出典:猪股靜彌著朝日カルチャ−ブックス-37「万葉百話」大阪書籍
 かはやなぎ(ネコヤナギ)ヤナギ科4首  河蝦鳴く六田の川の川楊のねもころ見れど飽きぬ川かも  作者不詳  1727
 うまら(ノイバラ)バラ科1首  道の辺の荊の末に這ほ豆のからまる君を別れか行かむ  丈 部鳥  4376
 うのはな(ウツギ)ユキノシタ科24首  時じくの玉をそ貫ける卯の花の五月を待たば久かるべみ  作者不詳  1979
 あふち(センダン)センダン科4首  妹が見し楝の花は散りぬべしわが泣く涙いまだ干なくに  山上憶良  802
 ふじ(フジ)マメ科27首  須磨の海人の塩焼衣の藤衣間遠にしあればいまだ着なれず  大網公人主  416
 あじさい(アジサイ)ユキノシタ科2首  紫陽花の八重咲く如く弥つ代にをいませわが背子見つつ偲はむ  橘諸兄  4472
 いはづな(テイカカズラ)キョウチクトウ科8首  石綱のまた変若ちかへりあをによし奈良の都をまた見なむかも  作者不詳  1050


かはやなぎ(ネコヤナギ)ヤナギ科 4首
 春の叙景歌に登場
     河蝦鳴く六田の川の川楊のねもころ見れど飽きぬ川かも  作者不詳 (巻九、1727) 
 吉野山を訪ねるとき、電車が下市を過ぎると沿線の視野がにわかにひらけて吉野川が見えてくる。豊かな流れがひたひたと岸を洗っている。「万葉集」のころの漢詩集「懐風藻」に「深き川の白波が逆巻き流れる」と詠じられた越潭はこの越部あたりの淵であろう。越部の駅を過ぎると次が六田。山の間を縫って流れ下った吉野川がようやくゆるやかに、かつ広く流れて行く。六田のあたりの展望は、万葉時代の名所であった。

      音に聞き目にはいまだ見ぬ吉野川六田の淀を今日見つるかも  作者不詳 (巻七、1109)


「話に聞きながらまだ見ない吉野川の六田の淀を今日は見たことであるよ」という歌意。はじめに掲げた一首も、六田あたりの吉野川をたたえた歌である。「かじかの鳴く六田の川のカワヤナギの根のように、ねんごろに見ても飽きない美しい川であるよ」という歌意。三句までの序詞は、六田付近の実景を詠んだもの。河原ではかじかが鳴き、岸辺にはカワヤナギが群生していたのである。万葉時代は両岸の山の森は深く、流れは今よりはさらに豊かであったろう。
 歌のカワヤナギはネコヤナギともいう。銀色に輝く花穂をネコの尾になぞらえた名前。エノコロヤナギと呼ぶ地方もある。エノコロは犬ころ。子犬の尾に見たてた名前である。ネコヤナギは谷や川の岸辺に群生し、早春のころ葉よりも早く花穂が空に向かって輝く。幹は柔軟性にとみ、曲げて炭俵のさんだわらに用いられた。
 二十年ほど前では奈良市内を流れる佐保川や富雄川の岸辺に、多くのネコヤナギが茂っていた。清流に輝くネコヤナギの花は、万葉の昔をしのぶよすがとなっていた。
 「万葉集」にネコヤナギの歌は四首。いずれも純な叙景歌である。次の一首は雪の降る早春の歌。


          山の際に雪は降りつつしかすがにこの河楊は萌えにけるかも  作者不詳 (巻十、1852)

うまら(ノイバラ)バラ科 1首
 美しい実の輝き
 道の辺の荊の末に這ほ豆のからまる君を別れか行かむ
  みちのべのうまらのうれにはほまめのからまるきみをはかれゆかむ
 丈 部鳥(巻二十、4376)


 千葉県君津群出身の防人、丈部鳥が詠んだ歌。「道のほとりのうまら(ノイバラ)の枝先にはう豆のように、吾にからみまつわる君に別れて行くことであろうか」という、出征の別れを悲しむ歌である。作者にまつわりついて別れを悲しむ女性は、彼の妻だったのであろうか、年若い恋人だったのだろうか。男性が女性をめずらしく「君」と呼びかけているので、恋人であったのかも知れない。作者がふたたび古里の土を踏んで、恋人と再会したかどうか分らない。ただ歌の悲しみが、人の胸をうつ。戦争の悲しい思い出をもつ現代の人々にとって、身につまされてつらい歌である。 はうことを「這」といい、別れることを「別(はか)れる」と歌っている。当時の東国のなまりをそのまま使用した歌語である。都の言葉を知らず、地方の言葉で歌っているところに、いい尽せない哀れさがただよう。
 歌は、天平勝宝七年二月九日に提出しているので、ノイバラの実が赤くうれたころであろう。葉の散り尽くしたノイバラにからまる野豆のつるも、冬枯れのさむざむとした姿であったろう。
 五月の半ばをすぎると、河原や雑木林でノイバラの花は満開になる。白い五弁の花が枝先にむれて咲く。オシベの黄と映え合って趣深い花である。バラの台木に利用されているというが、あの美しいバラの色はこのノイバラが咲かせるのかと思うと、何か不思議な気がする。花のころは、道行く人も思わず枝を手折りたくなるが、花が終わると、独特のするどいトゲをもった枝や幹が、人々ににくまれる。冬の野山の赤くうれたノイバラの実の輝きは、道行く人の足をひきとめる美しさである。
 ノイバラの種子は「営実(えいじつ)」と呼ばれる漢方薬で、利尿剤として用いられる。


          愁ひつつ岡にのぼれば花茨

 蕪村の句である。この一句と防人の歌は、ノイバラをうたった日本の詩歌の双璧と称してよいであろう。

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うのはな (ウツギ) ユキノシタ科 24首
 しのばれる薬狩り
     時じくの玉をそ貫ける卯の花の五月を待たば久かるべみ  作者不詳(巻十、1979)
 古代、ウノハナは霊力の憑りつく聖なる木であった。民俗学の折口信夫によれば、古代人はウノハナで年の稔の豊凶を占ったという。京都上賀茂神社では、その年の厄除けを願う参拝者に卯杖を授ける。卯杖はヒカゲノカズラなどをあしらったウノハナの杖である。また、苗代の田の神をまつる水口まつりにウノハナの杖を立てる地方もある。
 初めに掲げた歌は「季節のない玉を貫いてかざしにしました。ウノハナの咲く五月を待つと、久しく過ぎてしまうので」という歌意。実は、この歌は一対の問答歌の答えの歌であって、次の一首が問いの歌である。


          春日野の藤は散りにて何をかも御狩の人の折りて挿頭さむ  作者不詳(巻十、1978)


 「春日野のフジの花はもはや散ってしまい、何をまあ、み狩の人たちは折ってかざしにするだろうか」という歌意。この歌に答えたのがウノハナの歌。晴れの薬狩りの行事に参加する人たちが、髪にフジやウノハナを飾った面影がしのばれる。ウノハナに憑りつく霊力によって、五月五日の狩りを効果あるものにしようという考えである。「万葉集」にウノハナの歌は二十四首。そのうち十六首の歌に、季節の鳥ホトトギスの配されているのが、注目される。
 ウノハナをウツギと呼ぶのは、その幹が中空になっているので「空つ木」という意味の名前。ウツギの幹は堅く、細工物の木釘ははすべてウツギの幹で作っていた。小清水卓二氏の研究実験によると、古代、ウツギの幹は発火用材であったという。スギの板にウツギの幹を立て、手で錐もみを続けると、五分足らずの間に煙が上がり、間もなく発火に至ると言う。万葉びとがウノハナを聖なる木と信じていたのは、その幹で大切な火を得た経験によるものかも知れない。
 「万葉集」に歌われた天理市布留川の川岸に、見事なウノハナの群生が見られる。五月のはじめ川面を被うて咲き乱れ
た花房も、夏の終わりになるとつぶらな青い実を結ぶ。


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あふち(センダン)センダン科 4首
 霊力ある聖なる木
  妹が見し楝の花は散りぬべしわが泣く涙いまだ干なくに
   いもがみしあふちのはなはちりぬべしわがなくなみだいまだひなくに
 山上憶良(巻五、802)
 ウノハナにつづいて霊力の憑る聖なる木「あふち」を尋ねてみよう。「万葉集」に詠まれた「あふち」は、今のセンダン。このセンダンは「双葉より芳し」といわれる香木の梅檀とは別種の木。七、八メ−トルにも達する落葉高木で、五月の終わりごろ若葉の間に淡紫色の小花が房状に咲く。
 二十数年前、奈良市一条通りにセンダンの巨木が見られたが、今はすべて枯死した。一条高校前の文具店では、枯れたセンダンは昔の野神の木であったというので、祠を作り大切にまつってある。今大和路に残っているセンダンの巨木は、道の四辻や小高い丘の上にそびえている。そしてその根もとには石地蔵や石灯篭がまつられている。田植えのころ、村の野神祭りで子供達の引いた蛇綱を、センダンの木の下に納める村もある。
 江戸時代、小塚原などの処刑場にはセンダンが植えられていたという。「平家物語」には、源氏に捕らえられた平宗盛が京都三条河原でさらし首にされたさまが、あわれに物語られている。宗盛の首がかけられたのもまた、センダンであった。中国では、憂国の詩人としてわが国にも親しまれている「屈原」が入水自殺した五月五日に、彼の霊をなぐさめて食物を水中に投げ入れる風習がある。その時食物をセンダンの葉に包んで投げる。センダンには食物に近寄る水中の竜を追い払う霊力があると信じられているのである。
 「万葉集」にセンダンの歌は四首。いずれも美しい花の散るのを惜しむ歌であるが、初めに掲げた一首は死者にかかわる歌である。大宰府の長官大伴旅人の妻は、旅人が九州着任後間もなくかの地で死去した。この歌は山上憶良が旅人の心になりきって、旅人の妻の死を悼んだもの。「妹が見たセンダンの花はもはや散るだろう。私の泣く涙はまだ乾かないのに」という歌意。今も九州にはセンダンが多い。旅人の妻は、霊木センダンの花に、命の長からんことを祈っていたのであろう。 


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ふじ(フジ)マメ科 27首
 日常着にかける恋
  須磨の海人の塩焼衣の藤衣間遠にしあればいまだ着なれず
   すまのあまのしほやきぎぬのふぢころもまとほしにしあればいまだきなれず
 大網公人主 (巻三、416)


 大網公人主の歌は「万葉集」にこの一首のみ。「須磨の海人が塩焼に着る着物の藤衣の糸目の荒いように、二人の間が疎遠なのでまだなれ親しまない」という相聞歌。第三句の「藤衣」は、フジ蔓の繊維で作った着物である。
 万葉びとたちの着物は何の糸で織った布であったろうか。それはまゆの糸と、草木の繊維の二つに大別される。いわゆる木綿と呼ばれるワタはまだ渡来していず、「万葉集」に登場する綿は、まゆから採った真綿であった。絹や錦も、まゆの糸を織った高級な衣料。「万葉集」中130首の歌に詠まれている「荒栲」「白たへ」などの「たへ」は、コウゾの繊維を織った布といわれる。しかし、「荒栲の藤江の浦」(252)という歌句もあるので、「たへ」は、コウゾのみならずフジを含めた樹木の繊維の布をさす言葉であったろう。アサの繊維で織った着物は麻衣。麻衣や藤衣は糸が固く織り目も荒かったので、庶民の日常着や作業衣であった。機織りや着物を縫うのは、いうまでもなく女性の仕事であったが、フジ蔓の繊維をとる仕事もまた女性の手で行われた。早春の頃女たちは山に入りフジ蔓の皮をはぐ。持ち帰った皮を四、五日間水にひたす。柔らかくなった皮にカシの灰を加えて長い間煮詰める。煮た繊維を流れでさらし、糸にしたのである。この藤衣の技術は長く伝えられ、明治時代まで各地の山村で実用に供されていたという。
 万葉びとたちは、今日から見ればまことに粗末な衣服で暮らしていたが、その手作りの作業の中から、後世に残る歌を詠んだのである。  


      かにかくに人はいふとも織り継がむわが機物の白麻衣 作者不詳 (巻七、1302)


 世間の人が何と言ってもわたしは今の恋を続けようという女性の歌。いうまでもなく麻衣は相手に贈る着物。可憐な調べの歌である。


      君に恋ひわが泣く涙白栲の袖さへひちて為む為方もなし 作者不詳 (巻十二、2965
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あじさい (アジサイ) ユキノシタ科 2首
 花言葉”移り気”
  紫陽花の八重咲く如く弥つ代にをいませわが背子見つつ偲はむ
   あぢさいのやえさくごとくやつよにをいませわがせこみつつしのはむ
 橘諸兄 (巻二十、4472)
 橘諸兄は、はじめ葛城王といったが、のち橘の姓を得て臣籍に下った。天平十五年に左大臣。「万葉集」に八首の歌を残している。八首は、天皇の詔書に答える歌と、宴席の歌などである。いってみれば、政治家の社交の歌ということになる。しかし、歌の高い格調とそれぞれの場の感情が流露しているところを見ると、彼は人間味豊かな官人であったことが想像される。
 この歌は、天平勝宝七年五月十一日(陽暦六月二十八日)アジサイの咲く日、丹比国人の家で作った歌。「アジサイが幾重にも咲くように、いつまでも元気にいたまえよ。花を見ながら君をしのびましょう」という歌意。諸兄はこの歌を作ってからおよそ一年半後の天平勝宝九年一月に死去している。
 「万葉集」にアジサイの歌は二首。アジサイとは、集まる意の「あじ」に真(さ)と藍(あい)を続けた「あじさあい」がつづまったもの。青い小花の集まった花の意である。アジサイは色が変わるので、花言葉は「移り気」。別に七色の花とも呼ばれる。
 梅雨の雨が降り始める頃、奈良県大和郡山市矢田寺のアジサイが咲き始める。大和平野を見下ろす静かな寺も、アジサイの頃は全山見物客で埋まってしまう。
 吉野水分神社から宮滝の象谷さして下った日、滝のしぶきにぬれながら咲くヤマアジサイの花を見た。五メートルほどかなたの岩に垂れ咲いていた。先年、平石峠を越えて河内の高貴寺を訪ねた時、河内側の谷間に、一輪のヤマアジサイを見かけた。あの深い藍色の小花は、今年も谷水に影を映して咲いているであろうか。大和の山々でめぐり合った自生のヤマアジサイを思いながら、万葉に歌われたアジサイは今の花の大きいアジサイでなく、あのかれんなヤマアジサイやガクアジサイのたぐいではなかったろうか、と勝手な空想をめぐらせている。
 アジサイは素枯れた花もまた趣の深いものである。


 あぢさゐの素枯れし花が岡高き冬の光に残れるもよし  斉藤茂吉(歌集「白桃」)
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いはづな(テイカカズラ)キョウチクトウ科 8首
 花は風車のよう
 石綱のまた変若ちかへりあをによし奈良の都をまた見なむかも
   いはつなのまたをちかへりあをによしならのみやこをまたみなむかも
 作者不詳 (巻六、1050)
 天平十二年九月、藤原広嗣が遠い九州で反乱。十月あわてた聖武天皇は伊勢方面に行幸し、その後五年、都は恭仁京に移った。大宮人のいなくなった平城京はまたたく間に荒れ、それを悲しむ歌声が「万葉集」に記載されている。この歌はその中の一首。「石綱のごとくまた若返って、平城京のふたたび栄えるさまをまた見ることであろうかなあ」と、荒れ行く都に寄せる悲しみの歌声である。またこの一首に続いて

        世間を常無きものと今そ知る平城の都師の移ろふ見れば  作者不詳 (巻六、1049)


と、都の様にこの世の無常を感じる歌もある。
 初めの歌の初句、石綱は、石の上を這うツタの意味のイワツタの語が訛ってイワツナとなった。他の歌に見えるツタも同じ植物。また枕詞「つのさはふ」も、このツタがさわに這っているさまを表現した語である。いずれも同じ植物で今のテイカカズラ。テイカカズラの名は、このツタが「新古今和歌集」の撰者藤原定家を慕って、その墓にからみついたという故事によって命名された。
 奈良県宇陀郡室生村大野にある大野寺は、川向こうの岩にまつられた弥勒菩薩の尊像で寺の名を高くしている。尊像の右肩の岩一面を覆って、テイカカズラが六月初めから花盛りとなる。私の知る大和路のテイカカズラのうちで、もっとも高貴、豪快な花のさまである。室生川の浅いところを渡って尊像の下に立つと、あたりに甘酸っぱい花のにおいが立ち込めている。白い花の美しさ、香しさもさることながら、弥勒仏を仰いでいると、やさしい視線がこちらに注がれ、改めて典雅な尊像の美しさに心ひかれるのである。
 テイカカズラは常緑のつる性の木、葉は対生してかたく、長楕円形である。古い葉は深い緑色をしている。花は、直径1センチほどの五弁の花。白く開いた五枚の花びらは子供のおもちゃの風車さながら。六月、梅雨の晴れ間のそよ風が吹くと、テイカカズラの風車は、今にも廻り始めようとする風情である。 


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