万葉集巻第一の構成・特徴   日本古典文学全集・小学館  
  巻第一
   
 部類別  歌数  長歌  短歌  旋頭歌
 雑歌  84  16  68  0

 巻一及び巻二には天皇代の標目が立てられている。
  泊瀬朝倉宮御宇天皇代   (雄略天皇)
  高市岡本宮御宇天皇代   (舒明天皇)
  明日香川原宮御宇天皇代  (皇極天皇)
  後岡本宮御宇天皇代    (斉明天皇)
  近江大津宮御宇天皇代   (天智天皇)
  明日香清御原宮御宇天皇代 (天武天皇)
  藤原宮御宇天皇代
  寧楽宮 
 
 以上のうち「藤原宮御宇天皇」は、その下に「高天原広野姫天皇(持統)」と小文字で注してあるが、実際には文武・元明両天皇治世下の歌をも含め三代にわたっている。持統天皇は「太上天皇」、文武天皇は「大行天皇」、そして元明天皇をただ「天皇」とだけ記してあることは、この巻第一が同じ元明天皇が平城に遷都した後の在位六年間に一応の撰定を終えたことの証であろう。 最後の「寧楽宮」だけは以上の形式と異なっているが、同じ元明天皇代の作であるからだと思われる。ただし、和銅三年(710)に遷都しているのに、和銅五年の歌(81-83)が「寧楽宮」の標目の前にある理由は分らない。 巻頭に雄略天皇の歌を置いたのは、年代の古さもさることながら、記紀にあまたの歌謡を挟んだ物語の主人公であるその人を彷彿させる内容と言う点で、編纂者は万葉集の中の他のどの歌よりも相応しいと考えたからであろう。丘の上に菜を摘む村娘が目の当たりに帝王にまみえることを得た古代に対する憧れのようなものが感じられる。ただし、雄略天皇の作に擬した伝承歌、さらに想像を逞しくすれば歌劇の中のさわりの独唱部だけが切れ残ったというべきか。それでも編者たちはその伝来に疑いを挟もうとしなかった。資料を素直に受け取ろうとする姿勢は、終始一貫した編集方針であったと思われる。

 その後、舒明天皇の代にとぶ。天皇の国見歌、中皇命の狩場思い、軍王の家偲びなどの歌がある。この前後、非個性的な表現や類型的発想を脱し得ていない歌謡から、個人感情の流露表現へ緩やかに移行しつつあったといってよい。その一部に天武朝以後の作品にしか見られない用語が認められるとする説もあるが、文献の記述はあくまで尊重しそのままに解するのが編纂者の信条に沿った享受の在り方であろう。斉明天皇代に至って作られた額田王の「熟田津に」(8)の歌はその表現が古代歌謡から抜け切っている点で驚異的といえる。これは斉明天皇に代わって詠んだ歌で、この初期万葉の歌には代作が多く、また皇族周辺の作にその傾向が強い。

 大化の改新の中心的存在で、大陸の制度や文化の摂取に積極的であった天智天皇に「わたつみの豊旗雲に入日見し」(15)のような気宇壮大の作品があるのに対して、天武天皇に「み吉野の耳我の嶺に」(25)のような民謡を踏まえた歌があるのは、内政の充実に努め伝統文化の保存を図ったその人に似つかわしい。万葉集の繁栄はこの天智・天武両天皇の存在なくしてはあり得なかったといってよい。 やがて柿本人麻呂が現れ、伝統に即しながら構想・修辞共に個性的な作品を生み出した。近江の宮跡にたたずんで懐旧にひたる歌はその比較的初期の作品であるが、既にその特徴を充分に発揮しているといえよう。また持統天皇の吉野行幸に供奉して讃歌を奉っているが、天皇が神として振る舞い、山川の自然神もこれに従属し、そして廷臣はその間に遊楽する、という当時の理想的世界がうたわれ、「神の御代かも」と讃美している。「古今集」の序に「これは君も人も身を合わせたりといふなるべし」といっているのは、持統朝における人麻呂の特殊な在り方をいみじくも言い当てていると思われる。

 文武天皇の代以後、題詞の記載の仕方に変化が起こる。これまで編者は「日本書紀」や「類聚歌林」を引いて作歌年代を考証していたが、文武以後の歌については、大宝元年辛丑の秋九月、太上天皇、紀伊国に幸せる時の歌(54題詞)などのように年次(場合によっては月も)を記すことが現れ始めた。万葉集は「日本書紀」(持統天皇の代まで)を参考にすることはあっても「続日本紀」(文武天皇代以後の史書、延暦十六年(797)完成)を引くことがない、という事実とこれは無関係でなかろう。 




  しかし、大宝二年(702)に崩じた太上天皇(持統)が難波に行幸した時の歌(66)や吉野宮に行幸した時の歌(70)を、慶雲三年(706)に文武天皇が難波に行幸した時の歌(64)よりも後に置いてあるのは、年代的に合わない。これは編者の誤りというよりも、年代明記の資料を先に挙げたと解すべきであろう。同じ時に詠んだ作者の名を併記する場合、その記載法に必ずしも統一がないことも目立つ。 例えば、

    二年壬寅、太上天皇、参河国に幸せる時のうた(57題詞)
     右の一首、長忌寸奥麻呂(57左注)
     右の一首、高市連黒人(58左注)
     誉謝女王の作る歌(59題詞)
     長皇子の御歌(60題詞)
     舎人娘子が従駕して作る歌(61題詞) のごときがそれであり、
    また大行天皇、難波宮に幸せる時の歌(71題詞)
     右の一首、忍坂部乙麻呂(71左注)
     右の一首、式部卿藤原宇合(72左注)
    長皇子の御歌(73題詞)


もまた同じである。形式の異なる原資料の記載をそのまま写したためでないかと思われる。

 


 78は和銅三年(710)の平城遷都の際に詠まれた歌である。その題詞の内容から察して、時の天皇元明女帝の作であることはほとんど疑いがない。ところが、その下に小字で「一書に云はく、太上天皇の御製」と記してある。その元明天皇に対しては、その直前の唱和歌の題詞に「天皇の御製」としてあることから考えると、この「太上」の二字の存在は無視できない。この小書きの注だけが元正天皇の代になった後に加えられたのであろう。
 84の歌は長皇子が志貴皇子と佐紀宮(長皇子の邸)で宴した時の作である。その左注に、「右の一首、長皇子」とあるのは、この後に少なくとも一首志貴皇子の挨拶の歌があったことを示す。はたして、元暦校本や冷泉本、紀州本などの目録にはその最後に「志貴皇子御歌」という一行がある。巻末に「万葉集巻第一」の尾題があるのに、その前にあるべき歌がどうして脱落したか、この謎の持つ意味は案外に大きいかも知れない。 この巻第一と二とは密接な関係があると先にいったが、形式上で無視できない相違点として、巻第一では原則として題詞に歌数を記さないことが指摘できる。例えば、  中皇命往于紀温泉之時御歌(中皇命、紀の温泉に往く時の御歌)(10)
  過近江荒都時柿本朝臣人麻呂作歌(近江の荒れる都に過る時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌)(29)などのように記し、歌数を示さないことが多い(写本によって小差あり)。目録でも、だいたい同様であるが、仔細に見ると、多少例外がある。右に相当する部分を西本願寺本によって示せば、  中皇命往于紀温泉之時御歌三首
  過近江荒都時柿本朝臣人麻呂作歌一首并短歌
のようになっている。もっとも元暦校本には目録でも「三首」「一首并短歌」などの歌数表示がない。


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