中世、近世、近代の注釈書 (私の範囲で確認できたもの・文中歌番はそのままの旧国歌大観) |
[2013] |
各注釈書への、私的解釈 |
『万葉拾穂抄』〔北村季吟、貞享・元禄年間(1684~1704)成〕 |
[拾穂抄]私見 |
〔なかこふるいものみことはあくまてにそてふる見えつくもかくるまて〕
汝戀妹命者飽足尓袖振所見都及雲隠
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「かしつき」は、前の歌〔2012〕の『童蒙抄』のところで調べたことがある
「大切に養い育てること・後見をすること」の意味になるが、この書もが言うのは
「命」に関連してのことだと思うので、一般的に言われている「敬語」的な解釈ではないのだろう |
なかこふる妹のみことは 妹の命かしつきていへり前にも有詞也なか戀るは我こふると同心は明也 |
『万葉代匠記(精撰本)』〔契沖、元禄三年(1690)成〕[萬葉集代匠記惣釋 僧契冲撰 木村正辭校]
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「代匠記」私見 |
〔ナカコフルイモノミコトハアクマテニソテフルミエツクモカクルマテ〕
汝戀妹命者飽足爾袖振所見都及雲隱 |
なし |
無記、
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『万葉集童蒙抄』〔荷田春満、信名、享保年間(1716~35)成〕 |
「童蒙抄」私見 |
〔ながこふる、いものみことは、あきたりに、そでふるみえつ、くもがくるまで 〕
汝戀妹命者飽足爾袖振所見都及雲隱 |
『拾穂抄』でも、述べているが、「汝戀」は、「わが戀ふる」という
説明を加えれば、「あなたが戀する」ではなく、「あなたに戀する私」という意味なのだろう
この第三句の訓解釈には、大きな意味があると思う
「に」が打消しの助動詞だとすれば、意としては「満足することなく」となるが、
その満たされない心持のせいで、見えなくなるまで袖を振って見送る
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汝戀は、わが戀ふる也。彦屋の織女へさして、自身に戀ふると云へる也。是にて前の己が妻自□[女+麗]の義もながと讀む例知るべし
飽足爾 あくまでにと讀ませたれど、宗師案、たりにと讀べし。あきたりなしと云義也。なしと云詞を約すればに也。なれば飽足らぬから雲隱るゝ迄見送る意と見るべしと也。諸抄の説も惡しきには不可有か。心に飽かぬから飽迄に見るの意也。 |
『万葉考』〔賀茂真淵、宝暦十年(1760)成〕 |
「万葉考」私見 |
我戀、妹命者[イモノミコトハ]、 今本汝戀とあり汝にては人より彦星をさしていふ事となるさらば妹の命とは有べからず
飽足爾[アクマデニ]、袖振/所見都[ミエツ]、及雲隱[クモカクルマデ]、 |
当時の通釈では、第三者が「彦星」をさして「汝」というが、それと「妹の命」とは、いかにもバランスが取れない、と言っているのだろう
先の書と同じように、「汝戀」は、「我戀」というべきで、第二句の疑問を解こうとしている
万葉集にも詠われている「佐用姫伝説」を重ねて解釈している |
此歌も彦星になりてよめるにて我戀る妹の命なりよりて汝は我の草の手を見誤として改
此歌の意は妹の命も戀る心はせちなればあくまで袖ふらせれどつひに遠く雲がくりて見えぬを彦星のあかずなげきますと彼佐用比賣をふくみて彦星になりてよめるなり |
『万葉集略解』〔橘千蔭、寛政十二年(1800)成〕[日本古典全集刊行会、1926年、与謝野寛他] |
「略解」私見 |
〔ながこふる。いものみことは。あきたりに。そでふるみえつ。くもがくるまで。〕
汝戀。妹命者。飽足爾。袖振所見都。及雲隱。 |
特筆なし |
アキタリはアクマデの意なり。
參考 ○飽足爾(考)アクマデニ(古、新)アク「迄」マデニ。 |
『万葉集古義』〔鹿持雅澄、天保十三年(1842)成〕 |
「古義」私見 |
〔ナガコフル。イモノミコトハ。アクマデニ。ソデフルミエツ。クモガクルマデ。〕
汝戀妹命者飽足爾袖振所見都及雲隱
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地上の人が、雲に隠れている織女が、彦星との別れを飽きるまで袖を振る姿を想像して、
眺めている、ということか
この「汝」は彦星のことを、地上の人がいうので、
そうなると真淵の言うような「妹の命」というのが気になる
「足」を「迄」の誤とするのは、無理のような気がする
きっと、その意から、訓を理解しやすくするために已む無く用いたのだろう |
汝[ナ]は、彦星をさして云、
○飽足爾は、路解に、アキタリニとよみたれどもいかゞなり、足は迄の誤なるべし、さらばアクマデニと訓べしと、中山(ノ)嚴水がいひたるぞよき、
○歌(ノ)意は、汝[ナレ]彦星の戀しく思ひて待と云織女は、遠く雲隱るかぎり、此(ノ)土より見る目に飽まで、袖/擧[フリ]て往さまの見えつるなり、されば今ぞ織女の相見え奉るならむと、此方より見やりて、おしはかりたる謂なるべし |
『万葉集新考』〔井上通泰、大正4~昭和2年成〕 |
「新考」私見 |
〔汝[ナ]がこふる妹の命は飽足爾[アクマデニ]袖ふるみえつ雲がくるまで]
汝戀妹命者飽足爾袖振所見都及雲隱 |
『古義』の歌釈に倣って、地上の第三者が想像して詠ったもの、とする |
第三句を舊訓にアクマデニとよめるを略解にはアキタリニとよみ、古義には足を迄の誤字として再アクマデニとよめり。古義に從ふべし
○此歌は第三者としてよめるなり。結句は汝彦星ガ別レ去リテ雲ニ隱ルルマデとなり |
『口訳万葉集』〔折口信夫、1916~17年成〕 |
「口訳」私見 |
汝[ナ]が戀ふる妹の命[ミコト]は、飽き足らに袖振る見えつ。雲/隱[ガク]る迄 |
歌意は理解出来るが、その訳し方にアンバランスを感じてしまう |
お前さんの焦れてゐる奥さんなる織女は、只一夜逢うただけでは滿足出來ないで、雲に隱れて、段々見えなくなる迄、袖を振つてゐるのが見える。 |
『万葉集全釈』〔鴻巣盛広、昭和5~10年成〕 |
「全釈」私見 |
〔汝が戀ふる 妹のみことは 飽き足りに 袖振る見えつ 雲隱るまで〕
ナガコフル イモノミコトハ アキタリニ ソデフルミエツ クモガクルマデ
汝戀妹命者飽足爾袖振所見都及雲隱 |
『古義』の解釈が、かなり影響している |
アナタノ戀ヒ慕フ妻ノ織女ノ君ハ、アナタガ遠ク雲隱レテ見エナクナルマデ、飽クマデモ袖ヲ振ツテ居ルノガ見エル。
○飽足爾[アキタリニ]――舊訓アクマデニとあるが、文字通りによんだ童蒙抄説にょる。飽き足るまでにの意。
〔評〕 織女が別れを惜しむ樣を、第三者が彦星に告げる歌である。 |
『万葉集全註釈』〔武田祐吉、昭和23年~25年成〕 |
「全註釈」私見 |
〔汝が戀ふる 妹の命は、飽くまでに 袖振る見えつ。雲隱るまで。〕
ナガコフル イモノミコトハ アクマデニ ソデフルミエツ クモガクルマデ
汝戀妹命者飽足尓袖振所見都及雲隱 |
「評語」で、別離の情景は描かれている、とするが
その見える別離の「情景」だけでは、物足りない
第三者が詠ったとするなら、その人から見える二星の「心情」も詠ってほしかった |
【譯】あなたの思つている妻の君は、滿足するまでに袖を振つているのが見えた。あなたが雲に隱れて見えなくなるまで。
【釋】妹命者 イモノミコトハ。ミコトは、尊稱。妹の君は。
飽足尓 アクマデニ。アクマデニ(元)、アキタリニ(童)。足は、「毎日聞跡[ヒゴトニキケド] 不足聲可聞[アカヌコヱカモ]」(卷十、二一五七)など、アク(飽)にあてて書いてい るものと見られるものがある。ここも飽足でアクにあてているのだろう。飽き足るまでに、滿足するまでに。
及雲隱 クモガクルマデ。牽牛が遠ざかつて見えなくなるまで。
【評語】牽牛が別れ去つて遠ざかつて行くのに、別れを惜しんで織女が袖を振つている樣を詠んでいる。想像をほしいままにしているが、別離の情景は描かれている。 |
『評釈万葉集』〔佐佐木信綱、昭和23~29年成〕 |
「評釈」私見 |
〔汝が戀ふる妹の命は飽き足りに袖振る見えつ雲隱るまで〕
ナガコフルイモノミコトハアキタリニソデフルミエツクモガクルマデ |
この歌意解釈だと、二星の別れは決して「悲しいもの」ではなく
短い逢瀬を、十分過ごせたものとの前提になっているようだ
別れに際しての、決められたこととはいえ、その哀しみが表現されていない
「妹の命」の解釈、私には物足りない |
【譯】あなたが戀ひ慕ふ妻の織女の君は、十分満足するまで袖を振るのが見えました。あなたの姿が遠く雲に隠れて見えなくなるまで。
【評】織女が暁の別れに際して思ひきり袖を振るのを見た人、恐らく彦星の従者などが、それを彦星に告げた趣の歌である。飽くまでも人間界の戀の様子に想像したところに、現実的な上代人の面目が窺はれる。
【語】○妹のみことは 現代語で「奥様は」といふほどの意。織女をさす。
○飽き足りに 十分満足するほどに。
○雲隠るまで 彦星の姿が雲に隠れて見えなくなるまで。「隠る」は古くは四段活用。
【訓】○飽き足りに 白文「飽足爾」。旧訓アクマデニは不可。古義は「飽迄爾」の誤としてゐるが、諾けがたい。 |
『万葉集私注』〔土屋文明、昭和24~31年成〕 |
「私注」私見 |
〔汝が戀ふる妹の命は飽き足りに袖振る見えつ雲がくるまで〕
ナガコフル イモノミコトハ アキタリニ ソデフルミエツ クモガクルマデ
汝戀妹命者飽足爾袖振所見都及雲隱 |
「満足して」という解釈は、おかしいと思う
敢えて好意的に解釈すれば、彦星を最後まで見送ることが出来たことへの「満足」かもしれない |
【大意】お前の戀ひ思ふ妹の命(織女)は、満足して、袖を振るのが見えた。雲にかくれるまで。
【作意】二星の別離を、人間界から見て居る趣である。アキタリニと感情を投入したのである。 |
『万葉集注釈』〔澤潟久孝、昭和32~37年成〕 |
「注釈」私見 |
〔汝が戀ふる 妹の命は 飽き足らに 袖振る見えつ 雲隠るまで〕
ナガコフル イモノミコトハ アキタラニ ソデフルミエツ クモガクルマデ
汝戀妹命者飽足爾袖振所見都及雲隱 (『元暦校本』) |
『古義』の影響の強い「古義」以降の注釈書の中で、この「飽足爾」の自然な解釈を、復活させている
それまでは、満足するまで「袖を振」っているかのような解釈が多かったが
この「飽足爾」は、「短い逢瀬に満足できない」ことへの意味で、決して、飽きるまで「袖を振る」ではない |
【口訳】あなたが戀ひ慕つてゐる妹の命(織女)は飽足らなくて、袖を振つてるのが見えました。雲にかくれるまで。
【訓釈】妹の命―前に「弟の命」(9・1804)ともあつた。敬語に「命」と添へた。
飽き足らに―旧訓アクマテニ、『童蒙抄』アキタリニとしたが、折口氏口訳にアキタラニとしたのがよい。「に」は「知らに」(1・5)、「かてに」(2・95)などの打消の助動詞である。この「に」は「知ら」「かて 」の他には、「かゆきかくゆき 見つれども 曾許母安加尓等[ソコモアカニト]」(17・3991)の如き「飽かに」が集中にあるばかりのやうで、それも「飽かないので」の意であり、今も、飽き足らないので、の 意になる(「飽きたらに」『古徑』三所収)。前の「告尓[ツゲニ]」(2006)の「尓」をそれだと考へる事は、「に」と「ず」との区別を無視した事になり、その点でも当らないであらう(2・201)。
【考】赤人集に「いもがすかたはあくまてにそてふりみえつ」、流布本は「雲かゝるまで」とあり、更に終りのところに重出「袖ふりはへて雲かゝるまで」とある。
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