万葉集巻第十五の構成・特徴   日本古典文学全集・小学館
 
    巻第十五





 
部類別 歌数  長歌  短歌  旋頭歌  漢詩 
   208   5  201  2 0
 

 この巻は前後二部に分かれており、分量からいって前半七・後半三くらいの割合で不釣合である。両者の共通点を強いて求めれば、時間的に相近く天平十年(738)を挟んで接する二つの事件の当事者たちが詠んだ歌であること、および仮名書が主で用字の上に偶然と思えない一致を見ることぐらいである。このほかに悲別と羈旅の苦しみなどを指摘する向きもあるかもしれないが、それらじゃ格別に重視すべき点ではない。


 前半の内容は、天平八年夏六月に新羅国に派遣された使人たちの航海の歌日誌というべきものだが、この訪羅の旅は目的を果せず、犠牲者も相次ぐ、という不首尾に終わった。そのことは『続日本紀』天平八年の条にも、

 (二月)戊寅(二十八日)、従五位下阿倍朝臣継麻呂を以て遣新羅大使と為す。
 夏四月丙寅(十七日)、遣新羅使阿倍朝臣継麻呂等拝朝す。




と見え、その翌年、

 (正月)辛丑(二十七日)、遣新羅使大判官従六位上壬生使主宇太麻呂・少判官正七位上大蔵忌寸麻呂等入京す。大使従五位下阿倍朝臣継麻呂は津島に泊てたるときに卒す。副使従六位下大伴宿禰三中は病に染みて入京すること得ず。

とあるが、その大伴三中らが入京・拝朝したのは二ヵ月後の三月二十八日であった。万葉集の記事はそれと平行する資料であり、部分的には続紀の記さない細かな内容を含む。殊に、目録は本条にもない日付まで書き付けられており、そのために、万葉集の目録が成立した時期を平安中期かと推測する後人捏造論者も、この巻の目録だけは本来表紙に書かれていたものか、などとうがった説を成す有様である。総序に当る部分だけについて、上段に本条、下段に目録を配して対照させれば次のごとくである。

上段(本条)   下段(目録)
新羅に遣はさるる使人等、別れを悲しびて贈答し、また海路に情を慟ましめて思ひを陳べ、并せて所に当たりて誦ふ古歌    天平八年丙子の夏六月、使ひを新羅国に遣はす時に、使人等各別れを悲しびて贈答し、また海路の上にして旅を慟み思ひを陳べて作る歌、并せて所に当たりて誦詠せる古歌一百四十五首 

 右の総序に続いて、無署名の某使人夫婦の唱和十一首が並ぶ、その初めの四首だけ示す。女・男・女・男という組み合わせである。

武庫の浦の入江の洲鳥羽ぐくもる君を離れて恋に死ぬべし  むこのうらの いりえのすどり  はぐくもる きみをはなれて こひにしぬべし (女)  3600
大船に妹乗るものにあらませば羽ぐくみ持ちて行かましものを おほぶねに いものるものに あらませば はぐくみもちて ゆかましものを (男)  3601
君が行く海辺の宿に霧立たば我が立ち嘆く息と知りませ きみがゆく うみへのやどに きりたたば あがたちなげく いきとしりませ (女)  3602
秋さらば相見むものを何しかも霧に立つべく嘆きしまさむ あきさらば あひみむものを なにしかも きりにたつべく なげきしまさむ (男)   3603

 使命感に燃えて、勇躍出発、とはおよそ程遠い別離の辛さゆえの愚痴と慰撫の応酬で歌日誌は始まる。殊に第四首で男は「秋さらば相見む」と自らにも言い聞かせるように妻に言い、道中の歌にもこの語は主題的旋律として何度か現れるが、日が経つにつれて、それは所詮「あいな頼み」であったことを認め、焦燥・失望の色が濃くなる。これら無署名の歌は合計百三首あるが、それらが同一人(妻の作を含む)の作か否かは不明である。作者名の明らかな作品は、さきの大使・副使、および大・少判官ら四人の歌合計十三首のほかに、大使の次男や秦間満ら随行者の歌十五首、また停泊地の遊行女婦かと思われる女性の歌も三首あり、これに諸人の誦詠した古歌十二首が加わる。この中には矚目した景物を詠んだ純粋な叙景歌や思郷歌などの雑歌もあるが、相聞・挽歌に属するものがあり、それでまた特定の部立名を置くことが出来ないのである。
 難波を出たあとしばらくは順調に瀬戸内海を山陽道沿いに西航するが、半月後、周防国佐婆郡の海上で逆風に遭い、西南方の対岸、九州豊前国下毛郡の分間の浦に漂着してから予定より遅れはじめ、筑前・肥前でも悪天候などで出航できず、壱岐島に着いた時に最初の死者が出た。対馬でもまた順風に恵まれずに日を送り、西海岸の浅茅湾で色づきうつろう紅葉を見て、いよいよ年内の帰国が無理なことを悟る。そのあとの交渉決裂や帰途に再び寄港した対馬で大使が落命したことなど、記録されていない。最後に播磨国家島に着いて、都近くになったことを喜ぶ無署名歌が突如現れる。それを詠んだのは大判官らの一月帰京組か、副使大伴三中らの三月組か、分からない。
 後半は、それより約二年後の、天平十年(738)頃のことではないかといわれるが、なんらかの罪によって、従四位下神祇伯中臣東人の第七子宅守という者が、越前国の国府に近い味真野に流された。宅守には新婚早々の妻狭野弟上娘子がおり、蔵部女嬬という一応は禁中に奉仕する任務の都合からか、都に留まって、夫婦は離れ住まわされた。その辺のいきさつも、前半と同じように、目録の記事のほうが詳しく、ここも上に本条、下に目録を置き、対照させて示そう。

上段(本条)   下段(目録)
中臣朝臣宅守と狭野弟上娘子とが贈答せる歌   中臣朝臣宅守、蔵部の女嬬狭野弟上娘子を娶りし時に、勅して流罪に断じ越前国に配す。ここに夫婦別れ易く会ひ難きことを相嘆きて、各慟む情を陳べ、贈答せる歌六十三首 

 この事件について『続日本紀』には、天平十二年六月十五日の条に、勅令で天下に大赦し、同日戌の時以前の大辟以下の罪はことごとく許す、ただし石上乙麻呂と中臣宅守らとはその限りにあらず、とだけあり、この巻の終り近くにある弟上娘子の歌、
 
    帰り来る人来れりと言ひしかばほとほと死にき君かと思ひて  (3794)

が詠まれたのはその時ではないか、と言われている。

 この夫婦が越前と都とにあって相聞往来した歌を、あとで時間の順に並べたのがこの六十三首(内訳は男四十首、女二十三首)であるが、往来に行き違いもあるようで、内容の噛み合いは必ずしもしっくりいっていない。総じて中臣宅守の歌は、護送役や看守に囲まれた窮屈な監視下での作ということもあろうが、半ばは持って生まれた性格から出たとおぼしい泣き言が多い。たとえば、

    人よりは妹そも悪しき恋もなくあらましものを思はしめつつ  (3759)
    さすだけの大宮人は今もかも人なぶりのみ好みたるらむ  (3780)

などは、なり振り構わぬ被害者意識の丸出し、と言ってよかろう。あるいは、ただ一首しかない作品による短絡的比較と言われるかもしれないが、宅守の父中臣東人に、

    ひとり寝て絶えにし紐をゆゆしみとせむすべ知らに音のみしそ泣く  (518)

の歌があり、宅守の泣き虫は父譲りというべきかもしれない。
 それに対して、女のほうは同じような不安・悲しみも歌うが、概して宥め役の側に回り、

    命あらば逢ふこともあらむ我が故にはだな思ひそ命だに経ば  (3767)

と歌い、男に対して、お互いに希望を持って生きましょう、と言い聞かせる。時には、生来、男勝りの性格の持ち主と見えて、

    君が行く道の長手を繰り畳ね焼き滅ぼさむ天の火もがも  (3746)
    天地の底ひの裏に我がごとく君に恋ふらむ人はさねあらじ  (3772)

のような、激しい情熱の表白やスケールの大きい歌いぶりも混じって、二人は、受動的な男と能動的な女、という世の常の裏返しの組み合わせで結ばれている点で興味深く、新鮮な男女関係だとも言える。
 この巻の用字について、音仮名を主としながら、表意的な書き方が混じっている実態が指摘されているが、そこから、あるいは書き改めや巻全体にわたって調整がなされたのではないか、と推測する可能性もなくはなかろう。そのほかに、巻第十七以降の、仮名書が主な諸巻とも共通する傾向性だが、しだいに仮名字母の上に清濁の差がなくなりかけ、また字画の少ない仮名が多用されるようになってきたことも認められる。への甲類に「反」の字が使われるのは、意味を考慮した義字的用法かと思われるが、前後半に共通して見受けられる。特殊仮名遣いの違例も、「可具呂伎」(3671)、「之呂多倍」(3773)などのほかに、「与妣」(3665)、「比等余里波」(3759)などが拾いあげられるが、「伊能知多尓敝波」(3767)については、格別に頼もしい写本のない巻ゆえの不運という事情も絡んでいるかと思われる。
 
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