万葉集巻第六の構成・特徴   日本古典文学全集・小学館
 
    巻第六


 
部類別 歌数  長歌  短歌  旋頭歌  漢詩 
雑歌 160 23 136 1 0


 巻第六は雑歌ばかりの一巻で、養老七年(723)吉野行幸に供奉した笠金村の歌から始まっている。巻第一も雑歌だけであり、その最後の歌が、霊亀元年(715)に相次いで薨ずる長皇子・志貴皇子の共に宴する歌であることから、和銅六年(713)か七年に詠まれたものでないかと言われているので、巻第六をそれの続編とする説があってっも不思議でない。内容面でも、両巻が宮廷和歌の収録に努めているという共通性を見出そうとする向きもある。


 しかし、それでは巻第三の雑歌とこの両巻とのかかわりをどのように説明すべきか、という問題が起ころう。確かなことは分からないが、ただ、この三部が、形式面の多少の差を無視すれば、年代的に重なり合い、雁行するということだけは言えよう。

 この巻は実数で言っても合計百六十首あるが、大別すれば、年紀を明記する1050以前の百三十九首と、それを記さない1051以下の二十一首とに分けることができる。その前者のうち、1048、1049、1050の三首は後者二十一首への渡り廊下的性格を認めて別扱いすることも一案である。そうすると、1047以前が年立がはっきりしていることで、この前後に類例がなくなる。即ち、巻第一から第四までの中でも部分的に年紀を明記してあったが、この巻第六の秩序正しさには及ばない。具体的に示そう。 
 養老七年癸亥の夏五月、吉野の離宮に幸せる時に、笠朝臣金村が作る歌 (912)
 神龜元年甲子の冬十月五日、紀伊國に幸せる時に山部宿祢赤人が作る歌 (922)
 神龜二年乙丑の夏五月、吉野の離宮に幸せる時に、笠朝臣金村が作る歌 (925)
 三年丙寅の秋九月十五日に、播磨國の印南野に幸せる時に笠朝臣金村が作る歌 (940)
 四年丁卯春正月、諸の王・諸の臣子等に勅刀寮に散禁せしむる時に作る歌 (953)
 五年戊辰、難波宮に幸せる時に作る歌 (955)
 天平二年庚午、勅して擢駿馬使大伴道足宿祢を遣はす時の歌 (967)
 三年辛未、大納言大伴卿、寧樂の家に在りて、故郷を思ふ歌 (974)
 四年壬申、藤原宇合卿、西海道の節度使に遣はさるる時に、高橋連虫麻呂が作る歌 (976)
 五年癸酉、草香山を越ゆる時に、神社忌寸老麻呂が作る歌 (981)
 六年甲戌、海犬養宿祢岡麻呂、詔に応ふる歌 (1001)
 八年丙子夏六月、吉野の離宮に幸せる時に、山部宿祢赤人が詔に応へて作る歌 (1010)
 九年丁丑の春正月に橘少卿并せて諸の大夫等、弾正尹門部王の家に集ひて宴する歌 (1018)
 十年戊寅、元興寺の僧の自ら嘆く歌 (1023)
 十一年己卯、天皇、高圓野に遊猟する時に、小さき獣都里の中に泄走す。ここに適に勇士に値ひ、生きながらにして獲られぬ。即ちこの獣をもちて御在所に献上らむとするに副ふる歌 (1033)
 十二年庚辰冬十月に、大宰少貳藤原朝臣廣嗣が謀反せむとして發軍するに依りて、伊勢國に幸せる時に、河口の行宮にして、内舎人大伴宿祢家持が作る歌 (1034)
 十五年癸未の秋八月十六日に、内舎人大伴宿祢家持が久邇の京を讃めて作る歌 (1042)
 十六年甲申春正月五日に、諸の卿大夫の安倍虫麻呂朝臣の家に集ひて宴する歌 (1046)


 このように作歌の年次を丹念に調査し、飛び飛びではあるが、二十二年間にわたって年代順に並べることはかなり苦心を要する作業であったろう。『続日本紀』のような史書がまだなかった当時、「案内」(1014左注)の類を参考にしたのであろうか。万葉集の特性を述べて、これが単なる歌集の枠に収まらず、公的記録の歌にまつわる部分の抜粋ともいうべき一面があげられることがあるが、その意味ではこの巻第六こそ最も万葉集的な巻だと言ってよかろう。もっとも、年月未詳の歌をその内容の上からおおよその見当で年紀の明らかな歌に関連併記することは数ヶ所に見られる。例えば、918〜921の車持千年が吉野で詠んだ歌を養老七年(723)五月の吉野離宮行幸に供奉した時の笠金村の歌(912〜917)の後に収め、

右、年月審らかならず。ただし、歌の類を以てこの次に載せたり。或本に云はく、養老七年五月に、吉野の離宮に幸せる時にの作、といふ。


とすることがごとき、それである。これはまだ「或本」にその証を求めたものであるが、神亀三年(726)九月十五日の播磨国印南野の行幸の時の歌(940〜946)の後に、その印南野から西へ遠く離れ、そこまで行幸が及んだとは考えられない揖保郡の辛荷の島で山部赤人詠んだ歌や、同じ赤人が摂津の敏馬の浦で詠んだ同時の作か否か分からない歌(947〜952)を並べて、

右、作歌の年月未詳なり。ただし、類を以ての故に、この次に載せたり。


と注するのは、編者の苦慮の跡を示したものと言えよう。

 それに続く神亀四年正月の、宮中にあって警衛の任に当たるべき諸王・諸臣子らが勤務時間中に打毬に興じ、時ならぬ雷鳴の陣に居合わせなかった罰で授刀寮に散禁された時の歌(953、954)は、事柄自体は当事者の歌ほどに大したことでなく、『続日本紀』にも記録がないが、その左注の内容が当時の官人の生態や法制の施行・運用の実情などを垣間見させてくれた事件の記録として興味深い。その作者が不明であるというのも、巻第六のこの前後を公的記録から採ったものとばかり言い切れないことを示す証であろう。
 960から973までは大伴旅人が大宰帥として筑紫に滞在している間に作られたものである。もともと巻第三・四などにも分け収められた大伴氏の私家集的な編纂物の中にあったのであろうし、筆録者に坂上郎女が擬せられそうだが、それでは天平二年(730)十一月彼女が旅人に先立って大宰府を発った後の、旅人と遊行女婦児島との唱和の前後のことを記述したのは誰か、説明に窮しよう。その旅人は、翌年、奈良の家で974、975の思郷歌を詠んで幾ばくもなく薨ずる。976〜979は天平四年の節度使派遣に際して詠まれた歌で、次の安倍広庭の歌と共に肆宴関係をなすと言えば言われようもしようが、概して作品の配列の意味を深読みすることは無用なわざで、要するに、この前後以下は内容上に共通性を見出せず、時間の流れに沿って並べただけの雑簒の部に過ぎない。

 その中で983の「士やも空しくあるべき」は、巻第五のところで触れたように、時間の上からは「沈痾自哀文」や「老いにたる身に病を重ね、年を経て辛苦み、また児等を思ふ歌七首」(902〜908)の直後にあるべきものである。それがこの巻第六の中に収められているのは、これが憶良の自記でなく、藤原八束から聞いて書き入れた家持の記録であることを物語るであろう。八束は家持と親しかったようで、家持が八束邸で詠んだ歌(1044))には両人の遠慮のない交友関係を想像させるものがある。

 そのあと、点々とではあるが、坂上郎女の歌が現れる。そこには、幼い家持を育みいたわる母親の役を務め、旅人亡きあとの佐保大納言家の実質上の家長としても振舞う。家持はその叔母の手引きで歌を詠み始めたもののようで、999の「振り放けて三日月見れば」は、その直前にある坂上郎女の「月立ちてただ三日月の」(998)に導かれて作った彼の最初の試作ではないかと言われている。
 
 1024〜1027の四首は、天平十一年三月に、石上乙麻呂が藤原宇合未亡人の久米連若売と密通した罪を問われて土佐国に流された事件を題材とした時事歌謡物語である。第一首−乙麻呂に同情的な第三者、第二首−乙麻呂の妻、第三首−乙麻呂自身、第四首−編者がまとめとして加えた机上の作物、という構成であろう。編年体的秩序の中に伝誦歌スタイルの歌群が突然現れることになるが、編纂者の意識には、伝誦歌と個人創作歌との間にはっきりした区別はなかったと思われる。 
天平十二年の藤原広嗣謀反は、聖武天皇をはじめ朝廷首脳部に衝撃を与えた大事件であった。内舎人として家持は天皇の東国巡幸に供奉し、引き続いて久邇京に常駐勤務した。そのことは巻第四のところでも取り上げたことであり、省略する。ただ、天平九年の疫病で政府の高官が相次いで倒れたあと、台頭した橘諸兄の人柄に家持は敬愛の念を抱き、諸兄も家持の打算では動かない若者らしさ、毛並みの良さを愛したものか、しだいに橘−大伴・佐伯の結び付きが強化されてゆくさまが、この巻の上からも看取され、やがて巻第十七以下の、年代的には天平十八年以降に当る諸巻への伏線となっている。先にも言ったように、1051以下には年紀の記載がなく、その末尾に、

右の二十一首、田辺福麻呂が歌集の中に出でたり。 

とあるばかりである。それは巻第九の相聞、同挽歌の中にそれぞれ三首、七首と分け収められているのと合わせて田辺福麻呂一人の集であったと思われる。福麻呂は天平二十年に橘諸兄の使者として越中に下り、当時、越中国守であった家持を訪ねることになる。諸兄からその人となり、歌才を愛されていたのであろう。その二十一首のうちの一首、「久邇の新京を讃むる歌」(1054)の中に「うべしこそ 我が大君は 君ながら 聞かしたまひて さす竹の 大宮ここと 定めけらしも」と詠んでいる。その「君」は諸兄をさすかと言われている。この二十一首が巻第六の末尾に置かれた時期がいつか、については答えることができない。

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