万葉集中で一巻に雑歌・相聞・挽歌の三大部立が建前どおり並んでいる唯一の巻がこの巻第九である。そして、所伝をそのまま信ずれば、雑歌の冒頭が雄略天皇の御製、挽歌のそれも仁徳天皇の弟宇治若郎子の宮跡における懐旧という対象事態の古めかしさ、それらには及ばないが相聞も、持統天皇の伊勢行幸を諌めた忠臣として有名な大神高市麻呂が大宝二年(702)に長門守となった時の歌が三つ目に来るという事実を考慮すれば、全体としてこの巻の由来は甚だ古いと考えてよい。 その資料の出所を明記したものに「古集」(「古歌集」と同じであろう)、「人麻呂集」「笠金村集」「高橋虫麻呂集」「田辺福麻呂集」の諸集があるが、それ以外から採ったものもあり、しかもその境界が必ずしも明らかでないというおぼつかなさがこの巻にはある。もっとも、相聞・挽歌にはその紛らわしさが比較的少なく、「右の二首、古集の中に出でたり」「右の三首、柿本朝臣人麻呂が歌集に出でたり」「右の二首、高橋虫麻呂が歌の中に出でたり」などと歌数が示されており、出所不明は四箇所に限られる。 ところが、雑歌では、右、柿本朝臣人麻呂が歌集に出でたり。右の件の歌は、高橋連虫麻呂が歌集の中に出でたり。などとして歌数を明らかにしていないために輪郭が不明で、どの歌からその歌集所出が始っているか分らず、その判定は多分に研究者の主観によって左右し、そのため原資料から何首採り載せたかという計算に不一致をみることがある。
例えば、
古の賢しき人の遊びけむ吉野の川原見れど飽かぬかも (1729)
右、柿本朝臣人麻呂が歌集に出でたり。とある、その「右」の範囲について、1716以下十四首説、1719以下とみる十一首説、1724以下の六首説、1729のみの一首説の四説があり、更にその前の
弓削皇子に献る歌一首
御家向かふ南淵山の巌には降りしはだれか消え残りたる (1713)
右、柿本朝臣人麻呂が歌集に出でたり。についても、首巻に近い1671以下とする四十三首説と、1686以下とする二十八首説とがあり、表記法の問題も絡んで、決定は難しい。また、その「人麻呂集」と別個に「或は云はく、柿本朝臣人麻呂が作といふ」と注する歌が、雑歌の部に四首ある。
我妹子が赤裳ひづちて植ゑし田を刈りて収めむ倉無の浜 (1714)
百伝ふ八十の島廻を漕ぎ来れど粟の小島は見れど飽かぬかも (1715)
鳴く鹿を詠む一首 并せて短歌
三諸の 神奈備山に 立ち向ふ 三垣の山に 秋萩の 妻をまかむと 朝月夜 明けまく惜しみ
あしひきの 山彦とよめ 呼び立て鳴くも (1765)
反 歌 明日の夕逢はざらめやもあしひきの山彦とよめ呼び立て鳴くも (1766)
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