書庫8











   「こもりづま」...隠すのか、隠れるのか...
 「靡き寄す人」

【歌意】3280

春になると、花は枝をたわませるほど咲き誇り
秋になれば、鮮やかに彩る黄葉に覆われ
神奈備山が帯を巻くように流れ行く明日香川の早瀬
そこに生い茂る玉藻のような美しさに心揺らされ、引かれて
朝露のように、儚くも消えるのなら消えもしよう、と思うほどに
恋し、際立って想いを募らせたせいか、逢うことができた
私の「こもりづま」よ

 
【歌意】3281

明日香川の、瀬々の玉藻のように
あちこちに流れはするが
私の心は、あなたに引き寄せられてしまった

春、秋の美しい情景に、「こもりづま」を想う
「隠り妻」は、実際どんな意味で見られているのだろう
普通に辞書に書かれている説明を拾っても、まさに「字句」の通りしか解らない
「閉じこもって、なかなか逢えない妻」、
それと、「人目を憚って、隠れている妻」では、男には、悲しいことだ

しかし、必死の想いが伝わったのか、やっと逢うことができた
「返歌」で、妙なことを言う
明日香川の瀬々の玉藻...「瀬々」が気にかかる
語句の意味を、どこにかければいいのか...
「美しい玉藻」があちこちに、と...なるのだろうか
どうも、この「玉藻」、「隠り妻」のようではない
違うかな...

しかし、結局最後には、お前にだけ心を許している、引き寄せられたんだよ、と
このように解釈してしまうと
浮気男が、女性に許しを請うための歌のようにも思える
ここでの「隠り妻」も、その原因を作ったのは、男ではないのだろうか...

以下に用例、類歌として採り上げた歌を載せる


原文「打靡」の訓で挙げた歌
 今更 何乎可将念 打靡 情者君尓 縁尓之物乎
  今さらに何をか思はむうち靡き心は君に寄りにしものを
 いまさらに なにをかおもはむ うちなびき こころはきみに よりにしものを
 巻第四 508 相聞 安倍女郎
今更、何を想い悩むのでしょう
これほどあなたに引き寄せられて、
しっかりと寄り添ってしまったものを...
「隠り妻」の用例
 秋芽子之 花野乃為酢寸 穂庭不出 吾戀度 隠嬬波母
  秋萩の花野のすすき穂には出でず我が恋ひわたる隠り妻はも
 あきはぎの はなののすすき ほにはいでず あがこひわたる こもりづまはも
 巻第十 2289 秋相聞 寄花 作者不詳
秋萩の花咲く野の薄のように、
人目につかないようにして、私が恋し続ける、「こもりづま」よ
返歌[3281]の類歌二首
 秋野 尾花末 生靡 心妹 依鴨
  秋の野の尾花が末の生ひ靡き心は妹に寄りにけるかも
 あきののの をばながうれの おひなびき こころはいもに よりにけるかも
 巻第十 2246 秋相聞 柿本朝臣人麻呂歌集出
秋の野の尾花の穂先が風に靡くように
私の心は、あなたに引き寄せられてしまったよ
 
 水底 生玉藻 打靡 心依 戀比日
  水底に生ふる玉藻のうち靡き心は寄りて恋ふるこのころ
 みなそこに おふるたまもの うちなびき こころはよりて こふるこのころ
 巻第十一 2486 寄物陳思 柿本朝臣人麻呂歌集出
水底に生える玉藻のように
ひたすら私の心を寄せてしまって
あなたを恋しく想う、この頃です


こうやって、万葉の歌を一首拾い出すと
限りなく連鎖して、ついそれも読み込んでしまう

「うちなびく」など、辞典では拾い出せないような意訳も行われる
何故なら、その「なびく」という語義が、いろんな比喩に使われるからだ
稲穂の穂先が、風に靡くように揺れ、横に倒れ伏したようになる
そこに描ける姿は、服従だ、あるいは無抵抗
そこから繋がるのが、「すっかり心を寄せてしまう」こと
それが、恋心...しかも、惚れたってことになるのか...

そうなると、万葉歌で使われる「語」の数々も
決して一様に解釈できない、ということだ
古語辞典に集録される語彙には限りがある
到底、あらゆる万葉歌(実際は万葉歌ばかりではないが)に使われる語義を
網羅などできるはずがない
代表的な「語意」を載せ、用例を載せ、
そこからが、更に範囲を広げる個人個人の想いとなる
間違いなく、そうしなければならない...拡げざるを得ない
「古語辞典」に、すべての「語意」が収まる訳もないし

しかし、そうなってくると、かの時代のこと、すべてを知らなければならなくなる
「ことば」は「時代」によって「生まれ」、成長し、「生まれ変わる」
同じ語でも、違う語意に変化してゆくものも多い
その時代に即した歌意を得ようと思えば、そんな「時代への理解」が必要となる

無理だ...そんなことできない

やはり、出来るだけ知識は持とうと思うが
それは、目的ではなく「手段」だ、と割り切ろう
実作者の生の声、解説が聞かれない以上
その歌は、自分に対して、どんな影響を与えるのか...与えたのか

それだけでも、「万葉の旅」は楽しめる







掲載日:2013.07.01.



 相聞
春去者  花咲乎呼里  秋付者  丹之穂尓黄色  味酒乎  神名火山之  帶丹為留  明日香之河乃  速瀬尓  生玉藻之  打靡  情者因而  朝露之  消者可消  戀久毛 知久毛相  隠都麻鴨
 春されば 花咲ををり 秋づけば 丹のほにもみつ 味酒を 神奈備山の 帯にせる 明日香の川の 早き瀬に 生ふる玉藻の うち靡き 心は寄りて 朝露の 消なば消ぬべく 恋ひしくも しるくも逢へる 隠り妻かも
 はるされば はなさきををり あきづけば にのほにもみつ うまさけを かむなびやまの おびにせる あすかのかはの はやきせに おふるたまもの うちなび こころはよりて あさつゆの けなばけぬべく こひしくも しるくもあへる こもりづまかも
 巻第十三 3280 相聞 作者不詳
 
 反歌
   明日香河 瀬湍之珠藻之 打靡 情者妹尓 因来鴨
 明日香川瀬々の玉藻のうち靡き心は妹に寄りにけるかも
  あすかがは せぜのたまもの うちなびき こころはいもに よりにけるかも
 右二首 
 巻第十三 3281 相聞 作者不詳


【3280】語彙
はるされば...
「されば」...「去れ」は自動詞ラ行四段「去る」の已然形、
「ば」は、恒常条件の接続助詞、「~のときはいつも」

 【去る】古語辞典より
進行する、移動する意が原義。現代語ではもっぱら、この場を基点として移動する意で用いるが、上代以来、「それまで存在していた場を基点として移動する(この場合から見ると「近づく」)意でも用いる。

はなさきををり...【「さきををる」の用例・巻第六-928】
「咲きををり」...自動詞タ行四段「咲きををる」の連用形
「ををる」は、たわむ、に意があり、「枝がたわむほど、花がたくさん咲く」の意
連用形で終わっているのは、この「春去れば、花咲きををり」が
次の句、「あきづけば、にのほにもみつ」と対になっており
この「もみつ」が次で説明になるが、動詞の終止形

あきづけば...
「づく」、接尾語(名詞について動詞をつくる)、四段活用
...そういう状態になっていく、~の趣がある、など
「秋づけば」は、已然形「づけ」の形になり、前述と同じように
...「秋になると」...

にのほにもみつ...
「に(丹)」は、赤土、黄味を帯びた赤色、赤色の顔料
「ほ(秀)」は、高く秀でていること、目立ってすぐれていること


 【秀(ほ)】古語辞典より
物の先端など、抜き出て目立つことをいうのが「秀(ほ)」の原義。稲・すすきなどの、花や実の付いた芽の先をいうときには「穂」を当てるが、語源は同じ。「ほのほ(炎)」は「火の秀」であり「にほふ(匂ふ)」は「丹秀ふ」であると考えられる。

「もみつ」...上代語で自動詞タ行四段「紅葉(もみ)つ・黄葉(もみ)つ」
これが、中古以降では「もみづ」と濁音化して、ダ行上二段「紅葉づ・黄葉づ」
意味としては、どちらも同じで、
「秋になって草木の葉が赤または黄にいろづく・紅葉する」
上代語の「もみつ」は終止形

 「黄」という色】古語辞典より
「万葉集」には「黄葉」とかいて「もみち」と読ませ、「黄泉」と書いて「よみ」と読ませるなど、「黄」の字が用いられてはいるが、色としての「き」の用例と見られるのは「奥つ国領く君が染屋形黄染の屋形神が門渡る」<16-3910>の一例に過ぎない。ことばの上からいうと、「青し・赤し・白し・黒し」などの形容詞はあるが「き」の形容詞はない。実際に「黄色のもの」がなかったかというのではなく、「青し」と「赤し」とで広い範囲の色をさし、間に合わせることが出来たのである。


うまさけを...
「うまさけ・を」で、「かむなび」にかかる枕詞
「味酒・旨酒(うまさけ)」では、「うまい酒が、神酒(みわ)」であることから
同音「三輪(みわ)・三輪の別名、三諸(みもろ)」に一般的にかかる

かむなびやま...
神の鎮座する山の名称、特に奈良県明日香村・三諸山、斑鳩町の三室山の異称

おびにせる...
イメージとしては、着物を着るときに締める帯で
細長いものを思い浮かべる
同じような用例が、【巻第十三-3241】にある

 【巻第十三-3241】
-春されば 春霞立つ 秋行けば 紅にほふ 神なびの みもろの神の 帯ばせる 明日香の川の 水脈早み-


この用法からすると、「帯にせる」に続く「明日香川の速き瀬に」まで
一つの情景描写のように浮んでくる

神奈備山が帯をするように、明日香川の早瀬を廻らせ...そんな感じだろうか

おふるたまもの...
「生ふる」、自動詞ハ行上二段「生(お)ふ」の連体形、生ずる、生える、生長する
「玉藻」、「たま」は接頭語で「美称」、美しい藻
「の」、性質・状態を表す格助詞、~のような

うちなびき...
原文「打靡」を、殆どは「うちなびき」と連用形で訓じられているが
なかには、「うちなびく」と連体形で訓じる注釈書もある
この自動詞カ行四段動詞「打ち靡く」が、何を説明するか...
一般的な連用形であれば、冒頭句の「咲きををり」の連用形のように
同等の対となる「語句」があるはずだ...
「寄りて」...だろうか
自動詞ラ行四段「寄る」の連用形に、接続助詞「て」
「心が靡き寄せられて」、靡くには他に「傾く・好意を寄せる」がある

連体形の「打靡く」であれば、「心」にかかる...
「打靡く...心」...「引き寄せられる心」...

同じように原文「打靡」の用例が【4-508】にあり、

 【巻第四-508】相聞 安倍女郎
今さらに何をか思はむうち靡き(原文:打靡)心は君に寄りにしものを


万葉集古義でも、連用形「打靡、うちなびき」とされているが
連体形「うちなびく」とした注釈の根拠は、この[508]歌を、
『歌経標式』では、「うちなびく」と訓じ収められているから、という
歌意に大きく違いはないだろうが、古語の「訓」というのは
どの時点での研究成果を基準にするか...難しい問題だ...私には、手も足も出ない

ちなみに、通説では、この「打靡」の前、「生ふる玉藻の」までが
「打靡」を起こす序...序詞とされている...ピンとこないけど...慣用的な句なのかな

あさつゆの...「消(け)」の枕詞

けなばけぬべく...
「消(け)なば」、自動詞カ行下二段「消(く)」の連用形「け」、消える
「な」完了の助動詞「ぬ」の未然形「な」
「ば」、順接の仮定条件の接続助詞

「消(け)ぬべく」、「け」連用形、
「ぬ」、完了の助動詞の終止形「ぬ」
「べく」、推量・可能・意志の助動詞「べし」の連用形
...「消えてしまうものなら、消えても仕方ないような」...

こひしくも、しるくも...あへる...
「恋ひしく」、形容詞「恋ひし」の連用形、恋しい、慕わしい
「著(しる)く」、形容詞「著(しる)し」の連用形、際立っている、はっきりしている
「あへる」、自動詞ハ行四段「逢ふ」の已然形に、完了の助動詞「り」の連体形「る」

こもりづまかも...
人目を憚って、隠れている妻、
通ってくる夫が自分との関係を、まだ世間に公表してくれていない「妻」
 ⇒用例【巻第十-2289】
「かも」、詠嘆の終助詞

【3281】語彙 ⇒類歌【巻第十-2246・巻第十一-2486】
せぜのたまもの...
「せぜ(瀬々)」、多くの瀬、あちこちの瀬、(その時その時、おりおり)
ここまでの二句が、「うちなびき」を起こす序

「うちなびき」、前述同様

よりにけるかも...
「けるかも」、回想の助動詞「けり」の連体形「ける」
それに詠嘆の終助詞「かも」






   「シンクロする相聞」...時はどれほど経とうとも...
 「懐かしき人に出会う」

【歌意】3282

三諸の神奈備山の方から、空一面に覆う雨雲
雨が降り始めて、さらに風さえも吹いてきました
この「真神の原」から、心を残して帰られたあなたは
もう、あなたの家に着かれたのでしょうか

 
【歌意】3283

荒れた天気に遭ったかも知れず
帰ってしまわれたあの人を思うと
この真っ暗な夜は、不安で、心配で
私など、眠ることも出来ませんでした

この「真神の原」が通説の明日香だとすると
この明日香から男は家に帰る...それは藤原京のことだと思う
その藤原京時代の歌だと思えたのは、実は面白い連鎖があった

この歌で詠われている、枕詞の「おほくち(大口)の」
真神の原に、かかるにしても、あまり聞き慣れない、いや初めてのような気もする
そんな「大口の」を調べても、用例はほとんどなかった
それどころか、私の検索では「二例」しかなかった
よほど珍しい「枕詞」なんだ、と感心しながら
そのもう一つの例を引っ張り出した
すると、思わぬ作者に出くわしてしまった
そこから...この今夜の掲題歌二首までも...
まず、その「おほくちの」の枕詞を使った、もう一つの歌


  冬雜歌 / 舎人娘子雪歌一首
 大口能 真神之原尓 零雪者 甚莫零 家母不有國
  大口の真神の原に降る雪はいたくな降りそ家もあらなくに
 おほくちの まかみのはらに ふるゆきは いたくなふりそ いへもあらなくに
 巻第八 1640 冬雑歌 舎人娘子
(おほくちの)この真神の原に降る雪よ
そんなにひどく降らないでおくれ
家もないのだから

「いたく」は、はなはだしく、ひどく
「な~そ」で禁止、
問題は「家」...家が「あらなく」
「あらなく」は「あらぬ」の名詞形
家がない、と訳すのか...
他に思い浮かぶのは、この「真神の原」には、家がない、ということか
勿論、自身の住む家のこと
それとも、「家」を「家人」という説もあるらしい
誰もいないので、そんなに降ってくれるな、寂しくなる、ともいえる


この歌で「真神の原」が、通説のように、明日香の飛鳥寺周辺を言うのであれば
今は都が藤原京へ遷り、かなり寂しくなった荒野を思い浮かべられる
そんな中に、激しく降る雪...いっそう「寂しくなる」から
降らないでくれ、と懇願するように詠う作者...
「舎人娘子」...
そうか、この作者の詠歌なのか、としばし思いに耽る
何故、この作者をことさら思うのかといえば
舎人皇子との相聞歌を思い出したからだ
しかも、この舎人娘子の「伝」は残っていない
まさに、万葉の歌の中でしか「逢うことのできない」女性だ

まったくその出自が解らないからといって、では村の娘なのか
舎人皇子と相聞歌を交わしたといっても、それは珍しいことではない
ただ、舎人皇子の方の想い入れは印象深く残っているが...後述

現に、この娘子、もう一首拾い上げてみると
意外なことに、天皇の行幸に従駕して、その時の詠歌もあった
 (語意の説明は省く)


  大寶二年壬寅太上天皇幸于参河國時歌/舎人娘子従駕作歌
 大夫之 得物矢手挿 立向 射流圓方波 見尓清潔之
  大丈夫のさつ矢手挟み立ち向ひ射る圓方は見るにさやけし
 ますらをの さつやたばさみ たちむかひ いるまとかたは みるにさやけし
 巻第一 61 雑歌 舎人娘子
雄々しい立派な男が、矢を手に挿み持ち
立ち向かい射る、その的形は
見るからに風光明媚で
何と、すがすがしいところでしょう


この「舎人娘子」が、「ますらを」と詠う
すると、引きづられるように、やはり先に挙げた「舎人皇子」の相聞歌を思い出す
この歌、「2002年7月6日」に、採り上げている
その時の私の感想を書いているので、あらためて読んでみた
ちょうど、十一年前の、私が感じた「相聞歌」だ
さらに、このことに触れ、「書庫6」にも載せていた
だから、印象もそんなに褪せることもなく、すぐ思い出せたのだろう


  舎人皇子御歌一首
 大夫哉 片戀将為跡 嘆友 鬼乃益卜雄 尚戀二家里
  ますらをや片恋せむと嘆けども醜のますらをなほ恋ひにけり
 ますらをや かたこひせむと なげけども しこのますらを なほこひにけり
 巻第二 117 相聞 舎人皇子
[2002年7月6日][書庫6]
 
 舎人娘子奉和歌一首
 嘆管 大夫之 戀礼許曽 吾髪結乃 漬而奴礼計礼
  嘆きつつますらをのこの恋ふれこそ我が髪結ひの漬ちてぬれけれ
 なげきつつ ますらをのこの こふれこそ わがかみゆひの ひちてぬれけれ
 巻第二 118 相聞 舎人娘子
 同上


この巡り会わせを考えていて、妙なことに思い至ってしまった
四千五百余首もある万葉の歌の中で、「おおほくの」と使われる用例が僅か二首
それは、こうも思えないだろうか...
作者...この語句を、枕詞を用いた作者は、同じ人だ、と

掲題の相聞二首は「作者不詳」歌
しかし、仮に作者が「舎人娘子」だとすると
悪天の中、藤原京の家へ帰るのは...「舎人皇子」なのではないか
この二組の相聞歌の時空間は想像しかできないが
十分有り得ると思う

若い頃には、名を公にして歌を贈る...
しかし、どれほど時間が過ぎ去ったのだろう
巻第二の相聞が、やがて成就し掲題の相聞へ結びつく...
そう想いを馳せることになろうとは、まったく思いもしなかった

それも、「舎人娘子」の用いた「おほくち・ますらを」に導かれてのことだ
確かに考えてみると、おぼろげながらも
二組に流れる「音色・香り」が、
舎人娘子という女性を通して、よどみなくつながってくる

今夜は、久し振りに幸運な歌にめぐり合えた

勿論、私のこの想いなど根拠も何もないが
少なくとも、歌人の使い慣れた「歌語」の面から検証する手段がある以上
この二首でしか残らない「おおくちの」枕詞は...
私には、まさに「真神」にかかる「歌語」になった





掲載日:2013.07.02.


 相聞
 三諸之 神奈備山従 登能陰 雨者落来奴 雨霧相 風左倍吹奴
大口乃 真神之原従 思管 還尓之人 家尓到伎也
 みもろの  神奈備山ゆ  との曇り 雨は降り来ぬ  天霧らひ  風さへ吹きぬ  大口  真神の原ゆ 思ひつつ  帰りにし人   家に至りきや
 みもろの かむなびやまゆ とのぐもり あめはふりきぬ あまぎらひ かぜさへふきぬ おほくちの まかみのはらゆ おもひつつ かへりにしひと いへにいたりきや
 巻第十三 3282 相聞 作者不詳
 
 反歌
   尓之 人乎念等 野干玉之 彼夜者吾毛 宿毛寐金手寸
  帰りにし人を思ふとぬばたまのその夜は我れも寐も寝かねてき
   かへりにし ひとをおもふと ぬばたまの そのよはわれも いもねかねてき
 右二首 
 巻第十三 3283 相聞 作者不詳


【3282】語彙
みもろ...御諸、三諸、御室(ミモロとも)「み」は接頭語
神の降臨して鎮座するところ、神をまつる森や山や神座、のちには、神社
詳解では「御降(もろ)」と字が当てられている

かみなびやま...
これまで、何度も採り上げた「山」で、明日香村の三諸山、あるいは
斑鳩町の三室山の異称かと、いうが
ここで詠われている場所が、明日香...今の飛鳥寺の付近と言われ
近くの「雷丘」との説もある

しかし、「かむなびやま」という固有名詞ではなく
神の降りる「三諸」と同じように、神のいる山、と私には思える

「ゆ」...動作の起点、経由点を表す格助詞「ゆ」、「~から、~を通って」

とのぐもり...
自動詞ラ行四段「との曇る」の連用形
「との」は、一面に、ずっと、すっかり、などの意がある
...「空が一面に、すっかり曇る」

あめはふりきぬ...
「ふりきぬ」...自動詞ラ行四段「降る」の連用形、
自動詞カ変「来(く)」の連用形「き」
それに、完了の助動詞「ぬ」の終止形
...「雨が降ってきた」

あまぎらひ...
「きらふ」上代語で、霧や霞が立ちこめる、霧や霞で曇る意がある
この「天霧(あまぎ)らふ」の成り立ちは
自動詞ラ行四段「天霧(あまぎ)る」の未然形「あまぎら」に、
上代の反復・継続の助動詞「ふ」、
その連用形「ひ」が付いたもので、「吹く」にかかる
前の句で雨も降っており、ここでは同じように状況を述べているようだ

かぜさへふきぬ...
「さへ」は、添加の副助詞、「~までも」
「ふきぬ」...自動詞カ行四段「吹く」の連用形「吹き」に、
完了の助動詞「ぬ」の終止形
...「風までも吹いてきた」

おほくちの...
「真神の原」の枕詞【用例:巻第八 1640】
「真神の原」は、奈良県高市郡明日香村にある飛鳥寺南方一帯の古称
「大口の」...大きな口の狼の異名「真神」にかかる、畏怖した言い方

まかみのはらゆ...
「ゆ」は前述の「かむなびやまゆ」と同じ

おもひつつ...
他動詞ハ行四段「思ふ」の連用形「思ひ」
「思ふ」には、単純に「思う」だけではなく
「過ぎたことを回想する・願う・恋しく思う・心配する」などの意味がある
「つつ」...反復・継続の接続助詞
...「思いながら」...何を...

かへりにしひと...
「かへり」...自動詞ラ行四段「帰る」の連用形
「にし」は、そのまま「~た、~てしまった」だが、その構成は、
完了の助動詞「ぬ」の連用形「に」、過去の助動詞「き」の連体形「し」
...「帰って行った人」...

いへにいたりきや...
「いたり」...自動詞ラ行四段「いたる」の連用形、「行き着く、到達する」
「き」...過去の助動詞「き」の終止形
「や」...活用語の終止形に付くので、疑問の係助詞ではなく、疑問の終助詞
...「家に着いただろうか...」...


【3283】語意
かへりにし...
次句「ひと」で、前述の「かへりにしひと」
...「帰って行った人」...

(ひとを)おもふと...
ここの「思ふ」は、心配するような意味だと思う
「と」、原因を示す格助詞
...「思う、心配しているので」...

ぬばたまの...枕詞、ぬばたま(ひおうぎ:草の名)の実の黒いことから
「黒・髪・夜・一夜・夕べ・昨夜・今宵」、更に転じて「妹・夢・月」にかかる

そのよはわれも...
「われも」...の「も」
次に打消しの「語」があるので、意を強める係助詞
...「その夜は、私も」...

いもねかねてき...
「い(睡・寝)」...眠ること、睡眠
単独では用いられず、助詞を介して動詞「寝(ぬ)」とともに
「いの寝らえぬに」や「いも寝ずに」などの句として用いられる
「かね」..接尾語ナ行下二段型「-かぬ」、動詞の連用形に付く
自動詞ナ行下二段「寝(ぬ)」の連用形「ね」に付き、連用形「ねかね」
それで、「~が難しい、~ことができない」という動詞を作る
...「眠ることができない」...
「てき」...完了の助動詞「つ」の連用形「て」に、過去の助動詞「き」
...完了の意を強めていう
...「眠ることができなかった」...











   「文字しか伝わらない」...後の人の想い入れ...
 「古き人に出会いたくても...」

【歌意】3313

はるかに遠く見渡せば、あなたが立っていらっしゃる
わたしは、こちらにいるのが、何とも心やすまらず
堪えきれずにため息をついては、悲しむばかり
美しく赤く塗った小舟、美しい木の皮で巻いた楫
叶わないだろうが、それらがあったらなあ...
どんなに遠い向こう岸であろうと
わたしは漕ぎ続け、渡り切ろう
そして、あなたといつまでも語り合いたいものだ...

 
今夜の歌...難解な語句がある歌と言うのは
なかなか通り一遍での調べでは、読み通せないことを
あらためて思い知らせてくれた

底本が同じだから、他の諸本とのように、訓じ方の違いなど
滅多にないと思っていたが...そんなことは有り得ない
そもそも、訓じ方に諸説があるのは、
本来の漢字表記のルールが、まだ定まっていない時期
そこに根本の問題があり、それは今の段階で解決などできないことだ
万葉集の編纂から、それほど時を経ていない段階で
すでに、訓の混乱は生じている
それでも、平安の学者たちにとっては、和歌の源泉であり
その研究に命をかける意気はあったのだろう
平安、鎌倉...そして江戸時代に至るまでに
どれほどの注釈書が世に出たことか
おそらく、専門の研究者でないと、それらを読み通せないだろう

現在、比較的信頼されて、一番利用されている「西本願寺本」
しかし、その原文でさえ、それを基にした注釈書も何も解決は出来ない
原文としての「価値」は、評価されても
それを、どう訓じたかの説明の書ではないのだから
そこからの問題が、後々まで、解決するどころかますます大きくなって...

私が時折利用する、江戸末期の学者・鹿持雅澄の「万葉集古義」
この学者は、万葉集研究の、最後の学者だと言われている
勿論、そこからさらにまだまだ万葉学は拡がっていくのだが
彼の著した「万葉集古義」には、それまで培われた万葉研究史のようなもの
注釈書の精読などにより、「この歌は、こう読むべし」的な訓がある
それが、諸説が多くあろうとも、それを考慮した上での「訓」とうことで
私のような素人には、非常に解り易い書物だ

今夜の歌も、「西本願寺本」の原文は「相語妻遠」であることを述べ
しかし、これは江戸時代の賀茂真淵の弟子に当る加藤千蔭「万葉集略解」解釈に
「妻」は「益」の誤写であろうとする論証があり
それを雅澄は、よし、として採用している
実際に、万葉作者の詠歌が、どう読まれていたのか
その解明はまず不可能だろうが
残された「文字」の中で、どう解釈すれば「意」に通じるのか...
そうなると...その時代時代の「センス」もかなり影響してくる

この歌に関しては、確かに元歌は「七夕歌」の語句が多く使われ
まさに、「七夕歌」のための「語句のつながり」となっているが
しかし、歌にはいろいろと視点があるものだ
一つは、作者が解っていれば、それ自体で「歌の性格」もある程度気づく
その作者の「歌風」があるからだ
しかし、「作者不詳」であれば、そして年紀作でなければ、
もう読者の想像力しかない
歌を恣意的に歪めるのではなく、作者と語り合えない「時空」を埋めるのは
それは「想像力」しかないと思う
自分が、歌から感じたものを、当時の情景を浮かべながら声を出してみる
それもまた、万葉集の楽しみ方の一つだ

私が、それでもなお「古語文法」...品詞の活用にこだわるのは
単に「歌語」に感じる「語感」だけではなく
活用語の活用如何で、接続する品詞が違ってくる...当然意味も変わる
自由に「歌を感じたい」といっても、目の前に出された「歌語」を
正しく...出来るだけ正しく理解しないと、
その自由な「解釈」は、歌の解釈ではなく、古歌を真似た「妄想歌」になってしまう

だから、どうしても、品詞、活用には時間を割いてしまう
私が、解釈本を見たくないのは、そこにある
自分で調べたものでないと...理解できないと思うから...

当然、間違った思い込みや解釈もあるはずだ
しかし、またその歌を採り上げたとき...
また違った調べの結果と解釈になるのだと思う...「感性」は変わり得るものだから...

一つ不思議なのは、ある高名な学者が、
同じ語句...慣用句のような一連の句の連なりに
原文の表記がほぼ同じなのに、違った訓をする...
不思議でならない...右頁の[1524]と[3313]のように...

何度も言わないといけないことだが
それでも、私は「古典」に関しては、全くの素人
ただ、好きなことと、理解することとの違いは
好きなだけなら、どんな辻褄が合わないことでも、平気で歌を読める
しかし、理解しようとすると...そこで止ってしまう
理解できなければ、その先に進めない
理解が深まれば、当然その進み具合も速くなるというものか






掲載日:2013.07.03.


 相聞
 見渡尓 妹等者立志 是方尓 吾者立而 思虚 不安國 嘆虚 不安國 左丹漆之 小舟毛鴨 玉纒之 小楫毛鴨 榜渡乍毛 相語妻遠
 見渡しに  妹らは立たし  この方に  我れは立ちて 思ふそら 安けなくに  嘆くそら  安けなくに  さ丹塗りの  小舟もがも  玉巻きの  小楫もがも  漕ぎ渡りつつも 語らふ妻を
 みわたしに いもらはたたし このかたに われはたちて おもふそら やすけなくに なげくそら やすけなくに  さにぬりの をぶねもがも たままきの をかぢもがも こぎわたりつつも かたらふつまを
  或本歌頭句云
己母理久乃 波都世乃加波乃 乎知可多尓 伊母良波多々志  己乃加多尓 和礼波多知弖
 こもりくの 泊瀬の川の 彼方に 妹らは立たし この方に 我れは立ちて
  こもりくの はつせのかはの をちかたに いもらはたたし  このかたに われはたちて
  右一首
  巻第十三 3313 相聞 作者不詳


【3313】語彙
みわたしに...
「みわたし」、見渡すこと、見渡した向こう側、はるか彼方
「に」...格助詞、空間的な場所を表す...「~で・~に」

いもらはたたし...
「いも」...「妹」には、広い意味がある、「妻・恋人・姉妹」など
それぞれが、大きく違う意味合いを持つが、共通していることは
肉親として、大切な女性
だから、一首の中で「いも」を訳すとき、気になるのは
それが妻なのか、恋人なのか...
後述するが、多くの訳書が「妻」と見ている
勿論、その根拠はいくつもあるだろうが、
その一つに、私は「末句」の「相語妻遠」があると思う
最終的な私が感じた歌意は、別のものになると思う

「ら」...接尾語、名詞・代名詞について複数・親しみの気持ちなどを表す
ここでは、その「親しみをこめた」意だと思う

「たたし」...自動詞サ行四段「立たす」の連用形、
上代語で、その成り立ちは、タ行四段「立つ」の未然形「立た」に
尊敬の助動詞「す」の付いたもので、敬語形になる
従って、この作者・男からすると、相手の女性にいくらかの敬意が伺える

「たたし」が連用形で切れるのは中止法で、
次に続く文節と対等な関係となる...「われはたちて」に続く

このかたに...
「このかた」...名詞、こちらの方、こちら側、反対語は「をちかた(彼方)」
「に」は前述と同じ格助詞

われはたちて...
「たちて」...自動詞タ行四段「立つ」の連用形に、単純接続の接続助詞「て」
...「立って」...

おもふそら...
「おもふ」...他動詞ハ行四段「思ふ」の連体形、「愛する、恋しく思う」
「そら(虚)」...原文の「虚」では、うわのそら、のような意味合いになるが
「空(そら)」、接頭語の「そら」では、両方の漢字が使われており
ほぼ同義語だと思う、

勿論「虚」のようなはっきりとした意味ではなく
「心情・気持ち」の意の「空」に近いものだと思う
その想いが、次の「やすけなくに」に説明される

やすけなくに...
「やすけ」は、形容詞「安し」の未然形、と「なく」ならば、そうなるはずだが
辞書をどう見ても、形容詞の未然形に「け」はない

テキストを再確認しても同じだった
確かに、私も含めて、今はほとんどが「西本願寺本」を底本にしているので
あとは、注釈書の系統での「訓じ方」に左右される
他に別の「訓」がないか、探してみたら、
中西進著の「全訳注」に、「安からなく」【1524】があった
しかし、その「やすからなく」の原文は「不安久」であり
今回の掲題歌【3313】は原文は「不安国(含む[に])」なのだが
私には同じに思えるものも、この「全訳注」では、
違った「訓」、「やすからなくに」と「やすけなくに」にしている
私は...「やすからなく」の方が、すっきり読めるのだが...
それが、形容詞「安し」の未然形「安から」に、悩むことなく活用する
「なく」は打消しの助動詞「ず」の未然形の古形「な」に、
名詞をつくる接尾語「く」のついたもので、「ないこと」の意
...「安らかならず」...
続く、「なげくそら やすけなくに」も同様
「なげく」...自動詞カ行四段「嘆く」の連体形、嘆息する、悲しんで泣く

この歌、もともといくつかの七夕の歌をもととしているようで
全く同じ句の連なりを、前述の【1524】や、【3313】に見ることが出来る

さにぬりの...
「さ」は接頭語、語調を整えたり、「若々しい」の意を添える
「に(丹)」、黄味を帯びた赤色、赤色の顔料
「さ丹塗り」で、名詞形、「赤く塗ったもの」

をぶねもがも...
「をぶね」...小舟
「もがも」...終助詞「もが」に終助詞「も」が付いたもの
願望の意を表し、「~であればなあ・~があればなあ」

たままきの...
「たままき」、玉で飾ったもの、玉には、美しいという意がある

をかぢもがも...
「をかぢ(小楫)」、舟を漕ぐ道具
「もがも」、前出

こぎわたりつつも...
「こぎわたり」...自動詞ラ行四段「漕ぎ渡る」の連用形、舟を漕いで渡る
「つつも」...単純接続の接続助詞「つつ」と、仮定希望の係助詞「も」

かたらふつまを...
この句が問題となると思う
テキストの原文では、確かに「相語妻遠」であり
その訓も、単純に読めば、旧訓では「あいかたらめを」であり
今は「かたらふつまを」も、この原文に即して読まれている
その訳すところは、「語り合いたい妻よ」、と

しかし、こうした原文への検証が古くから続けられ
今でも、この「相語妻遠」は難解句らしい
だから、いろいろと説もあるし、「訓」もいくつかある

私が比較的ポピュラーに利用する「万葉集古義」では、
この「相語妻遠」の「妻」が、「益」の誤写だとする説を採用している
そうなると、訓も当然違う

かたらはましを...「相語益遠」
この説を採用している注釈書も多い
私も、冒頭の「いもら」による女性像からすると
ここで、「妻」と表記するには、奇妙な気もする
この末句の意味としては、
「語り合っただろうに」という、反実仮想の助動詞「まし」の連体形
そして詠嘆の助詞「を」...
こちらの方が、すっきりする、と私は思う

或本には、頭の四句に異伝を伝えている

本歌では、お互いが立つ具体的な現場の状況が詠われていなかったが
この「或本の頭句」では、そこに「泊瀬川」という
お互いが「対岸」に居て、そこで男が「いも」を想い歌ったものになっている
「みわたし」と「をちかた」で、その情景のスケール観は違ってくるが
掴みようのない「天空の川」を詠うには「見渡し」だろう
それが元歌だと思うから...

しかし、現実の恋人同士の「逢瀬」なら、「こもりくのはつせのかわの」もいい






   「想いとどかず」...相聞のむなしさ...
 「挽歌のなげきを...」

【歌意】3317

里の人が、私に教えてくれたことによれば
おまえが恋する、いとしい「夫」は
黄葉が散り混じっている神名火の山のこの辺りから...
[その山の辺り]
真っ黒な「黒馬」に乗って、幾つも幾つもたくさんの川の瀬を渡って行き
心悲しく、心も萎れて...そんな様子で私に逢ったのだよ、
と、人が告げてくれた


【歌意】3318

聞かないで、何もしないでおけばよかったものを
どうして、まさにあの人のことを...
人は告げたのでしょうか
 
この歌を、読みながら痛切に思う
この歌は、やはり「挽歌」を基にして作られたものだ、と
相聞にしては、あまりにも「ときめきさ」や「ひたむきさ」が排除され過ぎている

神名火山から多くの川瀬を渡り...黒馬...「黄葉、散り紛ふ」...
ここに、相聞を見出そうと思えば
明日香から、遠く離れて旅をする「夫」へ、との見方ではなく
これは、「反歌」からの想像になるが

里人に、「あの人」のことを聞きせがんだのは、自分の方だ、と
それで、悲しくなるような姿を知らされたので、
どうして聞いてしまったのか、と自分を責める...

すると、歌意の「人が告げたこと」への恨みではなく
それを聞きせがんだ自分への後悔そして恨みになるのだが...

もう一つの不思議な点は、「或本の異伝」
異伝と言っても、「この」と「その」
勿論、難しい意味はない
神名火山にいれば「この」であるし、離れたところで女性に告げるという行為なら
神名火山の「その」辺りから...ほどの違いしかない
その違いは、この女性が里人から、夫の「そのとき」の状況を告げられた場所
それが、明日香であるのか...明日香の近郊なのか...
神名火山から、遠く離れて行く姿...
それは、住み慣れた地を離れる姿の描写だろうから、女性は明日香の人だ

しかし...この歌、「死」と言葉がなくても、「相聞」として読むのは辛い
使われている「歌語」が、暗く、片通行のイメージばかり
それでも、そこに「ときめき」のようなものがあれば、いいのだろうが
それもなく、ただただ「悲しさ」だけが占めているこの歌

これまで、「挽歌」も「相聞」も、同じような「心の歌」のように思っていた
勿論、その性格はまったく違う
「挽歌」が決して戻らない「一方通行」であれば
「相聞」は期待も出来る行き返り...
「哀しみ、せつなさ、涙...、苦しさ」
この言葉が、いくら同じであっても...
やはり、挽歌と相聞は...「色」が違った...「挽歌」は、「黒」しかなかった











掲載日:2013.07.04.


 相聞
 里人之 吾丹告樂 汝戀 愛妻者 黄葉之 散乱有 神名火之 此山邊柄 [或本云 彼山邊] 烏玉之 黒馬尓乗而 河瀬乎 七湍渡而 裏觸而 妻者會登 人曽告鶴
 里人の 我れに告ぐらく 汝が恋ふる うつくし夫は 黄葉の 散り乱ひたる 神なびの この山辺から [或本云 その山辺] ぬばたまの 黒馬に乗りて 川の瀬を 七瀬渡りて うらぶれて 夫は逢ひきと 人ぞ告げつる
 さとびとの あれにつぐらく ながこふる うつくしづまは もみちばの ちりまがひたる かむなびの このやまへから [そのやまへ] ぬばたまの くろまにのりて かはのせを ななせわたりて うらぶれて つまはあひきと ひとそつげつる
 巻第十三 3317 相聞 作者不詳
 
 反歌
 不聞而 黙然有益乎 何如文 公之正香乎 人之告鶴
 聞かずして黙もあらましを何しかも君が直香を人の告げつる
  きかずして もだもあらましを なにしかも きみがただかを ひとのつげつる
  右二首
  巻第十三 3318 相聞 作者不詳


【3317】語彙

さとびとの...
「里人」...その里に住んでいる人、実家の人、里方の家族、
広い意味で、宮仕えをしないでいる人、民間人
あるいは、宮仕えはしているが、自宅に下がっているもの...

あれにつぐらく...
「つぐらく」、他動詞ガ行下二段「告ぐ」の終止形に、
連用修飾語になる接尾語「らく」、~することには...
...「私におしえてくれることには」...

ながこふる...
「な(汝)」、対称の人名代名詞、自分より目下の者や親しい人に対して用いる
「こふる」...他動詞ハ行上二段「恋ふ」の連体形、思い慕う、恋する
...「おまえが恋い慕っている」...

うつくしつまは...
「うつくし」は、形容詞「愛(うつく)し・美し」の終止形だが...
「うつくしつま」は、「うつくしきつま」のことだろう
語調的に、省略されたのかな...それとも他の「文法」があって...
「つま」に当てられる「夫・妻」は、どちらにも成り立つようだ
だから、歌の内容から判断するしかないが...
ここでは、反歌に「君」とあるので、女歌だろうから、「夫」だと思われる
...「いとしい夫は」...

もみぢばの...
「黄葉」は、秋に赤や黄に色づく草木の葉
万葉の歌に、「黄葉の散りゆくなへに...」など、「挽歌」によく使われている
だからこの歌も「挽歌」をもとにして「相聞」にしたものだろう、とも解されている

ちりまがひたる...
「散り紛ふ」という動詞がある、散り乱れる...(「散る」と「紛ふ」)
自動詞ハ行四段「散り紛ふ」の連用形
「紛ふ」は、入り乱れて区別できなくなる、入り交じる、見分けがつかなくなる
「たる」...完了の助動詞「たり」の連体形
...「散って紛れている」...

かむなびの...
明日香であると、これで推測される

このやまへから...
この山〔神名火〕の辺りから

[或本に云はく]
「そのやまへ」...「この」と「その」の空間的な位置の異伝

以下、この「かむなび」あたりからの「経路」の描写になっているので
「この」と「その」では、意味も違うかもしれない

ぬばたまの...枕詞
ひおうぎ(草の名)の実で、黒くて丸いことから、「黒」などの暗いものにかかる

くろまにのりて...
「くろま」...黒い馬と言う意味だろうが
当時は、「馬」は農耕用としても、乗馬としても高価なものだったと思う

かはのせを...
「川の瀬」...川の流れが速く、浅いところ、川の中の浅瀬

ななせわたりて...
「七瀬」...七つの瀬、多くの瀬

うらぶれて...
自動詞ラ行下二段「うらぶる」の連用形「うらぶれ」に、接続助詞「て」
「うら」には「心の意」があり、侘しく思う、悲しみに沈む...

つまはあひきと...
「つま」...ここでの用法は、重複といわれている

すでに、ここまでの描写が、「夫」の視点だと解るので

ここで、改めて「夫」だということはない...という意味なのだろう
しかし...何か意味があるのかもしれない...

「あひき」...自動詞ハ行四段「逢ふ」の連用形「逢ひ」に、
過去の助動詞「き」の終止形
...「夫は逢った」...

「と」は、引用の格助詞「と」

ひとそつげつる...
「そ」...強調の係助詞「そ」、上代では「ぞ」ともいう
「つげ」...他動詞ガ行下二段「告ぐ」の連用形、知らせる、伝える
「つる」...完了の助動詞「つ」の連体形、

係助詞「そ」を受けて、「つ」が連体形「つる」で結ぶ...「係り結び」


【3318】語彙
きかずして...
「きかず」...他動詞カ行四段「聞く」の未然形「聞か」、に
打消しの助動詞「ず」の終止形
「して」...手段・方法の格助詞、~で
...「聞かないで」...

もだもあらましを...
「もだ(黙)」...何もしないでいること、沈黙
「あらまし」...こうありたいという願い、
もとは、ラ変動詞「有り」の未然形「あら」に、
反実仮想の助動詞「まし」の付いた形からと推定されている

なにしかも...
「何しか」...原因・理由に関する疑問に用いて、
...「どうして~か・なぜ~か」...

きみがただかを...
「ただか(直香)」、その人自身、その人の独特の匂いから転じたもの

ひとのつげつる...
「の」は、主語を表す格助詞
「つる」...ここでの連体形「つる」は、係助詞がないので「係り結び」ではない
しかし、連体形で終止している

連体形の終止法を調べていたら、「係り結び」以外に、
詠嘆・余情の表現として連体形で結ぶ「連体形止め」があった
...「人は、告げたのだろう...」...





   
  「万葉の夫婦愛」...現代人も適わない...
 「問答歌の謎...」

歌意】3328

つぎねの生えた険しい山道を
よそのご主人は、馬で行くのに
私の夫は、歩いて行くので、
それを見るたびに、ひどく泣けてきてしまいます
その、夫が馬を持っていないことを思うと
心が痛み、どうすることもできません
ですから、私の母が形見として残してくれた、この「真澄鏡」と
蜻蛉領布とをともに抱えて、持って行き
どうかそれで馬を買ってください、我が夫よ

歌意】3329

泉川の「渡り瀬」、そこが深いのでしょう
夫の旅の衣が、びっしょり濡れてしまうのでしょうか...

歌意】3330

この真澄鏡、私が持っていても、その効力もありません
役に立っていないのです
あなたが歩いて、どんなにか苦労して行かれるのを見ると...だから...

歌意】3331

もし私が、馬を買ったならば
我が愛するお前が、歩くことになるだろう
ええい、こうなったら、どうなってもいいではないか
たとえ、石を踏んで辛くても
私は、お前と二人で歩いて行きたいのだよ
 
この「問答歌」...以前、「問答歌」の解釈、
あるいはその作歌の成立について書いたことがある
必ずしも、「問歌」と「「答歌」が同時期に同局面で交わされるものではないと...
しかし、これが編纂の力なのか、いや実際に今夜の「問答歌」は上手くできている...
とは思うのだが
よく見れば、【反歌3329】が、これは付けたしか、とも思えてしまう
私の理解している「反歌」は、少なくとも「長歌」のエッセンスを詠うものであって
このように、一見脈絡のないような「反歌」ではなかったと思う

だから、本当の「反歌」は、こっちの「或本歌」だろう、と編者がいうのか
それとも、意図してこうした配列にしたのか...

少なくとも、編者にはそのことに気づいているはずだ...と思う
しかし、どうしてなのだろう
一旦組み上げられた「問答歌歌集」のようなものがあって
そのまま万葉集に組み入れたのだけれども、どうも「反歌」が違うようだ、しかし...
と、その程度の校訂だった、ということなのだろうか

あるいは、私には理解の及ばない、真の「意図」があるのかもしれない

仕事する自分の夫と、他所の家の大黒柱である主人との比較
今まさに現代的な解釈で、万葉時代も、本当にこうだったのだろうか、と
少々驚きもある
そんな我家の内情を赤裸々に歌うだけではなく
最後には、優しい夫の「どんな苦労をしても、二人で歩いて行きたい」という歌

これが、千三百年前の人々の多くの暮らし振りであるなら
和歌に「雅」とか「切なさ」ばかりを求めるのは、やはり...と、ためらわれる

しかし本来は、非日常から離れて「歌の世界」に浸る喜びも棄てがたい
ここで、私の「万葉集」に求めるもの、求めたいものを披露しても仕方ないが
確かに、私が万葉集に触れたとき、同じように古今集などの「和歌」にも惹かれた
しかし、あれから...三十年以上が過ぎた
正直に自分を見詰めれば、何故万葉集なのだ、と...今なら言える

それは、いわゆる平安期の歌人のような、洗練された詠いっぷりではなく
「歌人でない者」の率直な詠いっぷりに惹かれているのだ、と思う
現代において、万葉作者が、実際にどんな「ことば」で詠んでいたのか知りようがない
確かに、平安期以降から近年まで、多くの国文学者や歌人が「訓」を付ける
しかし、最終的に決め手になるのは...その時代の権威者である「大学者・大歌人」の
もっともらしい研究成果、という「確定判決」で、それが今日まで影響している

原文を、私には読めやしない
だから、原文併記はするものの、実際に「歌」を感じるのは
訓を付けられた...言ってみれば「訳された歌」ということになる
万葉集のオリジナルが存在しないで、その「古写本」だけが残り
それとて、全歌が揃うのはほんの僅かな系統
その古写本を元に、そこからまた多くの「訓」の解釈の系統があり
結局、何も知らないで「万葉歌」を読んでいるうちは気にもならないが
幾つかの注釈書に触れることになると...途端に、「万葉集」は難しくなる
これは、本当に「歌」なのだろうか...と、極端めいた感想まで持つことがある
漢字の羅列から、そこに五七調を(古今以降は、七五調が中心)読み取ろうとするが
万葉時代の、あるいはそれ以前の「古歌集」の段階で
そうした「五七調」が確立されていたとは限らないし
違ったリズムもあったかもしれない
しかし、そこに朗詠するというような「謡」があったのは間違いないと思う

短歌を、平文で読んでも、そこに心を響かせるものはない
たとえ、歌人でない、普通の人が詠むにしても
それこそ、鼻歌のように口ずさんでいたのではないか

そうした「歌の原点」に万葉集があるとすれば...
これは、本当に厄介なことだが、いずれは「原文」から歌ってみる必要も出て来る
今の私には、雲を掴むような話だが
やはり、いずれはそうなるだろう...

今しきりに「古語辞典」をたよりに、まず「訓じられた万葉歌」を読んでいるが
その「古語辞典」に、誤訳がないことが大前提であり
その先の、私の解釈...品詞におぼつかないことがあっても
少なくとも、それは今の私の実力だから
いずれは、また読み直しになるだろうし...その時でも、修正するのではなく
かつては、こんな風に解釈していたのか、と自分を知ることも必要だし
多くの注釈書に惑わされないだけの理解力も身に付けたいし...

その先に、「歌人」としては評価されなくても
誰もが「詠えた時代の歌」を、本当に理解できるようになれるだろう

以前、こんな文言に触れたことがあった

ある万葉歌を採り上げ、そのあまりにもストレートな表現に
もし、古今集の作者がこの歌を採り上げたら、まず笑い転げるだろう、と
別な表現で、実際に詠いたいものを表現する
誰でも解るような「語」は使わない...というような意味だった

確かに、「プロ」としての「歌い手」ならばそうだろう
しかし...万葉集の半分以上は、作者不詳歌...
あるいは、素人の私でさえ、これが空前の歌数を誇る「万葉集」の中の一首なのか...
と、「質より量」でその存在を誇示しているかのような気さえもする
しかし、それも...今では「だからこそ、万葉集は素晴らしい」と思える
普通の人の、普通の歌声を聞くことが出来るのだから...


今日、明日香の図書館で、一冊の本と向き合った
百二十頁ほど...コピーしてもらった
明日は、その本に絡めた「万葉歌」を書こう






掲載日:2013.07.05.


 問答
 次嶺經 山背道乎 人都末乃 馬従行尓 己夫之 歩従行者 毎見 哭耳之所泣 曽許思尓 心之痛之 垂乳根乃 母之形見跡 吾持有 真十見鏡尓 蜻領巾 負並持而 馬替吾背
 つぎねふ 山背道を 人夫の 馬より行くに 己夫し 徒歩より行けば 見るごとに 音のみし泣かゆ そこ思ふに 心し痛し たらちねの 母が形見と 我が持てる まそみ鏡に 蜻蛉領巾 負ひ並め持ちて 馬買へ我が背
 つぎねふ やましろぢを ひとづまの うまよりゆくに おのづまし かちよりゆけば みるごとに ねのみしなかゆ そこおもふに こころしいたし たらちねの ははがかたみと わがもてる まそみかがみに あきづひれ おひなめもちて うまかへわがせ
語義歌意】  巻第十三 3328 問答 作者不詳
 
 反歌
 泉川 渡瀬深見 吾世古我 旅行衣 蒙沾鴨
 泉川渡り瀬深み我が背子が旅行き衣ぬれひたむかも
  いづみがは わたりぜふかみ わがせこが たびゆきごろも ぬれひたむかも
語義歌意】  巻第十三 3329 問答 作者不詳
 
 或本反歌曰
 清鏡 雖持吾者 記無 君之歩行 名積去見者
 まそ鏡持てれど我れは験なし君が徒歩よりなづみ行く見れば
  まそかがみ もてれどわれは しるしなし きみがかちより なづみゆくみれば
語義歌意】  巻第十三 3330 問答 作者不詳
 
 馬替者 妹歩行将有 縦恵八子 石者雖履 吾二行
 馬買はば妹徒歩ならむよしゑやし石は踏むとも吾はふたり行かむ
  うまかはば いもかちならむ よしゑやし いしはふむとも あはふたりゆかむ
 
語義歌意 巻第十三 3331 問答 作者不詳
 右四首 


 3328】語義 意味  活用 接続 
 つぎねふ[枕詞]  地名「山城・山背(やましろ)」にかかる
  ツギネ(花筏)の生える山陰の意らしい
 ひとづま[人夫・他夫]  他人の夫 [人妻・他妻]は、他人の妻
  既婚の女性が、他人の夫をさしていう
 うまよりゆくに
  より[格助詞]   [手段・方法]~で、~によって  連体形に繋がる
  に[接続助詞]  [逆接]~のに   連体形に付く
 おのづまし
  おのづま[己夫]  自分の夫 [己妻]自分の妻
  し[強意の副助詞]  強調の意  体言・連体形に付く
  「~し~ば」で条件を表す句に付く、ここでは次句「ゆけば」  
 かちよりゆけば
  かち[徒歩]  乗り物に乗らず歩いて行くこと 
  より[格助詞]  既出 [うまより]
  ゆけ[自カ四・行く]  通り行く、進み行く  已然形  接続助詞「ば」に繋がる
  ば[接続助詞]  [順接確定条件]~ので、~だから 
 みるごとに 
  ごと[接尾語]  [-ごと]~たびに 
   体言に付くが、ここでは動詞「見る」の連体形で「準体言法」として接続している
  に[格助詞]  [状態]~に   体言・活用の連体形に付く
 ねのみしなかゆ 
  ね[哭・音]  聞く人の耳にしみじみと訴える音、響き
  のみ[副詞]  [用言の強調]ひたすら~である 
  「のみ」を含める文節が修飾している用言を強める ここでは、「泣かゆ」
  し[副助詞]  [強調]  体言・副詞などに付く
  なか[自カ四・泣く]  涙を流す、声をあげる  未然形 
  ゆ[助動詞・ゆ]  [自発]  終止形  未然形に付く
 そこおもふに
  そこ[指示代名詞]  [中称]場所:そこ、事物それ、そのこと
  おもふ[他ハ四・思ふ]  思う、回想する  連体形 
  に[接続助詞]  [恒常条件]~のときはいつも  連体形に付く
 こころしいたし 
  (こころ)し[副助詞]  [強調]  体言・副詞などに付く
  いたし[形容・痛し]  [精神的に]つらい  終止形 
 たらちねの[枕詞]  保護者としての母、[足乳ネ]の意
 ははがかたみと 
  が[格助詞]  [所有・所属]~の  体言・活用の連体形に付く
  かたみ[形見]  昔の思い出となるもの、遺品
 わがもてる 
  もて[他タ四・持つ]  身に付ける、所有する  已然形 
  る[助動詞]  [完了・存続]  連体形  四段の已然形に付く
 まそみかがみに
  まそみかがみ  「真澄鏡」、「まそ鏡」・「真澄の鏡」に同じ
   綺麗に澄み、はっきり映る鏡 
 あきづひれ  蜻蛉の羽のように透ける領布
  領布は首にかける長布でもと呪具、後装飾、アキヅは蜻蛉の古名
 おひなめもちて
  おひ[他ハ四・負ふ]  背負う  連用形 
  なめ[他マ下二・並む]  並べる  連用形 
  もち[他タ四・持つ]  手に取る、身に付ける  連用形 
  て[接続助詞]  [単純接続]~て、そして
 うまかへわがせ  
  かへ[他ハ四・買ふ]  買う  命令形 
   馬は当時280束/一頭、概算で精米840kgに相当する、高価でなかなか買えない
  わがせ[我が背]  自分の夫のこと、私の夫よ 
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 3329】語義 意味  活用 接続 
 いづみがは  今の木津川
 わたりぜふかみ 
  わたりぜ[渡り瀬]  歩いて渡ることの出来る浅瀬
    当時泉川を舟によらず渡るには、奈良に最も近い現・木津町の渡河が一般的だった
 ふかみ[形容ク・深し]  (水深が)深い  語幹に「ミ」・ミ語法
  ミ語法は、原因・理由を表す用法(上代)
 わがせこが  私の夫が 
 たびゆきごろも  旅の服装 
 ぬれひたむかも 【難訓・濡れにけるかも】など
  ぬれ[自ラ下二・濡る]  水に濡れる  連用形  
  ひた[自タ四・漬つ・沾つ]  水に漬かる、濡れる  未然形
  む[助動詞]  [推量]~(の)だろう  連体形  
  かも[終助詞]  [疑問]~だろうか 
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 3330】語義 意味  活用 接続 
 まそかがみ[真澄鏡]  既出[ますみかがみ]
 もてれどわれは
  もて[他タ四・持つ]  身に付ける、所有する  已然形 
  れ[助動詞・り]  [完了・存続]  已然形 
  ど[接続助詞]  [逆接の確定条件]~けれども    已然形に付く
 しるしなし
  しるし[験]  霊験、効き目
 きみがかちより  既出【3328】 
 なづみゆくみれば
  なづみ[自マ四・泥む]  行き悩む、難渋する、悩み煩う  連用形  
  みれ[他マ上一・見る]  目にする、目に留める  已然形
  ば[接続助詞]  [順接の確定条件]~だから  已然形に付く
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 3331】語義 意味  活用 接続 
 うまかはば
  かは[他ハ四・買ふ]  既出【3328】  未然形
  ば[接続助詞]  [順接の仮定条件]~だったら  未然形に付く
 いもかちならむ
  かち[徒歩]  既出【3328】
  なら[助動詞・なり]  [断定]~である、~だ  未然形  体言に付く
  む[助動詞]  [推量]~だろう    連体形  未然形に付く
 よしゑやし[縦しゑやし]  ええままよ、たとえどうあろうとも
 きみがかちより  既出【3328】 
 いしはふむとも
  とも[接続助詞]  [逆接の仮定条件]たとえ~しても  終止形に付く
 あはふたりゆかむ
  ゆか[自カ四・行く]  通り行く、進み行く  未然形 
  む[助動詞]  [意志・意向]~のつもりだ   終止形  未然形に付く
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 「めぐり逢い」...ことばは響き合う...
 「いつまでも...」

歌意】3180

いとしいあの人を、こうして遠くから見てばかりいるのだろうか...
まるで越の海の「こがた」に浮ぶ、近寄り難い島でもないだろうに...

歌意】595

闇夜の中で、姿も見せず鳴く鶴のように
遠くで鳴くその鳴き声に
心を震わせて聞き続けながら、時を過ごしています
逢えもしないのに...
 
少なくとも、万葉集中の配列では、この二首の歌は「出逢う」ことはなかった
[595]歌は、笠女郎が、大伴家持へ贈った歌だし
[3180]歌は、作者不詳の「羈旅歌」だ
敢えて探そうとしない限り、決して交える歌ではない

この春に、私が笠女郎のことに興味を持ち
集中的にその歌群を乗せ、勿論この[595]歌も採り上げてはいるが
通り一遍の解釈に過ぎなかった
それもそのはずだ、
家持からの返歌を意識せずに、私はこの歌を読んでいた

ところが、吉田金彦著「秋田城木簡の秘めた万葉集」に触れたとき
大伴家持の終焉の地が出羽国であるかどうかはともかく
その死の直前までの、笠女郎との関わりが述べられた作品であることに
大変心を騒がせたものだ
実際の研究成果は、これからも発表されるだろうし
すでに論文が起こされてからも数年が経過しているので
あるいは、現段階での理解は得られていないのかもしれない
しかし、ことは「史実」ではなく...「心で語る歌」だということを
改めて、この氏から教わった
現在九十歳くらいの高齢の方だし、近況も知らない
しかし、10年近く前の出版で、この「家持と笠女郎」に関する
大変な調査への意欲を目にしたとき...何とか、「その想い」は成就して欲しい
そう願わなければ、私自身が納まらなかった
まだ、この本の全容を読んでいないし、気軽に読み流しも出来ないので
しばらくは時間もかかるだろうが、その間は
十分、新たな「二人の足跡」を、見ていけるだろう


ここで、笠女郎のこの歌[595](2013年5月2日)を採り上げたときの再掲をしてみる

 闇の夜に鳴くなる鶴の外のみに聞きつつかあらむ逢ふとはなしに
闇夜に鳴く鳥のように、姿の見えないあなたの声を
遠くに聞くばかり
逢えもしないのに...
噂ばかりで、逢いにも来てくれないのですか
 巻第四 595 相聞 笠女郎

問題は、最後の「意訳」になる
こんな風に、私が感じたのも
二人が逢うことのできない「障壁」を持っているにしても
その「壁」を乗り越えられるのは、家持の方だから
私は、間投助詞「に」に、言外に響く笠女郎の「切ない恨み」をこめてみた
しかし、仮に掲題の二首が、見合った「相聞」だとすれば
家持は、逢いに行かないのではなく、行けないのだ
...それは、子潟に浮ぶ、近づきがたい「島」のような「笠女郎」だろうし
笠女郎もそれは十分心得ている
だから、逢えもしないのに、というのは
決して恨みではなく、そんな環境でも、私は想い続けているんですよ、と言う
これが、若い時代の相聞ではなく
「越の海の子難」から推測できる、家持壮年期以降の詠歌だとしたら...
実に味わい深い歌になっていると思う
吉田金彦氏は、この「子難」を、秋田の八郎潟と見立てている
それは本書に関係なく、他のところでの発言だったと思うが
仮に、家持の歌だとすれば、その公算も大きくなるだろうし
氏の言うように、万葉集の北限なのかもしれない
そして、その前提となるのが...木簡の万葉仮名...万葉歌らしき歌語

昨日の明日香の図書館のコピー...一気に読むのが惜しい気がしている
少しずつ読んで、長くこの心地よさを味わっていたいものだ






掲載日:2013.07.06.


 羇旅發思
 吾妹兒乎 外耳哉将見 越懈乃 子難懈乃 嶋楢名君
  我妹子をのみや見む越の海の子難の海の島ならなくに
 わぎもこを よそのみやみむ こしのうみの
 こがたのうみの しまならなくに
語義歌意】  巻第十二 3180 羈旅 作者不詳
 
 (笠女郎贈大伴宿祢家持歌廿四首)
 闇夜尓 鳴奈流鶴之 外耳 聞乍可将有 相跡羽奈之尓
   闇の夜に鳴くなる鶴の外のみに聞きつつかあらむ逢ふとはなしに
  やみのよに なくなるたづの よそのみに
 ききつつかあらむ あふとはなしに
語義歌意】  巻第四 595 相聞 笠女郎


 3180】語義 意味  活用 接続 
 わぎもこを
  わぎもこ[我妹子]   「わがいも」の転じた「わぎも(我妹)」、「こ」接尾語
   男性から妻・恋人などの親しい女性をいう語
  を[格助詞]  [対象]~を   連体形に付く
 よそのみやみむ 
  よそ[(余所)]  [外]という字は読まないが、遠い他の所と言う意
   [外]別記
  のみ[副詞]  [限定]~だけ、~ばかり 他、[強調・用言の強め]
   「のみ」別記
  や[係助詞]  文中に用いられる場合、「疑問」を表す
  み[他マ上一・見る]  目にとめる、眺める  未然形
  む[助動詞・む]  [推量]~だろう  連体形  「や」の係り結び
 こしのうみの
  こしのうみ[越の海]  越前から越後にかけての越の国の沿岸部
 こがたのうみの
  こがたのうみ[子難の海]  北陸地方の海 [子難の海]別記
 しまならなくに
  なら[助動詞・なり]  [存在]~いる  未然形  体言などに付く
  なく   ないこと
   打消しの助動詞「ず」の未然形の古形「な」に名詞を作る接尾語「く」
   なくに  ~(し)ないことだなあ、~(し)ないことだのに
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 595】語義 意味  活用 接続 
 やみのよに
  やみのよ[闇の夜]  真っ暗な夜、「闇の夜の錦」の略  
  に[格助詞]  [位置]空間的な場所を表す、~に・~で
 なくなるたづの 
  なく[自カ四・鳴く]  声を出す、鳴く  終止形 
  なる[助動詞・なり]  [推定]~のが聞こえる  連体形  体言に付く
  たづ[鶴・田鶴]  鳥、多く歌語として用いられる
  の[格助詞]  [連体修飾語]性質・状態を表す、~のような
 よそのみに  別記
 ききつつかあらむ
  きき[他カ四・聞く]  聞いて心に思う  連用形 
  つつ[接続助詞]  [反復・継続]~し続けて  連用形に付く
   上代では多く用いられたが、中古以降は、次第に「ながら」に代わる 
  か[係助詞]  文中に用いられる場合、「疑問」を表す   
  あら[自ラ変・あり]  時が経過する、過ごす  未然形
  む[助動詞・む]  [推量]~だろう  連体形  「か」の係り結び
 あふとはなしに
  あふ[自ハ四・逢ふ]  出逢う、対面する  終止形  
  と[接続助詞]  [逆接の仮定条件]~ことも 
  は[係助詞]  [否定の内容]否定語に続いて、内容をはっきりさせる
  なし[形容ク・無し]  ない  終止形   
  に[間投助詞]  [感動・強調]~になあ  体言に準ずる語に付く
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 【別記】

 よそ[(余所)]/原文「外」
万葉集には、「外」の表記が四十三首ある
その中で「よそ」と訓じているのが三十九首...他は「ほか・と」
この数字は、若干の違いもあると思う
何しろ、私の検索も...あまりにもアナログ過ぎて...
そして、その中でも「よそのみ」という用例は、十一首しかない
作者の明記されているのは、丹比国人・笠金村・笠女郎・大伴家持の
それぞれが一首ずつで、残り七首は作者不詳歌だ
そこで、気になるのが、こうした少ない用例だと
同じ作者が何度か使うことも自然に思われる、ということだ
掲題歌の「作者不詳歌」...これに目を付けたのが、左頁で述べる
今日の「テーマ」となる、秋田城出土木簡の万葉仮名の著者、吉田金彦氏

最も、氏は「外(よそ)」の頻度には言及されておらず
笠女郎との「相聞歌」がらみで採り上げられている

 のみ
私がこの解釈に悩んだのは、
一般的にこの「のみ」という語意がかかるのは
「外(よそ)」にであり、外からばかりという、意味になる
しかし、「のみ」には他にも用法がある
「のみ」を含む文節が修飾している用言を強める、という
この文節の用言とは「見る」ではないか
すると、「のみ」がかかるのは「外」ではなく
「見る」を強調することになる
「ただただ、ひたすら見るばかり」と...
どんな歌意にすべきなのかは、全体の語意を理解しなければできないが
その「懸命さ」が置かれる視点で、やはり歌意も変ってくると思う

 こがたのうみ
越の沿岸との推測は、「越の海の」で十分過ぎるほどだが
少なくとも、それだけでも越中時代の家持か、とも思わせる
勿論、そうした先入観は禁物だ
しかし、「こがた」と言う語が、万葉集では二首しかない
海の潟...万葉集でも、もっと多く詠まれていそうな「歌語」のような...
しかし、もう一首の「粉潟(こがた)」と同じか、との注釈もあるが
この歌の方は、その手掛かりらしきものもなく
不明となっている
しかし、ここで「越の海の子難」と耳にした以上
もう一つの「粉型」は、「紫の粉潟の海」となっている...
これは、筑紫のことではないだろうか
二首しか現れない地名で、一首にはその地方の手掛かりがあるのなら
もう一方にも、あってもおかしくない
もっとも、筑紫の潟とはどの辺りか、と聞かれても、
さっぱり答えられないけど...その「紫の」は、枕詞とされている


 
 「うもれずに」...こころのこし...
 「よみがえれ...」
歌意】1455

水鳥の羽の色のような、春山の色合い
そのように、はっきりとしない様は、
もどかしくて、不安で...
あなたのそんな気持ちに
私は、こころ穏やかに過ごせないのですよ.

この歌、5月6日に解釈したときは

 水鳥の羽色のような春山の
そこに立つ霞のように、私たちのことが
覚束なく思えてしまいます


歌意】4518

水鳥の羽のような色をした青馬を
今日見られる人は
この上なく、またとない機会を得られたでしょう
 


この二首は、決して並べて詠まれるような歌ではない、と思う
しかし、ここで敢えて並べたのは...「大伴家持、笠女郎」の絡み...

笠女郎から贈られて来る歌に対し、
家持は冷たいと思われるほど返歌もなく
残した僅か二首にしても、それが別れたあとの「想い」を詠った
悔恨の...逢うべきではなかった、という悔恨の歌であることは承知していた
実際はそうではない、と思いながらも
それを具体的に思わせる何物も、私は持ち合わせていなかった
ただただ、心情的に、家持は何らかの形で、笠女郎へ報いている
あるいは「隠れた」返歌もあるはずだ、と...

そして、数日前から目にしている吉田金彦氏の著書
その影響で、今夜もまた、思わぬところでこの二首を並べることが出来た

笠女郎の相聞は、紛れもなく家持への想いを詠ったもの
家持の煮え切らない、もどかしさを、たしなめるような歌だ

しかし、この家持の歌は、まったく詠まれた環境が違う
恋の歌でもなく、比喩歌でもない
笠女郎に限らず、これが女性...想い人への歌だ、などとはいえない
では何故...
吉田氏の受けた感触では
この家持の歌は、まさに笠女郎の歌を意識し...少なくとも心象に残っており
それを頭に使って詠われたものだろう、という
この家持歌、天平宝宇二年(758年)正月に宴席で詠まれている
笠女郎の詠歌の年代が定かではないので、どの程度の時間的な開きがあるか...
家持四十歳の詠歌

二人の出逢いが...今の私には、家持が坂上大嬢と結婚する前後だと思うので
笠女郎の先の歌もその頃とすれば、この家持の歌は
それから約二十年ほど後に...笠女郎の「歌」を意識したものとなるだろう
勿論、歌にはよく使われる慣用句のようなものもあるので
これも偶然かもしれないが
しかし、ひとたび二人の関係を「特別なもの」と捉えると
すべてに何かの関係を見てしまうものだ
しかし、それは決して悪いこととは思わない
学説的、研究的には、いい方法ではないにしても
「歌」という概念で「関係」を見ることは
こうした「人の自然なつながり」めいた心情も必要なのだと思う

まだ読み終わらない吉田氏の本が、どんな結末へと向うのか楽しみだが
その過程で、私にはいくつもの疑問が芽生えている
それが、これから読み進めていく中で、解決されるのか
あるいは、疑問のままで残るのか...それは解らない

吉田氏は、笠女郎が越中まで家持を追いかけて行ったと主張する
彼女の詠歌における地名を、古地図を手掛かりに、通説へ挑んでもいる
その解説も見事だとは思うが...
私には、そこまで出来る女性が、はたして当時の都にいたのか
それも疑問の一つだ

最終的に、吉田氏は、家持が出羽の国で死ぬことを頭に置き
そこから出土した木簡の万葉仮名を手掛かりに、二人の恋の旅路を描かれる
いい話だと思う
でも、家持の終焉の地が出羽で、その時にも、笠女郎の影が残るとしたら
二人の「付き合い」は、いったいどれほどの「つきひ」になるのだろう
785年、六十八歳で没した家持

その時点でも、家持の心に「笠女郎」が居たとすれば...
759年以降、歌記録のない家持には、心情的に寄り添える女性として
私もまた、笠女郎が伴侶であったなら...あって欲しい、と想像も出来る
私には、そう思うことでしか、歌を読み通すことは出来ないが
吉田氏の研究成果が、学会に認められようと、あるいは無視されようと
...その「人への想い入れ」に、同調したい

はやる気持ちを抑え、読んでは立ち止り...また読む

そんな日がしばらく続きそうだ...

掲載日:2013.07.07.


 笠女郎贈大伴家持歌一首
 水鳥之 鴨乃羽色乃 春山乃 於保束無毛 所念可聞
  水鳥の鴨の羽色の春山のおほつかなくも思ほゆるかも
 みづどりの かものはいろの はるやまの おほつかなくも おもほゆるかも
語義歌意】  巻第八 1455 春相聞 笠女郎
  
 水鳥乃 可毛能羽能伊呂乃 青馬乎 家布美流比等波 可藝利奈之等伊布
   水鳥の鴨の羽の色の青馬を今日見る人は限りなしといふ
  みづとりの かものはのいろの あをうまを けふみるひとは かぎりなしといふ
左注】右一首為七日侍宴右中辨大伴宿祢家持預作此歌 但依仁王會事却以六日於内裏召諸王卿等賜酒肆宴給祿 因斯不奏也 
語義歌意】  巻第二十 4518 大伴家持


 1455】語義 意味  活用 接続 
 みづどりの[枕詞・水鳥の]  水辺に棲む鳥の総称、鴨やおしどり、など 
 かものはいろ[鴨の羽色]   
   まがもの雄は、青頚とも呼ばれ頭と頚、翼が光沢ある濃緑色をしている
 おほつかなくも
  おほつかなく  [形容ク・おほつかなし]の連用形
   はっきりしない、心配だ、不審だ、もどかしい、待ち遠しい、など 
 も[終助詞]  [感動・詠嘆]~よ、~なあ  文節の種々の語に付く
 おもほゆるかも
  おもほゆる[自ヤ下二・思ほゆ]、自然に思われる  連体形
   「四段・思ふ」の未然形「おもは」に上代の「自発の助動詞・ゆ」の付いたもの
  かも[終助詞]  [詠嘆・感動]~であることよ  連体形に付く
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 4518】語義 意味  活用 接続 
 あをうまを
  あをうま[青馬]  灰色の馬、後には「白馬」とも書く
 かぎりなしといふ
  かぎり[限り]  限度、極限、はて、(命の)終り、ほど、みな、機会、ばかり
  なし[形容ク・無し]  ない、またとない、比類がない
  と[格助詞]  [引用]~と
   「言ふ・問ふ・思ふ・知る」などの内容を示す、言い切りの形に付く
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左注
右の一首は、七日の侍宴のために、右中弁大伴宿禰家持、かねてこの歌を作れり。ただ仁王会の事に依り、却りて六日を以ちて、内裏に諸王卿などを召して酒を賜ひ肆宴し、禄を給ひき。これに因りて奏さざりき。






 

 


 「近つ飛鳥を歩けば」...当麻路...
 「二上見し」

歌意】2189

大坂の峠を、今私が越えて来ると
二上山の黄葉が、時雨に流されるように...流れ散る
降り続ける時雨よ...


歌意】2214

目の前の飛鳥川に
もみぢの葉が流れている
あの葛城山のもみぢ...今盛んに散っているのだろう


歌意】2676

二上山に隠れる月のように
その姿を見られなくなるのは、とても辛くて惜しいことだが
いとしいあの娘の手枕も久しくしていない此の頃だから...
 


この三首には、何のつながりもない
初めの二首は「黄葉を詠う」歌であり、それが「二上山」と河内の「飛鳥」で並ぶ
そして、三首目は、「二上山」に隠れる月を「惜しむ」のと
久しく逢っていない「あの娘」に逢える喜びの対比

歌それぞれに脈絡はなくても、共通しているのは「二上山」周辺の当麻路

前二首では、作者がどちら側から峠を越え向っているのか解らないが
そこが曖昧なこととしても、
峠越えの「うらさびしさ」には、変わりない
そこに見る「黄葉」は、片や時雨に流され...
そして、葛城山の黄葉も...飛鳥川に流され...

ひょっとして、同じ作者なのかもしれない
黄葉を詠う場所として、この二上山周辺を選んだ
そこは、難波の都と、飛鳥の都を分つ峠
賑やかさ、華やかさから一番遠のいているところになるだろう

今でも、大阪に住んでいる私は、よくこの一帯を車で走るが
高速道路では決して味わえない峠独特の香りがする
時折、車を止めて、二上山の周辺を歩くと
一山を越えることが、こんなに景観への期待をそそるのか、と思えてしまう
それほど、峠越えは...「うらさびしさ」に満ちている

どこでも見られるような「黄葉」ではなく
作者が苦労して越えて来た「峠の黄葉」だからこそ
この歌には響くものがあるのだろう

三首目の歌は、「二上山」と「月」
「二上山に隠れる月」を見えるのは、難波側にいることになる
その月を見られなくなるのは、飛鳥を離れて、難波側に行くからなのか...
綺麗な月を見通せなくなるのは、残念なことだが...
しかし、その難波側には、あの娘が待っている
久しくあの娘の手枕もなかった...月は名残惜しいけど
こうなったら、早くあの娘に逢いたいものだ...

そのような、急にいたたまれなくなって
逢いたい、と思える人がいることは、今も昔も嬉しいことだろう

私が、この一帯の情景を思うとき、どうしても忘れられない人がいる
歴史上には、もっともっと所縁のある人がいるだろうが
私にとっては、一種の「導かれて出会った感」のある女性だ

奈良時代の藤原豊成の娘、中将姫
この女性との初めての出会いが、折口信夫「死者の書」であり
その中での中将姫は、二上山の頂に眠る飛鳥時代の皇子、大津の霊に引き寄せられた
そんな幻想的な物語の主人公・中将姫
「死者の書」を読んだのは、もう何十年も前のことだが
それ以来、私にとっては「中将姫こそがいにしへ人」だった

その想いをずーっと仕舞いこんでいたのが
ある時...東京の小さな劇場での人形劇映画「死者の書」を観たとき
それこそ、居ても立ってもいられずに、当麻寺まで来てしまった
中之坊には「中将姫が剃髪の時、使用した剃刀」が展示されていたが
その真贋はどうでもよかった
この寺が、あの大津皇子に感応した中将姫の魂の行き着いたところ
それだけで十分だった

そこまでなら、一ファンとしての「旅」で終るものだ
しかし、私が驚いたのは...
その後に向った奈良市でのこと
駅から、何気なく「ならまち」界隈を歩いていたら
まさに、「引き寄せられたのは私ではないか、と思えるほどのことに遭遇した

今は、もうその跡しかないが、その時は中将姫の誕生の「寺」が
その「ならまち」にあった
さらに、その先には「徳融寺」という、父・豊成公と中将姫の墓石まであった
まったく偶然の出会いに、この時ばかりは、何か得たいの知れないもの
それは、確かにある、と妙な確信を持ってしまった
実際は、今でもそんな迷信めいた「奇跡」など信じる者ではないが
この時ばかりは...そう、まさに生涯において、「このとき」ばかりは
中将姫に引き寄せられた、と思ったものだ

その当麻寺...久しく行っていない
月を隠す二上山のそばに...近いうち、行かなければ
と、強く思う
 

掲載日:2013.07.08.

 


 秋雑歌
 大坂乎 吾越来者 二上尓 黄葉流 志具礼零乍
  大坂を我が越え来れば二上に黄葉流るしぐれ降りつつ
 おほさかを わがこえくれば ふたかみに もみちばながる しぐれふりつつ 
語義歌意】  巻第十 2189 詠黄葉 作者不詳
 
 
 明日香河 黄葉流 葛木 山之木葉者 今之落疑
   明日香川黄葉流る葛城の山の木の葉は今し散るらし
  あすかがは もみちばながる かづらきの やまのこのはは いましちるらし 
語義歌意】  巻第十 2214 詠黄葉 作者不詳
 
 寄物陳思 
 二上尓 隠經月之 雖惜 妹之田本乎 加流類比来
   二上に隠らふ月の惜しけども妹が手本を離るるこのころ
  ふたかみに かくらふつきの をしけども いもがたもとを かるるこのころ 
語義歌意】  巻第十一 2676 作者不詳 



 2189】語義 意味  活用 接続 
 おほさかを[大坂を] 
  二上山を北廻りで越える坂、今の穴虫峠といわれている
  当時の難波と大和との峠は、北から「穴虫・岩屋・竹内峠」とある
 わがこえくれば  
  こえくれ[自カ変・越え来]  越えて来る  已然形  
  ば[接続助詞]  [順接の確定条件]~すると  已然形に付く
 ふたかみに
  ふたかみ[二上]  [二上山]奈良北葛城郡と大阪南河内郡との境
   また、富山県高岡市北部の山、月と黄葉の名所
  に[格助詞]  [位置]~に、~で
 もみぢばながる
  もみぢば[黄葉]  秋に葉が紅・黄に色づく草木 [左注・もみぢ
  ながる[自ラ下二・流る]  漂いながら行く、流れる  終止形  
 しぐれふりつつ
  しぐれ[時雨]  晩秋から初冬、降ったり止んだり定めなき降る雨
  ふり[自ラ四・降る]  雨、雪などが降る  連用形
  つつ[接続助詞]  [継続]~し続けて  連用形に付く
   和歌の文末に用いられる場合には[余情]をこめる、~ことだ 
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 2214】語義 意味  活用 接続 
 あすかがは[飛鳥川は]
  この飛鳥川は、葛城の二上山に発する [左注・飛鳥
 もみぢばながる[前歌に既出]
 かつらきの[葛城の]  今の奈良県北葛城郡 
 いましちるらし
  いまし[副詞]  「し」は強意の副助詞、たった今、今ちょうど、今こそ
  らし[助動詞・らし]  [根拠のある推定]きっと~だろう  終止形 
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 2676】語義 意味  活用 接続 
 ふたかみに[前歌に既出]
 かくらふつきの
  かくらふ[隠らふ]  [上代語]見え隠れする、ずっと隠れている
  [成立ち]四段「隠る」の未然形「かくら」に上代の反復・継続の助動詞「ふ」
 をしけども 
   しけ[形容シク・惜し]  失うにしのびない、惜しい  已然形
   [形容詞]已然形「-けれ・-しけれ」は上代には「-け・-しけ」もあった
  ども[接続助詞]  [逆接の確定条件]~のに、~だが   已然形に付く
 いもがたもとを
  たもと[手本・袂]  ひじから肩までの部分、二の腕、手枕
  [成立ち]四段「隠る」の未然形「かくら」に上代の反復・継続の助動詞「ふ」
 かるるこのころ 
   かるる[自ラ下二・離る]  (空間的)離れる、(時間的)間をおく  連体形
   和歌では「枯る」と掛詞になることが多い  
   [形容詞]已然形「-けれ・-しけれ」は上代には「-け・もあった
  このころ[此の頃]  近頃、近いうち、間もなく、今頃、今時分
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【左注】
 もみぢ
「紅葉・黄葉(もみぢ)」といえば、草木の葉が赤、または黄に色づくことが主
「紅葉・黄葉(もみぢば)」といえば、その色づいた「葉」のことをいう
 「黄」という色】古語辞典より
 
 飛鳥(wikipedia「河内飛鳥」要約)
大和の国の飛鳥の他に「飛鳥(あすか)」と呼ばれる地域があった
大和の国と区別するために、もう一方の飛鳥を「河内飛鳥・近つ飛鳥」と言われる
所在は、現在の大阪府南河内の羽曳野市東部・太子町辺りをさし、その通称
「近つ飛鳥博物館」が現在あるところで、古墳群の中にその博物館はある
この辺りには、古墳時代から飛鳥時代にかけての遺構・史跡が多い

「近つ」の意味は、大和国の飛鳥(遠つ飛鳥)と比較し、都があった難波からみて
近いか遠いかとするのが通説だが、他に
推古天皇が祟峻五年(592年)に即位して、都が大和国の飛鳥(遠つ飛鳥)に遷されたころ
当時の有力豪族の蘇我氏が、その地盤である河内地方から
大和国の飛鳥に移住したので、
そのため河内国の飛鳥が後に「近つ飛鳥」と呼ばれるようになった、との説

その地域
狭義の河内飛鳥は、大和川・飛鳥川・石川の三川に囲まれた、竹内街道沿道周辺一帯
そこを中心とする文献があるが
広義には、東は二上山の麓から南は石川郡の一部の広い範囲も含まれる
太子町大字太子から大字山田にかけての谷間は、
聖徳太子御廟、孝徳天皇陵(上ノ山古墳)、小野妹子の墓、推古天皇陵(山田高塚古墳)
などといった有力者の陵墓が集中し、通称「王陵の谷」とも呼ばれる


 
 

 「秋萩の野辺」...高円万葉...
 「白毫寺山」
歌意】1609
高円の野辺の秋萩は
このところ見せる夜明けの露に誘われるように
もう咲き始めたのだろうか...

歌意】2125
秋風が、日ましに一段と吹きつのって...
高円の野辺の秋萩が、
散ってしまうだなんて
惜しいことだ...残念でならない

歌意】4321
女郎花や秋萩を踏みしだき
小牡鹿が露を分け入り、鳴きながら進んでいく
これこそが「高円の野」なのだ
 
高円の万葉「古道」といえば、この「秋萩」に詠われるように
萩の名所と言われている
飛火野から新薬師寺、隣の鏡神社まで歩くのは、
今では住宅街と春日大社の古枯れの雰囲気の混ざった、一応「山の辺の道」
確かに、その標識はあるが...狭いその路地裏のようなところを歩き
新薬師寺の所へ出たとき、そこで目の前の視界が一気に拡がる

高円山が視界に入ってくると、さて、ここから「紅葉」の見始めだな、と
しかし、そんな見事な紅葉の時期には、残念ながらまだ一度も歩いていない
いつも、季節が...少しばかりずれている
勿論、それは承知の上での逍遥なので、残念というのもおかしなことだが...

「野の秋萩」と、この一連の歌では詠われているが
私が「萩」に圧倒されたのは、間違いなく「白毫寺」の山門の石段だ
この歌のような、鹿が露を踏みしだいて入ってくるような雰囲気ではない

ただ、白毫寺の周囲を歩くと、特に山の方を歩くと
いたるところに、金網をめぐらせた柵がある
鍵は掛かっていないが、きちんと閉めないと、鹿が侵入して荒らすようだ
そのための柵であることは分かっているが
遠目でその柵を見ると、そこへは行ってはいけないところだ、と勘違いしてしまう
野生の鹿の被害が、あるにしても騒がれることもなく
今でも、鹿との共存がなされているこの地域...
住めば、万葉人のような歌が詠えるのかもしれない

「奈良の三椿」というものを知ったのは、つい最近のことだ
あまりそのような括り方は好きではないので、気にもかけなかったが
やはり、こうやって「いにしへ人」の「声」に触れていると
それが古代からあるのかどうか、というのではなく
現在でも、親しみをこめて残っている...それには敬意を持たないといけないのだろう
そんな、少々自分も成長したのか、と思えるような気になってきている

その三椿、白毫寺の「五色椿」は、何度も何度も見ているし
その隣に孤独に立つ「寒桜」こそ、本当は目当てなのだが
扱い方は、やはり「五色椿」の方が、しっかりしてる...寒桜もいいのに...

三椿の他の二箇所は、伝香寺境内の「散り椿」、東大寺開山堂境内の「のりこぼし椿」
どちらも訪れたところだから、きっと見ているとは思うが
その頃は、こうした草木にはあまり興味もなかったので
見逃しているのか、あるいは、それほど強い印象も持てなかったのか...
今度は、改めて真剣に見てみようと思う

秋萩が咲き始め、そして散り際の「秋風」に想いを紡いで...
そんな二首に続いて、鹿の分け入るように踏みしだく姿...
それが、花にしても獣にしても「野生」の本来の姿には違いない
花や木に、あるいは動物に寄せる人たちの「思惑」など
お構いなしに、「生きるさま」は繋がっている
しかし、本当にそうだろうか...

古代は、手に掛けなくても、いろいろなものは自然と保護されたと思う
しかし、現代では...人は意識して手立てを講じないと、やがて「失う」ものが多過ぎる

歌に残された「人の心」
それが現代であっても、心に響くからと言って
では、同じように今後の千年間...そのまま理解され、人々は感じてくれるだろうか...
その事が、少し気掛かりになってきた

それは、言い換えれば...「万葉集」のような「うたごころ」が
単に「言葉」の資料として残り、そこに「何故人はこの歌に震えるのか」
といった理由は...忘れ去ってしまうのではないだろうか...
そう思うと...まだ「古語」に触れられる今の私は、
実に、幸運だと思えばいいのかもしれない...

高円山は、白毫寺山とも言われているらしい...裏手の散歩道を歩いて
その語感に...納得した
五十年ほど前の、この地の「万葉古道」の書物を読めば
今とはまったく違って、白毫寺など、都の消滅と共に荒れ果てたままだったようだ
とは言っても、平安時代から鎌倉時代にかけての、多くの「重文」があり
見かけは鄙びた「古刹」然とした寺でも...しっかりと管理はされていたと思う

何しろ、あの鄙びた参道の石段...萩に覆われるあの石段こそ
周囲に何もなかった時代を思えば...別世界への入り口に違いなかったことだろう
そんな雰囲気を今でも十分漂わせてくれる...白毫寺山だ


 

掲載日:2013.07.09.

 


 秋雑歌 大伴宿祢家持歌一首
 高圓之 野邊乃秋芽子 此日之 暁露尓 開兼可聞
  高円の野辺の秋萩このころの暁露に咲きにけむかも
 たかまとの のへのあきはぎ このころの あかときつゆに さきにけむかも
語義歌意  巻第八 1609 大伴家持
 
 秋雑歌
 秋風者 日異吹奴 高圓之 野邊之秋芽子 散巻惜裳
   秋風は日に異に吹きぬ高円の野辺の秋萩散らまく惜しも
  あきかぜは ひにけにふきぬ たかまとの のへのあきはぎ ちらまくをしも 
語義歌意】  巻第十 2125 詠花 作者不詳
 
 (天平勝寶五年八月十二日二三大夫等各提壷酒 登高圓野聊述所心作歌三首) 
 乎美奈弊之 安伎波疑之努藝 左乎之可能 都由和氣奈加牟 多加麻刀能野曽
   をみなへし秋萩しのぎさを鹿の露別け鳴かむ高円の野そ
  をみなへし あきはぎしのぎ さをしかの つゆわけなかむ たかまとののそ 
 右一首少納言大伴宿祢家持 
語義歌意】  巻第二十 4321 大伴家持 




 1609】語義 意味  活用 接続 
 たかまとののへのあきはぎ  [左注・高円の野辺の秋萩]  
 このころの  
  このころ[此の頃]  近頃、近いうち、間もなく、今頃、今時分  
  の[格助詞]  [連体修飾語・時]~の  体言に付く
 あかときつゆに
  あかとき[暁露]  明け方の露、夜中過ぎにおく露
  に[格助詞]  [原因・理由]~によって、~より  体言・連体形に付く
 さきにけむかも 
  さき[他カ四・咲く]  咲く  連用形 
  に[格助詞]  [強調]そういう状態であること  動詞の連用形に付く
  けむ[助動詞・けむ]  [過去の原因推量]~たのだろうか  連体形 
  かも[終助詞]  [疑問]~か、~だろうか  連体形に付く
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 2125】語義 意味  活用 接続 
 あきかぜは[秋風は]
  あきかぜ[秋風]
 秋に吹く風  
   和歌では「飽き」かけて男女の愛情のさめるのにたとえることもある
 ひにけにふきぬ
  ひにけに[日に異に]  日ましに、日ごとに 
   [異(け)に]  際立っているさま、特別なさま、まさっているさま  
  ふき[自カ四・吹く]  風が吹く  連用形 
   「他動詞・吹く」は、息や水などを口から吹き出す、笛を吹き鳴らす、など  
  ぬ[助動詞・ぬ]  [完了]~てしまった、~てしまう、  終止形  連用形に付く
 ちらまくをしも  
  ちら[自ラ四・散る]  花や葉が散る  未然形 
  まく[上代語・推量]  [未来の推量]~だとうこと  未然形に付く
   推量の助動詞「む」の未然形「ま」に接尾語「く」の付いたもの  
  をし[形容シク]  惜しい、残念だ  終止形 
  も[終助詞]  [感動・詠嘆]~よ、~なあ  文末、文節末に付く
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 4321】語義 意味  活用 接続 
 をみなへし[女郎花・敗醤]植物の名、秋の七草の一つ、
  山野に自生し、また観賞用として栽培する 夏・秋に黄色い小型の花を傘状につける
  歌では、多くの女性に譬える
 あきはぎしのぎ
  しのぎ[他ガ四・凌ぐ]  押し伏せる、踏み分け進む  連用形 
 さをしかの
   さをしか[小牡鹿]  「さ」は接頭語、牡鹿
   [さをしかの]で「枕詞」もあるが、かかる語は、「入野」(鹿が分け入る野)から
 つゆわけなかむ
  つゆ[露]  草木の葉などに出来る水滴、露
  わけ[他カ下二・分く・別く]  草などを分けて行く  連用形
  なか[自カ四・鳴く]  鳥・虫・獣が声を出す  未然形
  む[助動詞・む]  [推量]~だろう  終止形  未然形に付く
 たかまとののそ[高円の野そ]
   そ[係助詞]  [断定]~だ   体言に付く
   「そ」は上代で使われ、「ぞ」が一般的
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【左注】
 高円の野辺の秋萩
叔母・坂上郎女の別邸が、高円山の西北麓、春日の里にある
この詠歌の時、家持は遷都まもない頃の久邇京におり、
その地から、古京の寧楽を想い、「高円の秋萩」を想い起したのだろう
この歌の前に、坂上郎女が若い頃穂積皇子と結婚し
その二人の間に生れた可能性も伝えられている、大原真人今城
その人の歌が配せられている
あるいは、家持と従兄弟同士に当るかもしれない二人
その今城の歌では、古京寧楽にあって、荒れつつあるその姿を嘆いている



 

 




 「秋萩の旧都」...飛鳥万葉...
 「とき過ぎて」
歌意】1561
飛鳥川が、この丘に流れ廻らせる、その秋萩は
今日のこの雨で、散るのだろうか...
散ってしまうだろうなあ...

歌意】1562
荒れ果てた野で鳴くと言う鶉...
その鶉が鳴くこの飛鳥の旧都の秋萩を
われわれは、こうやって一緒に見ているのか...

歌意】1563
秋萩は、すぐにでも散ってしまいますものを
むなしく、かんざしにすることもなく
お帰りになるのですね
 
明日香村の現在の向原寺が、豊浦宮址、豊浦寺と言われている
明日香地方は、自転車で周る観光客も多く
あちこちに、その自転車の回収場所があって、のんびり歩いたり
そよ風に...明日香風に当たりながら自転車を走らせるのも素敵なところだ

この豊浦寺での宴席歌
詠歌は、丹比国人と沙弥尼の掛け合いになっているが
三首目などは、ちょっと穏やかじゃない歌だ
「僧尼令」には、厳格な処罰規制が書かれていても
実際には、多くの乱れもあったことだろう
それは、「日本霊異記」などにも載っており
それを知り、この歌に接すると...否が応でも、厄介なことを考えてしまう
沙弥とは、受戒前の僧のことを言うらしいので
ならば、まだまだ浮世の楽しさを断ち切れないのだろう...それが、尊いと思うのだけれど
自分で選んだ道なら...自分には厳しくしないと、とつい大凡人の私が説教など...

飛鳥川、豊浦...旧都飛鳥というくらいだから
この時点では、随分うらぶれていた飛鳥だったのだろう...都の面影もなく...
しかし、それも一時のことだと思う
都の賑わいは去っても、本来の「飛鳥」らしい魅力は戻ってくるのではないか
それが、この詠歌の時点かもしれない
旧都を哀れむ歌ではなく、秋萩に寄せての宴会
荒都で詠う歌ではない

荒廃した、捨て去られた想いで旧都を詠う万葉歌は多いが
こうして、旧都の現況に愁いもなく戯れることができるのは
もう、そんな悲しい都ではなく
本来の自然の美しさのぎっしり詰まった「飛鳥」を堪能してのことだろう

ある本で、気に入った文章があった
その主旨しか覚えていないが、たしか...

明日香のどこかに降り立って、そこを毎回起点にして明日香を歩く...

そんなことをいわれていた
まさにその想い、私にも共感できる
私も、明日香を歩くとき、かならず明日香万葉文化館を起点にする
そこからできるだけ歩くことにしている
高松塚も、石舞台も、歩き通せば結構な距離だが
この文化館を起点にすると
たとえその日の歩行距離が少なくとも...少ししか周れなくても、後悔などしたことがない

むしろ、他を起点として歩けば、きっと...
あそこにも行きたかった、などと悔やむ姿を確実に見てしまう

風景はちっとも変わらない
しかし、いつも歩くたびに、新しい明日香を知ることが出来る
えっ、こんなところがあったのか、と...

今度行く時は、向原寺で、この歌を諳んじてみよう
万葉時代の、「静かな戯れが」が、浮んできそうだ

明日香に眠る、万葉の香りを、いつまでも感じることができれば...
  

掲載日:2013.07.10.

 


 秋雑歌 故郷豊浦寺之尼私房宴歌三首
 明日香河 逝廻丘之 秋芽子者 今日零雨尓 落香過奈牟
  明日香川行き廻る岡の秋萩は今日降る雨に散りか過ぎなむ
 あすかがは ゆきみるをかの あきはぎは けふふるあめに ちりかすぎなむ
語義歌意】  巻第八 1561 秋雑歌 丹比国人
 
 鶉鳴 古郷之 秋芽子乎 思人共 相見都流可聞
   鶉鳴く古りにし里の秋萩を思ふ人どち相見つるかも
  うづらなく ふりにしさとの あきはぎを おもふひとどち あひみつるかも 
語義歌意】  巻第八 1562 秋雑歌 作者不詳
 
 秋芽子者 盛過乎 徒尓 頭刺不挿 還去牟跡哉
   秋萩は盛り過ぐるをいたづらにかざしに挿さず帰りなむとや
  あきはぎは さかりすぐるを いたづらに  かざしにささず かへりなむとや 
 右二首沙弥尼等 
語義歌意】 巻第八  1563 秋雑歌 作者不詳 




 故郷豊浦寺之尼私房 [左注  
 1561】語義 意味  活用 接続 
 ゆきみるをかの 
  ゆきみる[自マ上一・行き廻る]進み廻る、行き廻る    連体形 
   ゆき[自カ四・行く]進み行く、通り行く   連用形  
   みる[自マ上一・回る・廻る]まわる、まわりめぐる  連体形
  をか[丘・岡]  土地の小高くなったところ [左注   
 ちりかすぎなむ  
  か[係助詞]  [疑問]~か、~だろうか  連用修飾語に付く
  すぎ[自ガ上二・過ぐ]  通り過ぎる、盛りが過ぎる  連用形
  なむ[合成・助動詞] [完了・ぬ、推量・む]~しまうだろう 連用形に付く 
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 1562】語義 意味  活用 接続 
 うずらなく[鶉鳴く]  [枕詞]鶉は草深い野や古びて荒れた処で鳴くところから 
  「ふる(旧る・古る)」にかかる
 ふりにしさとの
  ふり[自ラ上二・]  [旧る・古る]古くなる、老いる  連用形
  に[助動詞・ぬ]  [完了]~しまう、~てしまった   連用形  連用形に付く
  し[助動詞・き]  [過去]~た、~ていた  連体形   連用形に付く
   にし     ~た、~てしまった [助動詞ぬ・き]の合成   
  さと[郷]  飛鳥古京
 おもふひとどち  
  おもふひとどち  「思ふどち」親しい者同士、気心の知れた者同士 
   [どち](名詞)仲間、(接尾語)名詞について、同類のものをまとめていう語、たち
 あひみつるかも
  あひ[接頭語]  (動詞に付いて) 一緒に、二人で
  み[他マ上一]  目にする、眺める  連用形 
  つる[助動詞・つ]  [完了]~しまう、~てしまった   連体形  連用形に付く
  かも[終助詞]  [詠嘆・感動]~であることよ   連体形に付く
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 1563】語義 意味  活用 接続 
 さかりすぐるを
  さかり[盛り]
 勢いが盛んな様、若い盛り、人として充実している時期
  すぐる[自ガ上二]  [過ぐ]経過する、盛りが過ぎる  連体形 
  を[接続助詞]  [逆接]~のに、~ものを   連体形に付く
 いたづら[形動ナリ]  [徒ら]むなしい、はかない
 かざしにささず
   かざし[挿頭]  頭髪・冠等に草木の花や枝、または金属製の造花をさすこと
   また、そのもも 官位及び儀式によってその花が異なった
  ささ[他サ四・挿す]  [挿す]髪に挿す  未然形 
  ず[助動詞・ず]  [打消し]~ない  終止形  未然形に付く
 かへりなむとや
  かへり[帰り・返り]  [名詞]帰ること、帰るとき
  なむ[係助詞]  まさにそれである、と強調する意を表す 
  とや  [格助詞・と、係助詞・や]
   文末にある場合、「~とやいふ」の略、~というのか、~というのだな
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【左注】
 故郷豊浦寺之尼私房
古郷とは、旧都のことで飛鳥を指す
豊浦寺は、蘇我稲目の創建で、豊浦宮址にあった
尼私房とは、僧尼の居住する房舎のこと、長屋形式の建物を
一間ずつに仕切ったものと言われる
「僧尼令」によれば、僧房に女性を泊めたり、尼房に男を泊めたりすることを禁じ
これを破れば、一泊で十日、五日以上は三十日の苦役の処罰があった
 
 をか
ここの「をか」とは、甘橿丘という 

 


 



 「菜摘の川」...吉野万葉...
 「夏実、夏身、夏箕...清涼」

歌意】378
吉野に流れる、夏実の川...
その川淀に、鴨が鳴いているのが聞こえる
山の蔭に見えないけれど、川淀がちょうど「山淀」のように...なって...

歌意】1740
山が高いので、白木綿の花が咲き
そして、激しく咲き落ちるようなその「夏身」の川門は
いつ見ても、飽きないものだなあ

歌意】1741
吉野の宮滝を通り過ぎ、
夏身の川岸に座り込んで、この清らかな川の瀬を見ていると
何とすがすがしく、爽やかなことか
 
吉野の静けさは、平日歩いてみると確かに実感できる
休日の賑わいが嘘のような静けさだ
勿論、イベントもない季節を歩けば...ひょっとすると貸切の吉野を堪能できる
現に私も一度経験がある
近鉄の終点駅・吉野を降りて、初めて実感した
降車客は、たった一人...
そんな吉野も、賑わいの中を奥へ奥へと歩き進めば
何もサービスを受けられない不便さに遭遇する
でも、それが「吉野」の良さだ、と思う

蔵王堂までは狭い吉野の観光の店先を上り、そこから次第に周辺の山間が見晴らせる
吉水神社、竹林院、そして如意輪寺と歩いたことがある
ここに詠われたような川辺の歌ではないが
山間部を一旦下り、そして雑木の天蓋に隠れるようにして歩くこともある
万葉古道...確かそんなネーミングだった気がするが...

吉野の大滝...その所在にも諸説があるらしく、ここで一般的に「宮滝」としたが
「大滝」の描写の、記録として残るものがある
本居宣長と、貝原益軒


 本居宣長 『菅笠日記』
 岩の上をとかくつたひゆきて、せめてまぢかくのぞき見るに、そのわたりのすべてえもいはず大きなるいはほども、ここら立かさなれるあひだを、さしも大きなる川水のはしりおつるさま、岩にふれてくだけあがる白波のけしきなど、おもしろしともおそろしとも、いはんは中々おろかになりぬべし。


この描写は、凄まじい激し振りをひしひしと伝えてくれる
「おもしろし」とも「おそろし」とも...川の情景を述べる言葉で
「おそろし」というのは、よほどの凄まじい「大滝」なのだろう...
「岩にふれてくだけあがる白波」...波が砕ける
残念ながら、私は吉野の宮滝はまだ見ていない
しかし、この描写に惹かれて...必ずこの目に焼き付けなければ、と思った


 貝原益軒 『和州巡覧記』
 世のつねの滝のごとく高きところより流れ落ちるにはあらず、岩間の漲り沸くことはなはだ見事也。近く寄りて見るべし。遠く見ては賞するに堪えず。


遠くでは、何もならない、近くで見よ、と誘われてしまった
滝は高いところからばかり流れ落ちるのではなく
このように岩間の漲り沸く光景に、万葉人は畏怖の気持ちを抱いていたと思う
人を圧倒するようなスケール観ばかりが詠われるのではなく
その「激しさ」もまた、人の魂を揺さぶるものだ
有無を言わさずに...黙らせるほどの「力」
そんな自然の前に身をおけば、あるいは、歌など詠めないかもしれない
しばらく、すべての思考が止り、目だけが釘付けにされてしまう
何も考えられずに、ただ一点を見詰める...
そんな経験、かつてはあった
しかし、その感動など、時と共に、色褪せもする
だから、またやってくる...その感動に吸い寄せられるように...

のどかな鳥の声を聞き詠じる心も
眼前の漲るエネルギーに圧倒され、声も出せない「力」にひれ伏す心も
その一瞬においては、表現の差はあるものの
時を経て想い起し、言葉を紡いで詠じるとすれば...後者の方が唯一の方法だろう
目の前にしては、何も詠えはしまい...それが情景への感動の深さをいうのだろう

私が秘かに願っていること
初めて「短冊」に記する処として...以前から、この吉野と決めていた
ここで、改めてその意を強くした
私の「短冊デビュー」は、吉野の大滝...を目指して...







掲載日:2013.07.11.

 


 雑歌 湯原王芳野作歌一首
 吉野尓有 夏實之河乃 川余杼尓 鴨曽鳴成 山影尓之弖
  吉野なる菜摘の川の川淀に鴨ぞ鳴くなる山蔭にして
 よしのなる なつみのかはの かはよどに かもぞなくなる やまかげにして 
語義歌意】  巻第三 378 雑歌 湯原王
 
 雑歌 式部大倭芳野作歌一首
 山高見 白木綿花尓 落多藝津 夏身之川門 雖見不飽香開
   山高み白木綿花に落ちたぎつ夏身の川門見れど飽かぬかも
  やまたかみ しらゆふばなに おちたぎつ なつみのかはと みれどあかぬかも  
語義歌意】  巻第九 1740 雑歌 (大倭宿禰小東人)
 
 雑歌 兵部川原歌一首
 大瀧乎 過而夏箕尓 傍居而 浄川瀬 見何明沙
   大滝を過ぎて夏身にそひ居りて清き川瀬を見るがさやけさ
  おほたきを すぎてなつみに そひをりて
 きよきかはせを みるがさやけさ
語義歌意】 巻第九  1741 雑歌 兵部川原 




 378】語義 意味  活用 接続 
 よしのなる[吉野なる]   [左注・吉野]   
  なる[助動詞・なり]  [断定]~にある  連体形  
 なつみのかはの  
  なつみ[夏実][左注]  奈良県吉野郡吉野町菜摘、宮滝から約一キロ上流の左岸
   夏実の川   菜摘付近を流れる吉野川   
 かはよどに[川淀に]     
  かはよど[川淀]  川の流れがゆるく、澱んでいるところ   
  に[格助詞]  [位置]~に、~で
 かもぞなくなる  
  [係助詞]  [強調]が  係結びの (係り)   文末を連体形
  なく[自カ四・鳴く]   [終止形]で、伝聞推定の助動詞「なり」に続く 
  なる[助動詞・なり]  [伝聞推定]のが聞こえる   連体形 (結び)  
 やまかげにして     
  やまかげ  山の陰になること、またそのところ  
  にして  格助詞「に」に副助詞「して」
   [場所]~にあって、~において、~で [時間]~のときに、~で
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 1740】語義 意味  活用 接続 
 やまたかみ[山高み]   山が高いので 
  たかみ[形容ク・高し]、上代では語幹「たか」に「み」をつけて 
  
原因・理由を表す用法がある
 しらゆふばなに
  しらゆふばな[白木綿花]  白い木綿で造った造花、滝や波の白さにたとえる
  に[格助詞]  [比況]~のように
 おちたぎつ 
  おちたぎつ[落ち激つ]  [自タ四・落ち激つ]  連体形
   飛沫をあげて激しく流れ落ちる
 なつみのかはと
  なつみ[夏身][左注] 
  かはと[川門]  川の両岸が迫って、川幅の狭くなっているところ
     転じて、川の渡り場
 みれどあかぬかも 
  みれ[他マ上一・見る]  眺める、目に留める  已然形
  ど[接続助詞]  [逆接の恒常条件]たとえ~てもやはり   已然形に付く
   現にその事実があるわけではないが、その事実が現れた場合でも、必ずその
     事実から予想される事態に反する結果になることを示す
  あか[自カ四・飽く]  あきあきする、満ち足りる  未然形
  ぬ[助動詞・ず]  [打消し]~ない   連体形  未然形に付く
  かも[終助詞]  [詠嘆・感動]~であることよ   連体形に付く
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 1741】語義 意味  活用 接続 
 おほたきを[大滝を]  (吉野の宮滝) 
 すぎてなつみに 
  すぎ[自ガ上二・過ぐ]  通り過ぎる、通過する  連用形 
  て[接続助詞]  [単純接続]~て、そして
  なつみ[夏身][左注]
  に[格助詞]  [位置]~に、~です  
 そひをりて [左注・原文](傍為而) ⇒ (傍居而/古義)
   そひ[自ハ四・添ふ]  そばに寄り付いている  連用形 
   をり[自ラ変・居り]  いる、座っている  連用形 
  て[接続助詞]  [単純接続]~て、そして
 きよきかはせを
  きよき[形容ク・清し]  (風景が)きれいである、清らかである  連体形
  かはせ[川瀬]  川の中の浅瀬、川の流れが速く、浅いところ
  を[格助詞]  [対象]~を
   文末にある場合、「~とやいふ」の略、~というのか、~
 みるがさやけさ
  みる[他マ上一・見る]  目に留め、眺める  連体形
  が[格助詞]  [感動文の主語]~が  連体形に付く
   「が」+形容詞(ク活用)語幹+接尾語「さ」の形の感動文の主語をさす  
  さやけさ[形容ク・さやけし]  澄み切っている、清くすがすがしい  語幹+「さ」
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【左注】
 吉野
奈良県吉野郡吉野町を中心とした一帯の地
集中では、主として吉野離宮のあった吉野川を中心とした、流域一帯をさす
歌中では、「み吉野」とも詠われる
八世紀には当時の吉野地方に芳野監という特別な行政機関が置かれている
この機関は霊亀2年(716年)頃に置かれ、
天平10年(738年)頃まで機能していたようだ
離宮があり、行幸の地でもあった吉野...
その後の南北朝の時代に、再び注目されるようになる
 
 なつみ
「夏身」との表記では、奈良県桜井市の一地名とされる
同市吉隠の北方西ノ谷上方の山、あるいは吉野の「菜摘」と同地など
諸説がある
 
 そひをりて
 西本願寺本の原文では「傍為而」とあり「傍」は「近」の意から「近くして」
と訓じる説もある
万葉集古義の鹿持雅澄は、本居宣長の説いた「為は
の誤り」との説を採用している
 このように、本当の意味での万葉原本が現存しない以上、
注釈書の古写本に依るところが非常に重要で
それは、万葉集を誰がどんな根拠で「この訓」を付けたか、で随分違う
万葉集古義は、それまでの多くの研究書の集大成のようなものであり
基本的には、私も愛用しているが
このように、誰かの説を採用し、
誤写・誤記説の手段をとることも多々ある
それは、ある意味では仕方ないことだろうし...残念でもある
 


 


 「海かぜ」...風にこふ...
 「漕ぎ進む凪か、潮流か」

【歌意】1227

随分沖に出てしまった
海辺に寄せよう...風でも吹いてくれればいいのだが
波さえ立てなければ...
 

海辺に舟を寄せるような「風」を乞うのだから
この海の潮流に、作者は疲れ切っているのだろう
かといって、漕ぐにもバランスに体力を消耗させる荒い波は欲しくない
風が出れば、当然海は波立つ

どちらを選べば楽なのか...
普通なら、少々時間を掛けてでも
波間に苦労することなく、岸に辿り着けることを願うものだが
よほど、参っているのかな

思わぬ沖まで来てしまった
自分で漕いだのでなければ、潮の流れに乗ってしまったのだろう
漁師か...漁に夢中になっている間に、こんな沖まで、と

万葉集の、こうした歌の題材には感心する
仮に漁師の、日常の有り触れたシーンを歌にするなど
そこに何を感じ入ったのか、そのことを考えてしまう

敢えて言えば...考え過ぎではあっても
「風」を頼りにし、「風」もたらす副作用を拒む
もっと、重ねれば
「恋」はしたいが、「恋に苦しむ」のは嫌だ

そんな歌なのかなあ、と一人了解する


 

  

掲載日:2013.07.12.

 


 雑歌 覊旅作
 綿之底 奥己具舟乎 於邊将因 風毛吹額 波不立而
  海の底沖漕ぐ舟を辺に寄せむ風も吹かぬか波立てずして
 わたのそこ おきこぐふねを へによせむ かぜもふかぬか なみたてずして 
(右件歌者古集中出) 
【語義・歌意】  巻第七 1227 雑歌 羈旅 作者不詳




 【1227】語義 意味  活用 接続 
 わたのそこ[海の底]   [枕詞]   
  海の底の奥深いことから、「奥(おき)」の同音で「沖」にかかる
 へによせむ  
  へ[辺]  ほとり、あたり、(沖に対して)海辺
  よせ[自サ下二・寄す]   寄る、近づく  未然形  
  む[助動詞・む]  [仮定婉曲]~ようなよ  連体形
 かぜもふかぬか     
  ふか[自カ四・吹く]  風が吹く  未然形  
  ぬ[助動詞・ず]  [打消し]~ない   連体形  未然形に付く
  か[係助詞]  [疑問]だろうか    連体形に付く
 なみたてずして (波不立而) [左注・原文]   
  動詞「立つ」[左注]    未然形   
      (風・波など)生じさせる、起こす    
  ず[助動詞・ず]   [打消し]~ない  連用形  未然形に付く
  して[接続助詞]  ~の状態で  連用形に付く
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【左注】
 波不立而
原文「波不立而」の訓は諸説あり、古写本は「なみたたずして」
あるいは、「なみもたたずして」とあるが
「万葉集古義」にならって、「なみたてずして」とする
それは、次の「左注」に関連する
 
 動詞〔立つ〕
動詞「立つ」には、〔自動詞・タ行四段〕と〔他動詞・タ行下二段〕がある
いずれも様々な意味を持つ中で、「波」に関する用法を比べると
自動詞では、生じる、起こす
他動詞では、生じさせる、起こさせる

そして、この歌での活用を考えれば、打消しの助動詞「ず」に付くのは未然形なので
自動詞であれば、「立たずして」
他動詞であれば、「立てずして」と訓が変わるのは理解できる

この二つの訓が定訓とされないのは、「立つ」の解釈に影響してくる
波を立てるのが、何によってなのか...ということになる
波を立てずに岸に寄せる...
ここでは、はっきり風に依存していると思う
ならば、「風が波を立てないで吹く」となり
他動詞の、波を起こさせないに通じるはずだ
とすれば、他動詞「立つ」で、訓は「立てずして」になると思うのだが...
 


 


 「ことばの不思議」...助詞を欠く...
 「気づかないことも」

歌意】4199

ほととぎすが、たった今来て鳴き始めた
菖蒲草を蔓にする五月の節句まで
ここを離れることがあるだろか...それはないだろうが...


歌意】4200

我家の門の辺りを、鳴き続けて過ぎるほととぎす
それを聞くと、いちだんと心が惹かれて
いくら聞いていても、飽きることがない


ほととぎすと、うぐいす、それにカッコウ...ひところの私は、よく間違えた
鳴き声だけ聞くと、鶯か霍公鳥か解らないときがある
渡り鳥として飛来するのは知っていたが
端午の節句...五月五日、その節句の日までは...
その頃の飛来なのに
どうして、端午の節句までは、飛び去るなよ、というのだろう
霍公鳥が来て間もなく、端午の節句...いや、その頃の飛来
どうも、歌意の辻褄が合わない
私の理解力の不足がそうさせるのか...
...そうか、旧暦の端午の節句なのか...
それだと、現在では六月初旬頃かもしれない
その頃まで、何処にも行かずに、その鳴き声を聞かせてくれよ、と言う歌なのかな

しばらくしたら、またこの歌に触れてみよう

今夜この二首を掲載するきっかけは
私の愛読書...今のところ、片時も傍から放せない書物...「古語辞典」
その辞典に、「豆知識」のような欄があって、それがまた面白い
その一つに、この二首を例にして、「助詞」のことが載っていた
それが興味深かったので、以下に紹介する

  旺文社全訳古語辞典第三版 古語ライブラリー38
 
 助動詞の使用度数
 大伴家持の歌に、こういうのがある。
A 霍公鳥今来鳴きそむあやめぐさかづらくまでに離るる日あらめや 
B 我が門ゆ鳴き過ぎ渡る霍公鳥いやなつかしく聞けど飽き足らず 
 
 不自然さがどこにも感じられないが、「A」には「毛能波三箇の辞を闕く」と、「B」には「毛能波テ尓乎六箇の辞を闕く」と注記のある歌なのである。すなわち、よく用いられる助詞を用いないで作った歌なのだ。
 赤間淳子の調査によると、『万葉集』での助詞の使用度数は、補読のものを除くと、次のとおりだという。


   5185    2731    1973
   1843    1559    1451
   1418    997    939
 かも  685    420    368
   364  こそ  319    294
 とも  230  ども  209
 
 家持は「A[4199]」では使用度数第六位、第一位、第四位の助詞を用いず、「B[4200]」ではさらに使用度数第五位、第二位、第三位の助詞を用いずに歌を作り上げているのである。
 家持が『万葉集』の編集に大きな役割を果たしていることは確かだが、全巻に渡って助詞の使用度数を調べたわけではあるまい。すぐれた歌人としての直観で、よく用いられる助詞がどんなものであるかを見抜いたのであろう。
 それにしても、使用度数第一位から第六位までの助詞がもれなく捉えられ、その助詞を用いずに「B」の歌が作られているという事実には驚かされるではないか。
 
古語辞典をいつ、どれだけ読んでも飽きないのは
ときおり、こうした頁に息抜きを出来るからだろう
ついつい読み込んでしまう

万葉集のこの「~辞闕之」の注記は、オリジナルなのだろうか
それとも、編纂の過程で、編者が「付記」したものだろうか
当然、その研究はされているだろう...また明日香万葉文化館で探そう
作者、大伴家持の自身の「注記」ならば、彼の茶目っ気も誘うし
仮に、編者の誰かが、「付記」したものであれば
この膨大な歌の原資料の山の中から、僅かにこの二首だけに気づくのも
並大抵のことではないだろう
正直、この二首を読んでいて、助詞がないことでの違和感はなかった
もともと、「古語」に接する機会のほとんどない日常だから
何が「おかしい」のかも、気づかなかっただけなのかもしれないが...
そう言えば、確かに現在の会話の中で、助詞が抜けていたら...
随分不思議な文章になるだろうなあ...当時も、そうだったのかもしれない

そう思えば、言葉が「変遷」してゆくことは...文化を自ら削り取っているようなものだ
そのうち、現代語も、その多くが「古語」になるだろうし
万葉の古語は、尚更外国語になってしまうだろう

現在の文化も、それが消え去ることは誰も想定していないはずだが
この「当たり前で、有り触れた」現代文化でも、
それを残し、研究できる環境を用意していかなくては、と...先の見えてきた私には思える

思えば、高校時代の授業で、「古典」どころではなく
「現代国語」でさえも、まともに授業に身を入れていなかったこと...今は悔やまれる
当たり前過ぎるから、気づかないものなのか...

 
 

掲載日:2013.07.13.

 


 詠霍公鳥二首 (天平勝宝2年)
 霍公鳥 今来喧曽无 菖蒲 可都良久麻泥尓 加流々日安良米也
                       [毛能波三箇辞闕之]
  霍公鳥今来鳴きそむあやめぐさかづらくまでに離るる日あらめや
                               [も・の・は、三つの辞を欠く] 
 ほととぎす いまきなきそむ あやめぐさ かづらくまでに かるるひあらめや 
語義歌意】  巻第十九 4199 大伴家持
 
  我門従 喧過度 霍公鳥 伊夜奈都可之久 雖聞飽不足
             [毛能波テ尓乎六箇辞闕之]
   我が門ゆ鳴き過ぎ渡る霍公鳥いやなつかしく聞けど飽き足らず
            [も・の・は・て・に・を、六つの辞を欠く]  
 わがかどゆ なきすぎわたる ほととぎす いやなつかしく きけどあきだらず  
 語義歌意】  巻第十九 4200 大伴家持 




 4199】語義 意味活用・接続 
 いまきなきそむ     
  いま[今]  [名詞](過去未来に対して)現在、新しいこと・もの
   [副詞]すぐに、さらに、まもなく、新しく
  き[来(き)]  [自動詞カ行変格]  連用形 
   来る、行く、通う
  なき[鳴く]  [自動詞カ行四段]  連用形 
   (鳥・虫・獣が)声を出す
  そむ[初む]  [接尾語マ行下二型]  動詞の連用形に付く
   「~はじめる、はじめて」の意を表す動詞をつくる
 あやめぐさ[菖蒲草]植物の名、「しょうぶ」[左注 
  葉は剣のような形で香気が強いので邪気を祓う物とされ、端午の節句に軒にさしたり  湯に入れたりする (夏)へ[辺] ほとり、あたり、(沖に対して)海辺
  [枕詞]、同音の「あや」に、また根を賞することから「ね」にかかる 
 かづらくまでに    
  かづらく[蔓く][左注  [他動詞カ行四段]  連体形
   つる草や草木の枝・花を蔓(髪飾り)としてつける 
  までに  [成り立ち]助詞「まで」に格助詞「に」  
   程度・限度をはっきり表す、「~くらいに、~ほどに、~までも」
 かるるひあらめや  
  かるる[離(か)る]  [自動詞ラ行下二段]  連体形  
      [空間的に]離れる、遠ざかる
      [時間的に]間をおく
      [精神的に]うとくなる、よそよそしくなる
  あら[有り・在り]   [自動詞ラ行変格]  未然形
   存在する、過ごす、時が経過する
  めや [成り立ち]推量助動詞「む」の已然形に反語の終助詞「や」
   (反語の意を表す) ~だろうか(いや、~ない)
  [も・の・は、三つの辞を欠く][左注]
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 4200】語義 意味活用・接続 
 わがかどゆ     
  かど[門]  [名詞]門、門前、家柄、一門、家、一族
  ゆ[格助詞]  [経由点・経過]~を通って
 なきすぎわたる
  なき[鳴く]  [自動詞カ行四段]  連用形
  すぎ[過ぐ]  [自動詞ガ行上二段]  連用形
   通り過ぎる、世を渡る、度を越える、盛りが過ぎる、死ぬ  
  わたる[渡る][自動詞ラ行四段・連体形]ここでは動詞の連用形に付く用法
   [時間的に]ずっと~続ける、の意を表す
   [空間的に]一面に~、の意を表す
 いやなつかしく   
  いや[弥]  [接頭語]「いよ」の転
   いよいよ、ますます、最も、いちだんと、非常に 
  なつかしく[懐かし]  [形容詞シク]連用形  
   心が惹かれる、なつかしい、昔が思い出されて慕わしい、親しみが感じられる
 きけどあきだらず  
  きけ[聞く]  [他動詞カ行四段]  已然形  
   聞いて心に思う、聞き入れる
  ど[接続助詞]  [逆接の恒常条件]  たとえ~ても(やはり)
  あき[飽く]  [自動詞カ行四段]  連用形
   十分満足する、満ちたりる、あきあきする、いとわしくなる 
  だら[足る]  [自動詞ラ行四]  未然形
     十分である、満ち整っている、不足がない、相応している、価値がある
  ず[助動詞・ず]  [打消し]  終止形
  [も・の・は・て・に・を、六つの辞を欠く] [左注]
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【左注】
 
 蔓く
あやめぐさは、水辺に自生するさといも科の多年草
初夏、花茎の中ほどに肉穂花序の淡黄色の小花をつける
根茎・葉など全体から独特の香気を発し、これが邪気を祓い
疫病を除くといわれて、端午の節句に使用された
「あやめぐさ蔓く」というと、その「五月五日」をさす
 
  [も・の・は、三つの辞を欠く] 
歌に多用される三つの助詞「モ・ノ・ハ」を用いないように留意して作る
詳細は、左頁に記す
 
 も・の・は・て・に・を、六つの辞を欠く
前歌の「三つの助詞」に加えて、「て・に・を」を欠く
 左頁に記す


 

 


 「お嬢様」...実像が浮ばない...
 「家持の懸念は...」
歌意】740
あれこれと、世間の人は言うのでしょうけど
若狭の後瀬の山の「名」のように、
何とか「後」にでもお逢いしましょうよ、あなた

歌意】741
この世には、この上なく格段に苦しいものがあるらしい
それは、恋というもの...
その苦しみに耐えられずに
死のうとさえ思うことも、あるようですので


坂上大嬢の、屈託のない相聞歌...
人の噂など、気にしませんは、ねえ家持様、と

この大嬢は、万葉集中の女流歌人としては
最も多くの歌を残している、坂上郎女の娘であり
大伴家持の従妹になる...そして、おそらくこの歌の時期が
二人の婚姻の時期でもあるだろう

私の大嬢への印象は、どうしても「お嬢様育ち」が拭えない
だから、家持もなかなか結婚に踏み切れなかったのだろう、と思っている
大嬢の母親、坂上郎女ほどの歌才も評価はされず
当時の夫婦のあり方が、どんなものなのか私には解らないが
どうしても、大嬢の「妻」としての姿が浮んでこない

この二首を採り上げたのも
この歌への家持の返歌二首が、気になっているからだ
その二首は、明日(7月15日付け)で採り上げるが
どうしても、大嬢と家持の「心のすれ違い」を感じずにはいられなかった

勿論、この前提には、私の肩入れする「笠女郎」の存在がある
そして、最近になって、吉田金彦氏の「秋田城出土木簡」での「笠女郎」観
それに触れてから、いっそうその思いを強くした

「かにかくに ひとはいふとも...」
その「あれこれと」には、一体どんな双方の「想い」があるのだろう

明日、続きを書こうと思う





  

掲載日:2013.07.14.

 


 同大嬢贈家持歌二首
 云々 人者雖云 若狭道乃 後瀬山之 後毛将會君
  かにかくに人は言ふとも若狭道の後瀬の山の後も逢はむ君
 かにかくに ひとはいふとも わかさぢの
 のちせのやまの のちもあはむきみ
語義歌意】  巻第四 740 相聞 坂上大嬢
 
  世間之 苦物尓 有家良之 戀尓不勝而 可死念者
   世の中の苦しきものにありけらし恋にあへずて死ぬべき思へば
 よのなかの くるしきものに ありけらし
 こひにあへずて しぬべきおもへば
 語義歌意】  巻第四 741 相聞 坂上大嬢 




 740】語義 意味活用・接続 
 かにかくに[副詞]あれこれと、いろいろと     
 ひとはいふとも 
  いふ[言ふ]  [他動詞ハ行四段]  終止形 
   うわさをする、評判をたてる  
  とも[接続助詞]  [逆接の仮定条件]   終止形に付く
   たとえ~にしても  
 わかさぢの[若狭道の] [若狭]国名、福井県西南部、三方郡以西    
 のちせのやまの[後瀬の山の] [後瀬(の)山]福井県小浜市市街南方の山  
 のちもあはむきみ 
  のち[名詞]  あと、次、以後、未来、将来、死後
  も[係助詞]  [仮定希望]せめて~だけでも  体言・連体・連用形
  あは[逢ふ]  [自動詞ハ行四段]  未然形 
   出逢う、来あわせる 
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 741】語義 意味活用・接続 
 よのなかの     
  よのなか[世の中]  世間、社会、世の常、世間の評判
   「世の中の・世の中に」の形で、この上ない、まったく
 くるしきものに
  くるしき[形容詞・苦しい]  [形容詞シク活用]  連体形
   痛みや悩みで辛い、苦しい
 ありけらし   
  けらし[助動詞特殊型]  「過去の推定」~たらしい
   過去の助動詞「けり」の連体形「ける」に
   推定の助動詞「らし」の付いた「けるらし」の転じたもの
 こひにあへずて
  あへ[敢(あ)ふ]  [自動詞ハ行下二段]  未然形  
   たえる、もちこたえる、こらえる、さしつかえない
  ず[助動詞・ず]  [打消し]~ない  連用形  未然形に付く
  て[接続助詞]  [確定条件]~ので   連用形に付く
 しぬべきおもへば
  べき[助動詞・べし]  [推量]~そうだ  連体形  終止形に付く
  おもへ[思ふ]  [他動詞ハ行四段]  已然形 
  ば[助動詞]  [順接の確定条件]~ので  已然形に付く
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大伴家持へ坂上大嬢が贈った歌の一群は、いくつかあるが
この歌の配列が、一旦は途絶えた二人の関係が
天平十一年(739年)頃に、修復された以降の歌群にあるので
家持と、大嬢...あるいは、その他の噂のある女性たちとの絡みもあって
解釈の背景には、様々な可能性を秘めている


 
 


 「俺はいったい...」...想いを貫けず...
 「家門のために...」

歌意】742

そう、後瀬山というように、後に逢おうと思えばこそ
死ぬほどの辛さや苦しみを耐えて、今日まできたのだよ


歌意】743

そうやって、言葉だけは、後に逢いましょうと言うのですね
そんなに熱心にいわれ、私にその気にさせておいて
それでもなかなか、私と逢ってくれないではないか...違いますか


この家持の返歌には、かなりの「苛立ち」を感じてしまう
坂上大嬢の無邪気なのか、あるいは少々毒気もあるのか
家持への「懲らしめ」のような言外の「空気」を漂わせているように思える

母(坂上郎女)の薦める私ではなく、いろんな女と浮名を流し
そのうち、愛妾が亡くなって、寂しくなったからといって
また母に泣きつくなんて...みっともないですよ
そんな大嬢の叱責が、聞こえてならない
勿論、大伴家の行く末を考えて、
叔母・坂上郎女の娘、大嬢との結婚は、誰もが望むところだったろう
しかし、家持は...内心の葛藤を、どう折り合ったのだろう

大伴家持が大嬢に贈る相聞歌は、この返歌の後にも一気に十五首続く
どれも、表面的には、「愛しい大嬢」への積極的な「夢」恋歌だ
...明日から、この歌を読んでみが...

家持が、これほどまでも切なく「訴える」歌に
私は逆に、自分を覆い隠すような、一種の「自己欺瞞」めいたものを感じてしまう

まだ私の知り得た範囲は、たかが知れている
実際、大嬢と家持の結婚生活など、その雰囲気さえもつかめていない
勿論、それが確かに存在していたら、ということだが...

地方への赴任が多い家持に、どうして、「大嬢」の「姿」が重ならないのだろう
明日からの「十五首」に、家持の「心の慟哭」があるかもしれない
結婚しても、大嬢の気立てに対する不満が...「愛しい」歌の言葉の裏に...




掲載日:2013.07.15.


 


 又家持和坂上大嬢歌二首
 後湍山 後毛将相常 念社 可死物乎 至今日毛生有
  後瀬山後も逢はむと思へこそ死ぬべきものを今日までも生けれ
 のちせやま のちもあはむと おもへこそ
 しぬべきものを けふまでもいけれ
語義歌意】  巻第四 742 相聞 大伴家持
 
  事耳乎 後毛相跡 懃 吾乎令憑而 不相可聞
   言のみを後も逢はむとねもころに我れを頼めて逢はざらむかも
 ことのみを のちもあはむと ねもころに われをたのめて あはざらむかも 
 語義歌意】  巻第四 743 相聞 大伴家持 




 742】語義 意味活用・接続 
 のちもあはむと  前歌[740]に応じて    
  と[格助詞]  [動作の相手・共同動作者]~と、~と一緒に
 おもへこそ[おもへばこそ、に同じ] 
  おもへ[思ふ]  [他動詞ハ行四段]望む、願う  已然形 
  (ば)こそ  [強調の確定条件]~だからますます  
   「こそ」は係助詞で、結びとなる用言・助動詞は「已然形」となる 「生け  
 しぬべきものを   前歌[741]に応じて    
  死んでしまうものなのに、しにそうなのに   
 けふまでもいけ 
  まで[副助詞]  [限度]~まで 
  も[係助詞]  [強意]~も  
  いけ[生く]  [自動詞カ行四段]命を保つ  已然形
  [助動詞・り]  [完了]~ている  已然形 
   「おもへこそ~いけ」が係り結びになる (「こそ」の結びは「已然形」)
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 743】語義 意味活用・接続 
 ことのみを[言のみを]     
  「言」は、第二句の「のちもあはむと」に「言ひて」が省略され、それに続く
  前歌の大嬢の「のちもあはむきみ」をも指していると思う
   ことばだけ、「後で逢いましょう」ということばだけ
 ねもころに  [ねもころ(懇)]「ねんごろ」の古形
  ねもころに  [形容動詞ナリ  連用形
   こまやかに行き届くさま、熱心に、[副詞]心をこめて
 われをたのめて   
  たのめ[頼む]  「他動詞マ行下二段・過去の推定」の連用形
   その連用形「頼め」から、「あてにさせること、頼みに思わせること」の名詞
  て[接続助詞]  [逆接の確定条件]~のに、~ても     
 あはざらむかも
  あは[逢ふ]  [自ハ行四]出逢う  未然形 
  ざら[助動詞・ず]  [打消し]~ない  未然形  未然形に付く
  む[助動詞・む]  [推量]~(の)だろう   連体形  未然形に付く
  かも[終助詞]  [詠嘆・感動、疑問]~だろうか  連体形に付く
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昨日の大嬢から家持への相聞歌二首
そして、今日の家持の返歌二首

大嬢の二首には、「恋」への「苦悩」が感じられない
「恋」とは、こんなものらしいですね、とひとごとのように...

家持の返歌を何度も読み返すと
「お嬢様」に振り回され、それでも心を寄せてしまった
自身への「恨み」さえも感じてしまう




 


 「夢さへも」...どうしてなのか...
 「ことばは、裏返しか」
歌意】744

夢で逢うことは、こんなにも辛いことなのか
目を覚まして、手探りであなたに触れようとしましたが
あなたは、触れさせてくれませんでしたね

大伴家持が、坂上大嬢へ贈った十五首の歌群の第一首
家持は夢の中で大嬢に、「つれないのは、あなたです」といっているような気がする
勿論、この歌を私のように解釈しなければならない、というつもりはないが
家持の大嬢に対する「屈折した」感情...それは、叔母の期待、大伴家の重責など
純粋な「愛情表現」に窮しながらも、自分は精一杯「愛しているのに」
そう訴えている...空し過ぎる「恋文」だと思う

大伴家持が、言葉を尽して「愛情」を紡げば
それだけ、大嬢の心は「真の愛情」から掛け離れていくのではないか

この歌を始め、「夢」にことよせる歌が、この十五首に目立つ
そして、当時の流行った読本である「遊仙窟」からの語句の引用めいた使い方も多い
家持独自の世界観、というよりも、男と女の、こんなあり方もあるのだよ、と
従妹でもある大嬢への、「たわむれ」のような、そして「冷めた」見方をに感じてしまう

家持と笠女郎との、それには歌のバランスの問題はあるが
それでも、家持の「二首」には、彼の搾り出すような「念」があった

明日からも、一首一首...家持を追いかけたい


 
 

掲載日:2013.07.16.

 


 (更大伴宿祢家持贈坂上大嬢歌十五首)
 夢之相者 苦有家里 覺而 掻探友 手二毛不所觸者
  夢の逢ひは苦しかりけりおどろきて掻き探れども手にも触れねば
 いめのあひは くるしかりけり おどろきて かきさぐれども てにもふれねば 
【語義・歌意】  巻第四 744 相聞 大伴家持




 【744】語義 意味活用・接続 
 いめのあひは 
  いめ[夢]  [上代語]〔寝(い)目〕の意か、夢
  あひ[逢ふ]  [自動詞ハ行四段]出逢う  連用形 
 くるしかりけり 
  くるしかり  [形容シク]苦しい、つらい  連用形 
  けり[助動詞・けり]  [気づき]~だなあ  終止形
 おどろきて 【覚きてかき探れども】[左注・遊仙窟]
  おどろき[驚く]  [自カ四]目が覚める  連用形     
  て[接続助詞]  [単純接続]~て、そして     連用形に付く
 かきさぐれども
  かき[接頭語]  動詞に付いて語勢を強めたり、語調を整える 
   実際に「搔き引く」動作の場合は、動詞「搔く」の連用形となる
  さぐれ[探る]  [他ラ四]指先などで探し求めたりする  已然形
  ども[接続助詞]  [逆接の確定条件]~のに、~だが  已然形に付く
 てにもふれねば 
  ふれ[触る]  [自ラ下二]さわる、触れる  未然形
  ねば  [成り立ち]打消し助動詞「ず」の已然形に接続助詞「ば」
   「ば」が順接確定条件を表すと、原因・理由の意、~ないので、~ないから
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【左注】
[遊仙窟]小学館・新編日本古典文学全集より
『遊仙窟』は初唐に成った伝奇小説の名。作者は則天武后の頃の官人張文成。その内容は河源即ち黄河の上流地域に遣わされた文成自身が、一夜の宿を仙窟に乞い、そこに人目を避けて住む若い寡婦崔十娘(さいじゅうじょう)と、その義姉五嫂(ごそう)の歓待を受け、ついに十娘と交わり、翌朝尽きぬ名残を惜しみながら泣き別れるという筋である。ストーリーそのものは、いわゆる通俗小説の域を出ないが、その表現・文体は極めて特異なものとして注目されている。即ち、四六駢儷文(べんれいぶん)を基調とした雅俗折衷体を縦横に駆使し、随所に指摘できる繊細巧緻な描写や豊富な語彙、特に俗語なかんずく登場人物の会話や詩は機知に富む。これは実は紅灯の巷での嫖客(ひょうかく)と妓女との応酬を写したものとも言われ、そのために部分部分にかなりきわどい性描写が散見する。新羅や日本から来た使いは必ず金宝を出して彼の作品を買った、と『新唐書』や『桂林風土記』に見える。わが国へは山上憶良を含めた大宝二年(702年)出発の遣唐使たちが持ち帰ったのだろう、という。中国では早く散逸したが、日本には醍醐寺本・真福寺本・金剛寺本など数種の古写本が残っている。万葉集にはその語句を利用した歌が、かなりある。
 
 [おどろきてかきさぐれども]
遊仙窟「少時にして坐睡すれば、則ち夢に十嬢を見る。驚き覚めて之を攪れば忽然にして手を空しくす。心中悵快にして、また何ぞ論ずべけむや」によったもの

 




 「やつれた家持なんて」...ことばは心を伝え...
 「それは、自分のことばでこそ」

【歌意】745

あなたが、私に一重だけに結ぼうとするこの帯も
今では三重に結ばなければならないほどに、
私はこんなにもやつれてしまったのですよ

これは、大伴家持の激しい想いの歌のように聞こえる
歌自体を読む限り、それが「心」の現われであるのなら
熱烈な坂上大嬢への恋文に違いない

しかし、この歌の下の句は、注にもあるように
唐の伝奇小説『遊仙窟』...当時の流行の小説らしいが
その一説にある語句を、用いている
そして、その語句を翻案した幾つかの万葉歌がある
ここに二首ほど、載せておく

 或本反歌曰 (3274の反歌)
 ゐ垣 久時従 戀為者 吾帶緩 朝夕毎
  瑞垣の久しき時ゆ恋すれば我が帯緩ふ朝宵ごとに
 みづかきの ひさしきときゆ こひすれば わがおびゆるふ あさよひごとに
 巻第十三 3276 相聞 作者不詳
 
 反歌 (3286の反歌)
 二無 戀乎思為者 常帶乎 三重可結 我身者成
  二つなき恋をしすれば常の帯を三重結ぶべく我が身はなりぬ
 ふたつなき こひをしすれば つねのおびを みへむすぶべく あがみはなりぬ
 巻第十三 3287 相聞 作者不詳


この二首で、作者が訴えているのは
恋をし続けていると、朝に宵に帯びも緩くなる
恋と言うものに落ちてしまうと、何時もの帯も、三重に巻かねばならぬほどやつれて...

これが、『遊仙窟』の一節で
「日々に衣寛(ゆる)く、朝々帯緩(ゆる)ふ」
この文章の「翻案」でもあり、当時の慣用句にまでなった、という
いわゆる、恋人たちの「愛情の表現」に、外来語を用いて
それを相手に贈った、というものだ
こうした『遊仙窟』からの引用...あるいは「翻案」は
随分と万葉集に見られ、その流行り方が凄まじいことを窺わせる
となると、ここで家持が大嬢に贈った歌も
言って見れば、家持の純粋な「気持ち」の言葉ではなく
ある意味では、当時の流行り言葉で伝えたものということになる
これは、微妙な問題で、だから「熱」が冷めているのか
あるいは、こうした熱烈な流行り言葉を使うほど、大嬢への気持ちを述べているのか
それは、今の私たちに解りようがない

しかし、個人として感じることが、そもそも「私の万葉集」の原点なので
そう思うと、私にはこの歌に家持の「熱意」を感じることは出来なかった

『遊仙窟』の文を用いた歌は、この十五首の中にも、また出て来る

幸運にも、来月には、奈良女子大学古代学学術研究センターの主催で
ちょうど、この『遊仙窟』研究の回顧と展望のセミナーがある
研究者向けのセミナーらしいが、一般参加もOKなので、勿論聴いてみたい
万葉集に、どれだけ影響を与えたものなのか...もっともっと知りたい

 

掲載日:2013.07.17.

 


 (更大伴宿祢家持贈坂上大嬢歌十五首)
 一重耳 妹之将結 帶乎尚 三重可結 吾身者成
  一重のみ妹が結ばむ帯をすら三重結ぶべく我が身はなりぬ
 ひとへのみ いもがむすばむ おびをすら みへむすぶべく わがみはなりぬ 
【語義・歌意】  巻第四 745 相聞 大伴家持




 【745】語義 意味活用・接続 
 ひとへのみ 
  ひとへ[一重]  それだけで、他に重なるものがないこと、一枚
  のみ[副助詞]  [限定]~だけ、~ばかり  体言に付く
 いもがむすばむ [左注・結ぶ]  
  むすば[結ぶ]  [他バ四]端と端を繋ぎ合せる、結ぶ  未然形
  む[助動詞・む]  [推量]~だろう  連体形
   「結ぶ」には、約束する、言い交わす、という意味もある 
 おびをすら
  を[格助詞]  [対象]~を  体言に付く
  すら[副助詞]  [強調]    体言・副詞・助詞などに付く
   ~までも、~でさえも
 みへむすぶべく [左注・三重結ぶべく(遊仙窟)]
  みへ[三重]  
   三つ重なったり、折れたり曲がったりして三重になっていること
  べく[助動詞]  [推量・べし・連用形]~そうだ   終止形に付く
 わがみはなりぬ [左注・遊仙窟の翻案] 
  なり[助動詞]  [断定・なり・連用形]~だ  体言に付く
  ぬ[助動詞・ぬ]  [完了]~てしまう、~しまった  連用形に付く
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【左注】
結ぶ
当時男女とも一般に一重帯で前結びだったことは、高松塚古墳の壁画などから知られる。
そして、恋人同士が相手の紐を結んで愛を誓う習慣があったようだ。
 
 三重結ぶべく(遊仙窟)
恋にやつれて痩せたことの具体的表現。
『遊仙窟』に、主人公が十娘と別れた後のせつない気持ちを述べた
「日々に衣寛(ゆる)く、朝々帯緩(ゆる)ふ」という類想の句があるとのこと。
尚、『遊仙窟』については、昨日の【左注・
『遊仙窟』】を参考

ちょうどタイミングよく、今日知ったことだが
来月の八月二十四日、明日香の万葉文化館で、この「遊仙窟」についての講演がある
たまたま、最近集中的に「遊仙窟」に関わっていて
それで、この講演の案内を目にすれば...、何か因縁を感じてしまう
是非聴講したいものだ
 
 遊仙窟の翻案
前句の「三重結ぶ~なりぬ」が、『遊仙窟』の翻案の一つらしく
こうした万葉歌への用例が物語るのは、「類想」というよりも
「流行り言葉」の...いわば「流行語」のようなものかもしれない
そうなると、このような内容の「気持ち」が
純粋な「恋心」だけではないかもしれない、と
やや気にはなる
 
 
 
 







 「夢なれば、逢える」...戸の鍵はしないで...
 「ことばは、岩より重い」

歌意】746

わたしの恋は、とんでもないほど重たい岩であっても
七つの石に砕いて首に掛けろ、と神がいうのなら
そのつもりでいるよ
それが、どんなに苦しくて辛いことであっても...
それが、神の与える試練なら...
 
歌意】747

夕暮れになったら、家の戸を開けて
あなたを待っていよう
夢の中で、逢いに来ようというあなたなのだから

大嬢への最大級の「想い」の恋歌だ
神が、あり得ないほどの試練を与えても
自分は、あなたへの恋の為に、それを受けるのだよ
そこまで、大嬢へ言う家持...
そこまで、言わなければならないほど、追い詰められたのだろうか
気の進まない、「お嬢様」育ちの大嬢への
それでも、必死に愛そうとする、想いを伝えようとする「やるせない」姿がある
それは、女性問題で叔母・坂上郎女に叱責され続けてきた
家持の、もう「ここに」すがるしかない、表れのような気がする
それでも、家持は大嬢を愛そうとする...それは本心だろう
ただ....笠女郎の一点だけ、この時点でのことが気になるし、まだ解らない

次の、夢で逢いに来ると言うあなたのために
家の戸を開けて待っている...ここで、家持はまた「遊仙窟」の翻案を用いた

この語句の翻案を用いた万葉歌をもう一首載せる

 正述心緒
 人見而 事害目不為 夢尓吾 今夜将至 屋戸閇勿勤
  人の見て言とがめせぬ夢に我れ今夜至らむ宿閉すなゆめ
 ひとのみて こととがめせぬ いめにわれ こよひいたらむ やどさすなゆめ
 巻第十二 2924 作者不詳


人が見ても、咎め立てなどしない夢の中で
今夜私は、あなたに逢いに行くのだから
家の戸の「鍵」はしないでおくれよ

家持の利用の仕方は、作者が待つ...「戸を開けておく」
類想歌の方は、作者が待つことを乞う...「戸を開けさせておく」

私は、「遊仙窟」の全体のストーリーを知らないので
どこまでの翻案なのか解らないが
この二首、どちらも「夢の逢瀬」のために「戸を開ける」
ならば、「遊仙窟」の該当箇所と言われる「夢裏渠」がそうだろう
何となく、イメージが湧いてくるが...

この語句が、すでに都全体で盛んに評判になっているのであれば
こうした「見え透いた」歌を家持が詠うだろうか...
むしろ、家持が歌で言うほどの熱烈さではなく
今、評判の読み物でもあるじゃないか、こんな風に詠ったよ、と
ひたむきな愛情表現に、逆に年齢差を意識させるような「大人の仕草」がある

家持が、言葉をいくら尽しても
それは「歌」の中で「響く」創作の「言葉」であって
「恋に悩む」本当の傷心、苦悩から紡ぐ言葉であれば
「流行の語句」などは...使わないだろう、と思う

それとも、この時代の感覚では...それでいいのかな
 
 

掲載日:2013.07.18.

 


 (更大伴宿祢家持贈坂上大嬢歌十五首)
  吾戀者 千引乃石乎 七許 頚二将繋母 神之諸伏
   我が恋は千引の石を七ばかり首に懸けむも神のまにまに
 あがこひは ちびきのいはを ななばかり くびにかけむも かみのまにまに 
 【語義・歌意】  巻第四 746 相聞 大伴家持 
 
 暮去者 屋戸開設而 吾将待 夢尓相見二 将来云比登乎
   夕さらば屋戸開け設けて我れ待たむ夢に相見に来むといふ人を
 ゆふさらば やどあけまけて われまたむ いめにあひみに こむといふひとを 
 
 語義歌意】  巻第四 747 相聞 大伴家持 




 746】語義 意味活用・接続 
 ちびきのいはを[千引乃石乎
  ちびき[千引き]  千人でやっと引けるほどの重さの物
  いは[石]  鉱石、岩石のこと
   「岩」が大きい石に対し、小さい石をさしていう
 ななばかり[七許]  
  なな[七]  「千」と同様に、「多くの、たくさんの」という意
  ばかり[副助詞]  [程度]~ぐらい、~ほど [左注]  体言や終止形に付く
 くびにかけむも[頚二将繋母
  かけ[掛(か)く]  [他カ下二]ぶらさげる、取り付ける  未然形
  む[助動詞・む]  [意志・連体形]~つもりだ  未然形に付く
  も[接続助詞]  [逆接の確定条件]~のに  連体形に付く
 かみのまにまに神之諸伏[左注]
  まにまに[随に  [副詞]事の成り行きに任せるさま、~ままに、~従って
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 747】語義 意味活用・接続 
 ゆふさらば[暮去者
  さら[去る]  [自ラ四]近づく、来る  未然形
   季節や時を表す語につくと、「近づく・来る」、原義は移動する、進行する
  ば[接続助詞]  [順接の仮定条件]~なら、~だったら  未然形に付く
 やどあけまけて[屋戸開設而] [左注・遊仙窟]
  やど[屋戸・宿]  家の戸、住む所、家、家の敷地
  まけ[設く]  [他カ下二]したくする、心待ちにする  連用形
  て[接続助詞]   [単純接続]~して  連用形に付く
 いめにあひみに夢尓相見二
  いめ[夢]  [上代語]「寝(い)目」の意
  あいみ[相見る]  [他マ上一・連体形]対面する、会見する  連用形
  に[格助詞]  [目的]~のために  連用形に付く
    多く連体形に付くが、「目的・強調」の「格助詞・に」は動詞・連用形に付く
 こむといふひとを[将来云比登乎
  こ[来(く)]  [自カ変]来る、行く  未然形
  む[助動詞・む]  [意志・]~よう、~つもりだ  未然形に付く
  と[格助詞]  [引用]~と 
   「言ふ」などの動詞へ続けて、その内容を表す
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【左注】
ばかり
「のみ」は一つに小さく限定するのに対し、
「ばかり」は範囲・程度に幅を認めて限定する
大別すると、「ばかり」には「
ほど」の意のおおよその範囲・程度を表す用法と
だけ」の意の限定用法の二つがあるが、
本来は「
ほど」の用法で「だけ」の用法は上代には見られない
語の由来は、動詞「計(はか)る」の名詞形「はかり」からきている
 
 まにまに(諸伏)
「諸伏」、訓は「まにまに」で一致しているが、「難訓」であるという
今後は、変わり得る
由来には「戯書」説があり
朝鮮半島での遊び「柶戯(しぎ)」の四つの采の目が
皆伏せると、
最強力になって、「随意に」駒を進める得ることによる、という説
 
 遊仙窟・屋戸開け設けて
この語句も、『遊仙窟』の影響が見られる
小説の終り近く、主人公たちが激しく愛し合った翌朝、
別れを惜しんで男が詠んだ詩の中の
「今宵戸を閉すことなかれ、夢裏渠(きみ)が辺りに向かはむ」によったもの

この語句を翻案した万葉歌、もう一首を左頁に載せる
 




 「よその舞台で」...しかし名演なのかもしれない...
 「想いを潜むほどに」
歌意】748

結婚して、朝も晩もいつも見られるようになったとしても
あなたは...たとえ見ても見なかったようにして
依然としていつものように、恋しく想うことだろうなあ
見てしまったら...醒めてしまうかもしれないから...

これは、家持の大嬢へ対する「本心」かもしれない
実際の私は、あなたが思うような、立派な男じゃないんだよ、と
だから、結婚してずーっと一緒にいることになったら...
いや、大嬢はそれを知っている
だから、見ない振りをして、いつも「恋に憧れる」ようにしたいはずだ

家持が大嬢へ抱くこうした「懐疑の念」は
自身の「過去の振る舞い」を思い描いてのことかもしれない

同居するよりも、歌にこめて「恋文」を贈っている方が
どれほど気が楽なことか...

家持にとって、「恋愛の形」は、こうした「恋文」こそが
もっとも「大切な」ものだったのかもしれない
当時の流行の唐の小説の翻案を引用したり
ことさら「夢での出逢い」を持ち出したり
実際の家持を、どこか別に用意された舞台の上に躍らせているかのようだ
そして、それを敢えて大嬢に「見せて」いる
やはり、私には...家持が大嬢へ贈る言葉に...響くものを感じない


 

 

掲載日:2013.07.19.

 


 (更大伴宿祢家持贈坂上大嬢歌十五首)
  朝夕二 将見時左倍也 吾妹之 雖見如不見 由戀四家武
   朝夕に見む時さへや我妹子が見とも見ぬごとなほ恋しけむ
 あさよひに みむときさへや わぎもこが みともみぬごと なほこひしけむ 
 【語義・歌意】  巻第四 748 相聞 大伴家持 




 【748】語義 意味活用・接続 
 あさよひに[朝夕二 ] [左注・朝夕
  あさよひ[朝宵]  朝と夕、朝も晩も
  に[格助詞]  [状態]~に、~のように  体言・連体形に付く
 みむときさへや[将見時左倍也] [左注・上二句  
  見[見る]  「他マ上一」目にする、目に留める  未然形
  [助動詞・む]  [推量]~だろう  体言・終止形に付く
  さへ[副助詞]  [添加・類推]~までも、~さえ  体言・連体形に付く
  や[係助詞]  [疑問・反語]~か、~だろうか~  種々の語に付く
 みともみぬごと[雖見如不見
  み[見る]  既出  (未然形)
  とも[接続助詞]  [逆接の仮定条件]たとえ~にしても  左注・接続1
  ごと[助動詞・ごとし]の語幹 ~のように、~ようだ  左注・接続2
 なほこひしけむ[由戀四家武
  なほ[猶・尚]  [副詞]やはり、もとのように、依然として
  こひ[恋ふ]  [他ハ上二]思い慕う、恋しく思う  連用形
  し[副助詞]  [強調]  種々の語に付く
   上代では、形容詞に付くことはなかった 
  けむ[助動詞]  [過去の推量・けむ]~ただろう  連用形に付く
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【左注】
朝夕
原文の「朝夕」だと、「あさゆふ」と訓じられると思うが
どの注釈書も、ここの訓は「あさよひ」になっている
「朝宵(あさよひ)」と「語義」は同じなのかもしれないが
なぜ「あさゆふ」と訓じないのだろう
尚、古語辞典には、「朝夕」に[副詞]の用法もあり、
その意味は「毎日、いつも」とあった
この解釈の方が、歌の意には沿うような気もするが...
 
 上二句
「朝夕」が朝も晩も、あるいは「副詞」で、毎日、いつも、など
そして「いつも、見られるようになっても」と続くことからだと思うが
この二句で、「結婚して同居するようになっても」との解釈が多い
 
 接続1
通常、接続助詞「とも」は、動詞に付く場合、その動詞の終止形に付く
しかし、奈良時代の文献に特例が見られる
すなわち
「上一段活用」の動詞「見る」に接続する場合
「終日(ひねもす)に
見とも飽くべき浦にあらなくに」(万18-4061)のように
「見とも」の形が表れる
これは、「見べし・見らむ」の用例とともに、
動詞「見る」の接続の古い形を残したものと見られる
 
 接続2
連用修飾語となって「~ように」
述語となって「~ようだ」
「連用修飾語」は、「ごとし」の連用形「ごとく」と同じく連用修飾語を作るが
中古の和文調の文章では、「ごとく」はあまり用いられず
語幹」だけの「ごと」が多く用いられた
 
 

 「言葉に尽せない」...その言葉を表現するには...
 「袋、といえば伝わるか...」
【歌意】749

これまで生きてきた中で
これほど、言葉にも言い尽くせないほど素晴らしいものを
私は見たことがない...このように縫った袋は...
 

これは、大嬢から家持に贈った「袋」と解釈されている
家持が、大嬢の贈り物を素直に喜ぶにしても
その「袋」が、このように「言い尽くせないほどの素晴らしさ」というのは
少々大袈裟なように思える

包み入れる「用途」としての、「袋」に感心したのか
あるいは、その「裁縫の出来栄え」に対して感心したのか...どちらだろう
さらに、「袋」という「ことば」に、当時は特別な意味があったのかもしれない
勿論、「袋」それ自体ではなく
「袋の用途」を何かの表現の喩として...

例えば、「袋」に何かを入れることを「包む」という
その包むには、一般的な「中に入れる、おおい囲む」だけではなく
「隠す、秘める」という意味もある


  反歌 ([3298]の反歌)
 足千根乃 母尓毛不謂 ツツ有之 心者縦 公之随意
  たらちねの母にも言はずつつめりし心はよしゑ君がまにまに
 たらちねの ははにもいはず つつめりし こころはよしゑ きみがまにまに
 巻第十三 相聞 3299 作者不詳
母にも言わずに隠していた心は、
もう構わない
どうぞ、あなたの心のままに


ここでは、「包む」という言葉を直接使っているが
これを、この作者のように開き直らず
愛しい男へ「想い」を送れば...「袋」という表現を使うかもしれない
その「袋」自体に、「秘めたる想いを包み」入れて...

その「袋」の特殊な使い方を歌ったものもある


  一書曰天皇崩之時太上天皇御製(歌二首)
 燃火物 取而ツツミ而 福路庭 入澄不言八面[智男雲]
  燃ゆる火も取りて包みて袋には入ると言はずやも智男雲
 もゆるひも とりてつつみて ふくろには いるといはずやも 智男雲
 巻第二 挽歌 160 持統天皇
燃える火でも、取って包んで袋に入れる、というではないか

[智男雲]定訓なし

この「袋」は、火さえも「包み入れてしまえる袋」ということになる
この歌は、亡くなった天武天皇の皇后、後の持統天皇の作といわれるもの
代作の可能性が強いといわれている歌だが
ここでいう「袋」とは、
大陸から伝わっていた奇術的な策の一つとして
「火をも入れられる袋」があるというのに
どうして、死んだ人を生き返らせることができないのか、と嘆く
「袋」をまさに歌どおりに、「不思議な力」の表現として用いている

ならば、家持が大嬢からの贈り物である、この「袋」を
単に、普通の「綺麗で素晴らしい」とだけ感じて歌ったのだろうか....
そうではないと思う
何しろ、生れて初めて目にする、「言絶える」ほどの「袋」だ

きっと、大嬢の何か家持を驚かせるような仕掛けがあったのではないだろうか
あるいは、子供じみた「趣向」かもしれない
それに対して、家持は素直に感動したのか...「なんといじらしい妹よ」と

「言葉に尽せぬ想いを」を「言葉にする」
それは、どんな「詠歌」になるのだろう


 

掲載日:2013.07.20.

 


 (更大伴宿祢家持贈坂上大嬢歌十五首)
  生有代尓 吾者未見 事絶而 如是[忄+可]怜 縫流嚢者
   生ける世に我はいまだ見ず言絶えてかくおもしろく縫へる袋は
 いけるよに われはいまだみず ことたえて かくおもしろく ぬへるふくろは 
 【語義・歌意】  巻第四 749 相聞 大伴家持 




 【749】語義 意味活用・接続 
 いけるよに[生有代尓 ] 
  いけ[いく]  [自カ四]生きる、命を保つ  已然形
  る[助動詞・り]  [完了]~ている  已然形に付く
 ことたえて[事絶而]  
  ことたえ[言絶ゆ]  「自ヤ下二」言葉で表せない  連用形
  [接続助詞]  [状態]~のさまで、~の状態で  連用形に付く
 かくおもしろく[如是〔忄+可〕怜
  かく[斯く]  [副詞]このように、こんなに、こう
  おもしろく[面白し]  [形ク]興味深い  連用形
 ぬへるふくろは[縫流嚢者
  ぬへるふくろ  裁縫した袋 
  は[終助詞]  [感動・詠嘆]~よ、~だなあ  体言に付く
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 「衣を下に」...裏に返す...
 「身に付けるものから夢へ...」

【歌意】750

あなたが贈ってくれた「形見」の衣を
ちゃんと着ています
今度、あなたに逢う時まで、
それを脱いだりすることがあろうか
そんなことはないですよ
 

「下に着て」というのは、「見えないところ」なのか、あるいは「下着」なのか
この時代の人が、衣を「贈る」とき、「下着類」というのは一般的かどうか...
私の知る諸本では、「下着」のような解釈をしているものばかりだ
もっとも、この時代の「下着」が、どんなものなのかは解らないが...

それに、「下」という語義には、単純に「下方、した」だけでなく
地位や格式なのど上下の「した」もあるが
一般的には、「下に着る」、というと
上着の内側に着るもの...あるいは、肌着類のことになる

しかい右頁の「左注」に触れたように、
衣を裏返しにして寝ると、恋しい人の夢を見ることができる
そんな俗信に基づいた歌がある
それを思うと、「下に着て」は、裏返しに着て、とも思えなくはない
あなたに直接逢うまでは、夢の中で逢おう
だから、それまで脱いだりしないよ、と...

この歌で、「夢」という言葉こそ使っていないが
家持が贈ったこの十五首の歌群...「夢」は多く歌われている
ならば、「衣」そして「下に」が、その「夢」を「語って」いるのではないか
「下」の語義の中にも、「心の中、内心」もある
まさに、「夢」にぴったりではないか

直接的な意味の「下着」と解すれば
私には、家持と大嬢の「相聞」には相応しくないように思えてしまう

これが、笠女郎との遣り取りの歌なら
大人の情感を思わせる、しっとりとした歌と感じたかもしれない

実体は解らないが...歌の解釈は、本人が語れない以上
私には、本人の「意に擬えて」読んでもいいような気がする

家持と、大嬢の間の「相聞歌」とするならば...それは「夢」に繋がるものだ
 
 

掲載日:2013.07.21.

 


 (更大伴宿祢家持贈坂上大嬢歌十五首)
  吾妹兒之 形見乃服 下著而 直相左右者 吾将脱八方
   我妹子が形見の衣下に着て直に逢ふまでは我れ脱かめやも
 わぎもこが かたみのころも したにきて ただにあふまでは われぬかめやも 
 【語義・歌意】  巻第四 750 相聞 大伴家持 




 【750】語義 意味活用・接続 
 かたみのころも[形見乃服] 
  かたみ[形見]  昔の思い出となるもの、遺品
  ころも[衣]  着物、衣服、僧の着る法衣、僧服 [左注・衣
 したにきて[下著而]  
  した[下]  内側、内部、裏、心の中、内心
 ただにあふまでは直相左右者] [左注・左右
  ただに[直に]  [副詞]形容動詞「ただなり」の連用形から
   真っ直ぐに、直接に、ずばりと
 われぬかめやも[吾将脱八方
  ぬか[脱く]  [自カ四]「く」は清音、脱ぐ  未然形
  めやも [反語]~だろうか、いや~でないなあ
   [成立ち]推量助動詞「む」の已然形「め」に、反語の終助詞「やも」
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 【左注】
 ころも
 「衣や袖の俗信」
 小野小町は、こういう歌を詠んでいる
 〔いとせめて恋しき時はむばたまの夜の衣を返してぞ着る〕古今恋二・554
 衣を裏返しに着て寝ると、恋する人の夢が見られるという俗信によるもの
  〔わぎもこに恋ひてすべなみ白栲の袖返ししは夢に見えきや〕万葉十一・2823
 この歌は袖を折り返すことによって、思う相手の夢の中に自分が現れるという俗信による
 
 左右
 参考「戯書
 義訓の一種、右手左手の両方を揃えて「真手(まで)」と言ったものを「左右(まで)」
 そんなような意味だったと思う
 







 「恋に死ぬも」...逢わずに生きるも...
 「その苦悩は同じか...」

【歌意】751

恋に死ぬと言うのなら、
それだって、逢わずに生きると同じ苦しさだろう
人目や、その噂を気にしながら
同じ「痛みや辛さ」なら
どうして、逢わないなどと思うのでしょう...
 

昨日までの、「袋」や「衣」に寄せた「想い」とは一転して
今度は、家持の「覚悟」を「言葉に尽して」いる
恋い慕いながら、逢わないで苦しむことは
まさに、「恋に死ぬ」と同じ苦痛...ならば...
どんなに噂されようと、人目があろうと、逢おうではないか

普通の恋文なら、「男がそこまでいうのだ」と拍手してしまう
しかし、家持だから...その背景を「思う」材料には事欠かない

家持にとって、大嬢との結婚は、大伴氏あげての総意だったのに
家持が、このような「苦悩」を詠まなければならないのは
間違いなく、大嬢はともかく、叔母・坂上郎女の「影」のせいだろう
郎女には、確かに一門を背負う「氏長」と期待もされている
しかし、それ以上に、嫁がせる娘は...その郎女の実の娘
家持の女性問題に、叔母としてではなく、
嫁ぐ「娘の母」として、不快な思いを持っていただろう
正式に結婚するまでの、数々の障害を、家持がどうやって解決してゆくのか

しかし、当の家持は、「覚悟」までもしながら
実際に「本心」なのかどうか、まだまだ叔母に不信感を持たれている
そんな情景を思ってしまう
家持にしてみれば、大嬢と結婚することは
「大伴家」にとって最も良いことだと感じてはいる
だからこそ、他に好きな女性がいたとしても
それが「妻」とすべき「女性」ではないことは、承知しているはずだ
彼が他の女性に贈る「恋文」の数々は、戯れもあれば、心底の想いもあるだろう
しかし、「妻」となるべき「大嬢」へは...何を棄てても誠意を見せなければ、と

家持が、ここまで「恋に死ぬ」という「言葉」を持ち出すのも
その必死さが...私には思われてならない

結婚後の家持と大嬢...その二人の姿が...どうしても浮んでこないのは...何故だろう


私が、京都よりも奈良に特別に愛着を感じるのは
やはり、万葉の歌の詠まれた飛鳥・奈良時代が、そうさせるのだろう
一昨日、駆け足で奈良市から南の吉野・奥千本まで走った
移動は勿論車だが、奈良、葛城、吉野...随分歩いた
万葉の息吹を感じながら、歩いた

こうした一気に周るのは、初めてのことだが
そうしたくなる思いにさせたのは...やがて「捨てられる都」となる...古都
しかし、そこに政治的な情景ではなく、京都のような「雅」でもない
素朴で、剥き出しな「人々の映像」が感じられるからだ
後の「歌論書」のように、「歌」の評価以前に
その歌が詠われた「山、川、花、鳥...」それらが「飾り気なし」に映し出される

やはり、「奈良」は...素敵なところだ
 
 

掲載日:2013.07.22.

 


 (更大伴宿祢家持贈坂上大嬢歌十五首)
  戀死六 其毛同曽 奈何為二 人目他言 辞痛吾将為
   恋ひ死なむそこも同じぞ何せむに人目人言言痛み我がせむ
 こひしなむ そこもおやじぞ なにせむに ひとめひとごと こちたみあがせむ 
 【語義・歌意】  巻第四 751 相聞 大伴家持 




 【751】語義 意味活用・接続 
 こひしなむ[戀死六] 
  こひしな[恋ひ死な]  [自ナ変]恋焦がれて死ぬ  未然形
  む[助動詞・む]  [推量]~だろう   終止形
 そこもおやじぞ[其毛同曽]  
  そこ[其処・其所]  [中称の指示代名詞]その場所、それ、そのこと
   [対称の人代名詞]親しい目下の者や友人に対して用いる あなた、きみ
  おやじ[形シク・同じ]  「おなじ」の古形(上代語)、同一である、同じ
   「おやじ」は、鹿持雅澄『万葉集古義』による [左注・同
  ぞ[係助詞](上代「そ」)  [断定]~だ 
 なにせむに奈何為二
  なにせむに[何為むに]  反語を表す、どうして~か(いや、~ない)
   [成立ち]代名詞「何」+サ変動詞「為(す)」の未然形「せ」+推量助動詞「む」
   の連体形「む」+格助詞「に」
 ひとめひとごと[人目他言
  ひとめ[人目]  他人の見る目、傍目、人の往来 
  ひとごと[人言]  人の言うことば、世間のうわさ
 こちたみあがせむ[辞痛吾将為] 
  こちたみ[形ク・言痛し]  人の口がうるさい、煩わしい   終止形
    「言痛し(こちたし)」のミ語法 
    ミ語法+「す」は、「~だと思う」の意 
   せ[為(す)]   [他サ変]ある行為をする  未然形 
   む[助動詞・む]   [推量]~だろう   未然形に付く
 掲題歌トップへ
 
 
 【左注】
 
 この「同」は、「おなじ」、「おやじ」と二通りの訓があるが「万葉集古義」による
 日本書紀「天智紀」の歌謡に「於野児」を「おやじ」との訓がある
 






 「恋しく思はしむる」...せめて夢に...
 「それほど恋と言うのは...」

【歌意】752

せめて夢にだけなりとも、見ることが出来たら、
それでいいのだけれど
これほどまでに、見られないと言うのは
恋に死ね、ということなのでしょうか
 

昨日の、生きていても逢えないのなら、死ぬ苦しみと同じだ、といった家持
ならば、何としてでも、逢おう
そして、続く今夜の歌もまた、「恋に死ぬ」と詠う

家持の熱意を感じさせると同時に
そこまで言わせる大嬢の「想い」とは何だろう、と
やはり考えてしまう
何が障害なのか...大嬢の家持への相聞歌に偽りがなければ
家持が、これほど「苦悩」しながら詠うこともないと思うのだが...

しかし、もっと素直に読んでみることも必要だ
私はすぐに、大嬢、坂上郎女の家持に対するお仕置きのような情景に感じてしまうが
単純に、家持は大嬢に逢いたいのだけれど、今すぐには逢えない
だから、せめて夢にでも見たいのだが
それもまったく見られない...
もう逢いたくて逢いたくて、恋やつれで死にそうだ...と訴えている
その解釈の方が、自然なのかもしれない

でも、私にはどうしても引っかかるものがある
家持と大嬢の結婚生活が、まったく思い描けないからだ
勿論、「歌の世界」が、私生活をすべて詠うものではない
むしろ、結婚後の二人にとって
恋人時代のような、ときめくような「歌」の遣り取りは必要なくなった
そう思う方が、ごく自然なことだろう

ただ、それでも私が、この二人の結婚生活に「実態」を見られないのは
家持が、越中から都に帰ってきて、廟政に参加することになり
あるいは、当時の政争への「嫌悪感」に身を晒しているとき
彼は、どんな歌を詠ったか...防人たち東国人の心と同じように傷めたり
弧愁にさいなまれながらも、深める「情感」
どうして、そこに大嬢はいないのだろう
老いてからの陸奥国への赴任は、どれほど辛いことか...
大伴家の氏長として、家持は時代の要請をすべて感受していた
しかし、若い頃のあの大伴家持の「姿」は、もう見えない

あるいは、家持の妻が、仮に坂上郎女のような歌才に秀でた女性であれば
家持は、もっともっと違った晩年の「歌世界」を作っただろう
やはり、大嬢は...そうした家持には...支えにはなれなかった、
ということなのかもしれない
 
 
 右頁【万葉集古義四巻之下】
夢二谷は、夢になりともといふ意なり、○不所見の下、而字脱たる
○歌意は、
夢になりとも見えばこそ、すこしは心のなぐさむ方もあるべきに、
夢にさへ見えずて、かくばかり恋しく思はしむるは、恋死に死ねと
ての事かとなり


なぜ、ここで江戸時代の学者の原文を載せたかと言えば
以前の私なら、まったく見向きもしなかった古めかしい「訳文」なのに
最近になって、妙にその文体が美しく思えるようになってきた
私にとっては、この江戸時代の「訳文」であっても、「古語」なのだが
それでも、少しはそのまま理解できる

古語に触れる、ということは
少しずつ、慣れていくということであって
いきなり千年以上も前の文章が読める、と言うことではない
私は...まだ触れ始めたばかりだ...
でも、その魅力には...どっぷりと浸ってしまった
 
 
 

掲載日:2013.07.23.

 


 (更大伴宿祢家持贈坂上大嬢歌十五首)
  夢二谷 所見者社有 如此許 不所見有者 戀而死跡香
   夢にだに見えばこそあれかくばかり見えずてあるは恋ひて死ねとか
 いめにだに みえばこそあれ かくばかり 
 みえずてあるは こひてしねとか
 【語義・歌意】  巻第四 752 相聞 大伴家持 




 【752】語義 意味活用・接続 
 いめにだに[夢二谷] 
  いめ[夢]  上代語〔「寝(い)目〕の意か、ゆめ
  に[格助詞]  [比況]~のように 
  だに[副助詞]  [強調]せめて~だけでも、~だけなりとも
 みえばこそあれ[所見者社有]  
  みえ[見ゆ]  [自ヤ下二]見える [左注・見ゆ  未然形
  ば[接続助詞]  [順接の仮定条件]~なら  未然形に付く
  こそあれ  ~は確かに~であるけれど、~はともかく[左注・こそあれ
   [成立ち]係助詞「こそ」+ラ変動詞又はラ変補助動詞「有り」の已然形「あれ」
 かくばかり如此許
  かくばかり[斯くばかり]これほどまでに、こんなにも
 みえずてあるは[不所見有者
  みえ[見ゆ]  第二句既出 
  ず[助動詞]  [打消し・ず]~ない 連用形 未然形に付く
  て[接続助詞]  [原因・理由]~ので、~のは [左注・て 
  あるは[接続詞]  または、もしくは 
   [成立ち]ラ変動詞「有り」の連体形「ある」に係助詞「は」のついたもの
 こひてしねとか[戀而死跡香] 
  て[接続助詞]  [単純接続]~て、そして   連用形に付く
   しね[死ぬ]  [自ナ変]命を失う、死ぬ  命令形
  と[格助詞]  [比喩]~のように   体言・体言に準ずる語に付く
  か[係助詞]  [疑問]~か、~だろうか  
 掲題歌トップへ
 
 
 【左注】
 見ゆ
『「見る」と「見ゆ」』
「見る」は他動詞、「見ゆ」は自動詞
「見ゆ」は「見る」の未然形に助動詞「ゆ」がついて出来た語
「ゆ」という助動詞は上代に用いられ、受身・可能・自発の意を持つ
だから、「見ゆ」は一語であるが、
「見る」に、受身・可能・自発の意を添えた意味を持つことになる
 
 こそあれ
「こそ」と「あれ」の間の、「あれ」を修飾する語・語句が省略されたもので
前後の文脈によって意味が決定される
この歌では、「良く」が省略され、「こそよくあれ」となる
「こそあれ」を含む句で述べられた事柄を一応は容認・肯定しておいて
後続句とは逆接の関係で続く
「~は確かに~であるけれど・~はともかく」
 
 
 
 『万葉集古義』によれば、[不所見の下、而字脱たる歟]とあり、
「而」の脱字ではないか、として訓じている
 

【万葉集古義】鹿持雅澄
巻第四-752、753の頁 (訓は万葉仮名に傍訓であるが、朱色の注は左頁に書き出す)
 



 





 「大嬢は詠う」...大嬢の歌なれば...
 「作家・大伴家持」
【歌意】753

想いを諦め、どうしようもなく打ち萎れていたのに
それに、こんな生半可な気持ちで、
こんなに苦しむほどに、どうしてまた逢い始めたのだろう
 
これが、単独の相聞歌であるなら、家持の純粋な気持ちだとは思う
しかし、このような自らの「苦悩」を、大嬢へ贈る歌として...
これは、相応しい歌なのだろうか
この歌を、大嬢が読むとき、どんな気持ちになるだろう

想いを諦める...一体何のことでしょう、と言うのではないか
むしろ、「その気がなくなって」というべきでは...そんな反論も聞こえてきそうだ

いくつかの訳文を読んでも、その歌意にあるのは
こんなに苦しむのに、どうしてまた逢い始めたのだろう、と
確かに、私にもそんな「歌意」しか思い浮かばない

この歌を読む限りにおいては...ということだが...

初句の「思ひ絶え」を、おそらく数年前の「離絶数年」をさすという
その原因が、家持にあることは、ある程度の確立で間違いないとは思う
ならば、その間を「侘びにしものを」という意味が解らない
自ら「絶えて」しまったのなら、何も「侘びしい」と思うのもおかしい

この句だけを読むと、大嬢の方から、突き放された、としか思えない
勿論、大嬢というより、その母・坂上郎女だろうが...
家持の奔放な女性関係にお灸をすえた「離絶数年」となるだろうか
しかし、家持はその間にも、身分の問題があって「妾」と表記されるが
「愛妾」という妻がいる
彼女への情けのかけ方は、その死を悼む歌からも痛いほど伝わる
「愛妾」というほどだから、「正妻」になるべき女性は確かに容認されていた
それが、大嬢だとは思うが、それなのに「離絶数年」というのは
単に家持の「女性関係」だけが原因ではない、と思う

そもそも、「なかなかに」という意味が解らない
仮に、そんな中途半端な気持ちであっても
それを、やがて妻に迎えようとしている大嬢へ、歌として贈るのだろうか
普通なら、胸に秘めることばであり
あるいは、一つの文芸作品としての「創作」のようなものとして披露されるべきものだ

まだ、家持のこの十五首の歌群をすべて並べていないが
「遊仙窟」の引用があったり、「夢」にこだわったり...
ひょっとしたら、この歌群...家持の「短編小説」なのかもしれない
実態とそぐわないから、といって悩むのは
その作者の真意が伝わらないからであり
案外、「私の短編小説を、大嬢に贈ったよ」なのかもしれない

そう思えば、かつて私にも記憶がある

学生の頃、初めて万葉集に触れ
その中で、一首一首にドラマを感じた
勿論、史書にも登場する人物などの詠歌に
その実像といえるような、史書には描かれない「心」のさまを読んだ
そのときに思ったのが、この万葉歌一首から
それをモチーフにした「短編」が書ける
そう思って、いくつか書いたものだ

史書がすべて事実だとは思わない
同じように、歌がすべてを語っているとも思わない
それまで、まったく文学の世界とは無縁だった私でさえ気づいたこと
それは、歌の創作...万葉の時代にも、そうした「創作」の概念はあったはずだ

そう思ったら、ふと気づく
この十五首の歌群、家持と大嬢がモデルなら
当然、その創作の中にも「大嬢」がいるはずだ
大嬢の「歌」として登場しなければおかしい

この〔753〕歌...大嬢の立場で歌われたものかもしれない
そう思ったら、先ほどまでの矛盾も...解消してしまった

この歌が、大嬢をモデルにした創作の中の女性が詠ったもの
あるいは「台詞」とすれば、

あなたの方から、私を捨てておいて
今度は、逢いたいなどと...
一旦は諦めもしたのに、何だかまた胸がときめいてしまって...
こんなどっちつかずな気持ちで、また逢うなんて
どうして、そう思ったのでしょう...

これが、大嬢だったら、まさにぴったりなんだけど...

そもそも、「恋文」めいた十五首という固定観念がよくない
こうしてまとまった歌群は、なんらかの「物語」を持てるものだと思う
そう思うと、笠女郎の「二十四首」の歌群
もう一度、読み直してみよう

いや、その前に、この十五首も、家持と大嬢の物語として
再構築できるかもしれない...家持の「短編小説」として...

考えてみると、家持の派手な「女性関係」をとやかくいうが
それが、すべて事実だとしての「家持論」になっている
しかし、家持が「私小説」めいた、かなりの部分の虚構を詠っている可能性もある
何しろ、この万葉集の編集に大きく関わった人物だ
いくら時代性として片付けられる、「おおらかさ」があったにしても
家持の女性関係ほど、とやかくいわれるのは、それが事実だとの前提に立っている

しかし...「創作」の概念が存在すれば...
あの「遊仙窟」が流行った時代でもあるのだから...
 
 

掲載日:2013.07.24.

 


 (更大伴宿祢家持贈坂上大嬢歌十五首)
  念絶 和備西物尾 中々爾 奈何辛苦 相見始兼
   思ひ絶え侘びにしものを中々に如何で苦しく相見そめけむ
 おもひたえ わびにしものを なかなかに
 いかでくるしく あひみそめけむ
 【語義・歌意】  巻第四 753 相聞 大伴家持 




 【753】語義 意味活用・接続 
 おもひたえ[念絶] 
  おもひたえ  [自ヤ下二・思ひ絶ゆ・連用形]連用形の中止法か 
   その気がなくなる、(他動詞的に使われ)あきらめる [左注・中止法 
 わびにしものを和備西物尾] [左注・わびにしものを 
  わび[侘ぶ]  [自バ上二・連用形]思い悩む、寂しく思う 
   (動詞の連用形に続く場合)~て思い悩む、どうしようもなく~
  に[格助詞]  [強調]~に  動詞の連用形につく
   「格助詞・に」には基本的に体言・活用語の連体形に付くが、
   [目的・強調]の場合は、動詞の連用形につく
  し[助動詞・き]  [過去・連体形]~た、~ていた  連用形につく
   過去に直接経験した事実を回想していう意を表す
  ものを[接続助詞]  [逆接の確定条件]~のに  連体形につく
 なかなかに中々爾
  なかなかに[形容動詞ナリ・連用形]中途半端なさま、かえって~しない方がいい
   古くは、どっちつかずの中途半端な状態で、かえって良くないという感じに用いる
 いかでくるしく[奈何辛苦] 
  いかで[如何で]  左注・いかで
  くるしく[苦し]  [形容詞シク・連用形]痛みや悩みで辛い、苦しい
 あひみそめけむ相見始兼] 
  あいみ[相見る]  [他マ上一・連用形]対面する、男女が関係を結ぶ
   そめ[初む]  [接尾マ下二型・連用形]~始める [左注・そむ
  けむ[助動詞]  [推量・けむ・終止形](疑問語を用いて)~たのだろう
 掲題歌トップへ
 
 
 【左注】
 中止法
連用形の用法の一つ
文を途中で一時中止する用法で、前の文節と後の文節とが対等の関係にある場合が多い
この中止法に立つ連用形を、特に中止形ということがある
この歌では、次の「侘ぶ」に続くこともあり、中止法ではないのかもしれない

 
 わびにしものを
『万葉集古義』では、「和備西物尾」の下に、
遠有者和備而毛有呼(とほくあらばわびてもあらむ)」との意があるという
古今和歌集の例によっているので、書き出してみる
 
【万葉集古義】鹿持雅澄
巻第四-752、
753の頁 (訓は万葉仮名に傍訓、原文注は朱筆だが白黒コピー)
 




和備西物尾は、此下に、遠有者和備而毛有呼(とほくあらばわびてもあらむ)、古今集に、今しはとわびにしものをなどとある、和備に同じくて、苦しさの余に、よしやさもあらばあれと念ひ放ちて、わびつつありし物をといふ意なり、○歌意は、苦しさの余に、よしやさもあらばあれと念ひ放ちて、わびつつありし物を、なまなかに相見そめて、いかでかく、くるしき目をみることぞなり


 いかで
述部に助動詞「む・じ」、助詞「ばや・てしがな・にしがな」など
願望に関係する語がくるときは、「願望を表す(何とかして、どうにかして)」
述部に助動詞「む・けむ・らむ・べし・まし」、助詞「ぞ・か」など
疑問・反語に関係する語がくるときは、「疑問を表す(どうやって、どのようにして)」
そして「反語を表す(どうして~か、いや~でない)」
この歌での「述部」には、「助動詞・けむ」が用いられている
ついでに言うと、多くの注釈本では「なにか」と訓じられている
歌意には影響はないと思う...ほとんど同じ
 
 そむ 
動詞の連用形について、「~始める」、「初めて~」の意を表す動詞をつくる
〔例語〕相見初(そ)む ⇒互いに恋心を抱き始める
他に、「言ひ初む・生ひ初む・思ひ初む・聞き初む・来初む・恋ひ初む」など
 


 





 「くるふて」...おもほゆる...
 「ことばさがし」

【歌意】754

ようやく契りを交わして
逢ったばかりなのに...まだ幾日も経ていないというのに
こんなにもひどく、狂るわんばかりに想うことなど
いったい、あるのだろうか
 
ただたんに、逢ってから幾日も経ずして狂おしいほどに恋焦がれる
それだけではないように思える
「相見る(逢い見る)」には、男女の関係を結ぶ、という意味もある
大嬢との仲を、何とか修正してやっと「妻」として迎え入れることができた
しかし、思っていたほど頻繁には逢えない
その僅かな「距離」が、恋しさを募らせる
そして、そのつい先日逢ったばかりだからこそ
堪えていた「何か」が噴出すかのように、暴れまくる
勿論、心の中でのことだが
「離絶数年」の重みを、この歌であらためて思い知ったことだろう
その「仲違い」を経て結ばれ、本来なら喜びだけが占めるはずなのに
そうではなかった

離絶の期間の分まで、この期に及んで噴出してしまった、とでもいうような歌だ
「恋のために現(うつ)し心がなくなる」と諸本では解釈になる歌だが
よく考えてみれば、この時点での「家持と大嬢」は...
何もそれほど凄まじい「想い」を伝え合わなくてもいいはずだ

この歌だけを抜き出せば、あたかも恋人同士の逢瀬の後の「恋の苦しさ」になる

この歌群の十五首、残り四首になるが
一通り並べ載せたあと、今度はその「物語性」を確認してみたい

歌群の内容に、どうしても普通の「想い」を感じることが出来ない
勿論、歌だけでその実像など追うことは出来ないが
これが、一般に言われている「家持像」を固定させてしまっているのなら
少なくとも、私の感じる人物像とは違う「何か」に気づくはずだ
それに、気づかない、もしくは見いだせなかったら...
やはり、「家持は、相当なプレイボーイ」というレッテルに頷くしかない

恋を成就させた男女、ここでいう「家持と大嬢」
この二人を包み込む「恋歌」...違う、この十五首は、そうではない

 


掲載日:2013.07.25.


 (更大伴宿祢家持贈坂上大嬢歌十五首)
  相見而者 幾日毛不經乎 幾許久毛 久流比爾久流必 所念鴨
   相見ては幾日も経ぬをここだくもくるひにくるひ思ほゆるかも
 あひみては いくかもへぬを ここだくも くるひにくるひ おもほゆるかも
 【語義・歌意】  巻第四 754 相聞 大伴家持 



 【754】語義 意味・活用・接続 
 あひみては[相見而者] 
  あひみ[相見る]  [他マ上一・連用形]対面する、逢い見る、男女が関係を結ぶ 
  て[接続助詞]  [単純接続]そして、~て  連用形につく
  は[係助詞]  [主語にあたる語句をとりたてて提示する]~は
 いくかもへぬを[幾日毛不經乎]  
  いくか[幾日]  何日、いくにち 
  も[係助詞]  [強意]~も
  へ[経(ふ)]  [自ハ下二・未然形]時がたつ、月日をおくる、通過する
  ぬ[助動詞・ず]  [打消し・連体形]~ない  未然形につく
  を[接続助詞]  [逆接の確定条件]~のに  連体形につく
 ここだくも[幾許久毛]
  ここだく[幾許]  [上代語・副詞](こんなにも)多く、(こんなにも)ひどく
 くるひにくるひ[久流比爾久流必] [左注・くるひにくるひ
  くるひ[狂ふ]  [自ハ四・連用形]正気を失う、気が狂ったように暴れる
   (物の怪などがとりついて)気が変になる
  に[格助詞]  [強調](同じ動作を重ねる)~に
 格助詞「に」は、体言・活用語の連体形に付くが、「目的・強調」では、詞の連用形に付く
 おもほゆるかも[所念鴨] 
  おもほゆる[思ほゆ]  [自ヤ下二・連体形]自然に思われる、しのばれる
   四段「思ふ」の未然形「おもは」に上代の自発の助動詞「ゆ」、「おもはゆ」の転
  かも[終助詞]  [詠嘆・感動・疑問]~であることよ、~だろうか
 掲題歌トップへ
 
 
 【左注】
 [狂ひに狂ひ
「狂ふ」は憑き物などのために平常心を失うこと
『日本霊異記』下三十六話に、「時病者託言」とあり
その「託」に「久流比天(くるひて)」の訓釈がある
『万葉集古義』では、
「久流比爾久流必は、狂に狂ひなり、狂う事の絶ず甚しきよしなり」とある
 
 
【万葉集古義】鹿持雅澄
巻第四-754、755、756の頁 (訓は万葉仮名に傍訓、原文注は朱筆だが白黒コピー) 




久流比爾久流必は、狂に狂ひなり、狂う事の絶ず甚しきよしなり、○歌意は、相見て別ては、まだいくばくの日数も経ざる物を、そこばく狂ふ事の絶ず甚しく、さけび袖ふりなどして、恋しく思はるる哉となり

 



 「いかにかもせむ」...おもかげみし...
 「なぜ人目が気になる」
【歌意】755

これほどまでに、あなたの面影ばかり思ってしまって
どうしたらいいのだろう
人目だって、こんなに多いのに...
逢いに行けやしない
本当に困ったなあ...
 
歌の言葉は、逢いたくて逢いたくて、面影ばかりを見てしまうのに
その歌意を書き出してしまうと...意外と、そうでもない
どうにもならない現状を、まるで他人事のように嘆いてみせる

人目を気にする、と言うのは
どんな関係なのか、大伴家を背負う家持、そしてその恋人、もしくは妻
そんな立場でも、「人目」を気にしなければならないのだろうか...
あるいは、まだ叔母・坂上郎女の機嫌が良くなくて
大っぴらには逢えない二人、ということか

この歌群を、創作だと思うと、いくつもの情景が浮んでくる
そもそも「恋歌」の一番の聞かせどころは、
その「悲劇性」もしくは「切なさ」だと思う
何も障害のない二人を詠っても、聞く人は心地よく胸に響かせるだろうか

それに、二、三首の「激しい恋歌」なら、まだ目も耳も新鮮だが
このように十五首、綿々と同じような「心」を聞いたり読んだりすると
人は「まひ」してしまうのではないだろうか
特に、この十五首の底流を走る「熱烈さ」は、次第に「色褪せて」しまいかねない

歌の一首に「ドラマ」があるのなら
その歌を繋ぎ合せると、一つの大きな「物語」になってしまうこと
一首一首に篭められた歌の情景を繋ぎ合わせれば、「一つの物語になる」

もっとも、この十五首が、一まとまりだったのかどうか...
それは、編集時に題詞を付けた「編者」しか解らないだろうが
今、その前提に疑問を持ってしまうと
これからのことは、いやこれまでのことだって、仮定の前提はむなしい

だから、あくまで、こうした「可能性」の中で、読めるかどうか
今ある材料の中で、万葉の時代を思い浮かべてみるのも、楽しいものだ




掲載日:2013.07.26.


 (更大伴宿祢家持贈坂上大嬢歌十五首)
  如是許 面影耳 所念者 何如将為 人目繁而
   かくばかり面影のみに思ほえばいかにかもせむ人目繁くて
 かくばかり おもかげのみに おもほえば いかにかもせむ ひとめしげくて
 【語義・歌意】  巻第四 755 相聞 大伴家持 



 【755】語義 意味・活用・接続 
 かくばかり[如是許]  これほどまでに、こんなにも
  [成立ち]副詞「斯く」に、副助詞「ばかり」
 おもかげのみに[面影耳]   
  おもかげ[面影]  顔つき、幻影、まぼろし、おもかげ 
  のみ[副助詞]  [用言の強め]~しているばかり、ひたすら~でいる
   「のみ」を含む文節が修飾している用言を強める 次の「おもほえば」
  に[格助詞]  [状態・結果]~と、~に  体言につく
 おもほえば[所念者]
  おもほえ[思ほゆ]  [自ヤ下二・未然形]自然に思われる、しのばれる
     四段動詞「思ふ」の未然形「おもは」に上代の自発の助動詞「ゆ」、「おもはゆ」の転
  ば[接続助詞]  [順接の仮定条件]~(する)なら、~だったら
 いかにかもせむ[何如将為] [左注・いかにかもせむ
 いかに[如何に]  [副詞]どのように、どんなに、どれほど
  状態や程度または理由などを疑い推測する時に用いる
 かも[終助詞]  [疑問]~か、~だろうか
 せ[為(す)]  [サ変・未然形]ある行為が起こる、ある行為をする
 む[助動詞]  [推量・む・終止形]~だろう  未然形につく
 ひとめしげくて[人目繁而] 
  ひとめ[人目]  他人の見る目、はため、人の往来、人の出入り
  しげく[繁し]  [形シク・連用形]量が多い、絶え間ない、しきりである
  て[接続助詞]   [原因・理由の確定条件]~ので  連用形につく
 掲題歌トップへ
 
 【左注】
 [いかにかもせむ 
「いかにせむ」という語がある
副詞「いかに」+サ変動詞「為(す)」の未然形「せ」+推量の助動詞「む」の終止形
古語辞典のこの語意は、「思い迷うさま、どうしたらいいだろう、どうしようもない」と
この歌の歌意に、ここで「かも」が加わって、どんな変化になるだろう
『万葉集古義』の歌意をみると、「
いかにかせむ」といっている
著者当時のこととしては、それが「訳語」なのだろうが
「いかにかせむ」...
古語辞典に、「かも」の項で、こんなことが書いてあった

「かも」の用法は複雑であるが、基本は「か(終助詞・係助詞)」+「も(終助詞・係助詞)」なので、「か」の用法に準じて判断すればよい。文末に用いられている場合は、疑問か詠嘆か、全体の文章で判断する。
 
「いかにかもせむ」、「いかにかせむ」どちらも古語辞典に、その項はないが
「いかにせむ」に「かも」もしくは「か」で、疑問の気持ちがこめられるのだろう
それに、鹿持雅澄は「~ことよ」と、詠嘆の終助詞「も」織り込んでいる
 
【万葉集古義】鹿持雅澄
巻第四-754、755、756の頁 (訓は万葉仮名に傍訓、原文注は朱筆だが白黒コピー) 





歌意は、人目繁くて、逢べきたづきなければ、かくばかり、面影にのみ妹がおもほえつつ、はてはてはいかにかせむことよとなり
 
 



 「こひまさりけり」...しましくこひは...
 「相聞に埋もれて、家持は...」

【歌意】756

お逢いして、もうしばらくは「恋しさ」に苦しむことも
それに、心も静まるだろうと思っていたのに
それどころか、ますます恋しさがつのってきてしまって...
以前よりいっそう苦しくなってしまった

この歌が、家持の大嬢への贈歌というなら
次の歌は、どうだろう (2013年4月4日の掲題歌)

 相見而者 戀名草六跡 人者雖云 見後尓曽毛 戀益家類
  相見ては恋慰むと人は言へど見て後にぞも恋まさりける
 あひみては こひなぐさむと ひとはいへど みてのちにぞも こひまさりける
 巻第十一 2572 正述心緒 作者不詳


逢うと、狂おしかった恋しさも消えると人は言うが
逢った後のほうこそ、恋心はましてしまったではないか

ここの「ては」は、接続助詞「て」に係助詞「は」で、[754]と同じ用法
「ける」連体形の結びで、「係り結び」、「も」が係助詞

私のあやふやな文法よりも、ここで気になるのは
この歌の「歌意」...
初めは「あひみては」の「相見者」と「相見而者」の相違を見ようと思って
この歌を引っ張ったのだが、諸説にもあったように
この類想歌...そっくりだ
ただ、敢えて違いを探せば
この[2572]は、人伝に聞いたことを受けて
後に実際に自分が体験したけど...となるが
掲題歌[756]では、表向きは家持が大嬢へ贈った歌なので
人伝ではなく、自分はこう思っていたけど
実際は違うものだった、と告白している

ここの類想の二首が、どちらが先なのかは分からないし
全くの偶然での作歌かもしれない
あるいは、この[2572]に以前から触れていた家持が
拝借したのかもしれない...
もっと、想像を逞しくすれば、この[2572]も含めて
作者不詳歌の中に、大伴家持作が結構あるのでは、と思ってしまう

万葉集には、多くの「恋歌」があり、家持にとっては
どれも自分の詠歌に取り入れたくなるような、まさに「宝の資料」だったことだろう
当時の「歌の評価」が、何を基準にされているのか分からないが
少なくとも、後の時代の「歌集」とは違って
洗練された歌風を求めていく、そんなものではないだろう
詠むべき人が詠み、それは残す
その「詠むべき人」は、何も貴族などの高貴な人とは限らない
その時代に、「欠かせない人たち」なのだと思う

だからこそ、万葉集は、価値のある歌集だと思う

「相見者」の語法で、右頁にも触れた[2558]歌も
次にあげておく

 夢耳 見尚幾許 戀吾者 寤見者 益而如何有
 夢のみに見てすらここだ恋ふる我はうつつに見てばましていかにあらむ
 いめのみに みてすらここだ こふるあは うつつにみてば ましていかにあらむ
 巻第十一 2558 正述心緒 作者不詳

夢にだけ、見てさえこんなにも恋い慕うのだから
実際に逢ったら、どんな風になってしまうのだろう

ここの「てば」は、掲題歌[756]と同じ用法
助動詞「つ」の未然形と、接続助詞「ば」で、仮定条件

歌集には、慣用的に使われる「歌語」がある
しかし、こと「万葉集」となると
その「歌語」が、実際の「詠歌」に基づくものかどうか解らない
これまでも何度も言うように、平安時代になって初めて今で言う「訓」が付けられた
その付けられた「訓」が、作者の「詠歌」を、どこまで再現出来たのかどうか...
原文の漢字一文字で、その違いを比較は出来る
しかし、それをどう読むべきものかは...万葉人が現代に現れない限り...
 


掲載日:2013.07.27.


 (更大伴宿祢家持贈坂上大嬢歌十五首)
  相見者 須臾戀者 奈木六香登 雖念弥 戀益来
   相見てばしましく恋はなぎむかと思へどいよよ恋ひまさりけり
 あひみてば しましくこひは なぎむかと おもへどいよよ こひまさりけり
 【語義・歌意】  巻第四 756 相聞 大伴家持 


 【756】語義 意味・活用・接続 
 あひみてば[相見者]  
  あひみ[相見る]  既出[754
  て[助動詞・つ]  [完了・未然形]~てしまう、~てしまった  連用形につく
  ば[接続助詞]  [順接の仮定条件]~なら、~だったら  未然形につく
   [754]歌の[ては]との違い [左注・てば
 しましくこひは[須臾戀者]   
  しましく[暫しく]  [上代語・副詞]しばらくの間、ちょっとの間
   同じく[暫(しま)し]が上代語であるが、語義は同じで、「しばし」の古形
 なぎむかと[奈木六香登]
  なぎ[和ぐ・凪ぐ]  [自ガ上二・未然形]心が穏やかになる、心が静まる
  む[助動詞・む]  [推量・連体形]~(の)だろう  未然形につく
  か[係助詞]  [疑問]~か  連体形につく
  と[格助詞]  [引用](~と言って、~と思って、~として)の意 
 おもへどいよよ[雖念弥] 
  おもへ[思ふ]  [他ハ四・已然形]考える、思案する、望む、推量する
  ど[接続助詞]   [逆接の確定条件]~のに
  いよよ[愈々・副詞]  (いよいよの転か)ますます、その上に、いっそう
 こひまさりけり[戀益来] 
  まさり[増さる]  [自ラ四・連用形](数量や程度が)増える、強まる
  けり[助動詞・けり]  [詠嘆・終止形]~たことよ、~だなあ  連用形につく
   詠嘆の意をこめて、これまであったことに今、気づいた意を表す
 掲題歌トップへ
 
 【左注】
 [てば 
原文で、この歌は「相見者」とあり、先の[754]歌の[相見者]とは違う
」という語があると、「は」は係助詞になっている
この歌の類想歌である[2572]歌は、「相見而者」で、「は」は係助詞
そして、[2558]歌の「寤見者」は、この掲題歌[756]と同じ用法

『万葉集古義』では、「相見者は、相見たらば、といふ意なり」とあり、
「仮定条件」としての歌意を書いている
 
【万葉集古義】鹿持雅澄
巻第四-754、755、756の頁 (訓は万葉仮名に傍訓、原文注は朱筆だが白黒コピー) 



 
  巻第四-756の一部から、757の頁一部及び、付箋を付け直してのコピー





相見者は、相見たらばといふ意なり、○奈木六は、和むなり、十九に、毎見情奈疑牟等、繁山之渓敝爾生流、山振乎屋戸爾引植而、又妹乎不見越国敝爾経年婆、吾情度乃奈具流日毛無、又念暢見奈疑之山敝などあり、(かげろふの日記に、ただ今はなごころもなき、けがらひの心もとなきこと云々、なごころは、和心なり)○歌意は、相見たらば、しばしは恋しき心の、なぐさむ事もあらむかとおもひしかど、あひてはいよいよ恋しき心のまさりて、苦しかりけりとなり、あひ見ての後の心にくらぶれば昔は物をおもはざりけり、此の心なり
 



 「よのほどろに」...それが辛い恋人同士...
 「重ねてこそ相聞歌」
歌意】757

まだ夜の明け始めるころ、
別れ際の、あなたの思い詰めたような顔が
面影として見えるのです
 
歌意】758
 
こうして、夜が明け始めるころ、
いくたびも同じような別れが続いていると
もう私の胸が切り裂かれ、
焼かれるような苦しみを覚えます
 
家持が、大嬢へ贈った十五首の歌群
その最後の二首を載せたが、この二首は同じような気持ちを
少しだけ時間的な「差」を見せながらも
どうしても、「くどさ」を感じてしまう
しかも、最後には、再び「遊仙窟」の文章を引用している
それほど、想いが熱烈であることを表現したものだろう
何しろ、当時の流行り小説「遊仙窟」は
貴族社会では、かなりの広がりを見せていたようだ
刺激的な主人公たちの行いが、どれほど万葉人たちを魅了したのか
引用されている文章からも、十分伺える

『遊仙窟』作品そのものは、断片的にしか私はまだ知らないが
いわば「私小説」の類なのだと思う
物語、というより、人の心の「ありさま」が赤裸々に書かれており
そこに、それまで「歌」のことばで包み込んでいた「世界観」が引っ繰り返された
そんな感じはないだろうか

それにしても、と思う

同じような「語句」を繰り返すように「二首」が残る
本来なら、どちらかが第一稿で、本稿は一首ではないか、とか
あるいは...私は、こちらを真剣に考えているのだが
この二首そのものが、二人の「相聞歌」ではないか、と
勿論、実際の家持と大嬢の「相聞歌」ではなく
あくまで、家持の創作の「物語」における「二人の相聞歌」

便宜上、家持と大嬢の名で述べるしかないが
[757]歌を大伴家持の歌とすると
[758]歌が、それに応えた、大嬢の歌になるのでは、と思える

一人の作者が、このような似たような歌を詠うよりも
二人がそれぞれに、同じ「明け方頃の、辛い別れを詠う」
そう思って、この二首に触れた方が、私には断然すっきりする

家持は、創作した物語の中で
恋人同士の、片時も離れがたい気持ちを詠わせ
本当の「恋」とは、こうなのだろう、と大嬢へ伝えているのかもしれない

男が、別れ際の女の表情に哀しみ、寂しさを見つけ
それが始終頭からはなれないことを気にする
女は、こんな別れ方を何度も何度も繰り返していると
もう体を切り裂かれ、焼き焦がされるような思いです、と詠う

これは、「二人」の相聞歌として成り立つべきもので
題詞に惑わされて、家持が自分の気持ちとして、と言う意味で贈ったのではなく
題詞を単純に読み、家持の「創作」を大嬢に「プレゼント」した
そう思った方が、この歌の並び方に自然なものを感じる

私のとって、家持の「恋人」は、笠女郎だから
今、こうした見方も出来るかもしれない、と気づいたことが
再び、「大伴家持」へのアプローチの方法を見出せたような気もする

あらたな「家持観」...しばらく、のめり込みそうだ

それにしても、『万葉集古義』
あっさりと歌意だけを記すこともあれば
どうしてこんなにも、「例」が続くのだろう、と驚いてしまった
確かに、評判通り、鹿持雅澄の時代で手にし得る資料は
おそらく徹底的に調べつくしたのだろう
この[757]歌において、彼が持ち出した「ほどろ」も
それが「ほど」であり、「ろ」は契沖が「言辞」だと言ったとか
あるいは、彼自身は、当初「ほどろ」を「まだら」と解釈して
夜之斑...要は明るくも鳴く暗くもない...などと書いていたり

この文章に触れると、それが現代の「古語辞典」に
「こんな説もある」とか、「当初はこうだった」など
結果のみで書かれている項目を思い出した
そう、古来からの多くの説を吟味して『万葉集古義』は書かれている
それが、現在で唯一の「正論」だとは思わないが
一見識として、参考にするには、これほどの「註釈書」はないと思う

ただ厄介なのは、『万葉集古義』には、歌番号がないこと
そうか、これが本来の「万葉集」だったのだろう
いつ頃から、歌番号が付されるようになったのか解らないが
「注釈書の時代」は、そうした根気の要る手探りの時代だったはずだ

今度明日香の図書室でコピーするのは、
やはり「現代に伝わる万葉集」を一番説明しやすい人麻呂の歌
「ひむがしののにかぎろひのたつみえてかへりみすればつきかたぶきぬ」
この歌の鹿持雅澄が残す言葉を探ってみよう
何しろ、この歌が現在の訓に固定されたのは
まさに賀茂真淵...雅澄とほぼ同時代の大学者の「定訓」だから...
それまでに訓じられていたこの歌を、雅澄は、どう評価しているだろう
あるいは、どんな風に言及しているのだろう

この人麻呂の代表作とされる歌が、実際は賀茂真淵の訓で定まった
それ以来、斉藤茂吉など常に大歌人な学者のお墨付きがあって
こんにちでは、「秀歌」となるこの歌...しかし、そう読むのは...
「人麻呂が実際に、どう詠んだのか」
もう決して我々は知ることはないだろう
ただ、賀茂真淵以前には、こう訓じられていた、との資料はある

この歌を俎上に挙げて、「万葉考」も、いつか行ってみたいものだ

 右頁【万葉集古儀】の註釈
 
 【757】
夜之穂杼呂は、夜之分離(はなれ)なり、穂杼呂と波那禮(はなれ)と通ひて同言なり、集中雪歌に保杼呂とも波太禮(はだれ)とも通しよめる、太(だ)は那(な)とまた殊に親く通へば、保杼呂、波太禮、波奈禮(はなれ)は、皆全同言なり。(八巻に、沫雪の保杼呂保杼呂爾零敷者、十巻に、庭裳保杼呂爾雪曾零而有、八巻に沫雪香薄太禮爾零登、九巻に、落波太列可消遺有などあり)、さて夜の分離とは、夜の明なむと臨る極を云なり、其は夜の最極(かぎり)のはなれなればかく云り、雪に云るも、分離分離に零るを云なり、なほ其ことは、八巻に至りて具註べし、(又余がはじめおもひしは、穂杼呂は麻陀良と同言にして、暁方のまだ明もせず暗きにもあらず、明と暗と打斑りたるほどを、夜之斑と云なるべし、さて雪の歌によめるをも、斑に零したるよしとおもへひかど、なほ初の説によるべし、此言古来説々多かれども、解得たる人一人もなし、まず契沖が、夜の程といふに、呂の言は助辞にくははれるにや、と云るは、いふに足らず、又本居氏の、ほどと、ほのと同言にて、ほのくらき時なりと云るもわろし、夜のほどろは、しか云もすべし、雪によめるは、いとおぼつかなし)、八巻に、秋田乃穂田乎雁之鳴闇爾、夜之穂杼呂爾毛鳴渡可聞、とあるも同じ、○念有四九四は、念有は、契沖云、日本紀に、色の字をおもへりとよめるは、心におもはくの色にあらはるるを、おもへりといふ、明けてもゆかで夜をこめていぬるは、いかなる故にかとうたがひながら、さもいはで、我を出したつとて、何とやらむ、おもへりの見えつるが、おもかけに見えて、わすられぬとなり、(已上)応神天皇紀に、天皇有不悦之色、云々、察天皇之色、允恭天皇紀に、皇后之色不平、雄略天皇紀に、大樹臣神色不変、武烈天皇紀に、忍不發額、敏達天皇紀に、現厳猛色、天武天皇紀に、有不服色、これを続紀三十詔に、無禮岐面幣利無久とあり、(本居氏詔詞解に、顔ぶり顔色なりと云るか如し)、今按に、書紀の訓、又続紀詔の如きは、念幣利(おもへり)を、皆體語にすゑて云るを、此歌なるは用語に活して、四九四と連けたるなり、四九四は、四九は、過し方の事にいふ言なり、下の四は、例の其一すぢなる意を、思はせたる助辞あんり、七巻に、住吉之名兒之浜辺爾馬並而、玉拾之久常不所忘、又吾背子何処行目跡辟竹之、背向爾宿之久今思悔裳、八巻に、秋野之草花我末乎押靡而、来之久毛知久相流君可聞、九巻に、欲見来之久毛知久吉野川、音清左見二友敷、十巻に、天漢渡湍毎思乍、来之雲知師逢有久念者、・・・(中略)・・・○歌意は、夜の明はなれに、吾立出て来し其の時に、妹が名残をしがりけむ、心の、色にあらはれ出し、其貌の一すぢにわすれられず、面影に見えて、恋しく思はるるとなり


 【758】
歌意は、人目を憚りて、のどやかにかたらふ事をも得せず、夜の明はなるるやいなやに、急ぎて吾立出来し事の、名残惜さの積々りて苦しさは、たとへば胸を刀にて截、火にて焼が如しとなり、(遊仙窟に、「未曾飲炭腹熱如焼、不憶呑刃、腸穿似割」とあり)



 


掲載日:2013.07.28.


 (更大伴宿祢家持贈坂上大嬢歌十五首)
  夜之穂杼呂 吾出而来者 吾妹子之 念有四九四 面影二三湯
   夜のほどろ我が出でて来れば我妹子が思へりしくし面影に見ゆ
 よのほどろ あがいでてくれば わぎもこが おもへりしくし おもかげにみゆ
 【語義歌意】  巻第四 757 相聞 大伴家持 
  
  夜之穂杼呂 出都追来良久 遍多數 成者吾胸 截焼如
   夜のほどろ出でつつ来らくたび数多くなれば我が胸断ち焼くごとし
  よのほどろ いでつつくらく たびまねく なればあがむね たちやくごとし
 【語義歌意】  巻第四 758 相聞 大伴家持 



 【757】語義 意味・活用・接続 
 よのほどろ[夜之穂杼呂]  夜のほのぼのと明ける頃 
    (「ほどろ」を「ほど」と誤解したもの)夜更け、夜中 [左注・ほど
 あがいでてくれば[吾出而来者]   
  いで[出づ]  [自ダ下二・連用形](中から外へ)出る、離れる
  て[接続助詞]  [単純接続]~て、そして  連用形につく
  くれ[来(く)]  [自カ変・已然形]来る、行く、通う 
  ば[接続助詞]  [単純接続]~すると、~したところ  已然形につく
   接続助詞「ば」には、未然形に付く「順接の仮定条件」もある(~なら)
 おもへりしくし[念有四九四] [左注・思へらく
  おもへり[思へらく]  思っていること(には)、考えること(には)
  しく[助動詞・き]  [回想・過去]已然形「しか」のク語法  連用形につく
  し[副助詞]  [強調]語調を整え、強意を表す 
 おもかげにみゆ[面影二三湯] 
  おもかげ[面影]  顔つき、様子、幻影、顔かたち
  に[格助詞]   [状態・比況]~のように
  みゆ[見ゆ]  [自ヤ下二・終止形]目に映る、思われる、感じられる
  掲題歌トップへ


 【758】語義 意味・活用・接続 
 よのほどろ[夜之穂杼呂]  同上 
 いでつつくらく[出都追来良久]   
  いで[出づ]  [自ダ下二・連用形](中から外へ)出る、離れる
  つつ[接続助詞]  [継続反復]~しつづけて  連用形につく
  くらく[来(く)らく]  カ変「来」に、上代の接尾語「らく」、名詞化 
 たびまねく[遍多數] 
  たびまねく[度遍し]  [形容詞ク・度遍(たびまね)し・連用形]回数が多い、度々
   「まねし」は日数や回数が多いことをさす
 なればあがむね[成者吾胸] 
  なれば[接続詞]  それだから、したがって、(問いに対し答えて)それは
   [成立ち]断定の助動詞「なり」の已然形「なれ」に接続助詞「ば」
 たちやくごとし[截焼如] [左注・遊仙窟] 
  たち[断つ・絶つ]  [他タ四・連用形]断ち切る、裁断する
  やく[焼く]  [他カ四・連体形]火をつけて燃やす、心を悩ます
  ごとし[助動詞]  [比況]~のようだ、~に似ている   連体形につく
 掲題歌トップへ

 
 【左注】
 [ほど 
「ほど」と誤解した、と辞典にあるので、「ほど」を引いてみると
状態を指すもののほかに、(主として時間的に)ころ、おり、時分、あいだ、など
この歌で使われるような意味としては、「ほどろ」が夜が明けるころであるのに対し、
「ほど」となると、「夜更け」となる
勿論、この歌では「ほどろ」で間違いないのだが
「ほどろ」に「ほど」の誤解が織りこみ済み、というのが、面白いところだ
 
 [思へらく
[成立ち]四段動詞「思ふ」の已然形「おもへ」に
完了の助動詞「り」で、「おもへり」(連用形)、それの「ク語法
 

「ク語法」とは、「く」という「こと・ところ」の意味を持つ接尾語が活用語に付く用法。例えば、「語らく・老いらく・為らく・来らく」などのように動詞に付き、「寒けく・悲しけく」などのように形容詞に付き、「(有ら)なく・(有り)けらく」などのように助動詞に付く。これらの用法について、従来から諸説があったが接続がまちまちのために説明しにくかった。そこで、これを統一的に説明するために、「-aku」という語を考え、この語がそれぞれの連体形について出来たものであるとして、説明することが近年行われるようになった。たとえば、「語らく kataru(連体形)+aku→katar aku→kataraku」ただ、この考えには、「-aku」という語が単独で用いられた例がない点、過去の助動詞「き」の連体形「し」に接続した場合、例えば「言ひしく」などの「-しく」について例外として考えなければならない点など、問題がある。[旺文社古語辞典]
 
 名詞化
形の上では、上二段・下二段・カ変・サ変・ナ変の終止形、上一段の未然形と考えられた形に付く。また助動詞「しむ・つ・ぬ・ゆ」などの終止形と考えられた形にも付く。
上接の語を名詞化するはたらきがあり、中古以降は「おそらく・老いらく」などの語にいわば化石化されて残り、現代に至っている。接尾語「く」と補い合い、四段・ラ変の動詞、形容詞、助動詞「けり・り・む・ず」などには、「く」が付いて名詞化する。この「らく」と「く」との複雑な接続を統一的に説明するために、接尾語の「あく」という語を想定して、上の語の連体形にこれが付いたとみる説があり、本書はこの説に拠っている。
[旺文社古語辞典第三版]
 
 
 遊仙窟 
『遊仙窟』に「未だ曾て炭を飲まねども、腸熱きこと焼くが如く、刃を呑むと憶はねども、腸穿つこと割くに似たり」とあり、この箇所に拠ったものとされている
『万葉集古義』にも述べられている
この文章の場面は、主人公が十娘の婀娜っぽい姿態を垣間見て
心が乱れ、身悶えせんばかりばかりであることを訴えた書状の中の一節
 
 
【万葉集古義】鹿持雅澄
巻第四-757の頁 (訓は万葉仮名に傍訓、原文注は朱筆だが白黒コピー) 


 
  巻第四-757の二頁目(付箋なし)



  巻第四-757の一部と、758



 



 「母から娘へ」...親の辛さもあった...
 「坂上郎女の気概のはてに」

歌意】763

広々と見渡す、この竹田の原に鳴く鶴のように
絶え間も無いものです
私の恋しさは
 
歌意】764
 
早瀬の中に居る鳥のように
どうしてなのかその対処も、手段も解らず
不安に打ちしがれて過ごしている、わが娘、大嬢...
ああ...
 
歌意】726
 
私がもう二度と戻らないと言うわけではないのに
家の門のところでもの悲しく私を見送った大嬢
そんなあなたに、家の事を任せて行ったことを思うと
こんなふうに身は痩せ、嘆きばかりで袖も濡れてしまって...
こんなにも心配で不安だと
故郷であるこの地に、幾月もいることなど、できないですよ
 
 
歌意】727
 
あなたが、朝の髪のように乱れて恋しがるから
私の夢に、あなたが現れたのですね





とりあえず、歌番号の順に読んだ方が良さそうだ
昨日までの流れで、家持の十五首の贈歌のあとを追っていたら
大嬢の姉・田村大嬢、そして母・坂上郎女が大嬢へ贈った歌に出逢う
しかし、どの歌も、大嬢への「気掛かり」を感じさせる

それを最も感じたのが、[726]歌だ
母親の娘への愛情というより、まるで「不憫なわが子」へ注ぐ嘆きの歌だ
この歌の背景は、おそらく大嬢が家持と結婚して
その佐保の屋敷に母とも一緒にいたのだろう
しかし、坂上郎女は、娘を...佐保の大伴の屋敷を任せて、竹田の庄へ帰る
この歌で使われる「刀自」が、広義での女性への敬愛の呼称であるのは解るが
私には、「主婦」の意が強く感じられる
だからこそ、そんな重責を与えて自分は故郷へ帰ったことを
坂上郎女は気にしている

まだ思い浮かべられる背景もある
この四首に流れる、大嬢への「いたわりよう」は、
あたかも結婚生活が上手くいかなくて、悩んでいる娘への「慈しみ」だ

確かに、家持との事は何も触れられていない
あくまで、寂しさに落ち込む大嬢を、郎女は気にしている
しかし、どうして「寂しい」のか
その原因は...あるいは、家持が都にいない時期なのかもしれない
この歌の前後には、「久邇京」から歌ったものもある
その時期だったこともあるだろう
家持と離れて、佐保の大伴邸に留守を任された大嬢
母親が、これほど気にかけるなんて、やはり大嬢は「お姫様」だったようだ

もう一つ気になるのが
[726・727]歌の後に左注で記された「右歌報賜大嬢進歌也」
この二首は、大嬢の歌に対して「応えた」歌になっている
しかし、その大嬢の歌が残っていないというのだ
通説では、編集段階で、家持がそれを削除したことになっているが
「家持の編集者としての裁量」だけではなく
個人的な「裁量」で、削除が容易なものであれば
万葉集中、もっと家持にとって不都合な「歌」はある
もっとも、「創作」を頭に入れておけば、それも問題ではないが
ならば、ここで大嬢の歌を「削除」しただろうと、定説があるなら
それが、どのような内容なのか、勿論推測でしか出来ないが
その「研究」もあるはずだ

歌と言う手段で、「虚構と現実」を織り交ぜて詠う時代
家持が「削除」しただろう「歌」とは
現実の「不名誉な」歌をうかがわせる
大嬢の不名誉なのか、それとも家持に関わることなのか...


大嬢は、可憐な少女時代から、きっと家持を慕っていたことだろう
そして、母親からも、家持の許嫁として育てられたはずだ
それが、長ずるに従って、「大人の狡さ」ばかりに遭遇し
反面である「大人の機微」を理解できないまま結婚した
そうなると、すべてが家持次第、ということになる
大嬢を大切にするも、蔑ろにするも、
その家持のとる行動のすべてに、大嬢は一喜一憂するだろう

そんな風に思っていたら
この坂上郎女の四首が...
単に親元から放して、嫁がしてその娘の不安や悩みを
「親元を離れた寂しさ」に言葉を変えて
実際は、大伴宗家へ「嫁がしたこと」を悔やんでいるのでは、と思えてきた
勿論、それが大伴家持だから、ということもある
大嬢を大伴宗家に嫁がせるのは、きっと郎女の切なる希望だったのだろう
あるいは、異母兄・旅人との約束だったのかもしれない
名門大伴家の再興を、旅人と郎女が
若い二人に託したものの、家持はともかく大嬢にはその荷が重過ぎた

それを、郎女は悟ったのかもしれない
だからこそ、この四首に響く、何があってこうまで大嬢は悩み不安がり
そして郎女は心配のあまり、狼狽するのか

郎女の「夢」を、愛しい娘に押し付けてしまったことへの
自責の念が、こうまで郎女を打ちのめしたのではないだろうか

大嬢が母に贈った「歌」には
きっと、その「原因」が詠われていたに違いない
単純に駄作だから、ということではないだろう
そうであれば、防人の歌のように、拙歌は外す旨を記していたはずだ
後の人が混乱しないように、そう心掛けてもいいだろう
しかし、それさえないのは、やはり「不名誉な」理由だったのかもしれない

ひょっとしたら、大嬢の歌も「作者不詳歌」の中に紛れ込んでいるのかもしれない
何しろ、今の我々には、ちゃんと歌番号も記され、まず整理も容易だが
当時の原資料からの編集となると
当然「歌番号」などないだろうし、題詞の付いた資料が散らかってしまえば
一群の歌など、その順番もあるいは、誰の作なのかも
解らなくなったのではないだろうか

その「望み」を前提にして、今の私は「笠女郎」の歌に対する
家持の歌らしきものを、探している
吉田金彦氏の方法論に触発されたこの考え方は、単に「笠女郎」だけではなく
万葉集中半分を構成する「作者不詳歌」への見直しもまた、楽しみになっている
今回、それに加えて「大嬢」も...

万葉集の魅力を、また一つ知ることが出来た

後の歌集のように、整然と編集されたものではなく
ルールらしきものはあっても、それがきちんと徹底されていない、「良さ」
案外、私に合っている「歌集」だったのかもしれない

もっと早く気づいていれば、と...今更のように高校の「古典授業」が悔やまれる
何しろ、記憶が一切ないのだから...
 

 


掲載日:2013.07.29.


 大伴坂上郎女従竹田庄贈女子大嬢歌二首
  打渡 竹田之原尓 鳴鶴之 間無時無 吾戀良久波
   うち渡す武田の原に鳴く鶴の間なく時なし我が恋ふらくは
 うちわたす たけたのはらに なくたづの まなくときなし あがこふらくは
 【語義歌意】  巻第四 763 相聞 大伴坂上郎女 
  
  早河之 湍尓居鳥之 縁乎奈弥 念而有師 吾兒羽裳アハ怜
   早川の瀬に居る鳥のよしをなみ思ひてありし我が子はもあはれ
  はやかはの せにゐるとりの よしをなみ おもひてありし あがこはもあはれ
 【語義歌意】  巻第四 764 相聞 大伴坂上郎女 


 大伴坂上郎女従跡見庄賜留宅女子大嬢歌一首[并短歌]
常呼二跡 吾行莫國 小金門尓 物悲良尓 念有之 吾兒乃刀自緒 野干玉之 夜晝跡不言 念二思 吾身者痩奴 嘆丹師 袖左倍沾奴 如是許 本名四戀者 古郷尓 此月期呂毛 有勝益土
常世にと 我が行かなくに 小金門に もの悲しらに 思へりし 我が子の刀自を ぬばたまの 夜昼といはず 思ふにし 我が身は痩せぬ 嘆くにし 袖さへ濡れぬ かくばかり もとなし恋ひば 故郷に この月ごろも 有りかつましじ
とこよにと あがゆかなくに をかなとに ものかなしらに おもへりし あがこのとじを ぬばたまの よるひるといはず おもふにし あがみはやせぬ なげくにし そでさへぬれぬ かくばかり もとなしこひば ふるさとに このつきごろも ありかつましじ
 【語義歌意】  巻第四 726 相聞 大伴坂上郎女 
   
 反歌
  朝髪之 念乱而 如是許 名姉之戀曽 夢尓所見家留 
   朝髪の思ひ乱れてかくばかり汝姉が恋ふれぞ夢に見えける
  あさかみの おもひみだれて かくばかり なねがこふれぞ いめにみえける
  右歌報賜大嬢進歌也 [左注・報賜大嬢進歌 
 【語義歌意】  巻第四 727 相聞 大伴坂上郎女 



 【763】語義 意味・活用・接続 
 うちわたす[打渡]
  うちわたす[打ち渡す]  [他サ四・連体形]ずーっと見渡す、([うち」は接頭語)
 たけたのはらに[竹田之原尓]   
  たけた[竹田]  耳成山東北、一説に近鉄大阪線榛原駅の南、竹田の庄
 なくたづの[鳴鶴之]
  の[格助詞]  [連用修飾語的]~のように
 まなくときなし[間無時無] 
  まなく[間無し]  [形ク・連用形]隙間がない、絶え間がない、暇がない
  ときなし[時無し]   [形ク・終止形]いつと決まった時が無い、いつもである
 あがこふらくは[吾戀良久波]
  こふ[恋ふ]  [他ハ上二・終止形]恋しく思う、懐かしく思う
  らく[接尾語]  [上代語](~することの意を表す)
  は[終助詞]  [詠嘆]~よ
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 【764】語義 意味・活用・接続 
 はやかはの[早河之]  流れの早い川、急流 
 せにゐるとりの[湍尓居鳥之]   
  早瀬の中洲に居る鳥の不安さを借景としている、以下の句の「序」としている
 よし[縁乎奈弥]   [よしなし(由無し)形・ク]のミ語法 
   ミ語法+思ふは、~だと思う、の意 
  よし[由]  物事のいわれ、由緒、理由、手段、方法、趣、風流
  を[間投助詞]  ~を~み」で、「~が~ので」の意を表す
  なみ[無み]  ないために、ないので
   「成立ち」形容詞「無し」の語幹「な」+原因・理由を表すの接尾語「み」
 おもひてありし[念而有師] 
  て[接続助詞]  [単純接続]~て、そして
  あり[有り・在り]  [自ラ四・連用形]住む、暮らす、生活する
  し[助動詞・き]  [過去・連体形]~た、~ていた
 あがこはもあはれ[吾兒羽裳アハ怜] 
  はも[上代語]  (文中に用い、上の語を強調する)~は [左注・はも
   [成立ち]係助詞「は」+係助詞「も」
  あはれ[感動詞]  ああ [左注・あはれ
   (賛美・悲哀・驚嘆などのさまざまな感動の気持ちを表すときに発することば)
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 【726】語義 意味・活用・接続 
 とこよにと[常呼二跡] 
  とこよ[常世]  (多く「常世」の形で副詞的に用いて)永久に変らないこと
   「常世の国」の略、海のはるか彼方に在る不老不死の国
  と[格助詞]  (行くが省略されている)、格助詞「とて」の意
   格助詞「とて」の「目的」~として、~と思って
 あがゆかなくに[吾行莫國]   
  なくに  ~(し)ないことだのに、~(し)ないのに
   [成立ち]打消しの助動詞「ず」のク語法「なく」+助詞「に」
       「に」は格助詞、断定の助動詞「なり」の連用形、接続助詞などの説がある
 をかなとに[小金門尓]   「を」は接頭語、「かなと」は「門」 
 ものかなしらに[物悲良尓]  
  もの[接頭語]  (感情・心情を表す形容詞や形容動詞について) 何となく
  ら[接尾語]   (形容詞の語幹について)状態を表す名詞・形容動詞をつくる
 おもへりし[念有之]
  おもへ[思ふ]  [他ハ四・已然形]心配する、悩む、嘆く
  り[助動詞・り]  [完了・連用形]~てしまった、~た
  し[副助詞]  語調を整え、強意を表す
 あがこのとじを[吾兒乃刀自緒] 
  とじ[刀自]  家事をつかさどる女性、主婦
 おもふにし[念二思] 
  にし  ~た、~てしまった
   [成立ち]完了の助動詞「ぬ」の連用形「に」+過去の助動詞「き」の連体形「し」
 あがみはやせぬ[吾身者痩奴] 
  ぬ[助動詞・ぬ]  [完了・終止形]~てしまった
 なげくにし[嘆丹師]   「おもふにし」と同じ用法
 そでさへぬれぬ[袖左倍沾奴] 
  さへ[副助詞]  [添加]~てしまった
 かくばかり[如是許]   [斯くばかり]これほどまでに、こんなにも
  [成立ち]副詞「斯(し)く」+副助詞「ばかり」
 もとなしこひば[本名四戀者] 
  もとな[副詞]  根拠もなく、理由もなく
  こひ[恋ふ]  [他ハ上二・未然形]思い慕う、恋慕する
  ば[接続助詞]  [順接の仮定条件]~(する)なら、~だったら
 このつきごろも[此月期呂毛]
  ごろ[頃(ころ)]  (「年・月・日」などの下について、「ごろ」と濁る)
     長い期間の経過を表す、~もの間
   も[係助詞]    [強意](下に打消しの語を伴って)強める
 ありかつましじ[有勝益土] 
  かつ[上代語]  [補動タ下二・終止形]~できる、~に耐える
  ましじ[上代語]  [補動特殊型・「まじ」の古形]~ないだろう、~まい
 掲題歌トップへ

 【727】語義 意味・活用・接続 
 あさかみの[朝髪之]  [枕詞]「乱る」にかかる
   朝起きたばかりの髪は乱れていることから
 なねがこふれ[名姉之戀曽] 
  なね[汝姉]  [上代語]人を親しんで呼ぶ語、「汝兄(なせ)」の対
  こふれ[恋ふ]  [他ハ上二・已然形]思い慕う、恋慕する
  ぞ[係助詞]  「ぞ(そ)」は連体形に付くが、已然形に直接付く場合もある
   [已然形+ば+ぞ]と同じ働き(上代) [順接の確定条件]~だから、~ので
 いめにみえける[夢尓所見家留] 
  ける[助動詞・けり]  [気づき・回想・連体形]~たのであった、~たのだ
   係助詞「ぞ」を受けて連体形「ける」で結ぶ [係り結び]
 掲題歌トップへ 

 
 【左注】
 [報賜大嬢進歌 
「右歌報賜大嬢進歌也」、右の歌は大嬢が進(たてまつ)る歌に報(こた)へ賜ふ

このことから、この二首の前に、大嬢から母・坂上郎女へ贈った歌があったはずだ
しかし、その歌は、どこにもない
編集が家持とすれば、何か「載せられない」理由でもあったのだろうか...
ならば、この二首にしても「左注」付きで組み入れるのは...妙だ
あるいは、その大嬢の「二首」、どこかに紛れ込んでいるのかもしれない
 
 [はも
文末に用いる場合は、回想や愛惜の気持ちを込めた感動・詠嘆の意
「~よ、~なあ」
[成立ち]終助詞「は」+終助詞「も」
 
 あはれ
形容動詞「あはれなり」の語幹の「あはれ」は、
感動詞「ああ、はれ」に由来すると考えられ、
思わず「ああ」と嘆声をもらすようなしみじみとした感動を表すのが原義


 感動詞  ああ
 形容動詞  しみじみと心を動かされる
 しみじみとした情趣がある、美しい
 さびしい、悲しい、つらい
 かわいそうだ、不憫だ、気の毒だ
 かわいい、いとしい、なつかしい
 情けが深い、愛情が豊かだ
 尊い、すぐれている、みごとだ
 名 詞  しみじみとした感動
 悲哀、哀愁、さびしさ
 愛情、人情、好意

 






 「広いこころ」...むつかしいけれど...
 「家持の苛立ち」

歌意】773

人目が多いので、行かなかったのです
決して、あなたを忘れていたなどと...
そんなことはないのに...
 
歌意】774
 
嘘だって、それがいかにも本当らしく思えるほどだから
真実はどうなんです
本当にあなたは、私に恋しているのだろうか
...私には、そうは思えないのだが...
 
歌意】775
 
せめて、夢の中にでもあなたに逢いたいと思って
下紐を解いたのに
お互いが揃って逢いたいと思っていないのなら
夢にさえ逢えないのも、もっともなことだ
 
 
歌意】776
 
この歌は、「あぢさい」について掲載したときに
その歌意を載せた [2013年6月16日付け
今読み返したが、その時に感じた歌意と変らない
ただし、「諸弟」について、今は少し違った気もしてきている
明日、明日香の図書館で解ればいいのだが...
何しろ、語義があやふやなままでの「歌意」なので
またいずれ読み直しとなると思う
 
歌意】777 
 
何百回も何千回も「恋している」などといわれても
諸弟の戯れの言葉になど、信じやしない

これも、結界的には「諸弟らが」が曖昧なので
歌意としても、大雑把なものになってしまう
 
 
〔776・777〕歌から先に言えば
家持が久邇京から、佐保の大嬢に贈ったこの歌五首の根幹かと思う
とても、相聞の片方を為す歌群ではなく
家持の大嬢に対する「苛立ち」さえも感じてしまう

このとき、家持は一応新都となった久邇京に単身で赴任し
大嬢は寧楽の佐保邸に残している
その間の、何かの誤解があったことが想像できるが
あるいは、誤解ではなく、大嬢の問題があったのかもしれない

この巻第四には、家持周辺の人たちの歌が非常に多い
これは、いわば「家持歌集」のような、大伴家に残される「歌集」ではないかという
万葉集の編纂にあたり、その他の歌の資料は、家持もすべてを把握できないにしても
少なくとも、大伴家由縁の「歌集」については、間違いなく精通していたはずだ
先の、坂上郎女が大嬢へ贈った歌にしても、
何故郎女は、あのような歌を贈ったのか
そして、この家持の五首...
これも、その内容から、大嬢が家持を責めていたものを
家持が詠い返しているように思える
しかし、その大嬢の「歌」が...載らない

家持が、意図的に外したとしか思えない

最初に、寧楽の館を守っている大嬢へ
想わない日はない、と宣言しつつも
次第に、家持の自分の気持ちが伝わらず、
あなたこそ、本当に私のことを慕っているのですか、と言い返す

夢で逢う手段としても、お互いが揃って、その気がないから
逢えないのも無理のないことだ、と納得し
その原因めいた「諸弟」のくだりがある...

大嬢が、家持に、どうして久邇京に行きっぱなしなのか
と責めたのかもしれない
家持は「仕事なんだから」と言い訳もしただろう
それでも、大嬢は聞く耳も持たない
そんな「お姫様」然とした大嬢に、家持は次第に「慈しみ」の気持ちも萎えて行くのでは

そんな「隣の夫婦喧嘩」のような情景を想い起させる
いや、「夫婦喧嘩」であれば、まだいい
相手への気持ちが、そこにはある
しかし、「歌を削除した」形跡を思わせる一連の不自然さ
これは、根の深いものがあると思う

言うまでもなく、詠歌の時期と編集の時期は大きく違うだろう
今詠んで、それがすぐに「万葉集」に反映された、ということはない
仮に、部立ての分類に一貫性がないのを当時の「いい加減さ」と解釈しても
少なくとも、編纂者に関わる「歌」については
いろんな点で、その「曖昧さ」が少ないはずだ
だとすると、この巻第四の編集の仕方、特に家持の歌の配列には理解しがたいものがある

大嬢との相聞があったと思えば、すぐに「紀女郎」にもっと熱烈な歌を贈る
この構成の意図が解らない以上、「万葉集」は「歌」だけを見詰めるのがいいのだろうが
しかしそうもいかないのが「万葉集」だ
連作ではないにしても、「歌群」という性質の歌が多い
そこには、一首だけでは理解できない「心情」も籠められている

「大伴家持」が、一体どんな男だったのか
今の私には、そちらの方への興味が尽きない
 




 
 

掲載日:2013.07.30.

 大伴宿祢家持従久邇京贈坂上大嬢歌五首
  人眼多見 不相耳曽 情左倍 妹乎忘而 吾念莫國
   人目多み逢はなくのみぞ心さへ妹を忘れて我が思はなくに
 ひとめおほみ あはなくのみぞ こころさへ いもをわすれて あがおもはなくに
 【語義歌意】  巻第四 773 相聞 大伴家持 
  
  偽毛 似付而曽為流 打布裳 真吾妹兒 吾尓戀目八
   偽りも似つきてぞするうつしくもまこと我妹子我れに恋ひめや
  いつはりも につきてぞする うつしくも まことわぎもこ あれにこひめや
 【語義歌意】  巻第四 774 相聞 大伴家持 
 
  夢尓谷 将所見常吾者 保杼毛友 不相志思者 諾不所見有武
   夢にだに見えむと我れはほどけども相し思はねばうべ見えずあらむ
  いめにだに みえむとあれは うけへども あひしおもはねば うべみえざらむ
 【語義歌意】  巻第四 775 相聞 大伴家持 
 
  事不問 木尚味狭藍 諸弟等之 練乃村戸二 所詐来
   言とはぬ木すらあじさゐ諸弟らが練りのむらとにあざむかえけり
  こととはぬ きすらあじさゐ もろとらが ねりのむらとに あざむかえけり
 【語義歌意】  巻第四 776 相聞 大伴家持 
  
  百千遍 戀跡云友 諸弟等之 練乃言羽者 吾波不信
   百千たび恋ふと言ふとも諸弟らが練りのことばは我れは頼まじ
  ももちたび こふといふとも もろとらが ねりのことばは われはたのまじ
 【語義歌意】  巻第四 777 相聞 大伴家持 


 【773】語義 意味・活用・接続 
 ひとめおほみ[人眼多見]
  ひとめ[人目]  [形ク]他人の見る目、はため、人の出入り、人の往来
  おほみ[多し]  多い (上代のミ語法) [左注・多し
 あはなくのみぞ[不相耳曽]   
  のみ[副助詞]  [限定]~だけ、~ばかり
  ぞ[係助詞]  [断定]~だ [左注・ぞ
 こころさへ[情左倍]
  さへ[副助詞]  [添加・類推]~までも、~さえ
 あがおもはなくに[吾念莫國] 
  おもは[思ふ]  [他ハ四・未然形]思う、望む、心配する
  なくに   ~(し)ないことだのに、~(し)ないのに
  [成立ち]打消しの助動詞「ず」のク語法「なく」+助動詞「に」
 掲題歌トップへ

 【774】語義 意味・活用・接続 
 いつはりも[偽毛] 
  いつはり[偽・詐]  うそ、そらごと
  も[係助詞]  [添加・言外暗示]~もまた、~さえも、~でも
 につきてぞする[似付而曽為流]   
  に[似る]  [自ナ上一・連用形]物の形や性質が同じように見える
  つき[付く]  [自カ四・連用形]身に付く、そなわる
  て[接続助詞]  [補足・行われ方]~て、~ようにして  連用形につく
  ぞする[係り結び]  [係助詞・ぞ]に[他サ変・為す・連体形]ある行為をする
 うつしくも[打布裳]
  うつしく[現し・顕し]  [形シク・連用形]現実に存在する、本気だ、真実だ
 まことわぎもこ[真吾妹兒] 
  まこと[真・実・誠]  事実、真心、誠実さ、いつわりのないこと
 あれにこひめや[吾尓戀目八] 
  めや  (反語の意を表す)~だろうか(いや、~でない)
  [成立ち]推量の助動詞「む」の已然形「め」+反語の終助詞「や」
 掲題歌トップへ 

 【775】語義 意味・活用・接続 
 いめにだに[夢尓谷] 
  だに[副助詞]  [強調]せめて~だけでも、~だけなりと
 みえむとあれは[将所見常吾者]   
  みえ[見ゆ]  [自ヤ下二・未然形]見える、感じられる
  と[格助詞]  [引用](~と思って)の意
 うけへども[保杼毛友] [左注・保杼毛友](訓は、『万葉集古義』による)
 あひしおもはねば[不相志思者]  
  あひしおもは[相思ふ]  [他ハ四・未然形]互いに思う、思い合う
   「し」は副助詞で、語調を整え、強意を表す
  ねば  (「ば」が順接の確定条件を表す場合)原因、理由の意で用いられ、~ないので
  [成立ち]打消しの助動詞「ず」の已然形「ね」+接続助詞「ば」
 うべみえざらむ[諾不所見有武]
  うべ[宜・諾]  (肯定の意を表す)もっともなことに、なるほど、いかにも
  ざらむ  ~ないだろう、~まい
  [成立ち]打消しの助動詞「ず」の未然形「ざら」+推量の助動詞「む」
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 【776】語義 意味・活用・接続 
 こととはぬ[事不問]
  こととは[言問ふ]  [自ハ四・未然形]ものを言う、尋ねる、質問する
  ぬ[助動詞・ず]  [打消し・連体形]ない  未然形につく
 きすらあじさゐ[木尚味狭藍] 
  すら[副助詞]   [類推・強調]~でさえ、~だって、~までも[左注・すら]
 もろとらが[諸弟等之] (諸弟未詳・人名説もある)  
 ねりのむらとに[練乃村戸二] 
  ねり[練る]   [他ラ四・連用形]心身を鍛える、熟練、捏ねまぜる
  むらと  腎臓ともあるが、不明
 あざむかえけり[所詐来]
  あざむか[欺く]  [他カ四・未然形]あなどる、みくびる、そそのかす、だます
  え[助動詞・ゆ]  [受身・連用形](受身の意を表す)~れる  未然形につく
  けり[助動詞・けり]  [過去・終止形]~たのだ、~たのだった
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 【777】語義 意味・活用・接続 
 ももちたび[百千遍]
  ももちたび[百千度]  百も千も、という意味で、数の多いこと、何度も何度も
 こふといふとも[戀跡云友] 
  とも[接続助詞]   [逆接の仮定条件]たとえ~にしても
 もろとらが ねりのことばは [諸弟等之 練乃言羽者] 語意に定説なし
 われはたのまじ[吾波不信] 
  たのま[頼む]   [他マ四・未然形]当てにする、信用する、頼みにする
  じ[助動詞・じ]  [打消しの意志・終止形]~まい、~ないつもりだ
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 【左注】
 [多し 
上代には、語幹(シク活用は終止形)に「み」をつけて
「原因・理由」を表す用法がある[ミ語法]
 
 [
この「ぞ」は係助詞、上代では「そ」ともいう
古語辞典に、気になる説明があった
奈良時代の用例では、格助詞の上に「のみ」がくる場合が多く
平安時代以降の用法とは「逆」である、と
その例として、
「声(おと)
のみ聞きてあり得ねば」<万葉集2-207> 〔「を」は格助詞〕
「あしひきの山時鳥をりはへて誰かまさると音を
のみ鳴く」<古今・夏>
となると、この[773]歌の例は、奈良時代のその数少ない用例となるのか
 
 保杼毛友
この訓は、定訓がなく「難解訓」

『小学館・新編日本古典文学全集』では、「ほどけども」と訓じ
当時の俗信である下紐が自然に解けるのは、恋しい人に逢える前兆、と解し
時にこれを裏返して恋人に逢えることを念じて自ら紐を解くまじないもあった、という
ここは、せめて夢の中ででも逢いたい、と願って紐を解いたもの、と解釈している

『万葉集古義』のでは、
原文は〔保杼毛友〕、古来難訓とされた箇所、「按ふに、得毛経友とありしを、得を保に経を杼に誤り、はた字の顛倒(いりまが)へるにやあらむ、さらば、ウケヘドモと訓べし」


すら]『旺文社全訳古語辞典第三版』
上代に多く用いられたが、中古に「だに」にとって代わられ
「すら」は和歌や漢文訓読文に残る程度になった
現代語の「すら」は、この系統のもの
中古以降、音韻変化した「そら」という形も見られる
なお、上代には「すらに・すらを」の形でも用いられる
この「に・を」は、本書では間投助詞としたが
「に」を副詞をつくる語尾、「を」を格助詞または係助詞とする説もある
 




 「藤原郎女」...詠わぬ人...
 「どんな女性なのか」

歌意】768

寧楽から、この久邇京まで、
低い奈良山があるだけなのに、寧楽へ戻らない私を、
あなたは、今夜の月が、こんなに美しいので
家の門の前に立って、私を待っているのだろうか
きっと、そうだろうなあ
 
歌意】769
 
その道のりだって遠いのですもの
来ないだろうとは承知してはいるでしょうが
それでも、仰るように門まで出て立っていらっしゃることでしょう
...あなたに逢いたいと思うから...
 
 
今日、明日香の文化館で幾つかの注釈書を拾い読みしてきた
昨日の大嬢への家持の「五首」について
どれも、あれは家持が大嬢をからかっているものだ、と決め込んでいる
やはり、通説になっている、家持の大嬢へのいたわりが
どこまでも根底にある
勿論、「いたわり」は確かにある
家持は、大嬢をないがしろにして、他の女性にうつつを抜かしているのではない
大嬢への「物足りなさ」を、次第に募らせている
何が「物足りないのか」...おそらく、大伴家の当主である家持の夫人
そのことの自覚のなさが、「物足りなさ」を次第に浮立たせているのではないだろうか

そもそも、「家持と大嬢」の夫婦仲について言及した書物
同時代的な資料の中で、この二人のことについて書かれた書物は
一体あるのだろうか...勿論、私の理解不足も大きいが
残念ながら、今まで見たことも聞いたこともない

ということは、ほとんどの「家持論」でいう大嬢との恋愛関係
そして、結婚後の夫婦仲の良さなど、何を根拠にいうのだろう

やはり、唯一残された「万葉集」の歌群の中から、誰もが想像している
いや、想像なら私だってしている
しかし、それが「その可能性もある」という想像であって
「真実はこうだ」に向う「推測から断定」ではない

考えてみれば、「万葉集」という確かにスケール観のある「歌集」だが
その「歌集」の登場人物、作者を
そこに詠われている「歌」でもって断じようとしている
「歌人」としての評価は、当然なされるべきものだが
それ以外の「何を」求めているのだろう...それは私も含めてのことだ

たまたま、その「題詞」に、史書を裏付けるような「年紀」があり
そのことで、「万葉集」に歴史の「傍証的」な役割までも求めてしまった
「年紀」、「官職」...史書の記録を補うには十分過ぎるものだ
しかし、「史書」が厳格な「事実の記録」であるべきものとは逆に
「歌集」には、幾つかの誇張や創作的な修辞なども数多い
ある部分が、史書の出来事と合致していると
まるで、すべてが「事実」に思えるか
あるいは「不都合なところは、万葉の技巧」として史書との距離を置く

中国史書の「三国志」と、物語である「三国志演義」のようなものか

私が、大嬢との夫婦仲を普通の仲に思えないのは
それが「事実」であれ「虚構」であれ
「坂上大嬢」という一人の女性が、あまりにも自己主張もなく
目立つところでは、母・坂上郎女や、姉の田村大嬢が気遣って贈った歌から
その大嬢の様子を伺い見ることもある

学者はいう、昨日の「五首」は「家持が愛しい大嬢をからかった」のだと
であれば、そのからかう原因となったはずの大嬢の歌が、何故載らない

そして、何を根拠に、二人の中が良好だと言うのだろう
むしろ、「現実と虚構」が綯交ぜとなった家持と大嬢の相聞だが
仮にすべてを「事実」思えば、家持にとって、大嬢は「
幼過ぎる」のだ

創作の部分を考慮して、それでいくらかは、家持の気持ちが理解できる

今夜の二首だって、どうして家持が大嬢に贈った歌に対し
大嬢ではなく、「伝未詳」と言われている「藤原郎女」の詠歌が載るのだろう
家持の歌は、決して嫌いではない大嬢ではあるが
こうやって、常に「恋しい気持ち」を言い伝えてやらなければならない
そんな関係なのかもしれない
家持にとって、この時点では、大嬢との結婚は必要だった
大伴家の為に、必要な「結婚」だったと言い聞かせてはいても
実際の「恋愛感情」には程遠いものだったのかもしれない

今日、この歌を載せた理由は、先ほどの「藤原郎女」に興味が湧いたから

今日の万葉文化館で、「万葉集古義」を見ていて
この藤原郎女の歌を拾い出したとき、驚いた
一般的には、「伝未詳」とされており、久邇京に出仕している女官か
と考えられている
しかし、「古義」には、次のような文章があった

藤原郎女は、藤原朝臣麻呂の子にて、母は坂上郎女なるべし、さて藤原郎女と呼なせるならむといへり、さらば坂上大嬢には異父姉なり、さて此のほど、久邇京へ宮づかへなどしてありしなるべし、こは右の歌を、坂上大嬢におくられけるをききて、坂上大嬢の心を、おもひはかりてよめるなり

坂上郎女が、穂積皇子と死別した後、藤原四卿の麻呂の妻となり
その後に、大嬢の父となる大伴宿奈麻呂と結婚したのは知っていたが
その麻呂との間に、娘がいたこと、これまでの探読で記憶にない
むしろ、子がいても自然なことだろう

問題は、それが事実なら、どうしてその後の研究で「伝未詳」とされるのだろう
あるいは、事実でなかったとしても
大嬢の想いに沿った「詠歌」を、家持に披露している
そしてその歌も、私には駄作には思えない
それほどの女性が、家持のそばにいる
そんな女性が、この一首だけを残している
いや、万葉集に載っている歌としては、といい直そう

麻呂との間の娘であれば、大伴家にとっても
この上もない「格式を持った」女性となるのではないだろうか
坂上郎女が、自分の娘を大伴家の再興の為にと考えていたなら
坂上大嬢よりも、藤原郎女が適任だと思う
しかし、そんな動きは万葉集では全く見られない
これは、鹿持雅澄の誤解かもしれない
しかし、仮に「古義」のこの言質を、どうやって否定したのだろう
いや、否定はされていなくて、当初から「資料的価値」を黙殺しているのかもしれない
あくまで万葉歌の「註釈」が本来の「書」であり、「作歌伝」には
後の研究者もそれほど熱心ではないのかもしれない

とにかく、気になる女性の一人だが
こうした編集にした家持の気持ちが、ますます混沌としてきた

一体、「笠女郎」に、いつになったら辿り着けるだろう
 


 

掲載日:2013.07.31.

 在久邇京思留寧樂宅坂上大嬢大伴宿祢家持作歌一首
  一隔山 重成物乎 月夜好見 門尓出立 妹可将待
   一重山へなれるものを月夜よみ門に出で立ち妹か待つらむ
 ひとへやま へなれるものを つくよよみ かどにいでたち いもかまつらむ
 【語義歌意】  巻第四 768 相聞 大伴家持 
  
(在久邇京思留寧樂宅坂上大嬢大伴宿祢家持作歌一首)藤原郎女聞之即和歌一首
  路遠 不来常波知有 物可良尓 然曽将待 君之目乎保利
   道遠み来じとは知れるものからにしかぞ待つらむ君が目を欲り
 みちとほみ こじとはしれる ものからに しかぞまつらむ きみがめをほり
 【語義歌意】  巻第四 769 相聞 藤原郎女 


 【768】語義 意味・活用・接続 
 ひとへやま[一隔山]
  ひとへ[一重]  それだけで他に重なるものがないこと、一枚・単弁
   「単衣(ひとへびぬ)」の略
 へなれるものを[重成物乎]   
  へなれ[隔(へな)る]  [自ラ四・已然形]へだてとなる・へだたる
  る[助動詞・り]  [完了・存続・連体形]~ている・~てある  已然形に付く
  ものを[接続助詞]  [逆接の確定条件]~のに [左注・ものを
 つくよよみ[月夜好見]
  つくよ[月夜]  「つく」は「つき」の古形、月・月夜・月の明るい夜
  よみ[良し・善し・好し]  [形ク・語幹のミ語法]美しいので [左注・ミ語法
 いもかまつらむ[妹可将待] 
  か[係助詞]  [疑問]~か・~だろうか
  まつ[待つ]   [他タ四・終止形](人や物事が来るのを)待つ 
  らむ[助動詞・らむ]  [推量・連体形]今頃~ているだろう 終止形に付く 
  [係り結び] 係助詞「」に助動詞「らむ」の連体形
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 【769】語義 意味・活用・接続 
 みちとほみ[路遠] 
  とほみ[遠し]ミ語法  [形ク]遠いので・遠いから
 こじとはしれる[不来常波知有]   
  こ[来(く)]  [自カ変・未然形]来る・行く・通う
  じ[助動詞・じ]  [打消しの推量・]~ないだろう  未然形につくに
  と[格助詞]  (~と思って)などの意で、次の動作の原因・理由を示す
  [係助詞]  [とりたて・題目]~は
  しれ[知る]  [他ラ四・已然形]理解する・認識する
  [助動詞・り]  [完了・連体形]~ている  已然形に付く
 ものからに[物可良尓]
  ものから[接続助詞]  [逆接の確定条件]~ものの  連体形につく
  [成立ち]形式名詞「もの」に格助詞「から」 
  に[間投助詞]  [強調]~になあ 
 しかぞまつらむ[然曽将待] 
  しか[然]  [副詞](前述されたことをさして)そのように
  ぞ[係助詞]  [強調]「ぞ」を受ける「連体形」で「強調の係り結び」
  まつらむ 同上  この句は、前歌の「いもかまつらむ」をいう
 きみがめをほり[君之目乎保利]
  が[格助詞]  [連体修飾語]~の・に 
  めをほり[目を欲る]  逢いたく思う [他ラ四・欲る・連用形]願い望む
  [目を欲り」で「逢いたく思う」の慣用句らしいが、何故連用形で終るか解らない
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 【左注】
 [ものを 
「ものを」には、二つの品詞があり、一つは「接続助詞」、もう一つが「終助詞」
接続助詞にも「逆接・順接の確定条件」があって
「逆接」ならば、「~のに」
「順接」ならば、「~ので、~だから」となるが
この「逆接の確定条件」と、もう一つの品詞「終助詞」の区別が難しいようだ
どちらも、活用語の連体形につくの

「終助詞」の場合は、「詠嘆」で、「~のになあ、~のだがなあ」となり
この元は、接続助詞の「逆接の確定条件」からのものらしい

そもそも、「逆接の確定条件」は、「ものの・ものから・ものゆゑ」と
意味・用法が似ており、「を」が間投助詞であるところから
感動・詠嘆を表す場合が多く、そこから「終助詞」が生じた
 
 [ミ語法
上代には、語幹(シク活用は終止形)に「み」をつけて
原因・理由を表す用法がある
この「ぞ」は係助詞、上代では「そ」ともいう
例は、奈良時代のその数少ない用例となるのか
 
 

 
   【万葉集古義】768

 
一隔山は、山名にあらず、久邇と寧楽は、山一重隔てれば、かく云り、六巻に、故郷者遠毛不有一重山、越我可良爾念曾吾世思とよめり、(これも久邇京にて、奈良をよめるなり、)百重山、五百重山など云類なり、○重成物乎は、十一に石根踏重成山雖不有とあり、○妹可将待は、妹待つらむかといふなり、○歌意は、妹があたりとは、山さへ一重へだてりて、甚間近からぬ物を、今夜の月のさやけさに、吾を今か今かと家門に出立て、妹が待つつあるらむかとなり
 
 
    【左注】[万葉集古義]769


 
(藤原郎女については左頁に載せた)
物可良爾は、物故爾と、云に同じくて、物になるをの意なり、○君之目乎保利は、書紀斉明天皇崩御後、天智天皇の大御歌に、「きみがめのこほしきからにはててきて、かくやこひむもきみがめをほり」とあるに同じ、見ゆることを「目(め)」と云ゐにて目は所見(みえ)なり、(みえの〆。)容儀(すがら)と云が如し、○歌意は、いかにも路が遠さに、輙く来座はせじとしれるものの、なほ恋しさに、門に出立など、さようにぞ待つらむとなり
 
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