用字法と読み方   参考:日本古典文学全集、小学館


 上代の文献すべてがそうであるように、万葉集も漢字ばかりで書かれている。題詞・左注などの漢文表記の部分は勿論、歌も漢字で書かれており、そのためにいかにそれを読むべきかが、万葉集研究の基礎にして最も重要なテ-マとなっている。その場合、「古事記」や「日本書紀」は、その中にそれぞれ120首ばかりの歌謡を含んでいるが、全体としては散文が主であり、それらの筆録者は歌と散文との境目を際立たせるために、歌謡は音仮名、散文は漢文表記、という書き分けを建前とし、結果的には散文(漢文)の中に、ところどころ歌謡(音仮名)を挟み込んだ形になっている。その点、歌集である万葉集では比重が逆転するが、見方を変えればこれとても漢文の中に歌が挿入された形式ともいえよう。それゆえに、万葉集は中国人が書いたものか、と質問があっても、あながちそれが奇問と退けることができないほどである。
 ただ万葉集の多様性はこの用字の面でも指摘でき、巻によりまた原資料により千差万別といってよい複雑な様相を示している。即ち、記紀に見られるほど整然としてはいないが、巻第五や十四・十五などのように音仮名表記を原則とする巻があるかと思えば、散文に近い順漢文式の語順表記や助字の使用が目立つ箇所も少なからず存する。特に「柿本朝臣人麻呂歌集」の中には「遠山霞被益遐妹目不見吾恋(とほやまにかすみたなびきいやとほにいもがめみねばあれにこひにけり)」(2426)のような詩賦紛いの表記のものがあることは知られている。しかし、その間に「「得田価(うたて)」「小竹櫃(しのひつ)」「田菜引(たなびき)」のような借訓が混じっていたりして中古の人々をして「文句錯乱して、詩に非ず賦にも非ず、字対雑揉、入り難く悟り難し」(新撰萬葉集序)と嘆かせることになるのである。
 

 この無秩序ともいえる複雑な音訓表記をなるべく体系的に分類・整理しようとした人々の代表的存在が、近世末期に現れた春登上人である。春登はその著「万葉用字格」において、(一)仮字、(二)訓語、(三)借訓、(四)戯書の四つの分類を示した。
 (一)仮字は漢字の音を借りて国語を写そうとする、いわゆる万葉仮名と呼ばれるものであり
 (二)訓語は漢字が本来持っている表意性を生かした表記の仕方である。
彼は更に(一)を正音と略音とに分け、(二)を正訓・義訓・略訓・約訓と細分したが、このうちの略訓(枕詞「ちはやぶる」を「千石破」と書く、その「石」はイハの略訓とする類)と約訓(約音化したトキハを「常磐」と書く類)とは、(三)借訓または純粋な正訓の中に収めるべきであったり、音韻現象の問題と表記法とを混同したりしていて、今日から見れば部分的に修正する必要がある。しかし、今は一部にその分類の名だけを借り、あらたに字音語を音仮名(仮)の中から取り出して別項として、多少例を示しつつ概説する

 音仮名

 中国本土でも早くから梵音漢訳にこの技法が用いられ、「魏志倭人伝」や「隋書」でも倭語を漢字の音を利用して表記している。やがて日本人も金石文や推古期遺文などに同じ方法を用い、それが記紀にも受け継がれたこと、そして万葉集もこの音仮名表現を縦横に活用したことは前述の通りである。今、便宜上、「阿(あ)」「安(あ)」などの一音仮名と「欝瞻(うつせみ)」「越乞(をちこち)」などの二音仮名とに分けて考えてみる。
 一音仮名と仮に呼んだ仮名用法は、漢字一字を国語の一音節に当てた用字法である。春登はそれを正音と略音とに分けたが彼の漢字音に関する知識が常識の範囲を出ず、正音・略音の区別も必ずしも正確でないため、その名称だけを借りて、ここでは次のような分類を設ける。日本語は開音節語に属し、ka・sa・ta・bi・ku・moなど、すべての音節の末尾が母音で終わると言う音韻的特色を有する。これに対して中国語は開音節の語(文字)もあるが、それ以上にtung(東)、kiet(結)などのような、中心母音の後に子音(韻尾)が付いた語も多い。いわゆる閉音節語なのである。万葉仮名についていえば、「阿(あ)・可(か)・佐(さ)・多(た)・奈(な)・波(は)・麻(ま)・夜(や)・羅(ら)・和(わ)」のような、韻尾のない字を用いる場合を正音、そして、「安(あ)・甲(か)・散(さ)・難(な)・方(は)・末(ま)・良(ら)」など、韻尾のある字の韻尾を省略して用いる場合を略音と考えることにする。
 万葉集の全体的傾向としてはなるべく正音を使おうとする方向にあるが、記紀に比べると略音が多くなっている。ことに「日本書紀」では鼙(へ)や邏(ら)のような、字画は多くても正音の字を並べる傾向が認められるが、万葉集では略音でも、また発音の上で多少の食い違いがあっても、字画の少ない良(ら)・末(ま)などの文字を使おうとしている。これは正倉院文書の戸籍の人名表記や宣命などでも一般にそのようで、奈良時代、ことにその中期以降に、仮名字体の簡便化の風潮が見られるようである。

 略音は韻尾のある字を、その韻尾を除いて使用する用字法といったが、漢字の韻尾にはm・n・ng・p・t・kの六種があり、その六種のいずれにも仮名用法の例はあるというものの、その間で使用に多少の偏りがみられる。数量的にn・ngが多く、tがこれに次ぎ、k・m・pの順に少ない。その実例を韻尾の別によって示すならば、m-南、n-安・君・ng-曾・p-甲・t―吉・末・k-則・欲などがその例である。このとき、省略されたはずの韻尾が往々にして次の仮名の頭子音と同じであったり、似ていたりすることがある。例えば、ヒトを必登と書き、そこ(其所)を則許と書く類である。勿論、安思必寄能(あしひきの)とか則能(その)とか書く反証例も多いが、唇内韻尾のm・pに限っては、「情有南畝(こころあらなも)」(18)、「神南備(かむなび)」(1777他)、「甲斐(かひ)」(国名)など、その次にm・b・pなどの頭子音を持つ文字が続く。これは唇内韻尾が省略されにくかったことを示すと同時に、一音仮名を正音と略音というふうに分けることの不合理さを示すともいえる事実である。

 二音仮名は、韻尾のある字に母音a・i・u・e・o及び乙類のï・ë・öのどれかを付けて国語の二音節に当てる用字法である。先に述べた略音と逆といってよい。量の上では一音仮名に比してはるかに少ないが、地名を主とする固有名詞を表す場合に特に多く用いられる。和銅六年(713)五月に、諸国郡郷の名は好字を著けよとの勅令が出され、「延喜式」(民部)にも、いずれも二字に統一せよとある、その制限がこの傾向を助長した。塩冶(やむや)・和蹔(わざみ)・信濃(しなぬ)・雲飛(うねび)・相楽(さがらか)・当麻(たぎま)・愛甲(あゆかは)・邑楽(おはらき)・乙訓(おとくに)・葛飾(かつしか)・筑波(つくは)・博多(はかた)などがその例である。人名にも宇合(うまかひ)・淡等(たびと)・淡理(たもり)などの例があるが、地名の場合には及ばない。
 この二音仮名が歌の中に用いられた例としては、m-所知食兼(しらしめしけむ)・欝瞻(うつせみ)、n-不飽君(あかなくに)・難可将嗟(なにかなげかむ)、ng-当都心・鍾礼(しぐれ)、p-名豆颯(なづさふ)・雑豆臘(さひづらふ)、t-越乞(をちこち)・泊瀬越女(はつせをとめ)、k-福路(ふくろ)・恋幕思者(こひまくおもへば)などがある。ただし、固有名詞の表記では八種の母音が自由に付いているのに対して、歌中にあっては口の開き方の狭いi・uに集中する。öが付いた「泊瀬越女」の越がわずかに例外となる。また、すべての古写本に「鳥穂自物」(210)とあるのを「烏徳自物」の誤字とするのは賀茂真淵説によったもので、これに対する「或本の歌」(213)に「男自物(をとこじもの)」とあるのに照らせば無理がないように思われるが、「徳」を「トコ」と読むのは、「仲哀紀」に「徳勒津宮(ところつのみや)」という地名の例があるとはいえ、不安がなくもない。
 ついでに言えば、巻頭第一の歌の中にこの問題と関連して考えるべき箇所がある。

 籠もよ み籠持ち ふくしもよ みぶくし持ち この岡に 菜摘ます児 家吉閑名告紗根・・・(1)

この「家吉閑」を「イヘキカナ」と読み始めたのは木村正辞の「万葉集美夫君志(みふぐし)」の説だが、もしその訓に従うならば、「閑」をカナの二音仮名と解することになり先に述べたところと抵触する。「日本古典文学全集」では「々」を加えて「家吉閑名々告紗根」とし、「家吉閑名」の四字で「イヘキカナ」と読んだ。「閑」をカの略音仮名と見なしたわけで、「完訳日本の古典」もこれを守り、それぞれに、これが暫定的処置である旨をことわってある。即ち、「閑」は「広韻」では戸間切で匣母山韻ということになり、頭子音が匣母ならば濁音字のはずだし、また山韻ならば、日本語のア段音を写すのに多用される寒韻anより口の開き方が狭い山韻änで、例えば、山・間・閑・樫・産・限・簡・眼などの諸字がこれに属し、その点からもカやカナの仮名であり得ない。更にいえば、上代語の「聞く」に問い尋ねる意を認めることはまず不可能であろう。そこで「日本古典文学全集」では、「吉」は「告」の誤り、「閑」はセの訓仮名、とし、ノラセと読む説に従っている。
 また巻第十六の戯笑歌の一つ、

 法師らが 髭の剃り抗 馬繫ぎ いたくな引きそ 僧半甘 (3868)

の第五句を歌意から推してホフシハナカムと読んだが、その結果、「半」をハナ、「甘」をカムのそれぞれ二音仮名と認めることになったものの、実のところ確信ある訓と言い切れない。

 
 訓仮名

 訓仮名は春登のいう借訓にほぼ当たる。語の内容と関係なく、国語訓を借りて、同音異義語を利用し、写そうと思う語の形式を示す表記法である。この用字法は歴史的には音仮名表記よりも古かったとさえいわれ、記紀では神名や人名、地名をはじめ日本語独特の慣用語を写すには、音仮名よりも多く用いられた。胆(い)・寸(き)・磯(し)・千(ち)・丹(に)・卯(う)・来(く)・酢(す)・津(つ)・沼(ぬ)などの単音節語を用いた一音相当と、言借(いふかし・訝しい)・牛吐(うしはき・領有し)・鉇染(かなしみ・悲しみ)・夏樫(なつかし・懐かしい)・慍(いかり・錨)・空消生(そらにけなまし・生シは鮮度が高い意の形容詞)などの二音以上の場合とに分けられるが、音仮名における一音と二音との差ほどには意味がない。また二字連続して一音を表す嗚呼(あ)・五十(い)・羊蹄(し)・海藻(め)なども目に付くが、五十日太(筏)・何如荒海藻(いかにあらめ)など三字以上の連続もこれにすぐ続き、更に言えば、この後に述べる戯書との違いさえ、分類する人の興味の持ち方の差でしかない。
 なお、この訓仮名と音仮名との相関、特に両者の混用について一言するならば、万葉集のみならず上代文献全体を通じて、表記者の意識ないし知識に両者を画然と分かつ弁えが必ずしも十分になかったらしいといっていい。確かに、香・死・洲・辺・雄のように、偶然、音訓通用の文字がある。部の字も筋から言えば訓仮名であるべきだが、音仮名扱いされたような形跡があり、先の諸字に加えてもいいかと思われる。津・江は明らかに訓仮名でありながら音仮名としばしば共存する。実例を示すと、記紀に於いても、地名の磯城を「師木」と書き、蘇我赤兄(そがのあかえ)の娘で、天武天皇の夫人となり穂積皇子らを生んだ「オホヌ娘」を「大蕤」と書いたなどがその一例である。念のためにいえば、「蕤」は儒隹切、呉音ヌイ・漢音ジュイで、これをヌの仮名に用いるのは追・類を国語音ツ・ルを写すのに用いるのと同じである。万葉集においては、この種の音訓混淆は、巻第五などの音仮名使用を中心とする一部の巻を除けば、その例は珍しくない。開巻早々、(美籠)母乳(もち)、(押)奈戸手(なべて)、(師吉)名倍手(なべて)、加萬目(かまめ)、(今)他田渚良之(たたすらし)など相次いで現れ、「保杼毛(ほどけ)(友)」(775)のごとき特例扱いにするのは無用のことだろう。(赤字は音、黒字は訓) ただ、巻第五や十四・十五など音仮名を主とした巻においては、訓仮名がその中に混じっていると目立つことがある。巻第五の末尾近くにある山上憶良の「老身重病経年辛苦及思児等歌」の長歌(902)の中の「事母無裳無母阿良牟遠(事もなく、裳なくもあらむを)」の「裳」の字は「喪」の誤りでないか、という説があり、それなりに一理ある指摘ではある。しかし、音訓仮名が混淆しないというのは、一般的傾向であっても絶対的法則ではないし、また巻第五でもその後半は正訓字も多く、その中に借訓が混じっていても咎め難いのではなかろうか。そういえば、少し事情は異なるが、同じ山上憶良の貧窮問答歌(896)の中の「可麻度柔播(竃には)」の「柔」も、表記者は訓仮名のつもりであったとも考えられる。となれば、柔は耳由切で、久・玖・九・周・州・受・不・負・牟・留・流などと同韻であり、したがってヌの仮名ではあり得ても、ニの音仮名とは認められない。「柔膚」などのニキの下略の略訓、と表記者は思ったものか。なおこれには、偶然の一致か巻第十五に「柔保等里」(3649)の類例がある。これも表記者に今日のわれわれと同じような弁別がなかった例とみることができる。更に言えば、巻第十七の家持自記と思われる歌(3972)の下二句「念意緒多礼賀思良牟母(思ふ心を、誰か知らむも)」の「緒」の字も音仮名中の訓仮名である。おそらく「心緒」「恋緒」「悲緒」などの漢語への連想が働いたのであろうが、音仮名と訓仮名との間には画然たる線が引きにくいということを示す例に数えてよかろう。万葉集の特色の一つである多様性はこの表記の面でも指摘でき、黒白の堺目があいまいな、いわば継ぎ目のない非連続の連続の相を呈している。


 戯書 
 
 戯書は訓仮名の一種といってよい。ただ、受け取る側の主観でそこに多少の遊戯性が認められる場合に、これを戯書と称する。従って、人によってさす範囲が様々であり、一定しない。例えば、その例としてよく取り上げられる歌、 

  たらちねの 母が飼ふ蚕の 繭隠り 馬声蜂音石花蜘蛛荒鹿(いぶせくもあるか) 妹に逢はずして (3004)
                       
についても、やや戯書らしいのは、馬の鳴き声を「イ」、蜂の羽音を「ブ」と聞いた、擬声語による。「石花」は現在「かめのて」と呼ばれるえびかに類の動物の古名、それに蜘蛛と気の荒い鹿とを並べた「石花蜘蛛荒鹿」は借訓でしかない。ここでは、便宜上、歌の内容と直接関係がなくて、しかも二字以上で記され(ただし、「白土(しらに)」「水葱少熱(なぎぬる)」「左右(まで)」「荒海藻(あらめ)」などの熟字訓は除く)、その文字群の枠の中で連想による知的遊戯性が認められるものを戯書と呼ぶことにする。以下、遊戯性の内容から、(A)文字遊戯、(B)擬声語利用、(C)数字遊び、(D)その他、の四種に分類して概説しよう。 (A)文字遊戯の代表例は「色二山上復有山者(いろにいでば)」(1791)である。「山上復山有り」は「出」の字を山を二つ重ねたと見る字謎の一種で、もとは「玉台新詠」古絶句の「藁砧今何在、山上復有山、何当大刀頭、破鏡飛上天」によったものである。ちなみにいえば、「藁砧(カウチン)」は玞で同音の「夫」を、「大刀頭」は環で同音の「還」をそれぞれ匂わし、「破鏡」は半月を表して、全体は「夫はいづくにか在る、出でて、いつしか還らむ、半月は高く天に上りぬ」と言う意味。これは日本人の発明ではない。これに類する「人之子姤恋渡青頭鶏(ひとのこゆえにこひわたるかも)」(3031)も、もとは三国・魏時代に鴨の俗称として「青頭鶏」の語が使われていたこと、なかんずくその実際例として、「鴨」と同音の「押」を暗示し印璽を押させようとした劇的な場面を井上通泰の「万葉集新考」は紹介している。これもまた漢籍から得た知識の受け売りであり、オリジナルな遊戯とは言い難い。 (B)擬声語持込は、先に引いた馬声・蜂音がその代表例だが、その他に「かくしてや猶八成牛鳴(なほやなりなむ)」(2850)の牛鳴もある。もっとも、これも「説文」の「牟、牛鳴」によったとみるならば、戯書の「青頭鶏」などと同じ衒学趣味の列に連なろう。「所見喚鶏本名(みえつつもとな)」(1583)の「喚鶏」は鶏を呼び寄せるトゥトゥの声を借りたもの。杣(そま)を「追馬喚犬」(2653)、「白銅鏡(まそかがみ)」を「喚犬追馬鏡」(3338)また略して「犬馬鏡」(2821)と書くのは、馬を追うのにソ、犬を呼ぶのにはマといったのを借りた表記である。また、近江国の地名ササナミを「神楽声浪」(1402)と書くのは、神楽(かぐら)を奏する際の囃し言葉ササを借りたものだが、略して「神楽浪」更には「楽浪」と書かれることの方が多く、それを固定すれば由来も戯書でであることも忘れられてしまったのでないだろうか。 (C)数字遊びは、掛け算のいわゆる九九の声を利用した表記で、漢籍に先例がある。万葉では二二が四、二五=十、四四=十六、九九=八十一が使われる。「如是二二知三(かくししらさむ)」「生友奈重二(いけりともなし)」「不知二五寸許瀬(いさとをきこせ)」「十六社者(ししこそば)」「情八十一(こころぐく)」などがその例である。 (D)その他は、おおむね後述の義訓に基づき、それを更に複雑にしたものといってよい。代表的なものは、その頃行われたばくちの一種、樗蒲(かりうち)によった表記である。これは四枚の小木片を用いたので、それと同音の雁を「折木四」または「切木四」と書き、その出た目のうち三つ表の場合をコロ、一つだけ表の場合をツクと称したことにより、「末中一伏三起(すえのなかごろ)」「暮三伏一向夜(ゆふづくよ)」と書いた例が見える。また晋の書家王羲之(おうぎし)の名を手師の意で借りた「義之」「大王」も知られている。「大王」は、その子王献之もまた書を能くしたので、親子合わせて「大小王」と称したことによる。「我定義之(わがさだめてし)」「逢義之有者(あひてしあれば)」「結大王白玉之緒(むすびてししらたまのを)」などがその例である。「人言乎繁三毛人髪三(ひとごとをしげみこちたみ)」(2950)の「毛人髪」は、本来、噂の繁い意であった形容詞コチタシが隙間なくいっぱいである意にも転用されるようになったことから、毛人(蝦夷の異名)の体質を連想して書いたものである。「常如是耳也恋度味試(つねかくのみやこひわたりなむ)」(1327)、「今曾水葱少熱(いまそなぎぬる)」(2584)の「味試」や「少熱」はこの戯書に入れるべきか借訓とすべきか判断に迷う例である。


 字音語 

 多少の訛りは無視して、発音も意味も中国語そのまま輸入した語である。量的には最も少なく、それも大部分が巻第十六に集中する。日常語では、殊に官人や僧侶、性別でいえば女性よりも男性の言語に外来語としての漢語がかなりの割合で使用されていたと思われるが、歌の中に持ち込まれることは珍しかった。歌は雅なるもの、非日常のものであり、和文和語で詠むべきものだ、という意識が一般に強かったためであろう。巻第十六にそれが偏って現れるのは、この巻が晴れに対する褻(け)、雅に対して俗なものを敢えて避けない一面を持っていることと関係があると思われる。次に示すものがその全部であるが、多少の変動は考えられる。 餓鬼・布施・過所(くわそ)・一二三四五六(いちにさむしごろく)・双六(すぐろく)・香(かう)・塔(たふ)・力士・佞人(ねいじん)・仏(ぶつ)・法師・檀越(だんをち)・課役(くわやく)・無何有(むがう)・藐孤射(まこや)・草莢(ざうけふ)・波羅門(ばらもん)・功・五位・朝参(てうさむ)ただし、この字音語は文字の問題である以前に語彙の問題であり、春登がこれを「万葉用字格」の中に置かなかったことは、一見識ある態度であったといえよう。

 訓語 

 正訓は万葉集全体を通じて最も量の多い用字法である。山川・草木などの名詞・見ル・聞クなどの動詞、遠シ・近シなどの形容詞、これらの自立語は正訓字で書かれることが、格別に多かった。ただし実際には、表される意味と表す文字との間の結びつきは、今日のわれわれの慣習に比べてかなり緩く、流動的・不安定であったと考えられる。即ち、カハに川・河・水、フネに舟・船・舶のいくつかの字が併用され、カシコシに恐・惶・懼・畏・、サワクに騒・驟・驂・動・颯、アフに相・逢・遇・遭・交・合・会が用いられているというような実情である。これらのある場合には意味による使い分けも少々認められるが、大部分は通用させたと思われる。
 いわゆる義訓は、正訓における意味と文字との結びつきの緩さを衝いて、語形よりも意味を重視し、あるいは一層リアルに表現しようとした表記法といえる。 鶏鳴(あかとき)・求食(あさる)・無用(いたづら)・鎮斎(いはふ)・落易(うつろふ)・面羞(おもなみ)・逆言(およづれ)・向南(きた)・本郷(くに)・散動(さわく)・鷹田(とがり)・足沾(なづさふ)・無礼(なめし)・黄変(もみつ)・任意(よし)などがその例である。このほかに父母(おや)・鹿猪(しし)・鶉雉(とり)の類は、列挙によって具体的に説明しようとしたものと言えるし、春雉(きざし)は時間的背景を理解させようと努めたもので、衍字とは言いがたい。季節に関して言えば、冬・春を「寒過暖来良思(ふゆすぎてはるきたるらし)」(1848)のように「寒」「暖」で表したり、秋を「金」「白」と書いたりすることがある。いずれも義訓であるが、「金」「白」は漢籍に見る木火土金水の五行説に由来する用字と言う点で注目される。
 この義訓は付属語の領域にも侵入することがある。例えば、疑問助詞のカ・カモを「今年の夏の陰に将化疑(ならむか)」「昨日の夕降りし雪疑意(かも)」などのように表し、願望のコソやモガ(モ)を「夢に見乞(みえこそ)」「吾にも与経(ふれこそ)」「住吉の岸に家欲得(もが)」「雲にも欲成(がも)」などのように、乞う、与えよ、得んと欲す、成らんと欲すというふうに表意的に書いたのがそれである。
 一部には、漢籍には比較的慣れた人々もいて、中国風の熟字訓の誇示をすることもあった。「展転(こいまろび)」「昔者(いにしへ)」「光儀(すがた)」「率尓(いささめに)」などの「毛詩」や「文選」などに見える古典的用語から「好去(さきく)「好往(さきく)」「白水郎(あま)」のような中国の俗語に至るまで幅広く取り入れた。語順についてもこの漢文式表記を指摘できる。漢文で倒置して書く補助的な字の雖・不・未・無・将・令・可の類は、一般に「雖見不飽(みれどもあかず)」「将待(またむ)」「無暇(いとまなく)」「令落(ふらしめ)」「可散(ちるべく)」などのように書くが、実際には「無間曾(まなくそ)」「と書く傍ら「間無曾(まなくそ)とも書き、「自神代(かみよより)」-「神世自(かみよより)」、「与妹(いもと)」、「不相念(あひおもはぬ)」というふうに、原則どおりと原則無視との二通りの書き方があった。しかし、他動詞を上に書く習慣は全体として少なく、「恋君(きみにこひ)」一に対して「君恋(きみにこひ)」「妹恋(いもにこひ)」が七、「待君登(きみまつと)」「待春登(はるまつと)」など「待」上位が十、「妹待跡(いもまつと)」「鹿待君(ししまつき)など「待」下位が三十というふうに日本語本来の語順に従って書くのが普通で、歌の中で「飲酒而(さけのみて)」「除雪(ゆきをおきて)」のような書き方をするのは、かなりきざな表記法だったと思われる。
 以上、音仮名、訓仮名、字音語、訓語の別を分析的に見てきたが、実際にはそれらは時に混乱する。音仮名が表意法を帯びるかと思えば、正訓が訓仮名のような扱いを受けることもある。恋をひとり悲しむものとして「孤悲」と書き、富士を大抵の場合は「不尽」と書くのは前者の例であり、打消しのズを表す不が「去辺白不母(ゆくへしらずも)」のように用いられ、推量のムを表す将が動詞の下にきて「妻裳有将(つまもあらむ)」となったりするのは後者の例である。このほかにも難訓歌として名高い「莫囂円隣之大相七兄爪謁気」(9)をはじめとして、「己具耳矣自得見監乍共」(156)、「邑礼左変」(658)、「多我子尓毛」(3776)など、どれが表意か表音か、音訓いずれの側から解きほぐすべきか分らないためにまた、さきにも引いたように、文句錯乱、字対雑揉と後世人を嘆かせるのが万葉用字法の実情である。

 
 上代特殊仮名遣いのこと

 この解説の初めのところで「葉」の字音エフのエはア行のエかということにこだわったが、万葉集のみならず上代すべての文献の上に、ア行のエ(e)とヤ行のエ(je)の違いが認められる。万葉仮名で示せば(・印以下の太文字は訓仮名)、次の通りである。

 ア行 衣依愛哀埃・榎得
 ヤ行 延要曳叡・江吉兄柄

 榎がア行のエだということは、巻第六の大伴坂上郎女の月の歌三首の一つに「山のはの左佐良榎壮子」(988)とあり、その左注に「佐散良衣壮士」に作ることからも知られる。このエヲトコは「古事記」上巻の諾冉(だくぜん)二神の言問いにも見え、「愛袁登古(えをとこ)」とある。この語、「神代紀」上には「あなにゑや、可愛少男を」と書かれ、その訓注に「可愛、此をば哀(え)というふ」とあって、「愛袁登古」は可愛い若者の意であり、これを良い男子などと解するのが誤りであることを知る。

 ヤ行のエは前述のア行のエと交錯することがない。形容詞ヨシ(そのヨは乙類)は記紀でエシということもあり、地名の吉野も「曳之努」と古くは呼ばれていた。住吉も墨江・須美乃延などと書かれることもある。江や枝はヤ行エの訓仮名として常用されている。このア行・ヤ行のエの違いが、最も顕著に現れるのは下二段活用動詞(受身・可能などの助動詞を含む)の未然・連用・命令の三活用形の場合である。終止形がウとなるそれはア行のエの方である。そのウ(得)が完了の助動詞タリに付いた場合、「衣多利」と書かれることになる。ところが、ヤ行のエは聞コエ・絶エ・生エ・見エ・萌エなどのヤ行下二段活用に限って用いられ、また中古語では知ラレ・憎マレ・忘ラレ・寝ラレなどとラ行下二段になる助動詞ル・ラルが、上代では「之良延」「邇久麻延」「和須良延」「祢良延」のようにヤ行に活用し、当然のことながらそのエはすべて延などのヤ行のそれである。このeとjeとの違いは平安中期まで残り、「新撰字鏡」や「本草和名」に仮名書例があれば、それによって上代語での使い分けを知ることができる。

 このように後世では区別がなくなるが、上代語にはっきり発音の差がある音節としてキ・ヒ・ミ・ケ・ヘ・メ・コ・ソ・ト・ノ・ヨ・ロの十二音(濁音を入れると十九音)にもそれぞれ二種類の発音があり、その差を反映した書き分けがあった(「古事記」にはモにも別があった)。これを上代仮名遣いという。
 この書き分けの存在を最初に発見したのは本居宣長である(「古事記伝」仮字の事)が、これを記紀や万葉集など上代の文献について克明に調査をやり遂げたのはその弟子石塚竜麿(1764-1823)であり、その輝かしい成果が「仮名遣奥山路」三巻である。しかし、これが発音による書き分けであることの指摘は、さらに百年を経て橋本進吉の国語音韻史という広い視野からの研究を待たねばならなかった。

 万葉集では子を表すには古・故の仮名を用いる。これは彦・壮士のコについても同様である。ところが、心・床などのコにはすべて己や許を用いて両者を混同することはない。濁音仮名の上でも呉・胡・吾などが古・故の類に、そして其・期などが己・許の類に相当し、相混ずることがない。ソ・ゾについても同様で、磯・空のソには蘇・素を用いるが、底・其のソには曾・増の類が使われ、ここでも混同はほとんどない。ト・ド・ノ・ヨ・ロにおいても同じことがいえる。橋本進吉は、古胡(呉胡吾)、蘇素の類を甲類と名づけ、己許(其期)・曾増の類を乙類と名付けた。すると、甲類の古胡(呉胡吾)・蘇素の緒字は中国では同じ母音(uo)を持つ漢字グループ(模韻)に属し、そのグループには土度渡努怒路(トドドノノロ)などのオ列甲類の仮名が並んでおり、それからオ列甲類の母音はだいたい今のo(奥舌)と同じであろうといわれる。
 一方、乙類の己許(其期)・曾増は、隋唐頃の中古音で己其期は之韻、許は魚韻、曾増は登韻というふうに開きがあるが、古い漢魏の頃のいわゆる上古音においては相互に近寄り、かなり重なる面ができることが指摘されており、その母音は甲類のoより前の位置で発音するö(中古)であったといわれる。学者によってはオ列甲類のoを陽性母音、オ列乙類のöを陰性母音と称することがある。
 この甲乙両類の対立の存在はキ・ヒ・ミ・ケ・ヘ・メのイ・エ段の場合でも同様である。秋や雪のキ(甲)には岐・伎を使い、月・木・城のキ(乙)には紀・奇を使い、そして今日・叫のケ(甲)には家・計を使い、竹・酒のケ(乙)には気・既を使う。ヒ・ミ・ヘ・メについても同様で、違列はほとんどない。そして、中国漢字音に照らしてこれらの甲類のキ・ヒ・ミ・ケ・ヘ・メの母音は今日のイ・エ段と同じく前舌のi・eと推定されているが、乙類のそれらの音価は学者によって異説がある。今その説の紹介は控えるが、おおむねï・ëという記号で表されるような中舌性の母音であったと一般には考えられている。ただ、それではア行エ(e)の代表的仮名である衣・依が、いかにも甲類性の字母でありそうにみえて、実は乙類ケの常用仮名の気と同じ韻(微韻)に属するなど、音価の推定にはなおさまざまな疑問が横たわっている。とにかく、このように、奈良時代にはa・i・u・e・oの他にï・ë・öのような中舌母音が実在し合計八つの母音があったのである。この特殊仮名遣いは、母音交替や音節結合、さらには文法解釈などさまざまな方面に波及することも知られている。即ち、乙類のキ・ヒ・ミはよくウ列やオ列乙類と交替し(ツキ-ツク<月>・キ-コ<木>)、乙類のケ・ヘ・メはしばしばア段と交替する(サケ-サカ<酒>)。また同一語根内では、

 オ列甲類-オ列甲類     之怒怒尓(雨露に濡れたさま)
 オ列甲類-ウ列       須蘇(裾) 久路(黒)
 オ列乙類-オ列乙類     許登(言) 曾己(底)

のような組み合わせはあるが、オ列甲類-オ列乙類という組み合わせはない。このことはトルコ語や朝鮮語などにみられる母音調和の現象と符合するところから、日本語がアルタイ語系統に属することが立証されるに至った。
 また、動詞の活用語尾についても注目すべきことが発見されている。上一段活用の着ル・見ルのキ・ミおよび四段活用の連用形は甲類、上ニ段・下二段のイ列・エ列は共に乙類、四段の已然形は乙類(奈気婆)、命令形は甲類(奈家)、そしていわゆる完了の助動詞リは甲類に付いていて(佐家理)、已然形にリが付いたような説明は通じなくなった。この特殊仮名遣いは語彙の研究についても効果を示し、従来、意味不明とされていた語の語源が明らかになったり、同根語と思われていた語が別語と分ったりすることもあった。助詞のノミを古写本によって「乃尾」とも「乃美」とも書いてあるとき、他の例から推して前者が正しいと断定するようなことが出来る。今日では、万葉集をはじめ、記紀・風土記などの文献を原文で見る場合、この特殊仮名遣いの知識は不可欠のものとなった。

 しかし、奈良時代そのものがこの特殊仮名遣いの崩壊期に当たっており、万葉集でも概して時代の下ったもの、および東歌や防人歌などの方言を写した部分に仮名遣いの違例が多い。また十四音(モ・エを含めて)の中でも混同の多い仮名と少ない仮名とがあり、ことにオ列において、「古事記」にしか区別のないモ(唇音)から混同が始まり、トノロヨソ(歯茎音)が逐次混乱し、そしてコ(喉音)は平安初期においても区別があったとされる。ところが、巻第十八において集中的に違例の多い箇所がある。そこには見慣れない仮名字母も混じって見え、清濁表記も乱れているところから、ある時期に損傷を受け、平安時代になってからこれを補修したのではないかと今日では言われている(大野晋「万葉集巻第十八の本文に就いて」国語と国文学22巻三号)。
 以下、万葉集に見える十二音(「古事記」のモおよびア・ヤ行のエは除く)について代表的な仮名字母をあげる。
 





 
甲類

伎 岐 祇 芸 比 卑 弥 美 家 計 牙 雅 敝 幣 弁 便 売 馬 古 故 呉 胡 蘇 素 刀 斗 度 渡 努 怒 用 欲 路 漏
吉 枳    婢 鼻 祁 鶏 覇 陛 咩 面 孤 祜 吾 後 宗 祖      
寸 杵   日 檜   三 見   部 辺   女 婦 子 籠   十 麻   門 利    
乙類

奇 紀 疑 宜 非 悲 未 味 気 既 宜 義 械 閇 米 梅 己 許 其 期 曾 増 叙 序 等 登 杼 騰 乃 能 余 与 呂 里
貴 記 肥 飛   尾 微         巨 去 所 則     餘 誉
木 城   火 干   身 実 毛 食   戸 経   目 眼   衣 背   跡 常   笶 箆 世 四  
 
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