万葉集巻第十九の構成・特徴   日本古典文学全集・小学館
   
     巻第十九

 
部類別 歌数  長歌  短歌  旋頭歌  漢詩 
  154
 23
131 0 0
 
 巻第十九は、前巻最後の歌が詠まれた日からわずか十二日後の天平勝宝二年三月一日の春苑桃李を眺めて詠んだ歌、

    春の苑紅にほふ桃の花下照る道に出で立つ娘子 (4163)

で始まる。これは家持の秀作の一つといわれ、このあとに続く、その後一、両日内に作られた十数首の中にも佳作が多く、また巻末の、同じく春の景を叙しつつ憂愁を独ごつ数首の歌と結び付けて、家持を春の歌人と称する向きさえもある。

 巻第十八の解説でも、家持が予作歌を詠むことがあったと言ったが、この巻になってその傾向は一段と強まり、また憶良の沈痾の時に詠んだ「士やも空しくあるべき」(983)に追和した「ますらをは名をし立つべし」(4189)を作り、筑紫での梅花歌三十二首を受けた梅苑歌(4198)や葦屋の兎原娘子の追同歌(4235)を詠んで書き付けている。時にはモ・ノ・ハ・テ・ニ・ヲの助詞を使わないという制限付きで歌を作、という遊びもする。このゆとりのようなものが認められるのは、あるいは妻の坂上大嬢の越中来着と関係があるかもしれない。しかしこの巻の後半の帰京後の作品には、4290の応詔予作歌を例外として、筆のすさびともいうべき暇つぶしの歌作りは姿を消す。

 その一方、相変わらず下僚と遊宴しては歌を詠み、また池主の後任の掾久米広縄と、ほととぎす聞いたか、聞かぬ、とたわいない問答をする、などの即興的応酬もあるが、遠隔地の誰彼と取り交わした書翰に記した歌も、これまで以上に多くなる。相手は例の池主だが、そのほかに留守を頼む坂上郎女や実妹の「留女」、また丹比家、聟の藤原二郎などの在京人が目立つ。中でも、妻大嬢に頼まれて叔母兼義母の坂上郎女に贈る歌の代作(4193)をし、また郎女から「・・・大船の ゆくらゆくらに 面影に もとな見えつつ かく恋ひば 老い付く我が身 けだし堪へむかも」(4244)と不安を包み隠さぬ歌が贈られて来るのは哀れで、歳月の移ろいを思わせる。それらの題詞・左注を原文で示せば、

    為家婦贈在京尊母所誂作歌一首[并短歌] (4193題詞)

    右二首、大伴氏坂上郎女賜女子大嬢也 (4245左注)

とあり、それらは、巻第四の726・727の題詞・左注にも同じような使用を認めたが大伴坂上家の母子という個人的人間関係を歌集にそのまま持ち込んだ痕跡として、そこに万葉集の私撰的性格を見ることができる。
 やがて天平勝宝三年(751)になる。元旦ではないが、二日に家持は国守の館での集宴の席で、
    
     新しき年の初めはいや年に雪踏み平し常かくにもが (4253)

の歌を詠む。五年前の故元正太上天皇の御在所での雪掃きの宴を思い出しながら詠んだものであろう。半年後の七月十七日に少納言となって帰京することになる。少納言は天皇に近侍する職ゆえ、侍宴などの際に応詔歌を求められることもあろうか、と考えてのことか、その日の名誉のために、道中で予作歌を作り、并せて左大臣橘諸兄の長寿を願う一首も準備する。
 久し振りの都に家持はなんとなく空虚感・違和感を覚えたのではなかろうか。越中でこそ「太守」と崇められたが、都では物の数に入らないような視線を感じたもののようで、一族の中でも家持より年長で、父旅人の期待も大きかったらしい(570左注)、いとこの胡麻呂が遣唐副使となった時の予餞会にも列席した様子がなく、再び召されるあてとてないままに応詔歌を作っている。帰京後一年以上も経ってから、諸兄に誘われてか、橘邸で聖武太上天皇臨幸のもとに催された肆宴に列し、

     天地に足らはし照りて我が大君敷きませばかも楽しき小里 (4296)

を詠むが、「未奏」のままで、人の目に触れることはなかった。その約半月後の新嘗会で詠んだ、

     あしひきの山下ひかげかづらける上にや更に梅をしのはむ (4302)

も、仲間うちの内緒話に近い作で、題詞に「応詔歌」とあっても、献進された様子はない。
 ただし、この二日後、諸兄の息で家持より少し年下かと思われる奈良麻呂が但馬按察使となって山陰に出掛ける、その予餞会で家持は、

     白雪の降り敷く山を越え行かむ君をそもとな息の緒に思ふ (4305)

と詠んだ。その言葉続きに疑問を覚えてか、諸兄が第五句「息の緒に思ふ」は「息の緒にする」と改めたら、と言った。しかししばらくして、やはり元のままのほうが良かろう、と言ったというのである。そのいずれがましか、は今言わないが、家持にしてみれば、左大臣が自分の作品に関心を持ったことの名誉、誇らしさを書き残しておきたかったのであろう。
 また年が改まり、勝宝五年(753)となる。正月四日の石上宅嗣邸での宴に家持も列席していたのであろうが、歌はない。茨田王・道祖王などの詠出者とは身分が違い過ぎる、ということもあろうか。なお、4309の歌の題詞に「述拙懐」の文字が見える。この「拙懐」は巻第二十の4384の題詞などにも見掛け、共に家持の謙遜した気持ちを表わす。その点、先ほどの「尊母」「賜」などの敬語使用と似ていなくもないが、誰に対してへりくだった用法なのか、いまだに釈然とした説明を見ない。
 最後に、巻首と呼応するかのように、それを根拠に家持を春愁の歌人と称する人もある三首、

     春の野に霞たなびきうら悲しこの夕影にうぐひす鳴くも (4314)
     我がやどのいささ群竹吹く風の音のかそけきこの夕かも (4315)
     うらうらに照れる春日にひばり上がり心悲しもひとりし思へば (4316)

前の二首は二月二十三日に、最後の一首は二日後の二月二十五日に作られたものである。その左注に、

     春日遅々に、うぐひす正に啼く。悽惆の意、歌に非ずして撥ひ難きのみ。仍りてこの歌を作り、式て締緒を展べたり・・・

とある。右の「拙懐」の語の使用と矛盾するが、これを読めば、誰かに見てもらおうと考えて作ったのでなく、歌にする以外にこの憂愁の晴らしようがないのだ、という歌境は、万葉集の中で類を見ない繊細な感傷の世界として高く評価されている。

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