万葉集巻第五の構成・特徴   日本古典文学全集・小学館
   巻第五
 
部類別  歌数  長歌  短歌  旋頭歌   漢詩
 雑歌  116  10 104 0  2
 
 この巻は万葉集二十巻のうち最も異色あるものである。その第一は、巻尾の一歌群三首を除けば、全体で一個の編纂物をなすと言うべく、他者の割り込みも並べ変えも拒むばかりのまとまりを示している点である。その第二は一貫して漢風が色濃く認められることである。万葉集が後世の数ある歌集のどれとも大きく相違する点の一つとして漢詩文が含まれている事実が指摘されている。中でもこの巻第五は、長大な「沈痾自哀文」をはじめ「俗道の仮合即離し、去り易く留み難きことを悲嘆する詩一首并せて序」や、都のあれこれの人たちと贈答した書簡の類が随所に、あるいはそのまま貼り継がれたのでないかと思われるほどにそのままちりばめられ、見方を変えれば漢文の合間合間に歌がはめ込まれていると言ってもよいくらいである。その漢文には筆録者自らの意識としては、かなりに高度の知識と技巧を凝らした文章と自認しているかのような気負いが認められる。その第三は、歌を表記するのに、出来るだけ一字一音の仮名を使用する傾向があることである。

 例えば、冒頭の 余能奈可波牟奈之伎母乃等志流等伎子伊与余麻須万須加奈之可利家理(796)


  よのなかはむなしきものとしるときしいよよますますかなしかりけり 



がその例である。これは「古事記」や「日本書紀」、「風土記」などにおいて、散文は漢文式、歌は音仮名主体というふうに書き分けているのと同じ意識で、この巻の漢文的要素が濃いといった先の第二の特性と表裏関係にある事実である。その第四は、神亀五年(728)から天平五年(733)までと、作品の年代の幅が狭いこと、そして第五に、その大部分が筑紫大宰府での作または整理という、空間的に限られた地域の偏りをあげることができよう。 この巻の筆録者について古くから、大伴旅人中心にまとめられたとする説、山上憶良中心説、大宰大典であった麻田連陽春などの旅人周辺者説の三つがあるが、今日、第三の旅人周辺者説を支持する者はなく、大多数の意見は第一案の旅人中心説に傾いている。確かに巻頭にあるのは旅人の「凶問に報ふる歌」であり、しばらく憶良の作品が続いた後、また旅人と在京某人および藤原房前との贈答歌があり、次いで都にいる知識人吉田宜に「梅花の歌32首」や「松浦川に遊ぶ序」を贈ったのも、旅人名義であったに違いない。質量の点でいくら憶良・陽春の筆録とみるべき性格が色濃くあったとしても、所詮、彼らは旅人の属官でしかなく、建前から言えば、この巻の大部分は旅人の意志に基づく編述と言ってよさそうである。
 ただここで確かなことは、この巻第五が大別して前後に二分でき、その前半は三島王の松浦佐用姫の歌に追和する歌(887)まで、後半は麻田陽春の詠んだ大伴君熊凝の歌(888)以下と、明瞭に区切りを設けられることである。しかる時天平二年(730)十二月の大伴旅人の上京に際して詠んだ山上憶良の歌七首はその三島王の歌の直前にあり、後半には翌三年七月に薨ずる旅人またはその周辺の人の歌など大伴家側の記録はない。残った麻田陽春の歌二首と巻末の「男子名を古日といふに恋ふる歌」とを除いた後半、厳密に言えば三分の一はすべて山上憶良の歌文である。この事実に着目するならば、前後二部に共通して現れる唯一の人物である憶良をまとめ役に擬するのがまず妥当であろう。
 この巻第五の中に、山上憶良の自署とみるべきものが八個ある。順を追って並べれば次の通りである。


  神亀五年七月廿一日 筑前国守山上憶良 (803左注)
  神亀五年七月廿一日 於嘉摩郡撰定 筑前国守山上憶良 (809左注)
  天平二年七月十一日 筑前国司山上憶良謹上 (874左注)
  天平二年十二月六日 筑前国司山上憶良謹上 (886左注)
  敬和為熊凝述其志歌六首 并序 筑前国司守山上憶良 (890題詞)
  山上憶良頓首謹上 (897左注)
  天平五年三月一日 良宅対面 献三日 山上憶良 (900左注)
  沈痾自哀文 山上憶良作


これらの他に「梅花の歌32首」の中の彼の作(820)の下に「筑前守山上大夫」の名が見えるが、「大夫」は四・五位の官人に対する敬称で、その歌の前後の作者同僚と合わせた記録係の記載であって、自署ではない。「筑前国守」「筑前国司」、時に「筑前国司守」とも書くが、897の左注以下の三件にはその肩書を記していない。おそらく天平三年の後半頃に筑前国守の任を終え帰京したことを示すのであろう。これらにはすべて姓の「臣」が書かれていない。このことは、巻第四で大伴四綱に姓の「宿禰」を略したこともあるが、巻第八その他で大伴家持が、初め一、二回を例外にすれば、自分や弟の書持や清縄・村上ら同族下輩の「宿禰」をめったに記さないことを想起させる。この事実はこの巻が憶良の個人的記録に出たものであることを物語る有力な証跡とみてよい。なお、目録には十一回憶良の名が見え、写本によって小異するが、拠るべき古い本にはいずれも「臣」の字がある。目録作者が本条の筆録者と関係ないこと、そして全体的な立場から整合を図ったらしいことが知られる。
 しかし、旅人中心説にもそれなりに成立の可能性がある。最初の「凶問に報ふる歌」一首は明らかに旅人作であり、そのあと量の多少を無視すれば、憶良と旅人はない交ぜた紅白二色の縄のように絡み合った形で交互に現れる。旅人本人が筆を執ったのではないまでも、その周辺の誰かが長官の意向に従って書いたものが憶良の述作と交互に姿を見せていると解されるからである。このように考えれば、第三案の旅人周辺説にも一分の理があり、これらを歩み寄らせた説明も出来るのではないか。かつて旅人と憶良との関係を対立・反発という形で捉える説があった(高木市之助「吉野の鮎」所収「二つの生」)。それは個々の作品の実作者の認定や解釈の仕方に今日のそれと若干異なる面があったことも作用しているが、その着想の斬新さで一時は学界を風靡したかのような観を呈した。年齢の上では相近いが、出自や階層の点で開きがあるものの、共に漢籍の教養の高さでは当代のトップクラスの両人が文芸の道で接触し、反発し合い、火花を散らしたのではないか、と想像するのは確かに興味深いことである。しかし頭注でそのつど記したように、「梅花の歌32首」の序や「松浦川に遊ぶ序」およびそれに添えられた歌の用字などをつぶさに見るならば、旅人の個人的右筆としての憶良の記録と推定される跡が点々と連なっている。それを手掛かりに類推すれば、旅人が都に贈った書簡も実作者億良の述作の可能性が高くなる。このようなことを考慮すれば旅人の周辺者即憶良という図式も成り立とう。旅人と憶良とが反発しなかったとは言わないが、実際にはイソギンチャクとヤドカリとに象徴されるような共生的相互依存状態を時に認めてよいのではないか。漢文の運用にかけては旅人も渡唐の経験がある憶良に一目置いていたに違いない。
 こうして成った「梅花の歌32首」の序や「松浦川に遊ぶ序」は、六朝詩華集「文選」や「蘭亭序」をはじめ、小説「遊仙窟」の辞句を模し構想を借りた文章は、同じく風流を解する都の要人吉田宣に贈られたもののようである。やがて宣から屈けられた返信の内容から察するところ、表向きは筑紫の文雅を誇示しつつ心の内では老残のまま辺境に朽ちるかも知れない嘆きを綴った書簡が添えられていたらしいが、それは巻第五の中には残されていない。おそらくそれこそ旅人自筆の親展の書であったろう。巻第四の570の左注によれば、その直後あたりに旅人は脚瘡で病み一時は危篤状態に陥ったようであるが、これも巻第五の上には影を落としていない。この巻が大伴家の記録でないからであろう。やがて旅人は大納言となって大宰府を離れる。あとに残った憶良は惜別の七首を記して前半は終わる。


 後半についてはほとんど疑問がない。旅人上京後、約七ヶ月間ばかり空白である。その頃、旅人は都で薨ずるが、当然のことながら巻の中にその関係記事はない。前半において憶良が折に触れて取り上げた「すべなきもの」八大辛苦のあれこれをテ−マにした歌や漢文の制作を再び始める。その一つが大伴熊凝の客死を悼んで、その人になり切って詠んだ長歌並びに短歌である。それを最後に憶良も筑前を離れたもののようで、これに続く「貧窮問答歌」は「貧」という一般庶民の「すべなきもの」を都のさるべき人に如実に語って示したものであろうか。「好去好来の歌」を挟んで「沈痾自哀文」と「俗道の仮合即離し、去り易く留み難きことを悲嘆する詩一首 并せて序」が並ぶ。憶良自身、死に直面して、生への執着、死に対する恐れを誰に示すともなく縷々と書き綴る。このすべなさは散文によらなければ言い尽くせなかったものであろう。そして最後に「老いたる身に病を重ね、年を経て辛苦み、また児等を思ふ歌七首」を作る。これはそれまで述べた「すべなきもの」のあれこれを総まとめにした悲痛な内容で、彼自らの記録はここで絶える。巻第六の983「士やも空しくあるべき」の絶唱は時間の点でこの直後に来るのであろうが、それはすでに憶良の自記でない。
 巻末にある「男子名を古日といふに恋ふる歌三首」というのは、さの左注に、

  右の一首、作者未詳なり。ただし、裁歌の体の山上の様に似たるを以て、この次に載せたり。


とある。その「右の一首」の解釈に問題があるが、長歌および910,911の二首を併せた一群を、憶良の作品ではないが、内容的に近いので後に補った、というのであろう。関連併記で、この部分だけが家持の手に成ったと思われる。
 この巻は、要するに、神亀五年(728)から天平五年(733)に至る憶良の手記というべく、その内容は雑歌あり相聞ありまた挽歌ありで、ここではそれらの部立ての差が無視され、ただ年月の順に配列されているだけである。その意味からすれば、巻第十七以下の四巻はこの巻第五の形を踏襲したものと言うことができよう。それにもかかわらず、神宮文庫本や西本願寺本などの仙覚本系諸本には巻頭に「雑歌」の二字がある。ただし冷泉本系の諸本や紀州本にはそれがなく、これが古形だと思われる。もっとも、目録にはそれら非仙覚本においても「雑歌」とある。それは先にも言ったように目録作者の持つ整合意識から不用意に加えられたものであろう。それを本条の前にも移したのは鎌倉期の仙覚の仕業ではなかろうか。
 
 全巻の構成 Index  万葉集の部屋  万葉全歌集  ことばに惹かれて  古今和歌集の玄関
巻第一の構成  巻第二の構成  巻第三の構成  巻第四の構成 巻第六の構成 巻第七の構成 巻第八の構成    
巻第九の構成 巻第十の構成 巻第十一・十二の構成 巻第十三の構成 巻第十四の構成 巻第十五の構成 巻第十六の構成    
巻第十七の構成 巻第十八の構成 巻第十九の構成 巻第二十の構成