書庫19 
 



 



 
「そでふるみえつ」...くもがくるまで...  
 
  『かれるこひに』


 【歌意2013】
あなたを恋慕う、この私は
とても短いひと時で満足できるはずがありません
こうして別れ往くときも、
あなたが哀しみを堪え、袖を振っているのを見ると
ますます離れがたく切ないばかりで
あなたが、雲に隠れるまで、目を離せないのです
 
 
この歌意も、随分な意訳になってしまった
しかし、私にはこれほどの哀しみの別れなのに、
どうして、第三者の目を通して詠ったもの、と解釈しなければならないのだろう
そのことの方が、この歌の切なさを失わせている

客観的な「別れの情景」に、私は何も感じられない
当事者でこそ、仮にその語られる言葉が「淡々」としたものであっても
別れの辛さは、滲み出るものだ

もっとも、この歌が淡々と詠われている、と言うわけではない
自分の辛さを言い、それと同じ気持ちであることを、
「袖振る」という表現で「妹」を見る

そして、この「袖振る」は、
右頁の引用歌で知るように、愛情表現の一つであるだけではなく
思い通りにならない場合にこそ、似合いそうな所作でもある感じがする
この歌で、それを見るなら、
何故、短い逢瀬で、再び離れ離れにならなければならないのか、と
その点においては、確かに「七夕伝説」の「年に一度の逢瀬」を背景とすると
より理解出来るだろう

しかし、この歌はどうしても「牽牛と織女」の歌とは思えない
この歌も、と言うべきだろう

恋人同士の束の間の「逢瀬」と、その「別れ」
七夕伝説に縛られれば、様々な解釈の展開もあるが
少なくとも、また一年後の逢瀬の保障はある
いや、それでも一夜の逢瀬は、逆に辛い、となるかもしれないが
二度と逢えないわけではない

この歌の二人には、その「次の逢瀬」が、ないような気がする
「雲隠る」は、字句通りに解釈するのが、この歌では通説のようだが
この語句には、もっと切なくて悲しい意味合いもある
確かに、その語義をここに当てはめられはしないが
単に、雲に隠れるまで、袖を振るのを見ているのではなく、
その「袖振る」行為を、「雲隠り」させない、させたくない気持ちがあるはずだ

「妹の命」の「命」を、多くは「尊称」と言うが
それだけでも、第三者の詠歌とすれば、
彦星を「汝」と呼び、織女を「妹の命」とは、合点が行かない
彦星自身の歌であることが、私をこのような解釈に導いている
「命」は、単に「尊称」だけではなく
『拾穂抄』のいう、「かしづく」が相応しいと思う
それほど、自分にとっては
いや、作者自身にとっては、大切な存在の人なのだと思う
この語を、第三者が使えはしないだろう
「尊称」以外の意味で、使えるのは、相手の男しかいないはずだ

もっと直截的に「いのち」と訳せば、その大切さが伝わってくる
 

掲載日:2014.06.08   [「一日一首」2014年5月12日付けの解釈]


 
 秋雑歌 七夕
   汝戀 妹命者 飽足尓 袖振所見都 及雲隠
    汝が恋ふる妹の命は飽き足らに袖振る見えつ雲隠るまで
   ながこふる いものみことは あきだらに そでふるみえつ くもがくるまで
 巻第十 2013 秋雑歌 七夕 柿本人麻呂歌集出



[収載歌集]
柿本人麻呂歌集】〔478〕

赤人集】〔172・158・289〕

[引用万葉歌]
そでふる】〔20・21〕


[資料]
掲題歌資料〔校本万葉集及び近代までの注釈書〕
七夕】〔中華民国[国立成功大学、成大宗教與文化学報 第七期 論文]〕
織女と牽牛】〔講談社学術文庫「星の神話・伝説」野尻抱影



 【2013】 語義 意味・活用・接続
 ながこふる [汝戀] 
   [汝]  [対称の人代名詞] 自分より目下の者や親しい人に対して用いる
 いものみことは [妹命者] 
  みこと [命・尊]  [名詞] 「み」は接頭語で、神や人を敬っていうときに付ける語
   [代名詞] 対称の人代名詞、あなた・おまえ
 あきだらに [飽足尓]  
  あき [飽く]  [自カ四・連用形] 充分満足する・飽き飽きする・いやになる
  だら [足る]  [自ラ四・未然形] 充分である・相応している・価値がある
  に [助動詞・ず]  [打消・連用形] ~ない  連用形につく
 そでふるみえつ [袖振所見都] 
  そでふる [袖振る]  [名詞] 合図として、または別れを惜しんで、袖を振る
  みえ [見ゆ]  [自ヤ下二・連用形] 目に映る・見える・見ることができる
  つ [助動詞・つ]  [完了・終止形] ~た・~てしまう・~てしまった  連用形につく
 くもがくるまで [及雲隠]  
  くもがくる [雲隠る]  [自ラ四・連体形] 雲に隠れる
  まで [副助詞]  [限度] ~まで 〔接続〕体言、それに準ずる語、連体形などにつく 

「古語辞典」は掲載歌を基本に、と思っているが、なかなか実行できず未完、継続中
「枕詞一覧」もやっと載せることができた
ただし、「かかり方の理由」は「古語辞典」からのみなので、
今後は「詳説」に触れ次第補充してゆく
その点でも不充分であるし、載せた語数においても、284語と、およそ言われている半分程度だ
しかし、一応その都度古語辞典を引っ張り出さない程度の気安さにはなる   
 古語辞典  文法要語解説 活用形・修辞  活用語活用法及び助詞一覧  活用形解説 枕詞一覧


 
【注記】 
[]
「汝」の語義としては、「あなた」とか「お前」といった目下の者への呼称だが
この歌で「汝」が使われているのは、やはり意味のあることだと思う
この一字で、牽牛・織女の「七夕」歌でないことが解ると思うが
どうも、そうはいかないらしい
第三者が、彦星に対して呼びかけた「汝」であれば、
その対となる「妹の命」とする、尊称は
第三者から、この二星への見方への疑問が生じてくる
しかし、相変わらず「七夕歌」としての位置付けは変わらない

「汝戀」の解釈も、第三者が彦星への呼び掛けとしている書や、
「汝戀」は「わがこふる」と同じ意、とする書もある
その説を採れば、作者は自分が戀する「妹」を言うので、
「命」という「尊称」を用いるのもうなづける

 
[あきだらに]
旧訓は「あくまでに」で、訓も幾つかあるが、
現在の定訓となるのは、折口信夫「口訳万葉集」においてだとされる
「に」を打消しの助動詞「ず」の連用形とするなら、その接続は未然形になるので
幾つかの書で見える「あきたりに」にはならないはずだ
「に」に関しては、小学館の「新編日本古典文学全集」で、
「原因・理由」の意を持つとし、その用例で「たどきをしらに」を挙げている
「しらに(知らに)」は、「知らないで・知らないので」の意味になる
「知る」の未然形「しら」に、打消し助動詞「ず」の連用形「に」だが
そうなると、この打消し「に」に「原因・理由」を含む意を理解しなければならない
 
[そでふる]
この語を有名にしているのは、何と言っても額田王の歌だろう

 雑歌/天皇遊猟蒲生野時額田王作歌
  茜草指 武良前野逝 標野行 野守者不見哉 君之袖布流
    あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る
   あかねさす むらさきのゆき しめのゆき のもりはみずや きみがそでふる
 巻第一 20 雑歌 額田王
 〔語義〕
「あかねさす」、「枕詞」茜色に美しく輝く意から「紫」などにかかる
「むらさきの(紫野)」は、紫は紫草科の多年生草木で、群がって咲く野原のイメージ
「しめの」は、ムラサキソウの栽園としての官領地のこと
「のもり」は、禁猟区などの官領地を守る番人
「や」は、疑問の係助詞
 〔歌意〕
あかね色に染まる紫の野を行きながら
あなたは、ここの番人が見ているかもしれないのに
私に、袖を振っていらっしゃるではありませんか...

「袖振る」は、愛情を示す所作と言われている
だから、天智天皇の妻となった額田王にとって、
かつての夫、大海人皇子の大胆な行動が...畏れでもあり、眩しかったのだろう

この歌には、大海人皇子の答歌がある

 雑歌/(天皇遊猟蒲生野時額田王作歌)皇太子答御歌 [明日香宮御宇天皇謚曰天武天皇]
  紫草能 尓保敝類妹乎 尓苦久有者 人嬬故尓 吾戀目八方
    紫のにほへる妹を憎くあらば人妻故に我れ恋ひめやも
   むらさきの にほへるいもを にくくあらば ひとづまゆゑに われこひめやも
 既出〔書庫-11〕  巻第一 21 雑歌 大海人皇子
 〔歌意〕2013年10月6日、そのまま転載
紫草のように、美しいあなたを気に入らないと思っているのなら
どうして、人妻であるあなたなのに、
私は恋したりするのか...

勿論、掲題歌の場合は、別れを哀しんでの所作だとは思うが
この例題歌二首のような、情況は...少しは考えられないのかな

 
 掲題歌[2013]についての資料  関連歌集については、[諸本・諸注 その他の歌集]  

[収載歌集]

柿本人麻呂歌集

柿本人麿集 私家集大成第一巻-4(冷泉家時雨亭叢書『素寂本私家集西山本私家集』)
  ナカラフルイモカイノチハアクマテニ ソラフルミエツクモカクルマテ
 柿本人麿集中 恋部 相聞 万十 478


赤人集 ([三十六人集]撰、藤原公任[966~1041])】

新編私家集大成第一巻-新編増補 赤人集Ⅲ[陽明文庫蔵三十六人集]
  なからふるいもかすかたはあくまてに 袖ふりみすてくもかくるまて」
 あきのさふ 172
新編私家集大成第一巻-6 赤人集Ⅱ[書陵部蔵三十六人集]
  なからふるいもかすかたはあくまてに そてふりみえつくもかゝるまて
 秋雑歌 158
新編私家集大成第一巻-5 赤人集Ⅰあかひと[西本願寺蔵三十六人集] 
  なからふるいもかすかたはあくまてに そてふりみえつくもかくるまて
 あきのさふのうた 279
新編国歌大観第三巻-2 赤人集[西本願寺蔵三十六人集]
  ながらふるいもがすがたはあくまでにそでふりみえつくもかくるまで
 あきのざふのうた 279



【『校本万葉集』〔佐佐木信綱他、大正12年成〕の面白さ】[2014年3月8日記]

先日手にした『校本万葉集』、復刻版なので、なかなか読み辛いところもあるが、その内容は、確かに面白い
「注釈書」のような、歌の解説ではなく、その歌の本来の表記の姿を出来るだけ復元しようとする書では、もっとも新しいものだと思う
とはいえ、それでもまだ昭和になる前の書だから、古さはあるのだろうが、かと言って、それ以降の書が、注釈に重きを置いているばかりで
こうした「諸本」の校合を広く行い、それが中世の頃の「校本」に次ぐ形で刊行されたのは、素人の私でも嬉しいものだ
底本は、広く用いられている『西本願寺本』ではなく、『寛永版本』としている

[諸本・諸注については、「諸本・諸注、その他の歌集」]
 

 [本文]「汝戀妹命者飽足爾袖振所見都及雲隠
     「ナカコフルイモノミコトハアクマテニソテフリミエツクモカクルマテ(「【】」は編集)
       頭注  赤人集「なかこふるいもかすかたはあくまてにそてふりみえつくもかくるまて」
 〔本文〕
  なし
 〔訓〕
  イモノミコトハヌ 『元暦校本・類聚古集』「いもかいのちは」
『神田本』「イモカイノチハ」
『京都大学本』漢字ノ左ニ「イモカイノチハ」アリ
『西本願寺本』「ミコトハ」モト青

  ソテフリミエツ 『元暦校本・類聚古集』「そてふるみえつ」。『元』「つ」ノ右ニ赭「ツ」アリ
『神田本』「ソテフルミエツ」
『西本願寺本・細井本』「ソテフリミヘツ」。『西』「リ」ノ右ニ「ル」アリ
  クモカクルマテ 『元暦校本』下ノ「ク」ナシ
『大矢本』「クモカクレマテ」
 〔諸説〕
○[汝戀ナカコフル]『万葉考』「汝」ハ「我」ノ誤。訓「ワカコフル」 
○[飽足爾アクマテニ]『童蒙抄』「アキタリニ」、『万葉集古義』「足」ハ「迄」ノ誤ニテ訓「アクマデニ」
○[ソテフリミエツ]『万葉考』「ソテフルミエツ」


近代までの注釈書の掲題歌】

中世、近世、近代の注釈書 (私の範囲で確認できたもの・文中歌番はそのままの旧国歌大観)    
  [2013]  各注釈書への、私的解釈
  『万葉拾穂抄』〔北村季吟、貞享・元禄年間(1684~1704)成〕  [拾穂抄]私見
  〔なかこふるいものみことはあくまてにそてふる見えつくもかくるまて〕
 汝戀妹命者飽足尓袖振所見都及雲隠

「かしつき」は、前の歌〔2012〕の『童蒙抄』のところで調べたことがある
「大切に養い育てること・後見をすること」の意味になるが、この書もが言うのは
「命」に関連してのことだと思うので、一般的に言われている「敬語」的な解釈ではないのだろう
 なかこふる妹のみことは 妹の命かしつきていへり前にも有詞也なか戀るは我こふると同心は明也
  万葉代匠記(精撰本)』〔契沖、元禄三年(1690)成〕[萬葉集代匠記惣釋 僧契冲撰 木村正辭校]
 「代匠記」私見
  〔ナカコフルイモノミコトハアクマテニソテフルミエツクモカクルマテ〕  
 汝戀妹命者飽足爾袖振所見都及雲隱
なし
 無記、
  『万葉集童蒙抄』〔荷田春満、信名、享保年間(1716~35)成〕  「童蒙抄」私見
  〔ながこふる、いものみことは、あきたりに、そでふるみえつ、くもがくるまで 〕 
 汝戀妹命者飽足爾袖振所見都及雲隱
『拾穂抄』でも、述べているが、「汝戀」は、「わが戀ふる」という
説明を加えれば、「あなたが戀する」ではなく、「あなたに戀する私」という意味なのだろう
この第三句の訓解釈には、大きな意味があると思う
「に」が打消しの助動詞だとすれば、意としては「満足することなく」となるが、
その満たされない心持のせいで、見えなくなるまで袖を振って見送る

 汝戀は、わが戀ふる也。彦屋の織女へさして、自身に戀ふると云へる也。是にて前の己が妻自□[女+麗]の義もながと讀む例知るべし
飽足爾 あくまでにと讀ませたれど、宗師案、たりにと讀べし。あきたりなしと云義也。なしと云詞を約すればに也。なれば飽足らぬから雲隱るゝ迄見送る意と見るべしと也。諸抄の説も惡しきには不可有か。心に飽かぬから飽迄に見るの意也。
  『万葉考』〔賀茂真淵、宝暦十年(1760)成〕  「万葉考」私見
我戀、妹命者[イモノミコトハ]、 今本汝戀とあり汝にては人より彦星をさしていふ事となるさらば妹の命とは有べからず
飽足爾[アクマデニ]、袖振/所見都[ミエツ]、及雲隱[クモカクルマデ]、
当時の通釈では、第三者が「彦星」をさして「汝」というが、それと「妹の命」とは、いかにもバランスが取れない、と言っているのだろう
先の書と同じように、「汝戀」は、「我戀」というべきで、第二句の疑問を解こうとしている
万葉集にも詠われている「佐用姫伝説」を重ねて解釈している
 此歌も彦星になりてよめるにて我戀る妹の命なりよりて汝は我の草の手を見誤として改
此歌の意は妹の命も戀る心はせちなればあくまで袖ふらせれどつひに遠く雲がくりて見えぬを彦星のあかずなげきますと彼佐用比賣をふくみて彦星になりてよめるなり
  『万葉集略解』〔橘千蔭、寛政十二年(1800)成〕[日本古典全集刊行会、1926年、与謝野寛他]  「略解」私見
  〔ながこふる。いものみことは。あきたりに。そでふるみえつ。くもがくるまで。〕
 汝戀。妹命者。飽足爾。袖振所見都。及雲隱。
特筆なし
 アキタリはアクマデの意なり。
 參考 ○飽足爾(考)アクマデニ(古、新)アク「迄」マデニ。
  『万葉集古義』〔鹿持雅澄、天保十三年(1842)成〕  「古義」私見
  〔ナガコフル。イモノミコトハ。アクマデニ。ソデフルミエツ。クモガクルマデ。〕
 汝戀妹命者飽足爾袖振所見都及雲隱

地上の人が、雲に隠れている織女が、彦星との別れを飽きるまで袖を振る姿を想像して、
眺めている、ということか
この「汝」は彦星のことを、地上の人がいうので、
そうなると真淵の言うような「妹の命」というのが気になる
「足」を「迄」の誤とするのは、無理のような気がする
きっと、その意から、訓を理解しやすくするために已む無く用いたのだろう
 汝[ナ]は、彦星をさして云、
○飽足爾は、路解に、アキタリニとよみたれどもいかゞなり、足は迄の誤なるべし、さらばアクマデニと訓べしと、中山(ノ)嚴水がいひたるぞよき、
○歌(ノ)意は、汝[ナレ]彦星の戀しく思ひて待と云織女は、遠く雲隱るかぎり、此(ノ)土より見る目に飽まで、袖/擧[フリ]て往さまの見えつるなり、されば今ぞ織女の相見え奉るならむと、此方より見やりて、おしはかりたる謂なるべし  
  『万葉集新考』〔井上通泰、大正4~昭和2年成〕  「新考」私見
 〔汝[ナ]がこふる妹の命は飽足爾[アクマデニ]袖ふるみえつ雲がくるまで]
 汝戀妹命者飽足爾袖振所見都及雲隱
『古義』の歌釈に倣って、地上の第三者が想像して詠ったもの、とする
 第三句を舊訓にアクマデニとよめるを略解にはアキタリニとよみ、古義には足を迄の誤字として再アクマデニとよめり。古義に從ふべし
○此歌は第三者としてよめるなり。結句は汝彦星ガ別レ去リテ雲ニ隱ルルマデとなり
  『口訳万葉集』〔折口信夫、1916~17年成〕  「口訳」私見
 汝[ナ]が戀ふる妹の命[ミコト]は、飽き足らに袖振る見えつ。雲/隱[ガク]る迄   歌意は理解出来るが、その訳し方にアンバランスを感じてしまう
 お前さんの焦れてゐる奥さんなる織女は、只一夜逢うただけでは滿足出來ないで、雲に隱れて、段々見えなくなる迄、袖を振つてゐるのが見える。
  万葉集全釈』〔鴻巣盛広、昭和5~10年成〕  「全釈」私見
  〔汝が戀ふる 妹のみことは 飽き足りに 袖振る見えつ 雲隱るまで〕
 ナガコフル イモノミコトハ アキタリニ ソデフルミエツ クモガクルマデ
 汝戀妹命者飽足爾袖振所見都及雲隱
『古義』の解釈が、かなり影響している
 アナタノ戀ヒ慕フ妻ノ織女ノ君ハ、アナタガ遠ク雲隱レテ見エナクナルマデ、飽クマデモ袖ヲ振ツテ居ルノガ見エル。
○飽足爾[アキタリニ]――舊訓アクマデニとあるが、文字通りによんだ童蒙抄説にょる。飽き足るまでにの意。
〔評〕 織女が別れを惜しむ樣を、第三者が彦星に告げる歌である。
 『万葉集全註釈』〔武田祐吉、昭和23年~25年成〕   「全註釈」私見
   〔汝が戀ふる 妹の命は、飽くまでに 袖振る見えつ。雲隱るまで。〕
 ナガコフル イモノミコトハ アクマデニ ソデフルミエツ クモガクルマデ
 汝戀妹命者飽足尓袖振所見都及雲隱
「評語」で、別離の情景は描かれている、とするが
その見える別離の「情景」だけでは、物足りない
第三者が詠ったとするなら、その人から見える二星の「心情」も詠ってほしかった
【譯】あなたの思つている妻の君は、滿足するまでに袖を振つているのが見えた。あなたが雲に隱れて見えなくなるまで。
【釋】妹命者 イモノミコトハ。ミコトは、尊稱。妹の君は。
   飽足尓 アクマデニ。アクマデニ(元)、アキタリニ(童)。足は、「毎日聞跡[ヒゴトニキケド] 不足聲可聞[アカヌコヱカモ]」(卷十、二一五七)など、アク(飽)にあてて書いてい       るものと見られるものがある。ここも飽足でアクにあてているのだろう。飽き足るまでに、滿足するまでに。
   及雲隱 クモガクルマデ。牽牛が遠ざかつて見えなくなるまで。
【評語】牽牛が別れ去つて遠ざかつて行くのに、別れを惜しんで織女が袖を振つている樣を詠んでいる。想像をほしいままにしているが、別離の情景は描かれている。
 『評釈万葉集〔佐佐木信綱、昭和23~29年成〕  「評釈」私見 
 〔汝が戀ふる妹の命は飽き足りに袖振る見えつ雲隱るまで〕
 ナガコフルイモノミコトハアキタリニソデフルミエツクモガクルマデ
この歌意解釈だと、二星の別れは決して「悲しいもの」ではなく
短い逢瀬を、十分過ごせたものとの前提になっているようだ
別れに際しての、決められたこととはいえ、その哀しみが表現されていない
「妹の命」の解釈、私には物足りない
【譯】あなたが戀ひ慕ふ妻の織女の君は、十分満足するまで袖を振るのが見えました。あなたの姿が遠く雲に隠れて見えなくなるまで。
【評】織女が暁の別れに際して思ひきり袖を振るのを見た人、恐らく彦星の従者などが、それを彦星に告げた趣の歌である。飽くまでも人間界の戀の様子に想像したところに、現実的な上代人の面目が窺はれる。
【語】○妹のみことは 現代語で「奥様は」といふほどの意。織女をさす。
   ○飽き足りに 十分満足するほどに。
   ○雲隠るまで 彦星の姿が雲に隠れて見えなくなるまで。「隠る」は古くは四段活用。
【訓】○飽き足りに 白文「飽足爾」。旧訓アクマデニは不可。古義は「飽迄爾」の誤としてゐるが、諾けがたい。
 万葉集私注〔土屋文明、昭和24~31年成〕  「私注」私見
  〔汝が戀ふる妹の命は飽き足りに袖振る見えつ雲がくるまで〕
 ナガコフル イモノミコトハ アキタリニ ソデフルミエツ クモガクルマデ
 汝戀妹命者飽足爾袖振所見都及雲隱
「満足して」という解釈は、おかしいと思う
敢えて好意的に解釈すれば、彦星を最後まで見送ることが出来たことへの「満足」かもしれない
【大意】お前の戀ひ思ふ妹の命(織女)は、満足して、袖を振るのが見えた。雲にかくれるまで。
【作意】二星の別離を、人間界から見て居る趣である。アキタリニと感情を投入したのである。
  『万葉集注釈』〔澤潟久孝、昭和32~37年成〕  「注釈」私見
   〔汝が戀ふる 妹の命は 飽き足らに 袖振る見えつ 雲隠るまで〕
 ナガコフル イモノミコトハ アキタラニ ソデフルミエツ クモガクルマデ
 汝戀妹命者飽足爾袖振所見都及雲隱
 (『元暦校本』)
『古義』の影響の強い「古義」以降の注釈書の中で、この「飽足爾」の自然な解釈を、復活させている
それまでは、満足するまで「袖を振」っているかのような解釈が多かったが
この「飽足爾」は、「短い逢瀬に満足できない」ことへの意味で、決して、飽きるまで「袖を振る」ではない
【口訳】あなたが戀ひ慕つてゐる妹の命(織女)は飽足らなくて、袖を振つてるのが見えました。雲にかくれるまで。
【訓釈】妹の命―前に「弟の命」(9・1804)ともあつた。敬語に「命」と添へた。
    飽き足らに―旧訓アクマテニ、『童蒙抄』アキタリニとしたが、折口氏口訳にアキタラニとしたのがよい。「に」は「知らに」(1・5)、「かてに」(2・95)などの打消の助動詞である。この「に」は「知ら」「かて    」の他には、「かゆきかくゆき 見つれども 曾許母安加尓等[ソコモアカニト]」(17・3991)の如き「飽かに」が集中にあるばかりのやうで、それも「飽かないので」の意であり、今も、飽き足らないので、の    意になる(「飽きたらに」『古徑』三所収)。前の「告尓[ツゲニ]」(2006)の「尓」をそれだと考へる事は、「に」と「ず」との区別を無視した事になり、その点でも当らないであらう(2・201)。

【考】赤人集に「いもがすかたはあくまてにそてふりみえつ」、流布本は「雲かゝるまで」とあり、更に終りのところに重出「袖ふりはへて雲かゝるまで」とある。

 



 



 
「いつまでか」...あふぎてまたむ...  
 
  『ゆふづつに、たのみ』


 【歌意2014】
宵の明星、夕星も通う天の道を仰ぎながら、
いつまで、その時を待っているのだろうか、なあ月人壮子よ
 
 
この歌の鍵は「あふぎてまたむ」だと思う
「あふぐ」という語は、当然地上から見上げるものであり、
純粋な二星の「七夕歌」であれば、この語は使うこともないだろう
しかし、「つきひとをとこ」を彦星とする解釈もまたあったことは事実だ

多くの書がいうように、この歌を「七夕歌」としてではなく、
普通の男女の間の「恋」の切なさを詠ったものとした方がいい

それでも諸抄では、地上の第三者が、二星の恋情を思って詠った、とするが
私は、詠った若者(だと思う)の、「待ち人来たらず」の心境ではないかと思う

男が夜の天空を見上げ、宵の明星、金星も予定通りに天道を渡っている
しかし、私の待っている「あの人」は、いったい何時になったら来るのだろう...

ただ、ここでの「つきひとをとこ」の役割が、なかなかぴんと来なかった
「つきひとをとこ」を「月」そのものと解する現代の書
だから古書のいう、「月の出」を待つ、というのが一般的な解釈とされる
そして織女の立場で、その「月」である彦星を待つと宴席歌、
「月人をとこ」への呼びかけ、「月」の「擬人化」...

何度も言うが、「宴席歌であるので」という条件を付けるのはよくない
それは、言わば「役者論」であって、「作品論」ではなくなってしまう
歌を解釈する、あるいは自分にどう感じられるか、であれば
その役者、詠者が演じる、詠う「作品」をどう受け入れるか、でなければ、と思う

「月」を待つのではなく、
宵の明星は、何の障害もなく決まったように、自分の道を渡っている
なのに、「あの人」は、いったいいつになったら来るのか
見上げているその目には、作者の心を見遣るような「月」が輝いている
「月よ、お前は知っているのだろう、私がいつまで待てばいいのか」

この歌の「月」は、作者の「あの人」を待ちわびる姿を傍観している
だから、「つきひとをとこ」といい、「お前なら」とぞんざい呼びかけられる
「ゆふづつ」のように、躊躇いもなく、どうしてやって来ない

「ゆふづつ」に想いの気負いを重ねるも、月はただそれを見ているだけだ

天上の星は、なんと無情なのだろう、と作者は思ったのかもしれない
それと同時に、人の恋慕う気持ちの、なんと切ないことか
一滴の憂いも見せない天上の星に、作者の若者は、
ただただ仰ぎ見ることだけで、「時を」いつまでも待たなければならない

この冒頭で書いた、「あふぎてまたむ」という語
それは、単に「あの人」を待つ行為の所作ではなく
天上の星々に対する「羨望」も多分に感じられる
少なくとも、現代に生きる私でも、ふと見上げる夜空には
地上世界の鬱陶しさを放れて、何か透き通った世界への憧憬を求めてしまう
いや、求めるというよりも、その世界に「逃避」さえもしてしまう

どうにもならない「恋心」を、すべもないまま収めるには
その鎮める手段の一つでもある、「あふぎてまたむ」なのかもしれない
「いつまで待てばいいのか」と同時に、「何も違うことのない天上界の定め」
そこに、私自身の「諦観」や「新たな決意」までも感じられそうな気がしている

「ならぬものは、あきらめよう、なあつきひとをとこよ」...
そう言えば、昨夜の月、満ち足りた「望月」の形をしていた
 

掲載日:2014.06.11   [「一日一首」2014年5月13日付けの解釈]


 
 秋雑歌 七夕
   夕星毛 徃来天道 及何時鹿 仰而将待 月人壮
    夕星も通ふ天道をいつまでか仰ぎて待たむ月人壮士
   ゆふつづも かよふあまぢを いつまでか あふぎてまたむ つきひとをとこ
 巻第十 2014 秋雑歌 七夕 柿本人麻呂歌集出


[収載歌集]
柿本人麻呂歌集】〔136〕

赤人集】〔173・160・281〕
古今和歌六帖】〔377〕
夫木抄】〔7704〕

[引用万葉歌]
つきひとをとこ】〔3633〕

[歌学書用例歌]
袖中抄】〔750〕
袋草紙】〔706〕


[資料]
掲題歌資料〔校本万葉集及び近代までの注釈書〕
七夕】〔中華民国[国立成功大学、成大宗教與文化学報 第七期 論文]〕
織女と牽牛】〔講談社学術文庫「星の神話・伝説」野尻抱影



 【2014】 語義 意味・活用・接続
 ゆふつづも [夕星毛]  
  ゆふづつ [長庚・夕星]  宵の明星・金星をさす
   [係助詞]  [添加・言外暗示] ~もまた・~さえも  注記
 かよふあまぢを [徃来天道] 
  かよふ [通ふ]  [自ハ四・連体形] 通る・行き来する・往来する・男が女のもとに行く
  あまぢ [天路・天道]  天にのぼる道・天上にあるという道
 いつまでか [及何時鹿]  
  いつ [何時]  はっきりと定まらない日・時
  まで [副助詞]  [限度] ~まで(動作・作用の及ぶ時間的・空間的な限度)
  〔接続〕体言、それに準ずる語、動詞・助動詞の連体形、副詞や助詞など種々の語につく
  か [係助詞]  [疑問] ~か・~だろうか 係り結びの「係り」 
  〔接続〕体言・活用語・副詞・接続助詞など主語・目的語・連用修飾語となるものにつく
 あふぎてまたむ [仰而将待] 
  あふぎ [仰ぐ]  [他ガ四・連用形] 顔を上に向ける・見上げる・敬う
  て [接続助詞]  [単純接続] ~て・そして  連用形につく
  また [待つ]  [他タ四・未然形] 人や物事が来るのを待つ
  む [助動詞・む]  [推量・連体形] ~だろう  未然形につく
 つきひとをとこ [月人壮]  月を擬人化し男性を見立てていう語・月人・月

「古語辞典」は掲載歌を基本に、と思っているが、なかなか実行できず未完、継続中
「枕詞一覧」もやっと載せることができた
ただし、「かかり方の理由」は「古語辞典」からのみなので、
今後は「詳説」に触れ次第補充してゆく
その点でも不充分であるし、載せた語数においても、284語と、およそ言われている半分程度だ
しかし、一応その都度古語辞典を引っ張り出さない程度の気安さにはなる   
 古語辞典  文法要語解説 活用形・修辞  活用語活用法及び助詞一覧  活用形解説 枕詞一覧


 
【注記】 
[ゆふづつ]
古語辞典では、その表記に「長庚・夕星」とあり、
その語義は、夕暮れにし西の空に見える金星、宵の明星、とある
『和名抄』巻第一に「長
庚 兼名苑云太白星一名長庚暮見於西方為長庚此間云由不豆々」とあり
「節用集」、「日葡辞書補遺」により中世は「ユフツヅ」と発音していたことがわかる
 
[係助詞「も」]
係助詞「も」には、いくつかの用法があるが、
この歌では、一般的な解釈として、「並列」の「~も」が用いられている
しかし、この歌の歌意そのものになると、「言外暗示」の「~さえも」も成り立つ
「宵の明星も通う天道」には、少なからず「宵の明星すら通っているのに」のような、
「言外暗示」の用法も解釈できる
〔接続〕は、名詞、助詞、用言や助動詞の連体形と連用形など、種々の語につく
 
[かよふ]
原文「徃来」の「徃」は、「往」の俗字、と漢和辞典にある
だから、この訓も、その義「行き来」から「ゆきかふ」と訓みたくなるが
不思議と、『万葉集』中にある、「徃来」の表記十例は、その多くが「かよふ」だった
「かよふ」の訓が、掲題歌を含め八例
他には、「ゆきかよふ」が一例、「ゆきく」が一例となる
この表記を「かよふ」と訓むのは、その義訓によるものだろう
この時代、男が女のもとへ通う「通い婚」でもあることから、
「男が女のもとへ通う」という意味もある

 
[つきひとをとこ]
この歌は、万葉仮名での表記例があるので、「つきひとをとこ」と訓むのに異訓はない
しかし、では「つきひとをとこ」は、何をさすのか
その解釈には諸説がある

『万葉集全注』〔有斐閣、昭和58年~平成18年成〕がいうのは、
「月を舟にたとえて人が舟を漕いでいると詠ったことに由来するとも考えられる」
また、万葉代匠記(初稿本)』〔契沖(1640~1701)、貞亨四年(1687)成〕では、
「月人をとこ、此歌にてはひこほしの異名と聞こえたり」とし、
万葉集略解』〔橘千蔭、寛政十二年(1800)成〕もまた、「彦星を言へり」としている

「月人をとこ」を「月」自身と解する諸抄も多く、
万葉集古義』〔鹿持雅澄、天保十三年(1842)成〕は、
月のことを、月人壮子(ツキヒトヲトコ)とよみたれば、此歌は月を待つ歌」といい
「紛れて七夕の歌中に入たるらむ」とまで言っている
この説は、以降も多く支持されているようだ
現代の叢書でも、「月人壮」を「月」とする根拠として、「仰ぎて待たむ」を挙げている
織女が、彦星を待つのにいう言葉ではなく、
地上の人が空を見上げて「月の出」を待つとするのが、素直な読む方だと思う
だから、雅澄のいう、「紛れて七夕の歌中に入たる」というのも理解出来る

上述で、「万葉仮名の表記例がある」としたが、その一首を載せておく

 
 七夕歌一首
   於保夫祢尓 麻可治之自奴伎 宇奈波良乎 許藝弖天和多流 月人乎登□ [□示+古]
    大船に真楫しじ貫き海原を漕ぎ出て渡る月人壮士
   おほぶねに まかぢしじぬき うなはらを こぎでてわたる つきひとをとこ
   (右柿本朝臣人麻呂之歌)
 巻第十五 3633 七夕 柿本人麻呂
 〔語義〕
「まかぢ」は、舷の両側につけた楫
「しじ」は、隙間なく一杯に、という副詞
万葉集の用例では、「まかぢ」の例にはすべて「ぬく」の語が用いられている
『全注』の説明によると、清水潤三「日本古代の船」から
「梶に穴を開けておいて、舟の舷側上部の突起に貫くのである」を引用している
 〔歌意〕
大船に隙間なく楫をとりつけて漕ぎ出し
海原を渡って行く、月人男よ

この歌もまた、「七夕歌一首」と題詞にあるが、
「七夕」の「意図に添うもの」とだけの評がある
『万葉集全訳注』〔中西進・講談社文庫、昭和58年成〕の「注」に、
「底本には『七夕歌一首』に滅(け)ち点があり、『万葉考』は削る」とある
桜楓社や、塙書房の「本文篇」をみても、「七夕歌一首」に、何も「注」はないが
真淵の時代には、「七夕歌」らしからぬ、としてこの題詞を削除していたのだろうか

 
 
 
 
 掲題歌[2014]についての資料  関連歌集については、[諸本・諸注 その他の歌集]  

[収載歌集]

柿本人麻呂歌集

柿本人麿集 私家集大成第一巻-4(冷泉家時雨亭叢書『素寂本私家集西山本私家集』)
  ユフツヽモユキカフソラヲイツマテカ アフキテマタムツキヒトオトコ
 柿本人麿集上 秋部 七夕 万十 136


赤人集 ([三十六人集]撰、藤原公任[966~1041])】

新編私家集大成第一巻-新編増補 赤人集Ⅲ[陽明文庫蔵三十六人集]
  ゆふこむかかよふそらまていくときか あふきてまたむ月ひとおとこ
 あきのさふ 173
新編私家集大成第一巻-6 赤人集Ⅱ[書陵部蔵三十六人集]
  ゆふつくよかよふそらまていつとてか あふきてまたむ月人おとこ
 秋雑歌 160
新編私家集大成第一巻-5 赤人集Ⅰあかひと[西本願寺蔵三十六人集] 
  ゆふつゝもかよふそらまていつときか あふきてまたむ月人をとこ
 あきのさふのうた 281
新編国歌大観第三巻-2 赤人集[西本願寺蔵三十六人集]
  ゆふづつもかよふそらまでいつときかあふぎてまたむ月人をとこ
 あきのざふのうた 281


古今和歌六帖 ([永延元年(987年)頃]撰、兼明親王・源順か)】

新編国歌大観第二巻4 [宮内庁書陵部蔵五一〇・三四] 
  ゆふつづもかよふあまぢのいつしかとあふぎてまたん月人をとこ
 第一 天 星 377 


夫木和歌抄 (延慶三年頃[1310年頃]、撰勝間田長清)】

編国歌大観第ニ巻16[静嘉堂文庫蔵本] 題不知、万十 人丸
  夕づつも通ふ天ぢのいつしかもあふぎてまたむ月人をとこ
 巻第十九 雑部一 星 7704 人丸


歌学書袖中抄 (文治二、三年頃[1186,1187]作、顕昭[1130~1209])】
鎌倉初期の和歌注釈書。
《顕秘抄》と題する3巻本もあるが、一般にはそれを増補したとみられる20巻本をさす。
1186‐87年(文治2‐3)ころ顕昭によって著され仁和寺守覚法親王に奉られた。
《万葉集》以降《堀河百首》にいたる時期の和歌から約300の難解な語句を選び,
百数十に及ぶ和・漢・仏書を駆使して綿密に考証。顕昭の学風を最もよく伝え,
《奥儀(おうぎ)抄》《袋草紙》とならぶ六条家歌学の代表的著作 [世界大百科事典より]

新編国歌大観第五巻-299 袖中抄[日本歌学大系別巻二]
  ゆふづつも行きかふそらのいつまでかあふぎて待たん月人をとこ
 袖中抄第十六 750


【歌学書袋草紙 (平治元年(1159)以前に一旦は成立。後、清輔自身や顕昭・季経らにより追記か】
平安末期の歌論。藤原清輔著。上下2巻。
上巻は1157‐58年(保元二‐三)に成立,59年(平治元年)二条天皇に奏覧され,
下巻(和歌合次第,袋草紙遺編とも)も59年までに成立。
上巻は歌会の作法,雑談(和歌説話)など,下巻は歌合の作法,判詞などについて記す。
六条家の代表的歌論である。また,雑談の部分が《十訓抄》の資料になったり,
《清輔雑談集》として刊行されるなど,説話集としても広く読まれた。[世界大百科事典より]

日本歌学大系2により、追加の証歌(593番歌)以降は「和歌文学研究54」(陽明文庫本)による

新編国歌大観第五巻-295 袋草紙[日本歌学大系二・和歌文学研究五四<陽明文庫本>]
  夕づつも行きかふ空のいつまでかあふぎてまたん月人をとこ
 下巻 706


【『校本万葉集』〔佐佐木信綱他、大正12年成〕の面白さ】[2014年3月8日記]

先日手にした『校本万葉集』、復刻版なので、なかなか読み辛いところもあるが、その内容は、確かに面白い
「注釈書」のような、歌の解説ではなく、その歌の本来の表記の姿を出来るだけ復元しようとする書では、もっとも新しいものだと思う
とはいえ、それでもまだ昭和になる前の書だから、古さはあるのだろうが、かと言って、それ以降の書が、注釈に重きを置いているばかりで
こうした「諸本」の校合を広く行い、それが中世の頃の「校本」に次ぐ形で刊行されたのは、素人の私でも嬉しいものだ
底本は、広く用いられている『西本願寺本』ではなく、『寛永版本』としている

[諸本・諸注については、「諸本・諸注、その他の歌集」]
 


 [本文]「夕星毛徃來天道及何時鹿仰而將待月人壯
     「ユフツヽモ カヨフアマチヲ イツマテカ アフキテマタム ツキヒトヲトコ」(「【】」は編集)
       頭注  袖中抄、「万葉云(中略)ユフツヽモ ユキカフソラノ イツマテカ アフキテマタム ツキヒトオトコ」
赤人集、「
ゆふつゝもかよふそらまていつときかあふきてまたむ月人をとこ」
 〔本文〕
  「及」 『類聚古集・神田本』「乃」
  「壮」 『神田本』「○【おそらく、「忄」に「土」】」
『西本願寺本・細井本・活字無訓本』「牡」
 〔訓〕
  ユフツヽモ 『大矢本・京都大学本』「ツヽ」青
  カヨフアマチヲ 『元暦校本』「ゆきかふそらを」
『類聚古集』「ゆきかふうらは」。漢字ノ左ニ「カヨフアマチヽノ 
」アリ
  アフキテマタム 『元暦校本』「あふきてまたも」。「も」ノ右ニ赭「ム」アリ
『類聚古集』「あふまてまたむ」
  ツキヒトヲトコ 『西本願寺本・細井本・温故堂本』「ツキヒトオトコ」
 〔諸説〕
○[夕星毛ユフツヽモ]『万葉集古義』「毛」ハ「之」ノ誤カ。訓「ユフヅツノ」 
○[月人壮]『万葉集略解』「壮」ノ下「子」脱トス。『万葉集古義』「月人壮」ヲ可トス


近代までの注釈書の掲題歌】

中世、近世、近代の注釈書 (私の範囲で確認できたもの・文中歌番はそのままの旧国歌大観)    
  [2014] 
  『万葉拾穂抄』〔北村季吟、貞享・元禄年間(1684~1704)成〕 
  〔ゆふつゝもかよふあまちをいつまてかあふきてまたん月ひとおとこ〕
  夕星毛徃來[イゆきかふ]天道及何時鹿仰而将待月牡

   ゆふつゝもかよふあまち 類聚にはゆふつゝもゆきかふそらにと和ス同義か和名に長庚をゆふつくとよみて暮に西方にあらはるゝ大白星の一名といへり月人男は此集十五にも七夕歌におほふねにまかちしゝぬきうなはらをこき出てそくる月人おとことあるをも月讀男也と童蒙抄にはいへり八雲御抄にも月ひとおとこは月の事と注せさせ給ふされは此哥の心も夕つゝも毎夜かよふ天の道をいつまてか月のみ待て彦星を待出さらんと也織女の心になりてよめるなるへし
  万葉代匠記(精撰本)』〔契沖、元禄三年(1690)成〕[萬葉集代匠記惣釋 僧契冲撰 木村正辭校] 
  〔ユフツツモカヨフアマチヲイツマテカアフキテマタムツキヒトヲトコ〕  
  夕星毛徃來天道及何時鹿仰而將待月人壯
   往來天道を袖中抄にゆきかふそらのとあるは道の字を和せず、及何時鹿を六帖にいつしかとゝあるは及の字を忘たり、月人壯は此下にも二首よみ第十五にも七夕の歌によめり、牽牛の異名と聞ゆ、月讀男など月を讀には替れる歟、未考得、
  『万葉集童蒙抄』〔荷田春満、信名、享保年間(1716~35)成〕 
  〔ゆふづつも、かよふあまぢを、いつまでか、あふぎてまたん、つきひとをとこ〕 
  夕星毛往來天道及何時鹿仰而將待月人壯

   夕星 太白星とも長庚とも云ふ。前に注せり。歌の意兩案ありと見ゆる也。諸抄の意は、織女の彦星を月人杜と稱して詠める歌と注せり。宗師案は、夕星も通ふ天路なれ共、道あかゝらん爲に、年に一度の七夕の夜を待ちわびるとの意にて、いつ迄かとは、待つ事の久しきと云へる意と也。愚意未徹
愚案は 夕づつさへ通ふ天道を、何とて月人杜は年に一度ならでは來らずして、斯く何時までか仰ぎて待たんと、恨みたる歌とも聞ゆる也。又月人男の、織女を何時までか待たんとよみて、星だに通ふ天道なるに、月人の何とて斯く待つやと星と月とを戰はしてよめる共聞ゆる也。又愚案、星だに通ふ天道を、月の何時までかく仰ぎて待たん出てゆかんにと、七夕の夜にならぬ前をよめる意とも聞ゆる也。後二義の案は、人の牽牛織女を思ひやりて、よめる意也。其身になりてと見ても意は通ふらんか
  『万葉考』〔賀茂真淵、宝暦十年(1760)成〕 
 夕星毛[ユフツヾモ]、夕星の事冠辭考に委し
 【和名抄に太白星名長庚暮見於西方爲長庚(由不豆々)卷二に夕星之彼往/此去[カクユキ]大船(ノ)猶予不足[タユタフ]見者云云長庚星の或暮西に往或晨東に去て見るに譬へたるなり眞淵】
 往來天道[カヨフアマヂヲ]、及何時鹿[イツマデカ]、仰而將待、月人壯[ツキヒトヲトコ]、
   月人壯は下にも彦星をかく譬し有こはみかほしむといふほどのたとへなり歌の意は夕星すらとゆきかくゆくにいつまでか遠くむかひたちて彦星をあふぎてまたんやと織女[タナバタツメ]のなげゝるなり
  『万葉集略解』〔橘千蔭、寛政十二年(1800)成〕[日本古典全集刊行会、1926年、与謝野寛他] 
  〔ゆふづつも。かよふあまぢを。いつまでか。あふぎてまたむ。つきひとをとこ。〕
  夕星毛。往來天道。及何時鹿。仰而將待。月人壯。
   巻二、夕づつのかゆきかくゆきと詠めり。和名抄、長庚(由不豆豆)月人ヲトコは此下にも有り。彦星を言へり。壯の下、子脱せり。下に例有り。
  『万葉集古義』〔鹿持雅澄、天保十三年(1842)成〕 
  〔ユフヅツノ。カヨフアマヂヲ。イツマデカ。アフギテマタム。ツキヒトヲトコ。〕
  タ星毛往來天道及何時鹿仰而將待月人壯

   星毛は、もしは毛は、之(ノ)字などの誤にはあらざるか、毛とありては穩ならざればなり、されば姑(ク)ユフヅツノと訓つ、夕星[ユフヅヅ]は、二(ノ)卷、五(ノ)卷にありて既く云う、俗によひの明星と云是なり、
○月人壯[ツキヒトヲトコ]の下、子(ノ)字を脱せり、と略解に云れど、十六に、飛鳥壯蚊[アスカヲトコガ]、又、舍人壯裳[トネリヲトコモ]など見えたれば、猶もとのまゝにてもあらむ、
○歌(ノ)意は、夕星のかよふ夕(ヘ)の天[ソラ]を仰て、月の出來むをいつまでか待つゝ居むぞ、となるべし、中山(ノ)嚴水云、月人壯は彦星の異名にやと、契冲が説るは誤ならむ、集中、月のことを、月人壯子[ツキヒトヲトコ]とよみたれば、此(ノ)歌は月を待(ツ)歌なるが、まぎれて七夕の歌中に入たるならむ、
 
 
  『万葉集新考』〔井上通泰、大正4~昭和2年成〕 
  〔ゆふづつ毛[モ]かよふ天道[アマヂ]をいつまでかあふぎてまたむ月人をとこ]
  夕星毛往來天道及何時鹿仰而將待月人壯
   月人ヲトコヲ待タムとなり。初句の毛を古義に之の誤字とせり。こは待つ事久しうして長庚の運行も感知せらるゝ趣なればなほ毛とあるべし。古義に
  此歌は月を待歌なるがまぎれて七夕の歌の中に入たるならむ
といへる如し。契沖は『月人ヲトコは牽牛の異名と聞ゆ』といひたれどアフギテマタムとあれば地上の人の空を仰げるにて織女が牽牛を待てる趣にあらず
  『口訳万葉集』〔折口信夫、1916~17年成〕 
 夕星[ユフツヾ]も通ふ天路[アマヂ]を何時迄か仰ぎて待たむ。月人壯夫[ツキビトヲトコ]
   宵の明星が往つたり來たりする天上の路をば、いつ迄振り仰いで、妻に逢ふ日を、空しく待つてゐようとするのか。月の中の男なる彦星は。
  万葉集全釈』〔鴻巣盛広、昭和5~10年成〕 
  〔ゆふづつも 通ふ天路を いつまでか 仰ぎて待たむ 月人をとこ〕
  ユフヅツモ カヨフアマヂヲ イツマデカ アフギテマタム ツキヒトヲトコ
  夕星毛往來天道往來天道及何時鹿仰而將待月人壯
   既ニ日モクレテ、宵ノ明星モ、天ヲ通フ頃トナツタノニ、アノ天ヲ仰イデ、月ヨ、ワタシハ彦星ノ來ルノヲ何時マデ待ツノデアラウゾ。
○夕星毛[ユフヅツモ]――夕星[ユフヅツ]は和名抄に長庚由不豆々とあり、即ち太白星のことである。
○月人壯[ツキヒトヲトコ]――月をいふ。左佐良榎壯子[ササラエヲトコ](九八三)に同じ。代匠記にこれを彦星のこととし、略解もそれに從つてゐるが誤であらう。
〔評〕 織女が彦星の來ることの遲いのを待ちわびて、月に言ひかける言葉であらう。仰而將待[アフギテマタム]の句が天の川を隔ててゐるものを待つとしては、ふさはしくないとの考から、古義には月を待つ歌として「此歌は月を待歌なるがまぎれて七夕の歌の中に入たるならむ」とあるが、七夕の夜に月を詠んだ歌は卷十五に七夕歌一首、於保夫禰爾麻可治之自奴伎宇奈波良乎許藝弖天和多流月人乎登□[示+古][オホフネニマカヂシジヌキウナバラヲコギデテワタルツキヒトヲトコ](三六一一)とあるから、月を詠ずるのも不思議はないのである。これはここの七夕歌中では佳作であらう。
 『万葉集全註釈』〔武田祐吉、昭和23年~25年成〕  
   〔夕星も 通ふ天道を、何時までか、仰ぎて待たむ。月人壯子〕
  ユフヅツモ カヨフアマヂヲ イツマデカ アフギテマタム ツクヒトヲトコ
  夕星毛往來天道及何時鹿仰而將待月人壯
  【譯】夕方の星の通う天の道を、何時までも仰いで待つていることか。月の男を。
【釋】夕星毛 ユフヅツモ。ユフヅツは、夕の星で、金星をいう。ユフは夕方、ツツは神靈の義。
   往來天道 カヨフアマヂヲ。アマヂは、天の通路。
   月人壯 ツクヒトヲトコ。月を擬人化している。
【評語】七夕の夜の歌だが、牽牛織女の傳説には關係なく、月を待つ心が詠まれている。七日の月だから早く出ているはずだが、題詠化されてかような歌になつたのだろう。卷の十    五にも七夕の歌と題して、「大船に眞楫しじ貫き海原を榜ぎ出て渡る月人をとこ」(卷十五、三六一一)という歌がある。
 『評釈万葉集〔佐佐木信綱、昭和23~29年成〕 
 〔夕星も通ふ天道を何時までか仰ぎて待たむ月人壯子〕
 ユフヅツモ カヨフアマヂヲ イツマデカ アフギテマタム ツキヒトヲトコ
 夕星毛往來天道及何時鹿仰而將待月人壯
  【譯】日が暮れて、宵の明星も空の道を通ふ頃となつたのに、いつまでまあ私は空を仰いで、彦星の君を待つことでせうか。ねえ、お月様。
【評】空には宵の明星も輝き出した。月も出た。彦星はまだお見えにならぬ。私は何時まで待つてゐなくてはならぬのかと、織女が焦慮を月に愬へたのであらう。童話的な可憐な趣がある。或は、「三六一   一」による、月人を彦星にたとへたものとも解される。古義には、月を待つ歌が誤つて入つたものと解して居る。
【語】○夕星 太白星即ち金星のこと。「一九六」参照。
   ○月人壮子 月を人格化した語で、下にも「二〇四三」「二〇五一」「二二二三」等に見える。ここは呼びかけとして上述の如く解した。
 万葉集私注〔土屋文明、昭和24~31年成〕 
  〔夕星も通ふ天路を何時までか仰ぎて待たむ月人男〕
 ユフボシモ カヨフアマヂヲ イツマデカ アフギテマタム ツキヒトヲトコ
 夕星毛往來天道及何時鹿仰而將待月人壯
  【大意】夕べの星、牽牛も通ふ天の路を、何時まで仰ぎ見て待つのであらうか。月は。
【語釈】ユフボシモ 古くからユフヅツモと訓まれる。ユフヅヅは、宵の明星、金星のことであるが、ここは星の名でなく、夕べの星の意で、牽牛を指して居ると見える。訓もユフボシモとすべきであらう    補巻「巻第十刊行に際して」参照。
    ツキヒトヲトコ 月を擬人的に呼ぶのである。
【作意】牽牛は織女のもとへ、天路を通つて行くといふのに、お前は、何時まで待つて居ルのかと、曾ふべき人のない月に同情する人間の心持であらう。七夕の歌中であるから、夕星は七夕の黒、即ち牽牛    と見るべきである。の別離を、
  『万葉集注釈』〔澤潟久孝、昭和32~37年成〕 
   〔夕星も かよふ天道を 何時までか 仰ぎて待たむ 月人ヲトコ〕
  ユフボシモ カヨフアマヂヲ イツマデカ アフギテマタム ツキヒトヲトコ
  夕星毛往來天道及何時鹿仰而將待月人壯(『元暦校本』)
  【口訳】日が暮れて宵の明星も通うてゐる天道を、私はいつまで待つ事であらうか。お月様を。
【訓釈】夕星―宵の明星と云はれる金星(2・196)。
    仰ぎて待たむ 月人ヲトコ―月人をとこは「さゝらえ壮子」(6・983)、「月読壮子」(6・985)と同じく月の事であるが、『代匠記』に「此哥にてはひこぼしの異名と聞えたり。下の二十八葉二十九    葉にもよめり」といひ、『考』、『略解』など従つてゐる。しかし「月人をとこ」はこの先の二首(二〇四三、二〇五一)もやはり月と見るべきやうである。そこで『全釈』には「月ヨ、ワタシハ彦    星ノ來ルノヲ何時マデ待ツノデアラウゾ」と訳され、斎藤氏の評釈にも「月にむかつて呼びかけて居る趣の歌である」とある。しかし「いつまでか仰ぎて待たむ」だけで、彦星を待つととるのは無    理なやうに思はれる。『古義』には「中山嚴水云」として契沖の説を「誤ならむ、集中、月のことを月人壮子[ツキヒトヲトコ]とよみたれば、此歌は月を待つ歌なるが、まぎれて七夕の歌中に入た    るならむ」といひ、『新考』にも「アフギテマタムとあれば地上の人の空を仰げるにて織女が牽牛を待てる趣にあらず」と云つてゐる。今迄にも七夕の作でないものが二首(1998、1999)あつたので    あり、これも七夕の作でなく、月を詠んだ作と見るべきものと思はれる。

【考】赤人集「かよふそらまでいつときか」、流布本「夕つゝに」「いつとてか」とあり、古今六帖(一「星」)「通ふ天路のいつしかと」、夫木抄(十九「星」)萬葉のまゝ作者を人丸とある。
 


 



 
「つまどふまでは」...ことだにつげむ...  
 
  『いむかひたちて』


 【歌意2015】
天の川に佇み、あなたと向き合い立っている、
私の恋心の深さが、どんなものかということを
その想いを、あなたに知らせたいものだ
あなたに、逢いに行くまでは...
 
 
一年に一度の逢瀬が約束されている
それなのに、「天の川」に佇めば、愛しい人を見ることができる
それも苦痛には違いない

天上の世界の情景として描けば、
その切なさなど半減しよう...
「切なさ」というのは、現実であるからこそ、言葉に出来るものだ
目の前の「川」を、容易に渡河できないのに
あなたは、私の目の前にいる
手を差し出せば、あたかも引き寄せることが出来るかのように
あなたが、その手を待っていることは承知しているが
今は...この川を、想いに任せて渡ることは出来ない
どれほどの逡巡を得たのだろう

この想いこそを、とにかく知らせたい
愛しい人に、「妻問ふ」時になれば、必ずこの「川」を渡る
どんな深みがあろうと、どんな早瀬であろうと
私は、この川を必ず渡ってみせる

だからこそ、悲しみにしおれることないように
この想いは、伝えておきたい...

「つまどふ」を「つまといふ」と訓み、また「言ふ」の解釈を用いた書も多い
右の「注記」にも書いたように
「ことだにつげむ」を解釈するなら、
せめて言葉だけでも伝えよう、とするのが無理なく理解出来る解釈だが
そうなると、結句の訓解釈では、「言う」を重ねて用いる必要はなくなる

そんな無理やりに解釈した注釈書が目に付く
例えば、下段資料の『全註釈』は、
「天の川に向かい立つて戀うという事に、言葉だけでも告げよう。妻といふまでは」
結句の訳し方が、この歌全体の「日本語」を崩しているように感じられてならない
倒置法の用法で詠われている歌は、そこに「強調」がある
だから、この歌のこの注釈書のままに置き換えると、
妻と言うまでは、言葉だけでも告げよう」となる
しかし、これで一つの意味を持つ文章になるのだろうか

まるで外国の文章を、ほぼ直訳したかのような「ぎこちなさ」があると思う

そして、倒置法を平文に置き換えた「つまどふ」の例を、『評釈万葉集』で挙げると、
「天の河の岸に向ひ立つて、織女を戀ひ慕つてをるといふ、せめてそのことを伝言だけでもして置きたい、七夕の夜が来て親しく妻を訪ふまでは」は、
親しく妻を訪ふまでは、伝言だけでもしておきたい
これが「日本語」ではないか

やはり「言ふ」ではなく「とふ(問ふ)」でなければ、この歌は成り立たない、と思う
あとは「言」を「トフ」と訓む「名義抄」の解説を、この目で確かめたい気もする

「言」と「事」が語源は同じであることは、理解出来た
しかし、「言」に備わる語義の中で、古語の「問ふ」に通じる意味があるのかどうか
それを知りたくなる
そして、確かに自動詞「言ふ」に、「言い寄る・求婚する」とあった
(一般的な「話す・言葉で表現する」意の動詞「言ふ」は他動詞)
これは、普通に考えれば、逢わなければ出来ない行為だ
「求婚する」は、人伝にでも可能だろうが、
「言い寄る」となれば、相手を目の前にしてこそ出来るものだ

そこから「言」を、尋ねる意を持つ「とふ」と解釈する「義訓」になるのかもしれない
 
 
[万葉集類想歌]
この歌の「類想歌」としては、既出の〔書庫-18 2010〕が挙げられるが
その解釈記事でも書いたように、どんな歌意に基づいての「類想」なのか、
たんに、「ことだにも つげにぞきつる」という表現なのだろうか、とも思う
しかし、次の歌は、私には「類想」というよりも、
掲題歌との関連性が非常に高いと思う
〔4151〕作者の家持は、あたかも掲題歌を参考にして詠んだのでは、と思えてならない
それを前提にするのは、素人の私だから出来ることだが
すると、この歌の結句「つまどひのよぞ」の意味が、どうしても掲題歌に重なってしまう
千蔭が唱えた「誠の妻と言うまで」、と言うのではなく
実際に、「逢いに行く」情景が詠われている
私は、少なくとも、家持はそんな解釈だったのではないだろうか、と思う


 
 (七夕歌一首[并短歌]反歌二首)
   夜須能河波 許牟可比太知弖 等之乃古非 氣奈我伎古良河 都麻度比能欲曽
    安の川こ向ひ立ちて年の恋日長き子らが妻どひの夜ぞ
   やすのかは こむかひたちて としのこひ けながきこらが つまどひのよぞ
    右七月七日仰見天漢大伴宿祢家持作
 巻第十八 4151 七夕 大伴宿禰家持
 〔語義〕
「やすのかは」は、「天の安の川」の略で、天上にあるという川、
後に「七夕伝説」と融合して、「天の川」となる
「こむかひたちて」の「こ」の万葉仮名「許」は、諸本は確かに「許」で「こ」と訓むのだろうが、『万葉集古義』で「伊」の誤字とし、この歌でも掲題歌と同じような諸説を挙げることになる [
注記、接頭語「い」]
「とし」は、一年、という「七夕歌」によく使われる
「けながし」は、日数が多い、時日が長く経過する
「つまどひ」は、「異性を恋慕って言い寄ること・求婚・恋人のもとへ通うこと」
 〔歌意〕
安の川に向き合って立ち、
一年間もの長く恋慕う日を待った若者たちよ、
今夜は、妻問いの夜だぞ
 

掲載日:2014.06.15   [「一日一首」2014年5月14日付けの解釈]


 
 秋雑歌 七夕
   天漢 已向立而 戀等尓 事谷将告 □言及者 [□女+麗]
    天の川い向ひ立ちて恋しらに言だに告げむ妻どふまでは
   あまのがは いむかひたちて こひしらに ことだにつげむ つまどふまでは
 巻第十 2015 秋雑歌 七夕 柿本人麻呂歌集出


[収載歌集]
柿本人麻呂歌集】〔127〕

赤人集】〔215・334〕

[万葉集類想歌]
つまどひのよぞ】〔4151〕
【なげかすつまに】〔既出、書庫-18 2010

[資料]
掲題歌資料〔校本万葉集及び近代までの注釈書〕
七夕】〔中華民国[国立成功大学、成大宗教與文化学報 第七期 論文]〕
織女と牽牛】〔講談社学術文庫「星の神話・伝説」野尻抱影



 【2015】 語義 意味・活用・接続
 あまのがは [天漢] 「天の川」 既出、書庫17〔あまのがは〕  
 いむかひたちて [已向立而] 
   [接頭語]上代  動詞について、調子を整えたり意味を強めたりする [注記に例語]
 こひしらに [戀等尓]  
  に [格助詞]  [原因・理由] ~によって・~により〔接続〕体言、連体形につく
 ことだにつげむ [事谷将告] 
  こと [事]  事情・意味・現象・行為
  だに [副助詞]  [強調] せめて~だけでも〔接続〕体言、活用語、副詞、助詞につく
  つげ [告げ]  [他ガ下二・未然形] 知らせる・伝える
  む [助動詞・む]  [推量・終止形] ~だろう  未然形につく
 つまどふまでは [□言及者] [□女+麗]
  どふ [問ふ・訪ふ]  [他ハ四・連体形] 尋ねる・気遣う・訪問する
  まで [副助詞]  [限度] ~まで (動作・作用の及ぶ時間的・空間的な限度を表す)
  は [係助詞]  [とりたて(題目)] ~は 〔接続〕助詞など種々の語に付く

「古語辞典」は掲載歌を基本に、と思っているが、なかなか実行できず未完、継続中
「枕詞一覧」もやっと載せることができた
ただし、「かかり方の理由」は「古語辞典」からのみなので、
今後は「詳説」に触れ次第補充してゆく
その点でも不充分であるし、載せた語数においても、284語と、およそ言われている半分程度だ
しかし、一応その都度古語辞典を引っ張り出さない程度の気安さにはなる   
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注記 
[接頭語「い」]
この第二句は、旧訓に諸説があり、それは下段資料の『注釈』にも詳しく書かれている
そもそも、「已(い)」、「巳(し)」、「己(こ)」の字は、ほんの少しの違いで誤読されやすく
古注釈書では、『童蒙抄』がそのことを書いている
『代匠記』では、「こむかひ」と訓み、その訓読では「来向」としているが、
『古義』の「旧訓に、イムカヒタチテとあり」とし、それを採っている
諸本で「いむかひ」をあるのは、必ずしもその訓を通すものではなく
諸本でも、「こむかひ」などと併記されているものが多い

 接頭語「い」の例語
い懸かる・い隠る・い通ふ・い刈る・い組む・い漕ぐ・い掘(こ)ず・い副(そ)ふ・い立つ・い辿る・い回(た)む・い繋(つが)る・い継ぐ・い積もる・い泊(は)つ[停泊する]・い這ふ・い拾ふ・い触る・い行き会ふ・い行き憚る・い行き回(もとほ)る・い行き渡る・い行く・い寄る・い別る・い渡る

 
[こひしらに]
原文「戀等尓」は、旧訓では「こふらくに」だが、
諸本の中で、『京都大学本』がその左に赭で「コヒシラニ」とする
しかし、諸注の訓は様々で、
『全釈』は、「コフルトニ」
『窪田評釈・全註釈』は「コフトニシ」、
岩波の「古典大系」では、『新考』のいう、「戀等六爾」の「六」が脱とする説をとり、
「コフラムニ」と訓む

現訓の「こひしらに」となるのは、『全註釈』でも紹介された脇屋眞一案で、
その説を採用した『注釈』以降の
脇屋案の「こひしらに」と訓む根拠は、接尾語「ら」にある
小学館の「新編古典全集』の頭注で載っているのが
「この『ら』は、悲シラ・ワビシラ・清ラなど、形容詞を名詞化する接尾語」とあり、
もっと詳細に書いてあるのが、『全注』で、
「ウマラ・サカシラなどのラと同じく形容詞・形容動詞の語幹について情態をあらわす名詞または形容動詞の語幹を作る機能をもつ」とある
 
[こと]
原文「事」は、奈良時代以前では「言」と同義的な意味を持っていた、という
だから、例外なくどの諸本・諸注も「言」と解している
「ことばだけでも伝えたい」というように...
しかし、口に出していう「言葉」、あるいは「伝言」ではなく
「事」の意味を持てば、どうなるのだろう
「つげむ」とあるのは、必然的に「ことば」を意味するものだ
では、「ことば」そのものを「つげようと」するかのような気になってしまう
私が試したいのは、今現在の自分の気持ちを、「告げたい」という意味合いになるのなら
その「今現在の自分の気持ち」という「事」を言うのではないかと思っている
それを、「告げたい」と


たとえは適切ではないかもしれないが、
現代でも、誰かに「~さんに逢ったら、よろしく言ってくれ」と頼まれたとする
そして、その「~さん」に逢ったとき、「~が、よろしく、と言っていたよ」という
それは、大きな間違いだと思う
それこそ「伝言」そのものだ
頼んだ相手の真意は、
「私は、今こうなんだよ」とか「元気にしている」...とか
あるいは、もっと細かなことを含めて、頼む相手に、
そこのところを、考えて伝えてくれよ、という意味のはずだ

この歌の「事」には、その類の意味があるはずだ
決して「言」で、「ことば」そのものを「つげむ」ではない、と思う
 
[副助詞[だに]
この副助詞「だに」には、
強調「せめて~だけでも・~だけなりと」
類推「~だって・~のようなものでさえ」
添加「~までも」
以上の用法があるが、
奈良時代は、「強調」の用法だけで、まだ起こっていない未来の事柄に関して用いられた
「類推」は、平安時代以降の用法で、「すら」とほぼ同じ意味として使われる
「添加」は、「さへ」が広く使われるようになったために、
逆に、「だに」が「さへ」の意味で使われたもの、と古語辞典にある
 
[つまどふまでは]
原文「(妻)言及者」を、「ツマコトシカハ」とする諸注は多い
しかし、古注釈の『万葉考』辺りまでは、「
つまとふまでは」と異訓を語られず
つまどふまでは」が、初期の「万葉研究」では一般的だったのでは、と思う
その後、『略解』に「
つまといふまでは」と訓釈し、
現代的に言えば、「正式な妻と言えるまで」とのニュアンスが籠められるが
この「
つまといふまでは」も「つまどふまでは」も、
確かに「
つまどふまでは」が多いといっても、「つまといふまでは」もまた
諸注によく出る
現代叢書に至っては、ほとんど「
つまどふまでは」になっている

『日本古典文学大系』〔岩波書店、昭和37年成〕の頭注に、
「妻問ふ―原文、(妻)言。言は「名義抄」に「トフ」の訓がある。今、意をとってツマドフと訓む」とある
これを根拠としているのかどうか、私には解らないが
『全注』などは、その『古典大系』の見解に従う、とする

この先例に従う、という表現の仕方が、私には気になる
たとえば、この歌の第三句「戀等尓(コヒシラニ)」と訓が馴染んでいるのも、
『古典大系』は、『新考』の「恋等六尓」の「六」を脱せるかというに従う、とする
でも、よく考えてみれば、叢書と注釈書では、その方針もまた違う
叢書が、テキストとして、どんな諸本・注釈書を用いるか、ということであり
その研究の詳細は、注釈書に依るところが大きいのだろう


しかし、私が気になるのは、その訓釈ばかりではなく
「つまどひ」という語が、前の句「ことだにつげむ」に影響する、ということだ
それは、左頁の解釈に載せる
 
  
 掲題歌[2015]についての資料  関連歌集については、[諸本・諸注 その他の歌集]
 
[収載歌集]

柿本人麻呂歌集

柿本人麿集 私家集大成第一巻-4(冷泉家時雨亭叢書『素寂本私家集西山本私家集』)
  アマノカハムカヒニタチテコフルトキ コトタニツケムイモコトヽハム
 柿本人麿集上 秋部 七夕 万十 127


赤人集 ([三十六人集]撰、藤原公任[966~1041])】

新編私家集大成第一巻-6 赤人集Ⅱ[書陵部蔵三十六人集]
  あまのかはむかひにたちてこふるとき ことたにつけよいもと(四字分空白)(本)
 秋雑歌 215
新編私家集大成第一巻-5 赤人集Ⅰあかひと[西本願寺蔵三十六人集] 
  あまのかはむかひたちてこふるとき ことたにつけよいもことゝはゝ
 あきのさふのうた 334
新編国歌大観第三巻-2 赤人集[西本願寺蔵三十六人集]
  あまのがはむかひにたちてこふるときことだにつげよいももととはじ
 あきのざふのうた 334

 

【『校本万葉集』〔佐佐木信綱他、大正12年成〕の面白さ】[2014年3月8日記]

先日手にした『校本万葉集』、復刻版なので、なかなか読み辛いところもあるが、その内容は、確かに面白い
「注釈書」のような、歌の解説ではなく、その歌の本来の表記の姿を出来るだけ復元しようとする書では、もっとも新しいものだと思う
とはいえ、それでもまだ昭和になる前の書だから、古さはあるのだろうが、かと言って、それ以降の書が、注釈に重きを置いているばかりで
こうした「諸本」の校合を広く行い、それが中世の頃の「校本」に次ぐ形で刊行されたのは、素人の私でも嬉しいものだ
底本は、広く用いられている『西本願寺本』ではなく、『寛永版本』としている

[諸本・諸注については、「諸本・諸注、その他の歌集」]
 

 [本文]「天漢巳向立而戀等爾事谷將告□言及者【□[女+麗]
     「アマノカハ コムカヒタチテ コフラクニ コトタニツケム ツマトフマテハ」(「【】」は編集)
       頭注  『元暦校本』別行仮字ノ訓ナシ。余白アリ。漢字ノ右ニ赭片仮字ノ訓アリ、コレニテ校ス。
『類聚古集』訓ヲ附セズ
赤人集「
あまのかはむかひたちてこふるときことたにつけよいもことヽとはし」
 〔本文〕
  「言」 『元暦校本』「□【判読出来ず】」。左ニ墨「言」アリ
 〔訓〕
  コムカヒタチテ 『元暦校本・神田本』「ワレムキタチテ」
『細井本』「己向」ノ左ニ「ワレムキ」アリ
『京都大学本』「己向」ノ左ニ赭「ワレムキ/ヰムカヒ」アリ。赭ニテ「ワレムキ」ト右ノ訓トヲ入レ換フ可キヲ示セリ。マタ赭頭書「己向(ワレムキ/コムカヒ/ヰムカヒ」アリ
  コフラクニ 『京都大学本』漢字ノ左ニ赭「コヒシラニ」アリ
  ツマトフマテハ 『元暦校本・神田本』「ツマコトシカハ」
『西本願寺本』七字モト青
『細井本』漢字ノ左ニ「ツマコトシカハ」アリ
『大矢本・京都大学本』「トフマテ」、『京』「言及者」ノ左ニ赭「コトシカハ」アリ
  ツキヒトヲトコ 『西本願寺本・細井本・温故堂本』「ツキヒトオトコ」
 〔諸説〕
○[コムカヒタチテ]『万葉集古義』「イムカヒタチテ」 
○[戀等爾]『代匠記精撰本』「コフルト」、『童蒙抄』「コフカラニ」トモス、『万葉考』「等」ハ「樂」ノ誤、『万葉集古義』「等爾樂ハ誤ニテ訓「コヒムヨハ」トス
○[コトタニツケム]『童蒙抄』「コトタニツケメ」、
○[□[女+麗]言及者ツマトフマテハ]『万葉集古義』、中山巖水、「言」ヲ「竒」ニ作ルニヨリ「竒」ハ「寄」ノ誤ニテ訓「ツマヨスマデハ」トス。雅澄説「ツマヨルマデハ」


近代までの注釈書の掲題歌】

中世、近世、近代の注釈書 (私の範囲で確認できたもの・文中歌番はそのままの旧国歌大観)    
  [2015] 
  『万葉拾穂抄』〔北村季吟、貞享・元禄年間(1684~1704)成〕 
  〔あまのかはこむかひたちてこふらくにことたにつけんつまとふまては〕
 
天漢已向立而戀等尓事谷将告□[人偏+麗]言及者

   あまのかはこむかひ こは助字こふらくには戀らんにと云也つまとふまてには彼方にとひゆき逢まての慰めに言傳たに告んと也
  万葉代匠記(精撰本)』〔契沖、元禄三年(1690)成〕[萬葉集代匠記惣釋 僧契冲撰 木村正辭校] 
  〔アマノカハコムカヒタチテコフラクニコトタニツケムツマトフマテハ〕  
 天漢巳向立而戀等爾事谷將告□[女+麗]言及者
   巳向立而は來向立而なり、戀等爾は今按コフルトニとも讀べきか、くもじの讀がたければなり、但人丸集の歌は殊に文字簡古なれば讀付たるにても侍りなむ、此は彦星に成てよめりとも聞え又外よりの意とも聞ゆ、
  『万葉集童蒙抄』〔荷田春満、信名、享保年間(1716~35)成〕 
  〔あまのかは、こむかひたちて、戀等爾、ことだにつげめ、つまとふまでは〕 
 
天漢己向立而戀等爾事谷將告※[女+麗]言及者
   歌の意は、天の河原に向ひ立ちて待つ程に、言の葉をなりとも通はさめ。年に一度の逢ふ夜まではと云意と見る也。逢ふまではせめて言葉なり共聞え通はさんと云意也。□[女+麗]言は何れの方へなり共、二星の内行きてとふ迄はと云意也。先づは彦星の歌と見んか。つまとは男女通じて云へば、決しては云ひ難けれど、先□[女+麗]の字に付て織女の方へ來りとふ迄はと見る也
己向 己は發語也。此字は同形宇あり。いと云字又みとも訓ず字ありて、三字ながら初語也。己已巳如此紛敷字也。然れ共皆發語に被用、被訓る字也。字義は字書にて可考也。此歌にては發語の詞に用ひたり。射向立而とも書けり。相向立とも書く、是もみむかひ也
戀等爾 此は戀ふるからとか、戀ふるとにとか讀べし。印本には戀ふらくにと讀むは無理也。久の落たりと見ての意か。戀ふるとには、戀ふと云意、爾は助語と見る也。ともがらと讀む故、戀からに共讀べしと也。戀ふるとには、我かく河向立てこふと妹に告げんとの意から、にと讀む意は、妹を戀慕ふ故に、ことだに告げんとの意と見る也。好む所に從ふべし
  『万葉考』〔賀茂真淵、宝暦十年(1760)成〕 
 天漢[アマノガハ]、
 己向立而[コムカヒタチテ]、 己は借字來向なり(卷十二)相むきたちて又(卷十八)安川許牟可比太知弖戀樂爾、 
 事谷將告、 事は言なり
 孃言及者[ツマトフマデハ]、
   つまといふまではなりこも其夜にかぎらぬなり
  『万葉集略解』〔橘千蔭、寛政十二年(1800)成〕[日本古典全集刊行会、1926年、与謝野寛他] 
  〔あまのがは。こむかひたちて。こふらくに。ことだにつげむ。つまといふまでは。〕
 
天漢。已向立而。戀等爾。事谷將告。孋言及者。
   コムカヒのコは此[ココ]ヨリの略。卷十八長歌に、安の川/許牟可比太知弖[コムカヒタチテ]と有り。是れは牽牛の未だ織女を得ずして、戀ふるさまに詠み成したるなるべし。ツマトイフマデニは、誠の妻と言ふまでにの意か。言、元暦本に奇に作る。猶誤字ならんか。
 參考 ○已向立而(考)略に同じ(古、新)イムカヒタチテ ○戀等爾(代)コフルトニ(考、新)略に同じ(古)コヒムヨハ「等爾」を「從者」とす ○事谷將告(新)コトダニツゲヨ「將」を衍とし「告」の下に「與」を補ふ ○嬬言及者(考)ツマトフマデハ(古)ツマヨスマデハ「言」を「寄」の誤とす(新)ツマトイフカラハ「及」を「柄」の誤とす。
  『万葉集古義』〔鹿持雅澄、天保十三年(1842)成〕 
  〔アマノガハ。イムカヒタチテ。コヒムヨハ。コトダニツゲム。ツマヨスマデハ。〕
 天漢己向立而戀等爾事谷將告孋言及者

   已向立而は、舊訓に、イムカヒタチテとあるよろし、廿(ノ)卷にも、已を伊[イ]の假字に多く用(ヒ)たるをも思ふべし、此(ノ)下に、天漢射向居而[アマノガハイムカヒヲリテ]、とあるに同じく、伊[イ]はそへ言なり、又十八に、夜須能河波許牟可比太知弖[ヤスノガハコムカヒタチテ]云々、とあるも、許は伊(ノ)字の誤にて、イムカヒタチテなるべし、(岡部氏が、今のをも十八なるをも、コムカヒと訓て、從此鳴渡[コユナキワタル]など云/從此[コユ]の格言なり、と云るはあらず、)
○戀等爾は、通[キコエ]難し、八(ノ)卷に、玉切命向戀從者公之三舶乃梶柄母我[タマキハルイノチニムカヒコヒムヨハキミガミフネノカヂツカニモガ]、とあるによりて考(フ)るに、等爾は、從者か自者かを誤れるなるべし、さらばコヒムヨハと訓べし、(岡部氏は、等は樂の誤なり、コフラクニと訓べし、といへり、字形は近ければ、さもあるべきがごとくなれど、さては歌(ノ)意穩ならず、)
○孋言及者(孋(ノ)字、拾穂本には儷と作り、言(ノ)字、元暦本には奇と作り、)は、中山(ノ)嚴水云、言を奇に作るによるに、奇は寄の誤にて、ツマヨスマデハなるべし、(按に、儷[ツマ]の寄來[ヨリク]る謂なれば、ツマヨルと云べき理なるに似たり、ツマヨスと云ては、主とあるものありて、其(レ)が令[オホセ]てよする義となれば、すこしいかゞなるやうなれど、妻余斯來世禰[ツマヨシコセネ]などもいひて、いつくにても妻ヨスといふが定にて、ツマヨルといへることなければ、なほツマヨスと訓べきなり、)
○歌(ノ)意は、七日の夕になりて、天(ノ)河に向立て、空しく戀しく思はむよりは、孋寄せ來るまでは、せめて使して、言をなりともつげやらむ、となり、
 
 
  『万葉集新考』〔井上通泰、大正4~昭和2年成〕 
  〔あまのかは已[イ]むかひたちて戀等○爾[コフラムニ]ことだに將告[ツゲナム] □[女+麗]言及者
 
天漢已向立而戀等爾事谷將告□[女+麗]言及者
   第二句の已を己と見誤り又卷十八にヤスノカハ許牟可比太知□[氏/一]とあるに誤られて舊訓及略解に第二句をコムカヒタチテとよみたれどコムカヒといふ語は無し。已の音はイなり。されば活語雜話(卷二の四十一丁)及古義に從ひてイムカヒとよむべし。現に集中にミヅトリノタチノ已蘇伎爾またカヒリクマデニ已波比弖マタム(2035)(共に卷二十)など已をイの假字に用ひたり
○第三句を舊訓には字のまゝにてコフラクニとよみ、略解には等を樂の誤としてコフラクニとよみ、古義には等爾を從者又は自者の誤としてコヒムヨハとよめり。宜しく戀等六爾の脱字としてコフラムニとよむべし。ラムを等六と書ける例は卷一(一〇頁)にアサフマス等六《ラム》ソノクサフカヌ又卷七(一二二七頁)にカミヨニカイデカヘル等六とあり。さてコフラムニは織女ガ戀フラムニと云へるなり
○第四句は從來コトダニツゲムとよみたれど、さては意通ぜず。コトダニツゲナムと八言によむべし。牽牛に對して便ダニシテヤレと勸むるなり
○結句を舊訓にはツマトフマデハ、略解にはツマトイフマデハとよみ、古義には言を元暦校本に奇とせるに據りて寄の誤としてツマヨスマデハとよめり。古義の説宜しき如くなれどツマヨスと云はむとには卷九(一六九一頁)なるツマノ社[モリ]ツマヨシコサネの如くツマを寄する者(此歌ならば風など)を擧げてそれに對してコトダニ告ゲナムと云へるやうにせざるべからず。又假に風などいふ事を略したりとしてもコトダニツテヨと云はざるべからず。されば□[女+麗]言の言はもとのままとし、及を柄の誤としてツマトイフカラハとよむべきか
  『口訳万葉集』〔折口信夫、1916~17年成〕 
 天の川い向ひ立ちて戀ふるとに、言[コト]だに告げむ。妻といふ迄は
   天の川を隔てゝ、此方から向うて立つてゐるのだから、せめて、ものなりと云うて下さい。妻とまで呼ぶことはともかくとして。
  万葉集全釈』〔鴻巣盛広、昭和5~10年成〕 
  〔天の川 いむかひ立ちて 戀ふるとに 言だに告げむ つま問ふまでは〕
 アマノガハ イムカヒタチテ コフルトニ コトダニツゲム ツマトフマデハ
 天漢已向立而戀等爾事谷將告孋言及者
   天ノ川ニ向ヒ立ツテ、ワタシハ織女ヲ戀シテ居ル時ニ、セメテ使デモヨコシテ傳言デモシテクダサイ。七夕ノ夜ガ來テ親シク妻ヲ訪フマデハ、ドウゾ使デモヨコシテ下サイ。
○已向立而[イムカヒタチテ]――舊訓はコムカヒとあるが、已は音イであるから、イムカヒである。イは添へて言ふのみ。
○戀等爾[コフルトニ]――舊訓コフラクニとあるが、代匠記精撰本の説による。戀ふる時にの意。トニは夜之不深刀爾[ヨノフケヌトニ](一八二二)參照。
○孋言及者[ツマトフマデハ]――この句は諸説があるが、暫く新訓に「孋[ツマ]問ふまでは」とあるによつて解かう。即ち言[トフ]を問の借字と見るのである。少し無理のやうであるが、他に良説もない。
〔評〕 彦星の心であらう。織女の心と見られぬこともない。
 『万葉集全註釈』〔武田祐吉、昭和23年~25年成〕  
   〔天の河 い向かひ立ちて 戀ふとにし 言だに告げむ。孋といふまでは。〕
 アマノガハ イムカヒタチテ コフトニシ コトダニツゲム ツマトイフマデハ
 天漢已向立而戀等尓事谷將告孋言及者
  【譯】天の川に向かい立つて戀うという事に、言葉だけでも告げよう。妻というまでは。
【釋】已向立而 イムカヒタチテ。ワレムキタチテ(元赭)。イは、接頭語。天の川に向かい立つて。
 戀等尓 コフトニシ。
  コフラクニ(元赭)
  コフルトニ(代精)
  ――――――――――
  戀樂爾[コフラクニ](考)
  コヒムヨハ(古義)
 コフルトニと讀む場合、戀フル人ニの意とすれば、歌意には合うが、このようなト(人)の用例が見當らない。トを時の意とするのは、そのトは「夜之不深刀爾[ヨノフケヌトニ]」(卷十、一八二二)の如く、甲類のトであつて、乙類のトである等では適わない。そこで助詞と見るほかはなく、シを讀み添える。天ノ川イ向カヒ立チテ戀フまでを、トで受けて、かく言だに告げようの意となる。脇屋眞一君に、サカシラニの例によつてコヒシラニと讀むべきかとする案がある。
 事谷將告 コトダニツゲム。コトは言。
 孋言及者 ツマトイフマデハ。妻と決定するまでは。
【評語】牽牛に代つて詠んでいる。訓法に問題が殘つていて、十分に鑑賞することができない。
 『評釈万葉集〔佐佐木信綱、昭和23~29年成〕 
 〔天漢い向ひ立ちて戀ふとにし言だに告げむ孋とふまでは〕
  アマノカハ イムカヒテ コフトニシ コトダニツゲム ツマトフマデハ
  【譯】天の河の岸に向ひ立つて、織女を戀ひ慕つてをるといふ、せめてそのことを伝言だけでもして置きたい、七夕の夜が来て親しく妻を訪ふまでは。
【評】相会ふのは年に一度であるが、それまでの間には、地上の戀人同士のやうに、文通を通はしてゐるという風に見たので、これも上代人の現実的な解釈である。
【語】○い向ひ 「い」は接頭辞。○戀ふとにし 戀うてをると。○孋とふまでは 直接妻をおとづれるまでは。
【訓】○戀ふとしに 白文「戀等爾」今「し」を訓みそへた。『万葉考』は「戀樂爾」の誤、『古義』は「戀従者」或は「戀自者」の誤としてゐる。『代匠記』はコフルトニ。それを「夜の更けぬとに」(一八二二)の「と」と同じと見るのは仮名遣上いかがである。○孋とふ 白文「孋言」。ツマトイフともよめるが、ツマトフと訓み、妻を問ふの義に解した。
 万葉集私注〔土屋文明、昭和24~31年成〕 
  〔天の川い向ひ立ちて戀ふと汝に言だに告げむ妻といふまでは〕
 アマノガハ イムカヒタチテ コフトナニ コトダニツゲム ツマトイフマデハ
 天漢已向立而戀等尓事谷將告孋言及者
  【大意】天の川に向ひ立つて、戀ひこがれると、お前にことばだけでも告げよう。いよいよ会い得て、妻と言ふまでは。
【語釈】イムカヒタチテ イは接頭辞である。○コフトナニ 訓釈に説のある句である。「爾」は汝の意でナと訓む。「爾音聞者」ナガコヱキケバ(巻七、一一二四)の例もある。
【作意】牽牛の立場である。未だ川を渡り、織女を得て妻と呼ぶ前の心持で、川に向つて戀思つて居るといふことを、お前に、言づてだけでも知らして置きたいといふのである。「爾」を汝と見る以外、誤字を持つて来ても、明解を得がたい。
  『万葉集注釈』〔澤潟久孝、昭和32~37年成〕 
   〔天の河 い向ひ立ちて 戀しらに 言だに告げむ 妻問ふまでは〕
 アマノガハ イムカヒタチテ コホシラニ コトダニツゲム ツマドフマデハ
 天漢已向立而戀等尓事谷將告孋言及者(『元暦校本』)
  【口訳】天の河に向ひ立つて戀しさのあまりに、せめておとづれだけでも告げよう。直接逢つて妻と呼びかけるまでは。
【訓釈】い向ひ立ちて―この歌、『元暦校本』訓の余白はあるが、平かなの訓無く、漢字の右に赭の片カナの訓あり、『類聚古集』は訓の余白も無い。『元』(赭)、『紀州本』、『細井本』(左に)、ワレムキ、『西本願寺本』以後コムカヒ、『京都大学本』(左に赭)ワレムキ・ヰムカヒとし、右のコムカヒと入れ替へるしるしをつけ、頭書(赭)「己向(ワレムキ)[コ ムカヒ・ヰ ムカヒ]」とある。「許牟可比太知弖(コムカヒタチテ)」(18・4127)とあるので、ここもコムカヒと訓み、『拾穂抄』に「こは助字」宵などとあるが、『代匠記』にイムカヒと訓み「いは發語のことば」とあるのがよい。已(イ)、巳(シ)、己(キ)、は後世も混同され、正しく区別して書く人が少いやうに、無造作に書かれたのであるが、この先にも「天漢[アマノガハ] 射向居而(イムカヒヲリテ)」(2089)とあるやうに、「已向(イムカヒ)」が正しく、「い」は接頭語と見るべきである。
 戀しらに―原文「戀等尓」とあり、『京都大学本』(左に赭)コヒシラニ、『代匠記』「コフルトニト読ベキカ」といひ、『口訳』、『新訓』など従ひ、『全釈』に「戀ふる時にの意」とし、『全註釈』にはコフトニシと訓み、「戀ふといふ事に」と訳されてゐる。然るに『元暦校本』(赭)、『西本願寺本』以後いづれもコフラクニとあるので、『万葉考』には「戀樂尓」の誤とし、「□を△と見たる草の手の誤なり【□△判読出来ず】」と云つた。「等」の字、『類聚古集』、『紀州本』に「△」という草体になつてゐるので、「樂」の草体「□」に近く、従つて戀ふる事なるに、の意にとつてもよいやうにも思はれる。しかし、実際に「樂」とある本は無く、『元』『西』その他いづれも「○【草冠に寺】」又は「等」とあり、『京』に赭コヒシラニとある事は、コフラクニよりも古い訓を示すものでないかと思はれる。さうだとすると増訂本『全註釈』に「脇屋眞一君に、サカシラニの例によつてコヒシラニと読むべきかとする案がある」と云はれてゐる事が注意せられる。形容詞に「ら」をつけて名詞、副詞に用ゐる事「賢良(サカシラ)」(3・344)、「物悲良尓(モノカナシラニ)」(4・723)などがあるのだから、ここはコホシラニと訓んで、戀しくて、戀しさに、などの意に解くべきであらう。増訂本『新考』には「宜しく戀等六尓の脱字としてコフラムニとよむべし」といひ、「等六(ラム)」の例(1・4、7・1080)をあげ、「織女が戀フラムニと云へるなり」といひ、『古典大系本』それに従はれてゐるが、脱字説をまつまでもないだらう。彦星自身が織女を戀しい意にとつてよい。
妻問ふまでは―「言及者」を『元暦校本』(赭)、『紀州本・細井本』(左)、『京都大学本』(左赭)にコトシカハとあるが、『西本願寺本』(青)、『細井本』、『陽明本』(赭)などトフマテハとした。『口訳』にツマトイフマデハとし、『全註釈』その訓により「妻と決定するまでは」とされたが、『古典大系本』に、『名義抄(法上)』の「言」にトフの訓のある事をあげ、ツマドフと訓むと云はれてゐるに従ふべきであらう。直接妻どひ(3・431)をするまでは。

【考】赤人集「むかひたちてこふるときことたにつけよいもことゝはし」、流布本「我むきたちてこふらくにことだにつけむつまことしなは」とある
 

 



 
「あはむひまつに」...わはほしかてぬ...  
 
  『ときもみず』


 【歌意2016】
この多くの白玉を貫き連ねた紐の緒を、解いてもみないで、
私は、これほど逢う日を、ひたすら待っていたのだから
このまま別れることなど、どうしてもできやしない
 
 
「干」の「借訓」で「離れ」の解釈でこの歌を想った
多くの書がいうように、「干」をそのままの意で解釈すれば
確かに、別離の悲しさを、「涙で袖も乾かない」とする情景にぴったりだが
そう思わせる表現が、この「干」の一字しか根拠もなく
そこから、歌に描かれる想いが展開している
『注釈』は、「泪も袖もなく『ほす』はおかしい」といい、
『評釈』は、「ほす」を採りながらも、「袖を補う必要性」をいう
それほど、「干」にかかる意の広い解釈が窺える...勿論、この歌に限って...

しかし、「解きも見ず」という表現は、どんな情況でのことなのだろう
そう思ったとき、私には違った情景が浮んできた

そもそも、この歌、織女の歌だとか、彦星の歌だとか、と解釈も分かれているが
裏を返せば、「どちらでもいい」歌だ、と言うことだと思う
いや、言い方が悪かったが
「どうでもいい」ではなく、その立場の解明よりも
「解きも見ず」との表現は、その主語が作者なのか、あるいは相手なのか...
それで歌意解釈が違ってくる

一般的にこの歌で訳されているのは、「解きも見ず」は、
「寛ぐ」ような意味を持たせている
だから、二人が、寛ぐような暇もなく、という意になるのだろうが
もっと直接的な意味での表現も、不自然ではなく
当然、そのような解釈の書もある
それほど、重要な表現だとは思うのに、どの書もあまり拘っていない

その「寛ぐいとまもなく」とする情況は、
まだ二人が逢う前の段階で使われるはずがない
逢う前から、そんな情況を予想することを、恋仲の二人が思うのだろうか
ましてや、彦星と織女の「七夕伝説」に合わせるかのようなこの歌の配列であるので、
古注釈書が何の躊躇いもなく「織女の立場の歌、だとか、彦星の立場の歌」などと
どうして、この歌にそんな「型」を当てはめてしまうのだろう

私が、この歌に唯一「七夕伝説」の雰囲気を借りようとするのなら
結句の「逢はむ日待つに」で、「年に一度の逢瀬」を背景にしたい
それだけ借りれば、この歌の解釈もまた私なりに十分味わい深いものになる

上述の「解釈」のように、
私は、この二人はすでに逢っていて
しかし、まだ十分な「逢瀬」も得られておらず
あなたの白玉の緒を解くことも見ないのに、
もうお別れの時だなんて...
こんなに長い月日を待っていたので、
涙で袖も乾くことがありません

離れがたく、また一年を待つのが、どんなに辛いことかと思いながら
この歌は詠われたものだろう

男が詠えば、「解きも見ず」は、男が解く、解かせることになり
それが未練となる歌で、別れ難い、と詠ったものだろうし
女が詠えば、解いてもくれないで、また一年を待つのですか、
それは嫌です、泣き暮れてしまうでしょう、と詠われる歌になるだろう

そうなると、旧訓「われはかかたぬ」の方が、すっきりするかもしれない
(「かかたぬ」は、右頁「かて」参照)
 
 
 
 
[注釈書引用万葉歌] 〔3734は『注釈』、4129は『万葉考』はじめ多くの書に引用〕 
「干す」の解釈で、涙で濡らす「袖」や「衣」が用いられるのが普通という用例
「しらたまのいほつつどひ」の用例

 
 (竹敷浦舶泊之時各陳心緒作歌十八首)
   奴婆多麻能 伊毛我保須倍久 安良奈久尓 和我許呂母弖乎 奴礼弖伊可尓勢牟
    ぬばたまの妹が干すべくあらなくに我が衣手を濡れていかにせむ
   ぬばたまの いもがほすべく あらなくに わがころもでを ぬれていかにせむ
 巻第十五 3734 遣新羅使
 〔語義〕
「あらなくに」の「なくに」は、「~でもないのに」
「いかにせむ」は、「どうしよう」などの思い迷うさま
 〔歌意〕
(ぬばたまの)妹が、ここにいて、乾かしてくれるわけでもないのに
私の衣の袖を、こんなに濡らしてしまったら、どうしたらいいのか
 
 (為贈京家願真珠歌一首[并短歌])
   思良多麻能 伊保都追度比乎 手尓牟須妣 於許世牟安麻波 牟賀思久母安流香
                             [一云 我家牟伎波母]
    白玉の五百つ集ひを手にむすび遣せむ海人はむがしくもあるか
   しらたまの いほつつどひを てにむすび おこせむあまは むがしくもあるか
   右五月十四日大伴宿祢家持依興作 
 巻第十八 4129 大伴宿禰家持
 〔語義〕
「おこせむ」の「おこせ」は、下二段動詞「おこす」の未然形で、助動詞「む」に続く
語義は、こちらに送ってくれる、よこす、の意
「むがし」は、喜ばしい
「あるか」の「か」は、詠嘆の終助詞
 〔歌意〕
白玉(真珠)をたくさん緒に貫き結んだ飾りを、
私に送ってくれる海人があれば、本当に嬉しいことだ

そ「干」にしても、「しらたまのいほつつどひ」にしても、
その語句を用いることで、歌の雰囲気がほぼ決まってしまう
しかし、「干」の場合は、用例歌のように、「涙」や「袖」などの語が伴わなければ
仮に、万葉仮名でなく、掲題歌のような表記であれば
その借訓も考えられ、だから用例歌を同じ土俵で比較するのは、違うのではないか、と思う
〔4129〕の「白玉」は、「海人」を用いることで、自然と「真珠」を浮かべる
これも、「干」と「涙」や「袖」のような関係かもしれない

 
 
 
 
 
掲載日:2014.06.26   [「一日一首」2014年5月15日付けの解釈]


 
 秋雑歌 七夕
   水良玉 五百都集乎 解毛不見 吾者干可太奴 相日待尓
    白玉の五百つ集ひを解きもみず我は干しかてぬ逢はむ日待つに
   しらたまの いほつつどひを ときもみず わはほしかてぬ あはむひまつに
 巻第十 2016 秋雑歌 七夕 柿本人麻呂歌集出


[収載歌集]
【この歌は、所謂仙覚の
「新点」とされる一首なので、その他の歌集に収載はない】
「新点については、『諸本と諸注について』及び『万葉集の伝本』参照」



[注釈書引用万葉歌(全文)]
万葉考・註釈】〔3734・4129〕

[資料]
掲題歌資料〔校本万葉集及び近代までの注釈書〕
七夕】〔中華民国[国立成功大学、成大宗教與文化学報 第七期 論文]〕
織女と牽牛】〔講談社学術文庫「星の神話・伝説」野尻抱影
【万葉の時代】〔七夕歌と七夕詩の関係は



 【2016】 語義 意味・活用・接続
 しらたまの [水良玉]   
  しらたま [白玉・白珠]  白色の美しい玉・真珠・大切な人 露や涙などにも喩える
 いほつつどひを [五百都集乎] 
  いほつ [五百つ]  数の多いのをいう語・たくさんの
  〔成立〕名詞「五百(いほ)」+「の」の上代の格助詞「つ」
  つどひ [集ひ]  [名詞] 集まること・集まり
  を [格助詞]  [対象] ~を 〔接続〕体言、活用語の連体形につく
 ときもみず [解毛不見]  
  とき [解く]  [他カ四・連用形] 結び目をほどく・知る
  も [係助詞]  [強意] ~も (下に打消しの語を伴って、強める)
 わはほしかてぬ [吾者干可太奴] 
  ほし [干す]  [サ行四段・連用形] かわかす・ほす
  かて [補動かつ]   [補動タ下二・未然形] ~できる・~に耐える
 あはむひまつに [相日待尓]
  む [助動詞・む]  [推量(意志)・連体形] ~つもりだ・~よう  未然形につく
  まつ [待つ]  [他タ四・連体形] 人や物事が来るのを待つ
  に [接続助詞]  [順接(原因・理由)] ~ので・~ために  連体形につく

「古語辞典」は掲載歌を基本に、と思っているが、なかなか実行できず未完、継続中
「枕詞一覧」もやっと載せることができた
ただし、「かかり方の理由」は「古語辞典」からのみなので、
今後は「詳説」に触れ次第補充してゆく
その点でも不充分であるし、載せた語数においても、284語と、およそ言われている半分程度だ
しかし、一応その都度古語辞典を引っ張り出さない程度の気安さにはなる   
 古語辞典  文法要語解説 活用形・修辞  活用語活用法及び助詞一覧  活用形解説 枕詞一覧


 
注記 
[しらたま]
原文「水良玉」、「水」を、「し」に当てることもよくあるらしい
「すい」→「すイ」→「し」というように、その一例として、
巻九の1742長歌に、「水長鳥」を「しなが鳥」と訓むことをあげている

さらに、契沖『代匠記』では、もう一つの意義として、
「水中の良玉」という意から、「真珠」のことだという
しかし、この歌の雰囲気からすれば、普通に言う「白玉」でいいと思う

なお、「しらたまの」という枕詞があるが、白玉を貫く「緒(を)」の意から、
「緒」、同音の地名「緒絶えの橋」「姥捨(をばすて)山」などにかかるが、
「わが子」「君」「人」「涙」などにかかるのは、比喩だと言われ、
形式化した枕詞ではない、とされているらしい
 
[つどひ]
四段動詞「つどふ」だと、その連用形が「つどひ」になるが
助詞「を」に接続するには、「体言、もしくは連体形」でなければならない
私は、当然のように名詞の「つどひ」だと思っていたが
意外にも、古語辞典の多くには、動詞「つどふ」の他に名詞形が載っていないのが多い
おそらく、連用形の「名詞法」が、「名詞」として定着したのではないか、と思う
上代では、格助詞が下に接続したり、連体修飾語」に下接して主語に立ったりして
名詞と同じ資格で用いられることがある
 
[ときもみず]
たくさん集めた白玉...きっと首飾りのような緒に貫いた「飾り」だろう
それを「ときみみず」というのは、装身の玉を解かないで、
それは、寛ぐこともしないで、という意味なのだろうが
その主語は、作者自身なのだろうか...

 
[わはほしかてぬ]
この句の原文「吾者干可太奴」の異訓は多い
その原因となるのが、「干」という表記にある
旧訓は、「カカタヌ」だが、『元暦校本・類聚古集』には訓はない
『万葉集全註釈』〔武田祐吉、昭和23年~25年成〕、「カレカダヌ」
『万葉集全訳注』〔中西進・講談社文庫、昭和58年成〕、「カレカテヌ」
万葉集略解』〔橘千蔭、寛政十二年(1800)成〕、
万葉集全釈』〔鴻巣盛広、昭和5~10年成〕、及び
万葉集総釈楽浪書院、昭和10~11年成〕が、「ホシガタヌ」
『口訳万葉集』〔折口信夫、1916~17年成〕、そして
万葉集評釈』〔窪田空穂、昭和18~27年成〕、それに
評釈万葉集』〔佐佐木信綱、昭和23~29年成〕は、「ホシカタヌ」
『日本古典文学大系』〔岩波書店、昭和37年成〕、及び
『万葉集全注』〔有斐閣、昭和58年~平成18年成〕が「ホシカテヌ」
以上は、「干」を「かわかす」とか「ほす」の意で解釈しており
表記上の語意に問題を持たないが、誤字説を採る書も多い

「干」を、「在」の誤とする説として、
万葉考』〔賀茂真淵、宝暦十年(1760)成〕、そして
万葉集古義』〔鹿持雅澄、天保十三年(1842)成〕が、「アリカタヌ」
『万葉集新考』〔井上通泰、大正4~昭和2年成〕、「アリガテヌ」
万葉集注釈』〔澤潟久孝、昭和32~37年成〕、「アリカテヌ」
『新日本古典文学大系』〔岩波書店、平成15年成〕、及び
『新日本古典文学大系』〔岩波文庫校訂版、平成25年~〕が、「アリカテヌ」


「干」を「年」の誤とし、その借音「ネ」とし
萬葉集本文篇〔塙書房・佐竹昭広、昭和38年成〕、
『日本古典文学全集』〔小学館、昭和50年成〕、
『萬葉集』〔桜楓社、昭和55年補訂版〕、
『新潮日本古典集成』〔新潮社、昭和51~59年成〕、 万葉集校注』〔伊藤博、角川文庫、平成13年23版〕などが、「ネカテヌ」

私が気になるのが、「借訓」として「干」を「カレ(離れ)」と解する書
万葉集私注〔土屋文明、昭和24~31年成〕、「カレカダヌ」
『新編日本古典文学全集』〔小学館、平成8年成〕、「カレカテヌ」
これは、誤字説とせず、借訓として解釈するので、「別れ」の意を汲んだものとすれば
この訓釈の方が、いいのかもしれない

出来るだけ「誤字説」を採らず訓釈を心掛けるのなら「ホシカテヌ」に落ち着くだろうが
借訓もまた、捨て難い
 
[かて]
動詞の連用形の下に付いて、下に助動詞「ず」の連体形「ぬ」、及び
古い形の連用形「に」、また「まじ」の古い形「ましじ」など、
打消の語を伴って、「
かてぬ」「かてに」「かつましじ」の形で用いられることが多い

「干可太奴」を旧訓で「カカタヌ」と訓むが、その解釈を古注釈書に求めれば
『拾穂抄』が、「かかたぬ」は、「かこたぬ」のことだ、という
他動詞四段「かこつ(託つ)」、他にかこつけて言うことばの意で、
この歌で解釈すれば、「歎く、ぐちをこぼす」の意になるだろう
『拾穂抄』の語意解釈を載せれば
「帯も解きても見ず、我は逢はん日待つより外に
かこつ事もなし」とする
他の憂いの何よりも、「待つ事」の辛さを言うのだろう
 
[あはむひまつに]
この表現、諸抄では微妙に訳が違う
しかし、無理してまたおかしな日本語訳のような気もする訳もある
古注釈書や近代の注釈書では、この結句にはほとんど言及していない
それほど、異訓もなく、語釈も難しくない、ということなのか

この句の「に」を、私がもっとも悩んだ「助詞」なのに
その手掛かりは、どこにもなかった
助詞「に」は、広い意味を持つ「格助詞」と、
歌意に沿って、逆接にも順接にも、
あるいは単純な接続詞としても用いられる「接続助詞」の用法がある

古注釈書は、多く語義解釈を中心に書いている感じだが
近代の注釈書を読んでも、その「に」は、ほとんどが「格助詞」として訳している
勿論、その場合でも、格助詞の「原因・理由」で、「~によって、~により」とされ
私が思う接続助詞としての「順接(原因・理由)」と意としては同様になると思う

しかし、どちらかを採るとすれば、
格助詞の歌意解釈では、前述したように、私には不自然な「日本語」に感じられる
そして、本来接続助詞は、順接の場合、確定した事実が下に続くもので
この掲題歌を、第四句と結句を入れ替えて歌意解釈すれば
その意味は、より自然と理解されると思う

まず、不思議な「歌意解釈」の例を挙げておく
『全註釈』
「白玉の沢山集まつている玉の緒を解いても見ないで、わたくしは別れることが出来ません。逢う日を待つので。」
この文章を、どんな風に感じればいいのだろう
他の歌全体の歌意解釈を載せる近代注釈書の多くも、こんな「難しい」日本語になっている

私の感じたままの歌意解釈は、左頁に載せる
 
 掲題歌[2016]についての資料  関連歌集については、[諸本・諸注 その他の歌集]

【『校本万葉集』〔佐佐木信綱他、大正12年成〕の面白さ】[2014年3月8日記]

先日手にした『校本万葉集』、復刻版なので、なかなか読み辛いところもあるが、その内容は、確かに面白い
「注釈書」のような、歌の解説ではなく、その歌の本来の表記の姿を出来るだけ復元しようとする書では、もっとも新しいものだと思う
とはいえ、それでもまだ昭和になる前の書だから、古さはあるのだろうが、かと言って、それ以降の書が、注釈に重きを置いているばかりで
こうした「諸本」の校合を広く行い、それが中世の頃の「校本」に次ぐ形で刊行されたのは、素人の私でも嬉しいものだ
底本は、広く用いられている『西本願寺本』ではなく、『寛永版本』としている

[諸本・諸注については、「諸本・諸注、その他の歌集」]
 

 [本文]「水良玉五百都集乎解毛不見吾者干可太奴相日待爾
     「シラタマノイホツツトヒヲトキモミスワレハカカタヌアハムヒマツニ」(「【】」は編集)
       頭注  『元暦校本・類聚古集』訓ヲ附セズ。『西本願寺本・温故堂本・大矢本・京都大学本』訓ヲ朱書セリ。
 〔本文〕
  「玉」 『神田本』「王」
  「都」 『神田本・西本願寺本・温故堂本・大矢本・京都大学本』「部」。『京』赭ニテ消セリ。左ニ赭「都」アリ
  「見」 『西本願寺本』「及」。墨及朱ニテ消セリ。右ニ「見」アリ
 〔訓〕
  トキモミス 『西本願寺本』「ス」ナシ
『細井本』「トキモミム」
  アハムヒマツニ 『温故堂本』「アワムヒマツニ」
 〔諸説〕
○[吾者干可太奴ワレハカカタヌ]『童蒙抄』「ワレハヲカタヌ」トモス。『万葉考』「者」ハ「在」ノ誤。「干可」ハ「哥」ノ誤。訓「アハアリカタヌ」。『略解』「ワレハホシガタヌ」。『補』「カコチヌ」 
○[アハムヒマツニ]『童蒙抄』「アハムヒマデニ」


近代までの注釈書の掲題歌】

中世、近世、近代の注釈書 (私の範囲で確認できたもの・文中歌番はそのままの旧国歌大観)    
  [2016] 
  『万葉拾穂抄』〔北村季吟、貞享・元禄年間(1684~1704)成〕 
  〔しらたまのいほつつとひをときもみすわれはかゝたぬあはん日まつに〕
 
水良玉五百都集乎解毛不見吾者干可太奴相日待尓

   しら玉のいほつつとひ 見安云玉のおほくあつまる也かゝたぬはかこたぬ也愚案心は玉かされる帯もときても見す我はあはん日待より外にかこつ事もなしと也
  万葉代匠記(精撰本)』〔契沖、元禄三年(1690)成〕[萬葉集代匠記惣釋 僧契冲撰 木村正辭校] 
 〔シラタマノイホツツトヒヲトキモミスワレハカカタヌアハムヒマテニ〕  
 水良玉五百都集乎解毛不見吾者干可太奴相日待爾
   發句のかきやうに兩義あるべし、一つには水良の二字を音を假る、水は第九の水長鳥/安房[アハ]とつづきたるを仙覺發句をしながどりと讀べき由注せられたるが如し、二つには眞珠は水中の良玉と云意にて義せるにや、第二句は神代紀上云、便以八坂[ヤサカ]瓊之五百箇御統纏其髻鬘及腕、第四は干は香青香黒などの如く添へたる詞、可太奴は結なり、江次第に一云元日先召(テ)外記(ヲ)問諸司具否、次令外記進外任奏付頭藏人(ニ)奏之、此次令申諸司奏可付内侍所之由(ヲ)、【御暦腹赤氷樣等也、】但腹赤(ノ)奏遲參之時七日奏之、若亦當(レハ)卯日有卯杖奏、返給(ハル)之時故攝政於筥中(ニ)被結、故土御門(ノ)右不府(ハ)稱小野大臣(ノ)例(ト)不被結、此集第十八家持の長歌に年内能許登可多禰母知云々、此歌は相日を待つ餝に五百箇の手珠を解もせずして結びて居ると織女に成てよめるなり、
  『万葉集童蒙抄』〔荷田春満、信名、享保年間(1716~35)成〕 
 〔しらたまの、いほつゝどひを、ときもみず、われはをかたぬ、あはん日までに〕 
 
水良玉五百都集乎解毛不見吾者于可太奴相日待爾
   水良玉 すいの約し也。よりてしら玉のしに水の字を用ひたり。當集毎度如此の義有。水長鳥にも用ひたり。此しら玉のいほつとは、いくらもの白玉を聚めつどへて、身の飾りにしたるを云へり。其貫きたる緒をも解見ずと也
于可太奴 かゝたぬと訓ませたれど、緒を結ぶと云義也。緒と云ふ詞無くては解も見ずと云義も不通也。于の字は、をと訓む事知れたる義則端のを也。かへり字に用るも、をと云時此字を用るにて、をと讀む義知るべし。當集第十八卷にも思良多麻能伊保都都度比乎手爾牟須比云々とよみて、いくらもの玉をよせて貫たると云義也。上古は皆身の飾りに玉をしたり。をかたぬは逢ふ日までは、その飾りの玉の緒を結置と也。かたぬるとは結と云字を讀む也。節會の次第物等に見えたり。諸抄にも引たる義也。或抄にはかゝたぬと讀みて、かゝの初のかは初語と見る説有。又一説、かこたぬと云ふ義とは心得難き説也。待と云ふ字は、たちつてと同音にて、まてとも訓まるべし。印本等の通に、あはん日まつにと讀みてはとまらざる也
宗師云、第十八卷の都度比と云ふ假名書き無ければいほつすまるを共讀べけれど、既に假名書あれば、つどひなるべし。都はすぶると讀み、集あつまると云ふ字、已に日本紀に、みすまると云古語あれば、斯くも讀まるゝ也
  『万葉考』〔賀茂真淵、宝暦十年(1760)成〕 
 水良玉[シラタマノ]、 水は須伊約志なれば假字に用ひたりさて此白玉は鰒玉とて眞珠の事なりそは得がたかる物にて人のめづらしむを星の装なれば五百都集と多きをいふさて其おほきは首玉手玉足玉の數あるをいひてそをとくこともなくひたぶるにあはん日を待に譬へぬとなり
 五百都集乎、解毛不見[トキモミズ]、吾在哥太奴[ワガアリカタヌ]、 今本吾者于可太奴と有は字も訓も誤れり者は在の誤于可は哥の二字となれると見ゆ訓もよしなければあらためつありがたぬはありがてぬなり(卷十八)に思良多麻能伊保都々度比乎手爾牟須比於許世牟安麻波牟賀思久母安流香とあり
 細日待爾[アハンヒマツニ]
   上述
  『万葉集略解』〔橘千蔭、寛政十二年(1800)成〕[日本古典全集刊行会、1926年、与謝野寛他] 
 〔しらたまの。いほつつどひを。ときもみず。われはほしがたぬ。あはむひまつに。〕
 
水良玉。五百都集乎。解毛不見。吾者干可太奴。相日待爾。
   卷十八、思良多麻能伊保都都度比乎[シラタマノイホツツドヒヲ]てにむすびと詠めり。古へ萬づの物玉を餝りたれば、紐にも帶にも付けたるなるべし。五百ツツドヒは、玉の數多きを言ふ。ホシガタヌは、泪を干し難きなり、ガタヌは不勝[ガテヌ]と言ふに同じ。又思ふに、上に泪とも言はで干と言へるも如何が、干は在の誤にて、アリガタヌか。【水ヲ「シ」ノ假字ニ用ヒタルハ水ノ字ノ別音「シ」ナルガ故ナリ】
 參考 解毛不見(新)テニモマカズ「解」を「手」「見」を「卷」の誤とす ○吾者干可太奴(考)ワガアリカタヌ(古)アハアリガタヌ「干」を「在」の誤とす(新)ワレハ「在」アリカテヌ。
  『万葉集古義』〔鹿持雅澄、天保十三年(1842)成〕 
 〔シラタマノ。イホツツドヒヲ。トキモミズ。アハアリカタヌ。アハムヒマツニ。〕
 水良玉五百都乎解毛不見吾者干可大奴相日待爾

   水良玉[シラタマ]は白玉[シラタマ]なり、水[スヰ]の拗音を直言正轉して、志[シ]の假字に用たり、
○五百都集[イホツツドヒ]は、契冲云、此(ノ)集十八(ノ)家持の歌に、しらたまのいほつつどひをてにむすびおこせむあまはむかしくもあるか、とあり、ひとすぢの緒にて、五百箇[イホツ]の玉をぬきたるを、いほつつどひといふ、神代紀には、たぶさにまつふといひ、十八には、手に結びとよみたれば、たなばたの手玉にかざるなり、と云り、古事記に、八尺勾璁之五百津之美須麻流之珠[ヤサカマガタマノイホツノミスマルノタマ]、書紀に、御銃と書て、此云美須麻屡[ミスマルト]、とあり、纂□[□足+硫の旁]に、以絲貫穿總括之、とある、この統[スマル]と集[ツドフ]と同意味なり、
○解毛不見[トキモミズ]は、解看[トキミ]ることをも得せずといふなるべし、手に纏たる玉を、再び解て試ることをする間のなきよしなり、
○吾者干可太奴は、岡部氏云、干は在の脱畫なるべし、在可太奴[アリカタヌ]にて、在難[フリカテ]ぬといふなるべし、
○歌(ノ)意は、白玉の五百津集の手玉を、装ひ飾て 容[カタチツクリ]して、今か/\と彦星の來座てあはむ日を、立待によりて、その飾の手玉を、再び解て試むることをも得せず、心を安むる間もなくして待に、在にも在(ラ)れず堪がたし、となるべし、 
 
  『万葉集新考』〔井上通泰、大正4~昭和2年成〕 
 〔しら玉のいほつつどひを解もみず吾者干可太奴[ワレハアリガテヌ]あはむ日まつに]
 
水良玉五百都集乎解毛不見吾者干可太奴相日待爾
   略解に『干は在の誤にてアリガタヌか』といひ、古義に
 白玉の五百つ集の手玉を裝ひ飾てかたちづくりして今か今かと彦星の來座てあはむ日を立待によりてその飾の手玉を再び解て試むることをも得せず心を安むる間もなくして待に在にも在られず堪がたしとなるべし
といへり。案ずるに干はげに在の誤ならむ。太はテとよむべし。卷七に安太[アテ]ヘユクヲステノ山ノ、卷十二にイトノキ太[テ]ウスキ眉根ヲとあればなり (一三一九頁參照)。さてアリガテズといはでアリガテヌといへるはアリアヘヌコトヨといふ意なればなり。卷十四にもフルユキノユキスギ可提奴イモガイヘノアタリとあり
○トキモミズは手に卷きたるを解きも見ずといふ事かと思へどなほ穩ならず。解は卷の誤にあらざるか
  『口訳万葉集』〔折口信夫、1916~17年成〕 
 〔白玉の五百箇[イホツ]つどひを解きも見ず、我[ワレ]は乾し得[カ]たぬ。逢はむ日待つに〕
   白玉を澤山通した玉の緒を、解いても見ないで、自分は逢ふ日を待つてゐるが、涙が干し難いことだ。
  万葉集全釈』〔鴻巣盛広、昭和5~10年成〕 
 〔白玉の 五百つつどひを 解きも見ず あは干しがたぬ 逢はむ日まつに〕
 
シラタマノ イホツツドヒヲ トキモミズ アハホシガタヌ アハムヒマツニ
 
水良玉五百都集乎解毛不見吾者干可太奴相日待爾
   白玉ノ澤山ヲ貫イタ飾ノ紐ヲ解イテ二人デ安ラカニ寢テモ見ナイデ、ワタシハ妻ト相逢フ日ヲ待ツテ涙ニ袖ヲ干シカネテヰル。
○水良玉[シラタマノ]――水をシの假名に用ゐたのは、珍らしいが、水長鳥[シナガドリ](一七三八)ともあるから、水はシと訓むべき文字である。
○釘五百都集乎[イホツツドヒヲ]――五百箇[イホツ]集を。白玉の五百箇集は即ち首にかける御統[ミスマル]の玉である。
○吾者干可太奴[アハホシガタヌ]――我は干すに勝へず、即ち干しかねるの意。袖の涙を干し得ずといふのであらう。ガタヌはガテヌに同じ。九八參照。
〔評〕 織女が彦星を待つ心である。干可太奴[ホシガタヌ]とのみ言つて、袖の涙を干しかねると解するのは、少し無理のやうでもあるが、他に良解もない。一二の句は天人らしい装である。
 『万葉集全註釈』〔武田祐吉、昭和23年~25年成〕  
 〔白玉の 五百つ集ひを 解きも見ず、吾はかれかだぬ。逢はむ日待つに。〕
 シラタマノ イホツツドヒヲ トキモミズ ワレハカレカダヌ アハムヒマツニ
 水良玉五百都集乎解毛不見吾者干可太奴相日待尓
  【譯】白玉の澤山集まつている玉の緒を解いても見ないで、わたくしは別れることができません。逢う日を待つので。
【釋】水良玉五百都集乎 シラタマノイホツツドヒヲ。水は、シの音に使つている。「水長鳥[シナガドリ]」(卷九、一七三八)などの例がある。シラタマは、白玉で、よい珠玉。イホツツドヒは、多數の集まりで、それを緒につらぬいたもの。手足の装飾。
 解毛不見 トキモミズ。装身の玉の緒をも解きはずさないでで、衣裳を解いて寐ないのをいう。
 吾者干可太奴 ワレハカレカダヌ。カレ、別れる意の動詞。カダヌは、カダは可能の意の助動詞。その未然形に打消の助動詞ヌの接續したものと考えられる。このカダは、多く下二段活として使われているが、古くは四段であつたのだろう。「宇倍那宇倍那[ウベナウベナ] 岐美麻知賀多爾[キミマチガタニ]」(古事記二九)、「玉垂之[タマダレノ] 小簀之垂簾乎[ヲスノタレスヲ] 往褐[ユキガチニ]」(卷十一、二五五六)などの例は、これを證する。ヌは、古くは終止形もヌであつたと見られ、ここはその終止形である。織女の言なので、古風な語法を使つたのだろう。このまま別れることができない意。「君待難」(二〇〇四)も、キミマチガタニと讀むべきか。句切。
【評語】織女に代つて詠んでいる。織女星の風俗を描き、古風な語法によつて歌いなしている。
 『評釈万葉集〔佐佐木信綱、昭和23~29年成〕 
 〔白玉の五百つ集ひを解きも見ず吾は干しかたぬ逢はむ日待つに〕
  シラタマノイホツツドヒヲトキモミズアハホシカタヌアハムヒマツニ
  【譯】白玉を沢山貫いて飾つた紐を解いて、二人でうちとけて寝ることもなく、私は涙に濡れた袖を干しかねることである。戀しい夫に逢ふ日を待つのに。
【評】彦星を待ちかねた織女の心で、白玉の五百つつどひは、天女の装にふさはしい想像である。彦星の歌と見られないこともないが、全体の気分から女性の作と取るのが自然であらう。
【語】○白玉の五百つつどひ 白玉を多く貫き集めた首飾。古事記上巻に「八尺の勾玉の五百津御統[ミマスル]とある。
   ○解きも見ず 紐を解いても見ないで。うちくつろいで寝もしないでの意を含んでゐる。
   ○ほしかたぬ ほすことが出来ないの意。「かたぬ」は「かてぬ」に同じと思はれる。「かつ」は成し得るの意で、通常下二段活用であるが、ここの例によると、四段にも活用したものであらうか。この句は「袖」を補つて解せねばならぬ。
 万葉集私注〔土屋文明、昭和24~31年成〕 
 〔白玉の五百つ集ひを解きも見ず吾は離れがたぬ会はむ日待つに〕
 シラタマノ イホツツドヒヲ トキモミズ ワレハカレカダヌ アハムヒマツニ
 水良玉五百都集乎解毛不見吾者干可太奴相日待爾
  【大意】白玉の多くの集まりをまだ解いて、寛ぐさまも見せず、吾は離れ難い。遠い明年の会ふ日を待つのに。
【語釈】トキモミズ 装身の玉を解いて、相共に寛ぎ睦ぶこともせずに。
    ○ワレハカレガタヌ 「干」はホスと訓まれて来たが、はなれる意のカルに借りたといふ、定本の訓によつて始めて意が通ずる。ガタヌはガテヌの古い語法形であるといふ。得ずの意。
【作意】織女の立場の歌である。まだ十分に歓を尽さないので、遠い明年の会を待てば、別れがたいといふのである。
  『万葉集注釈』〔澤潟久孝、昭和32~37年成〕 
 〔白玉の 五百つ集ひを 解きも見ず 吾はありかてぬ あはむ日待つに〕
 シラタマノ イホツツドヒヲ トキモミズ ワハアリカテヌ アハムヒマツニ
 水良玉五百都集乎解毛不見吾者在(干)可太奴相日待尓(『元暦校本』)
  【口訳】白玉をたくさん緒に貫いた飾りを解いて、うちとけて共寝をする事もなく、私はじつとしてゐる事が出来ない。逢ふ日を待つて。
【訓釈】白玉の―「水」をシの音をあらはすに用ゐた例、前に「水長鳥(シナガトリ)」(9・1738)があつた。
    五百つ集を解きも見ず―頸や手足の飾にする白玉の緒を解きもせず、といふのは、うちとけて共寝もしないで、の意と思はれる。
    吾はありかねて―この作、『元暦校本』は訓の二行分をあけてあるが、訓無く、『類聚古集』も訓無く、『紀州本・西本願寺本(朱)・陽明文庫本(朱)』その他ワレハカカタヌとあり、原文は『元』と『類』とに「干」が「于」とも見られる字になつてゐる以外はすべて「吾者干可太奴」とあつて異同が無い。『代匠記』には「可太奴ハ結ナリ」といひ、江家次第(一「元日宴会」)の「故攝政於宮中被結(カテニ)」などとあると「年内能(トシノウチノ) 許登可多祢母知(コトカタネモチ)」(18・4116)とあるを引いたが、『万葉考』には「吾在哥太奴(ワレアリガタヌ)」の誤とし「者は在の誤、于可は哥の二字となれると見ゆ」とし、「ありがたぬはありかてぬ也」と云つた。『略解』にはワレハホシガタヌと訓み、「泪をほしがたき也」と云つたが、「又おもふに、上に泪ともいはで干と言へるもいかが、干は在の誤にて、ありがたぬか」と疑ひ、『古義』も「吾者在可太奴(アハアリカタヌ)」の誤とした。定本には「吾は離(か)れがたぬ」とし、「干西君之(カレニシキミガ)」(12・2955)を例として、干を離の借字とされ、『全註釈』ではワレハホシカタヌを増訂本でワレハカレガタヌとされた。「かたぬ」を「かてぬ」と解く事については『全註釈』に「かて」は下二段活として使はれてゐるが、古くは四段ではなかつたか、とし、「岐美麻知賀多尓(キミマチガタニ)」(景行記)、「往褐(ユキカチ)」(11・2556)などを例證とされ、「ヌは、古くは終止形もヌであつたと見られ、ここはその終止形である。織女の言なので、古風な語法を使つたのだらう」と云はれた。「ぬ」を終止形だと見られたのは正しい。何故ならば上に「吾は」とあるから連体形で結ぶ事は許されないからである(2・105)。又「かつ」に対して「ず」を用ゐる例は無く(4・497)、「ぬ」の終止形と思はれる例が前(5・802)にもあつたからである。但し、人麻呂歌集では「可(カ)」は清音の仮名に用ゐられ「太(ダ)」は濁音の仮名に用ゐあっれる例であるからカダヌと訓まねばならぬ点に問題がある。その点、『古典大系本』は「吾(あ)は乾しかてぬ」と訓み、補注で「太は字音、他蓋切。これと同韻には奈があり、また、沛(へ乙類)もある。つまりこの韻はエ列の音になる場合も全然考えられないではない」といひ、「五十殿寸太(イトノキテ)」(12・2903)の例をあげ、「他蓋切とすれば、頭子音は「t‘」と考えることができるので、清音テの仮名と見て差支えない」とあるのが穏やかなやうである。それで「可太奴」はカテヌと訓んでよいやうであるが、その上の「干」の訓み方はなほ釈然としないやうに思はれる。「干す」と訓む事は『略解』にも疑ひ、齋藤氏の評釈にも、


 
ぬば玉の 伊毛我保須倍久(イモガホスベク) あらなくに わが衣手を ぬれていかにせむ  (15・3712)

と「泣く涙衣ぬらしつ干人無二(ホスヒトナシニ)」(4・690)、「袖乾日無(ソデホスヒナク)吾は戀ふるを」(12・2849)の例をあげて「解釈のつかぬことはない」とあるが、それらの三例もいづれも「袖」とか「衣」とかいふ言葉があつて「干す」だけで涙にぬれた袖の意に用ゐたものはなく、「何処かに余り突然で無理があるやうである」といふ事は否定する事が出来ない。それならば「離れ」の借訓かといふに、「干西(カレニシ)」の場合は二字とも借訓であるが、今はあと三字が正音の仮名であり、「干」一字を借訓と見る点にも疑問があるが、それよりも上三句の「白玉の五百つ集を解きも見ず」をうけて「離れかてぬ」ではどうにもつづかないと思ふ。その点『万葉考』の誤字説ならばまづ解釈がつく。「者」を「在」の誤字と見る事は既に例(4・642)があり、ワガと訓める点も下の「ぬ」を連体形と見られて都合がよい。しかし、「干可」を「哥」の誤と見る点が少し無理である。「哥」の字は流布本に一例
「何哥毛」(8・1475)があるが、それは『紀州本』などに「何奇毛」とあり、それは更に「何之可毛(ナニシカモ)」の誤と認むべき事その條で述べた如く、「哥」の仮名は集中に認め難いからである。だとすると、「吾者」はそのままにして「干」だけを「在」の誤としてワハアリカテヌと訓むより仕様がないかといふ事になる。しかし「干」と「在」との誤字の可能の乏しいところになほ問題がある。

【考】これは所謂仙覚の新点の歌であり、赤人集その他の歌集にもとられてゐない。
 
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