書庫4






 冬の相聞をイメージすると

どうしても雪の孤悲の辛さを思い浮かべる

淡雪は、ほのかな想いを伝え

降りしきる雪は、打ち沈む哀しさを残す

巻第十の冬相聞十八首の内、十四首が雪を詠う

掲載日:2013.03.05.

  ふるゆきのそらにけぬべくこふれども
    あふよしなしにつきそへにける

                    柿本人麻呂歌集出

巻第十 冬相聞 2337 

降る雪の、空に消え行く...
降りしきる雪を、空を見上げて眺めると
そんな風に見えるのかもしれない

叶うことのない待ち続ける辛さが
空に消え行く雪のように、いっそう永遠の月日を知らせる
そうあって欲しくない
雪に待つ辛さを重ねると、いつかは消えるものか
いや、消えはしない

逢うすべもなく...消え入る雪に
雪は空に消えてしまうも、私はどこにも消えはしない
永遠の想いなんて、と
降る雪にたとえるもおろか

私の想いは、消えまいと抵抗する「雪」のように
幾度も舞い上がり、降りしきり...

年は幾つも経ようと
このようにして待つ恋しさを、どんなに泣き暮れても
...願い叶うまで...




 この歌とほとんど同じ類歌が、巻20-4499(4475) 兵部大丞大原真人今城
  
   初雪は千重に降りしけ恋ひしくの多かる我れは見つつ偲はむ


この歌は、作者が記されており
そして大伴宿禰池主宅での酒宴の席での詠歌となっている

人麻呂歌集の実態は、やはり謎のままだが
少なくとも雪に寄せるこの種の歌が、多くの人に口ずさまれていたのではないか
時代を隔て、同じように雪に心を重ねる姿が、人の美しさを感じさせる

 

掲載日:2013.03.07. 

  あはゆきはちへにふりしけこひしくの
    けながきあれはみつつしのはむ

                    柿本人麻呂歌集出

巻第十 冬相聞 2338

庭に降り積もる雪...
積もり、また積もり幾重にも...

そのようにして想い続けた心も
やがては、はかなく消えてゆく...淡雪... 

雪融までの僅かな時間と知りつつ
それでも想い続けた長き日を重ね
そうすることで、ひとときをふけり過ごす

淡雪は、春の融けやすい雪
それを「千重」に降れよと...

淡雪よ、もっともっと降り積もれ
これが最後であろうと、積もる雪こそ、消えずにあって欲しい
いつまでも偲ぶことができるように...たとえ淡雪であっても...

集中、前歌の「空に消える去る」雪、そしてこの「積もり偲ぶ」雪
こうして繋がる「雪」には、確かに人の想いを託すことができる


 
  


 現代人にとって、春の花は「さくら」
  
   しかし、万葉人にとっての春の花は「うめ」に違いなかった


さくらの詠歌は、作者未詳が...いわば、名もなき人の想いが26首ある
うめにいたっては、87首が明らかになっている
それだけ公的な宴席での代表花なのだろう

さくらを詠えば、きっと散り行く「いさぎよさ」を詠うのだろうか
それは、現代でも変わらない、いやむしろその趣の方が強いだろう
ならば、うめは...とりやかぜや...香りにまで...

掲載日:2013.03.08. 

  さきでてるうめのしづえにおくつゆの
    けぬべくいもにこふるこのころ
                    作者未詳

巻第十 冬相聞 露に寄する    2339


照るばかりに咲き初めた梅の花...
春の兆しを照らすのは、やはり花
香りも美しい姿も

しかし、その可憐さは時として手にさへとどかない
置く露の...ごとく消え行くかのか...

梅の花の咲く頃は、露霜の雫に酔うものかもしれない
しっとりと見据えて、愛しいひとを想う
その間にも、露の香りもまた梅を咲き立たせる

万葉の人たちにとって、春の花は「うめ」だったという
集中で「うめ」を詠った歌は119首

「さくら」は41首...なるほど、梅の宴席での詠歌は多い

梅に寄せ、さらにその下枝の露に目を遣る、あるいは想いを添える
草木に託すこころを、花をささえるところにもこころ置く
その「咲き出照る」花そのものもだけでなく
下枝の露が自身のこころの投影になっているのか

消え入らんばかりの「露」にこそ、「こころを添え」て... 


  

 めずらしきひとにみせむともみちばを たをりそあがこしあめのふらくに

                          巻第八 1586 橘奈良麻呂

 謀叛の計画は、仲麻呂らに知られ、多くの官人たちが処分を受ける
数百人の処罰が断行され藤原仲麻呂(恵美押勝)が実権を握る
そこには、中将姫の父、そして仲麻呂の兄でもある右大臣豊成をも従えさせる

やがてその仲麻呂もまた...権力闘争は繰り返されるのが歴史というもの

こんな雨の中を、愛しい人に見せるために持ってきました
私が手折ったこの紅葉を見せようと...

この無邪気にも見える少年の姿を、歴史は歌にさえ演出してしまう
それが...「万葉集」なのかもしれない
  

掲載日:2013.03.09. 

  たをらずてちりなばをしとあがおもひし                     あきのもみちをかざしつるかも
                    橘奈良麻呂

巻第八 秋雑歌 1585


このとき奈良麻呂はまだ二十歳前...十七、八歳の頃
こうした歌だけを抜き出してみると、純情な少年そのものだ
思いを寄せるものを、散る前に手にしておきたい
秋の紅葉を髪に挿せたことを、嬉々として口ずさむ


しかし、これも後のことを思うと...
まさに、奈良麻呂の決意ではないか、と思えてならない
この宴の席で奈良麻呂は詠う...散りなば惜しと...
同じ志を持つものたちへの、こころからの気持ち

手折らずに散ってしまったら、惜しいだろうなあ
ずーっと思っていた秋の紅葉を
こうして髪に挿すことができましたよ

この詠歌の数年前に、皇族から臣籍に願い出て橘姓をもらう
奈良麻呂の父・諸兄は、葛城王...藤原不比等の子である光明皇后の異母兄になる
その橘諸兄父子が、この二十年ほど後に、謀叛を...
太上天皇の信頼の厚かったこの一族
太上天皇の亡くなってから後の藤原仲麻呂の専横に
我慢もならなかったのだろう



 


 

  



とほつひとまつらさよひめつまごひにひれふりしよりおへるやまのな  875
やまのなといひつげとかもさよひめがこのやまのへにひれをふりけむ   876
よろづよにかたりつげとしこのたけにひれふりけらしまつらさよひめ   877
ゆくふねをふりとどみかねいかばかりこほしくありけむまつらさよひめ   879

「875」の序詞
 
 大伴佐提比古は、新羅の侵略を恐れる半島の任那を助けるため、天皇の特命で出発する。次第に青海原に進んでいった船を、佐用姫は「別離はた易いが、再び逢うことは困難である」ことを嘆いた。そこで高い山の頂に登り、遥かに遠ざかり行く船を見遣ったが、別れの悲しさは肝も絶えるばかりであり、こころの暗さは魂も消え入るばかりであった。とうとう領巾をはずして振り招いたので、側にいた人で涙を流さない者はいなかった。それでこの山をなづけて「領巾振る山」というようになった、という。そこで作った歌は、(875に)

以下四首は、それぞれ「後人追和」(876)、「最後人追和」(877)、「最最後人追和二首」(878、879)と題詞にあるが、「875」作者と別人とは限らない。

掲載日:2013.03.10. 

 うなはらのおきゆくふねをかえれとかひれふらしけむまつらさよひめ  
           

 巻第五 878
 

-別れの易きことを嘆き、その会ひの難きことを嘆く-


 松浦佐用姫

 今、別れてしまえば、再び逢うことなどかなうのか...

そんな想いにうちしがれ、領巾を振り続ける
沖行く船よ、帰れと...行かないでくれ、と

これほどの必死の想いは、その別れに、死の影があるからだ
死地に赴くかもしれない人へ...どうすることもできないと解ってはいても
こうして領巾を振らずにはいられない

「875」から始まり「879」まで、旅人や憶良がいにしえの佐用姫を甦らせる

「875」は佐用姫が別れに悲しむ姿を側で見ていた者が
「ひれふる山」の名は、この佐用姫が振ったそのときから付いた名前なのだという

山で夫を呼び戻そうと泣き振る痛みに、側にいたものはみんな涕した、と


 旅人憶良が大宰府に任を置いていたころより、ほぼ200年も前の伝承

大伴佐提比古は特命で蕃国である「任那」へ新羅征討へ向かう...537年
その頃の渡航もましてや、その後の戦も、計り知れないものがあったのだろう

帰れ、と沖の船に叫ぶ佐用姫の慟哭は、佐提比古にも通じたに違いない
きっと、届いている...「876」以降は、題詞に「後の人追和」とあり

その伝承を詠ったものだが、「876」「877」は、「山の名」を語り伝えて、と
作者が佐用姫の想いを察したもので
「万代に」までこの山で領巾を振ったことを...そう憶良は汲み取ったのだろうか

何故なら、この巻第五の中心は、山上憶良の深い人柄が滲み出ている
漢籍にも通じ、漢詩もこの巻での特徴だ

 家持の父、旅人とこの地で交遊を深めた山上憶良の
本領が発揮された時期だったろう

やがて、万葉集の編纂者と言われている家持にとって
この憶良の体験や、旅人の大宰府赴任は、大きな土産であったはずだ 
  





月も経行けば...ときも虚しく過ぎると、こころも痛むのは
幾日も想い続けるからでしょう
これっきり逢えなかったらと思うと...
相見てばこそ...じかに逢えるまでは、この恋は静まらないでしょう


巻第十三 3264 相聞

蜻嶋 倭之國者 神柄跡 言擧不為國 雖然 吾者事上為 天地之 神文甚 吾念 心不知哉 徃影乃 月文經徃者 玉限 日文累 念戸鴨 胸不安 戀烈鴨 心痛 末逐尓 君丹不會者 吾命乃 生極 戀乍文 吾者将度 犬馬鏡 正目君乎 相見天者社 吾戀八鬼目

あきづしま やまとのくには かむからと ことあげせぬくに しかれども われはことあげす あめつちの かみもはなはだ わがおもふ こころしらずや ゆくかげの つきもへゆけば たまかぎる ひもかさなりて おもへかも むねのくるしき こふれかも こころのいたき すゑつひに きみにあはずは わがいのちの いけらむきはみ こひつつも われはわたらむ まそかがみ ただめにきみを あひみてばこそ あがこひやまめ

掲載日:2013.03.11. 

 おほぶねのおもひたのめるきみゆゑにつくすこころはをしけくもなし

   ひさかたのみやこをおきてくさまくらたびゆくきみをいつとかまたむ


 巻第十三 32653266 反歌


「ことあげしない国」

いにしへの時代は、神の時代でもあった
「言挙げなどもってのほか」、神の意のままに...神からと...
そんな「言挙げを忌み嫌う時代にも関わらず、この女性はいう
言挙げします、と

ことあげ、というのは、言いたてること
必死になって言いたてる、神々がどんな風に思っているのか...
しかし「君」のために捧げる心は、惜しいとも思わない
命の続く限り、恋慕い続けていくことでしょう

まるで現代の女性が詠ったのかと思うような情熱だ
しかし、万葉集に限らず古典で見る歌には
このような激しい恋歌が多い
実際の日常では違うのだろう、これはあくまで創作の世界だから...
以前の私は、そんな風にも考えたことがあった
しかし...この時代の「想い」のほとばしりは
たとえそれが詠歌の世界であろうが、男でも女でも「作り事」では詠えない


むしろ日常を「仮のたたずまい」とし、詠歌にこそ「真の想い」をこめ
これほどの和歌が数多く詠まれたと思う
旅行く「君」を待つ想いは、いつの時代も変わらない
いつまで待てばいいのでしょう、「君」のいない都は
この女性にとって、「あまざかるひな」よりも寂しくて荒涼としたところだ

「おきて」...顧みないで去っていく「君」をいつまで待てば...
 
 






 奈良の京の荒墟を傷み惜しみて作れる歌三首 作者不詳

よのなかをつねなきものといまそしるならのみやこのうつろふみれば 1049
いはつなのまたをちかへりあをによしならのみやこをまたもみむかも 1050 



 740年に久邇京遷都を決め、平城京の大極殿や回廊を解体して久邇(恭仁)宮に移建したが、丸三年を経ても完工せず、743年十二月経費不足で中止。一方紫香楽宮建設も計画されていて、何もかもが中途半端な状況だった。当時難波宮、久邇宮、平城の三都を都としており、五位以上の官人の平城京居住は禁止されていたが745年に官人たちに首都の選択を計って、平城京に決定し、再び都が平城に戻る。この平城京復帰までの都であった久邇京は、平城京のやや北方、現在の木津川市に旧跡が残っている。
この荒廃した奈良の都を詠ったのは、こうした時代のこと。
 
 
掲載日:2013.03.12. 

 くれなゐにふかくしみにしこころかも

             ならのみやこにとしのへぬべき

 巻第六 雑歌 1048 作者不詳
 

紅に深く染みこむような旧都への愛着
平城京へ遷都されてから三十年が経つ...飛鳥京の時代まで
都は目まぐるしく遷されている

それは、本格的な「都」としての都市計画がなされていなかったからだ
そして、飛鳥京の頃からようやく大陸に倣った都市計画が始まる
何もかもが新しい都づくり...それは、新しい国づくりの根幹だったはずだ

飛鳥から藤原京になると、それまでとは違う都が出現した


そして藤原京も暫くすると、その都の座を「なら」に譲る
新しい国家造りは、急速に出来上がってゆく
しかし、一つの都で数十年も続いた経験のない当時の実権者たちには
常により強固な「都」を建設することが当たり前だったのだろうか

結果的には、710年に平城遷都が行われるが
その後にも、難波、久邇、紫香楽にまで宮殿が建つ
そして740年の久邇京遷都...混乱したに違いない 

いったいどうやって国を安定させるのか 
官人たちの想いは計り知れないものがある 
次第に荒廃しつつある奈良の都、どうしてこのような都で年を過ごせよう... 

さびれる奈良の都に、世の無常を見たと詠う 
また栄える奈良の都を見られるのか 

その願いは、数年も経たぬ内に叶うが...  

奈良の都は、独特だと思う 
京都の平安京遷都まで百年ももたないが
いやそこでも長岡京のごたごたがあったが
この百年足らずの間に、あらゆるものが凝縮された飛鳥・奈良時代だった 

千二百年の都・京都が
現在でも輝かしく国際的に羨望の眼差しで見られるのは解る 

歴史のスケールが、世界的に見ても圧倒的に違う 
しかし、奈良は...新しい国家が生まれつつあり
模索している中で生まれた「都」だ

その栄華といっても、目に見えたきらびやかさはない
しかし、決して忘れることの出来ない魂が、この奈良には眠っている 

いにしえ人たちが歌に詠んで悲嘆に暮れた荒廃した奈良を 
現代の私たちも安心させてあげたいものだ 

今も...奈良は美しい




 

 大宰の時の梅花に追和する新しき歌六首 大伴宿禰書持
うめのはなみやまとしみにありともやかくのみきみはみれどあかにせむ 3924
はるさめにもえしやなぎがうめのはなともにおくれぬつねのものかも  3925 
うめのはないつはをらじといとはねどさきのさかりはをしきものなり  3926
あそぶうちのたのしきにはにうめやなぎをりかざしてばおもひなみかも 3927
みそのふのももきのうめのちるはなしあめにとびあがりゆきとふりけむ 3928 

天平十二年(740) に大伴書持が、十年前の父・旅人が開いた梅花宴を、どうして思い立ったのだろう。730年の梅花三十二首は、特別なものだったのだろうか。大勢の官人に囲まれ、旅人の家の庭に繰り広げられる、愉しげな様子。
「初春の令月にして、気淑く風和ぐ。梅は鏡前の粉を披く、蘭は珮後の香を薫らす」
730年の梅花三十二首は、巻第五に載るが、その題詞には上述のように書かれている。
遠の朝廷といわれ、西海道、九州一円を掌握してい大宰府の帥 (長官) 旅人には、多くの官人がその影響を受けていた。うたごころに応え、いくつもの詠歌がこの時期に残されている。そんな時代が、息子・書持には、どう映っていたのだろう。
同じ境遇であったはずの家持は、見事に生き抜くのだが。
  

掲載日:2013.03.13.

 みふゆつぎはるはきたれどうめのはな

          きみにしあらねばをくひともなし
             

 巻第十七 3923 大伴宿禰書持

 
かつて大宰府で父・旅人が催した梅の宴に詠まれた三十二首 

それを子の書持が追和して詠んだ歌六首の最初の歌
こうした連作というのか、あるいは一群の歌の場合 
一つを切り離して読むのはあまりよくはないだろうが 
この歌を単独でよみ耽っても、その花に呟く寂しさは切なく感じることができる 

いや、むしろ、これでもか、というように押迫られるほどの歌は、
辛い
ここに続く六首は、そんな圧迫感はない...
それは父・旅人の時代への郷愁なのか 

とても、静かに寂しさを醸し出している 

「みふゆ」というのは、冬の三ヶ月のことを言うらしい 

初冬(十月)、仲冬(十一月)、季冬(十二月) 
みふゆつぎ...この冬の三ヶ月が相次いで来ては去り... 今、春はきたけれど 

梅の花よ、お前しかここに招く人はいないよ...「ヲク」は招待すること 
かつて(大宰府での大伴旅人が梅の宴で詠んだ頃・730年)の賑わいはなく 
十年後(740年)のこんにちは、都のただならぬ動きの中で 
人を招くこともなく、しずかに楽しもう...   

梅を愛しい人に見立てるのか、それとも一族の行く末を
梅の花と語らおうとしているのか...

「みふゆつぎ」...このことばが私に伝えるものは... 
もういつもと同じではないのか、そうだろうなぁ...春はきたというのに...


 




  「恋忘れ貝」
  すみのえにゆくといふみちにきのふみし
          こひわすれがひことにしありけり     
1153

「恋忘れ貝」
恋の苦しみを忘れさせるという忘れ貝。二枚貝の死殻の片方。一枚貝のあわびをさすとする説もある。

住吉にいくという道で昨日見つけた「恋忘れ貝」、
...言にしありけり...言うほどのこともなかった
効果などないではないか...恋の苦しみを忘れさせてくれるなんて...
...私には、それほど残念がっていないように聞こえる
むしろ、俺の「恋」の方が、お前の「力」より強かったのだな、と 
1151歌と同じ作者だろうか...


  
 
掲載日:2013.03.14.

 いとまあらばひりひにゆかむすみのえの

          きしによるといふこひわすれがひ
            

 巻第七 摂津にして作る 1151 作者不詳
 

万葉集全二十巻の中で、この巻第七の面白さは際立っている 
面白いというと、相当な立派な構成と作品が載せられていると思うかもしれないが
まったくのその逆で、くだけた言い方をすれば、この歌集の編者は 
何か力を抜いたような... 巻第五に見られる骨太の内容とは、かなり違う 
古歌集や、柿本人麻呂歌集などからの採録も多く、まさに構成が自由気儘と... 
したがって、この巻第七には、他の巻との類歌が多い

読み進めていて、あれ、この歌もう読んだぞ
と一人で混乱してしまうこともあった 

他の巻を読んでいる錯覚もした 
だけど、何ものにも捉われない自由さを感じる

何故ならば、この第七で詠われる歌の殆どが作者の解らない歌ばかりで 
実にそれが心地よい...自分がその歌のモデルでもあるかのように...


この「1151」でおもしろのは、「恋忘れ貝」が詠われていること 
初めて「恋忘れ貝」を知ったのは、巻第六で、大伴坂上郎女が詠った歌  

 我が背子に 恋ふれば苦し 暇あらば 拾ひて行かむ 恋忘れ貝 巻第六 969

そして、この巻第七でまた出会った...今度は作者が解らないが 
内容は全くといえるほど同じのようだ...古歌の類なのかもしれない
しかし考えてみれば、僅か三十一字の中で繰り返される「うたことば」 

同じような「想い」を歌にすれば、それが類歌というのもおかしい 
同じような「想い」は当然いつの世も大勢の歌人たちが詠う 

伝承を元に誰かが詠じて、似ている「意」になることもまた... 

住吉の浜辺に寄ってくるという「恋忘れ貝」、暇があれば採りに行きたいものだ 
こんなにも苦しむのは、かなわない 

坂上郎女は、どんな想いで詠ったのだろう 
あの人への「恋ごころ」が苦しい、暇さえあったら拾いに行こう...

「恋忘れ貝」が、この二人の...しかし「暇があれば」と同じように言う 
なるほど、敢えて拾いに行かないことも...

この苦しさこそが「恋ごころ」なのだから.....


 


  「或本の歌に曰はく」
  むざしねのをみねみかくしわすれゆく
          きみがなかけてあをねしなくる     3379

旧国歌大観では「3378」の左注で「或本の歌に曰はく」として載せられ
当然の事ながら歌番号はない 
まるで、鸚鵡返しのように歌い返して... 武蔵嶺を振り捨てて私を忘れて行く 
あなたの名を聞いては、私を泣かせるの... 
二人がどんな関係であったのか、想像でしかできないが 
いつの世にも、同じことは繰り返されている
それが、男も女も立場に関係なく...繰り返されている 
そして、万葉人たちは、それをこうした歌に託して残してみせた...

巻第十四の構成は、東歌、東国の雑歌や相聞が載せられ、そして異伝も多い
この時代の都での歌の採録事情は、どうだったのだろう
伝承歌とか、あるいは最近の流行歌めいた収拾方針だったのだろうか
歌そのものだけではなく、そうした採録にあたっての実情もまた
万葉集成立の謎...いや、魅力の一つだ 勅撰ではない歌集ゆえの、大きな魅力だ


  
 
掲載日:2013.03.15.

 さがむねのをみねみそくしわすれくる

          いもがなよびてあをねしなくな
              

 巻第十四 東歌相聞 3378 作者不詳
 

相模嶺を振り捨ててたびだち...「見そくしに」は、離れるなどの意がある 
振り返りたい気持ちを絶ち、やっとここまで来た
もう妻のことは忘れて旅をしているのに...誰かが妻の名を呼ぶのか...
私を泣かさないでくれ...

この歌は、巻第十四ならではの名もなき人々のドラマを浮かび上がらせる 
現在広く使われている従来の「国歌大観歌番号」では
この一首に「歌番号」が付けられこの歌に左注で「或本の歌に曰はく」として 
まさにこの「男」が断ち切った「女」の歌が載っている
このような深刻な内情を、素直に歌で語り継ぐのは
当時の文字の識字率を思えば、まるで演出されたような気もする
誰によって...それが気になるところだが、仮に演出であっても
当時の市井の人たちの生きる様、その一端を知ることになる
人は、まったく変らないものだ...古代も、現代も...
しかし、大方の書では、「或本・・・」の歌を異伝としているのは 
その歌の語呂が、まさに表と裏の関係にあるからだ 

私がこのサイトで、歌番号を「新編国歌大観」にこだわるのも
どうして、この異伝とされる歌を、「旧国歌大観」は歌番号を付けないのか
内容が、単に地名や主客を反転させただけで、歌の本質は同じだから、なのか

しかし、この異伝とされる歌をつなげてこそ、初めてこの相聞は生々しくなる
いくら演出があろうと...そこに、万葉人たちの本当の「想い」が伝わる

そもそも、万葉の時代の編集時...きちんと整理された歌番号など...
もっと言えば、編者が誰なのかさえも...有力な大伴家持、橘諸兄など...
古歌も相当多く採録しているし

伝承歌などそのオリジナルも残存しないのだから... 
もっとも、歌番号など便宜的なものだと思う
あくまで研究対象となる以上、その歌を特定させなければならないし...

どんな写本をみても、全巻揃って残っているものはない
皆一部ずつだし、それぞれのスタイルも違う
改行せずに万葉仮名を綴っただけのものもある...
それが、そのような時代が万葉の時代だったはずだ...

名も知れぬ、作者未詳、「いまだ審らかにあらず」...そんな注が付くのが万葉集だ
 

 


  「二人の梅」  大伴旅人
 わぎもこがうゑしうめのきみるごとにこころむせつつなみたしながる 456

大伴旅人ほど梅を愛した人はいない 
大宰帥の時代、天平二年(730年)の梅の席での三十二首は、それを物語っている。
 
 わが園に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ来るかも 巻第五 826

我が家の庭の、梅は散らんとしている...
天から雪が...舞い落ちてくるのだろうか...
梅に続いて、雪の花なのか... 

しかし、この「二人の梅」で挙げた巻第三456ほど、心打つ歌はないと思う
妻が植えた梅の木を、見るたびに涙する
梅の花は、毎年咲くのだが...妻はもう二度と自分の目の前に現れない 
はかなく散る桜は詠われるし、梅にしても春の花として愛おしく詠われる
しかし、亡き妻の形見にひとしい梅の木は...私なら堪えられないだろう
 
 
掲載日:2013.03.16.

 うぐひすのこづたふうめのうつろへば

          さくらのはなのときかたまけぬ
              

 巻第十 春雑歌 詠花 1858 作者不詳
 

うぐいすが、いつものように、枝から枝へととび伝う...

もう梅の花も散り、桜の花が近づいてきたと言う知らせなのか
木伝ふ...枝から枝へ飛び移る
うつろへば...花も色褪せ、散り落ちる 
かつての歌人が、アジサイの「素枯れ」も美しい...

そう言っていたのを思い出した
散りつつある梅の花を見てきた

見せびらかすような、ハッとするような美しさはなくても 
「素枯れ」の美しさを感じることができた
それは、桜のように大きな木ではないからだろうか 

梅の「素枯れ」と、アジサイで言われた「素枯れ」とは
その草木の立ち居様は違うが、私は梅もまた美しいと思えた 

私は、よく季節外れの花見にいく
そして「素枯れ」という言葉を知らなかった頃から
「素」の枝葉に、魅せられてもいたことを...不思議に思う 


巻第十の構成は、かなり解り易く 雑歌と相聞がそれぞれの四季に分かれている
しかし、巻第八との類型もかなりあり、そこで作者が記されているのが 
この巻第十では、作者未詳歌とするのが目立つ 

とは言え、秀歌として評価される歌も多く
後の中古の「三十六人集」中の「赤人集」(山部赤人)に収められている 

三百五十四首中、二百三十二首が、この巻第十からの出となっている 
このことは、平安歌人たちにとって、この巻第十が
いかに万葉集をあたかも代表するかのように親しまれていたか...

そして、それほど構成に難しさはなく、
解りやすい巻第十の編集であるかが
伺えると思う
 



 


  「古今時代の人麻呂は歌聖と称されていた」  古今集仮名序

 この反歌は、人麻呂が天皇の吉野への行幸に同行して、詠った長歌に続く反歌
こうした皇族たちへの歌を数多く残す人麻呂は、確かに宮廷歌人には違いない 
しかし、それ以上に宮廷を離れた市井の人たちを詠ったり
あるいは皇族でありながら不運な境遇にある皇子たちを
人麻呂の歌から知る歴史の綾も見逃せない 

 万葉集の最終的な完成がいつなのか解らないが
歌集の最後に載っている歌が、759年であり
少なくともそれからしばらくして成立と見られている
勅撰歌集ではないため、これに関する公的な資料はないだろう
 
そしてこの頃から百五十年ほど後に
初めての勅撰歌集「古今和歌集」が作られるが
その仮名序で万葉時代の「柿本人麻呂」と「山辺赤人」が、随分と評価されている
少なくとも、この時代でも万葉集はある程度知れ渡っていたのだろう 
後に、この万葉集がもう誰も読み下せない難解な歌集だ、と菅原道真は嘆くのだが...
 古今時代の歌人にとって、人麻呂は「歌聖」だった 
 ただ思うのは、その頃に理解されている人麻呂の歌とは?
人麻呂歌集については諸説があって、人麻呂の実作ではないだろうとされている 
その歌集の評価はさておき、宮廷における彼の作歌活動に、「歌聖」を見たのだろう 
そして、古今の仮名序で取り上げられた人麻呂と赤人...
ひょっとすると...他の歌人については、あまり詳しい歌論もなかったのでは
と素人の安易な思いつきだ
 

掲載日:2013.03.17.

 

 みれどあかぬよしののかはのとこなめの

          たゆることなくまたかへりみむ


 巻第一 雑歌 反歌 37 柿本朝臣人麻呂

 
見飽きない吉野の川の「常滑」...
常滑というのは、川底の苔に覆われたような、滑りやすい状態の岩底だと思う 
くるぶし辺りまでの浅瀬では、その感触がとてもここちよく 
つい川遊びに夢中になってしまうことだろうう

この川の流れのように、決して絶えることのない太平の世を...と
そう願いつつ、吉野の離宮を見ていても飽きないものだ

天皇賛歌にはなるが、それが宮廷歌人の職務なのだから...
人麻呂の晩年、そして「鴨山五首」に見る悲哀に満ちた哀歌の解釈
こうした晩年を思うとき

かつての活躍した時代の歌の背景を、どうしても詮索してしまう 
人の生涯を、いや歌人の生涯を、その残された作品から思い浮かべることは 
細切れに歌を訓むのではなく、一連の作品を通して感じた方がいいのだが 
長歌の内容を、端的に描き出すこの「反歌」の場合、天皇賛歌ではなく

一般的な吉野の景観を詠いあげた「歌」として 
そんな読み方も、いいのではないか、と不遜にも思ってしまう



この巻第一(他二と九)には、山上憶良の「類聚歌林」を引用する左注ある 
全体で九箇所しか現れないこの「類聚歌林」の引用が
古い時代の異伝を教えてくれるが、それは現存はしていないようだ 

奈良時代前期の類型歌などで分類統一されたものとして
万葉歌も、現在に伝わる姿とは違う編集版があったことが考えられるが... 
何しろ憶良の時代は、まだまだ万葉の時代真っ盛りであり

この「類聚歌林」も、あるいは、万葉集の原本の一部だったかもしれない 

勅撰歌集ではない「万葉集」の宿命のような、その成立の曖昧さ

まさにその時代の「歌聖・人麻呂」...

平安の歌人たちは、そう称え、万葉集に立ち向かってゆく...





  「『詠残雪』の最後の二首」と「紀州本
山高み降り来る雪を梅の花
  散りかも来ると思ひつるかも 一云、「梅の花咲きかも散ると」
 1845
雪おきて梅にな恋ひそあしひきの山片付きて家居せる君  1846

 この二首は、一般の諸本で「詠鳥」の題詞が付き、紀州本では「詠雪」もしくは「詠残雪」とされている一連の十一首の最後の二首 
「右二首、問答」と左注があるので、ペアになっている詠歌、

この山で、降り来る雪を見ていると、梅の花が散っているのかと、つい思ってしまった雪をさしおいて、梅を恋しがってはいけないですよ、山の家にお住まいのあなた

やはり、「雪」の歌になるだろう...「鳥」など出てこない 

現存する万葉集で、その原本を見ることはできない
いずれも古写本で、それに平安時代から鎌倉時代にかけては
決定的となる「訓」を試みていた時代であり
諸本の流れはその時代のどれを底本にしているか、で違ってくる
「紀州本」は、巻第十までが、鎌倉時代にその「訓」に大きな前進を見せた
仙覚の影響を受けていないので
平安時代に初めて「訓」が付けられた「古点」に相当すると思う
 その数四千首と言われているが、その確実な「古点」本は現存せず
仙覚の「次点」、「新点」と続く現代に残る諸本の大半が
仙覚以降の「訓」を基にしている
「紀州本」も巻第十一から最終巻までは、こうした寄せ集めの状態で揃えられたようだ
  

掲載日:2013.03.18.

 いまさらにゆきふらめやもかぎろひの

          もゆるはるへとなりにしものを


 巻第十 春雑歌 詠雪 1839 作者不詳

 
もう降らないだろう...今更雪は降らないだろう...降るもんか 

かぎろひ、「陽炎」
枕詞として、「燃える」にかかる...火が燃え立つような春になったのだから...
「燃ゆ」には、情熱が激しく起こる、心の中でもだえ苦しむ、という感性も...
しかし、この歌の場合には、単純に春の陽気にこころ踊らせ 
やっと、春がきたのだから、もう雪なんぞ降らないだろう...と 
少しは不安もあるのだろうか、まだ雪は降るぞ...春にだって、降るものだ 



この歌の題詞に、「詠雪」つけては見たが、この説もいろいろある
この歌の前、「1836」に「詠雪」と「紀州本」にだけあり 
他の諸本では、「1823」から「1846」まで「詠鳥二十四首」とある
従って、この歌も「詠鳥」の題詞を引きずるが、「1836」以降の十一首では
「うぐいす」よりも、むしろ「雪」が中心となって詠われている 

また「紀州本」を見てみると
その目録に「詠鳥二十四首 十三或 詠残雪十一首或本」とあり 
この方が内容的にも合っている...敢えて言えば「詠雪」ではなく「詠残雪」か... 

直接的な残雪を詠った歌ではないが、「雪」を「主」としてとらえると 
雪よ、お前はまだ降るつもりなのか、それとも、もうお前の季節は終わったのか...

そんなふうにも感じることが出来る 
すると、作者の歌意とは違うかもしれないが
この歌に感じるものが私の中で急速に膨らんでくる 

時代はこんなに変化しているのに
まだそんなことにしがみ付いているのか、お前は...
勿論、自然の風物詩として素直にも感じることが出来るが
その場合でも、「今更に」という言葉は...

主体は自然ではなく「人間」には違いないのだが...
作者の意図を正確に感じ取ることはできないし 
私は、むしろ残された作品を、自分がどう感じるのか、と思ってきた 

作者が表現したその対象も、要は受け取るものが、どんな感じ方をするか...

私は、それでいいと思う...
だから、少数派だけれど、私には「詠鳥」ではなく 
「詠雪」として、この歌を感じたい...「詠残雪」もいいかな 

 



 
  「禁酒令」の中で
官にも 許したまへり 今夜のみ 飲まむ酒かも 散りこすなゆめ  
つかさにもゆるしたまへりこよひのみのまむさけかもちりこすなゆめ  1661

 禁酒令が制定されるきっかけの一つが、時政世批判にあることは
「続日本紀」にあるが、この中での特例で、朋友、僚属らが
親睦のために家の中で飲むのは、願い出れば許可する、とある
この特例というのが
そもそも禁酒令を作らなければならなかった大きな理由だと思うのだが...
しかも、家の中でこその...内密の可能性の方が高いのに...

この歌は、それを逆手にとったように
許しが出たぞ、今夜だけではないぞ、俺たち仲間の親睦だからな
と詠っているようなものだ
「1660」では、表向きは風流な酒宴の場をイメージできるが
それに応えるこの歌は、
やんちゃな若者たちが、理屈ではこれでいいんだ、と気勢を上げながら戯れ酒を...
【左注】
右、酒は官に禁制して偁はく、京中閭里(村人、村民)、集宴すること得ざれ、ただし、親々一二にして飲楽することは聴許す、といふ。これによりて和ふる人この発句を作れり。

...私でも、こんな風に理屈を並べて...飲んで散ってしまうだろう
  
 
掲載日:2013.03.19. 

 さかづきにうめのはなうかべおもふどち

          のみてののちはちりぬともよし
           

 巻第八 冬相聞  1660 大伴坂上郎女


杯に、梅の花を浮べ、親しい仲間同士で飲んだその後は...散ってもかまわない

梅の花よ...散ってもいいのだよ
梅の花が散るのを、今宵の酒の肴にしているのかもしれない 


しかし、花の散るのを待てせて飲む酒...
他愛のない飲み仲間同士での酒宴だろうが、この時は大きな意味があった 

楽しく飲んだ後は、どうなってもいいのだ、という... 

思ふどち...親しい仲間をいう

「続日本紀」に、禁酒令が二度行われる 
天平九年(737年)、天平宝字二年(758年)

前者は、その年の四月以来の疫病と旱魃に苦しむ民のことを憂慮し発令されたもの
後者は、その前年に「橘奈良麻呂の変」があり
こうした酒宴の席での政治的な批判が、「政変」に繋がることを怖れる
それを防ぐ目的もあった 

しかし、左注にもあるように
近親同士一人二人が飲んで楽しむことは許可されている

「近親同士一人、二人」というのは漢語の直訳のようなもので
左注に「親々一二」とある...これは「中庸」「孟子」などにあり
近親者の親睦の意になる 


親しき仲間たちと飲む酒は、あとはどうなれ、知ったことか 楽しく飲もう 

散っても構うもんか...梅の花ばかりか
散る...よほど禁酒令が堪えていたのだろうか 


ここぞとばかりに飲むのは、その気持ちも察することができるが 
散っても、とは尋常ではないような気もする...思い過ごしか、きっとそうだろう
しかし、禁酒令の時代が現実にあったことなど、想像も出来ない我々現代人は
まさに、命懸けの酒だった、としか...これは「アンタッチャブル」の世界かな...



 


  「父、暴君仲麻呂」のもとで
奥山の岩陰に生ふる菅の根のねもころ我も相思はざれや  794
春雨を待つとにしあらし我がやどの若木の梅もいまだ含めり  795

 上記の二首 題詞「藤原朝臣久須麻呂の来報ふる歌二首」
家持から、計五首の贈答歌に応える、久須麻呂の返歌

奥山の岩陰の岩根のように、私の想いも深く、相思い...
春雨を待っているのでしょうか...我家の庭の若い梅の木も...まだまだ蕾のままです

この時期は、この青年も純粋に娘を愛し、娘の気持ちに応えて、待っていよう
そんな思い遣りも感じられる
実際、父の仲麻呂が実権力を、手中にする前のことで、父親の立場をいいことに
無理難題を家持親娘に言ってはいない
そこには、若さ故の一途さは見られても、礼儀を欠いているようなこともない
最後には、父仲麻呂の謀叛に連座し、刑死することにはなるが
父仲麻呂とこの娘との間の葛藤が想像される

作歌年代は不明だが、天平十八年(746)春頃
久須麻呂は十五歳頃、父仲麻呂は四十一で、正四位上参議民部卿兼近江守
後年独裁的な政治をする仲麻呂の手腕は、この頃にもすでに発揮されていた
家持はその実力を認めつつも、その在り方には不満もあったのだろう
その子、久須麻呂から貴家の若木の梅の花を見たいといってきて
歓迎はするが、どこかに戸惑いを隠せない
その様子が、梅の花に譬えられてのこの「七首」に伺える
娘は十歳頃だといわれている
実際には、この縁は結ばれたのかどうか分からないが
「七首」のどれをとっても、相反する気持ちを感じることがある
それは、読む側の心情の影響もあるだろうし、家持が仲麻呂に対して
どこまで許せる付き合いをしていたか...勿論力関係ではなく...

久須麻呂の最後の歌「795」は、どんな解釈になるだろう
そうですね、私もまだ若過ぎることですし...と、そう思っていたい
この「七首」の解釈は、その歴史的な背景が重要になり
純粋な歌だけでは不明な繋がりにもなりそうだ
でも、一般的な解釈はともかく、私は若者が一目で見初めた娘に対して
その求愛の許可を相手の父親にしている、だけでも十分だ
今も昔も...変らない、と思うから...
 
 
掲載日:2013.03.20.
 

 また家持が藤原久須麻呂に贈る歌二首
 はるかぜのおとにしでなばありさりて

          いまならずともきみがまにまに
 
 巻第四 相聞 793 大伴家持 


この巻第四の最後の七首の歌(789~795)は
家持の幼い娘に対し、藤原朝臣久須麻呂が求婚する歌
父親でもある大伴宿禰家持に、久須麻呂は歌で許しを求め、家持も歌で返す 


そして、幼い娘...十歳くらいだろうと思われるが
この「793」はその娘の心を想って、家持が応えた歌のようにも思われる 

春風の音にし出なば...春になって、噂にたつようにでもなれば
そのうち、今すぐにでなくても、あなたのお望みどおりになることでしょう 


藤原朝臣久須麻呂...後に起こる藤原仲仲麻呂(恵美押勝)乱
その仲麻呂の子とされ、この当時では、相当な実力者を父に持つので 
家持もいくらかは喜んだに違いない 
しかし、その「乱」が伝えるように、仲麻呂の専横振りは
多くの官人たちにも評判悪く、家持もしぶしぶ仕えていたことだろう 

その息子からの求婚の申し出...幼い娘を、そんな家系に嫁がせていいものか...
逡巡多く、その戸惑い振りが、この一連の「七首」に表れている


梅の若木に喩て、まだ幼くて花も咲いていない 


題詞:大伴宿禰家持が藤原朝臣久須麻呂に報へ贈る歌三首(789、790、791)

春の雨はいやしき降るに梅の花いまだ咲かなくいと若みかも 789 
夢のごと思ほゆるかもはしきやし君が使ひのまねく通へば 790
うら若み花咲き難き梅を植ゑて人の言しみ思ひそ我がする 791

春雨はしきりに降っていますが、梅の花はまだ咲いていません
若過ぎるのでしょう
仰せの件、もったいなく、現実のようには思えません
若過ぎて、まだ咲きそうもない梅を、家に移し植えましたが
人の噂が高いので、困っています

そして、引く続き

題詞:また家持が藤原朝臣久須麻呂贈る歌二首(792、793)で

心ぐく思ほゆるかも春霞たなびく時に言の通へば  792

心ぐく...心が晴れない、せつないことだ...
春霞がたなびいている時に、使者の方が来られるのは 

その後に、掲題の「793」

この二首は、家持の心情とも伺えるし、あるいは娘の心情とも...
家持親娘に、何か心情の変化でもあったのだろうか



久須麻呂の人柄には今となっては知る手段もないが
家持の、戸惑いからの揺れる親心が思われる

すぐにでも、と申し出ているのではなく、許嫁のようなものだと思われるし... 
久須麻呂の人柄は、この家持の歌に応える形で、次に二首(794,795)載せられる
それで、少しは久須麻呂青年の人柄を思い浮かべることが出来そうだ


 


  「歴史に埋もれ、歌に見える才人」藤原宇合
我が背子を何時そ今かと待つなへに面やは見えむ秋の風吹く  1539
暁の夢に見えつつ梶島の磯越す波のしきてし思ほゆ  1733
山科の石田の小野のははそ原見つつか君が山道越ゆらむ  1734
山科の石田の社に幣置かばけだし我妹に直に逢はむかも  1735

 「1539」については、宴の席で、七夕のテーマではなかった、と思う
今か今かと待つ...「面やは見えむ」...あの人の顔が見えてくる...
待ち望んで待っていた、織姫の心情かもしれない
秋の風のように、必ずやってくる...あの人は...

以下三首、夢の中で見え隠れして現れる娘、まるで磯の波のように、しきりに...
旅の夫の道中を思っての妻の心情を、宇合は詠う
「ははそ」の鬱蒼とした山道を、あなたは越えているのでしょうか
「ははそ」はぶな科の落葉高木、その茂みを見ながら...
男は思うだろう、この地神に幣を置けば、愛妻にじかに逢えるのだろうか...
中を上記の二首 題詞「藤原朝臣久須麻呂の来報ふる歌二首」
「幣」は、神に祈る時に捧げる品物

藤原宇合は、その恵まれた才能がありながら、やはり長兄たちからは疎んじられ
遠くへ、遠くへ、と追いやられていたようだ
中央での目立った活躍は見られない...「長屋王の変」で、一躍悪人になったが...

年の離れた兄たちよりも、一つしたの弟・麻呂や、あるいは親しい友人には
ときおりその心情を吐露していたようだ 
立場上、兄たちの政権批判は出来ないだろう 

彼の「懐風藻」に残した一篇の漢詩に「不遇を悲しぶ」がある (原文省略)

 「賢者は、己の志を未だに遂げること無く、
 ただ日々の時間が流れて行くだけであることを悲しみ嘆く。
 英明な君主は、徳が日ごとに新しく増して行くことを願う。
 古代中国の周の時代、文王は逸老(太公望)を車に載せて帰って用いた。
 同じく殷の時代、武丁は夢から傅説と巡り合って重く用いた。
 天命に応えて空に飛び上がるために羽ばたこうとしても、翼には違いがあり、
 鵬が飛び回る空と同じように高く舞い上がることは出来ない。
 一方で天命を忘れ水中を泳ぐ魚の鱗には違いは無い。
 楚の冠を被った鍾儀は捕虜となり、楚の音楽を演奏させられ苦しんだ。
 蘇武は、北方の異民族匈奴へ使者となったが、そのまま異国の土にまみれた。
 我が学識は、漢の東方朔にも負けはしないし、
 年齢も朱買臣の年を過ぎている。
 髪には白髪も混じるようになったと言うのに、
 多くの書物に埋もれて未だに志を遂げることも出来ず、
 ただただ不遇で貧しいことである」

文武に秀で、兄たちの牽制のせいもあっただろう、常に辺地へ派遣され
危険と隣り合わせの生涯を送る...
常陸の国司のとき、部下に高橋連虫麻呂がいたことがあり、その協力もあって
この「常陸風土記」の出来栄えは、宇合がいかに優れた文人でもあったのか
その漢文で書かれた公的文書でも実証されている

藤原宇合の最期の任地が、西海道節度使として筑紫に派遣されることになった
このとき、常陸国の国司であったときに、その部下であった高橋連虫麻呂
餞の歌が、長歌、反歌が万葉集に載っている

「反歌」
 千万の軍なりとも言挙げせず取りて来ぬべき士とそ思ふ  巻第六 977

千万の敵であろうと、とやかく言わず黙って討ち取って来られる
そんなお方です、あなたは...男だと思っています

どこに、「歴史の悪人」、藤原四兄弟の中で、最も粗暴な人物像があるのだろう...
 
 
掲載日:2013.03.21.

 

式部卿藤原宇合卿被使改造難波堵之時作歌一首

 むかしこそなにはゐなかといはれけめ

          いまはみやこひきみやこびにけり
            

 巻第三 雑歌 315 藤原朝臣宇合 

 

神亀三年(726)十月

藤原宇合(当時三十三歳)は知造難波宮事をも兼任させられ

五年半を費やして天平四年(732)三月完成した 

難波宮は孝徳天皇が飛鳥時代に都としたところだが

その後天武天皇が同じ位置に羅城を築き、そこを副都としようとしたことがあった 

奈良時代になって、天平十六年(744)、一時的に遷都される 

藤原宇合のこの歌は、いかにも彼らしい痛快さを響かせてくれる  



昔こそ難波は田舎だといわれもしただろうが
どうだ、この都は...平城の都に倣って、まさにもう一つの「都」ではないか


「難波田舎」...「なにはゐなか」...

平城京の都会生活になれた人々が、難波を田舎だと軽蔑していった言葉だという
宇合は、任命された年の十年前、霊亀二年(716)遣唐副使として唐に渡っている
彼の見聞した唐の文化、造営などの概念も持ち込まれてのことだったろう 


ところで、この歌を、私は「彼らしい痛快さ」と言った 
しかし、多くの人にとっては、藤原宇合がどんな人物なのか知らないだろう

あるいは、奈良時代にその勢いを知らしめた「藤原四兄弟」は知っていても 
かすかに、その三番目であることくらいか、、、

更に言えば、この四兄弟の中でも一番の悪者に扱われている 
藤原不比等の子・四兄弟が権勢を欲しいままにし、国を治めている時代 
長兄の武智麻呂(南家の祖)、次兄の房前(北家の祖)

彼らとは、十年くらいの年の差があり、宇合はその能力を発揮できずにいた 
東国の反乱の平定に行かされたり 地方の役人であったり
中央での仕事といえば、何かと兄たちの指図で汚れ役を担っていたようだ

勿論、そうした実体の確実な記録はないが
他の兄弟たちとは違って、彼には見事な文才も備わっていた


「懐風藻」に詩を六首...当時「万葉の時代」と我々は言うが
それは後世の見方であって、当時はまだまだ大陸文化、唐風文化の時代だ 
公文書はすべて漢語になる...
したがって、この頃に成立している現存する日本の最古の漢詩文集「懐風藻」には
当時の国を動かしている高官たちも多くその名を見せる

宇合もその一人だ
宇合の漢詩を、当時藤原氏の政敵といわれている「長屋王」も認めているようで
そこから二人の交遊も伺えるらしい

しかし、何故宇合が、この四兄弟の中で最も「悪人」扱いをされるかといえば
この「長屋王」の自宅を大群で包囲し、自害に追いやったことが
あまり歴史に詳しくない私でも、「宇合、とんでもない奴だなぁ」と思わせていた

でも、戦いの歴史の中でよく見られる、こんな場面もあるではないか...

 「友よ、これが私の仕事なのだ、許してくれ」と...

そして、大軍での包囲も、いい方に解釈すれば
部下たちの非情な襲撃を抑えるために...歴史ドラマの観過ぎかもしれないが 
私には、どうしても藤原宇合という詠歌の人物像から
率先して「長屋王の乱」を鎮圧させたような荒っぽい武人には思えない

この「謀叛」が、でっち上げであったことは、後の記録に公言されている 
当時、その中枢にいた彼が、それでも長屋王を救えなかったのは...

それこそ、長兄、次兄の策略に逆らえなかった、ということなのか...
無念だったと思う


万葉集のような、古い書物を読むと、歴史に登場する人物もいれば 
市井の名もなき人たちの、その感性豊かな歌心も知ることが出来る 

歴史上に名を残さないからこそ、その歌だけで、私たちはその歌い手を想像する 
しかし、歴史に名を残す人物の詠歌となると...イメージは作られてしまう 

この藤原宇合もその一人に思えてならない


掲載した一首の他にも、五首彼は万葉集に載せられている 
どこに、あのあくどい藤原一族のその最たる者の面影が感じられるというのか...


宇合の長男・広嗣は失脚したが
良継、百川は、その後の長岡京、平安京の造営の立役者となった
宇合の建てた唐風の立派な難波宮の建築群を、長岡京に移築して新皇都となし 
引き続いての平安京...まさに、藤原京の続きのような都であった平城京を 
唐風の見事な都に作り上げた難波宮

かつての遣唐副使・藤原宇合が礎といえるだろう



 


  「麻呂といふ奴」とは、微笑ましい
 妻が和ふる歌一首  
松反り しひてあれやは 三栗の 中上り来ぬ 麻呂といふ奴  1787

 「しひ」は、体の機能が弱まっていることで、ここでも反語表現を使っている
「しひてあれやは」...ぼけてしまったのかしら...「奴」から浮ぶ言い回しになるが
そんなこともないでしょうに、「中上り」にさえ来ない
麻呂という奴さんは...

「中上り」とは、国司が任期中に上京することで
この歌によると、それさえ行っていない、ということになる
だから、妻の立場からすると、ボケてしまったのか、とも思いたくなるのだろう 

「麻呂」は、元の意味は、若い男子を呼ぶ時の呼称のようだが
「人麻呂歌集時代」ではそうであっても、後の時代では、人名にも使われている
こうした夫婦の遣り取りを、日常の言葉で伺えるのが何ともいえない
新婚なのだろうか...

巻第九の特徴は、「柿本朝臣人麻呂歌集」、「高橋連虫麻呂歌集」「笠朝臣金村歌集」
そして「田辺福麻呂歌集」や、古歌集などからの転載された歌が多い
万葉集前期とも言える「人麻呂歌集」には、非常に難解な言い回しが多くあり
しかも、漢文の語法も多く、また題詞などでも私的な表記があり 
他の歌集とは違う存在になっている
 

掲載日:2013.03.22.

 妻に与ふる歌一首

ゆきこそははるひきゆらめこころさへ

          きえうせたれやこともかよはぬ
            

 巻第九 相聞 1786 作者不詳 (柿本朝臣人麻呂歌集出) 
 

この巻第九は、万葉集の三大部立てである「雑歌」「相聞」「挽歌」が
ほぼ等量で収められている唯一の巻 

しかし、作者名が明記されてはいても、それが「何々歌集の中にある」とか

場合によっては、その「歌集」そのものが、どんな歌集なのかの問題も孕んでいる 
とはいっても、この「万葉集」の編者なりに「選考」はしているとのことなので
私のような素人が、そんな検証に悩む必要もないことだ 

目の前にある「歌」から浮ぶイメージ
そこに惹かれるからこそ...手放せないのだから...


雪なら、春には融けて消えてしまうもの 
その雪のように、あなたのこころまでも消えてしまったのか... 

何の音沙汰もなく...

「心さへ消え失せたれや」...反語で、心が消えうせるなどと、あるはずもない
次の妻が応える歌から、この作者が地方に任官された役人であることが想像できる

妻を都に残し、その便りもないことを嘆き、思い悩む
この一首だけを目にすれば、人の心も、と言いたくはなるが...


「柿本朝臣人麻呂歌集」というのが謎だらけの歌集らしく
人麻呂本人の作歌もあるかもしれないし、まったくないかもしれない
しかし、人麻呂自身も地方に赴任して、妻と別れて暮らしていたようだから

この歌も、彼自身のことか...あるいは、そうした状況を目の当たりにして
面白い、まるで自分のようだ、と採録したのか...

この歌では、反語で、そんなことはないだろうに、と言っているが
この辺りの感覚は、お互いの気持ちを充分知った上で、嘆いてみせる

まさに、歌に託すべくして詠まれた「相聞」の応答歌だと思う


あるいは、地方役人として赴任する一般的な夫婦の機微を
人麻呂は、作り出したのかもしれない...




 



  「夢の中での逢瀬」も、目覚めると...

左注がとても興味深く、この時期の佐為王の人柄にも少し触れられた

  右の一首、伝へて云はく、佐為王に近習する婢あり。ここに宿直遑あらず、夫君は遇ひ難し。感情馳結し、係恋実にに深し。ここに当直の夜、夢の裏に相見、覚き悟めて探り抱くに、かつて手に触るることなし。すなはち哽咽ひなげきて、高声にこの歌を吟詠す。因りて王これを聞き哀慟し、永く侍宿を免す、といふ。

 「近習」、君主のそば近くにあって仕えること。
「婢」、女性の使用人...醍醐寺本「遊仙窟」に「マカダチ」の古訓がある。
「馳結」、心が一つの方向に傾いて、鬱結すること。

「夢の中」で夫に逢ったが、目覚めて手探りで触れようとしても、何も触れられない
その哀しさに泣きじゃくり、声も大きく、この歌を詠った
これを佐為王は聞き、哀れに思って、その後は宿直をさせなかった

この時代、藤原四兄弟の勢力が強かったはずだ
佐為王は、その中でも皇族の期待を担って実権を握る橘諸兄の実弟だ
この時代は、どうしても藤原一族の暗い時代のようなイメージを持ってしまうが
そうした歴史の教科書に載るような覚え方だけでは
それぞれの時代を詠い継ぐ人々の暮らし振りは...いつしか忘れられてゆくのだろう
身分の違いが明確にあった時代の、君主と従者の間の心に残る出来事...
何故かこの時代に語らせるには... 
現代では想像も難しいことなのに...
 

掲載日:2013.03.23.


 夫君に恋ふる歌一首

 いひはめど うまくもあらず ゆきゆけど やすくもあらず

 あかねさす きみがこころし わすれかねつも
             

 巻第十六 雑歌 3879 作者不詳  
 

ご飯を食べても、おいしくないし

あちこち歩きまわっても、心はやすまらない

私の想うあなたのお心が、忘れられません


この作者は、左注によると橘朝臣諸兄の弟で、佐為王に仕えていた女性という
宿直がしばらく続いて、なかなか夫に会えない
それで、食事も機械的に摂るだけのようだ

おいしくない、というのは...何を口に運んでも、それどころではない
それほど、恋しいのだから 

この歌だけでは、普通に起こりうる「恋わずらい」にしか感じられないが、、、


万葉集の一番の特徴だと私は思っている、題詞とか、左注
このおかげで、その歌の詠まれた心情を少なからず理解することが出来る
勿論、古今集などの他の歌集にも
詠歌の背景は同じように取り上げられてはいるが
他の歌集が「勅撰集」の構えがあるので
その背景と言っても限られたものになっている

ところが、万葉集の場合...伝承歌や、名も無き人々の心情も多く載せられており
その歌の背景になる環境なども記されている歌が多い
伝承歌などは、そうした背景も重要だから...

しかし、この歌の場合、佐為王に仕える女性といえば
万葉の編者も同時代であり、必ずしも古い伝承というわけでもなく
一種の聞き伝えのような...噂のようなものでもあったのだろう

そして、市井の人々の心情に限りない「愛おしさ」を注ぎ込み
それでこそ、万葉集の「名」に相応しいのだと思う

ただ古い伝承歌だから、面白いな、と言って採録したのではなく
今まさに、その時代の人の深い哀しみや寂しさをも拾っている

個人的には、その編集の姿勢が「万葉集」をたんなる文学作品ではなく
自然と語られている「歴史」に思えてならない


 

 
  「菟原処女伝説」黄泉でお待ちしましょう、と

   見菟原處女墓歌一首[并短歌]   1813

  葦屋の 菟原娘子の 八年子の 片生ひの時ゆ 小放りに 髪たくまでに 並び居る 家にも見えず 虚木綿の 隠りて居れば 見てしかと いぶせむ時の 垣ほなす 人の問ふ時 茅渟壮士 菟原壮士の 伏屋焚き すすし競ひ 相よばひ しける時は 焼太刀の 手かみ押しねり 白真弓 靫取り負ひて 水に入り 火にも入らむと 立ち向ひ 競ひし時に 我妹子が 母に語らく しつたまき いやしき我が故 ますらをの 争ふ見れば 生けりとも 逢ふべくあれや ししくしろ 黄泉に待たむと 隠り沼の 下延へ置きて うち嘆き 妹が去ぬれば 茅渟壮士 その夜夢に見 とり続き 追ひ行きければ 後れたる 菟原壮士い 天仰ぎ 叫びおらび 地を踏み きかみたけびて もころ男に 負けてはあらじと 懸け佩きの 小太刀取り佩き ところづら 尋め行きければ 親族どち い行き集ひ 長き代に 標にせむと 遠き代に 語り継がむと 娘子墓 中に造り置き 壮士墓 このもかのもに 造り置ける 故縁聞きて 知らねども 新裳のごとも 哭泣きつるかも

 葦屋の菟原処女が、八歳の子供のときから「小放り」...未婚の若い女性の髪型の一つ、それを結い挙げる年頃まで、どこにも出かけず、誰にも見られなかったが、二人の男が「いぶせむ」...もどかしがって、家を取り囲んで求婚をした。二人の男は、小屋を焼き血気にはやって、相争う。その凄まじさに、菟原処女は母に伝える、「こんな私のために二人の壮士が争うのを見ると、生きていたとしても、結婚など出来ません、黄泉でお待ちしましょう」そう言い残して死にゆく
それを知る男たち、千沼壮士は、その夜夢に見、引き続き後を追って行ったので、先を越された菟原壮士は、天を仰ぎ叫びわめいて、あいつに負けはしない、と追いかけて行く 身内のものたちは寄り集まって永久に記念にしよう 遠い未来まで語り伝えようと、処女墓を中に置き 壮士墓をその両脇に造って置いた そのいわれを聞いて 真実は知らないが 最近の喪のように、声をあげて泣いてしまったよ

身内が記念に残そうという「伝承」
真実は知らないが、という物語性への想い入れ

ますます、この時代の人々の「いにしへ」感が知りたくなった

掲載日:2013.03.24.
 あしのやのうなひをとめのおくつきを
     ゆきくとみればねのみしなかゆ
1814
 はかのうへのこのえなびけれききしごと
     ちぬをとこにしよりにけらしも
1815
              

 巻第九 挽歌 反歌 高橋連虫麻呂歌集出詳  
 

葦屋の「菟原処女」の墓を、通り掛るたびにみる...嗚咽を堪えられず、泣けて...

墓に被さる木の枝が靡いている...

噂に聞くように、この「をとめ」の想いは

「千沼壮士」に寄せられていたのだろうなぁ...


このような妻争いの伝説は、万葉集でも多く詠まれているが
この「菟原処女伝説」は「高橋連虫麻呂歌集」だけではなく
「田辺福麻呂集」や、大伴家持も詠んでいる

それだけ、当時の人の胸を打つ物語として伝えられていたのだろう
奈良時代の人々が語る「いにしへの物語」...

この歌の作者は、菟原処女たちの墓を通るたびに、声を上げて泣いてしまう
二人の男から求婚され、その男たちの争いが私のため...

そのような中で、私は生きてゆけない...「黄泉でお待ちしましょう」...
しかし...黄泉の国でさへ、やはり苦しんでいるのでは...

千沼壮士は、夢の中で菟原処女に逢い、追いかけて行く
菟原壮士は、あいつに負けられない、と言って同じように...

そして、残った親族たちで、この哀しみを後世に伝えようと
菟原処女の墓、その両隣に男達の墓を造り置く


この物語の悲劇性は、単に男たちの争いの原因を悲しんで死ぬ娘乙だけではなく
その後を追うようにして、男たちが「黄泉の国」へ向ったこともある
それが、娘を支えるようにして、守るようにして並ぶ男たちの墓に見える

この物語を、後世に語り伝えようと「長歌」では詠まれているが
とすれば、このような物語はあまりにも特殊性を持っている、ことなのか
万葉の時代の人々が、泣けるほどの哀しみを...

巻第十六の冒頭歌に、いにしへの「桜児」をめぐり争う二人の男の歌がある
そして、桜児は「菟原処女」と同じように、その争いに自分を追い詰め、死を選ぶ
しかし、残った男たちは、詠歌をそれぞれ残し、想いを仕舞いこむ

それが、こうした時代でも、普通のことだったのだろう...



 


  「普段のままで...」それが本来の視察なのに...

   (按作村主益人歌一首)1009 左注  

  右、内匠大属按作村主益人、いささかに飲饌を設けて、長官佐為王に饗す。未だ日斜つにも及ばねば、王既に還帰りぬ。ここに、益人、厭かぬ帰りを怜しび惜しみ、よりてこの歌を作る。

 急ごしらえで宴の席を設けたのに、まだ日も傾かないうちに長官が帰られた。自分のもてなし方が十分ではなかったのだろうか、と残念に思って、この歌を作る。

ときどき思う
万葉集の編者にとって、この歌集に採録する歌の「基準」は何だろう、と
市井の人々も含めて、別け隔てなく採録し、あるいは秀逸な歌人の詠歌も載せ
とてもおおらかな基準だとは思うが、それでも「題詞」の中には
下手な歌は選ばなかった、というような
あたかも「基準めいた」ものの記述がいくつかある
技術的な表現になると、表記できるものも限られている時代だ
そして、この歌のように、一介の役人の繰言
感嘆する歌ではなく、心情を吐露する歌...
編者の首尾一貫とした見立てで成り立っていないのだけは...理解できる

 「内匠大属」...「内匠寮」の第四等官。内匠寮は、中務省被管の寮。神亀五年(728)に新設され、調度の作製や装飾をつかさどり、その「大属」は下級官吏だった。
 長官に当たるのが「内匠頭」で、この時は、佐為王がその任にある。長命であれば、その出自から関わらざるを得ない政治の権力争いに巻き込まれ、あるいは自らが...

 佐為王は、当時の藤原一族と勢力争いをしている橘諸兄の弟で、736年に橘姓を兄と共に授かるが、翌年、当時権力者たちを襲った天然痘のため亡くなった。この二十年後に兄や甥たちが起こす時代の嵐を...見ることもなく...
 

掲載日:2013.03.25.
 おもほえずきまししきみをさほがはの
       かはづきかせずかへしつるかも


 巻第六 1009 雑歌 反歌 按作村主益人  

 
思いがけもしない長官の訪問

慌てて宴席を設けたのに、長官は佐保川のかはづの声も聞かずに...

この不手際を、どう思っているのだろうか...


この情景は、どことなく現代社会でも、かつて盛んに聞かされたものだ
本社から偉い人が急にやってくる

本来の業務に関わる心配事はさておき
その偉い人を十分もてなせなかった...宴の席のことを気に掛ける


この作者の残念がる気持ちが詠まれるが
私がこの歌に関心を寄せるのは、その長官とされる人
急な訪問で、配下のものたちの仕事振りを見に来たのだろうが
その長官が、佐為王だから目をとめてみた

この時代の役所仕事が、どんなものなのか分からないが
上司、特に長官の訪問となると、担当者は黙って帰せないとまで思うのだろうか

この時代に、確かな通例が確認されているかどうか分からないが
宴会では、帰るのも忘れるほど歓待するのが普通だったようだ
だからこそ、その暇もないほど、帰してしまったことは
不手際の不安が、この役人を襲うのだろう...

「おもほえず」とあるのは、明らかに「思いがけず」とか「意外にも」なのだが
この歌の左注には「いささかに」わずかばかりでも、それなりに
もてなしの席を設けている

その不充分さに、長官・佐為王は機嫌をそこねたのか
あるいは、「そんな席なんて構わないよ、用事は済んだ」という意味なのか...

私は、この場面に結びつく出来事を、先日読んだばかりだったので
それで、自然と後者の解釈になってしまう

勿論、お互いの歌が結びついているわけではないが
一人の人物の面影を重ねると...もてなしに気を遣うな、という人に思える

そもそも、十分な接待を望むのなら、急な訪問はしないだろう
事前に、それなりの準備はしておけよ、とか... 
それに、本来の視察で、取り繕う機会を与えるのも、おかしな話だ

佐為王は、自分の宅で働く娘が、宿直が続いて夫に逢えないと泣いているのを知り
それ以後は、宿直の仕事にはつけなかった
そんな優しさを持つ人物は、仕事もきちんと公平に見るはずだ

もてなし方の程度など、関係のない人なのだろう...

こんな風に、奈良時代の人の情けまで想い馳せることができる
それが、真実かどうかは勿論分からないが
少なくとも、私にとっては、それが真実のように思える

...歌う作者でない者が、まったく繋がらない歌で、繋がっているのだから...




 
  「家持は、家持らしく」父親譲りかな...しかし父親は...
   四月一日掾久米朝臣廣縄之舘宴歌四首  
 卯の花の咲く月立ちぬ霍公鳥来鳴き響めよ含みたりとも  大伴家持  4090
 二上の山に隠れる霍公鳥今も鳴かぬか君に聞かせむ  遊行女婦土師  4091
 居り明かしも今夜は飲まむ霍公鳥明けむ朝は鳴き渡らむぞ  大伴家持  4092

卯の花の咲く月...「卯月」は、その語源のようだ
「きなきとよめよ」、トヨムは、一帯に響き渡らせる状態
「ふふみたりとも」、フフムは、花がまだ開かない蕾のままのこと
卯月になったのに、ほととぎす、来て鳴いてくれ、花はまだ蕾であっても...
二上山に隠れているほととぎす、さあ、今すぐ鳴いてくれ
この席の人たちに、その声を聞かせてくれ
ほととぎすの声が聞かれないのは、奥山に帰るから、という言い伝え
さあ、今夜は夜を明かしてでも飲もう...「居り明かしも」...寝ないで
明日の朝には、鳴き渡るさ、「明けむ朝は」、立夏の日に来鳴くらしいから...

翌二日が、当時の立夏らしい、それで、ほととぎすを待ちかねての宴なのか...
それにしても、家持のおおらかな振る舞いはいい
父・旅人のような品が備わってくるのは、まだまだ先のことだろうが
この当時、三十そこそこの青年家持
都の藤原一族に牛耳られている鬱積から離れて、悠然と構えている...
古来より軍部の名門氏族である大伴氏 
こうした地方への赴任が、万葉集の編纂に大いに役立ったのだろう
大宰府では防人たちの管理もし、そこで「防人歌」にも人並み以上の思い入れを持つ 
あくまで私撰歌集であるため、都の意向などお構いなしだ
地方任務を経てのそうした気風があったればこそ
こんにちの「万葉集」を目の前にすることができるのだろう...
 

掲載日:2013.03.26.
 
 あすよりはつぎてきこえむほととぎす ひとよのからにこひわたるかも
              

 巻第十八 4093 宴歌 能登臣乙美  

 

 明日からは、続けて鳴くでしょう...

 この一晩のおかげで、我々も想いが募ってきました


作者の能登臣乙美...羽咋郡の役人で、公務で国庁に来ているときに
この宴の席に加わり詠ったようだ

大伴家持が、越中守として赴任したいた天平20年(748)頃
異動になった部下の後任に赴任してきた久米朝臣広縄の館での春の宴

題詞には、この年天平二十年4四月一日とある

この宴のときの歌が、四首載せてあるが
なかなか鳴かないほととぎす...その「鳴かない」ことさえ歌にしてしまう


待ちわびているなかで、家持は
焦ることはない、今夜は夜明かししてでも飲み明かそう
明日の朝には、この辺に鳴き渡っているさ

...二日は立夏、鳴かないわけにはいかないだろう、ほととぎす、だよ、と

そして、ここでの四首の締めを詠ったのが、能登臣乙美の
「ひとよのからに」...みんな、そうだな、と頷いたことだろう

「からに」は、ほんの些細なことで、その結果に大きなことをもたらす...
今夜は、ほととぎすを楽しもう、と集まったのに、じらされてじらされて...
でも、この一夜のおかげで、みんなの恋い慕う気持ちが、一層高まっている

地元の情況をさりげなく疲労する、乙美...地方役人の面目躍如の詠歌...になれば...
ここ乙美の任地羽咋...私にも想い出のあるところだから
彼の予言通りになってくれ、と祈っている...

といっても、もう千三百年近くも前のことではないか...
どうだったのだろう...








 


 



  「古今相聞往来歌類之上」
     
 この巻の目録に「古今相聞往来歌類之上」とあり、次に続く巻第十の「古今相聞往来之歌下」と対をなしている  

「古今」は新古の意味、「相聞往来」は本来、漢語の書翰語のひとつで、便りをやり取りする意味のことだが、万葉集では恋ごころを打ち明ける意に用いており、更には「相聞」といいながらも、独詠を「恋歌」もあり、万葉集の中では一般的名称となっている


 人麻呂歌集の略体歌と非略体歌とはなにか
「國文學」學燈社1997年7月号第42巻8号    
 万葉集には先行の「柿本人麻呂(之)歌集」というものから採録した歌が長歌・旋頭歌・短歌併せて三百七十首ほど見える。それらのうち特に短歌約三百三十首は表記法上、活用語尾・助詞・助動詞などの仮名表記を省略し、極端に少ない字数で表記する特異なもの約二百首と、通常の表記法に近い方法で表記されるもの約百三十首とに分かれる。これは江戸時代に賀茂真淵によって発見され、それぞれ「詩体」「常体」と名付けられた。戦後の研究史のなかでこのことは新たに見直され、阿蘇瑞枝により「略体」「非略体」と名付けられ(「柿本人麻呂論考」)て一般化し、二種類に分かれることの意味や由来が問われた。

 そもそも人麻呂歌集の歌には人麻呂の宮廷歌に比べて非個性的なものが混じるので、人麻呂の歌ばかりを集めたものではないと見られてきた。近代の研究の中で、次第にすべてを人麻呂ゆかりのものとする見方が主流になってきたが、なお略体歌には非個性的なものが多く、人麻呂とは関係の薄い奈良時代の歌を含むとする森淳司「柿本朝臣人麻呂歌集の研究」などの主張もなされた。

 逆に略体歌を人麻呂の若年時の歌とする久松潜一「万葉集考説」などの論があり、稲岡耕二「万葉表記論」は、和文表記成立史の上に、略体から非略体を経て人麻呂作歌へという流れを定位して、略体歌を天武九年頃まで、非略体歌をその後持統三年頃までとする。また稲岡は旋頭歌にも二体の別があるとする。

 しかしこの表記史的観点については、略体表記がこの時期の和歌独自の創造的な表記法で、必ずしも一般表記史の問題になしがたい、とする橋本達雄「万葉宮廷歌人の研究」などの批判もある。

 非略体歌は内容も宮廷歌的で人麻呂作歌に近く、略体歌は恋愛主体で類型的な面を持つ。中西進「万葉史の研究」が「暈色の歌群」と評するように、歌集歌のこの二面は区分せずにあくまで連続として把握するのが正しい。なぜならまさにその二面の共有こそ、官僚知識層出身とは異なる詞人系統の歌人人麻呂の本質に適合するからである。略体歌の省略的な表記が表記として成り立つのは、その表現が類型性に依拠するからだが、類型性に依拠しつつ新しい和歌としての姿を立ち上がらせているところに、古代和歌の形成に与える人麻呂の位置に見合うものがあり、歌集歌の全容を人麻呂に関わるものとして読む意味がある。
 

掲載日:2013.03.27.

  わぎもこにこひすべながりいめにみむと あれはおもへどいねられなくに
             

 巻第十一 2416 正述心緒 柿本朝臣人麻呂歌集出  
 

あの娘に、この恋ごころ、どうしてよいか分からない 

せめて夢の中ででも、恋ごころを伝えたいと思うのだが

さっぱり寝られやしない...


「すべながり」
すべなし...なすべき手段がない、どうしようもない
この、形容詞すべなし、に接尾語の「がる」...そのように感じる、が付き
「すべながる」の連用形「すべながり」とし、次の文節につなげる
一般的な副詞法ではなく、対等な文節へつなげる「中止法」だと思う

いめにみむ...夢に見たい、夢の中であれば、何とかなるだろうか...
そうは思うのだが

いねられなくに...寝ねらえなくに、「らえ」は可能の助動詞「らゆ」の未然形
眠られない...それが、恋ごころ、というものだ

「なくに」は、打消しの助動詞「なく」の接続助詞「に」がついたもの
...ないのに、...ないものを、...ないのだなあ、と

この状態では、眠られないものなのだなあ...

この巻第十一には、作者不詳の「相聞歌」ばかり
しかも、季節感を伴わない歌が多く、その内容よりも
「正述心緒」や「寄物陳思」などの形式的な違いでの配列になっている

私が参考にしている全集では、この巻を「内容は不揃いで、混沌としている」と
初々しい恋の歌の隣に、中高年と思われる男女の愛憎を詠む歌があったり
まさに、「混沌とした世界の巻」かもしれなが

私には、それが魅力に感じる
そもそも、「柿本朝臣人麻呂歌集」の歌は、その実体が定まらず
こうした解釈も、それは今の時点で、という注が必要だろう

漢文的な表現も多く、従って表記文字である「漢字」そのものにも
やはりかなりの重みで意味があることだし...

家持たち編集に携わった人たちは、当時どんな解釈を試みていたのだろうか...
何しろ、家持自身が、「恋」にかかわる歌を多く残しているのだから
そのさまざまな男女の機微に触れ、若者の溢れる恋ごころや
官人の忍ぶ恋、庶民の愛憎の詠歌など、幅広く...意図的に作られているような...

しばらく、この巻第十一にどっぷり浸ってみようと思うのだが
それは、「柿本朝臣人麻呂歌集」への冒険にもなるだろう
研究者の積み重ねてきた成果を、一般にどれほどの人が自身の中で咀嚼しているか
それは分からない

そんなことを詮索しないでも、歌として自分にどう入り込んでくるのか...
そもそも、私の「万葉集」へのスタンスはそうだった
今でも、基本的には変らない
しかし、その時代背景が気になると、そうした激動の中で
どうして、このような歌が詠めるのか、あるいはこんな場合ではないだろう
そうした点にも、興味を引くようになったのは事実だ

それに、「人麻呂歌集」で一番問題にされる「略体歌と非略体歌」 
そもそも、日本語の表現を、漢字でしか言い顕わせられなかった時代
韓国で、中世の李王朝時代に「ハングル文字」が創世されたのとは
かなりその必然性は似ていると思うが、何しろ万葉の時代は...

まだまだ日本は、国際的に生まれて間もない国家だった
漢字を使い、漢文で公文書を残すことは、言うなれば中国から承認された国家
半島は、中世になって、「ハングル」を生み出すことによって
その体制から飛び出そうとした...自国民が、思うように表現できる文字を...

万葉の日本に、自国語の表記を用いる機運はあったにせよ
それは漢字を母体にした、一種の変形文字といえるのではないか 

だからこそ、あの時代でも中国とことさら対立することもなく...
その点は、明らかに「ハングル」とは違う...

肉体の器官機能に基づくものではないから...

「一音一字」...漢字の「借音表記」が、万葉集で試され
そして、後の「平仮名」による「古今和歌集」へと、繋がって行く...




 


  「意追」憂悶の情けを追い払う
雲谷 灼發 意追 見乍居 及直相  柿本朝臣人麻呂歌集出
 くもだにも しるくしたたば こころやり 
      みつつもをらむ ただにあふまでに
 2456
   
 雲でもくっきり立ち渡ってくれれば
この気持ちも紛らせられるものを...じかにお逢いするまで
 

ある全集本では、【2418】で「意追」を「なぐさめ」と訓を使いながらも、その後に載せられている【2456】では「意追」と同じ表記でありながら、「心を遣る」とし、意味は同じく、「憂悶を追い払う」という。
もう一つの私が参考にしている全集本では、この両歌とも「なぐさめ」と訓じている
しかも、同じく現在のところもっとも一般的に参考にされている西本願寺本が底本になっている。
ということは、一応古写本としての原本そのものも、やはりなかなか「訓」の決定的な成果はないようだ。
それでもいいと思うけど...何しろこの両歌、「人麻呂歌集」の略体歌
そう簡単には訓は付けられないだろうし
時代によって「語感」が普遍だとも言えないだろう
 

掲載日:2013.03.28.

戀事 意追不得 出行者 山川 不知来
 こふることなぐさめかねていでていけば やまをかわをもしらずきにけり

 巻第十一 2418 正述心緒 柿本朝臣人麻呂歌集出  


恋してしまって、辛い想いを慰めようと

飛び出してしまったものだが...ここは山なのか川なのか...

分からずに来てしまった




「なぐさめ」の原文では「意追」
この原文の意味で、こころの落ち着かなさを追っ払うこと...
それができかねて、「出でて行けば」...飛び出してはみたが...

山も川も知らずに来てしまった...

恋しい人の家の前で、そんなどうしようもない気持ちを訴えたかったのだろう
来てしまったものの...

この「人麻呂歌集」の歌に
いかに古訓をつけるか、当時の人には読めたのだろうが
しばらく後の平安時代になると、この難解な「万葉集」という歌集の中でも
ことさらに「人麻呂歌集」は頭を痛めたことだろう 

同じ表記の「意追」を【2456】では、「こころやり」とする訓もある
意味は同じようだが、何故かすっきりしない

私もよく経験することだが、一般に読めるこうした「解釈」中心の古典は
それが、今でも研究途中であることを認識していなければならない

どれが正しくて、どれが間違い、というレベルでは
残念ながら、私たち素人では難し過ぎる
文字表記の確立した、平安以降の古典文学では、そうでもないだろうが
ここに、「万葉集」の難しさがある 

音だけを借りて表記したり、意味を借りて表記したり 
その混在があるから尚更のことだ 

そして、今の私にとって、その訓が...美しく響く語感であれば 
少なくとも、それが正しいように思える

そもそも、「歌」は「詠う」こと....、心を響かせることだと思うから...  


 


  「激つ心を」川に寄せて詠う恋ごころ
言出 云忌々 山川之 當都心 塞耐在
 言に出でて言はばゆゆしみ山川の
        たぎつ心を塞かへたりけり

 柿本朝臣人麻呂歌集出
 2436
 
言葉にしてしまうと、不吉なので山の川のように
この「たぎつこころ」を、じっと塞き止めていよう
 

「ゆゆしみ」、形容詞ユユシは忌むべき、とか不吉だとかの意味
秘めた想いや、恋人の名前を口外すると祟りがあると信じられていた
「當都心」...「
たぎつこころ」...「激しい心」
たぎつ、は水がほとばしり流れる様子から、心の激しい揺れ動く様子を思わせる
「塞耐在」...「せかへたりけり」
「せかへ」は、「せきあへ」
塞き止めて堪えるの意味で「塞き敢ふ」
「せかふ」ともいう
「あふ」には、抵抗するとか、努めて~するの意味がある
「塞き合ふ」の「こみあう、おしあう」とは違う


掲載日:2013.03.29.

 

是川 水阿和逆纒 行水 事不反 思始為
 うぢかはのみなあわさかまきゆくみづの ことかへらずぞおもひそめてし


              

 巻第十一 2434 寄物陳思 柿本朝臣人麻呂歌集出  

 

宇治川の、水沫を逆巻いて激しく流れるさま...

その流れる水のように、もう後戻りは出来ないまで、想い始めてしまった...


河原に佇む

水沫をたてながら、激しく渦巻く宇治川の流れ...

自分のこころを、そこに見詰めている

水沫は...消えては現れる水沫...

消えても消えても、繰り返し...そのしぶきに激しさを想う


流れの勢いを、もう止めることはできはしない...誰ができるというのか 

もう引き返せはしないこの想いは

この川の流れのように...流れ行くまでだ...何処へ行き着こうと... 


この歌は、私にとって

おそらく一番最初...の頃にノートに書き溜めた万葉歌だった 

万葉歌の本当の魅力も知らずに、たんに表面的な慕情に駆られて口にしたはずだ 

入門書の類の本を、古書店で見つけて、すぐにこの歌に惹かれた 

当時、山仲間が語り出す万葉の世界

その具体的な世界の映像が、この歌によって私の前に現れた感じだった 

あの頃...若かった...もう三十年以上も前になるのか... 

その後、次第に万葉の世界が広がって...

いつしか、この歌も遠い過去の歌になっていた 


しかし、私にとっては三十数年振りの歌であっても

もう一千年を越えて書き留められ、それが少しも褪せずに私に響くのだから 

つくずく想いの詰まった言葉の、普遍性を感じてしまう




 
 


  「こひてしぬとも」その危うさを乗り越えて

「柿本人麻呂歌集」の歌は、どれもリアルな映像を見せてくれる
この万葉集全体で中心となる、大伴家持の相聞歌だと
そこに一種の「ゆとり」ある「遊びこころ」が垣間見えてくるのだが
「柿本人麻呂歌集」の歌には、まさに臨場感を持ちこんだその現場にいるような
そんな現実感を漂わせている
この「柿本人麻呂歌集」の評価そのものは難しいと思うのだが
当時の主流であった漢詩文への挑戦、というものはあったのだろうか

漢詩文は、言うまでもなく当時の代表的な文化であり
中国からの多くの文献と共に、当時の貴族たちに欠かせないものだった
漢語を理解できる、そのことが出世の条件の一つでもあったし
何より大陸の文化を語ることこそ、最大の自己アピールだったのだろう
そうした中で、日本語で詠い継がれてきた古歌や伝承歌あるいは伝説の類
一部の人たちしか顧みられなかったのだろう「日本的なもの」
そのエッセンスが、ぎゅっと詰まっているのが、この「柿本人麻呂歌集」
そう思えてならない

 

掲載日:2013.03.30. 


荒礒越 外徃波乃 外心 吾者不思 戀而死鞆
 ありそこしほかゆくなみのほかごころ われはおもはじこひてしぬとも


              

 巻第十一 2438 寄物陳思 柿本朝臣人麻呂歌集出  

 

荒磯を越し、他の方へ流れ行く波のような

そんな他に向く心を、私は思うまい...

そう、それで恋して死ぬことがあっても...


「ほかごころ」...他の人に移る心、あだごころ

人を恋して、誰もが初めにそう決心する

他の人にこころを奪われるなど、考えることも出来ない

若者の一途な宣言だ


こひてしぬとも...恋して死ねれば本望...

そんな風に思い込む美しさは、若さの誇りだろう

歳を取ると、そうはならないのが、人というものだ、と悟ったようにいう

しかし、だからお前も今だけだよ、そう思えるのは...

などと言えるものではない 

ほかごころなど持ち出したら、本当に死んでもいい 

そう思うからこそ、いずれの心変わりも...真剣に悩み、深い想いを知ってゆく...


叶わなければ、死というものは、どれほど近くに感じられていたのだろう

現代の我々には、その苦悩を乗り越え、その先にも新たな「恋」がある

そう信じているし、実際その繰り返しが「人生」なんだと...

外国の文学も含め、様々な国においての人生観、死生観というものを

居ながらにして知ることが出来る

しかし、それがなし得ない環境の時代であったなら


「こひてしぬとも」は...まさに、命懸けの想いを訴えている

それが、相手にであろうが...あるいは、自分に言い聞かせるものであろうが...

 




  「狭霧のように」雲降りて来よ

古語辞典で、接頭語「さ」を引くと、平仮名で載っている
確かに、語調を整えたり、強調する意味となる
しかし、用例を見ると、「狭霧」が唯一漢字で使われている 
勿論全歌をくまなく調べれば、もっとあるとは思うが...

接頭語であれば「さ」で、すでに馴染みもあるが
「狭霧」のように「狭」という漢字が用いられるのを見ると
この歌の「狭徑」も、視覚的には違和感はない
「狭い道」の漢語の意味から、月が微かに通り抜けられる細い道を想像し
そこから、雲の間を抜け渡る「さわたる」の意味に至るのか
と、勝手にそう思い込んでいる
そうなると、「狭霧」も単なる強調とか正調のためではなく
同じような語義として、狭い空間を彷徨う...霧
街を覆う霧ではなく、山峡に湧き立つ霧...狭霧にぴったりだ 

そんな霧の中に浮ぶ娘もまた、「おほほしく」見えるのだろうか
その場合は、「まぼろし」...の娘子...
  

掲載日:2013.03.31.

 

雲間従 狭徑月乃 於保々思久 相見子等乎 見因鴨
 くもまより さわたるつきの おほほしく あひみしこらを みむよしもがも  


              

 巻第十一 2454 寄物陳思 柿本朝臣人麻呂歌集出  

 

雲のあいだ...雲のその間をぬって渡る月のように

おぼろげに見かけたあの娘に、もう一度逢えたらなあ...


おぼぼし、は「おぼおぼし」の略したことば

おぼろげに、実体のない様をいう

雲の合間を移り行く月...見えたと思えば、もう雲の向こうに...

本当に見かけたのだろうか...あの娘を...

もう一度、逢えることは叶うのだろうか

「もがも」...終助詞「もが」に終助詞「も」が付いたもので、

願望の気持ちを表わす


「狭徑月乃」...この「狭徑」は漢語では「狭い道」の意として文献にあるが

この場合の「月」に懸かると、「渡る」という表現が、確かにぴったりする

そして、漢語の原義から離れ、「さ」が接頭語として語調を整えたり強調したり...

「柿本人麻呂歌集」には多くの漢語表現もあり、表記の解釈は難しいようだ

漢字の「意」を訓じたり、「音」だけを用いたり

それらが、一首の中に混在するのだから...

道真が「難解で訓めない」と嘆くのは、当然のことだろう


その時代から千年を経て、それまでの研究の積み重ねによって

今の私たちの目の前にある「万葉集」...

「訓」については、まだまだ新しい解釈が行われていくだろう

それによって、作者の意図に少なからずの修正も起こり得る


しかし、それは常に「訓」み解く時代をも映し出すものと思う 

五十年後、百年後の私たちの感性は

万葉人に理解されないものになっているかもしれない

そうならないことを、信じて...今夜も「万葉歌」に耽る

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