ふ君もあらなくになににか来けむ馬疲らしに」を三句尾字と五句尾字が同じ「に」で「同声韻」という歌病であるとして、「見まく欲り我が思ふ君も過ぎにけりなににか来けむ馬疲らしに」と改めている。音韻を正すことが、四句切れの歌を三句切れに改めることになるのあり、そのことによって、五七調で、一から四句と五句とが繰り返し的で多声的であったものを、七五調で、四句と五句とが論理的に強く結合する単声的なものとしているのである。

 右のような「歌経標式」の姿勢には、浜成が一字一音の万葉仮名で書かれた歌を分析すると言う立場を取っていることが深く関わったいる。初句第一字から五句末字までを線条的・時間的に見る分析の作業が、統一的な主体による論理的表現を求めさせるのである。その論理性によって病の治癒を図る仏教と関わっているはずである。
 
 
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