万葉集巻第十七の構成・特徴   日本古典文学全集・小学館
   
     巻第十七


部類別 歌数  長歌  短歌  旋頭歌  漢詩 
  144
 14
128 0 2
 
 



 先にも述べたように、以下の四巻は、これまでの十六巻を受けて拡張したものである。その開始時点は天平十八年(746)正月頃と考えられ、歌番号でいえば3944の前、巻首から数えて三十三首目に当る。それ以前の三十二首は天平二年から同十六年までのもので、それらは巻第十六以前のいずれかに挟み込もうと思えば可能なものばかりのようである。それを控えたのは、一つには巻第十六までの諸巻が爾後の割り込みを拒むほどに整っていたからであろうが、もう一つの理由として、以上の三十二首が家持自身、またその身内ないしそれに準ずる人々の作で、しかも大部分が捨ててもよいくらいの凡作か、しからずんば伝来に多少疑問を感じるものだったからではないか。伝誦者から、山部赤人の作と伝え聞いたものの、

    あしひきの山谷越えて野づかさに今はと羽振くうぐひすの声 (3937)

が、果たして赤人の作なのか、多少疑わしいと思いつつ家持は書き付けたかと思われる。この歌は、元暦校本の本文にこそこうあるが(訓は他の諸本のそれと同じ)、他の古写本にはすべて第四句が「今は鳴くらむ」となっていることも謎を深める。

天平十八年正月雪の朝、左大臣橘諸兄が諸王臣を率いて元正太上天皇の御在所に参上して、自ら詠んだ歌、

    降る雪の白髪までに大君に仕へ奉れば貴くもあるか (3944)

が末尾四巻の実質上の巻頭歌である。前年従五位下に叙せられたばかりの家持も諸臣の一人として歌一首を献ずるが、この雪掃き日の記憶が、巻第二十の最後の歌(4540)を詠むまで持続したのではなかろうか。

その年の秋七月、家持は越中国守となって任地に赴く。叔母でもあり義母でもある坂上郎女は前途を祝福しかつは慣れぬ長途の旅暮しを案ずる。しかし天ざかる鄙も住めば都で、奈良の都にはない山川の雄大な景を目の当たりに見て詩嚢を肥やすことができ、また親切で歌心もある下僚の厚意に旅の侘しさもしばしば慰められ、歌も自他の作が次々生まれ、時にその人々の記憶していた歌を披露されて、この調子では四巻の編集も思ったより捗りそうだ、と思ったのではなかろうか。殊に、同族で気心も知れ、性格も明るかったと思われる大伴池主が掾で、互いに歌を詠み交わし、詩文を作っては示し合うことができたのは心強かったに違いない。ただ着任早々に弟書持夭折の知らせを受け、家持自らも、「枉疾」の苦にさらされるが、池主を初めとする下僚との交流で救われた。結果からみて、この末四巻が成立するきっかけとなったという点で、池主の功績は大きいと言えよう。
 この巻の歌の中で異色のものを一つ挙げるとすれば、4035の愛鷹を過って養吏山田君麻呂が逸らした時の長歌であろう。

大君の 遠の朝廷ぞ み雪降る 越と名に追へる 天離る 鄙にしあれば 山高み 川とほしろし 野を広み 草こそ茂き 鮎走る 夏の盛りと 島つ鳥 鵜養が伴は 行く川の 清き瀬ごとに 篝さし なづさひ上る 露霜の 秋に至れば 野も多に 鳥すだけりと 大夫の 友誘ひて 鷹はしも あまたあれども 矢形尾の 我が大黒に 白塗の 鈴取り付けて 朝猟に 五百つ鳥立て 夕猟に 千鳥踏み立て 追ふ毎に 許すことなく 手放れも をちもかやすき これをおきて またはありがたし さ慣らへる 鷹はなけむと 心には 思ひほこりて 笑まひつつ 渡る間に 狂れたる 醜つ翁の 言だにも 我れには告げず との曇り 雨の降る日を 鳥猟すと 名のみを告りて 三島野を そがひに見つつ 二上の 山飛び越えて 雲隠り 翔り去にきと 帰り来て しはぶれ告ぐれ 招くよしの そこになければ 言ふすべの たどきを知らに 心には 火さへ燃えつつ 思ひ恋ひ 息づきあまり けだしくも 逢ふことありやと あしひきの をてもこのもに 鳥網張り 守部を据ゑて ちはやぶる 神の社に 照る鏡 倭文に取り添へ 乞ひ祷みて 我が待つ時に 娘子らが 夢に告ぐらく 汝が恋ふる その秀つ鷹は 松田江の 浜行き暮らし つなし捕る 氷見の江過ぎて 多古の島 飛びた廻り 葦鴨の すだく古江に 一昨日も 昨日もありつ 近くあらば いま二日だみ 遠くあらば 七日のをちは 過ぎめやも 来なむ我が背子 ねもころに な恋ひそよとぞ いまに告げつる

 最初から本題に入らず、越中の自然の大を叙し、しかも晩秋の野猟である鷹狩と対照させて変化の妙を見せるべく、夏川の鵜飼の興趣を活写している辺り、構成に苦心の跡を見ることができる。やがて主題の鷹狩の勇壮な遊びに熱中しきっている自分と愛鷹の卓抜な働き、いや募る愛著を語るが、一転してその鷹を逸らしてしまった養吏の報告を聞いて憤慨する、と同時にそれを捕獲するために画策し、かつ神祇に助けを乞うて祈願する、そして最後に夢の娘子の霊験あらたかそうなお告げを受けて少し安堵する、という結構の妙は、読み聞く者をその世界に引き込む新鮮な魅力を持つ。後に建部綾足がこれを自らの読本『本朝水滸伝』の中に取り入れて筋運びに利したのも、この歌の迫力に取り付かれたからであろう。
 最後に、春の出挙のための諸郡巡行の途中の詠を並べて、この巻は終る。改めて言うまでもないことだが、家持は一個の万葉歌人であるよりもまず、「遠の朝廷」の藩屏として、公務を遂行するのに明け暮れしていた、その合間合間の記録がこの前後の詞章となったのである。
 この巻の上にも、と言うより、この巻において殊に烈しく、目録の不備が、古来、指弾されてきた。そのごく一部だけを示そう。それは家持と池主とが贈答往来する書状が交互に貼り継がれている部分で、書翰の末尾に記した日付・署名が、その次に来る相手の書翰と凝着して境目が分からなくなる、こんな無意味な接合が目録では繰り返されている。一例を挙げれば次のごときがそれである。上が本条、下が目録、底本に拠り、原文のままに示す。

本 条    目 録
    守大伴宿禰家持贈掾大伴宿禰池主悲歌二首      守大伴宿禰家持贈掾大伴宿禰池主悲歌二首并序
忽沈枉疾累旬痛苦 祷恃百神且得消損 而由身體疼羸筋力怯軟 未堪展謝係戀弥深 方今春朝春花流馥於春苑 春暮春鴬囀聲於春林 對此節候琴チ可翫矣 雖有乗興之感不耐策杖之勞 獨臥帷幄之裏 聊作寸分之歌 軽奉机下犯解玉頤 其詞曰  (3987・3988歌、略)    
 二月廿九日大伴宿祢家持    
   忽辱芳音翰苑凌雲 兼垂倭詩詞林舒錦 以吟以詠能ニ戀緒春可樂 暮春風景最可怜 紅桃灼々戯蝶廻花N 翠柳依々嬌鴬隠葉歌 可樂哉 淡交促席得意忘言 樂矣美矣 幽襟足賞哉豈慮乎蘭ツ隔テ琴チ無用 空過令節物色軽人乎 所怨有此不能黙已 俗語云以藤續錦 聊擬談咲  (3989・3990歌、略)    同廿年二月廿九日大伴宿祢家持歌二首
 沽洗二日掾大伴宿祢池主    
       沽洗二日掾大伴宿祢池主歌二首


 〔a〕はよい。しかし、〔b〕の日付は〔A〕の末尾の奥付であり、作者が「守大伴宿禰家持」というのも誤りで、池主でなければならない。〔C〕はここでは省略したが、三月三日付けの家持の歌に相当するものでありながら、「沽洗二日」で池主が詠んだもの、としている。機械的に作ったもので、本条の内容が分かった者のしわざとは思えない。それかあらぬか、その少しあとの、池主が家持に贈った3996〜3998の歌を含む書翰に相当する目録に、
 
  四日(正しくは「五日」)大伴池主奉和守家持詩歌(詩があるのは同じ池主作だが直前の書翰中)一首并短歌

とある、その中の「奉」の字の使用は、家持・池主間の身分の差からみて当然か、とも思われるが、全く異例で、少なくとも家持本人がこの前後の目録を作成したとは考えられない証拠として注目すべきである。
 なお、巻第十八以降の目録についても言及すべきだが、今はすべて省略する。
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