万葉集巻第二の構成・特徴   日本古典文学全集・小学館
    巻第二

部類別  歌数  長歌  短歌  旋頭歌 
 相聞  56  3  53  0
 挽歌  94  16  78  0
 
       

 この巻の相聞の部は仁徳天皇代の磐姫皇后の四首の歌で始まっている。雄略天皇はその二人にとって孫に当たり、もしこれが本当に磐姫皇后の作であったら、万葉集最古の歌ということになる。いかにもこれらの歌は内容の点で、記紀に伝えるその嫉妬説話の女主人公の作というにふさわしいが、中には類想歌のあるものも混じっており、用語や表現の面でも時代の下った作かと思わせるものがある。今日ではこれらについて一般に、本来、相互に無関係な作者不明の歌であったものが、皇后の伝説と結び付けられ組み合わされたのであろうと説明されている。編者はその最初の歌(85)が「古事記」に載る允恭天皇の皇女、木梨軽大郎女の歌と類似することを指摘すると同時に、「日本書紀」の「仁徳紀」「允恭紀」を引用し、それらにこの四首の歌が見当たらないことをいう(90左注)。これは見方を変えれば、伝承歌と記載歌という本来異質のものを同一平面状に並べて繋ぎ合わせようとする、編纂者の苦心の現れと考えることもできる。

 その後、天智・天武両天皇の代の歌が続く。既に歴史時代に入っており、それらの大部分は題詞・左注に示す作者たちの実作であろうが、代作や仮託歌もあろうことは、巻第一の場合と変わりがない。その天智・天武の皇子女の愛憎秘話に挿入されたかと思われる歌群、なかんずく107-110の大津皇子と草壁皇子とが石川郎女をめぐって恋の鞘当てをした時の贈答歌は、大津皇子の悲劇的な最期に同情する人々によって伝承された、大津皇子物語ともいうべき、多少の潤色を加えた語り物の中の歌を抜き出して載せた、と想像できなくもない。 


 大伴氏関係の歌は巻第三以下に多いが、それ以前では、この前後の大伴安麻呂と巨勢郎女との贈答(101,102)、その間に生まれた田主と石川女郎との応酬(126-128)、その田主の弟宿奈麻呂に石川女郎が贈った歌(129)、合計六首に限られる。これらの歌は大伴氏の記録から出たものではなかろう。ここでも人麻呂の歌は異彩を放っている。石見国から妻に別れて上り来る歌は、その地の景を叙べながら妻のイメ−ジを重ならせてゆくあたり、景情渾然の趣がある。
 挽歌の部は斉明天皇代の有間皇子の歌(141,142)から始まる。この有間皇子事件は中大兄皇子(天智)の仕組んだ陰謀として知られ、世人の同情は有間皇子の上に集まった。そのために後世の歌人も、皇子が「ま幸くあらば」と松の枝を結んだ岩代の地を訪れては哀傷歌を作った。143-146の歌は、そのことがあってから40年以上も後の、文武天皇の代に詠まれた歌であるが、有間皇子の自傷歌と関連があるので編者はさかのぼらせて併記したのである。万葉集の編纂には、このようなまとめ方も一面では行われているのである。天武天皇が崩じた朱鳥元年(686)に大后(持統天皇)が哀傷した歌(159-161)の次に挙げた、夢の中で誦習したという歌(162)は、その足掛け八年後の持統七年(693)の作であり、正確には691年に薨じた川島皇子の殯宮の時の歌(194,195)の後にあるべきものである。これも関連併記の例である。

 167から201までは、途中に草壁皇子の舎人が皇子の薨去に行方を知らずにさまよう歌を挟んではいるが、大部分は人麻呂の献呈挽歌であり、質量共に他を圧している。その中にあって、167の草壁皇子の殯宮の時の挽歌(169)の下注に、「或本は、くだんの歌を以って後の皇子尊の殯宮の時の歌の反とせりとあるのは、この二首の反歌(168,169)を高市皇子の殯宮挽歌(199)の反歌として伝える本があったことを示す。草壁薨後の高市皇子の存在が往時の草壁皇子と同等であったこともあるだろうが、殯宮挽歌の性格の一面を物語っているといえよう。
 なお、この前後の、皇子女の薨去を傷んだ歌の配列の先後が「日本書紀」や「続日本紀」の記載の順序と矛盾するところがある。即ち、万葉集では、草壁皇子(167)、川島皇子(194)、明日香皇女(196)、高市皇子(199)、但馬皇女(203)、弓削皇子(204)の順に並んでいるが、史書では689年草壁皇子、691年川島皇子、696年高市皇子、699年弓削皇子、700年明日香皇女、708年但馬皇女の順に薨じている。そのうち但馬皇女と弓削皇子の挽歌は人麻呂作ではないから別扱いにすべきかもしれないが、それでも順序が逆である。人麻呂の作に限っても、明日香皇女と高市皇子の順序が転倒している。原資料の不備か、編者の疎漏のためか分らないが、疑問の存するところである。
 柿本人麻呂の自傷歌が「寧楽宮」の標目の前にあるのは、人麻呂が平城遷都以前に死んだことを示す。志貴皇子が薨じたのは元明天皇が元正天皇に譲位した霊亀元年(715)である。「続日本紀」では霊亀二年薨となっていて食い違うが、いずれにせよ、巻第一の最後の歌と何年も隔たっていない。このことはやはり両巻の関係が密接で、同時期に編集を終えたことの証であろう。


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