掲題歌関連資料

 七夕歌 中華民国[国立成功大学、成大宗教與文化学報 第七期 論文]
講談社学術文庫「星の神話・伝説」野尻抱影
 
   万葉集の部屋
 七夕歌
 中華民国[国立成功大学、成大宗教與文化学報 第七期 論文]
 成大宗教與文化学報(国立成功大学) 第七期 2006年12月 頁71-90 [元サイト bec001.web.ncku.edu.tw/ezfiles/335/1335/img/1458/75.doc]
 日本の平安時代における「七夕」・「乞巧奠」の受容の過程について 李守愛 Lee Shou Ai 義守大学鷹用日語学系副教授
  The process of acceptance for TANABATA and KIKOUTENN in Pin-An time of JAPAN
 はじめに

 平安時代の年中行事に関する研究には、『六国史』や『類聚国史』・『日本紀略』・『扶桑略記』などの歴史書がある。これらは「四方拝」・「釈奠」・「曲水宴」・「端午の節日」・「七夕」・「乞巧奠」・「盂蘭盆」・「重陽」などの年中行事の源起と成立過程を了解する基本史料である。また、平安時代の「三大儀式書」と呼ばれている『西宮記』・『北山抄』・『江家次第』は年中行事の儀式、有職故実や朝廷の儀式を詳述する重要参考史料である。平安時代の貴族が朝儀を行ううえでの必読書であった。さらに、平安時代の貴族の日記『御堂関白記』・『権記』・『小右記』・『中右記』などにも年中行事に関する記載があり、その時期と儀式などが記録されている。

  なお、平安女流文学のなかにおいては年中行事は季節美の素材として扱われている。例えば、『枕草子』には、当時行われていた年中行事の姿そのものをみやびなものとして美しく描き、年中行事の描写を通して当時の人々の心性が表現されているといえよう。『懐風藻』・『万葉集』・『本朝文粋』・『和漢朗詠集』などの古典文学に年中行事を詠んでいる詩作が多数残されており、奈良・平安時代の年中行事や儀式を研究するための重要な史料である。

 これらの史料を駆使して平安時代の年中行事について論述したのが池田亀鑑『平安時代の文学と生活』(志文堂、一九六七年)や山中裕『平安時代の古記録と年中行事』(思文閣出版、一九九四)、『平安時代人物志』・(東京大学出版会・一九七四)、同『平安朝の年中行事』(塙書房・一九九四)、『平安時代の信仰と生活』・(至文堂・一九九四年)、同『平安時代の儀礼と歳事』(同上、一九九四年)などである。

  特別な年中行事、例えば、「七夕」を中心として考察しているものに平林章仁『七夕と相撲の古代史』(白水社、一九九八)がある。池田温編『唐と日本―古代を考える』(吉川弘文館、一九九二年)は唐朝と日本に関る交流の様相を幅広く論述していて貴重である。

  中国の民俗習慣と年中行事について書かれている文献がたくさんある。例えば、『全唐詩』や李攀竜(151470)が編集した『唐詩選』や『六朝詩集』は、「上巳」・「端午」・「七夕」・「重陽」を詠み込んでいる詩作が大量に残っている。そして、施鳩堂『白居易研究』(天華出版事業公司、1981)は注目される研究である。植木久行『唐詩歳時記』(講談社、二〇〇一年)は四季の区切りともいうべき人日節・上元節・寒食節・上巳節・端午節・七夕・中秋・重陽節・冬至節などを歌った詩を中心に、元日の朝賀から除夕まで、関連の事項を順を追って記し、中国の年中行事の起源と特に唐の時代に於ける発展を興味深く分析している。  なお、『四民月令』は後漢時代に崔寔が著述した中国古歳時記の研究上、最も注目されるべきなものである。これは月ごとの農事や祭祀などが整然と記されており、当時の華北の一豪族の生活ぶりを知るための基本的な社会史的資料である。特に『斉民要術』、『荊楚歳時記』、『玉燭宝典』などによく引用されている「歳時型農書」の嚆矢である。『荊楚歳時記』は六世紀南朝梁の宗懍という人物が荊楚地方(長江中流域)の歳時習俗を記したもので、日本の歳時習俗の源流を知る上で非常に重要な記述が含まれている。また、南朝において蕭統が編纂した『文選』は、中国文学史上で詩文選集として有名であるが、その内容の中にも年中行事を読み込んだ詩作と文章が豊富に含まれている。『大唐六典』は開元年間に張九齢が編纂したものであり、『日本国見在書目録』によると平安時代の宇多天皇(887897)の頃には、日本に伝来したと考えられる。『大唐六典』には、天文・地理・礼楽・輿服・経籍・食貨・刑法・釈老などの項目があり、唐代における年中行事の儀式が規定されていて、貴重である。

 
本論文は、以下の構成で検討を行った。中国から日本に伝わってきた年中行事の「七夕」・「乞巧奠」全般にわたり、その伝来事情と伝来後の「七夕」・「乞巧奠」の展開過程などについて取りまとめた。【入力者(私)により、以下の掲載文は、掲題歌と関連する [二-4]のみを載せる】
一、中国における「七夕」・「乞巧奠」の成立と変遷 
  [1] 「牽牛」・「織女」伝説の成立と神仙思想との関り
  [2] 「七夕」・「乞巧奠」の展開過程
二、日本の平安時代における「七夕」・「乞巧奠」の儀式の受容過程
  [1] 「七夕」の源流
  [2] 「乞巧奠」儀式の成立過程

  [3] 貴族社会における「七夕の宴」
  [4] 詩文に見える「七夕」

二-4  
詩文に見える「七夕」


 牽牛星と織女星との一年に一度の逢合の伝説は、中国古代の詩にも詠まれているが、「七夕」(もしくは「七月七日」など)の詩題は、晋の時代にいたってみえはじめる。
わが国では、七世紀末の天武・持統朝ごろの「柿本人麻呂歌集」(『万葉集』巻十)の例がはやい。『万葉集』には、

   
天漢楫の音聞ゆ彦星と織女と今夕逢らしも


織女の今夜逢ひなば常のごと明日を隔てて年は長けむ


とある。また、同書「巻第十、秋の雑歌」には、

天の川 水さへに照る  舟泊てて 舟なる人は 妹にみえきや


とある。また、同書「巻第十」には

   天の川 棚橋渡せ  織女のい渡らさむに 棚橋渡せ

とある。棚橋は中国の七夕詩の「鵲橋」のような架ける橋である。この歌は、中国の七夕詩と同じに織女が彦星を訪ねる形式によって、詠まれている。
『万葉集』には二星会合の歌が多く見える。
そして、漢詩集である『懐風藻』の中にも「七夕」を詠んでいる詩が多い。聖武天皇の時代の大学頭の山田三方の「七夕」には、

  
金漢星楡冷  銀河月桂秋
  霊姿理雲鬢  仙駕度潢流
  窈窕鳴衣玉  玲瓏映彩舟
  所悲明日夜  誰慰別離憂


と詠んでいる。また、吉智首の「七夕」には

  冉冉逝不留  時節忽驚秋
  菊風披夕霧  桂月照蘭洲
  仙車渡鵲橋  神駕越清流
  天庭陳相喜  華閣釈離愁
  河横天欲曙  更嘆後期悠

と詠んでいる。また、藤原房前(681―737)の「七夕」には、

  帝里初涼至  神衿翫早秋
  瓊筵振雅藻  金閣啓良遊
  鳳駕飛雲路  竜車越漢流
  欲知神仙会  青鳥入瓊楼

と詠んでいる。『和漢朗詠集』の「七夕」には、

   憶ひ得たり少年にして長く乞巧せしことを竹竿の頭上に願糸多し

と詠んでいる。即ち、「七夕の宵に、竹竿の上の方に五色の願いの糸をどっさりかけて、少年少女が学問できるようにと祈るのをみるにつけ、自分も少年時代に乞巧奠を営んだことを思い出します。」である。この詩作が日本に伝わって、中国では逸してしまった白居易の詩作かもしれないと思われている
また、『和漢朗詠集』「巻上、十五夜」の条には、


  楊貴妃帰って 唐皇の思
  李夫人去って 漢皇の情

とある。もともと、唐の玄宗と楊貴妃および漢の武帝と李夫人とを一対の組み合わせとして考えることは一般的であったようだ。
日本でもこの考えかたが、常套となっていたことを思わせる


『本朝文粋』の小野美材「七夕代牛女惜暁更応製」には、

 夫七月七日、霊疋佳期也。
仰秋河之耿耿、瞻白気之奕奕。守夜之人、以此為応、
 登仙之語、信而有徴。今夕詔詩臣日、伉儷相親、天人惟一。易離難会、今古所傷。
 宜代牛女、深惜暁更。臣奉綸綍、敢献芻韻。原夫二星適遇、未敘別緒依依之恨、
 五夜将明、頻驚涼風颯颯之声。時也香筳散粉、綵縷飄空。宮人懐私之願、似面不同、
 墨客乞巧之情、随分応異。臣有一事、非富非寿。家貧親老、庶不択官云爾。

とある。「七夕」の「乞巧奠」の情況を詠んだ詩である。宇多天皇寛平三年に菅原道真が詠んだ「七月七日代牛女惜暁更各分一字応製」には、

  年不再秋夜五更 料知霊配暁来情
  露応別涙珠空落 雲是残粧髻未成
  恐結橋思傷鵲翅 嫌催駕欲唖鶏声
  相逢相失間分寸 三十六旬一水程

とある。『蜻蛉日記』の「三十一のあさてばかりは逢坂」(天徳二年)には、

 天の川七日を契る心あらば星逢ひばかりの影を見よとや道理にもや思ひけむ、すこし心を留めた るやうにて、月ごろになりゆく


とある。すなわち、天の川で、七日の夜に、牽牛と織女との二星が相逢うように、あなたも、七日に逢いたいと約束されるのは、年に一度だけ、ちらっとお姿を見せるだけで満足していなさいとでもおっしゃるのですか、というのである。『枕草子』「10段」には、

 七月七日は、くもりくらして 夕がたは 晴れたる空に月いとあかく星の数も見えたる

とある。平安時代の女房たちの七日の空の晴れる事を心待ちしている様子が見える。『紫式部日記』の「七日」には、

 おほかたを思へばゆゆし天の川今日の逢ふ瀬はうらやまれけり

とある。悲喜の心持ちを詠んでいた。これが当時、内裏および公卿の私第で盛んに行われていた「乞巧奠」の儀と相俟って恵まれた星の世界の彼らに地上のわれわれの心を打ち明けてその成功を乞うならばきっと叶えられると考え、いわゆる「乞巧奠」の儀が迎えられた。『源氏物語』「帚木巻」には、
 
 「・・・はかなきあだ事をもまことの大事をも、言ひあはせたるにかひなからず、龍田姫と言はむにもつきなからず、織女の手にも劣るまじく、その方も具して、うるさくなんはべりし」とて、 いとあはれと思ひ出でたり。中将、「その織女の裁ち逢ふ方をのどめて、長き契りにぞあえまし。(中略)」と、言ひはやしたまふ。

とある。同書の「幻巻」には、

 七月七日も、例に変わりたること多く、御遊びなどもし給はで、、つれづれにながめ暮らし給ひて、星合見る人もなし。また夜深う一所おきゐ給ひて、妻戸おしあけ給へるに、前栽の露いとしげ く、渡殿の戸より通りて見渡さるれば、

とある。管絃の遊びは貴紳の宅においても一般に行われたようである。また、同書の「幻巻」には、


 かく忍びたまへる道にも、いとことにいつくしきを見たまふにも、げに七夕ばかりにても、かかる彦星の光をこそ待ち出でめ、とおぼえたり。

とある。『源氏物語』の書かれた頃、七夕は最も隆盛であったとみられ、風流を好む貴族・文人たち、女房等によって七夕の夜は漢詩をつくり、和歌を詠む楽しい一夜であった
『和泉式部日記』の「七月-むなしい頼み」には、

 かくいふほどに、七月になりぬ。七日、すきごとどもする人のもとより、七夕ひこぼしといふこともあまたあれど、日も立たず。かかる折に、宮の過ごさずのたまはせしものを、げにおぼしめし 忘れにけるかなと思ふほどにぞ、御文ある。見れば、ただかくぞ、宮思ひきや七夕つ女に身をなして天の河原をながむべしとはとあり。さはいへど、過ごしたまはざめるはと思ふも、をかしうて 、女ながむらむ空をだに見ず七夕に忌まるばかりわが身と思へばとあるを御覧じても、なほ思ひはなつまじうおぼす。

とある。式部の和歌に対する帥敦道親王の返歌が代表されるような、この日にちなんでの贈答歌が多数生み出されている 


 前に述べたように、七月七日夜は文献上では、持統天皇の五年を始めとするが、つづいて天平六年には、宴と共に文人が七夕の詩を賦し、相撲が行われた。しかし、はじめはまだ儀式としては整ったものではなかったらしい。相撲は前に述べたように、「日本書紀」によれば、垂仁天皇七年七月七日をはじめとする。その後も奈良時代を通じて、この日に行われており、「内裏式」にも、この日が相撲の日と認められている。平安朝になると、乞巧奠の意味が深く浸潤して、そこに美的、遊戯的要素が加わえて、平安朝貴族・女房社会にみなれるような華美な儀となっていたのである

おわりに

 「七夕」の夜、牽牛・織女の二星が、天の河を渡って一年に一度逢瀬を楽しむという伝説はもともと天文の現象であったものが、神話化したものである。漢の時代には当時流行していた神仙思想と七夕の説話が結合したものであった。前に述べたように、『荊楚歳時記』、『四民月令』、『詩経』には二星会合のさまが詳細である。中国では、大体漢代に七月七日夜の二星会合に関するロマンチックな伝説はできあがっていたものとおもわれる。唐の時代には道教が隆盛であり、唐の皇帝も道教をよく信じていた。道教をよく信奉する知識人も多かった。詩人の白居易は仏教を信ずると同時に道教を信じていた。彼の「長恨歌」の中にも「七月七日長生殿、夜半無人私語時」とみえるほどである。唐の玄宗と楊貴妃が世間の人のように互いに深く愛することと、比翼昇天の幻とを完全に融合した。さらに、「七夕」に行われている「乞巧奠」は漢の時代から盛んになり、唐代には代表的な儀式となっていた。

漢代の伝説から、二星を祭るという風習がはじまり、これが日本古来の棚機姫の信仰と結合し、日本の星祭となり、二星会合が七夕の主な行事となった。を祭る風習が中国より日本に伝わって、七月七日節会ができあがったのである。日本では、まず『万葉集』に二星会合の歌が多くみえる。すなわち、『万葉集』八、九、十にはことに二星に関する歌が多い。『万葉集』に二星会合の歌が詠まれているころには、この日が宮廷の節日として成立していたことが分かる。でも、二星会合の逸話が日本に渡っていた以前に日本ではこの日に宴をやっていた。この日がいわゆる「節」として意義のある日、また神祭の日であったことを考えなければならない。平安時代に入り、この日を織女祭りと呼び、この夜、花香を供え、庭上にふみをおいて、さおの端に五色の糸をかけて一事を願えば三年のうちにかならずかなうという唐の乞巧奠の儀と結合するのは、平安朝も藤原時代に入ってからである。


すなわち、いままで、この日の最大の儀であった詩を賦することが末事となり、乞巧奠及び二星会合のさまが、この日の行儀の主な儀となってくる。と同時に、この儀は形式的、美的に流れすぎ、いつしか、この行事の真の神祭的意義は失われてしまっている。『西宮記』には七月七日乞巧奠の祭式が簡略に記されている。平安中期になり、『江家次第』には、明確に「乞巧奠」の「具」が記されていて、唐代の儀式の影響が見られる。「乞巧」は織女星に機織りの技術の向上を祈ることから始まり、それが裁縫の技術が巧みになるように祈ることに変化、さらに書道・文学・音楽などの技巧の上進を祈ることともなり、そののち二星が相逢うことから、恋愛の成就を祈る行事に変化していった。そこに、美的、遊戯的要素が加わって、平安貴族、女房社会に見られるような華美な儀となっていったのであると思う。と同時に平安朝の貴族社会が、そのような儀を受け入れやすかったのであろう。

 

 講談社学術文庫「星の神話・伝説」野尻抱影
 織女は、こと座のベーガ、牽牛は、わし座のアルタイルの中国名ですが、この二つの一等星が、天の川を隔てて瞬き合うさまは、正に一対の夫婦星で、世界にもまれな七夕伝説が中国に生まれたのも、自然に思われます。
 織女は天帝の娘で、天の川の東の岸に住み、父のいいつけで明けても暮れても「機」を織っていました。その布は雲錦といって、五色にてり輝き、眩しいほど美しいものでしたが、織女はそれを織るので、髪を結う暇もなく、化粧をすることも忘れてしまいました。
 やがて天帝も娘を不憫に思って、天の川の西に住む牽牛という若者とめあわせました。すると、織女は新しい生活の愉しさに、はた織りをなまけて、化粧にばかり身をやつすようになりました。それで天帝は腹を立てて、織女を再び東の岸へ連れ戻し、一年に一度、七月七日の夜だけ、天の川を渡って、夫に会うことを許してやりました。
 こうしてその日に雨が降ると、天の川の水かさが増すために、織女は川を渡ることができないので、目のいい人には雲を通して、二つの星が天の川の両岸で、哀しげに五色に煌くのが見えるといいます。
 その夜、カササギが、天の川の中に翼をならべて橋となり、織女を渡してやるというので、日本でも、これを『かささぎの橋』といって歌に詠みました。
 中国では唐の時代から七月七日の夕べを七夕(しちせき)といって、織女牽牛を祭り、女たちが、針仕事や、琴や、文字などが上手になるように祈りました。
 この伝説と祭りとが、遣唐使や留学生によって日本へ伝わり、織女には、はた織りの女神の名をあててタナバタ(棚機)とよび、牽牛は、男の星の意味でヒコボシ(彦星)とよび、また、オリヒメ、ウシカイボシともいいました。そして七夕と書いて、『タナバタ』と読むようになりました。
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