古代文学の常識−万葉集の時代−
 出典:「國文學」學燈社1997年7月号第42巻8号
  

 

はじめに  
 東歌とはなにか
   
 「万葉集」巻十四に収められた短歌二百三十余首の総称。トウカと音読された可能性もある。性愛表現の直截性や、特殊な語彙・語法の存在において集中に異彩を放つ。早く賀茂真淵は、この特異な位相に注目して「東ぶり」の称を与えたが(万葉考)、その「東ぶり」とは何かと言う問題は、万葉研究史上の難問の一つとして残されている。
   
 近代の範囲で諸説を概括すれば、
1 東国の「民謡」とする説、
2 「民謡」ではないとする説
3 東国「民謡」の変質した形態とする説、
4 東国在地の豪族らの創作歌とする説、に四分される。
    
 1説は、1906(明治39)年に出現して急速に支持を集め、ほぼ50年代までの通説でありつづけた。10年代には2説も提起されたが、大勢に影響しなかった。50年代半ばに4説が現れ、1説を斥けるとともに2説の曖昧な点を補強すると、1説の修正意見として3説が唱えられ、4説に対抗することになったのである。
   
 なお、私自身は、右のいずれにも与さず、東歌は短歌という古代支配階級の精神文化の、特殊な一形態であると考える。以下、その理由を簡単に述べておこう。

 まず、研究史の出発点となった「東国民謡」説自体が、事実よりもむしろ願望に立脚していたという点がある。「民謡」、つまり「民族としての民衆の歌謡」という概念は、西欧諸国の文学史にコンプレックスを覚えた明治の知識人が、新時代の国民的詩歌の樹立を鼓吹する過程で定着させたものであって、この概念がほとんど検証抜きに「万葉集」に適用されたのも、さらには万葉歌の民族的性格の強調に利用されたのも、その延長上の出来事だった。この転倒した見方は、1説だけでなく3説にも持ち越されている。
   
 一方、2説や4説は、「民謡」説への批判に有効な点を含むものの、東国人の主体性を重視する限りでは、1説・3説と同様、東歌の流れが平安以降途絶えてしまう理由を説明できない。
   
 私たちはむしろ、東歌を八世紀に固有の存在と認識するところから出発すべきだろう。そのさい避けて通れないのは、「万葉集」はなぜこの風変わりな歌々を必要としたのかと言う点、また、それらに特に一巻を割き、「東歌」の標題を与えたのはなぜだったか、という点だろう。

 [参考文献]

 品田「東歌の文学史的位置づけはどのような視野を開くか」(「国文学」35-5、1990年)
 同「万葉集にとって民謡という概念はどこまで有効か。」(同41-6、1996年)
 
 
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