古代文学の常識−万葉集の時代−
 出典:「國文學」學燈社1997年7月号第42巻8号

 

はじめに  
 懐風藻の成立はどのように考えられているか

 序文には「于時天平勝宝三年歳在辛卯冬十一月」とあり、これによれば孝謙天皇751年に成立したことになる。序文「凡一百二十篇、勒成一巻」とあるものの、現存本では一一六篇しかなく、すでに天平勝宝時代の原本の姿を失っている。撰者は淡海三船説が有力。しかし問題がないわけではない。葛井広成説、石上宅嗣説、藤原刷雄説、集中に作を残さない「佚名人」説、「亡名氏」説などがある。

 名義については、また序文に「余撰此文意者、為将不忘先哲遺風、故以懐風名之云爾」とみえ、先賢の残した風体・風姿を慕い忘れないように、詩文集の名としたという。「藻」は文藻(あやある詩文の意)。近江朝以降八十年あまりにわたる詩を収めている。

 おおまかに区分すれば、近江朝(667-672)、天武朝から平城遷都(673-710)、平城遷都後から藤原宇合らが薨した天平九年(711-737)、天平十年から天平勝宝三年(738-751)までの四期。ほとんど剽窃に近い作品もあるが(紀末茂「臨水観魚」)、六朝・初唐の詩風をよくとどめている。

 ただし、第一期の近江朝の作品は、大友皇子「侍宴」「述懐」の二篇しか残されていない。これは撰者が近江朝関係の詩文資料から「撰」び出した結果、大友皇子の作品だけを撰出したのか、それとも近江朝の詩は大友皇子作しか残っておらず、ほかの作品は散逸してまったく存在しなかったからなのか、やや疑問。

 またその作「述懐」には「監撫」の語句があり、「監」は天子征行の際に太子が留まり守る「監国」の意、「撫」は天子とともに太子が従軍する「撫軍」の意。「日本書紀」には立太子の記事がないことから、皇子の自作ではなく後人作の可能性もある。

 第二期の大津皇子「臨終」の一篇も、陳後主の叔宝の臨刑詩に酷似。それのみならず、日中韓三国に、ひろく類型詩が指摘されている。万葉歌(巻三、416)が伝誦歌とされるのと同様に、死んだ大津に仮託された伝誦詩と考えられる。釈道融「山中」や巻末の亡名氏「歎老」などは、編纂時(天平勝宝)のものではなく、後人によって挿入されたらしく、原「懐風藻」には存在しなかったようである。

 それにしても、近江朝を漢文隆盛の時代と位置づけ、文章経国の思想を体現する作品を蒐集し、歴代にわたる詩集を編もうとした東アジア的文学史観とその営為は、大いに意義がある。

 [参考文献]
 小島憲之「上代日本文学と中国文学」(下)
 辰巳正明「万葉集と中国文学」など
 
 
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