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この巻は巻第十と同じ分類法がとられている。即ち、まず四季に分け、次いでそれらを雑歌・相聞に分かち、それぞれの中で時代順に並べるという方式である。 両巻の違いを分かりやすく示すために一括して各グループの歌数を表にすれば、次のようになる。 (表、略す 参考頁「万葉集全巻の構成及び歌数」) 雑歌が全体に対して占める比率は、巻第八で72%、巻第十で71%とほぼ等しく、四季の歌を雑歌と相聞に分ければ、雑歌が常に相聞を上回り、おおむね七対三の割合になる。 ただ、両巻が大きく異なる点は、作者名の有無である。即ち、この巻第八はごく一部に、作者未詳と注する歌が混じるが、原則的にはすべて作者を明らかにするものであり、雑歌は巻第六のそれと、相聞は巻第四のそれおよび巻第三の譬喩歌と、それぞれ関係があると思われる。例えば、巻第八の1578〜1584が作られたのは、巻第六の1028〜1031がうたわれたのと、同じ天平十年(738)八月二十日右大臣橘諸兄の邸である。ただ、巻第八に収められた方に雁・秋萩・秋の鹿・秋の野の尾花などの語が、詠み込まれているために、切り離されたのである。更に言えば、 大伴宿禰家持、娘子が門に至りて作る歌一首 妹が家の門田を見むとうち出来し心も著く照る月夜かも (1600) は、巻第四の、 大伴宿禰家持、娘子が門に至りて作る歌一首 かくしてやなほや退らむ近からぬ道の間をなづみ参ゐ来て (703) と同時の作とみて誤りではなかろう。このほかにも、家持と笠女郎や紀女郎などとの贈答、大伴田村大嬢が異母妹の坂上大嬢に贈った歌、更には久邇京滞在中の家持が平城旧京の坂上大嬢に贈った歌など、巻第四と巻第八とにまたがるものに同時の作がかなりにあるのではなかろうか。また、この巻の題詞に、養老八年、神亀元年、同五年、天平元年、二年、四年、五年、十年、十一年、十二年、十五年というふうに、年紀を記す歌が少なくないことも、年立が克明に記されていた巻第六との近さを示すかと思われる。 |
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この巻には旅人をはじめ、坂上郎女や家持など大伴一族およびその関係者の歌が多く、歌数で言って総数246首中129首と、全体の半ばを超える。更に注意されることは、大伴一族の者の名を記すに当って、しばしばその姓「宿禰」を省略することがある、という事実である。これについては既に巻第五の解説で触れたので、重ねては言わないが、ただ家持には叔父に当る稲公だけは例外で、1553・1557と二回見えて、いずれも「衛門大尉大伴宿禰稲公」と記して姓を省略しない。このことからみて、姓を省略するのは家持自身および彼よりも目下の者が対象で、そこに大伴一族の中における家持の視点の位置を確かめることができるであろう。 ところが、橘奈良麻呂が、父の右大臣橘諸兄の旧邸で催した観楓の集宴で詠まれた歌を収録した箇所では、書持や池主らの同族下輩ばかりでなく、家持自らについても「内舎人大伴宿禰家持」と宿禰姓を省かずに署名する。それは一つには、場所柄、一つには参加者が比較的に年少で気詰まりなその場の空気を反映したものであろうか。このような例外もあるが、概してこの巻に姓抜きが多いという事実は、これが大伴一族の私家集的性格が格別に濃い巻であることを示す証拠と言えよう。 この巻の歌で、年代の最も新しいのは、天平十五年秋八月十五日の日付のある1606・1607の次の、大原真人今城が平城旧京にあって故郷の荒れゆくのを傷み惜しんで詠んだ歌(1608)、およびこれに対して久邇京から贈った家持のその返歌(1609)であろう。あるいは翌十六年秋の贈答であったかも知れない。 |
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