万葉集巻第十三の構成・特徴   日本古典文学全集・小学館
 
    巻第十三

 
部類別 歌数 長歌  短歌  旋頭歌  漢詩 
 雑歌  27 16  10 1  0
 相聞  57  29  28  0  0
 問答歌  18  7  11  0  0
 譬喩歌  1  1  0  0  0
 挽歌 24  13 11  0 0


 巻第十三は、作者不明の巻々の中でも長歌を中心として編集されている点が変っている。ごく一部の例外を除いて題詞がないため、大部分の歌について作歌事情も分からない。ただ左注に「右何首」とだけあり、その間仕切りを頼りに全体の構成を探れば、長歌のみで反歌を伴わず「右一首」とだけあるものが十二項(他に反歌を挟まない「右三首」の長歌もある)あるかと思えば、長歌三首+反歌六首の「右九首」もあるという態様で、長歌一首+反歌二首という標準的結びつきが合計五十四項中の大半二十八項を占める。これを部立ごとに表示すれば次のようになる。

グループ数 長歌  短歌 旋頭歌 
雑 歌 15項  16首  10首  1首
相 聞 25項  29首  28首  
問 答 4項  7首    
譬喩歌 1項  1首  11首  
挽 歌 9項  13首 11首  

 各部立の内部の配列には一応の秩序が見られるようである。即ち、雑歌・相聞・問答・譬喩歌の各部は、歌中に詠み込まれている地名によって、畿内・東海・東山・北陸・・・というふうに七道順に並べられていると思われる。

 雑歌 大和3235〜43  吉野3244〜47 伊勢3248・49  近江3250〜55 美濃3256  安芸3257・58 空想3259〜61
 相聞 大和・吉野3262〜3313  難波3314  伊勢3315 紀伊3316  大和の追補3317・3318
 問答  大和3319〜27  山背3328〜31  紀伊3332〜36        
 譬喩歌  近江3337            

「挽歌」にも、「殖槻」(添下部)や「磐余」「泊瀬」などの大和国の地名が前半に点在し、そのあとに摂津国の「大伴の三津」(3347)が続き、しばらくして備後国の「神島」(3353)が見えるなど、部分的には右に準ずる傾向が認められるが、地名よりもむしろ死者の身分の上下を考慮して先後を決めたか、という見方もできるのではないか。即ち、主人の薨去(3338〜3342)、夫の死(3343)、妻の死(3344〜3346)、異郷での夫の死(3347・3348)、行路死人(3349〜3357)、夫防人の死(3358・3359)、異郷での妻の死(3360・3361)といった順序と解するほうがよいかもしれない。
 このように長歌を心に並べた巻ではあるが、平均して句数の少ない小長歌が多い。「挽歌」の中に例外的に八十九句、五十三句から成る比較的長いものもあるが、九句が五首、十一句が六首、十三句が五首という実情である。また、八句・十二句という偶数句の歌も混じり、字足らずや字余りも他巻に比べて多く、定型外のいわゆる不整型、中間に七音が二句続いた変調のものも幾つかある。もっとも、古体といわれる五・三・七止めや五・七・七・七止めもあり、それらはおおむね内容面でも古風な傾向にかたよっているようである。底本などの仙覚本系諸本には削除されているが、元暦校本や天治本・広瀬本などの非仙覚本系古写本には「・・・百重波 千重波にしき 言挙げす我は 言挙げす我は」(3267)のように、結句を繰り返して小書したものがあり、それはもともと謡い物の合唱部分であったことを示したかと思われる。
 内容について言うならば、賀茂真淵が指摘したように記紀歌謡の世界に通じる古さを示すものがかなりにある。

こもりくの 泊瀬の川の 上つ瀬に 斎杭を打ち 下つ瀬に 真杭を打ち 斎杭には 鏡を懸け 真杭には 真玉を懸け 真玉なす 我が思ふ妹も 鏡なす 我が思ふ妹も ありといはばこそ 国にも 家にも行かめ 誰がゆゑか行かむ (3277) 

は、その左注にもあるように、『古事記』下・允恭天皇の条の、木梨軽皇子の自死の時の歌の異伝形と言うべく、「こもりくの 泊瀬の国に さよばひに 我が来れば・・・」(3324)も、『古事記』上の八千矛神の妻問いの歌や「継体紀」七年の安閑天皇御製と伝えるものと用語・発想共に近い。柿本人麻呂の作った歌と共通の語句を有するものもある。「雑歌」の冒頭近くにある、

天雲の 影さへ見ゆる こもりくの 泊瀬の川は 浦なみか 舟の寄り来ぬ 礒なみか 海人の釣せぬ よしゑやし 浦はなくとも よしゑやし 礒はなくとも 沖つ波 凌ぎ漕入り来 海人の釣舟 (3239)

は、人麻呂が石見国から妻と別れて上京する時に詠んだ歌131と、部分的ではあるが、偶然の一致とは言えないほどに似ている。
 また、この巻の長歌の中には、もともとそれぞれ別人の問答唱和が合併・癒着したり、内容的に無関係な二首の歌がたまたま同じ語を持っていたため融合したりしたと思われるものがある。

うちひさつ 三宅の原ゆ ひた土に 足踏み貫き 夏草を 腰になづみ いかなるや 人の児ゆゑそ 通はすも我子 うべなうべな 母は知らじ うべなうべな 父は知らじ 蜷の腸 か黒き髪に 真木綿もち あざさ結ひ垂れ 大和の 黄楊の小櫛を 押へ刺す うらぐはし児 それぞ我が妻 (3309)

は、 途中に変調があり、前半(父母)と後半(その息子)との問答が一つになっている。「問答」の部の『人麻呂歌集』の歌3323は、その前の二首の長歌、3319と3321との合併である。

百足らず 山田の道を 波雲の 愛し妻と 語らはず 別れし来れば 速川の 行きも知らず 衣手の かへりも知らず 馬じもの 立ちてつまづき せむすべの たづきを知らに もののふの 八十の心を 天地に 思ひ足らはし 魂合はば 君来ますやと 我が嘆く 八尺の嘆き 玉桙の 道来る人の 立ち留まり 何かと問はば 答へ遣る たづきを知らに さにつらふ 君が名言はば 色に出でて 人知りぬべみ あしひきの 山より出づる 月待つと 人には言ひて 君待つ我を (3290)

は、末尾の五句が独立短歌とも見ることができ、また巻第十二の3216とほとんど同じということも注目されるが、前約三分の一辺りの「せむすべの たづきを知らに」を境に、前後全く無関係な内容である。その「せむすべの たづきを知らに」に関連してさらに言えば、その二句で始まる「相聞」の、

せむすべの たづきを知らに 岩が根の こごしき道を 石床の 根延へる門を 朝には 出で居て嘆き 夕には 入り居て偲ひ 白栲の 我が衣手を 折り返し ひとりし寝れば ぬばたまの 黒髪敷きて 人の寝る 味寐は寝ずて 大船の ゆくらゆくらに 思ひつつ 我が寝る夜らを 数みもあへむかも (3288)

は、男の訪れを待ちかねて門外にたたずむ女の不安な心理を詠んだものであるが、「挽歌」にもそれとほとんど同じ形のものが見え、その歌3343は、初めは相聞的内容で、後半「岩が根の こごしき道の」の辺りから、夫に死なれて間もない女が墓所の近くで悲傷して詠んだような趣に変じている。
 巻の一部ではあるが、このような変幻自在なすげ替え、まとまりのなさが見られるのは、かなり一般的に、歌い継がれ語り伝えられているうちに、主題がころころ変化することがあった証であろう。そのことは編纂者も気づいていて、時々、左注に、古本の記載に従って重ね載せた、とか、反歌に「君に逢はず」とあるが、長歌の中に「我妹子に 我が恋ふらくは」とあるのと矛盾する、すべからく「妹に逢はず」とあるべきだ、などと記している。それでも自分の個人的な判断で歌詞を改めたり、長歌・反歌の組み合わせを解体したりなどすることはなかったと思われる。

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