万葉集巻第十 
 
 
       春 雑 歌  古 語 辞 典 へ
1816 ひさかたの天の香具山この夕霞たなびく春立つらしも  
1817 巻向の檜原に立てる春霞おほにし思はばなづみ来めやも
1818 いにしへの人の植ゑけむ杉が枝に霞たなびく春は来ぬらし  
1819 子らが手を巻向山に春されば木の葉しのぎて霞たなびく
1820 玉かぎる夕さり来ればさつ人の弓月が岳に霞たなびく  
1821 今朝行きて明日は来なむと言ひし子か朝妻山に霞たなびく
1822 子らが名に懸けのよろしき朝妻の片山崖に霞たなびく  
      右は、柿本朝臣人麻呂が歌集に出づ。  
      鳥を詠む  
1823 うち靡く春立ちぬらし我が門の柳の末にうぐひす鳴きつ
1824 梅の花咲ける岡辺に家居れば乏しくもあらずうぐひすの声  
1825 春霞流るるなへに青柳の枝くひ持ちてうぐひす鳴くも
1826 我が背子を莫越の山の呼子鳥君呼び返せ夜の更けぬとに  
1827 朝ゐでに来鳴く貌鳥汝れだにも君に恋ふれや時終へず鳴く
1828 冬こもり春さり来ればあしひきの山にも野にもうぐひす鳴くも  
1829 紫草の根延ふ横野の春野には君を懸けつつうぐひす鳴くも
1830 春されば妻を求むとうぐひすの木末を伝ひ鳴きつつもとな  
1831 春日なる羽易の山ゆ佐保の内へ鳴き行くなるは誰れ呼子鳥
1832 答へぬにな呼び響めそ呼子鳥佐保の山辺を上り下りに  
1833 梓弓春山近く家居れば継ぎて聞くらむうぐひすの声
1834 うち靡く春さり来れば小竹の末に尾羽打ち触れてうぐひす鳴くも  
1835 朝霧にしののに濡れて呼子鳥三船の山ゆ鳴き渡る見ゆ
      雪を詠む  
1836 うち靡く春さり来ればしかすがに天雲霧らひ雪は降りつつ
1837 梅の花降り覆ふ雪を包み持ち君に見せむと取れば消につつ  
1838 梅の花咲き散り過ぎぬしかすがに白雪庭に降りしきりつつ  再掲  
1839 今さらに雪降らめやもかぎろひの燃ゆる春へとなりにしものを  
1840 風交り雪は降りつつしかすがに霞たなびき春されにけり  
1841 山の際にうぐひす鳴きてうち靡く春と思へど雪降りしきぬ  
1842 峰の上に降り置く雪し風の共ここに散るらし春にはあれども  
      右の一首は、筑波山にして作る。  
1843 君がため山田の沢にゑぐ摘むと雪消の水に裳の裾濡れぬ  
1844 梅が枝に鳴きて移ろふうぐひすの羽白栲に沫雪ぞ降る  
1845 山高み降り来る雪を梅の花散りかも来ると思ひつるかも 一には「梅の花咲きかも散ると」といふ  
1846 雪をおきて梅をな恋ひそあしひきの山片付きて家居せる君  
      右の一首は、問答。  
      霞を詠む  
1847 昨日こそ年は果てしか春霞春日の山に早立ちにけり  
1848 冬過ぎて春来るらし朝日さす春日の山に霞たなびく  
1849 うぐひすの春になるらし春日山霞たなびく夜目に見れども  
      柳を詠む  
1850 霜枯れの冬の柳は見る人のかづらにすべく萌えにけるかも  
1851 浅緑染め懸けたりと見るまでに春の楊は萌えにけるかも  
1852 山の際に雪は降りつつしかすがにこの川楊は萌えにけるかも  
1853 山の際の雪は消ずあるをみなぎらふ川の沿ひには萌えにけるかも  
1854 朝な朝な我が見る柳うぐひすの来居て鳴くべき森に早なれ  
1855 青柳の糸のくはしさ春風に乱れぬい間に見せむ子もがも  
1856 ももしきの大宮人のかづらけるしだり柳は見れど飽かぬかも  
1857 梅の花取り持ち見れば我がやどの柳の眉し思ほゆるかも  
      花を詠む  
1858 うぐひすの木伝ふ梅のうつろへば桜の花の時かたまけぬ  
1859 桜花時は過ぎねど見る人の恋の盛りと今し散るらむ  
1860 我がさせる柳の糸を吹き乱る風にか妹が梅の散るらむ  
1861 年のはに梅は咲けどもうつせみの世の人我れし春なかりけり  
1862 うつたへに鳥は食まねど縄延へて守らまく欲しき梅の花かも  
1863 馬並めて多賀の山辺を白栲ににほはしたるは梅の花かも  
1864 花咲きて実はならねども長き日に思ほゆるかも山吹の花  
1865 能登川の水底さへに照るまでに御笠の山は咲きにけるかも  
1866 雪見ればいまだ冬なりしかすがに春霞立ち梅は散りつつ  
1867 去年咲きし久木今咲くいたづらに地にか落ちむ見る人なしに  
1868 あしひきの山の際照らす桜花この春雨に散りゆかむかも  
1869 うち靡く春さり来らし山の際の遠き木末の咲きゆく見れば  
1870 雉鳴く高円の辺に桜花散りて流らふ見む人もがも  
1871 阿保山の桜の花は今日もかも散り乱ふらむ見る人なしに  
1872 かはづ鳴く吉野の川の滝の上の馬酔木の花ぞはしに置くなゆめ  
1873 春雨に争ひかねて我がやどの桜の花は咲きそめにけり  
1874 春雨はいたくな降りそ桜花いまだ見なくに散らまく惜しも  再掲  
1875 春されば散らまく惜しき梅の花しましは咲かずふふみてもがも  
1876 見わたせば春日の野辺に霞立ち咲きにほへるは桜花かも  
1877 いつしかもこの夜の明けむうぐひすの木伝ひ散らす梅の花見む  
      月を詠む  
1878 春霞たなびく今日の夕月夜清く照るらむ高松の野に  
1879 春されば樹の木の暗の夕月夜おほつかなしも山蔭にして 一には「春されば木の暗多み夕月夜」といふ  
1880 朝霞春日の暮は木の間より移ろふ月をいつとか待たむ  (再掲  
      雨を詠む  
1881 春の雨にありけるものを立ち隠り妹が家道にこの日暮らしつ  
      川を詠む  
1882 今行きて聞くものにもが明日香川春雨降りてたぎつ瀬の音を  
      煙を詠む  
1883 春日野に煙立つ見ゆ娘子らし春野のうはぎ摘みて煮らしも  
      野遊  
1884 春日野の浅茅が上に思ふどち遊ぶ今日の日忘らえめやも  
1885 春霞立つ春日野を行き返り我れは相見むいや年のはに  
1886 春の野に心延べむと思ふどち来し今日の日は暮れずもあらぬか  
1887 ももしきの大宮人は暇あれや梅をかざしてここに集へる  
      歎旧  
1888 冬過ぎて春し来れば年月は新たなれども人は古りゆく  
1889 物皆は新たしきよしただしくも人は古りにしよろしかるべし  
      懽逢  
1890 住吉の里行きしかば春花のいやめづらしき君に逢へるかも  
      旋頭歌  
1891 春日なる御笠の山に月も出でぬかも 佐紀山に咲ける桜の花の見ゆべく  
1892 白雪の常敷く冬は過ぎにけらしも 春霞たなびく野辺のうぐひす鳴くも  
      譬 喩 歌  
1893 我がやどの毛桃の下に月夜さし下心よしうたてこのころ  
       春 相 聞  
1894 春山の友うぐひすの泣き別れ帰ります間も思ほせ我れを  
1895 冬こもり春咲く花を手折り持ち千たびの限り恋ひわたるかも  
1896 春山の霧に惑へるうぐひすも我れにまさりて物思はめや  
1897 出でて見る向ひの岡に本茂く咲きたる花のならずはやまじ  
1898 霞立つ春の長日を恋ひ暮らし夜も更けゆくに妹も逢はぬかも  
1899 春さればまづさきくさの幸くあらば後にも逢はむな恋ひそ我妹  
1900 春さればしだり柳のとををにも妹は心に乗りにけるかも  
      右は、柿本朝臣人麻呂が歌集に出づ。  
      鳥に寄する  
1901 春さればもずの草ぐき見えずとも我れは見やらむ君があたりをば  
1902 貌鳥の間なくしば鳴く春の野の草根の繁き恋もするかも  
      花に寄する  
1903 春されば卯の花ぐたし我が越えし妹が垣間は荒れにけるかも  
1904 梅の花咲き散る園に我れ行かむ君が使を片待ちがてり  
1905 藤波の咲く春の野に述ふ葛の下よし恋ひば久しくもあらむ  
1906 春の野に霞たなびき咲く花のかくなるまでに逢はぬ君かも  
1907 我が背子に我が恋ふらくは奥山の馬酔木の花の今盛りなり  
1908 梅の花しだり柳に折り交へ花に供へば君に逢はむかも  
1909 をみなへし佐紀野に生ふる白つつじ知らぬこともち言はれし我が背  
1910 梅の花我れは散らさじあをによし奈良なる人の来つつ見るがね  
1911 かくしあらば何か植ゑけむ山吹のやむ時もなく恋ふらく思へば  
      霜に寄する  
1912 春されば水草の上に置く霜の消つつも我れは恋ひわたるかも  
      霞に寄する  
1913 春霞山にたなびきおほほしく妹を相見て後恋ひむかも  再掲  
1914 春霞立ちにし日より今日までに我が恋やまず本の繁けば 一には「片思にして」といふ  
1915 さ丹つらふ妹を思ふと霞立つ春日もくれに恋ひわたるかも  
1916 たまきはる我が山の上に立つ霞立つとも居とも君がまにまに  
1917 見わたせば春日の野辺に立つ霞見まくの欲しき君が姿か  
1918 恋ひつつも今日は暮らしつ霞立つ明日の春日をいかに暮らさむ  
      雨に寄する  
1919 我が背子に恋ひてすべなみ春雨の降るわき知らず出でて来しかも  
1920 今さらに君はい行かじ春雨の心を人の知らざらなくに  
1921 春雨に心はいたく通らめや七日し降らば七日来じとや  
1922 梅の花散らす春雨いたく降る旅にや君が廬りせるらむ  
      草に寄する  
1923 国栖らが春菜摘むらむ司馬の野のしばしば君を思ふこのころ  
1924 春草の繁き我が恋大海の辺に行く波の千重に積もりぬ  
1925 おほほしく君を相見て菅の根の長き春日を恋ひわたるかも  
      松に寄する  
1926 梅の花咲きて散りなば我妹子を来むか来じかと我が松の木ぞ  
      雲に寄する  
1927 白真弓今春山に行く雲の行きや別れむ恋しきものを  
      縵を贈る  
1928 ますらをの伏し居嘆きて作りたるしだり柳のかづらせ我妹  
      悲別  
1929 朝戸出の君が姿をよく見ずて長き春日を恋ひや暮らさむ  
      問答  
1930 春山の馬酔木の花の悪しからぬ君にはしゑや寄そるともよし  
1931 石上布留の神杉神びにし我れやさらさら恋にあひにける  
      右の一首は、春の歌にあらねども、なほ和するをもちてのゆゑに、この次に載す。  
1932 さのかたは実にならずとも花のみに咲きて見えこそ恋のなぐさに  
1933 さのかたは実になりにしを今さらに春雨降りて花咲かめやも  
1934 梓弓引津の辺なるなのりその花咲くまでに逢はぬ君かも  再掲  
1935 川の上のいつ藻の花のいつもいつも来ませ我が背子時じけめやも  
1936 春雨のやまず降る降る我が恋ふる人の目すらを相見せなくに  
1937 我妹子に恋ひつつ居れば春雨のそれも知るごとやまず降りつつ  再掲  
1938 相思はぬ妹をやもとな菅の根の長き春日を思ひ暮らさむ  
1939 春さればまづ鳴く鳥のうぐひすの言先立ちし君をし待たむ  
1940 相思はずあるらむ子ゆゑ玉の緒の長き春日を思ひ暮らさく  
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      鳥を詠む  
1941 ますらをの 出で立ち向ふ 故郷の 神なび山に 明けくれば 柘のさ枝に 夕されば 小松が末に 里人の 聞き恋ふるまで 山彦の 相響むまで ほととぎす 妻恋すらし さ夜中に鳴く  
      反歌  
1942 旅にして妻恋すらしほととぎす神なび山にさ夜更けて鳴く  
      右は、古歌集の中に出づ。  
1943 ほととぎす汝が初声は我れにもが五月の玉に交へて貫かむ  
1944 朝霞たなびく野辺にあしひきの山ほととぎすいつか来鳴かむ  
1945 朝霞八重山越えて呼子鳥鳴きや汝が来るやどもあらなくに  
1946 ほととぎす鳴く声聞くや卯の花の咲き散る岡に葛引く娘女  
1947 月夜よみ鳴くほととぎす見まく欲り我れ草取れり見む人もがも  
1948 藤波の散らまく惜しみほととぎす今城の岡を鳴きて越ゆなり  
1949 朝霧の八重山越えてほととぎす卯の花辺から鳴きて越え来ぬ  
1950 木高くはかつて木植ゑじほととぎす来鳴き響めて恋まさらしむ  
1951 逢ひかたき君に逢へる夜ほととぎすあたし時ゆは今こそ鳴かめ  
1952 木の暗の夕闇なるに 一には「なれば」といふ ほととぎすいづくを家と鳴き渡るらむ  
1953 ほととぎす花橘の枝に居て鳴き響もせば花は散りつつ  
1954 ほととぎす今朝の朝明に鳴きつるは君聞けむか朝寐か寝けむ  
1955 うれたきや醜ほととぎす今こそは声の嗄るがに来鳴き響めめ  
1956 今夜のおほつかなきにほととぎす鳴くなる声の音の遥けさ  
1957 五月山卯の花月夜ほととぎす聞けども飽かずまた鳴かぬかも  
1958 ほととぎす来居も鳴かぬか我がやどの花橘の地に落ちむ見む  
1959 ほととぎすいとふ時なしあやめぐさかづらにせむ日こゆ鳴き渡れ  
1960 大和には鳴きてか来らむほととぎす汝が鳴くごとになき人思ほゆ  
1961 卯の花の散らまく惜しみほととぎす野に出で山に入り来鳴き響もす  
1962 橘の林を植ゑむほととぎす常に冬まで棲みわたるがね  
1963 雨晴れの雲にたぐひてほととぎす春日をさしてこゆ鳴き渡る  
1964 物思ふと寐ねぬ朝明にほととぎす鳴きてさ渡るすべなきまでに  
1965 我が衣君に着せよとほととぎす我れをうながす袖に来居つつ  
1966 本つ人ほととぎすをやめづらしみ今か汝が恋ひつつ居れば  
1967 かくばかり雨の降らくにほととぎす卯の花山になほか鳴くらむ  
      蝉を詠む  
1968 黙もあらむ時も鳴かなむひぐらしの物思ふ時に鳴きつつもとな  
      榛を詠む  
1969 思ふ子が衣摺らむににほひこそ島の榛原秋立たずとも  
      花を詠む  
1970 風に散る花橘を袖に受けて君がみ跡と偲ひつるかも  
1971 かぐはしき花橘を玉に貫き贈らむ妹はみつれてもあるか  
1972 ほととぎす来鳴き響もす橘の花散る庭を見む人や誰れ  再掲  
1973 我がやどの花橘は散りにけり悔しき時に逢へる君かも  
1974 見わたせば向ひの野辺のなでしこの散らまく惜しも雨な降りそね  
1975 雨間明けて国見もせむを故郷の花橘は散りにけむかも  
1976 野辺見ればなでしこの花咲きにけり我が待つ秋は近づくらしも  
1977 我妹子に楝の花は散り過ぎず今咲けるごとありこせぬかも  
1978 春日野の藤は散りにて何をかもみ狩の人の折りてかざさむ  花の問答  
1979 時ならず玉をぞ貫ける卯の花の五月を待たば久しくあるべみ  花の問答  
      問答  
1980 卯の花の咲き散る岡ゆほととぎす鳴きてさ渡る君は聞きつや  
1981 聞きつやと君が問はせるほととぎすしののに濡れてこゆ鳴き渡る  
      譬喩歌  
1982 橘の花散る里に通ひなば山ほととぎす響もさむかも  
       夏 相 聞  
      鳥に寄する  
1983 春さればすがるなす野のほととぎすほとほと妹に逢はず来にけり  
1984 五月山花橘にほととぎす隠らふ時に逢へる君かも  
1985 ほととぎす来鳴く五月の短夜もひとりし寝れば明かしかねつも  
      蝉に寄する  
1986 ひぐらしは時と鳴けども片恋にたわや女我れは時わかず泣く  
      草に寄する  
1987 人言は夏野の草の繁くとも妹と我れとしたづさはり寝ば  
1988 このころの恋の繁けく夏草の刈り掃へども生ひしくごとし  
1989 ま葛延ふ夏野の繁くかく恋ひばまこと我が命常ならめやも  
1990 我れのみやかく恋すらむかきつはた丹つらふ妹はいかにかあるらむ  
      花に寄する  
1991 片縒りに糸をぞ我が縒る我が背子が花橘を貫かむと思ひて  
1992 うぐひすの通ふ垣根の卯の花の憂きことあれや君が来まさぬ  
1993 卯の花の咲くとはなしにある人に恋ひやわたらむ片思にして  
1994 我れこそば憎くもあらめ我がやどの花橘を見には来じとや  
1995 ほととぎす来鳴き響もす岡辺なる藤波見には君は来じとや  
1996 隠りのみ恋ふれば苦しなでしこの花に咲き出よ朝な朝な見む  
1997 外のみに見つつ恋ひなむ紅の末摘花の色に出でずとも  
      露に寄する  
1998 夏草の露別け衣着けなくに我が衣手の干る時もなき  
      日に寄する  
1999 六月の地さへ裂けて照る日にも我が袖干めや君に逢はずして  
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      七夕  
2000 天の川水さへに照る舟泊てて舟なる人は妹と見えきや  
2001 ひさかたの天の川原にぬえ鳥のうら泣きましつすべなきまでに  
2002 我が恋を夫は知れるを行く舟の過ぎて来べしや言も告げなむ  
2003 赤らひく色ぐはし子をしば見れば人妻ゆゑに我れ恋ひぬべし  
2004 天の川安の渡りに舟浮けて秋立つ待つと妹に告げこそ  
2005 大空ゆ通ふ我れすら汝がゆゑに天の川道をなづみてぞ来し  
2006 八千桙の神の御代よりともし妻人知りにけり継ぎてし思へば  
2007 我が恋ふる丹のほの面わこよひもか天の川原に石枕まく  
2008 己夫にともしき子らは泊てむ津の荒磯まきて寝む君待ちかてに  
2009 天地と別れし時ゆ己が妻しかぞ離れてあり秋待つ我れは  
2010 彦星は嘆かす妻に言だにも告げにぞ来つる見れば苦しみ  
2011 ひさかたの天つしるしと水無し川隔てて置きし神代し恨めし  
2012 ぬばたまの夜霧に隠り遠くとも妹が伝へは早く告げこそ  
2013 汝が恋ふる妹の命は飽き足らに袖振る見えつ雲隠るまで  
2014 夕星も通ふ天道をいつまでか仰ぎて待たむ月人壮士  
2015 天の川い向ひ立ちて恋しらに言だに告げむ妻どふまでは  
2016 白玉の五百つ集ひを解きもみず我れは寝かてぬ逢はむ日待つに  
2017 天の川水蔭草の秋風に靡かふ見れば時は来にけり  
2018 我が待ちし秋萩咲きぬ今だにもにほひに行かな彼方人に  
2019 我が背子にうら恋ひ居れば天の川夜舟漕ぐなる楫の音聞こゆ  
2020 ま日長く恋ふる心ゆ秋風に妹が音聞こゆ紐解き行かな  
2021 恋ひしくは日長きものを今だにもともしむべしや逢ふべき夜だに  
2022 天の川去年の渡りで移ろへば川瀬を踏むに夜ぞ更けにける  
2023 いにしへゆあげてし服も顧みず天の川津に年ぞ経にける  
2024 天の川夜船を漕ぎて明けぬとも逢はむと思へや袖交へずあらむ  
2025 遠妻と手枕交へて寝たる夜は鶏がねな鳴き明けば明けぬとも  
2026 相見らく飽き足らねどもいなのめの明けさりにけり舟出せむ妻  
2027 さ寝そめていくだもあらねば白栲の帯乞ふべしや恋も過ぎねば  
2028 万代にたづさはり居て相見とも思ひ過ぐべき恋にあらなくに  
2029 万代に照るべき月も雲隠り苦しきものぞ逢はむと思へど  
2030 白雲の五百重に隠り遠くとも宵さらず見む妹があたりは  
2031 我がためと織女のそのやどに織る白栲は織りてけむかも  
2032 君に逢はず久しき時ゆ織る服の白栲衣垢付くまでに  
2033 天の川楫の音聞こゆ彦星と織女と今夜逢ふらしも  
2034 秋されば川霧立てる天の川川に向き居て恋ふる夜ぞ多き  
2035 よしゑやし直ならずともぬえ鳥のうら泣き居りと告げむ子もがも  
2036 一年に七日の夜のみ逢ふ人の恋も過ぎねば夜は更けゆくも 一には「尽きねばさ夜ぞ明けにける」といふ  
2037 天の川安の川原定而神競者磨待無  
      この歌一首は、庚辰の年に作る。  
      右は、柿本朝臣人麻呂が歌集に出づ。  
2038 織女の五百機立てて織る布の秋さり衣誰れか取り見む  
2039 年にありて今かまくらむぬばたまの夜霧隠れる遠妻の手を  
2040 我が待ちし秋は来りぬ妹と我れと何事あれぞ紐解かずあらむ  
2041 年の恋今夜尽して明日よりは常のごとくや我が恋ひ居らむ  
2042 逢はなくは日長きものを天の川隔ててまたや我が恋ひ居らむ  
2043 恋しけく日長きものを逢ふべくある宵だに君が来まさずあるらむ  
2044 彦星と織女と今夜逢ふ天の川門に波立つなゆめ  
2045 秋風の吹きただよはす白雲は織女の天つ領巾かも  
2046 しばしばも相見ぬ君を天の川舟出早せよ夜の更けぬ間に  
2047 秋風の清き夕に天の川舟漕ぎ渡る月人壮士  
2048 天の川霧立ちわたり彦星の楫の音聞こゆ夜の更けゆけば  
2049 君が舟今漕ぎ来らし天の川霧立ちわたるこの川の瀬に  
2050 秋風に川波立ちぬしましくは八十の舟津にみ舟留めよ  
2051 天の川川の音清し彦星の秋漕ぐ舟の波のさわきか  
2052 天の川川門に立ちて我が恋ひし君来ますなり紐解き待たむ 一には「天の川川に向き立ち」といふ  
2053 天の川川門の居りて年月を恋ひ来し君に今夜逢へるかも  
2054 明日よりは我が玉床をうち掃ひ君と寐ねずてひとりかも寝む  
2055 天の原行きて射てむと白真弓引きて隠れる月人壮士  
2056 この夕降りくる雨は彦星の早漕ぐ舟の櫂の散りかも  
2057 天の川八十瀬霧らへり彦星の時待つ舟は今し漕ぐらし  
2058 風吹きて川波立ちぬ引き船に渡りも来ませ夜の更けぬ間に  
2059 天の川遠き渡りはなけれども君が舟出は年にこそ待て  
2060 天の川打橋渡せ妹が家道やまず通はむ時待たずとも  
2061 月重ね我が思ふ妹に逢へる夜は今し七夜を継ぎこせぬかも  
2062 年に装ふ我が舟漕がむ天の川風は吹くとも波立つなゆめ  
2063 天の川波は立つとも我が舟はいざ漕ぎ出でむ夜の更けぬ間に  
2064 ただ今夜逢ひたる子らに言どひもいまだせずしてさ夜ぞ明けにける  
2065 天の川白波高し我が恋ふる君が舟出は今しすらしも  
2066 機物の蹋木持ち行きて天の川打橋渡す君が来むため  
2067 天の川霧立ち上る織女の雲の衣のかへる袖かも  
2068 いにしへゆ織りてし服をこの夕衣に縫ひて君待つ我れを  
2069 足玉も手玉もゆらに織る服を君が御衣に縫ひもあへむかも  
2070 月日おき逢ひてしあれば別れまく惜しくある君は明日さへもがも  
2071 天の川渡り瀬深み舟浮けて漕ぎ来る君が楫の音聞こゆ  
2072 天の原振り放け見れば天の川霧立ちわたる君は来ぬらし  
2073 天の川瀬ごとに幣をたてまつる心は君を幸く来ませと  
2074 ひさかたの天の川津に舟浮けて君待つ夜らは明けずもあらぬか  
2075 天の川なづさひ渡る君が手もいまだまかねば夜の更けぬらく  
2076 渡り守舟渡せをと呼ぶ声の至らねかも楫の音のせぬ  
2077 ま日長く川に向き立ちありし袖今夜まかむと思はくがよさ  
2078 天の川渡り瀬ごとに思ひつつ来しくもしるし逢へらく思へば  
2079 人さへや見継がずあらむ彦星の妻呼ぶ舟の近づき行くを 一には「見つつあるらむ」といふ  
2080 天の川瀬を早みかもぬばたまの夜は更けにつつ逢はぬ彦星  
2081 渡り守舟早渡せ一年にふたたび通ふ君にあらなくに  
2082 玉葛絶えぬものからさ寝らくは年の渡りにただ一夜のみ  
2083 恋ふる日は日長きものを今夜だにともしむべしや逢ふべきものを  
2084 織女の今夜逢ひなば常のごと明日を隔てて年は長けむ  
2085 天の川棚橋渡せ織女のい渡らさむに棚橋渡せ  
2086 天の川川門八十ありいづくにか君がみ舟を我が待ち居らむ  
2087 秋風の吹きにし日より天の川瀬に出で立ちて待つと告げこそ  
2088 天の川去年の渡り瀬荒れにけり君が来まさむ道の知らなく  
2089 天の川瀬々に白波高けども直渡り来ぬ待たば苦しみ  
2090 彦星の妻呼ぶ舟の引き綱の絶えむと君を我が思はなくに  
2091 渡り守舟出し出でむ今夜のみ相見て後は逢はじものかも  
2092 我が隠せる楫棹なくて渡り守舟貸さめやもしましはあり待て  
2093 天地の 初めの時ゆ 天の川 い向ひ居りて 一年に ふたたび逢はぬ 妻恋ひに 物思ふ人 天の川 安の川原の あり通ふ 出の渡りに そぼ舟の 艫にも舳にも 舟装ひ ま楫しじ貫き 旗すすき 本葉もそよに 秋風の 吹きくる宵に 天の川 白波しのぎ 落ちたぎつ 早瀬渡りて 若草の 妻をまかむと 大船の 思ひ頼みて 漕ぎ来らむ その夫の子が あらたまの 年の緒長く 思ひ来し 恋尽すらむ 七月の 七日の宵は 我れも悲しも  
      反歌  
2094 高麗錦紐解きかはし天人の妻どふ宵ぞ我れも偲はむ  
2095 彦星の川瀬を渡るさ小舟のい行きて泊てむ川津し思ほゆ  
2096 天地と 別れし時ゆ ひさかたの 天つしるしと 定めてし 天の川原に あらたまの 月重なりて 妹に逢ふ 時さもらふと 立ち待つに 我が衣手に 秋風の 吹きかへらへば 立ちて居て たどきを知らに むらきもの 心いさよひ 解き衣の 思ひ乱れて いつしかと 我が待つ今夜 この川の 流れの長く ありこせぬかも  
      反歌  
2097 妹に逢ふ時片待つとひさかたの天の川原に月ぞ経にける  
      花を詠む  
2098 さを鹿の心相思ふ秋萩のしぐれの降るに散らくし惜しも  
2099 夕されば野辺の秋萩うら若み露にぞ枯るる秋待ちかてに  
      右の二首は、柿本朝臣人麻呂が歌集に出づ。  
2100 真葛原靡く秋風吹くごとに阿太の大野の萩の花散る  
2101 雁がねの来鳴かむ日まで見つつあらむこの萩原に雨な降りそね  
2102 奥山に棲むといふ鹿の宵さらず妻どふ萩の散らまく惜しも  
2103 白露の置かまく惜しみ秋萩を折りのみ折りて置きや枯らさむ  
2104 秋田刈る仮廬の宿りにほふまで咲ける秋萩見れど飽かぬかも  
2105 我が衣摺れるにはあらず高松の野辺行きしかば萩の摺れるぞ  
2106 この夕秋風吹きぬ白露に争ふ萩の明日咲かむ見む  
2107 秋風は涼しくなりぬ馬並めいざ野に行かな萩の花見に  
2108 朝顔は朝露負ひて咲くといへど夕影にこそ咲きまさりけれ  
2109 春されば霞隠りて見えずありし秋萩咲きぬ折りてかざさむ  
2110 沙額田の野辺の秋萩時なれば今盛りなり折りてかざさむ  
2111 ことさらに衣は摺らじをみなへし佐紀野の萩ににほひて居らむ  
2112 秋風は疾く疾く吹き来萩の花散らまく惜しみ競ひ立たむ見む  
2113 我がやどの萩の末長し秋風の吹きなむ時に咲かむと思ひて  
2114 人皆は萩を秋と言ふよし我れは尾花が末を秋とは言はむ  
2115 玉梓の君が使の手折り来るこの秋萩は見れど飽かぬかも  
2116 我がやどに咲ける秋萩常ならば我が待つ人に見せましものを  
2117 手寸十名相植ゑしくしるく出で見ればやどの初萩咲きにけるかも  
2118 我がやどに植ゑ生ほしたる秋萩を誰れか標刺す我れに知らえず  
2119 手に取れば袖さへにほふをみなへしこの白露に散らまく惜しも  
2120 白露に争ひかねて咲ける萩散らば惜しけむ雨な降りそね  
2121 娘女らに行相の早稲を刈る時になりにけらしも萩の花咲く  
2122 朝霧のたなびく小野の萩の花今か散るらむいまだ飽かなくに  
2123 恋しくは形見にせよと我が背子が植ゑし秋萩花咲きにけり  
2124 秋萩に恋尽さじと思へどもしゑやあたらしまたも逢はめやも  
2125 秋風は日に異に吹きぬ高円の野辺の秋萩散らまく惜しも  
2126 ますらをの心はなしに秋萩の恋のみにやもなづみてありなむ  
2127
我が待ちし秋は来りぬしかれども萩の花ぞもいまだ咲かずける    
2128 見まく欲り我が待ち恋ひし秋萩は枝もしみみに花咲きにけり  
2129 春日野の萩し散りなば朝東風の風にたぐひてここに散り来ね  
2130 秋萩は雁に逢はじと言へればか 一には「言へれかも」といふ 声を聞きては花に散りぬる  
2131 秋さらば妹に見せむと植ゑし萩露霜負ひて散りにけるかも  
      雁を詠む  ページトップへ
2132 秋風に大和へ越ゆる雁がねはいや遠ざかる雲隠りつつ  
2133 明け暮れの朝霧隠り鳴きて行く雁は我が恋妹に告げこそ  
2134 我がやどに鳴きし雁がね雲の上に今夜鳴くなり国へかも行く  
2135 さを鹿の妻どふ時に月をよみ雁が音聞こゆ今し来らしも  
2136 天雲の外に雁が音聞きしよりはだれ霜降り寒しこの夜は 一には「いやますますに恋こそまされ」といふ  
2137 秋の田の我が刈りばかの過ぎぬれば雁が音聞こゆ冬かたまけて  
2138 葦辺にある萩の葉さやぎ秋風の吹き来るなへに雁鳴き渡る 一には「秋風に雁が音聞こゆ今し来らしも」といふ  
2139 おしてる難波堀江の葦辺には雁寝たるかも霜の降らくに  
2140 秋風に山飛び越ゆる雁がねの声遠ざかる雲隠るらし  
2141 朝に行く雁の鳴く音は我がごとく物思へれかも声の悲しき  
2142 鶴がねの今朝鳴くなへに雁がねはいづくさしてか雲隠るらむ  
2143 ぬばたまの夜渡る雁はおほほしく幾夜を経てかおのが名を告る  
2144 あらたまの年の経ゆけば率ふと夜渡る我れを問ふ人や誰れ  
      鹿鳴を詠む  
2145 このころの秋の朝明に霧隠り妻呼ぶ鹿の声のさやけさ  
2146 さを鹿の妻ととのふと鳴く声の至らむ極み靡け萩原  
2147 君に恋ひうらぶれ居れば敷の野の秋萩しのぎさを鹿鳴くも  
2148 雁は来ぬ萩は散りぬとさを鹿の鳴くなる声もうらぶれにけり  
2149 秋萩の恋も尽きねばさを鹿の声い継ぎい継ぎ恋こそまされ  
2150 山近く家や居るべきさを鹿の声を聞きつつ寐ねかてぬかも  
2151 山の辺にい行くさつ男はさはにあれど山にも野にもさを鹿鳴くも  
2152 あしひきの山より来せばさを鹿の妻呼ぶ声を聞かましものを  
2153 山辺にはさつ男のねらひ畏けどを鹿鳴くなり妻が目を欲り  
2154 秋萩の散り行く見ればおほほしみ妻恋すらしさを鹿鳴くも  
2155 山遠き都にしあればさを鹿の妻呼ぶ声は乏しくもあるか  
2156 秋萩の散り過ぎゆかばさを鹿はわび鳴きせむな見ずはともしみ  
2157 秋萩の咲きたる野辺はさを鹿ぞ露を別けつつ妻どひしける  
2158 なぞ鹿のわび鳴きすなるけだしくも秋野の萩や繁く散るらむ  
2159 秋萩の咲きたる野辺にさを鹿は散らまく惜しみ鳴き行くものを  
2160 あしひきの山の常蔭に鳴く鹿の声聞かすやも山田守らす子  
      蝉を詠む  
2161 夕影に来鳴くひぐらしここだくも日ごとに聞けど飽かぬ声かも  
      蟋を詠む  
2162 秋風の寒く吹くなへ我がやどの浅茅が本にこほろぎ鳴くも  
2163 蔭草の生ひたるやどの夕影に鳴くこほろぎは聞けど飽かぬかも  
2164 庭草に村雨降りてこほろぎの鳴く声聞けば秋づきにけり  
      蝦を詠む  
2165 み吉野の岩もとさらず鳴くかはづうべも鳴きけり川をさやけみ  
2166 神なびの山下響み行く水にかはづ鳴くなり秋と言はむとや  
2167 草枕旅に物思ひ我が聞けば夕かたまけて鳴くかはづかも  
2168 瀬を早み落ちたぎちたる白波にかはづ鳴くなり朝夕ごとに  
2169 上つ瀬にかはづ妻呼ぶ夕されば衣手寒み妻まかむとか  
      鳥を詠む  
2170 妹が手を取石の池の波の間ゆ鳥が音異に鳴く秋過ぎぬらし  
2171 秋の野の尾花が末に鳴くもずの声聞きけむか片聞け我妹  
      露を詠む  
2172 秋萩に置ける白露朝な朝な玉としぞ見る置ける白露  
2173 夕立の雨降るごとに 一には「うち降れば」といふ 春日野の尾花が上の白露思ほゆ  
2174 秋萩の枝もとををに露霜置き寒くも時はなりにけるかも  
2175 白露と秋萩とには恋ひ乱れ別くことかたき我が心かも  
2176 我がやどの尾花押しなべ置く露に手触れ我妹子散らまくも見む  
2177 白露を取らば消ぬべしいざ子ども露に競ひて萩の遊びせむ  
2178 秋田刈る仮廬を作り我が居れば衣手寒く露ぞ置きにける  
2179 このころの秋風寒し萩の花散らす白露置きにけらしも  
2180 秋田刈る廬動くなり白露し置く穂田なしと告げに来ぬらし 一には「告げに来らしも」といふ  
      山を詠む  
2181 春は萌え夏は緑に紅のまだらに見ゆる秋の山かも  
      黄葉を詠む  
2182 妻ごもる矢野の神山露霜ににほひそめたり散らまく惜しも  
2183 朝露ににほひそめたる秋山にしぐれな降りそありわたるがね  
      右の二首は、柿本朝臣人麻呂が歌集に出づ。  
2184 九月のしぐれの雨に濡れ通り春日の山は色づきにけり  
2185 雁が音の寒き朝明の露ならし春日の山をもみたすものは  
2186 このころの暁露に我がやどの萩の下葉は色づきにけり  
2187 雁がねは今は来鳴きぬ我が待ちし黄葉早継げ待たば苦しも  
2188 秋山をゆめ人懸くな忘れにしその黄葉の思ほゆらくに  
2189 大坂を我が越え来れば二上に黄葉流るしぐれ降りつつ  
2190 秋されば置く白露に我が門の浅茅が末葉色づきにけり  
2191 妹が袖巻来の山の朝露ににほふ黄葉の散らまく惜しも  
2192 黄葉のにほひは繁ししかれども妻梨の木を手折りかざさむ  
2193 露霜の寒き夕の秋風にもみちにけらし妻梨の木は  
2194 我が門の浅茅色づく吉隠の浪柴の野の黄葉散るらし  
2195 雁が音を聞きつるなへに高松の野の上の草ぞ色づきにける  
2196 我が背子が白栲衣行き触ればにほひぬべくももみつ山かも  
2197 秋風の日に異に吹けば水茎の岡の木の葉も色づきにけり  
2198 雁がねの来鳴きしなへに韓衣竜田の山はもみちそめたり  
2199 雁がねの声聞くなへに明日よりは春日の山はもみちそめなむ  
2200 しぐれの雨間なくし降れば真木の葉も争ひかねて色づきにけり  
2201 いちしろくしぐれの雨は降らなくに大城の山は色づきにけり 「大城」といふものは筑前の国の御笠の郡の大野山の頂にあり、号けて「大城」といふ  
2202 風吹けば黄葉散りつつすくなくも吾の松原清くあらなくに  
2203 物思ふと隠らひ居りて今日見れば春日の山は色づきにけり  
2204 九月の白露負ひてあしひきの山のもみたむ見まくしもよし  
2205 妹がりと馬に鞍置きて生駒山うち越え来れば黄葉散りつつ  
2206 黄葉する時になるらし月人の桂の枝の色づく見れば  
2207 里ゆ異に霜は置くらし高松の野山づかさの色づく見れば  
2208 秋風の日に異に吹けば露を重み萩の下葉は色づきにけり  
2209 秋萩の下葉もみちぬあらたまの月の経ぬれば風をいたみかも  
2210 まそ鏡南淵山は今日もかも白露置きて黄葉散るらむ  
2211 我がやどの浅茅色づく吉隠の夏身の上にしぐれ降るらし  
2212 雁がねの寒く鳴きしゆ水茎の岡の葛葉は色づきにけり  
2213 秋萩の下葉の黄葉花に継ぎ時過ぎゆかば後恋ひむかも  
2214 明日香川黄葉流る葛城の山の木の葉は今し散るらし  
2215 妹が紐解くと結びて竜田山今こそもみちそめてありけれ  
2216 雁がねの寒く鳴きしゆ春日なる御笠の山は色づきにけり  
2217 このころの暁露に我がやどの秋の萩原色づきにけり  
2218 夕されば雁の越え行く竜田山しぐれに競ひ色づきにけり  
2219 さ夜更けてしぐれな降りそ秋萩の本葉の黄葉散らまく惜しも  
2220 故郷の初黄葉を手折り持ち今日ぞ我が来し見ぬ人のため  
2221 君が家の黄葉は早散りにけりしぐれの雨に濡れにけらしも  
2222 一年にふたたび行かぬ秋山を心に飽かず過ぐしつるかも  
      水田を詠む  
2223 あしひきの山田作る子秀でずとも縄だに延へよ守ると知るがね  
2224 さを鹿の妻呼ぶ山の岡辺にある早稲田は刈らじ霜は降るとも  
2225 我が門に守る田を見れば佐保の内の秋萩すすき思ほゆるかも  
      川を詠む  
2226 夕さらずかはづ鳴くなる三輪川の清き瀬の音を聞かくしよしも  
      月を詠む  
2227 天の海に月の舟浮け桂楫懸けて漕ぐ見ゆ月人壮士  
2228 この夜らはさ夜更けぬらし雁が音の聞こゆる空ゆ月立渡る  
2229 我が背子がかざしの萩に置く露をさやかに見よと月は照るらし  
2230 心なき秋の月夜の物思ふと寐の寝らえぬに照りつつもとな  
2231 思はぬにしぐれの雨は降りたれど天雲晴れて月夜さやけし  
2232 萩の花咲きのををりを見よとかも月夜の清き恋まさらくに  
2233 白露を玉になしたる九月の有明の月夜見れど飽かぬかも  
      風を詠む  
2234 恋ひつつも稲葉かき別け家居れば乏しくもあらず秋の夕風  
2235 萩の花咲きたる野辺にひぐらしの鳴くなるなへに秋の風吹く  
2236 秋山の木の葉もいまだもみたねば今朝吹く風は霜も置きぬべく  
      芳を詠む  
2237 高松のこの嶺も狭に笠立てて満ち盛りたる秋の香のよさ  
      雨を詠む  
2238 一日には千重しくしくに我が恋ふる妹があたりにしぐれ降る見ゆ  
      右の一首は、柿本朝臣人麻呂が歌集に出づ。  
2239 秋田刈る旅の廬りにしぐれ降り我が袖濡れぬ干す人なしに  
2240 玉たすき懸けぬ時なく我が恋ふるしぐれし降らば濡れつつも行かむ  
2241 黄葉を散らすしぐれの降るなへに夜さへぞ寒きひとりし寝れば  
      霜を詠む  
2242 天飛ぶや雁の覆ひ羽のいづく漏りてか霜の降りけむ  
       秋 相 聞  ページトップへ
2243 秋山のしたひが下に鳴く鳥の声だに聞かば何か嘆かむ  
2244 誰ぞかれと我れをな問ひそ九月の露に濡れつつ君待つ我れを  
2245 秋の夜の霧立ちわたりおほほしく夢にぞ見つる妹が姿を  
2246 秋の野の尾花が末の生ひ靡き心は妹に寄りにけるかも  
2247 秋山に霜降り覆ひ木の葉散り年は行くとも我れ忘れめや  
      右は、柿本朝臣人麻呂が歌集に出づ。  
      水田に寄する  
2248 住吉の岸を田に墾り蒔きし稲かくて刈るまで逢はぬ君かも  
2249 大刀の後玉纏田居にいつまでか妹を相見ず家恋ひ居らむ  
2250 秋の田の穂の上に置ける白露の消ぬべくも我は思ほゆるかも  
2251 秋の田の穂向きの寄れる片寄りに我れは物思ふつれなきものを  
2252 秋田刈る仮廬を作り廬りしてあるらむ君を見むよしもがも  
2253 鶴が音の聞こゆる田居に廬りして我れ旅なりと妹に告げこそ  
2254 春霞たなびく田居に廬つきて秋田刈るまで思はしむらく  
2255 橘を守部の里の門田早稲刈る時過ぎぬ来じとすらしも  
      露に寄する  
2256 秋萩の咲き散る野辺の夕露に濡れつつ来ませ夜は更けぬとも  
2257 色づかふ秋の露霜な降りそね妹が手本をまかぬ今夜は  
2258 秋萩の上に置きたる白露の消かもしなまし恋ひつつあらずは  
2259 我がやどの秋萩の上に置く露のいちしろくしも我れ恋ひめやも  
2260 秋の穂をしのに押しなべ置く露の消かもしなまし恋ひつつあらずは  
2261 露霜に衣手濡れて今だにも妹がり行かな夜は更けぬとも  
2262 秋萩の枝もとををに置く露の消かもしなまし恋ひつつあらずは  
2263 秋萩の上に白露置くごとに見つつぞ偲ふ君が姿を  
      風に寄する  
2264 我妹子は衣にあらなむ秋風の寒きこのころ下に着ましを  
2265 泊瀬風かく吹く宵はいつまでか衣片敷き我がひとり寝む  
      雨に寄する  
2266 秋萩を散らす長雨の降るころはひとり起き居て恋ふる夜ぞ多き  
2267 九月のしぐれの雨の山霧のいぶせき我が胸誰を見ばやまむ 一には「十月しぐれの雨降り」といふ  
      蟋に寄する  
2268 こほろぎの待ち喜ぶる秋の夜を寝る験なし枕と我れは  
      蝦に寄する  
2269 朝霞鹿火屋が下に鳴くかはづ声だに聞かば我れ恋ひめやも  
      雁に寄する  
2270 出でて去なば天飛ぶ雁の泣きぬべみ今日今日と言ふに年ぞ経にける  
      鹿に寄する  
2271 さを鹿の朝伏す小野の草若み隠らひかねて人に知らゆな  
2272 さを鹿の小野の草伏いちしろく我がとはなくに人の知れらく  
      鶴に寄する  
2273 今夜の暁ぐたち鳴く鶴の思ひは過ぎず恋こそまされ  
      草に寄する  
2274 道の辺の尾花が下の思ひ草今さらさらに何をか思はむ  
      花に寄する  
2275 草深みこほろぎさはに鳴くやどの萩見に君はいつか来まさむ  
2276 秋づけば水草の花のあえぬがに思へど知らじ直に逢はずあれば  
2277 何すとか君をいとはむ秋萩のその初花の嬉しきものを  
2278 臥いまろび恋ひは死ぬともいちしろく色には出でじ朝顔の花  
2279 言に出でて言はばゆゆしみ朝顔の穂には咲き出ぬ恋もするかも  
2280 雁がねの初声聞きて咲き出たるやどの秋萩見に来我が背子  
2281 さを鹿の入野のすすき初尾花いづれの時か妹が手まかむ  
2282 恋ふる日の日長くしあれば我が園の韓藍の花の色に出でにけり  
2283 我が里に今咲く花のをみなへし堪へぬ心になほ恋ひにけり  
2284 萩の花咲けるを見れば君に逢はずまことも久になりにけるかも  
2285 朝露に咲きすさびたる月草の日くたつなへに消ぬべく思ほゆ  
2286 長き夜を君に恋ひつつ生けらずは咲きて散りにし花ならましを  
2287 我妹子に逢坂山のはだすすき穂には咲き出ず恋ひわたるかも  
2288 いささめに今も見が欲し秋萩のしなひにあるらむ妹が姿を  
2289 秋萩の花野のすすき穂には出でず我が恋ひわたる隠り妻はも  
2290 我がやどに咲きし秋萩散り過ぎて実になるまでに君に逢はぬかも  
2291 我がやどの萩咲きにけり散らぬ間に早来て見べし奈良の里人  
2292 石橋の間々に生ひたるかほ花の花にしありけりありつつ見れば  
2293 藤原の古りにし里の秋萩は咲きて散りにき君待ちかねて  
2294 秋萩を散り過ぎぬべみ手折り持ち見れども寂し君にしあらねば  
2295 朝咲き夕は消ぬる月草の消ぬべき恋も我れはするかも  
2296 秋津野の尾花刈り添へ秋萩の花を葺かさね君が仮廬に  
2297 咲けりとも知らずしあらば黙もあらむこの秋萩を見せつつもとな  
      山に寄する  
2298 秋されば雁飛び越ゆる竜田山立ちても居ても君をしぞ思ふ  
      黄葉に寄する  
2299 我がやどの葛葉日に異に色づきぬ来まさぬ君は何心ぞも  
2300 あしひきの山さな葛もみつまで妹に逢はずや我が恋ひ居らむ  
2301 黄葉の過ぎかてぬ子を人妻と見つつやあらむ恋しきものを  
      月に寄する  
2302 君に恋ひ萎えうらぶれ我が居れば秋風吹きて月かたぶきぬ  
2303 秋の夜の月かも君は雲隠りしましく見ねばここだ恋しき  
2304 九月の有明の月夜ありつつも君が来まさば我れ恋ひめやも  
      夜に寄する  
2305 よしゑやし恋ひじとすれど秋風の寒く吹く夜は君をしぞ思ふ  
2306 ある人のあな心なと思ふらむ秋の長夜を寝覚め臥すのみ  
2307 秋の夜を長しと言へど積もりにし恋を尽せば短くありけり  
      衣に寄する  
2308 秋つ葉ににほへる衣我れは着じ君に奉らば夜も着るがね  
      問答  
2309 旅にすら紐解くものを言繁みまろ寝ぞ我がする長きこの夜を  
2310 しぐれ降る暁月夜紐解かず恋ふらむ君と居らましものを  
2311 黄葉に置く白露の色端にも出でじと思へば言の繁けく  
2312 雨降ればたぎつ山川岩に触れ君が砕かむ心は持たじ  
      右の一首は、秋の歌に類せず。和するをもちて載す。  
      譬喩歌  
2313 祝らが斎ふ社の黄葉も標縄越えて散るといふものを  
      旋頭歌  
2314 こほろぎの我が床の辺に鳴きつつもとな 起き居つつ君に恋ふるに寐ねかてなくに  
2315 はだすすき穂には咲き出ぬ恋をぞ我がする 玉かぎるただ一目のみ見し人ゆゑに  
       冬 雑 歌  ページトップへ
2316 我が袖に霰た走る巻き隠し消たずてあらむ妹が見むため  
2317 あしひきの山かも高き巻向の崖の小松にみ雪降りくる  
2318 巻向の檜原もいまだ雲居ねば小松が末ゆ沫雪流る  
2319 あしひきの山道も知らず白橿の枝もとををに雪の降れれば 或いは「枝もたわわに」といふ  
      右は、柿本朝臣人麻呂が歌集に出づ。ただし、件の一首は、或本には、「三方沙弥が作」といふ。  
      雪を詠む  
2320 奈良山の嶺なほ霧らふうべしこそ籬が下の雪は消ずけれ  
2321 こと降らば袖さへ濡れて通るべく降りなむ雪の空に消につつ  
2322 夜を寒み朝戸を開き出で見れば庭もはだらにみ雪降りたり 一には「庭もほどろに雪ぞ降りてある」といふ  
2323 夕されば衣手寒し高松の山の木ごとに雪ぞ降りたる  
2324 我が袖に降りつる雪も流れ行きて妹が手本にい行き触れぬか  
2325 沫雪は今日はな降りそ白栲の袖まき干さむ人もあらなくに  
2326 はなはだも降らぬ雪ゆゑこちたくも天つみ空は曇らひにつつ  
2327 我が背子を今か今かと出で見れば沫雪降れり庭もほどろに  
2328 あしひきの山に白きは我がやどに昨日の夕降りし雪かも  
      花を詠む  
2329 誰が園の梅の花ぞもひさかたの清き月夜にここだ散りくる  
2330 梅の花まづ咲く枝を手折りてばつとと名付けてよそへてむかも  
2331 誰が園の梅にかありけむここだくも咲きてあるかも見が欲しまでに  
2332 来て見べき人もあらなくに我家なる梅の初花散りぬともよし  
2333 雪寒み咲きには咲かぬ梅の花よしこのころはかくてもあるがね  
      露を詠む  
2334 妹がためほつ枝の梅を手折るとは下枝の露に濡れにけるかも  
      黄葉を詠む  
2335 八田の野の浅茅色づく有乳山嶺の沫雪寒く降るらし  
      月を詠む  
2336 さ夜更けば出で来む月を高山の嶺の白雲隠すらむかも  
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2337 降る雪の空に消ぬべく恋ふれども逢ふよしなしに月ぞ経にける  
2338 沫雪は千重に降りしけ恋ひしくの日長き我れは見つつ偲はむ  
      右は、柿本朝臣人麻呂が歌集に出づ。  
      露に寄する  
2339 咲き出照る梅の下枝に置く露の消ぬべく妹に恋ふるこのころ  
      霜に寄する  
2340 はなはだも夜更けてな行き道の辺のゆ笹の上に霜の降る夜を  
      雪に寄する  
2341 笹の葉にはだれ降り覆ひ消なばかも忘れむと言へばまして思ほゆ  
2342 霰降りいたも風吹き寒き夜や旗野に今夜我がひとり寝む  
2343 吉隠の野木に降り覆ふ白雪のいちしろくしも恋ひむ我れかも  
2344 一目見し人に恋ふらく天霧らし降りくる雪の消ぬべく思ほゆ  
2345 思ひ出づる時はすべなみ豊国の由布山雪の消ぬべく思ほゆ  
2346 夢のごと君を相見て天霧らし降りくる雪の消ぬべく思ほゆ  
2347 我が背子が言うるはしみ出でて行かば裳引きしるけむ雪な降りそね  
2348 梅の花それとも見えず降る雪のいちしろけむな間使遣らば 一には「降る雪に間使遣らばそれと知らなむ」といふ  
2349 天霧らひ降りくる雪の消なめども君に逢はむとながらへわたる  
2350 うかねらふ跡見山雪のいちしろく恋ひば妹が名人知らむかも  
2351 海人小舟泊瀬の山に降る雪の日長く恋ひし君が音ぞする  
2352 和射見の嶺行き過ぎて降る雪のいとひもなしと申せその子に  
      花に寄する  
2353 我がやどに咲きたる梅を月夜よみ宵々見せむ君をこそ待て  
      夜に寄する  
2354 あしひきの山のあらしは吹かねども君なき宵はかねて寒しも  
   
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