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  「霧に見える愛おしさ Ⅰ」...笠女郎...

「笠女郎」という女性に、初めて出会ったのは
先月の29日、奈良春日大社神苑・萬葉植物園
そこの入園券のデザインが、彼女の万葉歌と、その題材「むらさき」だった
それ以前には、万葉集の多くの歌の中で、突出した歌群を残す女流万葉歌人
しかも、すべて家持への想いを詠ったもの
だから、何か気後れめいた感情もあって、歌以外での興味はなかった
しかし、この入園券の一首が、私にとても魅力的な女性だとささやく
今、HPの方に、「笠女郎」のページを書き始めたところだが
数少ない彼女の情報と、詠歌全二十九首から...
「笠女郎」像を、と目論んでいる
どのテキストを読んでも、次のことしか分からない

万葉集を代表する女流歌人
詠歌すべてが、大伴家持への相聞歌
「笠」一族の関係者であろう...
笠朝臣金村、沙弥満誓(俗名笠朝臣麻呂)などとか...
大伴家持と関係のある数多い女性の中の一人
報われない恋を裏付ける、家持からの応える歌が二首のみ

その中で、客観的に分かるのは
誰もが認める「万葉集の中でも、優れた女流歌人」
そして、その想いを...詠歌という表現すべてを、家持へ向けていること
家持への歌二十九首に対して、家持からは二首しか応答がないこと
家持周辺の恋の噂、もしくは知られている多くの女性の中の一人
家持が都を離れて暮らしたのは、幼い頃に父・旅人と過ごした大宰府の地
そして、三十歳間近で赴任した越中国
そこから推測できるのは、笠女郎が都を離れる家持に想いの歌を贈ったのは
越中国守とした頃に限られると思う
そして、それ以前に都で二人にあったことが、一連の歌の中で想像させられる

そうした「笠女郎」像なのだが
意外と多くの人が、この歌人に注目している
しかし、ほとんど家持との一方的な悲恋に偏っており
彼女の歌そのものだけではなく...何故なら、歌には表面的な歌意だけでは
作者の気持ちを半分しか理解できないことになる
言葉にしない、歌にはしない、しかし私の想いは伝わっていますか、と
その「現れない言葉」もあるはずだ...それが歌人の「才」だと思う
それが何か、それを自分なりに求めていきたい
何とか、この連休中に仕上げたいものだ

このページでは、笠女郎の歌だけを取り上げて載せる
歌群の二十四首については、高名な伊藤博博士の説かれる
4首-4首-4首-4首-6首-2首の六群に分け、6日間でそれぞれ掲載する
今日は第一として最初の四首を載せる
この掲載順が、実際に読まれた時系列にそったものかどうか
それは分からないが、
少なくとも本歌集に載せている何らかの意義があるだろうし
仮に順の矛盾があったとしても、それはまた別の意図があってのことであり
この女性の「想い」の向けられた家持へのひたむきさは、褪せるものではない
何より、歌心に接することは誰でも出来るが
その語法や歴史的な解釈は、専門家に頼るしかない

この二十四首の他に、巻三では三首(一群として4月29、30日に掲載済み)
巻八に二首の計二十九首


 
 

 
 

掲載日:2013.05.02.


 笠女郎贈大伴宿祢家持歌廿四首 (私記:Ⅰ-四首)
吾形見 々管之努波世 荒珠 年之緒長 吾毛将思
 我が形見見つつ偲はせあらたまの年の緒長く我れも偲はむ
 わがかたみ みつつしのはせ あらたまの
としのをながく われもしのはむ   590
 
白鳥能 飛羽山松之 待乍曽 吾戀度 此月比乎  
 白鳥の飛羽山松の待ちつつそ我が恋ひわたるこの月ごろを  
 しらとりの とばやままつの まちつつそ  
 あがこひわたる このつきごろを  591
 
衣手乎 打廻乃里尓 有吾乎 不知曽人者 待跡不来家留  
 衣手を打廻の里にある我れを知らにそ人は待てど来ずける  
 ころもでを うちみのさとに あるわれを  
 しらにそひとは まてどこずける  592
 
荒玉 年之經去者 今師波登 勤与吾背子 吾<名>告為莫  
 あらたまの年の経ぬれば今しはとゆめよ我が背子我が名告らすな  
 あらたまの としのへぬれば いましはと  
 ゆめよわがせこ わがなのらすな  593



 巻第四 相聞 笠女郎


〔590〕

私がお渡しした形見の品...いつも見ながら、私を思い出してください

年がどんなに経ようと、私も想い続けますから...



「形見」とは、亡くなった人の遺品もあるが
離れ離れになる時に、思い出して欲しいとの願いをこめて手渡すものも、そういう
「~の緒長く」、長いものの喩に使う
これから、何年も逢えない、その辛さを堪えるように...


〔591〕

白鳥が飛ぶという飛羽山の松(まつ)ではないのですよ

こうしてずーっと待ち続けてばかり...

この幾月も、ずーっと...


「白鳥~飛羽山松」までの二句が、「待つ」を起こす序
「待ちつつそ」の「そ」は、係助詞の「~なので」だろうか
待つばかりなので、だから一層慕う恋ごころが...


〔592〕

打廻の里に、私がいることも知らないのでしょうか

いくら待っても、あなたは来てくれませんね


「衣手を」は、ウチの枕詞、砧で衣を打つ、に懸けた
「打廻」がどこを指す地名もしくは場所なのか定説はないが
巻第十一・2724に、「神奈備の打廻の崎」とあり
そこは明日香の橘寺南東の山との見立てもある

古事記にも「打ち廻る島の崎々搔き廻る磯の崎落ちず」とあり
岡の崎とか、山の端のような地形を表わす普通名詞も考えられるという
この歌の場合、作者は待ち切れずに、越中の家持の近くまで来ている
そんな解釈が多いが、果たしとそうなのだろうか

ある学者は、石川県の河北潟沿岸に、「ウチワ」というそこに当てる
そして何度も手紙で来訪を知らせたのに、来ないのは知らないからなのか
その解釈になるし
また明日香の...地であれば、国司として越中にいても
一年の間には、何度か都への出仕もあるので
その機会でさへ、逢いにきてくれないのか...

待つ、という行為は、相手が自分の所在を知っていることが前提になるので
私のこの歌の解釈は、
ここにいることを知っているくせに、何故来てくれないのですか
との気持ちに思える...でも、その場所が北陸なのか明日香なのか
それは、分からないが...

これから続く歌の解釈に関係するが、笠女郎が家持と堂々と逢える女性ならば
こうした一連の「相聞」は、まったくの戯言になってしまう
だから、秘める「恋」だとすれば
笠女郎が、長い時間を掛けて、越中国まで向うとは、考えられない

その傍証となり得るのが、次の歌なのではないだろうか


〔593〕

もう月日も随分経ちました

だからもういいだろう、といって、私のことを漏らしたり

それは何があっても言わないでくださいね


「今しはと」...今シは名詞の今に強い意志の助詞シがついたもので
何があっても、何が何でも
「ゆめ(努・勤・努力)」、ゆめよ、愛しいあなた、私の名を告げないでください


ここで作者は、自らの立場を相手であろう家持に訴えている
それほどにまで、隠し通すもの...ならぬ恋ということか
それが、笠女郎自身に言えることなのか、あるいは家持の立場を慮ることなのか
どちらにもいえることだと思う


このとき、すでに越中に家持の正妻・坂上大嬢はいたのかもしれないし
あるいは、笠女郎自身が、そうした立場であっては非常にまずいことかもしれない


このとき、家持は三十歳を過ぎた辺りだと思う
越中国への赴任が、天平十八年(746)、家持二十九歳の頃

越中在任は、751年に少納言として帰京するまでの5年間といえる









  「霧に見える愛おしさ Ⅱ」...笠女郎...

昨日の四首とは、明らかに時と空間が異なる
昨日の四首は、遠くに離れてしまう、あるいは離れてしまった家持への慕情
そして、今日の四首は、物理的にはともかく
心情的に近くにいるのに逢うことのできない辛さ
その辛さだけを詠み続けている

「夕陰草」は万葉集中でこの〔597〕一首のみだが
後の新古今集では、藤原道経の次の歌がある

 庭に生ふるゆふかげ草の下露や暮を待つまの涙なるらん 恋歌三 1190  

「蔭草」が万葉集では日陰の草として詠まれている

  影草乃 生有屋外之 暮陰尓 鳴蟋蟀者 雖聞不足可聞 巻第十
  蔭草の生ひたる宿の夕影に鳴くこほろぎは聞けど飽かぬかも 秋雑歌 詠蟋 
    かげくさの おひたるやどの ゆふかげに 2163
 なくこほろぎは きけどあかぬかも 作者不詳

「蔭草」...物蔭に生えている草
そこに夕日が射し、その中で鳴く蟋蟀...
いつまで聞いても、飽きはしないものだ

家持が越中へ赴任する時、そしてその後の歌が昨日の歌群であれば
この歌群は、その前に詠われたと言うことはないだろうか
そうであれば、夢のこと、遠くに聞く噂、佐保を見渡せる奈良山、庭の夕陰草...
これらも、赴任前の笠女郎の心情とも矛盾しない
勿論、多くは家持が遠く越中にいる中での恋慕と言うのだが...

いや、この一連の歌群の最後の二首〔612・613〕に大きな手掛かりがある

そこまでの歌の流れの難解さについては、今はまだ理解できず触れられない
このシリーズで「Ⅵ」になるとき、HPと共に笠女郎を見出していたい

 
 


 
掲載日:2013.05.02.

 笠女郎贈大伴宿祢家持歌廿四首 (私記:Ⅱ-四首)
吾念乎 人尓令知哉 玉匣 開阿氣津跡 夢西所見
 我が思ひを人に知るれか玉櫛笥開きあけつと夢にし見ゆる
 わがおもひを ひとにしるれか たまくしげ
ひらきあけつと いめにしみゆる   594
 
闇夜尓 鳴奈流鶴之 外耳 聞乍可将有 相跡羽奈之尓  
 闇の夜に鳴くなる鶴の外のみに聞きつつかあらむ逢ふとはなしに  
 やみのよに なくなるたづの よそのみに  
 ききつつかあらむ あふとはなしに  595
 
君尓戀 痛毛為便無見 楢山之 小松之下尓 立嘆鴨  
 君に恋ひいたもすべなみ奈良山の小松が下に立ち嘆くかも  
 きみにこひ いたもすべなみ ならやまの  
 こまつがしたに たちなげくかも  596
 
吾屋戸之 暮陰草乃 白露之 消蟹本名 所念鴨  
 我がやどの夕蔭草の白露の消ぬがにもとな思ほゆるかも  
 わがやどの ゆふかげくさの しらつゆの  
 けぬがにもとな おもほゆるかも  597




 巻第四 相聞 笠女郎


〔594〕

私がお慕いしていること、誰かに洩らされたのでしょうか

そうではないと思いますが、夢で見たのです

玉櫛笥が開いているのを...




人に知るれか(や)...「人に知るればや」の略で、知らせるの意

「か(や)」は疑問、反語の意味を持つ

知らせたのか、そうではないでしょうが...

玉櫛笥は、理容・整髪の具を収める容器で、蓋われていた容器の蓋が開くと言うのを

世間に知られてしまったことに重ねたもの

そんな夢を見たのは、よほど隠し通したかったのだろう

不安は、その気持ちとは逆の方へ逆の方へと力強く進むもの


〔595〕

闇夜に鳴く鳥のように、姿の見えないあなたの声を

遠くに聞くばかり

逢えもしないのに...

噂ばかりで、逢いにも来てくれないのですか



第二句までが、「外に聞く」を起こす序

よそのみに聞きつつかあらむ...噂ばかり聞いています


〔596〕

あなたに逢いたくて逢いたくて、どうにもならず

奈良山の小松の下に身を委ねて、ただただ嘆いています



いたもすべなみ...「いた」は甚だしくの意で

どうしようもなく、何も手がつかず...

小松の「小」は、語調を整える表記のようだ



奈良山からだと、家持の邸がある佐保が見渡せる

作者は、佐保に行くわけにもいかず、こうして眺めて嘆く

せつな過ぎる光景が目に浮ぶ



〔597〕

我家の庭にある夕陰草

そこに浮ぶ白露のように、夕日に浮びはすれど、やがて消えて行く...

そのように消え入らんばかりに儚く

無性にあなたのことを想うのです



夕陰草、集中で他には見えない草の呼称

蔭に密かに生える草も、夕日を浴びて浮ぶ上って見えることがある

しかし、所詮は「日陰」の草...を自身と重ねているようだ

消(け)ぬがに...心が消えてしまいそう

もとな...とめどもなく、やたらと 


昨日の歌群四首に比べ、今日の四首は次第に想いを扱いかねてきている

ただし、それが直線で表わせる感情の昇降ではなく

まさに「山があったり、谷があったり」...と言えそうだ




 



  「霧に見える愛おしさ Ⅲ」...笠女郎...


一方的な想いの歌の連なりは...それが連作ではないのなら
このような形で歌集に載せるものだろうか
そうした編集というのであれば、読む者の歌から感じる世界観が
あまりにも、平面的なものになってしまうのではないか

というのも、この二十四首、確実に時系列に沿っての掲載ではないと思う
越中、都...この二つの地を舞台に、歌が飛び交う...
そしてその発信地が分からない

分かるようで分からない

家持からの返歌が...適時にないことで、そう感じてしまうのだが
もしそれが編纂者の意図的なものであったとしたら...
そして、私はもすっかりそう感じてしまっている
それが私には意図的なものを感じてしまう

その結果として多くの人は、家持への想いが、報われなかった女性
と、決め付けられたのではないだろうか


例えば、巻第十五に収められている、いわゆる「悲話応答歌」
これなど、一連の相聞の歌六十三首を載せているが
その遣り取りを読めば、歌集の中でも、このドラマは溶け込んでくる
勿論、この「悲話応答歌六十三首」はドラマとして挿入されたのではなく
悲別に遭遇する二人の相聞歌が、結果的にはドラマになっている
気弱な男と、芯のある健気な女を見事に描いた、まさにドラマのように...


相聞歌というのも、
本来は男女の恋ごころを交歓し合ったものだと解釈している
しかし、単独での相聞歌も、その部立ての中に現れるようになり
作者不明歌など、多くの相聞歌がある

ただ、その「恋ごころ」に情けを引かれる場合、相手の歌がなくても
それが読み手自身...読者自身に重なり、
きわどい形であっても、成り立っている

しかし、笠女郎の場合は...それとは絶対に違うものだ
相手が、大伴家持という確実に存在した「男」への「恋ごころ」なのだから
読者が、自分に置き換えるわけには...いかなくなっている
そして、一挙に二十四首も載せながら、それは連作の意義を持たず
単純に同一作者の歌、というだけの範疇で片付けられている


違う...そんなことではないはずだ
家持からの返歌は、必ずあるはずだ
私は、そう思う

しかし、この巻の編纂過程で、その事情が覆された
勿論、万葉集の編纂者が不明である以上、推測の上の推測であり
根拠など一つもないが、こうした歌を読んでいて感じるものが、確かにある

巻第四の編纂された「結果」だけを見ていると
大伴家にとっての厄介ごとが、ある程度手心を入れられる余地を窺わせている
この巻において、大伴家の私歌集めいた歌からの採録が見られるという
いわば、それまでの万葉集が、純然たる勅撰ではないにしても
公的に近いような編集の意義があったのではないだろうか


仮に歌集全体が、全員作者不詳歌であれば、それはそれで十分楽しめただろう
しかし、名のある歌人、そして官人や皇族などを明記したが故に
載せる歌の「基準」が難しくなった

単に歌の優劣だけではなく、これを載せたら、この歌は外せないだろう、とか
あるいは、作者不詳の相聞歌なら、セットでなくても秀歌であれば載せる
しかし、名を明記された歌なら、そうは行かない
不具合な歌があったとしたら、その対応する歌も...載せられない
そんな可能性もあったのではないだろうか

それが、巻第四に見える不自然な題詞...年紀順でありながら、そうでないなど
編集の中に、いい加減さも見受けられる


仮に...笠女郎と家持の歌の中に、大伴家にとって不都合な歌があったとしたら
しかも、家持は、叔母坂上郎女の娘、坂上大嬢と結婚する情況であったのなら
伏せておきたいものは、伏せたい、と意志が働くのではないか
しかし、笠女郎の詠歌が叔母も認めるほどの秀歌であったのなら
一方的な歌にしてしまえばいい...

これは言い過ぎだが、そんな一面もあるかもしれない
家持からの応歌は二首

それで笠女郎への世間の見方は、いや万葉集ファンからの評価は決まった
素晴らしい歌を残し、「万葉を代表する女流歌人」でありながら
報われない女性...


そうかもしれない
でも、私にはそうは思えない
ここでは、まだ十二首、巻第三の三首しか載せていないが
この歌の流れは...家持の想いが潜んでいる
そして、その歌も、歌集のどこかに必ずあるだろう...そう思えるようになった


万葉集作者の人物を検索しても、「笠女郎」は、伝未詳

そんなことはあり得ない
編纂に大きく関与した家持が、恋の相手であった女性の経歴を知らないなんて...


 
掲載日:2013.05.03.

 笠女郎贈大伴宿祢家持歌廿四首 (私記:Ⅲ-四首)
吾命之 将全牟限 忘目八 弥日異者 念益十方
 我が命の全けむ限り忘れめやいや日に異には思ひ増すとも
 わがいのちの またけむかぎり わすれめや
いやひにけには おもひますとも  598
 
八百日徃 濱之沙毛 吾戀二 豈不益歟 奥嶋守  
 八百日行く浜の真砂も我が恋にあにまさらじか沖つ島守  
 やほかゆく はまのまなごも あがこひに  
 あにまさらじか おきつしまもり  599
 
宇都蝉之 人目乎繁見 石走 間近<君>尓 戀度可聞  
 うつせみの人目を繁み石橋の間近き君に恋ひわたるかも  
 うつせみの ひとめをしげみ いしはしの  
 まちかききみに こひわたるかも  600
 
戀尓毛曽 人者死為 水<無>瀬河 下従吾痩 月日異  
 恋にもぞ人は死にする水無瀬川下ゆ我れ痩す月に日に異に  
 こひにもぞ ひとはしにする みなせがは  
 したゆわれやす つきにひにけに  601



 巻第四 相聞 笠女郎


〔598〕

私の命が...そう、この命が続く限り

どうしてあなたのことを忘れられましょう

日ごとに、この想いがますことはあっても、決して忘れはしません


「全けむ」...無事である形容詞「マタシ」の未然形
「忘れめや」...「めや」反語、忘れるなんて、できない
「いや日に異には」...「いや」は、さらに、ますます、「日に異には」、日増しに


〔599〕

歩いて歩いて八百日もかかるという、そんな長い浜の砂粒の数でも

私の恋心の果てしない数には及びません

遠くにいる島守さん...そうでしょう、あなた


「まなご」...細かな砂粒
「あにまさらじか」...確実性の濃い推量、決して優りはしませんでしょう、ね
遠くの家持を、第二句の発想から「沖つ島守」としたものだろう


〔600〕

世間の人、それに周囲の人たちの目が多く

こんなに近くにいるあたななのに、逢うことができません

逢えずに、なのに恋心だけが...


「うつせみの人目」...現実に注がれる視線の意だろう
家持の周辺には、大勢の取り巻きもいるだろうし、「繁み」が尚更恨めしい
「石橋の」は、間近し、に懸かる枕詞で
川の浅瀬に置かれる飛び石のように、狭い間隔で置かれていることから
ここでは、こんなに近いのに、という気持ちの表現になると思う 

「わたる」...時を過ごす、の意
「かも」...ここでは疑問ではなく、詠嘆の終助詞
「わたるかも」...時を過ごしていくことでしょう

〔601〕

恋してしまったら、それだけでも人は死ねるものです

水無瀬川のように、涸れた川の伏流水みたいに人知れず

その秘めた想いから痩せてゆくのです

日を追うごとに、次第に、痩せ細って...


恋ごころを伝え、その度合いを...いかに深く想っているかを伝え
それなのに、逢おうと努力してくれない、と嘆き
最後には、このまま私の命は果ててしまうでしょう、と訴える

今日のこの四首だけでも、一つのドラマが仕上がりそうだが
でも違う...何故なら、まだ相手の...家持の対応が見えてこないからだ
当然、この一連の二十四首が一括で載せられているので
その応歌が、仮にあったとしても、どこかで...

私には、そんな意図的に家持の返歌を解らないように載せている可能性も感じる

〔598〕の類歌、

 不相而 戀度等母 忘哉 弥日異者 思益等母 
  逢はずして恋ひわたるとも忘れめやいや日に異には思ひ増すとも
 あはずして こひわたるとも わすれめや  いやひにけには おもひますとも 
巻第十二 2894 正述心緒 作者不詳  
 
逢うこともなく恋いつづけることはあろうとも
忘れることなどあるものか
日に日に想いは増すばかりだ


〔601〕の類歌、

 人目太 直不相而 盖雲 吾戀死者 誰名将有裳
  人目多み直に逢はずてけだしくも我が恋ひ死なば誰が名ならむも
 ひとめおほみ ただにあはずて けだしくも  あがこひしなば たがなならむも
 巻第十二 3119 問答歌 作者不詳 
 
人目が多く、直接に逢うこともできず
もし私が恋に死んだのなら...誰の名が噂になるのだろう
その相手として...
 







  「霧に見える愛おしさ Ⅳ」...笠女郎...

人は、恋ごころを抱き始めたころのことを、冷静に思い出せるのだろうか
知らず知らずに惹かれて、気づいたら死ぬほど恋していた
確実に、これがきっかけだった、といえることも
それが、たんにきっかけだけではなく、想い始めだった
そう思える人は...少ないのではないだろうか

笠女郎が、今夜の四首で歌うのは、まさにその時のことを思わせる

「朝霧の」という形容で、漠然と見かけた印象を与え
それが、どうしてこんなにまで...にと、その出逢いの「いたずら」をいう
後の家持が返す歌でいうのは、
どうして逢ってしまった、どうして黙っていなかったのか、と

その歌のタイミングもまた考えるべきものだが
一つ言えるのは、逢うことが偶然であったにしても
黙っていられなかった、という悔恨の気持ちを率直に詠っていること
この「悔恨」が、逢うべき人ではなかった人に逢ってしまった
逢えばこうなるのは必然だった、ということを告白している

家持の笠女郎に対する返歌は、二首だけと言われ、その歌意が
今夜の笠女郎の四首に理解を助けてくれる
もっとも、私個人としては、家持の笠女郎への返歌は、他にもあると思う
心情的にそう思い込んでしまったので
これからその歌を万葉集の中に捜す旅に出なければならないが...
きっとある、そう信じて...

笠女郎の想いが募り始めて、家持が話し掛けてくれる幻影を思い浮かべる
その頃、まだ実際に言葉は交わしていなかったように感じてしまう
お互いに、何度か顔を合わせてはいただろう
笠女郎の素性はすぐには分からずとも、家持のことはすぐに分かる

だから、自分へは声も掛けてもらえないほどの人という意識が表れ
それが「畏れ多い人」の家持になってしまう
その段階では、決して「恋」ではなかった
憧れのような想いが、恋の錯覚をもたらせたかもしれない
しかし、いつしか「恋」を意識し始める

その仕草や態度を、家持は見ている...気づく
そして、家持もまんざらではなく声を掛けてみる

そもそも、それが...二人の始まりなのではないか
二人が、偶然のように出会い
そして笠女郎の方はほのかに恋ごころを抱くようになる
しかし、家持の立場、それに何よりも自分の立場もあり
想いだけを抱え、苦悶する日々が続く

それは、どんなに細心の注意を払っても仕草や態度には表れてしまう
そこで、家持は...声を掛けてしまう...

この一連の二十四首の次に載せられるのが




 (笠女郎贈大伴宿祢家持歌廿四首)大伴宿祢家持和歌二首 
 今更 妹尓将相八跡 念可聞 幾許吾胸 欝悒将有 
  今さらに妹に逢はめやと思へかもここだ我が胸いぶせくあるらむ
 いまさらに いもにあはめやと おもへかも  ここだあがむねいぶせくあるらむ 
 巻第四 614 相聞 大伴家持
  もうあなたに逢うこともないと思うから 
  こんなにも私の胸は重く塞ぎこんでしまうのか 
 
 中々者 黙毛有益乎 何為跡香 相見始兼 不遂尓  
  なかなかに黙もあらましを何すとか相見そめけむ遂げざらまくに 
 なかなかにもだもあらましをなにすとか   あひみそめけむとげざらまくに 
   
  いっそのこと、黙っていればよかった   
  どうして二人は逢ってしまったのでしょう   
  添い遂げられるはずもないのに  
 巻第四 615 相聞 大伴家持



この二首で、確かに二人の仲は終ったと思う
そしてそれは家持の気持ちとして、添い遂げられない...
それは、結婚できない、という意味なのだろうか
そうとしか思えないが、そうであっても
もう逢えないと思うから、というのは...ちょっと悩んでしまう
何故なら、家持には妾もいたではないか

家持が越中守として赴任するのが、746年
この笠女郎との仲もその頃のことだと、大方の解釈になっている
それなら、その越中に赴任する7年前、739年のこと
家持の愛した妾が亡くなり、彼はそのとき「悲傷歌」を作っている


  十一年己卯夏六月大伴宿祢家持悲傷亡妾作歌一首
 従今者 秋風寒 将吹焉 如何獨 長夜乎将宿
  今よりは秋風寒く吹きなむをいかにかひとり長き夜を寝む
 いまよりはあきかぜさむくふきなむを  いかにかひとりながきよをねむ
 
 これからは、寒い秋風も吹くだろうに 
 これからは一人 長い夜をどう過ごせばいいものか...  
 巻第三 465 挽歌 大伴家持



妾であっても、愛する人をなくした家持の嘆きは深い
そんな家持が、自分自身の立場がどうのこうの、などというとは思えない
ならば、考えられるのは...

添い遂げられそうにもない、というその意味は
笠女郎の方に、初めからその原因となるものがあった、と思う
だから、女性は当初は想うだけで、苦しむにしても我慢していた

そして、家持からの待望の誘い
そこから二人の仲は深まるのだろうが
その行く先は...二人ともすでに知っていた
お互いが、どうにもならない立場なのだ、と
いや、家持の方には、それほど大きな問題はなかったはずだ

出逢ったことを悔やむほどの恋慕であるのなら
まさに今も、その情けは褪せてはいない

笠女郎こそ、何があっても知られてはならない女性だった...
私には、そう思えてならない
身分の差に慄く女性ではない

そんな女性が、この一連の心に響く歌を詠めるだろうか
敢えて「身分の差」を言うのであれば...既婚者であったが故に...

まだまだ、歌は半ばになったばかり
私の思い違いもかなりあるかもしれないし
強い想い入れもあるのは確かだ

残りの歌八首...もう笠女郎の手掛かりは、それだけなのか
巻第三の三首(既出)、巻第八の二首...
追いかけて行きたい...どこまでも

 
 
掲載日:2013.05.04.

 笠女郎贈大伴宿祢家持歌廿四首 (私記:Ⅳ-四首)
朝霧之 欝相見之 人故尓 命可死 戀渡鴨
 朝霧のおほに相見し人故に命死ぬべく恋ひわたるかも
 あさぎりの おほにあひみし ひとゆゑに
いのちしぬべく こひわたるかも  602
 
伊勢海之 礒毛動尓 因流波 恐人尓 戀渡鴨  
 伊勢の海の礒もとどろに寄する波畏き人に恋ひわたるかも  
 いせのうみの いそもとどろに よするなみ  
 かしこきひとに こひわたるかも  603
 
従情毛 吾者不念寸 山河毛 隔莫國 如是戀常羽  
 心ゆも我は思はずき山川も隔たらなくにかく恋ひむとは  
 こころゆも わはおもはずき やまかはも  
 へだたらなくに かくこひむとは  604
 
暮去者 物念益 見之人乃 言問為形 面景尓而  
 夕されば物思ひまさる見し人の言とふ姿面影にして  
 ゆふされば ものもひまさる みしひとの  
 こととふすがた おもかげにして  605

 巻第四 相聞 笠女郎



〔602〕

朝霧の中のように、ほのかにお逢いしただけなのに

今となって、まさかこれほど命も惜しくないほど想い慕うとは...


「朝霧の」は「おほ」に懸かる枕詞
「おほに」は、オホナリの形容動詞の連用形
物の見え方のはっきりしないことや、注意・関心の通り一遍のなこと
「朝霧の」と懸けることで、その霧の中で逢ったことや
その時には、それほど惹かれるような関心もなかった情景を醸し出している

しかし、今はこんなにも...この自分の命にも優る人なのです



〔603〕

伊勢の海に轟き寄せる波のように激しく

そして畏れおおいお方に、このように恋ごころを寄せてしまったのです


上三句が、轟くように激しい波の様子で、「かしこきひと」をを起こす序になる
「かしこきひとに」...畏れ多い人、家持への自分の立場を
あまりにも身分の違うがあるお方だと、そう表現はしているが
果たして、身分の違いはとは、どの程度のことなのだろう

この段階では、想いを告げられない様子を思い浮かべるが
それは身分の差ゆえのことなのか 
家持の人となりのこととも考えられると思う



〔604〕

まったく思いもしませんでした

山や川で隔てられているわけでもないのに

こんなにも恋しく想い続けるようになろうとは...


「心ゆも我は思はずき」...「心ゆ」心から、心底...「も」は否定の「ず」に呼応し
思いもよらないことを強調させる
...本当に、心底思ってみいなかった...

「へだたらなくに」...「なくに」が「隔たる」の否定
「かく」副詞...このように



〔605〕

夕暮れになれば、あなたへの想いがいっそう増してきます

あなたが何か仰る姿が、幻影のように浮んできます


「ゆうされば」...この場合の「去る」は、近づくの意味 
一般的には、自然に遠ざかったりするような意味だが 
季節や時を表わす語につくと、「近づく」という意になる
...例えば「秋されば」は、「秋が近づくと」


「言問ふ」...話しかける、語る
「面影にして」...幻影のように現れる

この四首の一群は、作者の慕情の始まりのように感じてしまうのだが
掲載順に意図があるとすれば、それは時系列だろうし
仮に幾つかの時期的な群分けがあれば、そのような題詞、あるいは左注があっても
と、思うのだが...それらは一切ない


「朝霧の出逢い」、偶然の通りすがりのような暗示
「轟く磯の寄せる波のような畏れ多い人」なのに、恋してしまった
「山川隔てもなきに」、にも拘らず、容易く逢えはしない 
「夕されば言問ふ面影」、しきりに浮ぶその姿


私が受ける感じは、紛れもなく出逢ったばかりの慕情を
次第に抑えきれなくなってゆく様子を綴っている


笠女郎の伝承は皆無
だから、家持が越中に赴任する頃に彼女の詠歌が見えるのは
手掛かりとしては、遠くに離れる人への悲別の歌になる
しかし、伝未詳であるが故に、彼女の越中行きまで推測されている
歌の中で綴られる、遠くにいる人、こんなに近くにいる人、と...
そこに越中への恋路が描かれている...とでもいうように...

しかし、万葉の時代、忍ぶ仲の女性が
噂にならないように、あれほど執拗に名を隠さねばならない女性が
果たして、越中まで...行けるものなのか、行こうとするものなのか
行きたい気持ちは強い、しかし行けないからこそ...歌の中で嘆いている
泣いている涙が、ことばになって詠わせている...と思えてきた

今日で四夜になる「笠女郎」の歌群を掲載順に歌ってみると
私の感じる思いも日々揺れ動いてしまう
それは、あたかも笠女郎の心に誘われているかのように...
 
 
 
 









  「霧に見える愛おしさ Ⅴ」...笠女郎...

笠女郎の面影を追って、やっとここまできた
初めは、通説の中に彼女を見つけようとしたのだが
次第に何かが違う、と感じ始めてきた
勿論私のような素人が、先人の積み重ねてきた成果に異論を唱えることはない


何度も機会があれば、私は自分の考えを言ってきているが
こうした古代から現存する...勿論写本がほとんどだが...その資料に
それが本格的に研究され出した時には、すでに手遅れだったことも多いはずだ
正確な解釈もままならないまま、未読解の状態が随分続いたと思う 
それを研究し始めた平安時代でさえ、今に比べればまだ万葉に近い時代なのに
その時にも、万葉集は難解な歌集と言われていた

勿論、だからといって現代の研究が無意味だとは思わないし
むしろ考古学的な発掘成果もあって、より精確な情況も得られつつある
しかし、私が問題にしているのは
古語の中の「歌語」、あるいは語法、文法などが解明出来ても
その歌の解釈にまで、現代人が断定して立ち入られない、ということだ

だから、この歌は、こんな歌意なのだから、というような理解の仕方は
私は、あまり興味を持たない

断定できないものを、決められたかのような解釈で通すよりも
断定できなければ、それでより一層の自由な解釈を持てる
そのことで、現代の感覚でも理解できたり
あるいは、現代とはこんなにも違うのか、と自分なりの世界観を持てる
その方が、歌の魅力を増せると思う

私が万葉集に始めて出合った38年前
その頃の私は、古典解釈などさっぱり理解できなかったし、興味もなかった
万葉集に出合っても同じだった
何故なら、そこには、親切に解釈付きの本があったから...
だから、無条件でその本を読み漁っていると
他にも同じように解釈本があることを知る
何気なくページを捲る...そこには、同じ歌なのに、違う意味で読まれている
何が違うのか...言葉は同じはずだ
何が違うのか...

やっと、「古典文学」の恐ろしさが分かってきた

これは確かに日本語だけど、むしろ外国語だと思う方がいいのではないか

そうなると、勉強なんて、と怠け者の悪い癖で、また解釈本に頼ってしまう
そんな時代が何年も続いた後...私自身の転機が、大きく考え方を変えた

あれほど夢中になっていた「山」を止めた
登らなくなった...45歳の頃から...登らなくなった
その時に、また万葉集に向うようになった
今度は、以前とは違う気持ちで向えたのが、今の私につながっている

万葉集の中で、いろんな人と出会う
歌人もいれば、普通の官人もいる
それに、悲運のうちに生涯を終えるドラマを多く知る
万葉集に、どうしてこれだけのものがあるのか、と改めて思い始める
何より感心するのは、そうした悲運の人たちの言葉そのものだけではなく
その人たちの「こころ」を
この万葉集と言う歌集に採録する編者たちの気持ちだ
それに、私は魅せられていた

何度か中断があったものの、幸い現在また再開している万葉集
そして、あの頃とは違う感覚で、人に出会っている
以前は、奈良時代よりも飛鳥時代の歌人や歌に多く接していた
従って、読み方も偏るし、時代的に外交関係をその背景に考慮しなければ
なかなか読み通せるものでもなかった...外交関係の...
それは、何も国力をぶつけ合う争いや駆け引きのことをいっているのではない
「文字」という存在に、当時の歌人たちが、どのように感じていたのか...

それが無性に知りたくなった
漢字しかなかった表記自体、どうして日本語の歌など詠えよう
むしろ、当初は唐風に漢詩が隆盛であったのも、自然なことだ
知識人のステータスというばかりではなく
そこから湧き上がるような国風文化への芽吹き
勿論、この時代では、まだまだその気配のみだろうが...確実にあった

万葉集の中で詠われる多くの愛憎ドラマ
相聞における人のこころが、どうして今もなお、こうして響くのか
物質的にも、それにともなう価値観も大きく違う人の生きた時代
それなのに、「こころ」だけはむしろ共感を多く寄せてしまう

今、私がテーマにしている「笠女郎」など
ほんの数日前までは、私にはたんに万葉を代表する女流歌人
その程度の認識しかなかった
それでさえ、たまたま目に留まった歌で、作者の名を知るくらいで
では、その作者がどんな人物であったのか...そこまで進むこともなかった

奈良の春日大社万葉植物園の入園券が、直接のきっかけになったと思う
しかし、万葉集の中心人物と言われる大伴家持に
大量のラブレターを出しながら、振られてしまった、ということを知り
不思議に思ったのが、そもそもの出会いだ

万葉集と言うのは、そうした女性を傷つけることを平気でしていたのか
そんなことはないだろう

仮に事態が作り話でないのなら...本当の話であるとすれば
あの家持のやり方として、自分の恋した相手に恥など欠かせはしない
彼女の歌を採録しないか、
あるいはその秀歌であるが故に、ということであれば
題詞に家持に贈る歌などと載せなければいい

題詞の不備に付いては、何も他がすべて完璧だというのではないのだから...
むしろ、原資料はとてつもない木簡などの現物資料
その膨大な数の中で、何も「ないものを作る」のではなく
「あるものをはずす」ことは、容易くできたはずだ
...出来たと思う

それでも、何故かこの笠女郎の詠歌は、その題詞も含めて
今のところ、核心を外さないで載っている
それが不思議でならない

作為的な編集も可能だった情況で、結果的に情けを交わした女性を傷つける
そんな男と見做される家持

そのことが、私に笠女郎の一群の歌を読ませるきっかけになってしまった
そして、ある学者の説く歌群分けで読み出すと
何だか通説とは違うような気になってくる
一つ一つの歌そのものの意味が、大きく違う、と言う意味ではなく
そう読めるのなら、それはこんな意味も考えられる、と言ったように...
解釈論とも違う

何故なら、古語に類する精確さは、私など中学生程度の知識だと思うので
そこを異を唱えることはない
だから、そう読むのなら、こんな風に考えられるね、という感じになる

振り返ってみても、私の数年前の「書庫」の内容を読み返してみて
今なら違った受止め方をしていただろう歌も、幾つかあった
勿論修正はしない
その書庫には掲載年月日があるので、むしろその時点での私自身を知れる
それは大切なことだと思う
今、この時点での自分の感じたことは
たとえ、それが思い込みの激しいものであっても
紛れもなく、その時点での自分そのものだから...
それは、決して消せはしない...いや、消してはいけない

書き直しではなく、新たに書くことが、同じ歌から

年月を経た自分が、どんな感じで読み受けたか...むしろ、その方が貴重だ


今の私は、一人の女性を捜す旅に出ているようなものだ
家持の歌の中に、あるいは「作者不詳歌」の中に
笠女郎を想って詠った歌があると思う
「作者不詳歌」など、万葉集の半分ほどもあるのだし...
同じように、笠女郎の歌もある...何故かそんな根拠もない歌捜しの旅
始めようとしている

明日、笠女郎の二首で、この二十四首の歌群は終り
その後、巻第八の二首で...一応すべての笠女郎歌は読むことになるが
その時には、私の「笠女郎」観も仕上がりそうだ


そして、結論に向うための万葉歌の旅をして
このサイトに「笠女郎」のページを設けたい

 

 


 
 
 
掲載日:2013.05.05.

 笠女郎贈大伴宿祢家持歌廿四首 (私記:Ⅴ-四首)
念西 死為物尓 有麻世波 千遍曽吾者 死變益
 思ふにし死にするものにあらませば千たびそ我れは死にかへらまし
 おもひにし しにするものに あらませば
ちたびそわれは しにかへらまし  606
 
劔大刀 身尓取副常 夢見津 何如之恠曽毛 君尓相為 
 剣大刀身に取り添ふと夢に見つ何のさがそも君に逢はむため 
 つるぎたち みにとりそふと いめにみつ  
 なにのさがそも きみにあはむため  607
 
天地之 神理 無者社 吾念君尓 不相死為目 
 天地の神の理なくはこそ我が思ふ君に逢はず死にせめ 
 あめつちの かみのことわり なくはこそ  
 あがおもふきみに あはずしにせめ  608
 
吾毛念 人毛莫忘 多奈和丹 浦吹風之 止時無有 
 我れも思ふ人もな忘れおほなわに浦吹く風のやむ時もなし 
 われもおもふ ひともなわすれ おほなわに  
 らふくかぜの やむときもなし  609
 
皆人乎 宿与殿金者 打礼杼 君乎之念者 寐不勝鴨 
 皆人を寝よとの鐘は打つなれど君をし思へば寐ねかてぬかも 
 みなひとを ねよとのかねは うつなれど  
 きみをしおもへば いねかてぬかも  610
   
不相念 人乎思者 大寺之 餓鬼之後尓 額衝如 
 相思はぬ人を思ふは大寺の餓鬼の後方に額つくごとし 
 あひおもはぬ ひとをおもふは おほてらの  
 がきのしりへに ぬかつくごとし  611


 巻第四 相聞 笠女郎


〔606〕

想うだけで、想うことが「死」ぬ、ということであるのなら

私は千度も繰り返し、繰り返し死んでいるのですね


「思ひ」は「思ふ」の名詞形で、「に」は体言に付く格助詞...原因を表わす
「し」は語調を整え、強意を表わす副助詞
「おもひにし」...想うことによって、想うことが原因で...
「死にする」は「死ぬ」の名詞形にスルがついたもの
「千度」...あまたたび、度数の多いこと
「かへらまし」...「かへる」が反復を表わす接尾語で
「まし」が助動詞特殊型、事実に反することを仮に想像する
「ませば・・・まし」のような形で、仮定して想像する
「あらませば・・・死にけへらまし」...そうであるのなら、何度も死んでいよう

この歌の類歌に、

 戀為 死為物 有者 我身千遍 死反
  恋するに死するものにあらませば我が身は千たび死にかへらまし
   こひするに しにするものに あらませば あがみはちたび しにかへらまし
 以前(一百四十九首)柿本朝臣人麻呂之歌集出
 巻第十一 2394 柿本朝臣人麻呂歌集出
 恋すれば、死ぬものだと決まっていたら
 私は千度も繰り返し死んでいよう 


この類歌のように、語順が入れ替わっただけなのは
その「意」が、一般的な「何か」に基づいた「孤悲」に拠るものだからだろう

それが中国唐代の人気小説で、
704年の遣唐使帰京でもたらされたとされる『遊仙窟』であり
その中に「能ク公子ヲシテ百廻生カシメ巧ク王孫ヲシテ千遍死ナシメム」とあり
それが当時の知識人たちの間で読まれていたこと
そうした唐の代表する文学書をも知識として持ち得ていた...
その教養人といえるほどの「笠女郎」ではないのか...
この『遊仙窟』は、万葉集にも多く影響を与えており
大伴家持も、詠歌の中で多くの語句を用いている

それにしても、柿本朝臣人麻呂歌集「出」というのは
何だか時代的に、微妙な感じがするが...
そこに「綾」があるとしたら、笠女郎も
『遊仙窟』ではなく、柿本朝臣人麻呂歌集を読める環境だった、のか...


〔607〕

剣大刀を身に帯びる夢を見ました

これは一体、何の予兆なのでしょう...

きっと、あなたに逢いたいからなのでしょう


剣大刀は、男を代表する所持品、女のそれは鏡
それぞれが想いを持って、その「剣大刀」あるいは「鏡」を副える夢を見れば
相手に逢えるだろう、という風潮があったようだ
ここでは「逢う」という解釈に基づいているが
他に「相」という原文からの注釈もある

それだと、夢を合わせるの意になり
あなたに「夢を合わせましょう」...
それは、お互いの夢の中で「求め合わせる」ことで
現実に逢えることを望む、健気な恋心を想わせる

どちらの歌意を汲んだとしても、切実に逢いたい気持ちは同じ
しかし、やはり笠女郎の本音は...一緒に夢を見て欲しい...のだろう


〔608〕

天地の神の掌る、理というものがないのなら

恋しいと想うあなたに逢うこともなく

私は死にもしましょう

でも...

「なくはこそ」の「なくは」は、形容詞「なし」の仮定条件...もしないならば
「こそ」は、尾句の「逢はず死にせめ」につながり、逆説的な場合に用いる
この歌では、神の裁きが、理というものがあると信じているからこそ
私は死にはしないで、こうして生きているのです
この歌全体が、反語として読むことになると思う

「神の理」を持ち出すのは、何かお互いの行き違いがあったのだろうか
私には、迷いはありませんよ
あったとすれば、とうに神の裁きで、死んでいるでしょう
そんな風に聞こえる

これにも、類歌がある、

 中臣朝臣宅守与狭野弟上娘子贈答歌
  安米都知能 可未奈伎毛能尓 安良婆許曽 安我毛布伊毛尓 安波受思仁世米
   天地の神なきものにあらばこそ我が思ふ妹に逢はず死にせめ
    あめつちの かみなきものに あらばこそ あがもふいもに あはずしにせめ
 右(十四首)中臣朝臣宅守
 巻第十五 3762 悲話応答歌 中臣朝臣宅守
 もし天地の神がいなかったとしたら
 そのときは諦めて、想う人に逢わずに死のう...
 しかし...


この歌も、まったく同じ語法で詠い切っている

「あらばこそ・・・逢はず死にせめ」
この歌は、天平十二年(740)中臣朝臣宅守がその新妻狭野弟上娘子に贈った歌
「悲話応答歌」として、広く知られる「六十三首」の中の一首
愛しい人に、逢いたくても逢えない心情を詠う
詠歌の年紀が天平十二年であれば、笠女郎と家持の関係もその辺りだと思うし
こうした語句と言うのは、愛する者同士では、慣用句的なものだったのだろうか
二心などない、信じて欲しい、という切なる気持ちを
天地の神の「理」、裁きを持ち出して言う
「天地神明に誓って」という文句なのだろう

中臣朝臣宅守の場合は、罪人としての嫌疑があり
そのことへの釈明の気持ちだろうが
笠女郎の歌は...何か唐突に語られたような気もする


〔609〕

私もお慕いしているのです

あなたも、忘れないでください

海辺に吹く風が止むことのないように...ずーっと...


「人もな忘れ」...この「人」は、家持のこと
「多奈和」、「おほなわ」はまだ決まった解釈がないらしい


この訴えるような気持ちにも、相反する解釈が可能だ
せっかちな家持が、笠女郎の立場も考えずに無茶をしようとして
それを、笠女郎が...私も同じ気持ちです
でも、人に知られるようなことがあったら...
止むことのない浦に吹く風のように想い続けますから
あなたも同じようにそうしてください、と

これまで、笠女郎の一途さが、家持への心の負担を増していく
そればかりが取り上げられているが
今のような背景だって、思えなくはない
すでに、私は笠女郎に肩入れしているので
そうした見方になってしまう

そもそも、この一連の二十四首(合計では二十九首の想い)に
家持は二首しか返していない
そのことが、家持が次第に笠女郎を疎むようになった、と人は解釈する
しかし、同じ現象でも...私は、逆に思えてきたのだから...
笠女郎の歌に取り組んで、日を追うごとに、そう思えるようになってきた


〔610〕

皆の者は寝なさい、と鐘は鳴っていますね

しかしあなたのことを、こうして想っていると

なかなか寝付くことも出来ません

当時の打鐘は、
晨朝・日中・日没・初夜・中夜・後夜の六回陰陽寮で鳴らされたらしい


寝なければならない時刻になっても、寝付けない
ここでの笠女郎の気持ちは、「寝付けない」というほどの
息苦しさは感じない
むしろ、こうした乙女のような気持ちを、味わい楽しむような...
今日載せる歌群が、確かに今までよりも穏やかさを感じる中で
この一首は殊更に、恋するって、こんなものなのですね
と、自分のことを客観的に見られる余裕が...あるような気がする


〔611〕

想いが通じない人を、それでも想うのは

大寺の餓鬼像の後ろに、ひれ伏して拝むようなものです


一般的な解釈では、想いが遂げられず
仏ではなく、恋路に役に立たない餓鬼像に後ろから拝ようなもの、と
少し荒っぽい無念さを滲ませているが
私には...違う、と思う
そうまでしてでも、想いを届けたい...形振り構わず

ここまでの歌の流れで、そんな意味合いの歌が通るはずもない
編者が意識もなく、何も考えずに、適当に並べたのであればともかく
ここまでは、その時期は行き来はあるが、流れはしっかりしている
まるでドラマのように、回想めいた一群を配したり

そこまで周到に配列されたこの「笠女郎」の歌が
ここで、流れを止める...いや、それまでの流れそのものさえ消し去るような
そんな編集はしないと思う

勿論、万葉集のどの巻も、きとんとした基本ルール通り、というものではない
確かに、不規則な、あるいはこれはおかしい、というような編集もある
しかし、こと笠女郎のこの二十四首に限っては...
まるで作者の笠女郎を、一流の役者のように舞台に立てている
そのように私は感じている
だから、この歌も...通説とは違う...はずだ、と思う


この時代の大寺は、大安寺・薬師寺・元興寺・興福寺などで
まだ奈良七大寺は揃っていなかった
だから、現存の餓鬼像のように
天部像に踏まれて懲らしめられているものかどうか
笠女郎がどんな餓鬼像を後ろからでも額づいて、と詠ったのか、それは分からない
確かに、何かにすがりたい気持ちではあっただろう
ならば、懲らしめられている餓鬼ではなく
もっと強者の像の方が、その力にすがりたい気持ちを理解できるのに...
私には、仏像の関係にはさっぱり理解がないので
単純にしか考えられないが、笠女郎が頼ろうとした餓鬼とは...

想ってくれない人を想うこと
それは、餓鬼の背後からでも額づくようなもの...
これも、あり得ない、という反語の類ではないのか

だから、想ってくれない人、なのではなく
想ってくれている人
笠女郎は、そう言っているに違いない
すると、今日の六首の歌の意味合いが...一致する
決して、空しさを訴えているのではなく
家持を信じてる自分を、詠ってみせた

想うだけで死ぬ定めなら、自分はもう千度も死んでいる
天地の神の「理」がなければ、生きているはずもない
そして...餓鬼に背後からでも額づいて拝むなどと...そんなことあるはずもない

このときの笠女郎には、苦しさは大きくあっても
別れにも勝る苦しさではない、そのことに精神的な拠り所を持っているのでは...
切なさ、苦しさを訴えながらも
それが「恋」なのだ、と...






  「霧に見える愛おしさ Ⅵ」...笠女郎...

  別れてのちの恋歌

私の、かつて心打たれた愛読書のタイトルをつけた

勿論、その文学作品と内容がリンクしている訳ではない
むしろ、通説ではまるでストーカーまがいの評までされていることもある
笠女郎という一人の女性が、歌を通して、恋する家持に心を告げる
その内容が、ただただ「慕う切なさ」であって
初々しい時もあれば、想いが叶わなければ、死ぬだろう、とも解せるような...


最近の世の中では、この種の行為は、間違いなく糾弾されるし
「別れて」もなお未練を訴える女性に、同情はしない
その通説を造り上げたのは、間違いなく相手の大伴家持だ
彼がこの笠女郎に返した歌は、その一割にも満たない...僅か二首
しかも、どうして逢ってしまったのだろう、と悔やむような情けない歌だ
そんな情況の中で、この残された万葉集の歌だけを手掛かりにすれば
笠女郎は家持を追いかける、激する女性と思われるようになってしまう


歌以外に、何も手掛かりがないのなら
その歌を、じっくり読んでみよう
そう思って、始めた今日までの「六夜通し」


そもそも、私が笠女郎という女性を意識したのは
先月29日に、奈良春日大社万葉植物園に行ったときのこと
それまでの私は彼女のことを、
「万葉を代表する女流歌人」程度しか思っていなかった
たまに接する歌で、笠女郎の名を見ても
殊更調べようとは思わなかった
何しろ、相聞歌というのは、なかなか追いかけるようにして読めはしない
自分自身のそのときの心情も、大きく影響する
若い人が、まさに恋の真っ最中であれば、恋愛物を読み漁るように
そうでなければ、ちょっと手を引いてしまうような、億劫さ


私にしても、今更相聞歌に夢中になって、という気持ちはあった
勿論、相聞歌の瑞々しさは今でも好きで積極的に読みはするが
それは、歌に限ることであって
作者のことまで、なかなか思い遣ることもなかった


ひょっとすると、この笠女郎が、こうした初めてのケースなのかもしれない


万葉植物園の入園券にデザインされた、彼女の歌と「むらさき」の花
その券を、何気なく見ていたのが...いつしか魅せられるように見詰めていた
それが、きっかけだ


初め、巻第三の三首を取り上げ、ますます調べてみようと思った
すると、家持へ贈った歌が連続して二十四首
尋常ではない数の歌、しかもそのとき初めて知ったが
彼女の万葉歌全二十九首は、すべて大伴家持への相聞歌だ
万葉集の編者と目される大伴家持にとって、
よほど大切にされた女性かと思えば
その関連の書を垣間見ると...まったく予想外の二人の関係が書かれている
そんなバカな、と思い直して、更に調べてみると
二人の関係は、いっときは恋人関係だっただろうが
やがて、笠女郎の一途さに、家持が敬遠し始めたようなことになっており
さらに、家持の方は彼女の贈答歌二十九首に対して、二首しか返していない
そのことで、彼女の悲恋を決め付けてしまった


私も、初めはそうなのかな、家持には大勢の恋する女性がいたのだから
そんな気も少しはありながら、
それでも二人の歌のバランスが引っかかっていた


そして読み進めるうちに...いや、この通説では、二人の気持ちが誤解される
そんなことを一つ、あるいは二つ、と感じ始め
気づいた時には、私の中での笠女郎は...とても魅力的な女性になっていた
嫌がる相手に、何度も気持ちを押し付けるのではなく
秘めることの「苦しさと、美しさ」を十分知っている女性
その秘めざることも、自分の立場だけではなく、相手のことを思い遣る


こうして、万葉集に載せられたのは、決して彼女の本意ではなかった
当然のことだろう
そして大伴家持にしても、当初から万葉集に採り込む気などなかった
それが、現在の形に見られるのは...
この二人の関係から、すでに何十年も経っての時代にあって
もう直接の関係者は...存命していない時期だったのだろう
そのことが、敢えてこの一連の歌を採録した理由だと思う


家持が返す歌の中で呟く「何為跡香 相見始兼 不遂尓」
「何のために逢ってしまったのだろう、添い遂げられない相手なのに」


その言葉が...すべてを物語っているように思える
よく通説で言われる、身分の差
確かにあると思う、家持の大伴家は、由緒ある氏族だ
しかし、この二人の出逢う数年前に、家持は愛妾を亡くしている
正式に妻に迎えられなくても、愛した女性を大切にしている

そのことは、亡き愛妾への挽歌でよく解る


家持の気持ちが、笠女郎から離れていったことだけが理由なら
「添い遂げられない相手」などと、どうして悔やむのだろう
身分のある程度の差など、原因ではなく
...これは現代的な解釈になるが...笠女郎の側の問題なのだ、と思う
すでに、彼女は結婚していた
だから、二人の仲は、何があっても伏せなければならず
その葛藤が、いっそう笠女郎の歌の激しさのベースになっている


私には、そう思えてならない


いずれ近いうちに、このサイトで「笠女郎」についての項目を設け
そこに、まとめを書こうと思うが、すでに方針は決まっている
後は、いくつかの補強のために調べたいことがあるので
それを終えてからだが...


ここに、巻第八の笠女郎の歌二首を載せておく
これで、彼女の万葉集での「名を記す」歌二十九首が揃う

  笠女郎贈大伴家持歌一首
 水鳥之 鴨乃羽色乃 春山乃 於保束無毛 所念可聞
  水鳥の鴨の羽色の春山のおほつかなくも思ほゆるかも
 みづどりのかものはいろのはるやまのおほつかなくもおもほゆるかも
 巻第八 1455 春相聞 笠女郎
水鳥の羽色のような春山の
そこに立つ霞のように、私たちのことが
覚束なく思えてしまいます
 
  笠女郎贈大伴宿祢家持歌一首
 毎朝 吾見屋戸乃 瞿麦之 花尓毛君波 有許世奴香裳
  朝ごとに我が見る宿のなでしこの花にも君はありこせぬかも
 あさごとにわがみるやどのなでしこのはなにもきみはありこせぬかも
 巻第八 1620 秋相聞 笠女郎
毎朝見る我が家の庭のなでしこの花
その花であっても、あなたは逢ってはくれないのでしょうか
 

掲載日:2013.05.06.


 笠女郎贈大伴宿祢家持歌廿四首 (私記:Ⅵ-四首)
従情毛 我者不念寸 又更 吾故郷尓 将還来者
 心ゆも我は思はずきまたさらに我が故郷に帰り来むとは
 こころゆも わはおもはずき またさらに わがふるさとに かへりこむとは
 612
 
近有者 雖不見在乎 弥遠 君之伊座者 有不勝自 
 近くあれば見ねどもあるをいや遠く君がいまさば有りかつましじ 
 ちかくあればみねどもあるをいやとほく きみがいまさばありかつましじ
   613
  右二首相別後更来贈  


 巻第四 相聞 笠女郎


〔612〕

まったく思いもしていませんでした

またその上に、故郷へ帰ってこようとは...


上二句の「~我者不念寸」、前出の〔604〕と同じ
「故郷」が一般的に、平城遷都後は、旧都「飛鳥旧京」をさすらしい
勿論、作者の故郷だって考えられるが
作者の故郷となると、経歴が伝わらないのだから、分からない
ただ、故郷へ還る経緯があまりに予想外のことであった、とあるのは
それが何なのか、推測でしか伺えない


ただでさへ家持とは遠く離れている
それでも、奈良の都にあれば、家持の噂でも聞くことができよう
それなのに、さらにまた遠くなる故郷へ帰るなどと...


家持との仲を、隠し通せなくなったのか
そして別れなければ...、と作者があるいは家持から言われたのか...
あるいは、単純に作者側の事情に拠るものなのか...


私は、作者側の事情だと思う
その思いは、左頁に書こう


〔613〕

近くにいるのであれば、たとえ逢えなくても我慢できましょうが

ほんとうにこんなに遠くに、あなたがいらっしゃるのなら

わたしは、生きていけそうにありません


近くにいる、ということは
同じ都にいる、と言うことだと思う
たとえ家持がまだ越中だとしても、都こそは二人が共通する「恋の都」
作者は、自分がそこにいる限り、ずーっと心情的には一緒だと思うのではないか
その情況では、たとえ逢えなくても、何とか同じ空気を吸って
そばにいることを、苦しいながらも我慢できる
作者は、その都を離れ、故郷に帰らざるを得なくなった
もう家持との接点が、何もなくなる...そのことが絶望へといざなう


「いや遠く」、原文では「弥遠」のみで、助詞がないため
「いや遠に」とある注釈書も多い
古語辞典の「いや遠に」では、形容動詞「弥遠(いやとほ)」で
「いや遠に」と用例があり、いよいよ、ますます遠いさま、とある


「ありかつましじ」、「かつ」はできる、「ましじ」は「まじ」の古形
だから、ないだろう、の意となる...


この二首は、左注に、「別れたあとでまた贈って来た」とある
「また」というのは、それまでの贈られてきた歌と同じように、という
その意味なのか、あるいは「別れてのちにも、幾度かあった」ということだろうか
まだまだ読み通さなければ解らないことが多い


万葉時代の、あるいは奈良時代の恋愛というのは
確かに現代の感覚での収束は理解できないだろう
しかし、その結果はどんなものであろうと
恋愛の過程...渦中に見る万葉人たちの悲喜交々の様は
多くの人に共感をもたらせている


笠女郎と家持

一般的などの書を読んでも、同じように恋多き家持の
またいつものパターンか、と片付けてしまう読後感
しかし私には、この笠女郎への扱い方は、随分違うように思えた
勿論、史実を踏まえることは重要なことだ
そこに虚構を組み入れ、恣意に流れるような物語を作るのなら
それは、そのようなものだ、という「見方」をしなければならない


ただし、史実...この場合は事実の方が当てはまるだろうが...を求める中で
その資料が殆どないとき、そしてあっても事実なのか創作なのか
それが判然としない「和歌」と言うものの中で、まるで欧州の叙事詩みたいに...
それを手掛かりにしているのが、研究者たちの今のところの手段といえる


ならば、素人の自分が、何の責任もない立場で夢を膨らませることも可能だ
不遜にもそんな気構えを持ち出す...それで、もう何十年にもなるが...


その間に、文献史学、考古学、いろんな研究成果が公表され
そして、夢がいっそう膨らんだり、あるいは凋んだり...
それでいい...はずだ


そう思って、笠女郎のことを追い掛け始めたのだから...




 













  「家持の恋旅」...娘子とは、笠女郎をもとめて...

  気になる「娘子」への贈る歌

私の笠女郎を求めての旅路は、始まったばかりだ

勿論、その前提は
笠女郎が、本当は「伝未詳の万葉歌人」と括られる女性ではなく
家持にとって、掛替えのない女性だった、という私の想いがある


家持が、どれほど多くの女性と恋をしたにせよ
その名前ではなく「娘子」などの言わば戯れのように扱われる節のものもある
この笠女郎の二十四首が突出している巻第四の中にも
「娘子」に贈った歌が十三首もある


他には、巻第八の秋雑歌に一首(1600)ある
しかも、この一首は巻第四の十三首の内の一首(703)と全く題詞は同じ

 「大伴宿禰家持、娘子が門に到りて作る歌一首」

 大伴宿祢家持到娘子之門作歌一首
  如此為而哉 猶八将退 不近 道之間乎 煩参来而
 かくしてやなほや退らむ近からぬ道の間をなづみ参ゐ来て
  かくしてや なほやまからむ ちかからぬ
  みちのあひだを なづみまゐきて
 巻第四 703 相聞 大伴家持
このようにしてやって来たのだが、やはり追い返されるのか
近くもない道のりを、やっと苦労して来たのだが...
 
 大伴宿祢家持到娘子門作歌一首
  妹家之 門田乎見跡 打出来之 情毛知久 照月夜鴨
 妹が家の門田を見むとうち出で来し心もしるく照る月夜かも
  いもがいへの かどたをみむと うちいでこし
  こころもしるく てるつくよかも
 巻第八 1600 秋雑歌 大伴家持
 あなたの家の門田の様子でも見ようとやって来たのだけど
 でもその甲斐があって、こんなに素晴らしい月の照る夜に...


〔703〕では、予想はしていたのだが、本当に追い返されてしまった
〔1600〕は、あたかも同じような恥をかかないように
照る月夜に、やって来た甲斐があったものだ、と強がっている
勿論、この歌の主旨は娘子に逢えたかどうか、ではなく
月夜に対しての感嘆の気持ちを詠っている


家持が、名を表わさない女性への贈歌は、他に「童女」もあるが
今回は...またしばらくになるが「娘子」への贈歌から「旅」してみたい


詠歌の時期など、不明な点も多いので、それこそほとんどが想像で終始するが
ある視点からみれば、そのハンディも少しは軽減されるだろう
それは、家持にとって「娘子」とは、どんな存在になるのか、ということ


そして、この巻第四にこうして集中している意味
そのことが、膨大な万葉歌の中でも、手助けにはなる
何しろ、大伴家およびその周辺の歌が殆どだから
その中で「娘子」が、他の名のある女性たちと
どんな根拠で差別化されているのか...そうしなければならなかった理由
それが解れば、と...笠女郎とも重なるところがあるかもしれない
そんな淡い期待を、持ち始めた


一般の解説書では、
家持がいう「娘子」への贈歌、同一人物か、と保留しているが
何故「娘子」という呼称を使ってまで...とも、考えられる
単に、「娘子」は卑姓の出身者が多い、との大方の説明...納得がいかない
歌の内容から、他の女性への贈歌と、どんな風に差別されているのか...
家持が、同じように「ぞっこん」なのは明白で
仮に卑姓出身の女性への恋歌を贈ることが大伴家にとって恥ずべきことなら
そもそも、この「娘子」への歌など載せる必要はない

そのような操作が...行われた可能性の強い「巻第四」なのだから...

今夜は、まずその家持の「恋旅」のスタート位置に立つ
勿論、笠女郎の面影をもとめて...
 

掲載日:2013.05.07.


 大伴宿祢家持贈娘子歌二首
百礒城之 大宮人者 雖多有 情尓乗而 所念妹
 ももしきの大宮人は多かれど心に乗りて思ほゆる妹
 ももしきの おほみやひとは おほかれど こころにのりて おもほゆるいも
 694
 
得羽重無 妹二毛有鴨 如此許 人情乎 令盡念者
 うはへなき妹にもあるかもかくばかり人の心を尽さく思へば
 うはへなきいもにもあるかもかくばかり ひとのこころをつくさくおもへば
   695


 巻第四 相聞 大伴家持


〔694〕

宮中には、大勢の立派な女官がいるが

私のこころをこんなにも占めているのだよ、あなたは...


「ももしきの」...大宮に懸かる枕詞
「百磯城の」から皇居を指す意味として大宮に懸かる
大勢の美しい女官も多くいたことだろう
「情に乗りて」...万葉集中には慣用句のように使われる
相手が自分の心に乗る...つまり、自分の心を独占してしまう
家持が、「娘子」に、ぞっこんなんだよ、と言う口説きの歌


〔695〕

つれない人だ、あなたという人は

これほどまでに、私のこころを擦り減らせてしまうなんて...


「うはへなき」...「うはへなし」の連体形、つれない、愛想がない
「かも」...詠嘆の終助詞、・・・なのだね
「かくばかり」...副詞、これほどまでに、こんなにも
「心を尽す」は、擦り減るほどに心を痛めつけること
「思へば」...「ば」は理由・原因の接続助詞...考えてみると 


家持は、本当はどんな人物だったのだろう 
防人たちの辛さを思って何とかしてやりたいそんな心根の優しいところもあった
そして、何より官僚としては出世が非常に遅く
また地方での勤務が長きに渡っている 
その理由はなんだろう 
あるいは、女性への奔放さも大きな原因になっているのかもしれない
もし、笠女郎へのならぬ恋が、ありふれたものではなく
それこそ彼の官僚としての輝ける道を閉ざしかねないほどのものであれば...






 










  「家持の恋旅」...報贈歌の有無、笠女郎をもとめて...

  「返歌」そのものが伝えること

笠女郎とのことを、出来るだけ知ろうとすると
どうしても、大伴家持が、他の女性たちに、どう接していたか
それを調べてみたくなる
何だか、ワイドショー的な発想で、あまり気乗りもしないやり方だったが
今朝から出勤の電車の中で、そんな目的で文庫本を読んでいると
今までとは違った「万葉の世界」を見ることになった
全二十巻の目録だけに目を通したのは、おそらく...初めてのことだ


しかも、「贈歌」、とくれば「報贈歌」となるべきところを
そうなっていない歌を捜す...何も大伴家持に限らず
そうした基本のルールが、確実に貫かれているかどうか
「贈歌」だけならある...「相聞」でなくても「雑歌」にもある 
しかし、「報贈歌」あるいは「報へる歌」のように
その前にあるべき歌が載っていないことが
特定の巻...第四や、第十七以降のいわゆる家持が大きく関わっている巻
それらには、当たり前のように見受けられる、と指摘もある


私が気になっているのは、それがどんな場合に起こり得るのか、ということだ
昨日取り上げた「娘子」のような、見当も付かない女性だけではなく
氏族名までは陳べていても、実際の名までは載せていない
そんな相手との応答の実態が、どうしても知りたくなった


その目的だけの成果は、確かに全二十巻分、網羅できたし
これも、週末へ向っての整理をしなければならないが
その他に、興味深い目録、および題詞に幾つも遭遇した


その意味で、今回の万葉集へのアプローチ
今まで漠然と読み通してきた万葉の歌の数々
それが、たまたま目に留まった歌、というのではなく
こんな状況下で詠える歌は、とか
この立場の人は、こんな時にしか詠わない、あるいは詠う


私的な宴会であろうと、必ず「詠歌」が記録される...と思っている


ラブレター...「恋文」の当時の実体は「恋歌文」のことだ、とか
それを交互に遣り取りする手段まで知ることが出来た


歌集のための「詠歌」ではなく
そうした実情に即した本当の「詠歌」が、万葉集の本質だと改めて知る
勿論、歌物語のように後世に伝えるべく観点からの採録も、詠歌もある
古歌集や、それに難解文の多い「柿本朝臣人麻呂歌集」などのように
当時の人の解釈で訓み下され、それを万葉仮名に書き改められたものなど
いくつも知ることが出来た


こうした馴染み方は、決して専門家たちだけのものではなく
現在では、実に多くの注釈書もある程度容易に手にすることが出来るので
素人でも興味があれば、どんどん自分で解釈できるほどの環境になっている
勿論、万葉集のオリジナルは今のところ現存しない
すべてが、そのオリジナルを何代にもわたって書写してきたもの
それが多くの系統に分かれていることが、問題を複雑にしはするが
現在の環境では、それ以上は立ち入れない...書写本からのスタート


それでも、少々歌意が異なろうとも、自分にとっての「歌こころ」は持てる
この歌は、こうだから、好きなのだ、と
仮に、実際は違っていたとしても...そう思い込んだ歌が、自分に影響を持つ
それが、歌に酔える一つの方法でもある、と思う
作者に酔う場合もあれば、歌に酔う場合もある


ただ、気をつけなければいけないのは
古語の意味は、出来るだけ知っておかなければならない
その上で、自分なりの解釈を求めればいい...俺はこう感じた、と


歌人としての大伴家持には、これほどのめり込み
その相聞を交わした女性への、世間の評価に気掛かりを覚え
自分なら、家持がそんな扱い方はしないと思うし
また、現代の解釈は、あくまで幾つかの可能な解釈の一つであり
その中で、うろたえることなく、自分が構築できる「人の心」を捜す
そうした万葉集の楽しみ方も、いいのではないか、と思う


歌人・大伴家持ばかり目に付いてしまうが
実際の大伴家持は、名門大伴家を代表する官僚でもある
いや、むしろ官僚として大きく政局にも関わる立場にもある
そのことも、忘れてはならない
奈良時代後半は、大伴家にとっても、多難な時代だったといえる
一族からの謀反への連座、逮捕、処刑者まで出している
その中で、家持は...いかにして大伴家を存続させるか、と
随分悩むことも多かったはずだ


その部分も多くは万葉集の中からでも垣間見られる
相聞だけを、それこそドラマティックに取り上げてはいるが
笠女郎のことを、もっと知ろうとすると...
この家持の官僚としての部分も、知らなければならなくなるだろう


やはり...先は長い...遠い道のりなのか...
 

掲載日:2013.05.08.

 平群氏女郎贈越中守大伴宿祢家持歌(十二首)
吉美尓餘里 吾名波須泥尓 多都多山 絶多流孤悲乃 之氣吉許呂可母
 君により我が名はすでに龍田山絶えたる恋の繁きころかも
 きみにより わがなはすでに たつたやま たえたるこひの しげきころかも
3953
(右件十二首歌者時々寄便使来贈非在一度所送也) 


 巻第十七  平群氏女郎


〔3953〕

あなたのせいですよ

私の名の恋の噂が、竜田山の名のように広がってしまって...

それに、その山の名のように、断ち切ったはずの孤悲なのに

また恋しく思われてきて...苦しいのです


「竜田山」の「タツ」から連想させ、上三句で「絶つ」を起こす序
竜田山は大和国平群郡にあるので、作者にとっては、所縁の山なのだろう
その山の名に掛けて「噂が立つ」と、「想いを絶つ」そして「再び立つ」
と「ことば」を繋げてしまう


平群氏女郎もまた、家持へ熱烈な恋歌を贈っている
しかし、家持から返した歌を、私は見つけることが出来ない
笠女郎と同じように、結構な歌を贈っている
平群氏女郎の万葉集での詠歌は、この十二首だけで、すべて家持へ贈っている
これも、笠女郎と同じような境遇と見られるのだろう


しかし、この一連の歌がとても分かりやすいのは
題詞に、越中守大伴宿禰家持に贈る歌、とあるので
そこから、詠歌の時期がほぼ確定できる...
そこが、まだ曖昧だった笠女郎との背景とは大きく違う
何しろ、笠女郎の詠歌には、題詞も左注もなく
歌の内容から、家持が都を離れていた頃...の推測からスタートしている
すると、父旅人について大宰府に暮らした頃の少年時代は、やはり苦しく
どうしても、越中守として赴任してからの恋仲を思わざるをえない
家持二十九歳で、赴任している
そこで初めて、歌の内容に沿った展開も受け入れられる
勿論、恋の始めの頃は、正妻の大伴坂上大嬢がいたかもしれない
それでも、家持が見初めてしまった...笠女郎、という私の思いはある


今夜の平群氏女郎は、そんな時期的な悩ましさはなく
確実に時期を絞ることが出来、なおかつ
左注で知られるように、十二首を一度に送ったのではなく
その時に応じ便りの使者に託して贈ったもの、とある
私には、これほど鮮明な相聞歌の実際の伝達方法を
今まで考えたこともなかった
確かに、こうした相聞の歌と言うべき「私信」が
歌集に載る以上は、創られた感も否めないと思っていたが
このように相手側に届ける手段まで書かれていると...まさに「恋歌文」だ


ただ、この女性も、一旦は想いを断ち切ったのに、と言っている
それが、また噂が立ったせいなのか、恋しく想い始めてしまう辛さを言う


家持にすれば、もう過去の女性で
今更返歌も要らない、ということなのだろうか 
そうであれば、巻第四以上に、家持の意向が大きく影響しているこの巻第十七
この女性の歌は...何も載せなくても、と思ってしまう
こうした女性の歌は、「作者不詳」の相聞が集中する巻第十一、十二にも
いくらでも見られると思うのだが...
それぞれの歌の質については、確かに私には分からないが
少なくとも、「作者不詳」との大きな違いは
笠女郎や、平群氏女郎のようにその名がフルネームではなくても
出身氏族とか、あるいは誰宛の歌なのか、と分かるので
その意味では、重要な歌であるには違いない...そうか、「伝未詳」というのは
何者か解らない、というのではなく
その素性の記録が、今に伝わらない、と言うことなのか
いや違う...相当過去に遡る時代の歌を、誰の歌なのか、と言うのではなく
まさに、同時代の歌の作者だ...やはり、名を出せない...ギリギリまでのところで
氏族名までだったのかもしれない










  「家持の恋旅」...時期が重なれば...笠女郎をもとめて...

  家持からの「返歌」がないもの

大伴家持が、笠女郎に贈った、逢ったことへの後悔の念
その二首を知ることによって、笠女郎との関係を少なからず想ってしまうが
他に、女性から贈られた...家持とは明記されていなくても
それとなく解る歌、それをも含め
尚も大伴家持の「報ふる歌」あるいは「和する歌」のないものは
次のようになる(追って取り上げる)


 巻第四相聞  山口女王贈大伴宿祢家持歌五首(616~620)  5首
   大神女郎贈大伴宿祢家持歌一首(621)  1首
   中臣女郎贈大伴宿祢家持歌五首(678~682)  5首
   河内百枝娘子贈大伴宿祢家持歌二首(704~705)  2首
   巫部麻蘇娘子歌二首(706~707)→家持?  2首
   粟田女娘子贈大伴宿祢家持歌二首(710~711)  2首
   豊前國娘子大宅女の歌一首 [未審姓氏](712)→家持?  1首
   安都扉娘子歌一首(713)→家持?  1首
   丹波大女娘子歌三首(714~716)→家持?  3首
 巻第八夏相聞  大神女郎贈大伴家持歌一首(1509)  1首
 巻第八秋相聞  山口女王贈大伴宿祢家持歌一首(1621)   1首
   巫部麻蘇娘子歌一首(1625)   1首
 巻第十八  平群氏女郎贈越中守大伴宿祢家持歌十二首   12首


赤字の「巫部麻蘇娘子」については、巻第八の秋雑歌に一首あるが
それには直後に、家持の「和ふる歌」が載せられている

他、氏姓の伴わない「娘子」の類もあり、この中には家持も返す歌がある
しかし、「娘子」と漠然とあるのは...私も、今読み直しているところ

これだけの家持へ贈られた歌に対して
家持が一首も返していないのは、何故だろう
それぞれが伝未詳とあっても、当時では「素性の知られた」女性たちのはず
だから、家持の奔放な女性関係を隠す意図があるとすれば
当然、結果的には公的な歌集になる「万葉集」に載るのは...理解できない
少なくとも、巻第八と同じ部立ての巻第十ならば
その作者がみな「不詳」であるので、
そこに載せてもいいのでは、と思ってしまう

逆に、家持が女性から贈られた歌や、あるいは贈った歌の「遣り取り」が
「娘子」「童女」、そして「巫部麻蘇娘子」「日置娘子」(一首ずつの相聞)
および、坂上郎女や坂上大嬢などの近親者を除けば
紀女郎くらいが、その素性を伝えられるものだ

唯一、家持から贈った「伝未詳」の安倍女郎への歌
その女性からの返しの歌はない

笠女郎へ、二首という僅かな歌数であっても
その内容が、何故逢ったしまったのだろう、という
その苦しさを吐き出すかのようなものだけに

先の表で見る女性たちとは違う扱い方であることは、間違いないだろう
よく言われる、笠女郎の歌が、かなり秀歌であり
家持には捨てがたいものだった...ということなのだろうか
しかし、そうだとすれば、表の十名の女性についても
歌の評価を基準にして載せたとすると、返しがあってもおかしくないだろうし
そうではないとすれば、何も載せない、あるいは巻第十に載せる、とか...

ただし、巻第十が純粋な「作者不詳」の歌群であるなら
やはり、氏姓のみの記名であっても
その素性は...落とせなかった、ということなのだろう
それにしては、その内容が...現代的なドラマのようで...

振り返ってみると
私が万葉集に興味を持ち始めた頃は
柿本朝臣人麻呂とか、大津皇子、高市皇子とか
飛鳥時代の歌が多かった
家持の歌など...奈良時代という少々時代も安定してくる頃への興味は薄く
あまり読まなかったものが
今は、こうして家持とその周辺にどっぷりと...

私も、確かに変った、ということだ
 

掲載日:2013.05.09.


 平群氏女郎贈越中守大伴宿祢家持歌(十二首)
 久佐麻久良 多妣尓之婆々々 可久能未也
  伎美乎夜利都追 安我孤悲乎良牟
  草枕旅にしばしばかくのみや君を遣りつつ我が恋ひ居らむ
   くさまくら たびにしばしば かくのみや きみをやりつつ あがこひをらむ
3958
   
 草枕 多妣伊尓之伎美我 可敝里許牟   
 月日乎之良牟 須邊能思良難久 
  草枕旅去にし君が帰り来む月日を知らむすべの知らなく 
   くさまくらたびいにしきみがかへりこむ つきひをしらむすべのしらなく
3959
 (右件十二首歌者時々寄便使来贈非在一度所送也) 


 巻第十七  平群氏女郎


〔3958〕

またあなたを送り出すことに...

こんな風に何度も何度も...そして私の辛い恋ごころは続くのでしょうね


旅にしばしば...家持が六年前に東国に供奉した後も
今度は久邇京への出仕...そしてやっと平城に戻ったと思えば
今度は越中国への赴任...
「かくのみや」...このようなことばかり、詠嘆的疑問
「君を遣りつつ」...自分は残り、送り出すこと、「つつ」は反復
「こひをらむ」...だから、私の「切ない恋ごころ」があるのです...、と


〔3959〕

旅に出てしまったあなたが

いつ帰って来られるか

その月日を知ろうにも、私にはその知る手段もないのです


「なく」は否定の名詞形、「ク語法止め」

平群氏女郎が、家持とどのような関係であったのか
彼女の歌だけでしか伺えないが
少なくとも、家持が都にいるときは...逢える立場だったのだろうか...
家持からの「恋歌文」は、一通もなく
一連の十二首の左注に言うように、便に託して贈った歌であるにしては
家持の無視するような扱い方は...
先の笠女郎のときと同じように、信じかねるものだ


家持が、その作歌人生を終えたとされる759年の最後の歌から
その死までの二十六年間...家持の人生の半分近くを占めるその期間
どんな想いが去来していたのだろう



 








  「家持の恋旅」...平群氏女郎と笠女郎...

  笠女郎との離別の距離は...本当に都と越中だったのかな


私が最初に笠女郎に接した時
この女性が都を離れる家持に贈った歌であることから
父に伴って行った大宰府なら十代後半であり
あまりにも歌の様子からは離れていそうに単純に考えたので
次の遠地として、越中に赴任する頃、家持の二十九歳頃で
その頃の歌の方が、しっくり受け入れやすい、と判断したからだ
しかし、通説では確かに、大宰府へ行く家持との相聞歌と言われていた


こうして平群氏女郎の、越中国赴任に際しての歌群を知ると
やはり、笠女郎との仲は...越中時代ではなかったのではないか、と
今は、強く思うようになっている
何故なら、二人の女性の同じ時期に、こうした歌を載せられないだろう
という、あまりにも常識的な思いからなのかも知れないが...


すると、もう一度、笠女郎の歌を読み返してみたくなった
越中でないにしても、
家持にはそれ以前に平城の都を離れて過ごす期間があった
それは久邇京、家持が越中守として赴任する六年前のこと
その頃の家持は、平城の都ではなく、久邇京において出仕していた
となると、この時代のことなのではないか
それなら、笠女郎であっても、平城から何度か家持のいる久邇京まで行ける
笠女郎が越中まで行ったかもしれないと言う、歌の解釈も目にしたが
私には、どうしてもそれは受け入れがたかった
名を隠し通すことに異常なまでに(いや、立場上、当然だろうが)気遣い
それでも、家持の近くまで行ったのではないか、とも読める歌
そこに妙な違和感があったが...久邇京であるなら...
笠女郎であっても行けるだろう


しかし、いずれにしてもその時期
家持はしばらく何かの事情で離れていた坂上大嬢と結婚する
笠女郎は、平群氏女郎とは時期は重ならなくても
この正妻となる坂上大嬢とは、どうしても重なってしまう
おそらく、坂上大嬢との復縁が始まった頃に
家持と笠女郎との仲は微妙なものになりつつあったのではないだろうか


家持が、笠女郎に逢ったことを
あれほど後悔し、それを歌の残す...
坂上大嬢との一族内の結婚が...家持としては、避けられないものとして
その葛藤の大きさ、苦悩の時期に笠女郎の想いの歌が重なってくる 


笠女郎への二首の歌が、あれほど家持の心情を呟かせているのは
そうした背景の中でのこと


しかし、そうなるとますますこの久邇京時代
平群氏女郎との重なりが強まってくる
この女性との間には、歌の内容からすると
家持はそれほど想っていないのでは、と読めてしまうが
ではどうして、この女性からの一方的な「恋歌文」を
私歌集の色合いの濃い巻第十七で載せるのだろう
いや、私的歌集のごときだからこそ、なのかもしれない
家持以外の関与者を抑えて、家持が私的に編纂をした...
そうした中での、想い一つ一つを残したかったのだろうか...
当時の平群氏女郎からの相聞に、何一つ応えることのなかった家持
それは、現存する万葉集の中ではそうであっても
家持の手元には...まだまだ相当数の歌が残っていたのではないか


そして、家持がそれらを意図的に載せなかった
いや、載せられなかった内容のものなのだろう 
仮に...私にはその公算が強いと思うが...そうだとすれば
家持という人物像の、ほんの一部しか現代人は知り得ない、ということになる
本人の公式な略歴などは、その後の資料でも確認できるが
生きた当時の、彼を取り巻く官僚像以外の姿は...


彼の残した「万葉集」でしかない...それで、いいのかもしれない
後の人が自分をどう見ようと、俺は知ったことか、
と嘯いているのかもしれない
そこに、あれほどの赤裸々な告白、いや素直な気持ち、姿を残したかった
...私には、そんな家持像が見えてくる






 
 
 
もう一度、笠女郎の歌...読み返してみよう 
 
そして、家持のあの歌も...
 
 
 
  大伴宿祢家持和歌二首
 中々者 黙毛有益乎 何為跡香 相見始兼 不遂尓
   なかなかに黙もあらましを何すとか相見そめけむ遂げざらまくに
    なかなかにもだもあらましをなにすとか あひみそめけむとげざらまくに
 
 巻第四 615 大伴家持

掲載日:2013.05.10.


 平群氏女郎贈越中守大伴宿祢家持歌(十二首)
 佐刀知加久 伎美我奈里那婆 古非米也等
  母登奈於毛比此 安連曽久夜思伎
  里近く君がなりなば恋ひめやともとな思ひし我れぞ悔しき
   さとちかく きみがなりなば こひめやと もとなおもひし あれぞくやしき
巻第十七 3961 平群氏女郎
   
 餘呂豆代尓 許己呂波刀氣テ 和我世古我   
  都美之手見都追 志乃備加祢都母 
 万代に心は解けて我が背子が捻みし手見つつ忍びかねつも 
  よろづよに こころはとけて わがせこが  つみしてみつつ しのびかねつも 
巻第十七 3962 平群氏女郎
 
 鴬能 奈久々良多尓々 宇知波米テ
  夜氣波之奴等母 伎美乎之麻多武
 鴬の鳴くくら谷にうちはめて焼けは死ぬとも君をし待たむ
  うぐひすの なくくらたにに うちはめて やけはしぬとも きみをしまたむ
巻第十七 3963 平群氏女郎
 
 麻都能波奈 花可受尓之毛 和我勢故我
 於母敝良奈久尓 母登奈佐吉都追
 松の花花数にしも我が背子が思へらなくにもとな咲きつつ
  まつのはな はなかずにしも わがせこが おもへらなくに もとなさきつつ
巻第十七 3964 平群氏女郎
  (右件十二首歌者時々寄便使来贈非在一度所送也)


〔3961〕

やっとあなたが私の里の近くに戻って来られ

遠く離れていた、恋の苦しさも消えるかと

わけもなく思っておりましたが

そうではなかったのですね...私が浅はかでした


この前年(天平十七年<745>)、久邇京から、また平城京へ遷都があった
官僚として久邇京へ赴任していた大伴家持も
平城への遷都を機に戻ってくることを楽しみにしていたのに
またあなたを、今度はもっと遠くの越中へ行かせてしまうとは...と、
この年746年、家持は越中守として、越中国へ赴任する


「帰りなば」の「な」は完了、「ば」順接の仮定条件を表わす接続助詞、...なら
「めやと」、反語の意を表わす...苦しい想いをすることがあろうか、いやないだろう、と
「もとな」、副詞、根拠なく、訳もなく
「くやしき」、形容詞シク活用連用形「くやし」に、完了の助動詞「き」


〔3962〕

いつまでも、何があってもこのようにまた仲直りして、と

あなたが取ってくれた私の手を見ていると

とても耐え難いことです


「心は解けて」は、第四句の「つみして」に呼応しているので
それで解釈すると
二人の間で、何か些細なことで気まずくなったものも
あなたが花を「摘む」ように
つねって取り上げてくれた「手」のような意味になると思う...「つみして」
その「手」を見ていると、「しのびかねつも」...耐え難いことだ


〔3963〕

うぐいすの鳴く奥深い山の谷に

身を投げて焼け死ぬとしても、私はあなたをお待ちしているのですよ


鶯は夏から冬にかけて、奥山に移動する
「くら谷」が、おの奥山の断崖絶壁のような形相だけではなく
「暗い谷」をも想起させるもののようだ
「うちはめて」、身を投げて...愛のためには身を傷つけてでも貫く意志を伝えたいのだろう
続く「焼け死ぬ」までで、まるで地獄のような光景を思い浮かべてしまうが...
たとえそのような辛いことがあっても...あなたを待ちましょう、という


〔3964〕

松の花は、あなたは「花の数」にも入れないでしょうが
こうして何故か咲き続けているのですよ


松の雄花は、あまり目立たない
そのことと、自分の家持からの境遇を嘆く
しかし、それでも、松の花は咲き続けるのですね、と
「松」、「待つ」の掛詞のようだが、心情的には...
松は晩春の花
春の、閉ざされた冬から花開く諸々の草花と違い
あまり目立たない、その「松の花」への投影のみを、受けたいものだ
掛詞などで、「こころの必死さ」をぼかしたくない


これで、平群氏女郎十二首中、四月に採り上げた歌一首も含め八首を掲載したが
〔3964〕が、この女性の最後の「気持ち」になる、だろうか
こうした時期のある程度明確な一連の歌の配列が
時系列に変化がないことを前提として読み、感じてみた


私の受ける感じでは、どうしても笠女郎と時期が重なってしまう
そんな時期に、笠女郎からの歌では「名を洩らさないで欲しい」と強く言われ
この平群氏女郎からは、人が何を言おうと、あなとを慕っています
つまり、二人の仲を、意識的に何が何でも隠そう、という「声」がない


「伝未詳」という語義について、あらためて考えてみた
ようは、その人について、詳しいことは解らない
「いまだ、つまびらかには伝わっていない」という意味に、漢字からは受ける
実際、その通りなのだろう
しかし...その思うと...私の頭の中で、少々混乱していたことに気づく


誰なのか解らない、とあるのは
万葉集の編纂者ではなく、現代に通じる注釈者や研究者たちの立場からだったはずだ
万葉の時代、少なくとも「氏姓」を出せば
ある程度...誰にでも知られた人であった可能性もある
ならば、笠女郎や、ここの平群氏女郎など
当時では、誰なのか...明記されているようなものではなかったか


題詞、あるいは左注に「「未不審」、「未不詳」などと書かれていれば
それは、編纂当時から、誰なのか解らないことは間違いないのだが
その「注」がないものは...編纂者には「解っている」
そして、わざわざ注釈をつけなくても、そのままで十分なほど...


となると、編纂時から「未不審」になるのは
「豊前國娘子大宅女の歌一首 [未審姓氏](712)」
この一人と言うことになる
勿論、この女性の歌が、家持への贈歌だったのかどうか
それははっきりとしない
この前後の数首については、題詞に家持へなどとは書かれておらず
ただ歌列の流れから、「家持だろう」との推測がなされているが...
確かに確実ではない


面白いのは、その間に挟まって
「粟田女娘子贈大伴宿祢家持歌二首(710~711)」がある
その中の一首に、こんな[注]がある

  <[注土○之中]>  ○字は、「土」ヘンに「完」


「土の食器の底に書かれている」と言う意味らしい
ただし、この注は底本にはなく『桂本』、『元暦校本』に見える


この「注」に思いを向ければ
歌を土器の底に書くことは、ごく普通のこととしてあり 
尚且つ、そうした類で万葉編纂時まで残され、あるいは拾い出したものも多いことだろう
そう言えば、昨年12月に京都の考古資料館へ「墨書土器」を見に行った
そのことが、思い出される







  「家持の恋旅」...中臣女郎もまた、報われず...

  家持の相聞歌のルールを求めて

今夜の中臣女郎は、それこそ何も手掛かりがない
詠歌の時期など、家持の歌の呼応するものを捜すことになりそうだが
題詞にも、左注にも何も残されず
まさに歌の内容から、推測するしかないのだろうが
そもそも、家持が相聞歌に応える歌を詠むことが、異例なのだろうか
笠女郎を初めて知ったとき,
僅か二首しか家持から返されなかったので
笠女郎の単純な悲恋を思ったものだが
平群氏女郎、そして中臣女郎へは、一首もない


もっとも、この中臣女郎の場合は、どうも一方的なような気もする
しかし、そもそも私が最近このような歌ばかりに固守するのも
その元であり、今尚も目的である笠女郎との関係を
通説とは違う、と感じたからだ
そのためには、遠回りであっても
家持が相聞歌に返す場合には、どんな条件があるのだろう
そして、その時期にはどんな背景があるのだろう
そこからまず入って行かなければ、と思った
今のところ、家持のプレーボーイ的な人物像しか浮かべてはいないが
その実体は、そうではない、と思うからこそ続けている


万葉の時代に、小説と言うジャンルの文学・文芸は存在しない
しかし、大陸からもたらされた多くの文物の中に
その類のものも、多くあった
それが輸入文化であっても、当時の知識人たちには多いに読まれ
遣唐使や遣新羅使が帰朝するのを待って、多くの人が求めたという


そこから推測できるのは、「作り話」の世界がある
創作の世界がある、という当時の人たちの認識だ
しかし、表記し得る「文字」は自国文字ではなく
あくまで「漢字」...
そこに、国産の小説が生れなかった原因もあるのでは...


大きく飛躍して想像すれば、和歌のような形での創作は
一種の創作物語にもなり得る
いつも、万葉集は歌人、詠うものの心の叫びだ、と思っているが
意識下では、いや意識的に創作の要素も多いはずだ


私には、家持に絡む一連の「相聞歌」は
そんな要素もあると思う


先日採り上げた『遊仙窟』など
唐時代の伝奇小説の祖といわれている
生々しい男女の物語だが、それを奈良の人々は競って読んだらしい
そんな環境にあって、自らの創作欲がなかったはずがない
詠歌もそうであるなら、もう一歩進めて「物語」にする
相聞歌の遣り取りや、あるいは長歌など
まるでドラマに思えることもある
万葉集に、その時代に「小説」の類がないからといって
全歌が純粋な「何かに寄せる」歌ではなかったと思う


笠女郎という女性像を追いかけるあまり
みんな同じ境遇だった、と早計に決め付けていた


家持が笠女郎に残した二首は、あまりにもリアルだった
しかし、他の女性への相聞歌が少なく、
あるいはそれすらないのもある
そして、万葉集と言う「歌集」の意義を思うとき
その編集の意図や過程を思うとき...家持がらみの構成は
かなり「ドラマ」的な意図があるのではないか、と思うようになった


勿論、私の読解力など大したこともないので
それが正しい、と言うわけではなく
そんな見方で、家持像を描き
それに伴って、周囲の女性たちとの関わりも探る


きっと、そのうち奈良時代と言う時代そのものも
眺めなければならなくなる

 
 

掲載日:2013.05.11.


  中臣女郎贈大伴宿祢家持歌五首
 娘子部四 咲澤二生流 花勝見 都毛不知 戀裳摺可聞
  をみなへし佐紀沢に生ふる花かつみかつても知らぬ恋もするかも
   をみなへし さきさはにおふる はなかつみ かつてもしらぬ こひもするかも
巻第四 678 相聞 中臣女郎
   
 海底 奥乎深目手 吾念有 君二波将相 年者經十方
  海の底奥を深めて我が思へる君には逢はむ年は経ぬとも
   わたのそこ おくをふかめて あがおもへる  きみにはあはむ としはへぬとも
巻第四 679 相聞 中臣女郎
 
 春日山 朝居雲乃 欝 不知人尓毛 戀物香聞
  春日山朝居る雲のおほほしく知らぬ人にも恋ふるものかも
   かすがやま あさゐるくもの おほほしく しらぬひとにも こふるものかも
巻第四 680 相聞 中臣女郎
 
 直相而 見而者耳社 霊剋 命向 吾戀止眼
  直に逢ひて見てばのみこそたまきはる命に向ふ我が恋やまめ
   ただにあひて みてばのみこそ たまきはる いのちにむかふ あがこひやまめ 
巻第四 681 相聞 中臣女郎
 
 不欲常云者 将強哉吾背 菅根之 念乱而 戀管母将有 
  いなと言はば強ひめや我が背菅の根の思ひ乱れて恋ひつつもあらむ 
   いなといはば しひめやわがせ すがのねの おもひみだれて こひつつもあらむ
 巻第四 682 相聞 中臣女郎



〔678〕

佐紀沢に生える、花かつみ...

今まで経験もないような恋もするものです


「をみなへし」が「咲き」、「佐紀沢」の「サキ」に音でつなぎ
「花かつみ」もふくめ、その上三句で、「かつて」を起こす序
花かつみ、花ショウブ、花アヤメの類と言われる
「かつても知らぬ」...「かつて」は、ちっとも、ついぞ、などの意で
打消しと呼応する副詞


こんなに恋したのは、初めてです、という気持ちなのだろう 
「をみなへし」と「花かつみ」に、作者の投影があるらしい


〔679〕

海の底の深みのように、こんなにも慕うあなたに

何としてでも逢いたいのです...どんなに年が経とうと...


「わたのそこ」は、「オキ」に懸かる枕詞
「奥(オキ)を深めて」の「オキ」には
水深のことの他にも、心の深さを意味する場合もある...心底想う


〔680〕

春日山の朝にかかる雲のように、もやもやっとするような
そんなぼんやりとした状態で
見知らぬ人に恋するなどということが...あるものなのでしょうか


朝居る雲の「居る」は、雲がかかることをいう
おほほしく...ぼんやりとしている様、心が晴れない様
ここでは、朝の雲のように「ぼんやり」といている状態と
見知らぬ人への恋ごころで、「心が晴れない」とも掛かる
それが、「恋ふるものかも」という自身へ問うの疑問


〔681〕

あなたに直にお逢いできたのなら

どんなにかこの命懸けの私の恋も

穏やかになるでしょうに...


間接的な交際、書簡のようなものの交流があったような感じもする
「たまきはる」は、命に懸かる枕詞
「命に向かふ」が、命懸け...命を的にする

まだ逢いもしていない状態で「命懸け」のような語彙を使うのは
単に歌語というには、大袈裟な気もするが、それほどの想いを伝えたかったのか
「止まめ」...「止む」の未然形に推量「む」の已然形


〔682〕

あなたが嫌だと仰るのなら

どうしても逢ってくださいと、無理にでも頼みましょうか...

それが出来ないことは...分かっているのに...

菅の根のように、思い乱れて恋い続けていくしか、ないのですね


強く迫りたい気持ち...家持の優柔不断さに詰め寄ったのだろうか
しかし、押し切れず、思い乱れて恋い続けてしまいますます...とは...


知り合い程度の関係から、恋する気持ちになり
それを抑え切れなくなっていく様子の、一連の歌のようだ


「否と言えば」...どうしてもあなたがいや、と言うのであれば
「強ひめや」、「強ひて」無理やりにでも、「や」は反語


この中臣女郎の家持への歌も、報われなかった
家持からは、一首もその返す歌がない








  閑話休題「咎められた家持」...馬酔木...

 「二月於式部大輔中臣清麻呂朝臣之宅宴歌十五首」(758年)

今夜採り上げた「属目山齊作歌三首」は
その前の十五首と同じ席で詠われたものだ
そして、この三首が別に仕立ててあるのも、何かの思い違いかとか
別の資料だったのだろう、とか解説にはあるが
先の「十五首」から目を通してみると
その「十五首」自体も後半の五首は異質な歌になっている


初めの詠い合いでは、こんなに素晴らしい庭なのに
梅の花が散る前に見せてくれなかった、と詠う客人
見たいと言う人に、どうして嫌と言えるのか
梅の花が散る前に、あなたが来なかっただけです、と主人が返す


そして梅の花が一段落したかと思うと
池に目を移す...


そこまでが、確かに庭園に歌を寄せているような感じだが
次からの五首だと、形相が一変する
この宴席から離れて二年前(756年)に崩じた聖武太上天皇への追慕
その先帝への追慕の激しさを詠っている


これは、現体制への批判とも取られかねないので
非常に危険な歌だと判断されたふしもある
伝えられる題詞には「十五首」としたものの他に
「十首」とするものもあるようだ
あきらかに「五首」は意識されている


この当時、多くの者が集まって飲むとき
政局批判や、酔って口論などが多いので
集宴の原則禁止令が出る...この「十五首」の宴の十日後に勅命で出る
きわどいところで、その勅命には反することにはならなかったようだ


「十首」、「五首」、そして今夜の「三首」
この三首の初めの〔4535〕では、「おしどり」が池への引き金になる
それまで、梅や先帝の追慕の歌の流れに
「おしどり」が池に目を向けさせた
その意味で、何の変哲もない一首が
その一首そのものが、次の二首への「序」のように思える
そこで「池」と「馬酔木」が登場することになる


この二つのモチーフで詠って、家持は咎められた
勿論、皮肉には近いものだったろうが、どう受止めただろう


この宴の主人、式部大輔中臣清麻呂朝臣は
家持より十六歳年長の、家持も敬愛する人物のようだが
その主人の宴の席のことだから、楽しい宴には違いない
甘南備伊香真人は、伊香王といっていたので
皇親から臣籍になったようだが、その系統は知られていない
しかし、官位のから見ると
「右中弁」大伴宿禰家持、「大蔵大輔」甘南備伊香真人では
その官職に伴う位階では、家持の方が一つ上になる
でも、同じ世代であろう


この宴の一年後、家持は最後の歌を因幡国で詠って
それ以降の公式な作歌は、見出せていない


この集宴のとき、家持は四十歳...
「美しい馬酔木の花を、早く袖に扱き入れたい」と詠う家持
「美しい馬酔木の花が、散るのは惜しい」と詠う甘南備伊香真人...


美しいものは...いつになっても、欲しいものなのか...

掲載日:2013.05.12.


  属目山齊作歌三首
 乎之能須牟 伎美我許乃之麻 家布美礼婆
  安之婢乃波奈毛 左伎尓家流可母
  鴛鴦の住む君がこの山斎今日見れば馬酔木の花も咲きにけるかも
   をしのすむ きみがこのしま けふみれば あしびのはなも さきにけるかも
 巻第二十 4535 御方王
 
  伊氣美豆尓 可氣左倍見要テ 佐伎尓保布
  安之婢乃波奈乎 蘇弖尓古伎礼奈
  池水に影さへ見えて咲きにほふ馬酔木の花を袖に扱入れな
   いけみづに かげさへみえて さきにほふ あしびのはなを そでにこきれな
巻第二十 4536 大伴宿禰家持
   
 伊蘇可氣乃 美由流伊氣美豆 テ流麻デ尓
  左家流安之婢乃 知良麻久乎思母
  礒影の見ゆる池水照るまでに咲ける馬酔木の散らまく惜しも
   いそかげの みゆるいけみづ てるまでに さけるあしびの ちらまくをしも 
巻巻第二十 4537 甘南備伊香真人
 


〔4535〕

おしどりの住んでいる、あなたのこの庭園には

今日見てみると、馬酔木の花も咲いているのですね


「山斎」は、島山を築いた庭園
当時の貴族の邸内にはかなり大規模な庭園を築造したものがあった
「山斎」は中国六朝以来の漢語で、本来は「山荘」を意味する
この「斎」も、寛ぎ憩う室の意だったようだ
『懐風藻』にも、この詩題で詠まれた詩が、多いらしい


「属目」は「目を(属)つけて」
この庭園の「山斎」に眼を遣って、作った歌三首...の題詞


実際、この歌は直前の十五首に続くもの、いや同じ席での歌のようだが
その十五首が、
「二月於式部大輔中臣清麻呂朝臣之宅宴歌十五首」としてひとくくりにされ
この三首が別仕立てで続いているのも


〔4536〕

池の水面に、その影さえも美しく見せる馬酔木の花

袖にしごき入れたいものだ


「影さへ見えて」、見エテは、見せて、サヘは、添加を表わす
本来の花ばかりではなく、水面に映る影までも、美しいことを言っている
「扱入れな」、コキレはコキイレの約
「コク」は、房状についた花実や穀類を手早くしごき取ること
「な」は願望


〔4537〕

磯の影を落とす水面も、照るほどに輝いている馬酔木の花

そんな馬酔木の花が散るのは...惜しいことだ


池周辺の磯...岩が水面に影を落とす
その影の水面さえも照らす馬酔木の花の輝き
前歌〔4536〕で家持が、「袖に扱入れな」と詠ったことへの
「そんなことするなよ」というような宴席での遣り取りだろう





 







  「想いを断ち切るために」...永遠にこそ...

 【十一年己卯夏六月大伴宿祢家持悲傷亡妾作歌一首 巻第三 465】から

大伴家持、数え年の二十二歳で、「妻」に贈る「別れの歌」
739年六月に詠まれた、この〔465〕歌は
そのままで、収まらず、その後も家持は詠い続け
結局十二首も残している
内容は、どれも悲しみを全面に吐き出し
寂しさ、独りの辛さなど...それこそ手に負えないほどの憔悴感を見せる


しかし、この詠歌の直後に...


六月のこの詠歌のあと、家持の行動が気になる
八月には、叔母であり、この段階では大伴家の柱でもある
坂上郎女のところへ行き
そして、九月には、後の正妻となる坂上大嬢との贈答歌が
数年振りに再開されている
このことから、家持がどれほど「真面目な」男なのか
私には容易に想像できる


叔母坂上郎女から、大伴氏のために坂上大嬢との結婚を
随分前から迫られていたのだろう
しかし、幼い頃から兄妹のようにして育ってきた家持には
「妻」として迎えることは、心に偽りを持つことになる
だから、他の女性...「妾」は身分での呼称であるので
きっと、坂上郎女も「正妻」を娶るなら、黙認していたのだろう
しかし、家持はその「妾」を懸命に愛した
だから、世に言う「正妻」など必要はない
世間での浮名は確かにあっただろう...
しかし、どんなに浮名を流そうとも、その「愛の実体」は
一人の「妻」だったと思う
だから、その「妻」が亡くなったことで
ようやく、大伴家のために、叔母のいうことに従うことになった
私には、そう思えてならない


だから、この十二首の「愛妾」を悲しみ、偲ぶ歌で
彼は...けじめをつけようとしたのではないだろうか
「想いを断ち切る」ために、詠った


この「愛妾」の実際に亡くなった時期が
今のような気持ちに沿うのは...やはり三年前に亡くなって
この年に、想いを断ち切るために
あるいは、あたかも、失った直後のことを思い出すように詠ったのか...


この話など、問題にされているのかどうか
本当に、そんな説が...根拠があるのかどうか
まだ、家持のこと触れたばかりなので
これから、また新しい発見もあるだろうが
それでも、私の中で、一つは解決した


家持は、決してプレイボーイではなく
愛した女性を、とても大切にし...守る男だ、と
笠女郎たちとの関係、どんな風に見えて来るのだろう...これから...
 

掲載日:2013.05.13.


  悲緒未息更作歌(五首)
 昔許曽 外尓毛見之加 吾妹子之
  奥槨常念者 波之吉佐寳山
  昔こそ外にも見しか我妹子が奥つ城と思へばはしき佐保山
   むかしこそ よそにもみしか わぎもこが おくつきとおもへば はしきさほやま
 
 巻第三 477 挽歌  大伴宿禰家持
 
 


昔なら...妻の生きていた頃であれば
私には、関係のまったくない山だと思っていたのに
そこが、我が妻の墓所だと思うと...
いとしく、懐かしくもある佐保山だ


「昔こそ」は、昔であったら
「外にも見しか」、ヨソは遠くにあって無縁なもの
そんな無縁なものだと見ていたのに...「見しか」、逆接条件...見ていたが


「おくつき」上代語、奥まった場所に構えて作ってあるもの
従って、神聖なところ、「墓」
「愛しき」、「ハシキ」は、いとしい、懐かしい、の形容詞
ハシキヤシ、ハシキヨシ、ハシケヤシなどは、この派生語


「愛妾」、「正妻」ではない「妻」のことで、身分の問題から
正妻ではなく、「妾」として家持の「妻」になったのだろう
この歌が詠われたのは、天平十一年(739)六月のことだが
実際に「妻」が、亡くなったのは、その三年前だとも言われている


その説であれば...何をきっかけに、このタイミングで詠まれたのか...


題詞に「亡き妻を悲しんで一首」とあるのが
この歌ではなく、〔465〕の一首
その直後の、弟・書持の「和ふる歌」を挟み
家持は、繰り返し訪れる悲しみに耐えられず
何度も、詠って悲しみを堪えている...この〔477〕まで、計十二首


その想いの深さ、悲しみの深さは、計り知れない





 






  「優しさを秘めて」...一緒には見られなかった...
 
藤原夫人と呼ばれる女性は、「二人」いる

その二人とも藤原鎌足の娘で、さらに二人とも天武天皇の「夫人」だ

〔104〕の藤原夫人は、名は「五百重娘」、大原大刀自といい
もう一人の夫人は、「姉」になる「氷上娘」、氷上大刀自、という

姉の氷上大刀自は、但馬皇女を生み、その皇女の穂積皇子との悲恋は
万葉集でも惹かれるものがある

しかし、この歌の大原大刀自の方は、新田部皇子を生み
その皇子が、奈良時代の政争に巻き込まれる皇子たちに繋がっていく...

万葉集の、とくに大伴家持が活躍しだした辺りからの歌集は
そうした奈良時代の、争いの醜さや、それでいて奔放な恋愛模様など
少なくとも、巻第一、第二までの形相とは、まったく異なって見える

最近、相聞も含めて
結構激情のほとばしる、その勢いに圧倒されながら
万葉時代を感じていたが、ふとこの二首に触れたとき
ああ、と思わず感嘆の声が漏れそうになった
そう言えば、巻第二を読むのは...何と久しぶりのことだろう

だから、この二首の相聞歌を、久し振りに読んだとき
以前なら、素通りしていたこの時代の歌を
今回は、妙に新鮮に受止めることができた

大雪が降っているのに
一緒に見られないのは、残念だ
と、言葉にはしないが、そんな思い遣りがある
なければ、雪が降った情報など、しかもそちらは後からだよ
などとは言うまい

それに返す夫人の歌もまた、素敵な歌だ
こちらに降らそうと竜神様にお願いしたら
そちらにも、零れたのですね...と

激動の、先の安泰が保障されていない時代に生きる人たちの
人生を、恋愛を、これほど優しく語れるのは...羨ましい


「夫人」とは...

夫人は、「妃」と「嬪」との間に位する身分
後宮職員令には「妃二員、夫人三員、嬪四員」とある
臣下出身の女性は、妃以上にはなれず、聖武天皇の皇后になった
光明皇后より以前は、天皇の「妻」で非皇族出身者は夫人が最高位だった

掲載日:2013.05.14.

  天皇賜藤原夫人御歌一首
 吾里尓 大雪落有 大原乃 古尓之郷尓 落巻者後
  我が里に大雪降れり大原の古りにし里に降らまくは後
   わがさとに おほゆきふれり おほはらの ふりにしさとに ふらまくはのち
 巻第二 103 相聞  天武天皇
 
  藤原夫人奉和歌一首
 吾岡之 於可美尓言而 令落 雪之摧之 彼所尓塵家武
  我が岡のおかみに言ひて降らしめし雪のくだけしそこに散りけむ
    わがをかの おかみにいひて ふらしめし ゆきのくだけし そこにちりけむ
 巻第二 104 相聞  藤原夫人


わが飛鳥の里に、大雪が降っているよ
鄙びた田舎の大原に降るのは、もう少し後だね

あら、そうでしょうか
我が里の竜神に頼んで、雪を降らせたのですが
その一部が、そちらにこぼれ落ちたのですね


ほのぼのとした、大人の相聞...
その感を強く思った

天皇がいう「わが里」とは、飛鳥の清御原宮のことだろう
そして、藤原夫人がいう「わが岡」のある里は、大原...
今の明日香村小原。飛鳥寺の東側のようだ

当時の清御原宮が、どこなのか正確には定まっていないにしても
飛鳥のこの一帯は、それほど広い土地でもなく
片や雪が降り、片や後ほど降るだろう...などというものじゃないと思う


飛鳥寺から、岡寺、そして橘寺辺りへ歩いて回るのも
万葉の時代も、こんな地形なんだろうなぁ、と思えるほど
多くの自然が残っている

たんなる田舎を歩く、と言うのではなく
日本の「ふるさと」を実感できる景色が
この歌を読んでみると、すーっと浮んできた

巻第一、第二に登場する歌人たちは
まさに、「万葉の時代」に相応しい人たちだ
後の官僚であり、歌人である人たちとは大きくイメージが違う

何故なら、まだ歴史記録という認識の薄い時代ではなかったか
外国からの文化導入を積極的にしつつも、また侵略と言う恐れも抱く
そうした時代の要請が、強固な国家の基礎造りだったことは当然だろう
当時の先進国から文物の貪欲な摂取は
憧れと、警戒を同時にもたらせたに違いない

奈良時代の人たちが、ある程度の基盤に立った国家造りを担っているとしたら
飛鳥時代の人たちは、いつ国が滅ぶかもしれない、という強迫観念もあったと思う
その時代の感覚は、「相聞歌」に見ても
単純に、恋しい、恋しい、とうものではなく
危うい時代なればこそ、「人の心のおおらかさ」が滲み出ている



 











  「大津謀叛」...姉の悲痛歌...
 
 『日本書紀』には、次のように書かれている

九月九日天武天皇崩御、同二十四日大津謀叛、十月二日逮捕、翌三日処刑

この二十四日から、十月二日までの間に
大津は、密かに伊勢神宮の大伯皇女に逢いに行ったようだ
このときの事情は、結果しか伝わらない歴史では
こうした歌の中から汲み取ることも、一つの方法だと思う

大津は、姉に自分の置かれた立場を切々と訴えたに違いない
しかし、後に解るように、この謀叛の発覚と言うのは
謀略だったという...つまり、大津はまったくの濡れ衣を着せられた
そのことを、大伯に伝え、相談したはずだ
しかし、姉としては政治的な力もなく、弟を庇えない
選択肢は一つ...無実であれば、必ず解ってもらえる
そのことを信じて...再び大和へ送り帰す...
立ち尽くし、見送るその姿に...目頭が、熱くなる

この二人の姉弟は、まさに悲劇の姉弟といえよう
母は、大田皇女...天武が即位する前に亡くなっている
そのため姉は、伊勢神宮の斎宮となり
弟は、叔母で後の持統天皇に疎まれる存在となる
持統とすれば、息子の草壁皇子を
何も障害のない状態で天武の後継にしたい
そのためには、才能に秀で、尚且つ人望もある大津が邪魔だった
そんな説が、一般的に通っている...
だから、天武崩御間もなくの「謀叛発覚」が、怪しまれている
持統の策略なのか、と...

大津の無実に、誰が味方してくれよう
あるいは、時間を掛ければ、現れたかもしれない
しかし、逮捕、その翌日の処刑とは...

あまりにも、その生きた時間は...短すぎる
当時、誰もが認めていた、日本のリーダーに相応しい人柄...

権力への欲望は、親の愛情にカモフラージュされて...
それが「歴史」というものなのか... 

   辞世の歌

   大津皇子被死之時磐余池陂流涕御作歌一首
 百傳 磐余池尓 鳴鴨乎 今日耳見哉 雲隠去牟
  百伝ふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ
ももづたふいはれのいけになくかもをけふのみみてやくもがくりなむ
 巻第三 419 挽歌 大津皇子

掲載日:2013.05.15.

  大津皇子竊下於伊勢神宮上来時大伯皇女御作歌二首
 吾勢□乎 倭邊遺登 佐夜深而 鷄鳴露尓 吾立所霑之 (□示偏に古) 
  我が背子を大和へ遣るとさ夜更けて暁露に我が立ち濡れし
   わがせこを やまとへやると さよふけて あかときつゆに あがたちぬれし
 巻第二 105 相聞  大伯皇女
 
 二人行杼 去過難寸 秋山乎 如何君之 獨越武
  ふたり行けど行き過ぎかたき秋山をいかにか君がひとり越ゆらむ
    ふたりゆけど ゆきすぎかたき あきやまを いかにかきみが ひとりこゆらむ
 巻第二 106 相聞  大伯皇女



あの人を、大和へ帰し見送るわたしは...
夜も更け、さらに暁の露に...立ち続け...濡れてしまった

二人で行っても、越え難い秋山を
どんな想いで、あの人は、たった独り、越えているのだろう


あまりにも有名な「大津謀叛」のときの
姉・大伯皇女の痛切な想いを詠う...泣けてしまう歌だ

謀叛の嫌疑を掛けられ、飛鳥から伊勢神宮の姉のところへ向った大津皇子
しかし、姉は...大津を送り帰さなければならない
疑いは晴れるのだろうか...何とか、晴らして欲しい

二人で越えようとする、あの山も難しいだろうに
今、あの人は...たった独りで越えようとしている
越えなければならない...私には、何も出来ないけれど...越えて...

「遣る」...行かせる、強制的な語調...帰さなければ、と大伯皇女は思う
しかし、そこに響くのは惜別のことば...
見送り、一晩中夜露に濡れながら...ひたすら無事を願う

「暁露」...あかときに置く露
「アカトキ」は「アカツキ」の古形
この「暁」の原文「鶏鳴」は一番鳥が鳴く時刻という意味

最近、「大伴家持」のことに時間を多く費やしている
今、その「略譜・歌目録」めいた頁を書いている最中なので
どうしても、その時代のことが頭に渦巻く
そんな中で、この大津・大伯のような哀しみ誘う物語を見ると
奈良時代の、権謀術数に塞ぎこんで埋もれつつあった家持が
飛鳥時代の素朴な...悲劇であっても、こうした相聞歌を読んでいただろう
そこに、何を感じたのだろうか、と

何もかも...家持につなげてしまうことは、いけないのだが...
飛鳥時代の歌は...歴史に直にリンクしているような気がしてならない


 








  「初めての冒険」...やっと向き合える女性...
 
但馬皇女は、天武の皇女で、母は藤原夫人(氷上娘)
天武二年(673年)、氷上娘が夫人として「但馬皇女」を生むとある
その年、壬申の乱の翌年...高市皇子が二十歳の頃、但馬皇女は生れた

題詞から、高市皇子の館にいながら、穂積皇子と恋し合った
秘かに恋し合う仲であると言うことは、高市皇子の女ではないか
そんな説を読むたびに、私は目を背けてこの女性と向き合わなかった
高市皇子こそ、あの壬申の乱での活躍に秘められた十市皇女への思慕
それが、まるで万葉集の編者に口説かれたかのように
十市皇女の死を嘆き悲しみ詠う挽歌...
乱での活躍通りに、武人として寡黙な皇子だったと思う
貴人の慣わしであるような「詠歌」の風潮にも与せず
ひたすら雅とは無縁の世界にいるような人...
その人が、多くの歌人や関係者のいる中で
唯一挽歌を詠った...いや、非公式には多くあったのだろう
しかし、万葉集の編者は、高市皇子の挽歌を載せた
その心情に、私は参ってしまった

だから、世に伝えられるように、高市皇子が異母妹の但馬皇女を
愛人として囲っていたというのは、
どうしても聞くに堪えられなかった
私が思うのは、年も二十は離れている
きっと、皇族出の母ではない但馬皇女を、自分の出自と重ね
まるで保護者のように可愛がっていたからではないか、と
だから、同じように異母兄妹になる穂積皇子との恋愛も
高市皇子には隠し通したかったのでは、と思えてならない
しかし...人の知れるところとなって...


但馬皇女も、穂積皇子も、私には魅力ある人物たちだが
なかなか通説に縛られたままで...私は向うことができなかった


しかし、ようやくこの二人を...見守ることが出来そうだ
和銅元年(708年)六月...但馬皇女、亡くなる 三十五歳

  但馬皇女薨後穂積皇子冬日雪落遥望御墓悲傷流涕御作歌一首
   零雪者 安播尓勿落 吉隠之 猪養乃岡之 寒有巻尓
  降る雪はあはにな降りそ吉隠の猪養の岡の寒からまくに
    ふるゆきは あはになふりそ よなばりの
 ゐかひのをかの さむからまくに
 巻第二 203 挽歌 穂積皇子
 
降る雪よ、そんなに深く積もらないでくれ
吉隠の猪養の岡が...あの人が眠る岡が、寒くなるのは辛いことだ
 


この題詞に、穂積皇子の強烈な慟哭が聞こえる
但馬皇女の挽歌...この皇子ほど相応しい人はいないだろう


まるで...十市皇女に対する、高市皇子の挽歌のようだ...


掲載日:2013.05.16.


  但馬皇女在高市皇子宮時思穂積皇子御作歌一首
 秋田之 穂向乃所縁 異所縁 君尓因奈名 事痛有登母
  秋の田の穂向きの寄れる片寄りに君に寄りなな言痛くありとも
   あきのたの ほむきのよれる かたよりに きみによりなな こちたくありとも
 巻第二 114 相聞  但馬皇女
 
  勅穂積皇子遣近江志賀山寺時但馬皇女御作歌一首 
 遺居而 戀管不有者 追及武 道之阿廻尓 標結吾勢
   後れ居て恋ひつつあらずは追ひ及かむ道の隈廻に標結へ我が背
    おくれゐて こひつつあらずは おひしかむ みちのくまみに しめゆへわがせ
 巻第二 115 相聞  但馬皇女
 
  但馬皇女在高市皇子宮時竊接穂積皇子事既形而御作歌一首 
 人事乎 繁美許知痛美 己世尓 未渡 朝川渡
   人言を繁み言痛みおのが世にいまだ渡らぬ朝川渡る
    ひとごとを しげみこちたみ おのがよに いまだわたらぬ あさかはわたる
  巻第二 116 相聞  但馬皇女


秋の田の稲穂が、風になびいて一つの方向に寄り添うように
あなたに寄り添いのです...どんなに噂を立てられようとも...

あとに残って、恋しいと苦しい想いをするくらいなら
追いかけて行きたい...だから、道の曲がり角には
どうか、標しでも結んでいてください

人の噂がうるさくなってきました
生れて初めて...夜明けの川を渡ります


「片寄り」...同居している人、高市皇子とは違う方向へ靡いている
「寄りなな」...
最初の「ナ」は、完了の助動詞「ヌ」の未然形、次の「ナ」は願望・意志の終助詞
「言痛く」...「コトイタク」の約、人の口がうるさいの意味

「恋つつあらずは」...恋しく想い続けているくらいなら、いっそ
「ずは」、上代語法の打ち消しの助動詞「ず」の連用形に係助詞「ば」がついたもので
 ① ~ないで、② 順接の仮定条件、もし~でないならば

上代では、ほとんどの場合①、次に、それよりはましだ、という語句を続ける
想い続けないで...いっそのこと、追いかけて行こう...

素直に読めば「標結ふ」は、目印をつけて、くらいに思っているが
「草をひき結んで道標」だけではなく、領有や立ち入りを禁止するために
「注連縄を張る」意味もある
その場合は...私が本当に追いかけて行けないように
注連縄を張って、塞いでおいてください...でないと、本当に追いかけて行きそうです
のような意味にも取れてしまう

心情的には後者で、相手に言葉で伝えているのは...前者...難しい

三首目の題詞にあるように、もう二人の仲は、知れ渡ってしまった
ここまで騒がれてしまったら、もう朝の川を渡るしかないのです
生れて初めて、そんな冒険をしてみましょう



 








  「万葉人のみるいにしへ」...伝承地に立てば...
 
現代の我々は、写真で見ることの出来る時代には
それほど郷愁を持たないのではないだろうか
勿論、幕末、明治と言う日本の国の大きな転換期、激動の最中に
そこで活躍した人たちを写真で見ることは、確かに胸を熱くさせる

それでも、写真で知ることができるのは
せいぜい、150年ほど前の時代までだ

それ以前となると、もう百パーセントの想像力でしかない
もっとも、実物を発掘などによって目にすると
その想像力も、よりリアルになってくる
一千年前の人たちは、こんな器を使っていたのか、とか
え、こんな時代にも、すでにあったのか、など
文物以外に、その実物の威力は計り知れない
毎年開催される正倉院展では、確か十年サイクルで展示される、と聞いた
だから、その年の機会を逃すと、次は十年後になる
でも、あれだけの量を十年サイクルで出し得るのか、と疑問も湧く

奈良時代初期までに都...いや、当時の主人であった天皇の私物
...これも万葉集の題詞に書かれているのだから...
聖武天皇が亡くなって、その宝物を東大寺の正倉に保管した、と

外国からの珍しい品物は、確かにこうした保管で残り得たものだ
市井の...いわば庶民の暮らし振りを知るには
全国で地道に行われている発掘調査に拠る所が大きい
名のある遺跡には、期待をこめた調査発掘もあるが
まったく期待しなかったところで、規則のため事前調査で発掘し
そこで思わぬ遺物や、あるいは通説を覆すような遺構にも出くわす

今夜、何故こんなことを書いたのか、といえば
「三穂の岩屋」の言い伝えを、万葉集で知ったからだ
言い伝え、というほどの物語性は伴っていないが
「岩屋」を見て感じ入る作者の思い...
私にも同じような感慨を持ったことがあった

以前住んでいたつくばでのこと
この地は、かなり内陸で、交通手段で海上交通など
まったくイメージできなかった

しかし、発掘調査の中で、運河のような地形かもしれない
という説があって、私はその現場に何度も立ったことがあった
確かに、いにしへの時代の川の道筋など、私には解らない
しかし、利根川も...近いといえば近い...当時は大河だったろうか

その山間の現場には、鬱蒼と雑木に囲まれ、ところどころに発掘跡
遺構の姿を見ていると...あの出っ張りは...桟橋か?
等と妙に妄想も逞しくなる

つくばにも、伝承の物語は多く
ある意味では、こうした発掘とは無縁のものでも
心情的には、つい繋げてしまいがちだ

奈良時代の、平将門...この坂東を治めた人物の
駆け抜けた土地に想いを馳せることができる

万葉の時代は、更に古く...
この歌の作者の時代からも、「いにしへ」と言われる時代感は
どこまでのことなのだろう
文献記録のなかった時代に、伝承で残されるものは
その伝承過程で、少しずつ展開を変えていくだろう
そして、時代の人たちに求められる姿に変貌して残される

作者のいう「久米の若子」とは...どんな人と思われていたのだろう

少なくとも、この博通法師は...逢いたがっているように...思える


掲載日:2013.05.17.

  博通法師徃紀伊國見三穂石室作歌三首
 皮為酢寸 久米能若子我 伊座家留 [一云 家牟]  
 三穂乃石室者 雖見不飽鴨 [一云 安礼尓家留可毛]
  はだ薄久米の若子がいましける [一云 けむ]
     三穂の石室は見れど飽かぬかも [一云 荒れにけるかも]
    はだすすき くめのわくごが いましける [けむ]
      みほのいはやは みれどあかぬかも [あれにけるかも]
 巻第三 310 雑歌 博通法師
 
 常磐成 石室者今毛 安里家礼騰 住家類人曽 常無里家留
  常磐なす石室は今もありけれど住みける人ぞ常なかりける
    ときはなす いはやはいまも ありけれど すみけるひとぞ つねなかりける
 巻第三 311 雑歌 博通法師
 
 石室戸尓 立在松樹 汝乎見者 昔人乎 相見如之
  石室戸に立てる松の木汝を見れば昔の人を相見るごとし
    いはやとに たてるまつのき なをみれば むかしのひとを あひみるごとし
  巻第三 312 雑歌 博通法師



久米の若子がいたという(または、いたらしい)、三穂の岩屋は
見ても飽きないものだ(または、あれてしまった)

この岩屋は、ずーっと変わらずに、今もそのままだけれど
住んでいた人は...変わらないではいられなかった
このようなところで...

岩屋戸に立つ松の木よ、お前を見ていると
昔の人を...あの久米の若子に逢っているような気がする


「はだすすき」、クメにかかる枕詞...それにしても、枕詞って...不思議な「ことば」だ
意味の通じるものもあれば、まったくわからないものもある
それに、僅か三十一文字の中で、貴重な「五文字」を使う
...たんに語調を整えるだけではなく、やはりとても深い意味があるのだろう...

私には、まだまだ「枕詞」は...難しい

「久米の若子」が、久米氏出身の好青年の通称だとか
伝説の天皇になるのかな、顕宗天皇の別名、「来目稚子」だとか
夢物語的には、仙人だとか...

実際の「久米の若子」の岩屋を写真でみたら
確かに、昔なら人が住みついていてもおかしくない雰囲気だった
万葉の時代も、そして現代の我々にしても
おそらく同じようにあの岩屋を見ているはずだ
しかし、万葉人が「謡う」久米の若子...
当時でも、もっと昔の言い伝えの「人物」ということだろう
あんな洞窟で隠れるようにして住んでいた、ということか

しかし、そんな「怪しげな」人物であっても
この作者、博通法師(伝未詳)には、懐かしそうに思わせる人物...と言うことか

古代の遺跡と言われるところに立つと、確かにそんな「気」を感じてしまう
説明のしようもない、何かが感じられる
勿論、かなりの古代への、あるいは古代人への...万葉人への
想い入れがないと、その「何かの気」は、感じられない

と言うことは、それが科学的に実証されるとかしない、ではなく
そうだと思える人には、確かに感じられるものなのだろう
それで充分だ...人が生きる、生き続ける、ということは
そうした何かを、感じながら生きていた方が、はるかに楽しい...と思う


 











「日本書紀にみる大伴氏の衰退」...武門氏族の頂点から...
 
古代史に興味のある私も、あやふやな時代と言われる五世紀前後の日本は苦手だ
そのあやふな時代だからこそ、多くの人が研究をすすめ
より歴史の事実に近づこうとしている
古代史ブームもあって、多くの出版物もある
これは、私の想像だが、こうした古代史ブーム以前の現実社会では
ある研究成果も、その学会のような機関にある程度認められないと
発表する機会さえもなかったことだろう

当然、内容が「皇統」に言及するものだから
戦前では当然にしても、戦後だってそう簡単に大声では言えなかったはずだ
何故なら、戦後の研究が自由になったとはいえ
学会はまだまだ戦前の大御所が睨みを利かせていただろうし...
その弟子の研究者たちが、いくら自由闊達な意見を持ち出そうともがいても
皇国史観は、なかなか拭い去ることは出来なかったろう

しかし、現代のように、また溢れんばかりの定説への挑戦も
研究者ならともかく、一般の愛好家たちにしてみれば
その奇抜な説に、うまく乗せられているようで
自身の力で研究でもしない限りは、一貫性のない古代史観を身に付けてしまう
だから、あやふやな時代のことは...物語として、今のところ知るだけだ

俗に言う六世紀初頭に皇統の断絶があって
現天皇家に繋がるという「継体天皇」
その血筋はともかくとして、その継体を擁立したのが「大伴大連金村」だ
日本書紀には、そのくだりが書かれており
506年12月21日、武烈天皇の崩御に伴って、後継者選びの合議があった、と
その合議の中心が、「大伴大連金村」だった

当時の国家運営は、七世紀の中央集権国家になる以前のことで
天皇家(便宜上そう呼ぶ)、大臣たち有力豪族の合議制だった
天皇の力が絶対になるのは、七世紀に蘇我氏が打ち滅ぼされてからで
それ以前の天皇家は、いわば有力豪族の一つではなかったか
ただ、呪力...当時のこの観念は、現代の我々には想像できない瞿がある
その一族だったと思う

「記紀」で天皇が絶対権力者のように描かれるのは
権力の継続が天皇家にあったことへの後世への「明文化」された証文だろう
史書が後世への遺産だとすれば、まさにそのことを逆手に取ったものだ

さて、継体天皇は、金村の強い推しもあって一応天皇になる
しかし、実権はまだまだ合議制の枠を超えられず
やはり金村たちの権力争いが実態だ
その中で、この六世紀あたりから蘇我氏が台頭してくる

元は天皇家の周辺を護衛する武門の豪族だった
いわば、腕力のない天皇氏族のボディガードではあったが
その実体は、力で天皇家をも支配していたのだろう

そして継体以降も、安閑、宣化の天皇に仕える...形ばかりの...
その大伴氏が失脚するのが、欽明天皇の時代(540年)の朝鮮半島の扱い
当時の半島南部に日本の統治下にあった任那四県割譲の責任を取って
故郷の住吉へ隠遁したとある
その責任とは...

欽明の時代、百済が任那の四県の割を要請してきた
その要請を、金村は承認したということで
それまで抑えられていた豪族たちに、ここぞ、とばかりに詰め寄られた
おおまかに言えば、そんな事件だ

ただ、こうした一旦表舞台から退くと
次に控える権力志向の強い豪族たちは、かつての有力者を潰す
そして、それまで控え目だった蘇我氏が...漸くその野望を見せ始める

この流れの中で、大伴家は完全に表舞台から退けられてしまう
再興を試み、幾度も時代の転換期にのし上がろうとするも
もう蘇我氏の敵ではなかった

そして、その蘇我氏もまた、藤原氏の台頭で同じ運命を歩むのだが...
同じだ...旅人、家持が形だけの再興を受けられたにしても
かつての力はなく、同じように蘇我氏も、本宗家が滅亡してからは
傍流では権力は手に入らなかった

そうした時代に、旅人や家持は都を離れた遠き地で
権力とは無縁であっても、文化の兆しを肌で感じている
それが、前代未聞の「万葉集」という集大成に向っているとも知らず...

掲載日:2013.05.18.

  大宰帥大伴卿讃酒歌(十三首)
 黙然居而 賢良為者 飲酒而 酔泣為尓 尚不如来
  黙居りて賢しらするは酒飲みて酔ひ泣きするになほしかずけり
   もだをりて さかしらするは さけのみて ゑひなきするに なほしかずけり
 巻第三 353 雑歌 大伴旅人
 

黙ってないで、飲んでみろよ...という陽気な歌なのか
目の前に、偉そうで賢そうな若者がいる
そんな情況を思い浮かべてしまう


そう思えるのも、この歌の読まれた時期が、大伴旅人の帰京間近の頃
730年の冬に、大納言として帰京するのだが
その時、旅人は既に六十六歳だったようだ
高齢で赴任して...725年頃だったと思うが
それ以来、旅人の大宰府での詠歌は、どれも風流を謳歌するようなものばかり
確かに、愛妻の大伴郎女を着任早々に喪い
思い出としては、かなり辛い大宰の地だったと思うが
皇親と藤原一族との権力争いに巻き込まれることなく
「遠の朝廷」と呼ばれる大宰府は、結構居心地も良かったと思う

大陸や半島からの脅威の楯になることも
あるいは、逆にその文化の受け口としてのこの地に
大伴旅人は、また人を育てることも忘れなかった
後の大伴家持に繋がる人脈も、ここに土台があったのだと思う


名門の軍事氏族でありながら、約二百年近く前に失脚した大伴金村以来
大伴氏は、その不遇な政治的立場から再び甦ることはなかった

どんなに国の為に尽そうとも、氏族としての名誉の回復は叶わず
この旅人の時代になると...それを自然と受け入れて生きている
そうしなければ、名門氏族の「名誉」さえも...失ってしまう

だから、旅人の詠歌には、花、鳥...
そうした自然への憧憬と感謝、見詰めるようなそれでいて自然体で...
そんな中で、山上憶良が筑前守として筑紫に赴任してきて
二人の交遊は始まるのだが
山上憶良は、四十三歳で遣唐使(702年)となり、五年後に帰朝した
旅人より、若干ではあるが年長者ではあるし、何しろ当時の最高の文化の国・唐
その見聞をいかんなく旅人に話して聞かせたことだろう
万葉集の巻第五は、そんな山上憶良の一巻とでも言えそうな
唐の文化がところどころに鏤められている
旅人、そしてまだ年若い家持...漢籍のこの上ない師匠を目の前にしているわけだ

そして、この歌のような「酒」を「人」と切り離せないとした思考
まさに憶良がもたらした漢詩の独酌が伺える


この時代の「飲酒」に纏わる説を読む
そこには、近世以前の飲酒は、何かの節目、そして限られた階層の人たちの宴
しかも、大きな杯に酒を注ぎ、席順に倣って飲んでゆく...
旅人のような、酒の飲み方は、当時では例外だったようだ


この「酒を讃むる歌十三首」を読み通してみると
最初に解したように、のんべいの上司に、もっと羽目を外せ、と
まさに人間教育を受けているような気になる
この歌には、様々な意味もあるだろうが
もう六十を過ぎた、しかも当地では最高位の行政官、大宰帥旅人
酒も満足に飲めないようじゃあ、まともな仕事も出来んぞ、と


賢さは、馬鹿になれる者ほど賢いものだ
その馬鹿になれるのは...酒しかない...馬鹿になれ、と教えられる

これもまた、馬鹿な呑み方しかできない呑み助の、都合のいい解釈だな

六十を過ぎ、多くの人への責任を負う立場の人が
このような歌を歌える...
素晴らしいと言うべきか...何か鬱積したものがあるのか...
都を遠く離れていること...
寂しさも、気楽さも、いつも胸に仕舞いこんでいたのだろう


そんな父のそばで...家持は少年期を大宰府で過ごす...


 










「ぬれひちて」...止らぬ涙か...
 
  舎人娘子奉(和)歌一首
 嘆管 大夫之 戀礼許曽 吾結髪漬而奴礼計礼
  嘆きつつますらをのこの恋ふれこそ我が髪結ひの漬ちてぬれけれ
   なげきつつますらをのこのこふれこそ わがゆふかみのひちてぬれけれ
 
  巻第二 118 相聞 舎人娘子
 
十一年前の七月七日、私はこの歌に触れている
舎人皇子が、想い悩む自分の「片恋」を、みっともない男だ、と
そう嘆いた歌〔2-117〕に対する、舎人娘子の「和ふる歌」がこれだ

その時の私の感想が、

女性の返歌もいい 
あなたのような立派な方が 
私への「片想い」に嘆いておられるとは・・・と

このとき、「ひちて」には、まったく意を求めていなかったことが解る
この歌の気持ちをなぞってみれば、

そんなこと、言わないでください
私が哀しくなります
「ますらを」であるあなたが、恋してくださるのですよ
だから、私の髪の結い紐も、濡れて解けたのではありませんか 

たんに気持ちを少し詳しく察しただけのことだが、しかし大きな違いがある
「髪結い」という「語」に対して、私は何も気に留めることはなかった
今読み返してみれば、これが意味を深めている

髪を結う...
女性が髪を結い上げることは、紐か何かで結び止めることなのだろうが
それが濡れて解ける...艶やかな恋ごころを受けているのでは
当時の俗信では、髪がとけると恋されている、というものがあったという

そのせいで、結んであった「ひも」が濡れるほどに心潤う私なのです

慕われる嬉しさを、髪を結った紐が濡れて解ける、と表現している

十一年前の私には、まったく及びもしないことだった
そして、今はさらに気づくことがある

「ひちてぬれけれ」の「ぬれ」は、濡れることではなく
ひとりでに緩んでほどけること
濡れる「ひちて」と重なる「濡れ」であるはずがない

そうすると...右頁の歌、〔373濡れ潰つと〕、〔377濡れは潰つとも〕は
同義語の重複のような気もする
もっとも、素人の私が思い込むだけで
実際は、そのような使い方もあるのだろうが
それでも、字数の限られる和歌で、もったいない気もする
原文では、それぞれ「373潤濕跡」、「377霑者漬跡裳」...
こうした「訓」の付けるときの「会議」に是非参加したいものだ
それが平安時代であるので、今となっては専門家たちの研究成果でしか
私たちは読むことはできない
...それにしても、実際に当時は...作者自身はどんな「訓」で詠んだのだろう
自国語ではない「文字」を使って「気持ち」を表現することの、
これが本当に難しいところだ

掲載日:2013.05.19.

  安倍廣庭卿歌一首
 雨不零 殿雲流夜之 潤濕跡 戀乍居寸 君待香光
  雨降らずとの曇る夜の濡れ潰つと恋ひつつ居りき君待ちがてり
    あめふらず とのぐもるよの ぬれひつと こひつつをりき きみまちがてり
 巻第三 373 雑歌 安倍広庭
 
  石上乙麻呂朝臣歌一首
 雨零者 将盖跡念有 笠乃山 人尓莫令盖 霑者漬跡裳
  雨降らば着むと思へる笠の山人にな着せそ濡れは漬つとも
    あめふらば きむとおもへる かさのやま ひとになきせそ ぬれはひつとも
  巻第三 377 雑歌 石上乙麻呂



〔373〕

雨の降りそうなこの夜のように、もう涙でくれています

こんなにもあなたを恋い、お待ちしながら...


雨降らず...雨が降ったのではないけれど、第三句の「濡れ潰でど」につづく
との曇る夜の...「とのぐもる」は「たなぐもる」と同義語、空が一面に曇る
濡れ潰つと...「濡れ」には濡れることと、恋愛の意味もある
「漬つ」はまるで水に潰ったようにずぶ濡れになる様子
あなたを待ちかねて、涙でこんなに濡れてしまいました


原文の「潤湿跡」は、その「潤」は古本『玉篇』に「潤、湿也」と解してある
「ヌルヌルト」と訓む説もある
がてり...「ガテラ」の古形、~しついでに、~しつつ...他の動作も兼ねて行う


このときには、もう待ち人はやって来て
遅れて来たことへの恨みを「女性」の気持ちの歌として、詠ったものだろう


〔377〕

雨が降ったら私が身に付けようと思っている蓑笠

その名を名乗る笠山よ、他の人には着せないでくれよ 

その人が、どんなに濡れていても...


当時の雨具は、一般に「かぶり笠」であったという
だから、「着る」と表現したものらしい
な~そ...、禁止の語法、着せないでくれ
濡れは潰つとも...ここでの「は」は強調、どんなにずぶ濡れになっていようと


この作者が、強く望むのは、雨が降りそうな雲行きで
自分の使う予定の雨具を、先に使わせたくない
自分より先に、他の人が外に出ようと...自分の為に、使わせないでくれ

そんな我儘な思いを読んでしまう
しかし、別なものとして詠んだとすれば
私の恋するあの人を、誰が言い寄ってこようと、私が守りたいから...

想いを寄せる女性に対して、言い寄る他の男たちは、鬱陶しい雨のようなもの
私の「かさ」で守るから、他の人には着させてくれるな...

そんな読み方ができれば...どの歌も、恋歌に読めてしまいそうだ


 









「ねにさへなきし」...いにしへ人の慟哭...
 
この二首に詠われている「いにしへ人」が
五世紀中頃の十九代允恭天皇の軽太子・軽太郎女ではないか
そんな話も聞いたことがある
当時は異母同士の結婚は問題ないが、この二人は同母の皇子・皇女
それでいて、愛し合い、それが露顕すると臣民も背き
結局皇位継承者としての地位も失い、皇子は伊予に流される
それを追い、軽太郎女も伊予に行き、そこで心中する

712年成立の「古事記」の記述ではそう描かれている
そして、万葉集の巻第二・90には、この軽太郎女の歌が残されており
その題詞に、「古事記」の記述が引用がされ、前述の物語をいう
太子が伊予に流されたあと、恋しさに堪え切れず詠った歌

 古事記曰 軽太子奸軽太郎女 故其太子流於伊豫湯也 此時衣通王 不堪戀慕而追徃時歌曰
 君之行 氣長久成奴 山多豆乃 迎乎将徃 待尓者不待 
  君が行き日長くなりぬ山たづの迎へを行かむ待つには待たじ
   きみがゆき けながくなりぬ やまたづの
 むかへをゆかむ まつにはまたじ
 巻第二 90 相聞 軽太郎女(衣通王)

あなたがいなくなって久しくなりました
もう待つことは堪えられません...迎えにいきます

この女性の強い意志を感じる
ことが露顕し、どれほど苦しめられようと
むしろ、隠し通す必要もなくなり、大胆に生きよう、と言うのだろうか


この万葉集の詠歌では、題詞とは異なる言い伝えを左注で載せている
それは、「古事記」と「類聚歌林」とでは、説明が違う、と
その物語のみならず、作者まで異なる、とあり、そのため「日本書紀」で
確認したことが記されている

その左注を原文のまま載せる

右一首歌古事記与類聚<歌林>所説不同歌主亦異焉 因檢日本紀曰難波高津宮御宇大鷦鷯天皇廿二年春正月天皇語皇后納八田皇女将為妃 時皇后不聴 爰天皇歌以乞於皇后云々 卅年秋九月乙卯朔乙丑皇后遊行紀伊國到熊野岬 取其處之御綱葉而還 於是天皇伺皇后不在而娶八田皇女納於宮中時皇后 到難波濟 聞天皇合八田皇女大恨之云々 亦曰 遠飛鳥宮御宇雄朝嬬稚子宿祢天皇廿三年春<三>月甲午朔庚子 木梨軽皇子為太子 容姿佳麗見者自感 同母妹軽太娘皇女亦艶妙也云々 遂竊通乃悒懐少息 廿四年夏六月御羮汁凝以作氷 天皇異之卜其所由 卜者曰 有内乱 盖親々相奸乎云々 仍移太娘皇女於伊<豫>者 今案二代二時不見此歌也

要は、この内容に沿った事象が、仁徳紀では磐姫皇后に擬え、
允恭紀にも物語の展開に違いがあるだけでなく、この万葉歌はない

そんなことが左注には書かれている
それでふと思い立ったのが、
「いにしへ人」をこの二人に想定して詠ったかもしれない柿本朝臣人麻呂だ
彼は八世紀初頭に亡くなるが、この歌が二人の物語だとすれば
かなり前の言い伝え、ということになる


そして、軽太郎女の題詞、左注によるように、
万葉集の編者にとって、古事記も日本書紀も、調べられる立場の者
正史として記述された出来立ての書物を、確認と称して読める者
何となく、この時代の雰囲気が...おぼろげに見え出してきたような...

まだまだ万葉の旅は、始まったばかりだ


掲載日:2013.05.20.

  柿本朝臣人麻呂歌(四首)
 古尓 有兼人毛 如吾歟 妹尓戀乍 宿不勝家牟
  いにしへにありけむ人も我がごとか妹に恋ひつつ寐ねかてずけむ
    いにしへに ありけむひとも あがごとか いもにこひつつ いねかてずけむ
 巻第四 500 相聞 柿本人麻呂
 
 今耳之 行事庭不有 古 人曽益而 哭左倍鳴四
  今のみのわざにはあらずいにしへの人ぞまさりて音にさへ泣きし
   いまのみの わざにはあらず いにしへの ひとぞまさりて ねにさへなきし 
 巻第四 501 相聞 柿本人麻呂


〔500〕

いにしへにあった人も、

今の私と同じように妻を恋いつつ、

苦しくてなかなか眠れなかっただろうか 


かてず...上代の補助動詞「かつ」の未然形に、上代の打ち消し助動詞「ず」
上代では「ず」がキ・ケリ・ケムなど回想の助動詞に続く
~できなくて、~しかねて


〔501〕

この今の世だけが、そうだとは言えない

いにしへの人だって、同じようにいやそれ以上にもっと

恋の苦しさに声を出し、泣いたことことさへあったでしょう


わざ...ありさま、様子、次第...
ひとぞまさりて...(ひにしへの)人の方が、もっと...「わざ」のことを言っている
ねにさへなきし...声を放って泣くことさえあった


この二首は、柿本朝臣人麻呂の作で四首詠われているうちの後半の二首
この二首がセットのようにひびきこだまする

昔の人も、今の俺のように妻を恋しがって
なかなか夜も寝付けなかったのだろうか

何を言う、昔の人の方が、もっと苦しんで
声を放って泣いたこともあっただろうよ

俺ほどの恋い慕う気持ちを、誰もかつて経験したことはないだろう
そんな大袈裟に言い放つ友に
昔の人はもっと辛かったと思うよ、と言い返している

ある種の慰めなのだろうか
それとも、いにしへ人への、恋の憧憬なのだろうか...


 








 「煩悶する大伴氏」...語られぬ大伴田主...
 
この三首に伺えるのは、大伴田主のその容姿端麗な男振り
しかも、大伴旅人の弟であれば、もっとこの人物に纏わる情報や歌が
あるものかと思えば...僅かこの三首しか手掛かりはない
しかも、田主本人の歌としては、一首のみ
もし石川女郎が、噂を聞きつけ、茶目っ気を出さなければ
この大伴田主...今日には伝わらない人だったに違いない

そのことが伺えるのが、初めに石川女朗の詠った歌の左注による


 大伴田主字曰仲郎 容姿佳艶風流秀絶 見人聞者靡不歎息也 時有石川女郎自成雙栖之感恒悲獨守之難 意欲寄書未逢良信 爰作方便而似賎嫗 己提堝子而到寝側 哽音テキ足叩戸諮曰 東隣貧女将取火来矣 於是仲郎 暗裏非識冒隠之形 慮外不堪拘接之計 任念取火就跡歸去也 明後女郎 既恥自媒之可愧 復恨心契之弗果 因作斯歌以贈謔戯焉
 大伴田主は通称を仲郎といった。容姿麗しく、格別にみやびやかであり、見る者聞く者感嘆しない人とてなかった。ときに石川女朗という者があった。一目見てから田主と一緒に暮らしたいと思い、常々独り寝のつらさを悲しんでいた。恋文を届けようにも良いつてがない。そこで一計を案じ、みすぼらしい老婆になりすました。自ら土鍋を提げて、田主の寝所のそばにやってきた。老婆の声色を使い足をふらつかせ、戸を叩いて案内を乞い、「東隣の貧しい女が、火種を頂こうと思ってやって参りました」と言った。そこで田主は、真っ暗なのでよもや変装しているとは知らず、また思い掛けないことなので同衾しようと言う相手の計略に気が付かなかった。彼は希望通りに火を取らせ、今来た道をまた帰らせた。翌日、女郎は、仲人なしに厚かましく押しかけて行ったことがきまり悪く、また心願の果たせなかったことを恨みに思った。そこで、この歌を作って冗談ごとに贈ったのである。
 新編日本文学全集による


ここで、「漢文」の左注が載せられるのは
このエピソードの物語性を教えてくれるのではないだろうか
事実の話ではなく、創作として...
ところどころに漢籍の語彙があり、その使い方により
創作であろう、と言う根拠になっている

もう一つ気になることがある
この左注で述べられている、内容では
田主が、「やはり俺は風流士だったのだ」と言うほどのことなのか、と
老婆に変装した女性を、世話をやく以上のことをしてやれるものなのか
何か、思惑がちぐはぐな気がする
あるいは、石川女郎が言うように、いきなり仲人も通さず近づいたこと
それが、田主の実直さに適わず、望みを絶たれた...
そうであれば、何も変装...しかも老婆などに変装しなくても同じことだ
何か当時の、あるいは漢籍の中にそれを寓意とすることでもあるのだろうか
その筋を女郎はおざなりにし、田主は守った...とか...

いずれにしても左注が創作なら、詠歌も創作、と思うのが自然だろうが
この二人の人物、伝えられえる事跡はないが
実在の人であるのは間違いないようだ
特に、石川女郎...大津との相聞歌のあの女性だと言う...

そして、何より「大伴田主」という名門大伴家のいわば貴公子ともいえる
いくら昔の権勢はないとはいえ、大納言・安麻呂の二男だ
一族の長として、長男旅人が重んぜられるのは解る
しかし、二男の「田主」はその名が伝わらず
三男の宿奈麻呂の事跡は多く残る
まして宿奈麻呂は、異母妹の坂上朗女を妻とし、坂上大嬢をもうけ
その大嬢が、一門の後継者、家持の妻になる
坂上大嬢と家持の結婚は、坂上郎女の一門の行く末を思う願いから
郎女の積極的な働きがあったように思っていたが
案外、宿奈麻呂の意も強かったのかもしれない
次兄の田主をおいて、家持の後見人になる...
これまで坂上郎女ばかり注目していたが...旅人の二人の弟の
あまりの情報の量の違いに、大伴家の複雑さが垣間見える

大伴家持に関しての「ページ」を作成中だが、今のところこう感じている
大伴家の歴史的への関わり方から家持の代までの資料の中で
家持が少年期過ごした大宰府での父・旅人や山上憶良との交流の時代が
その後の家持の人間性に、大きく影響していることは間違いないことだ
しかし、それだけではなく
この大宰府での大伴家棟梁旅人は、中納言と言う要職にありながら
まるで左遷扱いで筑紫にいる
そして都には、大伴家の支族たちが官僚として活躍している
確かに、当時の都は不穏な情勢で、この大宰府赴任中に
皇親政治の中心であった長屋王が謀略で自害している
まさに、藤原氏の気に入らない要人たちの粛清の最中といえる
そんな時代に、旅人は遠く大宰府におり、家持は教養を深めていく
憶良の語る人間観というものに、少年の家持は
どれほどの刺激を受けたのだろう...都にいては
決して身に付くことのなかった人生観だったと思う

そして大伴旅人は、父・大納言安麻呂が平城の佐保に築いた館にいても
故郷飛鳥を偲び、平城の空気に馴染めず生きていた感があるのに
大伴家持は、生まれながらにして平城が故郷であり
そこに父子の人生観にもいくらかの相違は出てくるのだろう

形ばかりの高位高官の要職に付いた大伴一族
しかし、旅人のように、時代を儚んで生きていくわけには...
この大伴家持にはできなかった

大伴家持から見る叔父「大伴田主」は、どんな人物だったのだろう...

掲載日:2013.05.21.

  石川女郎贈大伴宿祢田主歌一首  [即佐保大納言大伴卿之第二子 母曰巨勢朝臣也]
 遊士跡 吾者聞流乎 屋戸不借 吾乎還利 於曽能風流士
  風流士と我れは聞けるをやど貸さず我れを帰せりおその風流士
    みやびをと われはきけるを やどかさず われをかへせり おそのみやびを 
左注左頁記)     巻第二 126 相聞 石川女郎
 
  大伴宿祢田主報贈歌一首
 遊士尓 吾者有家里 屋戸不借 令還吾曽 風流士者有
  風流士に我れはありけりやど貸さず帰しし我れぞ風流士にはある
   みやびをに われはありけり やどかさず かへししわれぞ みやびをにはある
 巻第二 127 相聞 大伴田主
 
  同石川女郎更贈大伴田主中郎歌一首
 吾聞之 耳尓好似 葦若末乃 足痛吾勢 勤多扶倍思
  我が聞きし耳によく似る葦の末の足ひく我が背つとめ給ぶべし
   わがききし みみによくにる あしのうれの あしひくわがせ つとめたぶべし
巻第二 128 相聞 石川女郎


〔126〕

あなたは風流を解する人と聞いておりましたが

私を泊めもしないで帰しましたね

なんてこころの鈍いお方なのでしょう


みやびを...「みやび」は、宮廷人らしく振舞うこと、風流な仕草
そんな風流を解する男を「みやびを(男)」といった
また、動詞「みやぶ」...風流に振舞うこと、その名詞形が「みやび」
対する語句に「ひなび(鄙俗)」がある
おそ...形容詞「鈍(おそし)」の語幹で、愚か、こころの鈍いこと

原文の第一句「遊士」は風流を求めて遊ぶ男の意味があり
第五句の「風流士」は、漢籍に拠るもので
その場合でも、時代と共にその「風流」の意味は変遷している
晋代以降、①個人の道徳的風格、②放縦不羈、
そして、③官能的な退廃性を帯びたなまめかしさ、と推移した

次の歌と共に、「みやび」についての、石川女朗、大伴田主
それぞれの解釈の違いがよくわかる
この歌の場合は、③の意味で石川女朗は呼びかけたようだ 
尚、左注については左頁に載せる


〔127〕


そうなんでしょうか

風流人であったのですよ、やはり私は...

あなたを泊めもしないで帰した私こそ、真の風流人だったのですよ

我はありけり...この「けり」は、過去の意識しなかった事実に
はじめて気づいて感嘆する「助動詞」
過去の助動詞「き」と「けり」の違いは、前者が過去の直接経験を表し、
後者は過去の伝聞の意を表わす
また「けり」はこの用法から詠嘆的表現をも派生させている

この歌の場合、石川女郎の「本意」を知り、
そうだったのか、やはり俺は「風流人」だったのだ、と感嘆している
その石川女朗の本意とは、前歌の左注にあり、左頁で扱う
どうも、理解しがたい内容になっているが...


〔128〕

ほんとに噂どおりの方でした

葦の葉先のように、か弱い引き足のあなた

どうかしっかり御養生なさってください

耳によく似る...噂と全く同じ
この「耳」は、聞いたこと、噂
葦の末(うれ)...「うれ」は、木の梢や草の葉先など細い末端部
「葦の末の」は、また次句の「足」にかかる枕詞的な用法も兼ねている
足引く...脚気など下肢が麻痺し歩行困難をきたすこと
つとめたぶべし...「つとめ」、動詞「つとむ」で励み行うこと
「たぶ」は、「たまふ」の詰まったものだが、敬意はやや薄いと言う
助動詞「べし」...適当の意を表わすか、必要・義務の意を表わすかの...
しっかり養生された方がいいですよ、
どうかしっかり養生してください...

この歌の左注

右依中郎足疾贈此歌問訊也
 (右は、中郎の足疾により、この歌を贈りて問訊せるなり。)
右は、中郎が足の病気なので、この歌を贈って見舞ったもの 

この左注により、石川女郎の本意が伝わるとは思うが
ならば、〔126〕歌の真意は何なのだろう
この三首の流れが、どうしても自然に感じられない
だから、逆に「作り話」ではない、とも言えるのだろうが
実際の話でも、作り話であっても...不自然さは拭えない


 









 「萩にけしん」...しぶとく生きて...
 志貴皇子への挽歌
715年志貴皇子が薨じた時に、笠朝臣金村が詠んだものと推定される挽歌がある長歌一首に短歌二首、或本の歌二首并せて五首になるが、
或本の歌二首は、笠朝臣歌集とは別の出典となる
長歌については、今夜は触れないが、短歌は以下のように詠われている

(霊龜元年歳次乙卯秋九月志貴親王薨時作歌一首[并短歌])短歌二首
 高圓之 野邊乃秋芽子 徒 開香将散 見人無尓
  高円の野辺の秋萩いたづらに咲きか散るらむ見る人なしに
   たかまとの のへのあきはぎ いたづらに
 さきかちるらむ みるひとなしに
 巻第二 231 挽歌 笠朝臣金村歌集
 
 御笠山 野邊徃道者 己伎太雲 繁荒有可 久尓有勿國
 御笠山野辺行く道はこきだくも繁く荒れたるか久にあらなくに
  みかさやま のへゆくみちは こきだくも
 しげくあれたるか ひさにあらなくに
 巻第二 232 挽歌 笠朝臣金村歌集
 右歌笠朝臣金村歌集出
 
 或本歌曰
 高圓之 野邊乃秋芽子 勿散祢 君之形見尓 見管思奴播武
  高円の野辺の秋萩な散りそね君が形見に見つつ偲はむ
   たかまとの のへのあきはぎ なちりそね
 きみがかたみに みつつしぬはむ
 巻第二 233 挽歌 作者不詳
 
 三笠山 野邊従遊久道 己伎<太>久母 荒尓計類鴨 久尓有名國
  御笠山野辺ゆ行く道こきだくも荒れにけるかも久にあらなくに
   みかさやま のへゆゆくみち こきだくも 
 あれにけるかも ひさにあらなくに
 巻第二 234 挽歌 作者不詳

〔231〕
高円の野辺の秋萩は、空しく咲いては散るのだろうか...
もう見る人もいなくなった後なのに...

〔232〕
三笠山の野辺の道
これほどにも酷く荒れたものなのか...
皇子がいなくなってから、まだそれほども時は経たないのに...

〔233〕
高円の野辺の秋萩よ、どうか散ってくれるな
皇子の形見として、見つづけてはお慕いしたいのです

〔234〕
この歌は、〔232〕とほぼ同意
しかし、第二句の「野辺ゆ行く道」の「ゆ」に経過を示す意がある
「野辺道を通って行く」...と

この笠朝臣金村の二首と、或本の歌二首
ほとんど同じ語句で詠まれているが...別人らしい
挽歌の一つの慣わしかもしれない

奈良白毫寺...高円山の麓にある真言律宗のお寺
秋の山門の古びた石段の萩...私の大好きな「萩の石段」

そして、境内には五色椿、子福桜の横に、万葉歌碑がある
その歌が、〔231〕
このお寺は、かつて志貴皇子の離宮があり、その山荘を寺にしたと伝わる

志貴皇子は、「萩」をとても愛おしんでいたという

掲載日:2013.05.22.

  志貴皇子御歌一首
 牟佐々婢波 木末求跡 足日木乃 山能佐都雄尓 相尓来鴨
  むささびは木末求むとあしひきの山のさつ男にあひにけるかも
    むささびは こぬれもとむと あしひきの やまのさつをに あひにけるかも
 巻第三 269 雑歌 志貴皇子
 

むささびは...次のところへ飛翔しようと木の末まで上ろうとして

山の猟師にやられてしまった...


むささびの習性を知っている猟師
むささびは、その滑空能力を最大限活用するためには
高いところまで上って、そこから目的の木まで滑空する
斜め下にしか滑空できないので
その都度、かならず高いところへ上る
猟師はその時を見計らって、真下から射落とすと言う

こぬれ...「木の末(うれ)」の約
さつを...「猟士(さつを)」
あひにけるかも...「あひ」は「遭う」遭遇する、出くわすこと
に...は格助詞、動作の帰着点をさす
ける...回想の助動詞、「かも」...詠嘆の終助詞

志貴皇子は、天智天皇の第七皇子
第四十九代光仁天皇の父であり、715年に薨じた皇子に
光仁天皇が即位した後、「春日宮御宇天皇」を追尊されている
天武系の天皇が続いた後、光仁で天智天皇系となり、その後もこの系統となる

この作歌の時期は解らないが、
志貴皇子の時代には、有力な天武の皇子たちが相次いで排除され
志貴皇子自身は、天武朝において、肩身の狭い生き方を強いられたことだろう

その背景を考えると、一説にあるように
この歌は寓意を込めていて
「高い地位を望んで身を滅ぼした」人々に対しての
鎮魂歌なのかもしれない

結果的には、志貴皇子の子が天皇になるのだが
皇子自身は、そんなこと夢にも想像できなかったに違いない
皇親だけの思惑ではなく、すでに藤原氏の宮廷への野望が...
着々と成果を出し始めていた時代だったのだから...
天武の皇子だとか、天智の皇子などということより
いかに藤原氏に睨まれずに生き延びるか...ではなかったかと思う

志貴皇子の死から五十五年後、その甲斐あって、子が即位した
壬申の乱以後、天武、持統、文武、元明天皇を生き
その間の激動の日々を、心やすまることなく、過ごした皇子だったのだろう





 








 「焼けつく」...想いをこがす、妬く...
 
 「焼く」...そして「妬く」へ
阿倍女郎名での万葉歌は、何首かあっても、それが同一人かどうか
その定説はないようだ
右頁に見る阿倍女郎、歌そのものの解釈もまた定まっていないようなので
実際にその人物像は、想い描く人によって違うことだろう

題詞の「屋部坂」も、その地名を特定されていない
題詞に記するほどだから、何らかの意味があるはずだが
それは、また探してみよう

この歌で使われている「焼く」
この解釈も、いろいろとあるようだが
「こころ」と解した場合の、もう一つの例を載せる

巻第十三、相聞歌に分類される歌で、この巻の特徴とも言える
長歌と短歌がセットで続く...しかも作者の伝わらない歌ばかり
次の二首も、長歌一首にその反歌の組み合わせとなっている
内容も、当時の男女間の「嫉妬」を題材にし
反歌では、一転して心を鎮める

いつも思うこと
こうした時代の人々の息遣いは、決して公式な記録...正史の類
そんなものでは知りようがない
文学...それこそが、この最大の役目のような気がする
創作であろうが、実話であろうが、
その時代の言葉一つ一つが、生きた口から発せられている

万葉集の素晴らしいところは、
そうした万葉人の息遣いを感じられる、そこにある
歌の一首一首の出来栄えは、私には解らない
胸に響く歌は、間違いなく素敵な歌であろうし
逆に、どんなに学者が持ち上げようと、自分に響かない歌は...
なにも、万葉集だからすべての歌が素晴らしいのではなく
万葉集だから、すべての歌が...その時代の「声」だと...思う

まず長歌、そして反歌

刺将焼 小屋之四忌屋尓 掻将棄 破薦乎敷而 所挌将折 鬼之四忌手乎 指易而 将宿君故 赤根刺 晝者終尓 野干玉之 夜者須柄尓 此床乃 比師跡鳴左右 嘆鶴鴨
 さし焼かむ 小屋の醜屋に かき棄てむ 破れ薦を敷きて 打ち折らむ 醜の醜手を さし交へて 寝らむ君ゆゑ あかねさす 昼はしみらに ぬばたまの 夜はすがらに この床の ひしと鳴るまで 嘆きつるかも
 巻第十三 3284 相聞 作者不詳
 反歌
  我情 焼毛吾有 愛八師 君尓戀毛 我之心柄
   我が心焼くも我れなりはしきやし君に恋ふるも我が心から
   わがこころ やくもわれなり はしきやし
 きみにこふるも わがこころから
 巻第十三 3285 相聞 作者不詳

長歌〔3284〕の方の解釈は、通説どおりに載せる

焼き払ってしまいたいような、みすぼらしい小屋
捨ててしまいたいほど破れ放題の薦を敷いて
打ち折ってしまいたいような汚らしい手を差し交わす、あなたとあの女
そのせいで、昼も一日中、夜も一晩中...
この床がきしみを立てるほどに、私は嘆いているのに...

男の浮気相手との現場を、女は知っている
そして二人がしていることを思うと、
昼も夜も、床が鳴るほどに深い嘆きを覚える

ここでの「さし焼かむ」は、勿論焼き払いたいという物理的なものだが
同時に、「かき棄てむ」、「打ち折らむ」と続くように
「嫉妬」の燃えるような激しさが伺える
「む」は願望の連体形...
上代では「む」、中古で「む」が「ん」と発音されるようになり表記も変る

昼はしらみに、夜はすがらに...対語
「しらみに」は、しらみ(繁)からの派生語
「すがらに」は、初めから終りまで通しての意

〔3285〕
私の心を「焼く」のも自分であり、
あんな男に愛しさを想うのも
それも私なんだから...

「はしきやし(愛しきやし)」...愛惜、嘆息、追慕などの感動
形容詞「愛(は)し」の連体形「はしき」に上代の間投助詞「やし」
ああ、いとしい...ああ、かわいそう...
この女性の、自嘲気味な、それでいて愛情の想い
あんな男に恋焦がれるのも...私なのだから...そう誰でもない、自分のこと...

ここでの「焼く」は、物理的な「焼く」ではなく
こころを焼き焦がすほどの「想い」

掲載日:2013.05.23.

  阿倍女郎屋部坂歌一首
人不見者 我袖用手 将隠乎 所焼乍可将有 不服而来来
 人見ずは我が袖もちて隠さむを焼けつつかあらむ着ずて来にけり
  ひとみずは わがそでもちて かくさむを やけつつかあらむ きずてきにけり
 巻第三 271 雑歌 阿倍女郎
 

人に見られると言うこともなければ

私の袖で、どんな風にしてでもあなたを隠してあげられるものを

あなたの焼け尽すような想いを隠せるほどの着物を

人目を憚るあまり、今は着て来ませんでした


この歌は、どの注釈書を読んでも難しい歌とある
単純に歌意を理解できるのは
中西進著「万葉集全訳注」(講談社)だと思う

袖をかけてあなたを隠せばよかったものを
人目をはばかってそのまま来たので
今もあなたの心は燃え続けているだろうか
袖をかけずに来たことだなあ

この解釈で、日本語の...大袈裟だが、文章の意味は解る
他の注釈では、観念的な文章になり、日本語として読みづらい

たとえば、小学館の新編日本古典文学全集

人さえ見ていなかったら 
わたしの袖で、隠してやるのだが 
焼け続けていることであろうか 
あいにく着せかけてやるようなものも着ないで来た

これは、解釈と言えるのだろうか...
少なくとも前者には「焼けつつ」という意味が解る
しかし、後者では...隠したくなる原因である「焼けつつ」が
何のことか解らない
単に古語を解説してみただけに思えてならない

私は、いつも思うのだが
日本人が外国語を訳すと、かなり苦しい日本語になってしまいがちだ
何故なら、単語の解説を重視し過ぎるからだと思う
外国語も、その国の「国語」である以上
文章に無理がなく、解りやすい使い方で訳さないと
とてもぎこちない「訳文」になってしまう

使われていない語義も、使う必要があれば使うのが...自然な日本語の文章になる
勿論そのためには、歌意を理解しなければ、不用意には使えないが...
もっとも、私自身の考え方は、何も訳さないことがベストだ、と思っている
その語句のまま、理解すればいい
何も現代文に訳さなくても、古語をそのまま「現代文と同じように」に覚える

私が偉そうに言うのも、それこそ笑いものだが
古語辞典に穴が開くほど目を通しても、多くある選択肢から探し出すのは
本当に大変な作業だ...勿論、専門家の人たちには造作もないことだろうが...

一語一語の確認が、それぞれの注釈書でことなり
大きく歌意が違うことはないけれども
微妙に立場が違うような解釈にもなりそうで
この歌など、初めの内は、二人が並んで歩いていても
人目につくので、あなたを私の袖で隠せませんよ、と女が言ったかのように...
つまり、二人は知らない者同士、という見せ掛けが必要だった
そう思って辞書を捲る
しかし、見せ掛けではなかった...
人目があっても、いくらでもあなたを隠してあげるのに...と
人がいなければ...何から隠すのか
何も隠す必要もないことだ

そこで、厄介な「焼けつつか」...
この説にもいろいろある
ただし、私なりに素朴に思えば、
男の燃え盛るような...隠しようもないほどの女への想い

それを女は照れ臭くて隠そうと思うのだが、
そんな覆い隠せるほどの着物など着て来なかった
あまりにも目立ってしまうから、とたしなめる

この女性の本心は
人目など気にせず...今着ている着物の袖で、あなたの想いを包んであげましょう
しかし、これほど人目につくのなら、もっと大きな着物の方が良かったでしょうか
あなたをすっぽりと包めるように...
あいにく、そんな目立つ立派な着物は、今日は着てきませんでした
と、男の想いを率直に見抜いて詠う

ずは...順接の仮定条件の打ち消しで、もし~でなければ
隠さむを...「隠す」の未然形に意志の助動詞「む」、「を」接続助詞
隠してあげるのに...となるのだが
注釈書の一つでは、この「む」は仮定の助動詞となる、~隠せば...

焼く...単純に、燃える、焼ける、と言う意味なのだが
古語辞典には、思い焦がれる、心を悩ます、と言う意味もあった


 









 「詠月」...心を無垢にして月観賞...
 
 巻第七 雑歌「詠月」十八首中七首をみる
 
  詠月
 常者曽 不念物乎 此月之 過匿巻 惜夕香裳
  常はさね思はぬものをこの月の過ぎ隠らまく惜しき宵かも
   つねはさねおもはぬものをこのつきのすぎかくらまくをしきよひかも
 巻第七 1073 雑歌 作者不詳
 いつもはまったく思いもしないのに
 この月が隠れて見えなくなるのは惜しいものだ
 
 大夫之 弓上振起 猟高之 野邊副清 照月夜可聞
  大夫の弓末振り起し狩高の野辺さへ清く照る月夜かも
   ますらをのゆずゑふりおこしかりたかののへさへきよくてるつくよかも
 巻第七 1074 雑歌 作者不詳
 もののふが、弓末を振り立てて狩をする
 その猟高の野辺まで煌々と照らす月よ
 
 山末尓 不知夜歴月乎 将出香登 待乍居尓 夜曽降家類
  山の端にいさよふ月を出でむかと待ちつつ居るに夜ぞ更けにける
   やまのはにいさよふつきをいでむかとまちつつをるによぞふけにける
 巻第七 1075 雑歌 作者不詳
 山の端で、出でようとしているじれったい月を
 今か今かと待っているうちに、すっかり夜も更けてしまった
 
 明日之夕 将照月夜者 片因尓 今夜尓因而 夜長有
  明日の宵照らむ月夜は片寄りに今夜に寄りて夜長くあらなむ
   あすのよひてらむつくよはかたよりにこよひによりてよながくあらなむ
 巻第七 1076 雑歌 作者不詳
 明日も照らす月夜、今夜照らす月と
一緒になってくれないだろうか...今宵は長くあってほしいのに...
 
 夜干玉之 夜渡月乎 将留尓 西山邊尓 塞毛有粳毛
  ぬばたまの夜渡る月を留めむに西の山辺に関もあらぬかも
   ぬばたまのよわたるつきをとどめむににしのやまへにせきもあらぬかも
 巻第七 1081 雑歌 作者不詳
 漆黒の夜空に照る月を逃さないように
 向う西の山辺に関所でもないものか
 
 水底之 玉障清 可見裳 照月夜鴨 夜之深去者
  水底の玉さへさやに見つべくも照る月夜かも夜の更けゆけば
   みなそこのたまさへさやにみつべくもてるつくよかもよのふけゆけば
 巻第七 1086 雑歌 作者不詳
 水底の美しい様まではっきりと見られる
 今夜の月明かり、それほど夜も更けてしまったのか
 
 霜雲入 為登尓可将有 久堅之 夜<渡>月乃 不見念者
  霜曇りすとにかあるらむ久方の夜渡る月の見えなく思へば
   しもぐもりすとにかあるらむひさかたのよわたるつきのみえなくおもへば
 巻第七 1087 雑歌 作者不詳
 霜曇りしている、ということなのだろうか
 夜空を渡る月が、今夜は見えはしない...そういうことなのだろう

こうして、いろんな月の楽しみ方をしてみた
それぞれ「月」の扱い方が違う...それも当然だろうが
こんな風に、「月」一つで、いろいろと詠めるのだから...
目にする景物は同じでも、無数の「感じ方」を教えてくれる

〔1073〕月そのものへの愛おしさ、何故か今夜に限ってという作者の心象
〔1074〕弓形を思わせる三日月が、狩場を美しく照らす、形象
〔1075〕擬人化する月、じれったく待たされる愛しいもの
〔1076〕今宵を二日分楽しむために、二日分の月で長い時間を
〔1081〕漆黒の闇に不可欠な月明かり
〔1086〕夜も深まる月明かりの煌々とするさま
〔1087〕月が見えないと思うのは、霜曇りのせいか

無数の「月」の感じ方の一例が、ここにある
観賞する月、形に見とれる月、人に擬えて想う月
夜の楽しみを長くするために、応援要請をさせる月
月明かりの必要性を知らせる月
夜も深まるといっそう美しさを増し照る月
姿を見せない夜空に、月の身を気にかける...そんな月

蛇足の語彙解説
〔1073〕
さね...否定を伴う副詞、少しも、全然
過ぎ隠らまく...「過ぐ」は見えなくなる、隠れてみえなくなるだろう
〔1074〕
ゆずゑ...「ゆみすえ」の約、弓の上端の名称
弓を射る時、狙いを定めて矢を放つ寸前の動作を描写し、地名「猟高」の序に
〔1075〕
いさよふ...行くべきか、今しばらく待つがよいか迷い躊躇う様子
月が出ようかもう少し待とうか、迷っている...十六夜以降の月は遅いという
〔1076〕
片寄りに...一方だけに偏った状態
ながくあらなむ...動詞の未然形についた「む」は希求を表わすが
事実と逆のことを無理と知りつつ願望する場合に用いる。
〔1081〕
留めむに...下句に命令や希求などの実現して欲しいと思う内容があれば
その場合の「むに」は~できるように、~すべく、の意味になる
せき...「塞き」は動詞「セク」の名詞形、塞き止める
ぬかも...希求、「せきもあらぬかも」...塞き止めることができればなあ
〔1086〕
さやに...はっきりと
見つべくも...「つべし」は、~できそうな状態、「も」は詠嘆
〔1087〕
霜曇り...未詳、ただし降霜を見る頃の初冬の曇天ということか
す...自然現象について音・声・香・朝凪・雪消・紅葉・時雨などに伴う
と...~とて、~というつもりで、の意
みえなくおもへば...見えなく、ク語法+思ヘバは
上に述べた事柄の理由を説明する語法

こうした古語を、そのままのイメージとして捉えられたら
万葉人たちが、もっと近くに感じられるのだが...

野球の「ストライク」や「ボール」あるいは「アウト」
これを和訳しろなんて...意味がないと同じように
やはり、古語を古語として読む場合には...そのまま理解したいものだ

掲載日:2013.05.24.


  春雑歌 詠月
朝霞 春日之晩者 従木間 移歴月乎 何時可将待
 朝霞春日の暮は木の間より移ろふ月をいつとか待たむ
  あさかすみ はるひのくれば このまより うつろふつきを いつとかまたむ
 巻第十 1880 春雑歌 作者不詳
 
朝霞の立つ春の日が暮れたのに

次は木の間より現れる月を、いつまで待てばいいのだろうか...

なかなか夕月は現れてこない...

朝の霞がたなびいていた春の日もいいものだ
その一日が暮れるのは惜しいけれども
今度は木の間から現れる夕月を見られる楽しみがある
しかし、なかなかその夕月...現れない...

あさかすみ...春日に懸かる枕詞
暮れば...暮れたらば、という仮定条件
日が暮れたら、月が出る...という 
何時とか待たむ...何時になったら現れると思って、私は待つのだろか
期待の薄い場合にいうことが多いらしい

先日帰宅途中、暮色に浮ぶ月を見た
この日も、確かに暑かったけれど
春の陽射しに、心地よさを満喫した一日といえた
そして帰路、東へ向う通りを歩いていると
空はまだ中途半端なくぐもった明るさなのに
その月は浮ぶ...濁った空の海に押し上げられるかのように浮ぶ月
三日月でないのが残念だったが
いつの世でも、人は月を見て何かを想う

私がこのとき想ったのは、毎晩そこにいるはずなのに
久し振りに見かけた「月」に対して
まさしく「出逢った」という気持ちを抱いたことだ
月を、親しいが遠くに離れてしまった友人に擬えたような感じだった

最近こそ、あまり嗜まなくなったが
ひと頃は、毎晩のように部屋でスコッチを飲む習慣があった
窓から月を眺め...
しかし、待つ時間が長かったときにふと命名した酒
そのスコッチのこと...いや、そうした飲み方に対しての命名だが
「月待酒」と名付けた...自分だけが知る酒、スコッチ
そして自分だけが嗜むことの出来るスコッチ、「月待酒」

この歌を読んだとき、そんなことを思い出した
そうか...詩人の才と言うもの、感動できる場にいて
ただ声を失うばかりに立ち尽くす、そこから一歩自分を置いて離れる
そうした人のことをいうのだ...

私のように、たんに月を見て感嘆し
あるいは、月の出を待ち焦がれて、酒を煽るにしても
そこに、もう一人の自分がいないと...決して詩は詠めない

いや、詠んでみようか、と似非詩人になろうとするのが関の山だった
実際に詠もうとしても、この語は美しくない、語幹はいいが意味が繋がらない...
そんな余計なことを考えてしまって...
そうして出来上がったものといえば、教科書にでも載せられたような語句の羅列
それでは、自分自身でさへも見放してしまうだろう...そんな歌など...

月...そのものへの感動、そして月に語る人の感動
あるいは、月に語りかけられる感動
いにしえの人には、そうした純粋な気持ちがあったはずだ
そもそも、詠歌という手段が、今の観念とは大きく違うのだから...

待ちわびる気持ち...それが月にせよ、人であるにせよ
素直に詠えるこころ、それを持ちあわせることの出来る人
そんな詩人、歌人への憧れは、才能の豊かさを言う前に
何が何でも「俺は俺だ」と自分への強烈な自己主張が出来る人でなければ
本当に、憧れだけで終ることになる
もっとも、「詩人」、「歌人」という職業のことではなく
何ものにも捉われない生き方の出来る人のことだ

言い換えれば、どんな人であっても「詩人」、「歌人」に成り得る

「生きる」ということと、「生きるため」の手段は違うこと
それは誰でも理解できること

今夜から、月を見て...少しでも詩人に近づきたいものだ

今の丁度この時間...21時33分
部屋の窓の真正面に、ほぼ真ん丸の月が見える
これを、どう表現すればいいのだろう
私の携帯カメラを早速撮ったが...あまりにも月明かりが強いのと
そもそも携帯の機能そのものの不充分さで、画像はまるで太陽のように輝いていた
月のイメージとは全然違う
月は...もっと落ち着いた輝きを見せるもの
決して出しゃばることなく...だからこそ、そんな月だからこそ
多くの人が、月と語らおうとする

今夜のこのページの画像は、先週の野外コンサートで撮ったもの
月とバラ...あれほど高空にあれば、月の輝きも...落ち着いて見える
今の月は...あまりにも低くて...眩い


 







 「憧れ人と秋の歌」...すがる家持...
 大伴家持十九歳の歌(右四首天平八年丙子秋九月作)
  大伴家持秋歌四首 秋雑歌
 久堅之 雨間毛不置 雲隠 鳴曽去奈流 早田鴈之哭
  久方の雨間も置かず雲隠り鳴きぞ行くなる早稲田雁がね
 ひさかたのあままもおかずくもがくりなきぞゆくなるわさだかりがね
 巻第八 1570
 久々に降る雨の中、休みもせず雲に隠れて
 早稲田に棲む雁が、鳴き過ぎて行くようだ
 
 あままもおかず...本来は、雨の止んだ合間のことをいうが、
 この歌では、雨が降っている間、と読める
 
 雲隠 鳴奈流鴈乃 去而将居 秋田之穂立 繁之所念
  雲隠り鳴くなる雁の行きて居む秋田の穂立繁くし思ほゆ
 くもがくりなくなるかりのゆきてゐむあきたのほたちしげくしおもほゆ
 巻第八 1571
 雲に隠れて鳴きながら飛んでいった雁の
 降り立つ先の稲田の穂立てが、しきりに騒々しく思われてしまう
 
 秋田の穂立て...稲の穂が立っている様、あるいは稲そのものをいう
 しげくし思ほゆ...「そげし」は隙間のない様子
 
 雨隠 情欝悒 出見者 春日山者 色付二家利
  雨隠り心いぶせみ出で見れば春日の山は色づきにけり
 あまごもりこころいぶせみいでみればかすがのやまはいろづきにけり
 巻第八 1572
 雨に降り遣られて、心もふさいでしまったので
 外に出てみると、春日山は色づきかけているではないか
 
 雨隠り...雨に降りこめられて、家にいる
 心いぶせみ...形容詞「いぶせし」(鬱陶しくて晴れない)の語幹に
 接尾語「み」がついて、原因・理由を表わす...心が晴れないので
 
 雨晴而 清照有 此月夜 又更而 雲勿田菜引
  雨晴れて清く照りたるこの月夜またさらにして雲なたなびき
 あめはれてきよくてりたるこのつくよまたさらにしてくもなたなびき
 巻第八 1573
右四首天平八年丙子秋九月作 
 雨も止み、すがすがしく照るこの月
 また夜も更けてから、雲よかかってくれるなよ
 
ここでの「清く」は雨後の濡れた情景が、清い様子を言う
雲なたなびき...「な~そ」の禁止は、上代にだけ「そ」が欠ける
逆に院政期以後は「な」の省略も見られる
「な~そ」は禁止の終助詞「な」より弱く
懇願するような感じが強い

父・大納言大伴旅人の死から五年
この詠歌の時、家持は十九歳になる
平城の佐保大納言家の跡取りとして、家持の後ろ盾は...いない
父・旅人が大宰府から帰京して間もなくの死なので
父の残してくれた人脈もほとんどない
勿論、風流士然とした境遇に甘んじていた旅人にとって
積極的な人脈つくりはなさなかったはずだ
しかし、後継の家持のことを思うと、どうしても自分の死後の後ろ盾が欲しい
当時、藤原四卿の全盛時代で、その中で幸運だったのは
不比等亡き後の四兄弟は、それぞれが競り合う形になっていた
そして...旅人は、不比等の二男・房前(北家)に近づく
そうした旅人の官僚としてのもがきのようなものが、歌にも伺える

今「大伴家持」を製作中なので、ここでは書く余裕もないが
その流れから、家持も北家房前の三男・八束に近づいたはずだ
家持より三歳年長の八束は、後に真楯と名乗り、
おそらく藤原一族の中でもっとも人望を集めた人物だと思う
この詠歌の時の若き二人も、後に天平の内乱の激動の中で
褪せることもなく続くのだが
歌人ではなく、大伴家の氏上としての家持の自覚は
藤原一族の北家、そして左大臣橘諸兄の子、奈良麻呂...
そこにすがるしかなかった
しかし、家持の官途への道は険しく、なかなか官職が与えられない
八束にしても、奈良麻呂にしても、家持にすれば雲上の人に等しい

歌でしか交流がなかったのしても、
家持自身には、大きな野心があったと思う

当時の権勢は大きく南家の仲麻呂に偏っている
そうした中での、八束や奈良麻呂との交流は
ある意味では、大伴家の行く末に関わる大きな決断となっている
しかし、父旅人がある程度敷いたこの道を...家持は歩むしかない

この「秋の歌四首」、
題詞こそないが...若き家持の憧れ人、八束への想いを贈ったものと思う

掲載日:2013.05.25.


 藤原朝臣八束歌二首
此間在而 春日也何處 雨障 出而不行者 戀乍曽乎流
 ここにありて春日やいづち雨障み出でて行かねば恋ひつつぞ居る
   ここにありて かすがやいづち あまつつみ いでてゆかねば こひつつぞをる
 巻第八 1574 秋雑歌 藤原八束
 
 春日野尓 鍾礼零所見 明日従者 黄葉頭刺牟 高圓乃山 
春日野に時雨降る見ゆ明日よりは黄葉かざさむ高円の山
  かすがのに しぐれふるみゆ あすよりは もみちかざさむ たかまとのやま
 巻第八 1575 秋雑歌 藤原八束
 


〔1574〕

ここにいると、春日山はどこにあるのか...

この雨につつまれさっぱり分からない

それに、この雨ではどこにも出て行けず、募るは恋しさばかりだ

ここ...平城京に近い作者の住まいだろう
いづち...不定の方向を指す、どちら、その方角か...
ここでは、方角に関する疑問代名詞...雨雲に覆われ方角を定められない
雨つつみ...「障(つつむ)」の連用形、差し控える...雨のせいで出るのを控える
そして、空間的にも雨に包まれたような映像を持てると思う
ねば...打消しの助動詞「ず」の已然形に、接続助詞「ば」のついたもの
ここでは、順接の確定条件を言う...~ないので、出て行かないので

恋ひつつぞをる...「つつ」が完了の助動詞「つ」の重なったもので、繰り返すこと
動作・作業が引き続き行われている様子...
係助詞「ぞ」は、文中にある場合、断定の意を表わす...~だ、~である
補助動詞「居り」...連体形止め、か...他の動作をいやしめる、~やがる
恋ひつつぞをる...恋してばかりいやがる、だろうか

この恋する対象が、春日山そのもの、あるいは次の歌から、黄葉かと言われている


〔1575〕

春日野にしぐれが降っているのを見ると

明日からは紅葉をかざすことだろうなあ、高円山は...

みゆ...「見る」の未然形に、上代の助動詞「ゆ」のついたもの...見える、目に映る
黄葉かざさむ...かざす、草木の花や造花を髪や冠に装飾としてつける
初めは物忌みのしるしとしてさし、後に清浄なもののしるしとして用いられた
その後は、単なる飾りとして用いられたが、造花を使うのは、平安時代以後のこと 
山が黄葉をかざす擬人的表現

この二首については、題詞には何も説明はないが
この歌の前に、大伴家持の天平八年(736年)「秋の歌四首」が載せられている
その配列によってこの詠歌年代を無条件に従うのはよくないが、
歌の内容もからも、この当時の家持と八束の関係を推測すると
家持「秋の歌四首」に応えるように詠った二首のように思う 

藤原八束、父は不比等の二男・房前
母は県犬養橘三千代と、美努王との間に生れた牟漏王
後に県犬養橘三千代は、不比等と結婚し、聖武の皇后になる光明子を生む
八束は母を通して、橘諸兄とは伯父、甥の関係にもなる

不比等の長男・武智麻呂を祖とする南家は、その二男・仲麻呂によって衰退し
二男房前の北家がこれに変り、藤原氏の興隆を担うが
八束の孫、冬嗣から中古の摂関家が始まる

この天平年間は、大変な時代で
式家の広嗣の筑紫での叛乱など、都でも相当な動揺があった
その叛乱の目的は、橘諸兄らの皇親政治家であり、橘家を頼みとする家持にとって
微妙は時期だったことだろう

その家持が、すがるのは...強大な力を持つ仲麻呂派ではなく
藤原一族の中でも、旅人の時代から親交のあった北家だったのだろう
そして、そんな思惑以上に、八束の人柄にも心酔していたのでは、と思う


 








 「ゆふまやま」...観念的な山なのか...
 
「隠れし君を」と「越えにし君が」
  悲別歌
 不欲恵八師 不戀登為杼 木綿間山 越去之公之 所念良國
  よしゑやし恋ひじとすれど木綿間山越えにし君が思ほゆらくに
   よしゑやしこひじとすれどゆふまやまこえにしきみがおもほゆらくに
 巻第十二 3205 悲別歌 作者不詳
ああっ、どうしてこうも もう恋に苦しみたくないのに 
木綿間山を越えていったあなたを、想ってばかりだ
 
よしゑやし...副詞「よしや」と副詞「よしゑ」は同義語で、
その副詞「よし」に間投助詞「や」がついた「よしや」には
ままよ、どうなろうと、のような意味があり
つづく「や」「し」が共に感動の助詞で、「よしゑ」の意を強めている

恋じ...打消しの意味を持つ助動詞「じ」~まい、~しないつもりだ
恋ひはしない、想うまいと...

「木綿間山」、右の東歌の「遊布麻山」と同じ訓が付けられている
現代に於ける比定地は分からないが、
万葉歌中で、二首だけに詠われる山
右の東歌では、君が「隠れし山」
この歌では、君が「越えし山」

共通するのは、決して普通の見送り方ではないことだ
後に書いてみる

思ほゆらくに...四段動詞「思ふ」の未然形に上代の自発の助動詞「ゆ」で、
「思はゆ」から転じ「思ほゆ」...意味は、思われる
接尾語「らく」は、動詞を体言化する語
「らく」は「る」で終る動詞・助動詞の連体形に
「事・所」を意味する名詞「「あく」がついてできたという

「木綿間山」、「遊布麻山」
この山の所在が分からなくても、歌意には影響はないと思う
しかし、この山の名前が出て来る歌では
いずれも、「別れ」の歌であり
しかも、まるで死地に赴くような悲壮感もある
「死地に赴く」というのは大袈裟かもしれないが
この二人の作者は、自分には決して行けない「山」として詠っている
追いかけて行くことも出来ず
ただ確実に戻ってこない人を、何とか忘れたいのに...
それが出来ない苦しさを詠う歌だ

この二首には、その山に向う、あるいはその山に消えた想い人のことを
同じように嘆き悲しんでいるが、大きな違いがある

その手掛かりとなる...私にそう思わせた語句がある
〔3205〕では、「よしゑやし」
〔3494〕では、「思ひかねつも」

「よしゑやし」が、捨て鉢的な苛立ちを隠すことない表現になっている
ままよ、どうなろうと...
それは、どうにもならないことへの冷静な対処が及ばないことを見せる

「思ひかねつも」は、同じように、どうにもならないと知りつつも
それでも冷静に対処しようとする
その理由が、もう相手の気持ちの翻意することなど確実にないことを
...それは、「死」という現実だからこそ、冷静にならざるを得ない...
そう思うのが、私には自然のように思える

前者ならば、まだ立ち去った男が翻意でもして戻ってくる
そんなかすかな期待も持てよう
だから、いまだに「恋」に苦しみ、もう諦めようともがく
それが出来ないと解っていても、もがき苦しむ叫びの歌

後者は、「居らむとすれど」...この状態を続けようとしたいが...
あなたがいないことを、堪え忍ぶ...それを受け入れようとしたが
どうしても堪えられない...

片や、想いを諦めようとし、それができない
片や、想いを堪え忍んで生き続けよう、とするが、堪えられない

悲しみを捨て去るのと、それを受け入れ堪えようとする

この二首で軸となる「ゆふまやま」...どんな山なんだろう
現実の山でなくても、観念的な山であった方が、いいのかもしれない
恋人同士の「悲別の山」として...

また知りたくなった万葉の「語」が一つ増えた

掲載日:2013.05.26.

    東歌
古非都追母 乎良牟等須礼杼 遊布麻夜万  可久礼之伎美乎 於母比可祢都母
 恋ひつつも居らむとすれど遊布麻山隠れし君を思ひかねつも
  こひつつも をらむとすれど ゆふまやま かくれしきみを おもひかねつも
 巻第十四 3494 相聞 作者不詳
今も尚恋しくて、

ずーっと堪え忍んでいようと決めていましたが

遊布麻山に死んだあなたを思うと

どうにも堪えられません

居らむ...そのままで、じっとしていようと...
隠れし君を...名詞「隠れ」には、隠れる場所とか、隠れること、など... 
私の受けるニュアンスでは、「死」がここでは当てはまるのでは、と思う
死ぬことの直接的な言葉をさけ「隠る」と言う動詞がある
名詞の場合だと、つづく「し」は体言に付く「副助詞」で、語調を整え、強意となる
また、「隠れ」を動詞と捉え、その已然形に過去の助動詞「き」の連体形「し」
本当は古語辞典で、動詞「隠れる」を探したが、載っていない
「隠れ」は四段活用だが、「隠れる」...あると思うが、それは下二段活用で
この「隠れ」は連用形になる...その方が解り易かったのに...古語は難しい

隠れし君を...死んでしまったあなたを、と

ほとんどの解釈では、「死」とは訳されていない
山に消えていったあなたを思って...
だから最初の二句の訳も、恋慕いながらも、堪えて待っていようと...
と、されているものばかりだ
想いながらも、堪えて待ち続ける、とはどういう意味だろう
想うからこそ、堪え続けるのではないだろうか

この歌の類歌...類歌といわれるだけではなく
「木綿間山」という、今でも所在の解らない固有(?)名詞が載っており
この「遊布麻山」、「木綿間山」は、いずれも「ゆふまやま」と訓む
四千五百首を超える万葉歌の中で、
この歌を含め、その類歌と二首だけが詠われている
その二首が更に「類歌」とされるのも、何かあるのかもしれない
類歌の方は、左頁に載せるが、そこでは、「隠れし君を」ではなく
「越えにし君が」と詠われている

ならば、この歌が「死」でないのなら、
名詞と捉えるのなら、「隠れ」という表現を使わずとも、と思ってしまう

私は、やはり死んだ「想い人」を、忘れ切れない悲しみの歌と、読んでしまう

ここまで自分なりの感じ方を書いて、
最後の句の語彙解説は、あまり影響ないだろうが...

おもひかねつも...「かねつ」が、一般的には、~しても仕方ない、不可能
ここでは、想うまい、想っても仕方ない...でも想わずにはいられない
と、いうような意味になると思う

それにしても、古語辞典は...これを使いこなす人を羨ましく思う
名詞だけの「語句辞典」だと、その意味も探し出せるが
古語のこれだけ細かい品詞の仕分けの中から
歌に使われている「語」を探すのは至難のことだ

たとえば、助動詞など、一字ごとに結ばれた語句もあれば
初めから、その複数の文字で一つの「語」を成すものもある
しかも、それぞれの意味も微妙に違うものや、ほとんど同じ、あるいは真逆など...

歌を一つ与えられて、その一字一字を古語辞典で拾い出せば
極端に言えば、全部拾い出せるだろう
それだけ、「助詞」が多いということだ
これまで、私も随分思い込みの使い方をしていると思う
何しろ「古典授業」など、まともに受けていないのだから...

まだ「私的古語辞典」の製作の方は、道のりは険しい
本サイトで採り上げた歌について順次、その語句を辞典に加えようとしているが
なかなか思うようにすすまない

なるほど...死ぬまで掛かっても、終らない、ということか
まあ、それもいいかもしれない
それだけ、時間を持て余すこともない、ということだろうから...

 










 「飛鳥から寧楽へ」...二人の女性...
   「檜隈」と「真弓の岡」

題詞にもあるように、和銅三年(710年)、平城京遷都はなった
『続日本紀』によれば、三月十日(太陽暦四月十七日)平城京に遷都とある
この題詞では、春二月とあるので
そこから、天皇家一行が、先行して遷居したものと見られている

そしてこの詠歌を、遷居の途中、御輿を長屋の原というところに停め
「古郷」を廻望して作る歌とある
この歌には、一書には、という形で別伝があり
太上天皇、つまり持統天皇の詠歌とも伝わっている

この二人にとって、「飛鳥」は特別な地であり
それぞれが亡き夫を、この地に残している
勿論、持統の場合はこの平城遷都の時にはすでに亡くなっているので
持統にとっては、狭義の飛鳥から、藤原宮に遷都するときだろう
天武の陵は、檜隈にあり、後に持統もそこに埋葬される

この平城遷都の時に、持統の詠歌が持ち出されたという見方なのだろうか

真弓岡陵の「草壁皇子」の方は、まだ確実な根拠はないとされる
現在の高取町から明日香の地域にかけてが
この皇子の舎人たちの挽歌に出て来る地名から推測されており
更に、「延喜式」諸陵寮に「真弓丘陵、岡宮御宇天皇...」と記載されており
「岡宮御宇天皇」とは、758年に孝謙天皇が淳仁天皇に譲位する時
草壁皇子に「岡宮御宇天皇」を追号している記事が『続日本紀』にある
それが今のところの根拠となっている

考古的学な確実な遺物(墓誌の類も含め)がない以上
素人の私が浅学でいくら想像を逞しくして真実に迫ろうとしても
それはこうした万葉歌の味わいには、少しも関わりがないことだ
昨日の「ゆふまやま」にしてもそうだが
「史書」とは違って、やはり万葉集は...とてつもない「歌集」なのだと...
解らないもの、知りようのないものは、そのままでいい
それはまた別な視点からの究明になるだろう
勿論万葉集は、史書に劣らない多くの手掛かりをも残している
しかし、今の私が惹かれているのは
記録の歴史ではなく、万葉時代の人たちの息遣いだ

だから、「観念的」なものであっても、そこにさえ魅力を感じる

二人の女性が、亡き夫を偲ぶ
その地が、さらに遠くになってしまう
持統の、藤原京から檜隈よりも
元明の、平城京から偲ぶ真弓の岡は、はるかに遠く感じられることだろう

どちらの遷都であっても、そこに二人の女性の積極的な意志は
あまり感じられなかった
この遷都は...どちらも藤原不比等によって推進されたものだろう

一に云う、見ずてかもあらむ...このことばが、染みてくる

掲載日:2013.05.27.


和銅三年庚戌春二月従藤原宮遷于寧樂宮時
 御輿停長屋原廻望古郷作歌 [一書云 太上天皇御製]
 飛鳥 明日香能里乎 置而伊奈婆 君之當者 不所見香聞安良武
         [一云 君之當乎 不見而香毛安良牟]
  飛ぶ鳥の明日香の里を置きて去なば君があたりは見えずかもあらむ
            [一云 君があたりを見ずてかもあらむ]
   とぶとりの あすかのさとを おきていなば きみがあたりは みえずかもあらむ
          [きみがあたりをみずてかもあらむ]
 巻第一 78 雑歌 (元明天皇
あなたとの思い出の詰まった飛鳥を捨てて行けば

もうあなたが眠る真弓の岡のあたりは

見られなくなってしまうのでしょうか...

(一云、あなたの辺りを、見ないでいられるでしょうか...)


とぶとりの...「飛鳥」にかかる枕詞
おきていなば...四段動詞「置く」連用形、後に残す、見捨てるの意味がある
接続助詞「て」、完了の助動詞「つ」の連用形「て」の転で
物事の順序を表わす、~て、それから
ナ変動詞「去ぬ」の未然形「いな」...行ってしまう
接続助詞「ば」、順接の仮定条件...~たら、~なら

きみがあたり...この作者が、仮に草壁皇子の妃阿閇皇女(元明天皇)であれば
この「君」は亡き夫草壁皇子となり、その墓のある「真弓の岡」をさす
題詞にもあるように、藤原宮より寧楽宮への遷都のときの詠歌なので
阿閇皇女ではなく、すでに元明天皇として詠んだもの
飛鳥の南西に位置する真弓の岡...藤原宮も広義では飛鳥といえるので
この歌に矛盾はないが
「一書に云うはく、」そこに太上天皇の詠ったもの、ともある
そうなると、狭義の飛鳥としてこの遷都の際の亡き人を偲ぶ歌は
太上天皇、つまり持統天皇のことであり、天武の墓所ということになる 

題詞に作者が記されていないのは、御輿を停めてということから
推測で「元明天皇」としてしまうが
持統の詠歌をこの場で、持ち出したのかもしれない

見えずかもあらむ...
「見えず」は、自動詞下二段「見ゆ」の未然形「見え」に、打消し助動詞「ず」
見ることができない、と解釈したい
それに、終助詞「かも」、~だろうか 

見ずてかもあらむ...
「見ずて」は、他動詞上一段「見る」の未然形「見」に、打消し助動詞「ず」

終助詞「かも」は、反語の意味に近くなる
見ずにいられるだろうか...見たくなってしかたなくなることでしょう...

いずれにしても、寧楽宮への遷都は、二人の「特別な」飛鳥との離別の歌だ


 








 「時代の非情さ」...壬申の乱、敗者の娘の孤悲...

  大伴田主の母、大伴旅人の母?

大伴旅人の父・安麻呂、巨勢郎女、ともに672年の壬申の乱の苦い思いを残す
大伴安麻呂は、時の天智朝では冷遇されていた大伴氏(長徳)の第六子
大化改新(645年)以後、長徳は栄誉を与えられたが
氏族としては、大伴一族はまだまだ政権の中枢には入れなかった
その境遇に不満を持つ長徳亡き後の大伴一族、大伴安麻呂は
叔父・馬来田、吹負、兄・御行とともに
大海人皇子(天武天皇)側に積極的に参加し、功績を挙げた
大伴氏が大海人皇子側についた、ということも
他の氏族たちの吸引力になり、この内乱の勝利に導いた

巨勢郎女の方は、その父・巨勢臣人が天智朝の御史大夫(後の大納言に相当)で
大友皇子の皇位継承に働いた
天智崩御の後、壬申の乱では近江朝側で、大海人皇子側と戦い
その敗戦後、一族は配流となる
巨勢郎女は、その娘として、敵将の大伴安麻呂を憎んでいたのかもしれない

この二人が、どんなきっかけで相聞を交わすようになったのかは
題詞などの資料では解らないが、少なくとも、後には安麻呂の妻となり、
当代きっての男振りを言われた、大伴田主を生んでいる
通説ではないが、旅人もあるいはこの巨勢郎女が母か、とも
ついでに言えば、旅人の母は、多比等娘、巨勢郎女など不詳とされている

二人の相聞歌は、この二首しかないので、あとは想像するしかない

安麻呂は、巨勢郎女が自分につれない、と詠う
そこには、安麻呂の「加害者意識」もあったのではないだろうか
いくら戦乱の世で、個人的な心情を問われるものではないにしても
その父親と命を懸けて戦ったのだ
そして、戦後に情けは入る余地もなかった
巨勢一族は、配流となる

しかし、ここで安麻呂が求め、それに応じている結果を見ると
この巨勢郎女は、安麻呂の妻になることによって、配流を免れたと思う
それが、女性の打算なのか、あるいは純粋な恋心なのかは解らない
今となっては...その歌の中で、気持ちを察するしかできない

私のこと、憎んでいるだろうが、私の妻になって欲しい
そんな安麻呂の気持ちを、じれったそうに巨勢郎女は返す
憎んではいません、私の想いこそ、届いてくれるかどうか...

そんな遣り取りがあったと思いたい
こうした異様な時代に、もう一つの「物語」を思い出す
いや、そもそも私にとって、壬申の乱は、このもう一つの「物語」が軸だった

大海人皇子の長子・高市皇子と異母妹となる額田王の娘・十市皇女
この二人も、まさにこの乱の最大の悲劇と思われてならない
高市皇子は、大海人皇子により、軍の総大将を任され、先頭に立って闘った
その相手こそ、倒すべき敵の総大将・大友皇子...十市皇女の夫だ

高市皇子が、幼い頃より十市皇女を慕っていたことは容易に想像できる
恋心も忍ばせていたことだろう
しかし、政略結婚ともいうべき大友皇子と十市皇女の結婚
高市の胸に渦巻く想いは、どんなにか辛かったことだろう
しかし、その想いを払うように、大友皇子を倒し、十市皇女を取り戻した
それで満たされたわけではない
むしろ、夫である敵の総大将を倒したことで
高市は以前にもまして...十市皇女に近づけなくなった
自らそうしたのか、あるいはそうせざるを得なかったのか、解らない

しかし、後に十市皇女が亡くなった時に詠む高市の皇女への挽歌には
その人を、死ぬまで守り通した律儀さを充分に伺える

   語らぬ想い、語れぬ想い

万葉集にたった三首を残し、当時の貴族層の嗜みとも言える詠歌は
他には一切ない...武人の印象だけを...残す皇子
それが、私には痛切に高市の想いを叫ばせているように思える
また、同じようにこの万葉の編者にも感心してしまう

天武の皇女である十市皇女の挽歌を
おそらく、多くの人もきっと詠ったはずだ
それにも関わらず、万葉の編者は...高市の三首のみを載せた
そこに、編者の二人に対する思い遣りを感じる
噂になっていても、二人は律儀にも逢うこともなく...乱後を生きていたのだ

こうした、悲劇は...安麻呂と巨勢郎女には起こらなかった
非情な時代の中で、二人は結ばれた...

掲載日:2013.05.28.


 大伴宿祢娉巨勢郎女時歌一首
 [大伴宿祢諱曰安麻呂也難波朝右大臣大紫大伴長徳卿之第六子平城朝任大納言兼大将軍薨也]
玉葛 實不成樹尓波 千磐破 神曽著常云 不成樹別尓
 玉葛実ならぬ木にはちはやぶる神ぞつくといふならぬ木ごとに
   たまかづら みならぬきには ちはやぶる かみぞつくといふ ならぬきごとに
 巻第二 101 相聞 大伴安麻呂
 
  巨勢郎女報贈歌一首 [即近江朝大納言巨勢人卿之女也] 
玉葛 花耳開而 不成有者 誰戀尓有目 吾孤悲念乎
 玉葛花のみ咲きてならずあるは誰が恋にあらめ我は恋ひ思ふを
   たまかづらはなのみさきてならざるは たがこひにあらめあはこひおもふを
 巻第二 102 相聞 巨勢郎女

〔101〕

玉のように美しい葛のように、実のならない木には

気性の荒い神が依り憑くといいますよ

その木だけでなく、あなたという木にも...


玉...ここでは、美称
葛はつる草の総称で、花が咲いても実のならない木として葛をいう
当時、花が咲いても実のならない木には、神仏が依り憑くという俗信があった
ちはやぶる...「神」の枕詞だが、本来の持つ意味は、激しい、素早い
かみぞつくといふ...前述の俗信を持ち出し、つれない人を実のならない木にたとえ
そのような人には、神が取り憑くらしい、と不安にさせている
ならぬ木ごとに...「ごと」...助動詞「ごとし」の語幹で、
ある一つの事実と他の事実が同じものだ、という意味
それに比況の格助詞「に」がついたもの
実のならぬ木と同じように、そんなにつれないと、あなたも同じですよ、と

〔102〕

玉葛のように花だけ咲いて実のならないのは

いったいどなたの恋なのでしょう

私は、こんなに恋したっておりますのに...

花のみ咲きて成らざるは...口先だけで実のない不誠実なもののたとえ
花だけ咲いて実がならないもののたとえに「玉葛」が使われたのは
雌雄異株の「びなんかずら」を念頭に置いたものという

誰が恋ならめ...(あなた以外の)どなたの恋なのでしょうか
疑問語(成らざるは)を伴って、
助動詞「む」が文末を已然形「め」で止めると、反語表現になる

 孤悲...万葉表記の中での「恋」の一つ

この表記が、もっとも心情に近い気がする
そもそも、恋歌は...切ないほどの「恋」だから詠わずにはいられないもの
その意味では、「孤悲」こそ...万葉相聞歌の「象徴」のように思えてならない

【郎女(いらつめ)】は、漢籍に見る「女郎」と同じだが、万葉の時代、奈良時代以前では
石川、大伴、巨勢、藤原の四氏に限って用いられており、
名門の女性であることを示している
ちなみに、男に対しては「郎子(いらつこ)」


 








 「激動の奈良時代」...家持の処世術...
 「詠わぬ家持へ」

この藤原八束の詠歌が、
天平年間(729年~748年)の早い時期に詠われたことは
巻第八の性格上、ほぼ間違いないとされる
ほぼ年紀順に配列されており、この歌の前後で年紀の記されている歌は
それぞれ、天平二年(730年)、天平八年(736年)なので
さらに絞れば、八束十五歳から二十一歳の間の詠歌といえる
そして、そのときの大伴家持は、十三歳から十九歳

この歌を十五歳の少年が詠むのは、とつい現代的感覚に捉われてしまうが
おそらく、当時の十五歳は、立派な大人なのではないだろうか
この時期は、729年の長屋王の変があったばかりで
藤原四卿の全盛時代といえる
その四卿の一人、房前の三男・八束もまた藤原権勢の側なのだが
この八束は、どうにも権勢に溺れる様子が感じられない
この詠歌の直後に、都を襲う大疫病で、四卿時代は終え
それぞれの次代が、熾烈な権力争いの真っ只中に身を置くことになる
中でも、四卿の長男であった武智麻呂の二男、仲麻呂の政局観は優れていた
従兄であるこの仲麻呂に、八束はどうしても親しみを持てなかったようだ

右の詠歌は、まだ四卿の存命時のことだが
父・武智麻呂の権威を大いに使い、兄・豊成をも凌ぐ勢いだったはずだ
そうしたエネルギッシュな従兄を、
八束は父親譲りの鷹揚さで見ていたのかもしれないが
次第に、その危険性を感じるようになっていっただろう

藤原八束の母は、四卿時代の後の第一人者、橘諸兄の妹、牟漏女王
仲麻呂が次第に専横を憚りく断行するようになる頃
廟政の二大勢力が鮮明に色分けされ始める
仲麻呂派と諸兄派...
八束が、諸兄の子、奈良麻呂とも親しくしたのは
こうした仲麻呂への反発も強かった...そこに、家持は靡こうとしている
大伴家の将来を、橘家に懸けたのだ
聖武上皇の存命中は、仲麻呂でさえ手出しは出来ない大きな勢力
そこに、家持は希望を持っていた
しかし、上皇も死に、諸兄もいない都は...もう誰にも仲麻呂を牽制できなかった
少しでも、その疑いをかけられると、その一族にまで累を及ぼす
そうした情況での、家持の処世術は...まさにこの藤原八束と同じだろう
いわば、中間派として、幾つかの謀議に参加を求められながらも
家持は頑なに固辞してきた...氏上としての責任もあったのだろう
八束のように、政局に無関心でいる振りさえしている

大伴の一族の中でも、家持の意に反して、仲麻呂打倒の謀議に加わった者も多い
それでも、家持は...大伴氏全体に与える影響を抑えるのに苦心している

今書きかけの「大伴家持」のページも、大詰めになっているので
大まかな私の家持像は、ほぼ出来上がっている
759年の因幡守として詠った年賀の歌が、万葉集の最後の歌になるが
家持は、それ以後785年まで生きる
「詠わない家持」が、二十六年間もある

そこに...これまで、政局の傍観者を貫いていた大伴家持の一大転換期を見る

詠わなくなった...少なくとも、詠歌の記録はない、この晩年の家持
ここに、「廟政」への関わりを見せていくことになる
あれほど積極的な関わりは避けていた家持だが
左遷ともいえる因幡守としての赴任は...家持に大きな決断を強いたのだろう
それまで、一度たりとも政変に名を浮かべることもなかった家持が
この後、仲麻呂打倒のグループとの謀議にも加わる
740年に筑紫で兵を挙げ謀叛を起こした藤原広嗣(四卿・宇合の長子)
その弟の宿奈麻呂は、その変での連座で配流の身となった経験を持つ
その宿奈麻呂の仲麻呂打倒計画に、家持は加わっている
それまでの中間派を決め込んだ姿勢とは一転している
しかし、計画が漏れ、再度罪に服す
この時、宿奈麻呂は、他の者を庇い、罪を一身に受けた
後に、仲麻呂の変の時は、仲麻呂を討ち、その恨みを晴らしている

782年の塩焼王の子、氷上川継に関わる宮中乱入の事件の時も
家持はその嫌疑を受け、平城京を退去させられている

あれほど、政争には距離を置いて
ひたすら大伴家の行く末の安泰を願っていた大伴家持が
詠歌を残さない時代の表舞台に、突然のように現れてきた
これはいったい何だろう

家持にとって、詠歌とは...大伴家を惜しむあまりの精神の拠り所だったか

そして、その大伴家の安泰が危ぶまれ出したとき...
家持は積極的に動かざるを得なくなった
それが...精神の拠り所を求める余裕もないほど、熾烈なものだったと思う

父・大伴旅人、山上憶良の時代を時に回想したこともあっただろう
その頃は、形だけでも、まがりなりにも「大納言家」として生きることが出来た
もうその時代は...はるか遠く...いにしへの「回想」になっていたのだろう

死ぬ時まで、人を見詰めて詠った父・旅人
家持は、どんな気持ちで、父を想ったのだろう...

掲載日:2013.05.29.


   藤原朝臣八束歌一首
棹四香能 芽二貫置有 露之白珠 相佐和仁 誰人可毛 手尓将巻知布
 さを鹿の萩に貫き置ける露の白玉 あふさわに誰れの人かも手に巻かむちふ
  さをしかの はぎにぬきおける つゆのしらたま
 あふさわに たれのひとかも てにまかむちふ
 巻第八 1551 旋頭歌・秋雑歌 藤原八束
 

牡鹿が萩の枝に刺して置いて行った露の白玉 

それを深い考えもなく、無造作に、

いったい誰が自分の手に巻こうと言うのか...

さをしか...雄の鹿「小牡鹿」、「さ」は接頭語、語調を整え、あるいは語意を強める
萩に貫き置ける露の白玉...萩の枝につく露を白玉に見立て、それを枝が貫く様
その細工を、あたかも「さをしか」がしたように言う
置ける...動詞「置く」の已然形、完了の助動詞「り」の連体家「る」
「置く」は、露や霜が降りる意味がある
露の白玉...「露」を美しい「白玉」にたとえ、「枝の緒」で貫くイメージ

あふさわに...副詞、見るなりすぐ、たやすく、軽率に、など...
同じ訓で〔2366〕がある

 開木代 来背若子 欲云余 相狭丸 吾欲云 開木代来背
  山背の久背の若子が欲しと言ふ我れ あふさわに我れを欲しと言ふ山背の久世
   やましろの くせのわくごが ほしといふわれ
               あふさわに われをほしといふ やましろのくぜ
 巻第十一 2366 旋頭歌 柿本朝臣人麻呂歌集出
 
山城の久世の若者が、欲しいと言う私 
何と軽はずみにいうのでしょう、あの山城の久世の若者は...
 


原文「相狭丸」、掲題歌では、原文「相佐和仁」
語義を解して漢字を当てれば「逢ふさ慌(アワ)に」とする説もあるが
この「あふさわに」...語義の定説はないようだ
尚、〔2366〕の歌は、この藤原八束よりも古い時代の、柿本人麻呂歌集出とある
この訓の根拠となるものの一つは、醍醐寺三宝院蔵『大毘盧遮那成仏経疏』
そこに「輙尓」の字の右に「アフサワ」とあり、その「輙」は『名義抄』に、
「タヤスク」、「ホシイママ」の訓があることに拠るものらしい
同訓の例で挙げた〔2366〕歌、「あふさわに我を欲しといふ」も
気安く、厚かましく、などの気持ちを表わしている

たれのひと...「たれ(し)のひと」、「し」は間投助詞、どんな人なのだ
かも...終助詞、疑いの意、~だろうか

ちふ...「という」の約

この八束の歌は、寓意か、ともされている
たしかに、そうして見詰めれば、不穏な時代の逼塞観も感じる
しかし、この時点では、まだ父・房前も存命している
八束の立場で、自身の身を案じることはなかった
あるいは、この頃には親しくしていたと思われる
橘奈良麻呂の気持ちを慮っていたのかもしれない
奈良麻呂とは...立場は異なっても、従兄弟同士になる
諸兄の宴席には、よく出席している
後の藤原氏と橘氏の関係を思うと...この頃すでに八束は...
父を含めた四卿の専横に...懐疑的だったのかもしれない

後の758年、恵美押勝と改名した諸臣らと共に官号改易に携わり、真楯となる
薨伝によれば、766年の死に際して、「真楯」を賜ったとあるが...

後の藤原家の隆盛を誇るのは、まさにこの北家真楯の嫡流だ
その栄華は...この激動の時代の、的確な処し方にあったといえるだろう

 






 「或本歌、一書歌曰」...類想に寄せる...
 編集ルールの一貫性がない、それが万葉集

この歌【2619】の左注には、「或本歌」と「一書歌」が載せられている
旧国歌大観では、こうした歌を左注に忠実に載せている
従って、その場合は【無番号】となっている
こうした載せ方にも、いろいろあって
左注ではなく、通常の歌の題詞として、或本歌、とか一書歌として
この【2619】のように、左注にありながらも、「異伝」として
番号を割り付けているものもある
その番号が、「新国歌大観歌番号」と呼ばれるものだが
本来ならば、【2619】歌は、こうかもしれない、という異伝
その意味のみであれば、【無番号】でも筋が通ると思う
しかし、異伝の該当する語句だけではなく
一つの歌として全句を載せるとなると、私には...
それも「素人からプロ」あるいは、無名人の歌まで
その幅広い「万葉集」の象徴の一つが、こうした異伝歌でもあると思う


 或本歌曰
 眉根掻 誰乎香将見跡 思乍 氣長戀之 妹尓相鴨
  眉根掻き誰をか見むと思ひつつ日長く恋ひし妹に逢へるかも
   まよねかき たれをかみむと おもひつつ
 けながくこひし いもにあへるかも
 巻第十一 2620 正述心緒 作者不詳
 眉根を搔いて、
 誰かに逢えることなのだろう、と思っていたら
 長い間恋していたあの人に逢えた
日長く恋ひし...恋ふの主語は作者
 
 一書歌曰
 眉根掻 下伊布可之美 念有之 妹之容儀乎 今日見都流香裳
  眉根掻き下いふかしみ思へりし妹が姿を今日見つるかも
   まよねかき したいふかしみ おもへりし 
 いもがすがたを けふみつるかも
 巻第十一 2621 正述心緒 作者不詳
 眉根を搔いて、内心妙だな、と思っていたら
 あの人の姿を今日見ることができた
 
思へりし...思ふの主語は作者 


この異伝の二首...訳し方にもよるだろうが、やはり微妙に違う
勿論、だからこそ「異伝」として載るのだろうが...

古写本の積み重ねである「万葉集」では、
この歌番号自体も、多くの異説がある...つまり誤写や混乱
そうした中で、積み上げられた研究成果が、「新国歌大観歌番号」につなる
しかし、すでに「旧国歌大観歌番号」で「万葉集」が親しまれており
新たに、新番号を付すのは混乱させるだけ、との理由も聞く

どれが正しい、と言う問題でもなく
どれが、幅広く認知され、解り易く伝わっているか、ということ
それが大きな原因になっている、と私は解釈している
類歌のように、確かに「歌意」は同じでも、その語句は様々ある
そして、まったく同じ「歌」までも、それぞれに番号が付くものもある
厳密に万葉集を精査すれば、おそらくかなりの歌が...削除されるだろう

しかし、それでは、万葉集とはならない
多くの類似の歌、あるいはそれが誤写で伝わったものが解った場合でも
一つの「時代の歌」として...やはり残るべきものだと思う
そもそも、家持以前の編者にしても、そして家持にしても
歌の記録だけを目の前にして、どこまで整然と整理できたのだろう
当時でも、多くの写本が行われたはずだ
その一字一句の精確さを、当時に求められるだろうか
何度も繰り返される「写本」...
そこに、当時...時代時代の研究も加わり、手が加えられる
そうしたものをベースにして、また幾つかの種類に分かれる
どの校本、どの底本が、紛れもなく「原万葉集」だ、と言い切れない
どれだけ研究が進もうと...今となっては、本当の万葉集の姿は見えない
ならば、歌として伝わるもの...その評価はともかく
「時代に残った歌」として...「歌番号」は必要だと思う
それが、いくら左注の異伝であっても..

右頁のように、〔2412〕と〔2819〕のように、説明を付けて
元歌を変えたような編集もある
すると、そのような明確な意思を見せる場合もあれば
まったく説明もなく、同歌が載せられることもあるので
やはり、長い期間を費やしての編集、そして編者の交代など
これだけの歌集になると、なかなか検収もままならぬもの、と
つくづく思う...コンピュータのない時代に
四千五百首以上の歌を編集するなど...考えただけでも、気力は失せてしまう




掲載日:2013.05.30.

 古今相聞往来歌類上
眉根掻 下言借見 思有尓 去家人乎 相見鶴鴨
 眉根掻き下いふかしみ思へるにいにしへ人を相見つるかも
   まよねかき したいふかしみ おもへるに いにしへひとを あひみつるかも 
或本歌曰 眉根掻 誰乎香将見跡 思乍 氣長戀之 妹尓相鴨
/ 一書歌曰 眉根掻 下伊布可之美 念有之 妹之容儀乎 今日見都流香裳 
 巻第十一 2619 正述心緒 作者不詳
 

ふと、眉根を搔いて...あれっ、誰か想ってくれている人に

逢える、ということなのかなぁ

と内心、妙だなぁ、と思いながら期待していたら、

昔なじみに逢ってしまった


「眉根搔き」は、後段で纏める
したいふかしみ...「下」は、心の奥、心底
いふかし...形容詞「いぶかし」の上代語「いふかし」に接尾語「み」が付き
次の「思ふ」の内容を表わす連用修飾語を作る
「いふかし」そのものには、不審に思うの意がある
思い当たる節もないのに...と言う意味になりそうだ

いにしへひと...昔なじみ、旧知の人で、しばらく逢っていない人
あるいは、昔の...別れた恋人か

「あひ」は、接頭語「相」だと思う...共に
みつるかも...動詞「見る」の連用形「み」に、完了助動詞「つ」の連体形「つる」
出会ってしまった...

かも...詠嘆の終助詞

「或本歌、一書歌」については、左頁に載せる

「眉根搔き」
この時代、眉がかゆかったり、くしゃみが出たり、
下紐が自然に解けたりするのは、
恋人が自分に逢いたがっているしるし、
または近く恋人に逢える予兆と考えられていたようだ

『俊頼髄脳』に、
「恋しき人を見むとする折には眉のかゆきなり。それにとりて左の眉はいますこし疾く叶ふなり。鼻ひることは人に上言はるる時、ひるとぞいへる」と...


万葉歌の中で、その具体的な様子を詠った歌がある

 古今相聞往来歌類上
 眉根削 鼻鳴紐解 待哉 何時見 念吾
  眉根掻き鼻ひ紐解け待つらむかいつかも見むと思へる我れを
   まよねかきはなひひもとけまつらむかいつかもみむとおもへるわれを
 巻第十一 2412 正述心緒 柿本朝臣人麻呂歌集出
眉を搔き、くしゃみをし、下紐も解けて...
きっとそんな状態だろう、早く逢いたがっている私なのだから...
 
鼻ひ...「鼻火」、ハ行上一段動詞「はなひる」だが古代では、上二段「鼻フ」
くしゃみをする
らむか...現在の事実について、想像・推量の助動詞「らむ」の連体形に
詠嘆・感動の終助詞「か」、今頃~しているだろうなあ...
いつかも、の「も」...仮定希望の係助詞
 
 君戀 浦經居 悔 我裏紐 結手徒
  君に恋ひうらぶれ居れば悔しくも我が下紐の結ふ手いたづらに
   きみにこひうらぶれをればくやしくもわがしたびものゆふていたづらに
 巻第十一 2413 正述心緒 柿本朝臣人麻呂歌集出
あなたに恋して、心がしずんでいると
残念なことに、私の下紐を結ぶ手が...空しい
 
うらぶる...わびしく思う、悲しみに沈む...「うら」は心の意
くやしくも...「結ふ」にかかる、無念だ、残念だ
下紐が解けたのは、相手に思われているからだ
でも、逢えると信じて下紐を結んでみたが...逢えなかった
いたづらに...は、効果がなく、無駄に、空しい、の意、

しきりに下紐が解けるので、恋人に逢えるものと期待したが、
相手が来なかったのを恨んだもの
「くやしくも」、残念だが・・・いたづらに、「無駄だった」
「いたづらに」の原文「徒」を「タユシ」との訓もある
 
 
 眉根掻 鼻火紐解 待八方 何時毛将見跡 戀来吾乎
  眉根掻き鼻ひ紐解け待てりやもいつかも見むと恋ひ来し我れを
   まよねかきはなひひもとけまてりやもいつかもみむとこひこしわれを
 右上見柿本朝臣人麻呂之歌中 但以問答故累載於茲也
 巻第十一 2819 問答 柿本朝臣人麻呂歌集出
左注のいうように、2412歌の少異歌、問答なので(次歌2820と)、
ここに再び載せる、と
少異は問答仕立てによる改変
「待てりやも」は、男の問いかけ
完了「り」、疑問「や」、詠嘆「も」
いつかも-いつ(し)かも、いつ(し)かで始まる疑問文は、
いつになったら~することだろうか、の意だが、気持ちとして、
早く~すればよい、早く~したい、という希望が込められている
恋ひ来し...日々恋しく思って、いまやって来た
 
 今日有者 鼻火鼻火之 眉可由見 思之言者 君西在来
  今日なれば鼻ひ鼻ひし眉かゆみ思ひしことは君にしありけり
   けふなればはなひはなひしまよかゆみおもひしことはきみにしありけり
  右二首
 巻第十一 2820 問答 柿本朝臣人麻呂歌集出
あなたがおいでになったのが今日だったからですね
鼻がむずむずし、くしゃみも何度も出て、眉がかゆいと思ったのは...
あなたは想って来てくださったから...
 
鼻ひ鼻ひし...前述、くしゃみの強調
眉かゆみ思いしことは...ミ語法+思ふは、~だと思う、の意
 


〔2819〕、〔2820〕は問答として組になっている
以上の他にも、こうした俗信に基づいた詠歌は多い

そうした背景を、歌の中で具体的に知ることもあれば
その俗信が前提で詠われているものなど
解釈にも大きく関わるものもあるだろう

私など、こうした俗信を知らなければ、
とんでもない解釈をしていたことだろう...

単に歌集の歌心に浸るだけではなく
当時の世俗的な風習なども、やはり知っておくべきなのだ、と痛感する





 「問答歌と贈答歌」...見知らぬものと問答...
 百数十首に及ぶ「問答歌」

そもそも、問答歌とは何だろう
語感から受ける印象では、何やら堅そうな難しい歌のように思えていたが
結構相聞歌とも同じように恋心の詠い合いの態もある
山上憶良の「貧窮問答歌」が、あまりにも有名で
そこから、人の内面に潜む哲学的な...例えば「生と死」のように
簡単には手を出せない...
言ってみれば、読む際には、ある程度の自分の人生観、死生観を用意して...
そこで初めて「問答歌」に向える...そんな気がしていた
もう何年も前の私は、本気でそう思っていた
だから、贈答歌のような相聞的な歌には、どんどん立ち入ることができたが
問答歌は...長歌と並んで、私の「高み」への意欲が起こるときでないと
なかなか読めなかった
しかし、問答歌の実態を知ると、右頁の歌のように、相聞歌のようだ
そんな問答歌が多くあった
そこで、ならば「問答歌と贈答歌」...
形式的には、相聞歌であっても、独詠的な歌もあるが
贈答歌は、問答歌と同じように、必ず...いや、ほぼセットになっている
贈答歌の中で、一方的な贈歌の場合も多くあるので...
しかし今回は、贈歌それに対して答歌、という意味で、問答歌との違いを調べてみた

もう一組、例歌を挙げておく

  古今相聞往来歌類上
 念人 将来跡知者 八重六倉 覆庭尓 珠布益乎
  思ふ人来むと知りせば八重葎覆へる庭に玉敷かましを
   おもふひと こむとしりせば やへむぐら
 おほへるにはに たましかましを
 巻第十一 2835 問答 作者不詳
想う人が来ると知っていましたら
幾重にも雑草の覆ったみすぼらしい庭に
立派な玉を敷きましたものを
 
やへむぐら...雑草、荒れ果てた家の譬
玉敷く...美しい石を敷き詰める
(客を迎えた挨拶の歌)
 
 玉敷有 家毛何将為 八重六倉 覆小屋毛 妹与居者
  玉敷ける家も何せむ八重葎覆へる小屋も妹と居りせば
   たましける いへもなにせむ やへむぐら 
 おほへるこやも いもとをりせば
 右二首 
 巻第十一 2836 問答 作者不詳
玉を敷いた家であったとしても、何になろう
幾重にも雑草に覆われた小屋でも
あなたと一緒にさえいられたら、それでいい
 
 
何せむ...何の役にも立たない

今日の二組の問答歌で一目瞭然なのは、必ず問歌があって、答える歌がある
この形式こそが、問答歌の一番の要件だという
贈答歌には、贈る歌に対して、必ずしも対になっての返歌とは限らない

中島光風、東京帝大出身の国文学教授
1945年出版の非常に古い本だが、その著書『上世歌学の研究』
その中の「問答歌論」に、私なりの答えを見た
問答歌の成立には、以下の要件を挙げている

以下抜粋

 (1)一人で、あるひは二人(もしくはそれ以上)で協同して、創作したと考へられる場合。
 (2)古歌をそのまま借用し又は改作して問歌あるひは答歌とし又はこれを組み合はせて問答歌としたと考へられる場合。
 (3)贈答の歌をそのまま持って来て問答歌としたと考へられる場合。
 (4)歌舞劇の唱和の部を独立せしめて問答歌としたのではないかと考へられる場合。

この四種の場合があることを指摘し、贈答歌との相違について
「・・・これは贈答歌の要件(1)、贈答歌には二人(又は二組)の作者が存在しなければならない、の規定を乗り越えるものであって、問答歌においては個々の歌の作者が誰であるかは問題にならず、それよりも問歌と答歌との組み合わせそのものが重要性を持っていることを示すものである。」と述べている

更に、贈答歌が「贈者と答者と二人の作者の存在を必要とする。贈者は答者を対象として贈歌を作り、これに対して答者が答歌を作って応答したときはじめて贈答歌が成立するのである。かくのごとくして贈歌と答歌はたがひに対応し、しかしてその背後に贈者と答者との人格の対峙がある。贈者と答者とがそれぞれの位置を守り、その位置にに立って応酬交情するところに贈答歌の世界が作られるのである。」

これに対して、問答歌は同じように問者と答者との対峙はあるものの「そこには作者と作者との対峙はない。作者が誰であるかは問題にならず、それよりも肝腎なことは問歌と答歌との対立-組み合わせであり、その組み合わせによって生れるものである。贈答歌において結果としてあらはれるもの、それが問答歌の目標となるものである。問答歌が必ずしも二人の作者の存在を必要とせず、又古歌を借用し、又はこれを改作して材料とすることを許される理由がそこにある」

それでも、両者の間には難しいようで「両者の間にはっきりした境界線を引くことは実際的には困難である。」とも言う

勿論、この論説には反論も多く、いくつかの問答歌を引き合いに出して
問答歌は、問者と答者が同じ場所で歌の掛け合いをして、
その対立から醸し出す雰囲気を味わったものだ、という学者もいる
中島光風自身が、両者の境界線は難しいという消極さに
積極的にその境界線を引こうとして、持ち出される説だ

しかし、昨日付け(30日)で、問答歌を一組【2819、2820】挙げたように
その一組の問答歌は、問歌〔2819〕の方が、
柿本朝臣人麻呂歌集出・正述心緒〔2412〕として別番号ですでに歌集にあり
その歌を「問答歌」の「問歌」とすべく少し改作して問歌〔2819〕とした
そう左注にわざわざ述べられている
このような編集は、結構見られるもので
それを踏まえれば...やはり、中島光風の指摘する要件は...理解が容易い

ちなみに、中島光風の教え子に、私の好きな作歌、阿川弘之がおり
彼の小説『春の城』の「矢代先生」として登場していた
...被爆死であった

掲載日:2013.05.31.

 古今相聞往来歌類上
音耳乎 聞而哉戀 犬馬鏡 直目相而 戀巻裳太口
 音のみを聞きてや恋ひむまそ鏡直目に逢ひて恋ひまくもいたく
   おとのみを ききてやこひむ まそかがみ ただめにあひて こひまくもいたく
 巻第十一 2821 問答 作者不詳
 
此言乎 聞跡 真十鏡 照月夜裳 闇耳見 
 この言を聞かむとならしまそ鏡照れる月夜も闇のみに見つ 
  このことを きかむとならし まそかがみ てれるつくよも やみのみにみつ
 右二首 
巻第十一 2822 問答 作者不詳 


〔2821〕

便りやうわさを聞くだけで、逢いもしない人を恋するだろうか

まそ鏡に映るように、きっぱりと直に逢って、恋したのなら...

それはそれで、心を痛めるほど苦しいものだろう

おと...声、響き...ここでは、「便り」、「うわさ」
おとのみをきく...うわさだけを聞く、人づてだけに聞く
や...疑問の係助詞、~だろうか
こいむ...ハ行上二段動詞「恋ふ(こふ)」の未然形に、推量の助動詞「む」
「ききてやこひむ」...聞いて恋することがあるだろうか...

まそかがみ(真澄鏡)...綺麗に澄んではっきり映る鏡、(ますみかがみ、まそみかがみ)
「まそかがみ」が枕詞だとすると、「ただめにあひて」に懸かる
枕詞で懸かるのは、「見る」「向ふ」「うつる」「みぬめ」「清し」「照る」「面影」
「磨く」など、鏡の使いみち、状態から想起される語

原文の「犬馬鏡」については、後段に記す


ただめにあひて...原文「直目相而」は、底本には「目直相而」とあり、
それが誤写という説(万葉集新考)に基づいている
ただ...副詞、じかに、直接に
め...見ること、出逢うこと


こひまく...動詞「恋ふ」未然形に推量助動詞「む」、「恋ひむ」、
その「む」の上代の名詞形を作る「まく」
いたく...形容詞「いたし」の中止形、精神的に苦痛、苦しい、など...


〔2822〕

この言葉を、聞こうとしていたのかもしれません

真澄鏡のようにすっきりと照る月夜までも

これまでの私は、闇夜として見ていました...

何故闇夜であったのか、理由が解りましたよ
ここでも、底本の誤写と判断して、訂正している...原文の第二句「聞跡平」
諸本では「聞跡乎」とあり、万葉集新考の説による修正
きかむとならし...「とならし」は「とテなルらし」の約
~というつもりらしい、の意になる
(その言葉によって、過去の闇に思い至った)
ここでの「真澄鏡」は、「照る」に懸かる枕詞
闇のみに...「に」は結果を示す格助詞、~と
見つ...動詞「見る」の連用形「み」に、完了の助動詞「つ」、見ていた

この二首は、男が女の所へなかなか行かないのも
逢った後の恋の苦しさを予感して、それで逢わないのだ、と言い訳めいた歌
それに応える女の歌では、どうして来ないのか解らず
どんなに月が明るく照っていようと
まるで、闇夜を中にいるようでした
でも、そのお心を、やっと解りましたよ、という...皮肉っぽい返歌

そこまで恋しいと言うのなら、
その先まで考えないで来てください...本当に、恋しいと思われていますか
そんな悲しみの声が、胸の内に響いているのが聞こえてくる

「犬馬鏡」
この原文表記の訓の根拠となるのは、〔2653〕歌の脚注による

 古今相聞往来歌類上 
 宮材引 泉之追馬喚犬二 立民乃 息時無 戀渡可聞
  宮材引く泉の杣に立つ民のやむ時もなく恋ひわたるかも
   みやぎひく いづみのそまに たつたみの やむときもなく こひわたるかも
 巻第十一 2653 寄物陳思 作者不詳 
宮殿の材木を切って引き出す泉の杜山に働く民のように、
心休む時なく、働き続けるのだなぁ
 

「杜(そま)」の原文「追馬喚犬」は、
馬を追う時、犬を喚ぶ時のそれぞれの声「そ」、「ま」に拠ったもの
これは戯書といわれるもので、万葉集中にもかなり使われている

「戯書」というのは、「義訓」より戯れの度合いを強めて、
連想・類推に基づき、その漢字の意味・音・訓とは掛け離れた読みを与えるもの
例えば、「二々火(死なむ)」「十六(猪:シシ)」「二八十一(憎(ニクく)」など

ついでに「義訓」と言われるのは
「寒過暖来良思(冬過ぎて春来るらし)」「丸雪(あられ)」
そして、私が秀逸だと思うのが、「欲得(ガモ:願望の助詞)」)


 

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