書庫20

 

 



 
「ときはきにけり」...あきかぜになびかふ...  
 
  『水陰草の秋風に靡かふる』


 【歌意2017】
天の川の水辺の草が
秋風に靡いているのを見ると
ようやく逢う時が来たのだなあ、と思う
そして「水陰草」もまた、「秋の風」うながされて...
 
 
天の川、という天空の想像の「川」であっても
その渡河をめぐっては、舟を漕いだり
天の川に浮ぶ舟を見遣ったり

雨が降れば、その影響で渡河も困難になりやしないか、と気を揉んだり...

そして、その天の川のほとりに生える「水草」
天空の「天の川」にあって、「水陰草」とは、奇妙な草だ
七夕にまつわる天の川は、歌を詠む者にとっては
自分の想いを相手に伝える、またとない機会なのかもしれない
敢えて言えば、現代的な「バレンタイン・ディ」のような...

年に一度の逢瀬、とは、確かに浪漫を感じずにはいられない
そこに、万葉集にこれほど多くの「七夕歌」が載るのは
その伝説が、哀愁に満ちているからだけではなく
その詠歌に託した人たちの、それぞれの想いの投影

この歌の場合、「七夕」をそうやって利用したのは
文字で表現されている「天の川」ではなく
「ときはきにけり」の「とき」のはずだ

この「とき」こそが「七夕伝説」を最大限に盛り込んだ表現だと思う

誰もが知っている「七夕伝説」だからこそ、
この「とき」がとてつもなく貴重で、大切な「とき」だと十分にその意が伝わる

そう言えば、「能」の雑誌か何かで読んだ記憶があるが
能楽のように、伝奇めいた物語を扱うのは
決して全くのオリジナルではなく
そもそも、誰もが知っている伝説や事件が基本らしい
世阿弥は、そうやって能楽を大成させた
何故なら、知れ渡っている物語であるからこそ
あの難解な舞や謡曲でも、鑑賞者は「理解」出来るのだろう、と思う

これは、あの事件か、あの伝説を扱ったのだな、と鑑賞者に思わせることが
その舞台に心を引き寄せることになっている

その手法で言えば、七夕伝説を誰もが知っているからこそ
この掲題歌のように「ときはきにけり」という想いを発することが出来る
そこに、「その『時』って、何だい?」などと、野暮なことは聞くこともない

ただ、この歌で一つ気になる語句がある
それは、何故「水陰草」なのか、ということだ
「天の川」と「水陰草」は、歌において共存できるのだろうか

多くの注釈書が、この「水陰草」の訓にその字数を割いているが
私は、「訓」よりも、何故「水陰草」なのか、その方が気になって仕方ない

天の川の「河原」はよく出てくるし、イメージも悪くない
しかし、「水陰草」と詠まれ、その映像が浮んだ時
もうすでに「天の川」の舞台は消えてしまう...少なくとも、私はそうだった
そして「ときはきにけり」で、再び「あっ、一年振りに逢う」のだなあ、と...

それだと、「水陰草」は、意図的にそうさせているのではないかと思えてしまう
水辺に生える草、陰のように目立たず、そこに生息する「草」
そこまで視覚を求めると、「一年間ずっと耐え忍んで待っていた」象徴になる

その水陰草が、秋風に靡いている
「けり」には、今まで気づかなかった事実に、気がついたときに使う助動詞だ
作者は、一年振りの逢瀬に胸をときめかせるのではなく
水陰草が、一年もの間、ずっと待っていたその気持ちに感銘したのかもしれない

そうであれば、その結句は「水陰草こそ、ときはきにけり」と
秋風にうながされ自己主張のように「ざざめく」水陰草に、歌心の焦点が向けられる

この歌、勿論作者の一年振りの逢瀬への期待と悦びの歌なのだろうが
もう一つ、作者が感じた自分よりもっと悦んでいる「水陰草」をも詠っている
だから、初めに「天の川と水陰草」は似合わない、と思ったのは
まさに、自ら意思の表現が出来る「人」と
ただただ風任せに「ときのくるのをしる」ことになり「ざざめく」水辺の草
その草に、自分とは違った「とき」の迎え方を知らされて感嘆した歌なのかもしれない時
 
 
 
掲載日:2014.07.09   [「一日一首」2014年5月16日付けの解釈]


 
 秋雑歌 七夕
   天漢 水陰草 金風 靡見者 時来之
    天の川水蔭草の秋風に靡かふ見れば時は来にけり
   あまのがは みづかげくさの あきかぜに なびかふみれば ときはきにけり
 巻第十 2017 秋雑歌 七夕 柿本人麻呂歌集出


[収載歌集]
【柿本人麻呂歌集】〔123〕
【赤人集】〔161・174・282〕
【続古今和歌集】〔307/309〕

[歌学書例歌]
【袖中抄】〔737〕

[資料]
掲題歌資料〔校本万葉集及び近代までの注釈書〕
七夕】〔中華民国[国立成功大学、成大宗教與文化学報 第七期 論文]〕
織女と牽牛】〔講談社学術文庫「星の神話・伝説」野尻抱影
【万葉の時代】〔七夕歌と七夕詩の関係は



 【2017】 語義 意味・活用・接続
 あまのがは [天漢]   
 みづかげくさの [水陰草] 
  みづかげくさ [水蔭草]  水辺に生えている草
  の [格助詞]  [主語] ~が  体言につく
 あきかぜに [金風] 「金」は五行説で「秋」をさす  
 なびかふみれば [靡見者] 
  なびか [靡く]  [自カ四・未然形] 横に倒れ伏したように揺れる・煙等が横に流れる
  ふ [助動詞・ふ] 上代語  [継続・終止形] ~しつづける  未然形につく
  ば [接続助詞]  [順接の確定条件] ~すると  已然形につく
 ときはきにけり [時来之]
  き [来(く)]  [自カ変・連用形] 来る・行く・通う
  に [助動詞・ぬ]  [完了・連用形] ~た・~てしまう・~てしまった  連用形につく
  けり [助動詞・けり]  [過去・終止形] ~たのだ・~たなあ  連用形につく

「古語辞典」は掲載歌を基本に、と思っているが、なかなか実行できず未完、継続中
「枕詞一覧」もやっと載せることができた
ただし、「かかり方の理由」は「古語辞典」からのみなので、
今後は「詳説」に触れ次第補充してゆく
その点でも不充分であるし、載せた語数においても、284語と、およそ言われている半分程度だ
しかし、一応その都度古語辞典を引っ張り出さない程度の気安さにはなる
   
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注記 
[みづかげくさ]
「水蔭草」の解釈には、古来より」幾つかあって
その初めは、仙覚の「稲の名」という
そして、契沖になると、その『代匠記』で、仙覚抄の説を否定し、
「ただ水陰に生える草なり」とする
『童蒙抄』は、もっと厳しい
「何として稲を水かげ草と云ふぞ、其訳不詳ば先づは水草の義と見るべし」

しかし、こうした文言だけを引用していると
漢字の字面にかなり影響されてしまうが、
「水の陰に生える草」とは、いったいどんな草をイメージできるのだろう
通釈のように「水辺に生える草」では、何となく物足りない
ただ、真淵の『万葉考』は、その素朴な疑問を少しは解いてくれる

「今本水陰草とよみたれど唐にても隈の意に陰を用ふ此朝庭にもくまといふに隈の字を充たりこをもて見れば水陰をみづくまと訓て水ぎはの草なるをしるさて此比もはら唐意をこのめばかくことわりこめて字をあてしをおもへ」

なるほど、唐では「陰」の字に「隈」の字を当てることもある、とのこと
ただ、訓釈においても、真淵は「みづくま」とするが
「陰」を「隈」の意に当てる、というのなら「かげ」のままで訓み、
ただし、その意は「隈」であって、「水ぎは」の草、とした方が、私は理解出来る
とすれば「みづかげくさ」と言うのは、「水辺に生える草」と、しっくり解釈できる

まだ「陰」を「隠」の誤字だとし、雅澄などは「みこもりくさ」とするが
その訓を採りながら、井上通泰『新考』は、水中の草という
それこそ、第三、四句で、「あきかぜに なびかふみれば」とあるのを
その意味が続かなく...水中の草は、風に靡くことはなく
「川瀬に揺らぐ」と言うのだろう
 
[なびかふみれば]
旧訓「なびくをみれば」
現在では、雅澄の『古義』で述べられた解釈がそのまま通っているが
それでも、旧訓もまた、捨て難いものがある
何故なら、その原文「靡見者」の「靡」は、自動詞四段「靡く」で
旧訓では、そのまま連体形「靡く」が格助詞「を」に接続する
原文の表記からでは、それがごく自然な訓釈になると思う
しかし、雅澄以来の通訓「なびかふみれば」となると、
四段「なびく」の未然形「なびか」に継続の意の助動詞「ふ」がつくと解釈している
そこに、余分な「付け足し」が起るのは、私は好きではない

そして、『注釈』で述べられていることにも、少なからず疑問がある
旧訓「なびくをみれば」と『古義』による改訓「なびかふみれば」を
用例を引用して、「改訓」の方を、自身の「解釈」に採り入れているが、
その用例を見て、乏しい私の知識であっても、納得するには不充分だと思った
〔旧番843〕阿蘓夫遠美礼婆[アソブヲミレバ]が、旧訓の例であり、
〔82〕流相見者[ナガラフミレバ]が、改訓の例にあたる、という
そして、結論を導くのは、どちらも使い得るが、前者は用例が少なく
後者は用例が多いので、改訓「なびかふみれば」にすべきだ、としている

しかし、前者の用例は万葉仮名なので、その訓に異同はないはずだ
問題は、「流相見者」の「相」が、何一つ説明されていない
掲題歌の「靡見者」と同じとするならば、「流見者」でなければならず
当然、その表記の歌を用例として使わなければ、と思う
私は、「相」を挿入する事で「ながる、あひみれば」が語意になると思う
掲題歌の「靡見者」を「なびかふみれば」と訓むなら、
「なびく、あひみれば」で語意が歌意に沿うかどうか、を確かめなければならないはずだ
「あひみれば」の「あひ(相)」は、接頭語で動詞について
「一緒に・二人で」「互いに」「語調を整え、重みを加える」という意味になる
これでは、とても歌意に沿うことは出来ず
となれば、「なびく、あひみれば」は成り立たず
「靡見者」は、「なびくをみれば」ではないかな、と思う
もっとも、『注釈』で用いた「例」が、適切ではなく
それ以外の、もっと大きな要因があるのかもしれないが...
 
[ときはきにけり]
まず原文の「時来之」は、諸本の段階で「時来々」との異同があるが
『元暦校本・類聚古集・紀州本』は「来々」であり、
『西本願寺本』以降「来之」に定着しているらしいが、
それは「々」が「之」に誤ったものとして定着したのだという
この表記で、訓は「きぬらし」「きたるらし」「きにけり」と訓まれたが
現在では、 『新訓万葉集』〔岩波文庫、佐佐木信綱、1927年刊行〕が、
「きにけり」としたのを、今は多くが従っている

なお、「とき」とは「七夕」に即して解釈するのなら
年に一度の「逢瀬の日」、ということになる

 
 掲題歌[2017]についての資料  関連歌集については、[諸本・諸注 その他の歌集]

収載歌集及び歌学書】
 
 歌集、歌学書  
 柿本人麿集 私家集大成巻一- 4 人麿Ⅲ [冷泉家時雨亭叢書『素寂本私家集西山本私家集』]  アマノカハミツカケクサノアキカセニ ナヒクヲミレハトキハキヌラシ
 柿本人麿集上 秋部 七夕 万十 123
 赤人集 ([三十六人集]撰、藤原公任[966~1041]) 私家集大成巻一-新編増補 赤人集Ⅲ [陽明文庫蔵三十六人集]    あまの河水くもりくる明(ママ)風に なひくをみれは秋はきにけり
 あきのさう 174
 同 私家集大成巻一-6 赤人集Ⅱ [書陵部蔵三十六人集]   あまのかはみつかけくさのふくかせに なひくとみれはあきは来にけり
 秋雑歌 (続古今)161
 同 私家集大成巻一-5 赤人集Ⅰ あかひと[西本願寺蔵三十六人集]   あまのかはみつくもりくさふくかせに なひくとみれは秋はきにけり
 あきのさふのうた 282
 同 新編国歌大観第三巻-2 赤人集 [西本願寺蔵三十六人集]   あまのがはみづくもりぐさふくかぜになびくとみれば秋はきにけり
 あきのざふのうた 282
 古今和歌六帖 ([永延元年(987年)頃]撰、兼明親王・源順か) 新編国歌大観第二巻-4 [宮内庁書陵部蔵五一〇・三四]   あまの河水かげ草の秋風になびくを見ればときはきぬらし
 第一 たなばた 134 人丸
 続古今和歌集 ([文永二年(1265年)12月26日完成し奏覧、同三年3月12日竟宴]撰、藤原為家[1198~1275]他) 
 新編国歌大観第一巻-11 続古今和歌集 [尊経閣文庫蔵本] 
 あまのがはみづかげぐさのあきかぜになびくをみればときはきにけり
 第四 秋歌上 307(/309) 山辺赤人
 歌学書袖中抄 (文治二、三年頃[1186,1187]作、顕昭[1130~1209])
  新編国歌大観第五巻-299 袖中抄 [日本歌学大系別巻二]
 天の川水陰草の秋風になびくをみれば時はきぬらし
 袖中抄第十六 737
 歌学書袖中抄
 
鎌倉初期の和歌注釈書。《顕秘抄》と題する3巻本もあるが、一般にはそれを増補したとみられる20巻本をさす。1186‐87年(文治2‐3)ころ顕昭によって著され仁和寺守覚法親王に奉られた
《万葉集》以降《堀河百首》にいたる時期の和歌から約300の難解な語句を選び、百数十に及ぶ和・漢・仏書を駆使して綿密に考証。顕昭の学風を最もよく伝え、
《奥儀(おうぎ)抄》《袋草紙》とならぶ六条家歌学の代表的著作

以下文化庁データベースより

 
『袖中抄』は、鎌倉時代初期に顕昭が著した歌学書で、『万葉集』以下の歌集等から難解な歌詞等約三〇〇について、諸書を引用しつつ自説を注したものである。引用する書目は百数十種に及び、なかには逸書となったものもある。六条家の歌学を発展させた顕昭の歌学の集大成であり、後代の歌人にも広く利用された。
 この国立歴史民俗博物館所蔵本は、高松宮家旧蔵本で、鎌倉時代写本を中心に一部室町、鎌倉時代の補写本を交え、二十巻を完存している。鎌倉時代写本は、巻第四、五、七、および第十一から二十に至る十三巻で、いずれも文書を翻して料紙とした巻子本である。各巻とも巻首に「袖中抄第『幾』」と内題を掲げ、天に三条、地に一条の墨界線を施して、その界線によって、注を加える語句、その所収歌、顕昭の自説、諸書からの引用を書き分けている。文中には随所に朱声点が加えられるほか、墨傍訓、送仮名、朱墨の校異、訂正などがみえている。各巻の巻首数行は、それぞれ以下の本文とは別筆で、定為(二条為氏の子)の筆と推定されている。このうち巻第四、十一、十二、十八、二十の五巻には巻末に正安二年(一三〇〇)祐尊の書写奥書があり、その書写年時、筆者を明らかにしているが、他の八巻はそれぞれ別筆である。紙背の文書は、多くは書状類で、なかには嘉元元年(一三〇三)の「定為法印申文」の草案とみられる断簡など定為の書状の草案があるほか、定為に充てたと考えられる書状もあり、本巻が定為あるいは二条家の周辺で書写されたことを示しており、またこれら文書は当時の歌壇の動向の一端を示す史料としても注目される。
 補写本のうち、室町時代写本は、巻第一、二、六、八、九、十の六巻で、このうち巻第六には正安二年祐尊書写の本奥書があり、定為本の転写本であることを示している。江戸時代の補写は巻第三の一巻で、他に巻第五、七、十一、十五、十六、十九の一部および巻第二十の前半を補っている。これら補写本の体裁は定為本の体裁にならっている。
 『袖中抄』のまとまった伝本としては、室町時代書写の一条兼冬本、山科言継本などが知られるが、その中で本巻は補写を交えるが完存本として最古本であり、和歌文学史研究上に貴重である。
 
【『校本万葉集』〔佐佐木信綱他、大正12年成〕の面白さ】[2014年3月8日記]

先日手にした『校本万葉集』、復刻版なので、なかなか読み辛いところもあるが、その内容は、確かに面白い
「注釈書」のような、歌の解説ではなく、その歌の本来の表記の姿を出来るだけ復元しようとする書では、もっとも新しいものだと思う
とはいえ、それでもまだ昭和になる前の書だから、古さはあるのだろうが、かと言って、それ以降の書が、注釈に重きを置いているばかりで
こうした「諸本」の校合を広く行い、それが中世の頃の「校本」に次ぐ形で刊行されたのは、素人の私でも嬉しいものだ
底本は、広く用いられている西本願寺本』ではなく、『寛永版本としている

[諸本・諸注については、「諸本・諸注、その他の歌集」]
 

 [本文]「天漢水陰草金風靡見者時來之」 「アマノカハノ ミツカケクサノ アキカセニ ナヒクヲミレハ トキハキヌラシ」(「【】」は編集)
       頭注  袖中抄、第十六「アマノカハ水陰草ノアキカセニナヒクヲミレハトキハキヌラシ」
赤人集「あまのかはみつくもりくさふくかせになひくとみれは秋はきにけり」
 〔本文〕
  「陰」 『大矢本・京都大学本』「隠」
  「之」 『元暦校本・類聚古集・神田本』「く」【繰返し文字だと思う】
 〔訓〕
  ミツカケクサノ 『元暦校本』訓ノ右ニ赭「ミカケクサノ」アリ
『類聚古集』「みかけくさの」。「み」ノ下ニ墨「
」符アリ
  ナヒクヲミレハ 『細井本』「タナヒクヲミレハ」
 〔諸説〕
○[ミカケクサノ]『万葉集古義』「ミコモリクサノ」 
○[ナヒクヲミレハ]『万葉集古義』「ナビカフミレバ」
○[時来之トキハキヌラシ]『万葉考』「来」ノ下「良」脱ニテ訓「トキキタルラシ」トス。『補』「良」脱トスルヲ否トス。


近代までの注釈書の掲題歌】

中世、近世、近代の注釈書 (私の範囲で確認できたもの・文中歌番はそのままの旧国歌大観)    
  [2017] 
  『万葉拾穂抄』〔北村季吟、貞享・元禄年間(1684~1704)成〕 
 〔あまのかは水蔭くさのあきかせになひくを見れはときはきぬらし〕
 天漢水陰草金風靡見者時來之

   あまのかは水蔭草 仙曰水陰草は稲也水に生る草なれは也さて水陰草といはん諷詞に天の川とをけり稲葉の秋風になひき背ける折なれは牛女の逢へき時は來ぬらしと也畧注師説には河邊に草の影水にうつる故水影草といふ天河も河といふに付て千鳥なともよめは水かけ草をもよむへし尋常の河に比して云也云々可用之也
  万葉代匠記(精撰本)』〔契沖、元禄三年(1690)成〕[萬葉集代匠記惣釋 僧契冲撰 木村正辭校] 
 〔アマノカハミツカケクサノアキカセニナヒクヲミレハトキハキヌラシ〕  
 
天漢水陰草金風靡見者時來之
   仙覺抄云、水陰草とは稻の名なりと云へり、今按此説用べからず、唯水陰に生る草なり、第十二に山河水陰生山草とよめるを思ふべし、磐影爾生流菅根とも陰草夕陰草などもよめり、
  『万葉集童蒙抄』〔荷田春満、信名、享保年間(1716~35)成〕 
 〔あまのかは、みづかげぐさの、あきかぜに、なびくを見れば、ときはきぬらし〕 
 天漢水陰草金風靡見者時來之

   水陰草 水に陰をうつして生る水邊の草を云との説有。又稻のことを云ふ共云へり。歌の意は、秋風に靡くをとよめる意、穗たりてしなひなびく躰を云へる義とも聞ゆれ共、正説不決。何として稻を水かげ草と云ふぞ。其譯不詳ば先づは水草の義と見るべし
時來之 七夕の天の川に出て逢ふ時は來ぬらしと也
  『万葉考』〔賀茂真淵、宝暦十年(1760)成〕 
 天漢、水陰草[ミヅクマグサノ]、 今本水陰草とよみたれど唐にても隈の意に陰を用ふ此朝庭にもくまといふに隈の字を充たりこをもて見れば水陰をみづくまと訓て水ぎはの草なるをしるさて此比もはら唐意をこのめばかくことわりこめて字をあてしをおもへ
金風(ニ)、 此秋風をかく書るをもても上にいふことわりをしれ
靡見者[ナビクヲミレバ]、時來良之、」 今本/時來之[トキハキヌラシ]と訓れど來の一字さまで添へ訓べきにあらず良の脱し事しるかれば補ふ
   さて此歌も 星になりてよめるなり天漢に草あるべくもなしそは人の常にてよめり後世天の川てふ所あるなどよりあやまる事なかれそは後に作り出で付たる名にて古意にあらず
  『万葉集略解』〔橘千蔭、寛政十二年(1800)成〕[日本古典全集刊行会、1926年、与謝野寛他]
 〔あまのがは。みづかげぐさの。あきかぜに。なびくをみれば。とききたるらし。〕
 天漢。水陰草。金風。靡見者。時來之
   卷十三山河(ノ)水陰(ニ)生山菅[オフルヤマスゲノ]云々、此陰を一本に隱とす。是れに據るに、今も陰は隱の字か、然ればミコモリと訓みて、祝詞に水分をミクマリとも、ミコモリとも訓む如く、みなまたに生ひたる草を言ふなり。是れを水カゲ草と言ひて、水草に言へるはひがごとなり。ここに秋風に靡くと言ひ、右卷十二、山草と有るは、必ず山スゲと訓むべければ、水邊の山野に有る草なりと翁言はれき。されど此卷末に陰草と詠めるは山の陰草なり。然れば、水に生る草を水陰草と言ふなり、と契沖が言へるに據るべし。來の下良の字を脱せるか、心は唯だ秋風に天の川べの草の靡くを見て、二星相逢ふ時來たるらんと言へるのみなり。
 
參考 ○水陰草(考)ミヅクマグサノ(古)ミコモリグサノ「陰」を「隱」とす(新)ミヅカゲグサノ ○靡見者(考、新)ナビクヲミレバ(古)ナビカフミレバ ○時來之(考)トキハキヌラシ「時」の下「良」を補ふ(古、新)略に同じ。
  『万葉集古義』〔鹿持雅澄、天保十三年(1842)成〕 
 〔アマノガハ ミコモリクサノ アキカゼニ ナビカフミレバ トキキタルラシ〕
 
天漢水陰草金風靡見者時來之

   水陰草は、岡部氏云、十二に、山河[ヤマガハ]の水陰に生山草[オフルヤマスゲノ]云々、と云を、一本に水隱とあり、しかればここも、陰は隱とありしなるべし、陰にても意は同じかるべし、然ればミコモリクサと訓べし、さて十二に、山草といひしかば、水中のことならで、水分をミクマリと云如く、水派[ミナマタ]などの地の草を云べし、故(レ)秋風になびくといへり、○靡見者は、ナビカフミレバと訓べし、○時來之は、岡部氏云、來の下に、良(ノ)字脱たり、トキキタルラシと訓べし、○歌(ノ)意は、天(ノ)河の水派[ミナマタ]に生たる草の、秋風に吹れて靡くさまを見れば、彦星の相見に來座む時來るならし、となり、  
  『万葉集新考』〔井上通泰、大正4~昭和2年成〕 
 〔あまのかは水陰草[ミゴモリグサ]のあき風に靡見者[ナビクヲミレバ]時きたるらし]
 天漢水陰草金風靡見者時來之
   水陰草を舊訓にミヅカゲグサとよめるを眞淵は陰を隱の誤としてミゴモリグサとよみ、さて祝詞に水分をミクマリともミコモリとも訓如くみなまたに生たる草をいふ也
といひ雅澄は之に從へり。隱とある本あればそれに從ひてミゴモリグサとよむべし。但ミゴモリグサは水中に生ひたる草とすべし。祝詞の水分は配水[ミクバ リ]にて水派[ミナマタ]の意にあらず○第四句を古義にナビカフミレバとよめり。舊訓の如くナビクヲミレバとよみて可なり○こは織女になりてよめるなり。されば時の上に彦星ノ來タマハムといふことを添へて心得べし
  『口訳万葉集』〔折口信夫、1916~17年成〕 
 〔天の川。水陰草[ミヅカグクサ]の、秋風に靡くを見れば、時來たるらし〕
   天の川の水の中に生えてゐる草が、秋風の爲に、片寄つて靡いてゐるのを見ると、逢ふ時がやつて來たやうだ。
  万葉集全釈』〔鴻巣盛広、昭和5~10年成〕 
 〔天の川 水かげ草の 秋風に 靡かふ見れば 時は來にけり〕
 アマノガハ ミヅカゲグサノ アキカゼニ ナビカフミレバ トキハキニケリ
 天漢水陰草金風靡見者時來之
   天ノ川ノ水ノホトリノ蔭ニ生エテヰル草ガ、秋風ニ靡クノヲ見ルト、彦星ガ尋ネテ來ル時ガ來タラシイ。
○水陰草[ミヅカゲグサ]――眞淵はミコモリグサとよんで、「祝詞にミクマリともミコモリとも訓如く、みなまたに生たる草をいふ也」といひ、古義はこれに從つてゐる。新考はこの訓に從つて、解は「水中に生ひたる草」としてゐる。この陰の字は、大矢本・京大本は隱に作つてゐる。水隱は水隱爾[ミコモリニ](一三八四・二七〇七)・水隱[ミコモリニ](二七〇三)などの用例があつて、水中に隱れて見えぬことである。ここをミコモリグサと讀み得ぬことはあるまいが、水中に隱れた草としては下に秋風に靡くとあるのに相應しない。水中に生ひたる草とするのは、コモルの意に合致しない。陰草[カゲグサ]は下にも影草乃生有屋外之暮陰爾[カゲグサノオヒタルヤドノユフカゲニ](二一五九)とあり、物陰に生ひたる草をいふらしい。で、ここはミヅカゲグサとよんで、水邊の物蔭に生ずる草とするのが穩やかではあるまいか。卷十二の山河水陰生山草[ヤマカハノミヅカゲニオフルヤマスゲノ](二八六二)の水陰も水邊の物蔭と解すべきであらう。
○靡見者[ナビカフミレバ]――舊訓ナビクヲミレバとあるのでもわるくはない。
○時來之[トキハキニケリ]――之の字は元磨校本・類聚古集・神田本など々になつてゐるといふので、新訓は、舊訓トキハキヌラシ、考に良を補つてトキキタルラシとよんだのを退けて、トキハキニケリとしてゐる。これに從ふことにした。
〔評〕 七夕近い初秋の天の川邊の風景が、爽やかによまれてゐる。彦星を待つ織女の嬉しい心が、あらはれてゐるものと見るべきあらう。
 『万葉集全註釈』〔武田祐吉、昭和23年~25年成〕  
 〔天の河 水陰草の、秋風に 靡かふ見れば、時は來にけり。〕
 
アマノガハ ミヅカゲグサノ アキカゼニ ナビカフミレバ トキハキニケリ
 
天漢水陰草金風靡見者時來々
  【譯】天の川の水の陰に生えている草が、秋風に吹かれて靡くのを見ると、時節は來たことだ。
【釋】水陰草 ミヅカゲグサノ。ミヅカゲグサは、水邊に生えている草。ミヅカゲは「山川[ヤマガハノ] 水陰生[ミヅカゲニオフル] 山草[ヤマクサノ]」(卷十二、二八六二)と使われており、水のほとりをいうと思われる。そこに生えている草。
 金風 アキカゼニ。金を秋に當てているのは、五行の説による。
 時來々 トキハキニケリ。トキは、逢うべき時節。七月七日をいうので、秋風ニ靡カフと云つている。
【評語】天の川の風光を見て、秋の來たことを知る意である。風趣のある歌いぶりである。
 『評釈万葉集〔佐佐木信綱、昭和23~29年成〕 
 〔天漢水陰草の秋風に靡かふ見れば時は來にけり〕
  アマノガハ ミヅカゲグサノ アキカゼニ ナビカフミレバ トキハキニケリ
  【譯】天の河の水のほとりに生えてゐる草が、秋風にそよそよと靡いてゐるのを見ると、なつかしい吾が夫、彦星のお出になる時が来たのである。嬉しいことである。
【評】前出「2007」の「水無川(みなしがは)」以外は、七夕の歌では皆天河に水のあることを叙べてゐるが、この歌は全く地上の河の眺をそのまま天界に移した感があつて、七夕に近い初秋の頃の川辺の風趣が爽かに浮んでくる。内容も純粋で声調も頗る流麗である。
【語】○水陰草 新解には水に影のうつる草、即ち岸辺の草といひ、全釈は水辺の物かげに生ずる草としてゐる。万葉考や古義はミゴモリグサと訓んでゐるが、それでは水中に没してゐる水草になつて、秋風に靡くといふに相応しない。
   ○靡かふ見れば 靡いてゐるのを見れば。
   ○時は来にけり 彦星に会ふ時が来たの意。
【訓】○水陰草 大矢本・京都大学本に「陰」を「隠」に作り、古義はこれに従つているが、一首の意からも、多数古写本に照して見ても採り難い。
   ○時は来にけり 白文「時来々」通行本は「時来之」とある。今、元暦校本・類聚古集・紀州本等による。旧訓は「時来之」により、「トキハキヌラシ」とあるが、今、元暦校本等の本文に従ひ、新訓を施す。
 万葉集私注〔土屋文明、昭和24~31年成〕 
 〔天の川水陰草の秋風に靡かふ見れば時は來にけり〕
 アマノガハ ミヅカゲグサノ アキカゼニ ナビカフミレバ トキハキニケリ
 天漢水陰草金風靡見者時來々
  【大意】天の川の水陰草の、秋風になびくのを見れば、吾等会ふべき時は来た。
【作意】牽牛の立場としても、織女の立場としても通ずる。ミヅカゲグサは水辺の草の意であらう。
  『万葉集注釈』〔澤潟久孝、昭和32~37年成〕 
 〔天の河 水かげ草の 秋風に 靡かふ見れば 時は來にけり〕
 
アマノガハ ミヅカゲグサノ アキカゼニ ナビカフミレバ トキハキニケリ
 
天漢水陰草金風靡見者時來々(『元暦校本』)
  【口訳】天の河の水辺に生えてゐる草が、秋風にしきりに靡くのを見ると、自分たちの逢ふべき時は来たことだ。
【訓釈】水かげ草―「山河水陰生山草[ヤマカハノ ミヅカゲニオフル ヤマスゲノ]」(12・2862)ともあつて、水辺に生えてゐる草。
    
秋風に靡かふ見れば―「金」は秋にあたる(1・7)。旧訓ナビクヲミレバを古義にナビカフヲミレバとした。「諸人の阿蘓夫遠美礼婆[アソブヲミレバ]」(5・843)の如きは前者の例であり、「天のしぐれの流相見者[ナガラフミレバ]」(1・82)の如きは後者の例であり、両例ともあるが、前者の例は少なく後者の例が多いので、今でも古義の改訓によるべきであらう。
    時は来にけり―「来々」は、『元暦校本・類聚古集・紀州本』による。『西本願寺本』以後は「来之」とあり、訓は『元』以下すべてキヌラシとある。「々」と「之」と字形の類似とキヌラシの古訓とによつて、「々」が「之」に誤つたものと思はれる。「来々」が「来之」と誤つた例は前(3・269)にもあつた。「時」は二星が逢ふ時である。

【考】この作は彦星の心とも見られるが、織女の心と見るべきであらう。
 古今六帖(一「七日の夜」)に「時は来ぬらし」人麿とあり、赤人集には「みつくもりくゝさ吹く風になひくとみれば秋はきにきり」、流布本「水かけ草」とあり、続古今集(四)には「時は来にけり」山辺赤人とある。
 


 



 
「いまだにも」...にほひにゆかな...  
 
  『をちかたひとに』


 【歌意2018】
私が待っていた秋萩が、ようやく咲いた
せめて今だけでも、いや今このときしかないのだから、なおさら
紅葉のように、またその中で、美しく映えるあなたに、
逢いに行こう...遠く離れているあなたのもとへ...
 
 
「七夕歌」と前提を置けば、「彼方人」は当然天の川の向こうにいる人
だから、秋になって、やっと年に一度の逢瀬の日を迎えた悦びがある
確かに、部立てに「七夕」とあるので
万葉集の編者の意図は、この歌の歌意をその「年に一度の約束の日」にしたかったようだ

しかし、「七月七日」と限定されて詠われたものだとは言えないこの歌
たんに、「秋萩」が咲いて、秋になった、と感覚的に詠っている

「七夕歌」だから、「彼方人」は、天の川の向こう岸にいる織姫であり
彦星は、待ち望んでいた逢瀬に飛んで行かんばかりの悦びよう...
「にほふ」が、ただ「逢いに行く」だけではなく、
それこそ、恋人を抱きしめたい、と強い想いを感じさせる
確かに、「年に一度の逢瀬」なら、その気持ちは十分解る

それでも、私には
この歌が、「秋の色や香り」を描写している方に比重があると思える
現実的には、遠く離れている恋人同士だが
秋の落ち着いた季節感の中で、再会を悦び合う
「七夕歌」によくある、「年に一度」という心情の描写だけではなく
実際の秋の景観を、美しく添えるのは、私には「七夕歌」らしくないと思う
そこに「にほひにゆかな」と言い、
秋の紅葉に佇み待っている恋人を、どれほど愛おしく想っているか
この句だけでも私は感じた
そして「わがまちし」という初句の想いは、それを言うのではないかと思う

この歌で、離れ離れ、しかも秋に逢う、という背景から
難なく「七夕歌」にされた訳でもなく
「柿本人麻呂歌集」でも、確かに「七夕」となっており、
編者がその「歌集」を無条件で扱うのなら、決して的外れではない
しかし、その「柿本人麻呂歌集」の性格上
人麻呂本人ではなく、採録された「歌」であれば
同じように判断して「七夕」の歌として扱ったかもしれない
現存する「諸書」においては、私が感じるままに受け止めても
それも間違いではないと思う

そう思わせるもう一首の万葉歌がある
その歌は、この掲題歌〔2018〕とペアではないか、と思わせるほどの密接さを持つ


 
 秋雑歌 詠花
   吾待之 秋者来奴 雖然 芽子之花曽毛 未開家類
    我が待ちし秋は来たりぬしかれども萩の花ぞもいまだ咲かずける
   わがまちし あきはきたりぬ しかれども はぎのはなぞも いまださかずける
 巻第十 2127 秋雑歌 詠花 作者不詳
[語義]
「しかれども」は、ラ変動詞「然(しか)り」の已然形「しかれ」に
接続助詞「ども」がついて、「そうではあるが、しかしながら」
「ぞも」は、係助詞「ぞ」と「も」で強調
結句の「ける」が連体形の結びになる
 
[歌意解釈]
私の待っていた秋はやってきた
それなのに、一番待っていた萩の花は、
まだ咲かないなあ
 

この歌、掲題歌の時系列を描きそうな歌だ
秋になったのに、萩の花は未だに咲かずにいる
この歌の直後に、掲題歌のように、待ち望んだ「秋萩」が咲いた、となっても不自然ではない
しかし、この二首の扱いは大きく違う
掲題歌は、「秋萩」の咲くのを合図に、のごとくだが
〔2127〕歌は、その部立て「詠花」そのままに「未だ咲かない萩の花」を詠う
あくまで、待ち焦がれているのは、秋の花「萩」の咲く景観であるかのように...

仮に、この歌が「七夕歌」の部立てで配されていたら
きっとその歌意は、彦星と織姫が逢瀬をする季節になっているはずなのに...
とでもなってしまいそうだ

この〔2127〕歌を、私は掲題歌と無関係には扱えない
そこから改めて、掲題歌を解釈するのなら

 【歌意2018】改
私が待っていた秋萩が、ようやく咲いた
その秋萩の咲き乱れる野辺で、あなたに逢いたいものだ
今このときこそ、秋萩に美しく彩られたあなたを
私のところへ連れてきて、そこに立たせたい
この美しく秋萩の映える野辺に...

こう解釈してしまえば、まさに〔2127〕と掲題歌〔2018〕は同想の歌になる
描写は違っても、その心にあるものは同じだ

片や「七夕歌」、片や「詠花」...しかし、私には「七夕歌」よりも
この秋という季節の美しさの中で、それを待ち望み
さらに、秋を代表する花を「恋人」に擬えて、あるいはその花の中に、
詠う者の、愛する人への純真な気持ちを感じてしまった
 
 
 
 
掲載日:2014.09.07   [「一日一首」2014年5月17日付けの解釈]


 
 秋雑歌 七夕
   吾等待之 白芽子開奴 今谷毛 尓寶比尓徃奈 越方人邇
    我が待ちし秋萩咲きぬ今だにもにほひに行かな彼方人に
   わがまちし あきはぎさきぬ いまだにも にほひにゆかな をちかたひとに
 巻第十 2018 秋雑歌 七夕 柿本人麻呂歌集出


[収載歌集]
【柿本人麻呂歌集】〔146〕
【赤人集】〔162・283〕

[類想歌]
【万葉集】〔2127〕


[歌学書例歌]
【袖中抄】〔998〕

[資料]
掲題歌資料〔校本万葉集及び近代までの注釈書〕
七夕】〔中華民国[国立成功大学、成大宗教與文化学報 第七期 論文]〕
織女と牽牛】〔講談社学術文庫「星の神話・伝説」野尻抱影
【万葉の時代】〔七夕歌と七夕詩の関係は



 【2018】 語義 意味・活用・接続
 わがまちし [吾等待之]   
  し [助動詞・き]  [過去・連体形] ~た・~ていた  連用形につく
 あきはぎさきぬ [白芽子開奴] 
  あきはぎ [秋萩]  (秋の花が咲く頃の) 萩、また、その花
  ぬ [助動詞・ぬ]  [完了・終止形] ~た・~てしまった・~てしまう  連用形につく
 いまだにも [今谷毛]  
  だに [副助詞]  [強調] せめて~だけでも
〔接続〕体言・活用語・副詞・助詞につく
  も [係助詞]  [仮定希望] せめて~だけでも・~なりとも  種々の語につく
 にほひにゆかな [尓寶比尓徃奈] 
  な [上代の終助詞] [願望・勧誘] さあ~しようよ・~してほしい  未然形につく
 をちかたひとに [越方人邇]
  をちかたひと [彼方人]  遠くにいる人・離れている人
  に [格助詞] [行先・相手]~の方へ・~に  体言につく

「古語辞典」は掲載歌を基本に、と思っているが、なかなか実行できず未完、継続中
「枕詞一覧」もやっと載せることができた
ただし、「かかり方の理由」は「古語辞典」からのみなので、
今後は「詳説」に触れ次第補充してゆく
その点でも不充分であるし、載せた語数においても、284語と、およそ言われている半分程度だ
しかし、一応その都度古語辞典を引っ張り出さない程度の気安さにはなる
   
 古語辞典  文法要語解説 活用形・修辞  活用語活用法及び助詞一覧  活用形解説 枕詞一覧


 
注記 
[あきはぎ(白芽子)]
『万葉集中』、「あきはぎ」を「白芽子」と表記する唯一の歌
「あきはぎの」と枕詞にもあり、萩の性質をとらえ、「移る」「しなふ」にかかる
「はぎ」そのものは、紅葉色、または白色の小さな花をつける
その「小さな花」のイメージから、「白芽子」の表記が使われたのだろうか、と思ったが
これも、五行説の「青、赤、白、黒」が、季節の「春、夏、秋、冬」に当るとされており、
「白風」を「あきかぜ」と訓むように、「白」は「あき」を顕わすものという
 
[だに]
副助詞「だに」には、次の用法がある
 強調 せめて~だけでも、~だけなりと
 類推 ~だって、~のようなものでさえ
 添加 ~までも

奈良時代は、「強調」の用法だけで、まだ起こっていない未来の事柄に関して用いられた
「類推」は、平安時代以降の用法で、「すら」とほぼ同じ意味で使われている
「添加」は、「さへ」が広く使われるようになったために、「だに」が「さへ」の意味にも使われ出す
 
[にほひにゆかな]
「にほふ」の原義は、「色が美しく映えること」
現代的には、「かおり、香気」となるが
この歌のように、秋になった、さあ紅葉の季節、ということに合わせると
その紅葉の美しく映える中に、染まりに行こう、と解釈したい
当然、その「香気」を漂わせる「恋人」が眼中にはある
終助詞「な」は、「感動・詠嘆」で、「~たことだなあ」とあるが
その接続は、終止形や命令形、終助詞の文の言い切りなどにつくが
この「な」は、その歌意から上代の終助詞「な」で、未然形につくのが正しいはずだ
上代の終助詞「な」には、意志・希望・勧誘・願望の意があり
この歌に相応しいと思う

 



 掲題歌[2018]についての資料  関連歌集については、[諸本・諸注 その他の歌集]

収載歌集及び歌学書】
 
 歌集、歌学書  
 柿本人麿集 私家集大成巻一- 4 人麿Ⅲ [冷泉家時雨亭叢書『素寂本私家集西山本私家集』]  ワカマチシミハキサキヌイマタニモ ニホヒニイ(ユ)フナヲチカタ人ニ
 柿本人麿集上 秋部 七夕 万十 146
 赤人集 新編国歌大観第三巻-2 赤人集 [西本願寺蔵三十六人集]   わがまちし秋はぎさきぬいまだにもにほひにゆかんならしかたみに
 あきのざふのうた 283
 同 私家集大成巻第一- 5  赤人Ⅰ・あか人(西本願寺蔵「三十六人集」)  わかまちし秋はきさきぬいまたにも にほひにゆかんならしかたみに
 あきのさふのうた 283
 同 私家集大成巻第一- 6  赤人Ⅱ・赤人集(書陵部蔵「三十六人集」五一〇・一二)  わかまちしあきはき咲ぬいまたにも にほひにゆかむならしかてらに」
 秋雑歌 162
 歌学書袖中抄 (文治二、三年頃[1186,1187]作、顕昭[1130~1209])
  新編国歌大観第五巻-299 袖中抄 [日本歌学大系別巻二]
 わがまちし白芽子(しら[あき]はぎ)さきぬいまだにもにほひにゆかなをちかたびとに
 袖中抄第二十 998
 歌学書袖中抄
 
鎌倉初期の和歌注釈書。《顕秘抄》と題する3巻本もあるが、一般にはそれを増補したとみられる20巻本をさす。1186‐87年(文治2‐3)ころ顕昭によって著され仁和寺守覚法親王に奉られた
《万葉集》以降《堀河百首》にいたる時期の和歌から約300の難解な語句を選び、百数十に及ぶ和・漢・仏書を駆使して綿密に考証。顕昭の学風を最もよく伝え、
《奥儀(おうぎ)抄》《袋草紙》とならぶ六条家歌学の代表的著作
 
【『校本万葉集』〔佐佐木信綱他、大正12年成〕の面白さ】[2014年3月8日記]

先日手にした『校本万葉集』、復刻版なので、なかなか読み辛いところもあるが、その内容は、確かに面白い
「注釈書」のような、歌の解説ではなく、その歌の本来の表記の姿を出来るだけ復元しようとする書では、もっとも新しいものだと思う
とはいえ、それでもまだ昭和になる前の書だから、古さはあるのだろうが、かと言って、それ以降の書が、注釈に重きを置いているばかりで
こうした「諸本」の校合を広く行い、それが中世の頃の「校本」に次ぐ形で刊行されたのは、素人の私でも嬉しいものだ
底本は、広く用いられている『西本願寺本』ではなく、『寛永版本』としている

[諸本・諸注については、「諸本・諸注、その他の歌集」]
 

 [本文]「吾等待之白芽子開奴今谷毛爾寶比爾徃奈越方人邇「ワカマチシ アキハキサキヌ イマタニモ ニホヒニユカナ ヲチカタヒトニ」(「【】」は編集)
       頭注  『類聚古集』、コノ歌ハ次ノ歌ノ後ニ書ケリ。
『袖中抄』、第二十「ワカマチシ白芽子(シラハキ)サキヌイマタニモニホヒニユカナヲチカタヒトニ」
『赤人集』、「わかまちし秋はきさきぬいまたにもにほひにゆかむならしかたみに」
『釈日本紀』、第二十四「越方人(ヲチカタヒト)同(万葉)第十」
 〔本文〕
  「芽」 『神田本』「○【判読出来ず】
  「邇」 『温故堂本』「
 〔訓〕
  「ワカマチシ」 『類聚古集』「わかたちし」
  「アキハキサキヌ」 『元暦校本・類聚古集』「しらはきさきぬ」
『細井本』「白」ノ左ニ「シラ」アリ
『京都大学本』「白」の左ニ赭「シラ」アリ
  「ニホヒニユカナ」 『元暦校本』「にほひにゆかむ」。「む」ノ右ニ赭「ナ」アリ
『神田本』「ニホヒテユカナ」
  「ヲチカタヒトニ」 『西本願所本・細井本』「オチカタヒトニ」
 〔諸説〕
記なし


近代までの注釈書の掲題歌】

中世、近世、近代の注釈書 (私の範囲で確認できたもの・文中歌番はそのままの旧国歌大観)    
  [2018] 
  『万葉拾穂抄』〔北村季吟、貞享・元禄年間(1684~1704)成〕 
 〔わかまちしあきはき咲ぬ今たにもにほひにゆかなをちかたひとに〕
 吾等待之白芽子開奴今谷毛尓寶比尓徃奈越方人迩

   わかまちし秋萩咲きぬ 匂ひにゆかなは遊戯にゆかなんと也牛女河を隔てあれは遠方人と云也
  万葉代匠記(精撰本)』〔契沖、元禄三年(1690)成〕[萬葉集代匠記惣釋 僧契冲撰 木村正辭校] 
 〔ワカマチシアキハキサキヌイマタニモニホヒニユカナヲチカタヒトニ〕  
 
吾等待之白芽子開奴今谷毛爾寶比爾徃奈越方人邇
   發句は牽牛に成て云なり、白芽子をしらはきとよめるを袖中抄に嫌ひてやがて下に白風をあきかぜとよめるを引て云、白風をあきかぜと讀つれば白芽子をもあきはぎと讀は勝れり、あながちに我待ししらはぎと不可詠歟、今按五色を以て五方に配する時、白色は西なる故にかくかけり、五行に依て金を秋とよめるに同じ、待し芽子咲とは必らず芽子に意はあるべからず、芽子の咲そむる比織女に逢へば、あはむ時を待意を芽子を待と云ひて、にほひにゆかむなと寄せたるなるべし、爾寶比は埴生榛原などによせて多くよめるが如し、越方人は織女なり、
  『万葉集童蒙抄』〔荷田春満、信名、享保年間(1716~35)成〕 
 〔われまちし、あきはぎさきぬ、いまだにも、にほひにゆかな、をちかたびとに〕 
 吾等待之白芽子開奴今谷毛爾寶比爾往奈越方人邇

   吾等 らりるれろ通音にて、らをれと通じて讀む也。二字引合て、われらと云意にてもあらむか。添て意を助けたる書樣集中あまた有。其格と見れば、わがとも讀べし。等の字に當りて是非用に立て讀むには、わら、われと讀べし
 
白の字秋と讀むは 五色を五行、五方に配當すれば、西方秋の方にて、金に當る。金は白色西方も白色と立る故、秋とは義をもて讀む也。此歌は七夕の夜の歌にはあらず。七夕の前後の歌也。なれ共七夕の意をよめる也。越方人とは織女をさして云へるなるべし。萩の咲けるにつきて、秋と知りて織女の方へ詠吟し、慰みに行かんとの義也。ゆかなは、ゆかんな也
  『万葉考』〔賀茂真淵、宝暦十年(1760)成〕 
  吾等待之[ワガマチシ]、白芽子開奴[アキハギサキヌ]、
 今谷毛、紀(神武)に伊莽波豫[イマハヨ]、阿々時夜塢[アヽシヤヲ]、 伊勢麻□[人偏+嚢]而毛阿誤豫[イマダニモアゴヨ]、伊麻□[人偏+嚢]而毛阿誤豫、とあるは今よとの給へるのみこゝの今だにも右に同じ
 爾賓比爾往奈[ニホヒニユカナ]、越方人邇[ヲチカタビトニ]、
   歌意は吾まちし萩の咲たれば彼ころもにほはせとよみし如く今萩はらに入たち衣にほはし 織女[タナバタツメ]のがりゆかんてふをかくよめりとせんかさはとりがたし萩に衣にほはせなまめきゆかんとよめる相聞の歌のこゝにまぎれたるものなりと見ゆれば例の小書にするなり
  『万葉集略解』〔橘千蔭、寛政十二年(1800)成〕[日本古典全集刊行会、1926年、与謝野寛他] 
 〔わがまちし。あきはぎさきぬ。いまだにも。にほひにゆかな。をちかたびとに。〕
 吾等待之。白芽子開奴。今谷毛。爾寶比爾往奈。越方人邇。
   宣長云、秋ハギサキヌは逢ふべき時になれる意なり。今ダニモは、月日久しく戀ひ渡りて、せめて今なりともなり。此下の歌の今ダニモも同じと言へり。ニホヒニユカナとは、卷十三に、艶の字をニホヒと訓みし心にて、後の詞にて言はば、ナマメキニユカンと言ふ意ならん。越方人は織女を指すべし。白は西方秋の色なれば義を以て書けり。
  『万葉集古義』〔鹿持雅澄、天保十三年(1842)成〕 
 〔アガマチシ アキハギサキヌ イマダニモ ニホヒニユカナ ヲチカタヒトニ〕
 
吾等待之白芽于開奴今谷毛爾寶比爾往奈越方人邇

   白芽子[アキハギ]は、秋芽子[アキハギ]なり、かく書るは、白は西方秋色なるが故なり、と契冲云り、此(ノ)下にも白風[フヤカゼ]とあり、
○爾寶比爾往奈[ニホヒニユカナ]は、染[ニホヒ]に往む、さらば急[ハヤ]くといそぎたる意なり、爾寶布[ニホフ]は、染[ソマ]ると云むが如し、奈[ナ]は牟[ム]を急[ハヤ]く云るなり、さてこゝは、織女に相觸て、媚[ナマメ]きに往むと云意を帶たるなるべし、
○越方人[ヲチカタヒト]は、織女なり、
○歌(ノ)意は、見れば吾(ガ)待し秋はぎ咲たり、常に往まほしけれども、秋ならでは往ことのかなはざれば、今なりとも急[ハヤ]く往て、そのはぎの色に染[ソマ]らむ、言[コトバ]にこそ芽子に染[ソマ]らむといへ、日はそのはぎに入(リ)交(リ)て、色に染る如くに、織女に往て相觸む、と云るなるべし、
  『万葉集新考』〔井上通泰、大正4~昭和2年成〕 
 〔わがまちしあきはぎさきぬ今だにもにほひにゆかなをち方人に]
 吾等待之白芽子開奴今谷毛爾寶此爾往奈越方人邇
   此歌の今ダニモは今カラナリトモなり。即下なる
  露霜にころもでぬれて今だにも妹がりゆかむ夜はふけぬとも
のイマダニモにおなじ(卷九【一八四〇頁】參照)。夕方にふと萩のさきたるを見附けて今カラナリトモといへるなり。さて萩のさけるを見て妹が り行かむと思立ちぬるは妹に逢ふべく定まれる時節なればなり
○ヲチカタ人は即遠妻にて織女をさせるなり。ニホフは染マルなり。但こゝにては色に染まるにあらで香に染まるなり。宣長雅澄がニホヒをナマメキと釋せるは從はれず
  『口訳万葉集』〔折口信夫、1916~17年成〕 
 〔わが待ちし秋萩咲きぬ。今だにも匂ひて行かな。遠方人[ヲチカタビト]に 〕
   いつ咲くことか、と待つてゐた萩の花は咲いた。遠方から逢ひに來たいとしい人の方へ、その萩に著物の色をつけて逢ひに行かう。
  万葉集全釈』〔鴻巣盛広、昭和5~10年成〕 
 〔吾が待ちし 秋萩咲きぬ 今だにも にほひに行かな 遠方人に〕
 ワガマチシ アキハギサキヌ イマダニモ ニホヒニユカナ ヲチカタビトニ
 吾等待之白芽子開奴今谷毛爾寶比爾往奈越方人邇
   ワタシガ待ツテヰタ秋萩ノ花モ咲イタ。今マデ永イ間待ツテヰタガ、セメテ今デモ、遠クノ方ニ居ル織女星トイフ人ニ逢ヒニユキマセウ。
○白芽子開奴[アキハギサキヌ]――白をアキとよむのは、白は西方秋の色であるからである。下にも白風[アキカゼニ](二〇一六)とある。
○爾寶比爾往奈[ニホヒニユカナ]――わからない語である。略解に「なまめきにゆかむといふ意ならむ」とあり。古義も同樣である。
○越方人邇[ヲチカタビトニ]――越方人[ヲチカタビト]は遠方にゐる人、即ち織女をいふ。
〔評〕 萩の咲くによつて、織女に逢ふべき時の來れるを、喜んだ彦星の心である。天上を下界と同じく萩の咲くものとした構想が變つてゐる。
 『万葉集全註釈』〔武田祐吉、昭和23年~25年成〕  
 〔わが待ちし 秋はぎ咲きぬ。今だにも にほひに行かな。遠方人に。〕
 
ワガマチシ アキハギサキヌ イマダニモ ニホヒニユカナ ヲチカタビトニ
 
吾等待之白芽子開奴今谷毛尓寶比尓往奈越方人迩
  【譯】わたしの待つていた秋ハギは咲いた。今だけでも色にあらわれて妻どいに行きたいものだ。あの川むこうの人に。
【釋】白芽子開奴 アキハギサキヌ。白は、五行の説により、秋に相當する色として、秋に使用している。下にも「白風[アキカゼ]」(二〇一六)とある。この句によつて、逢うべき時節のきたことを語つている。句切。
 尓寶比尓往奈 ニホヒニユカナ。ニホヒニは、色に美しく出ることで、表に出して妻どいに行く意に使つている。ユカナは、願望の語法。句切。
 越方人迩 ヲチカタビトニ。越は字音假字。ヲチカタは、川のむこう岸。「己母理久乃[コモリクノ] 渡都世乃加波乃[ハツセノカハノ] 乎知可多爾[ヲチカタニ] 伊母良波多多志[イモラハタタシ]」(卷十三、三二九九、或本)。織女のもとにである。
【評語】時節の來たのを、秋ハギ咲キヌで描いたのは、事物に即しており、風情がある。ニホヒニはその縁で使用したのだろう。五句の留めも感じがよい。
 『評釈万葉集〔佐佐木信綱、昭和23~29年成〕 
 〔吾が待ちし秋萩咲きぬ今だにも染ひに行かな遠方人に〕
  アガマチシ アキハギサキヌ イマダニモ ニホヒニユカナ ヲチカタビトニ
  【譯】自分の待つてゐた秋萩の花が咲いた。せめて今でも、花に袂を染めがてら、逢ひに行かうよ。天の河のあちらにゐる人に。
【評】これも亦地上の秋色をその儘に、架空の世界に移したもので、彦星の心を詠んだものであらう。率直にみれば、七夕の歌ではないやうにも思はれるが、つまり稚拙な歌なのである。
【語】○今だにも せめていまなりとも、即ち平常は行けないが、萩の花咲く秋になつたこの時にでも、の意。
   ○染ひに行かな 「にほふ」は衣に色を染めつける意。ここは萩の花に自分の袖を染めに行く意、妻に会ひに行く意を寓してゐるのであらう。四句を紀州本の訓に従って「ニホヒテユカナ」とすれば全体の解は明瞭になるのであるが、本文に一も證本が無いので遽に採用し難い。
   ○遠方人 「をちかた」の本義は、あちらで、ここは天の河のあちらにゐる人の意で、織女をさすと解すべきである。
 万葉集私注〔土屋文明、昭和24~31年成〕 
 〔吾が待ちし秋萩咲きぬ今だにも染ひて行かな遠方人に〕
 ワガマチシ アキハギサキヌ イマダニモ ニホヒテユカナ ヲチカタビトニ
 吾等待之白芽子開奴今谷毛爾寶比爾往奈越方人邇
  【大意】吾が待つて居た秋萩は咲いた。今すぐにも、それに衣をにほはして行かう。遠方の夫のところに。
【語釈】アキハギ 「白」は五行説で、方位なら西、季節なら秋にあてられる。
    ○イマダニモ 今すぐにもといふ程の心持である。
    ○ニホヒテユカナ 「爾」は「而」に通用したものと見える。「而」を、「爾」に通はした例は前に見えた。ニホヒニユカナと訓むならば、遠方の夫と相睦びにといふことにならうが、調子は停頓する。神田本にテの訓のあるのは、一つの古い伝であらう。
    ○ヲチカタビトニ 遠方の人は、織女より牽牛を呼ぶと見える。
【作意】二星いづれにもとれるが、織女の立場であらう。秋が来て萩が咲いたから、それに衣をにほはして、遠方の恋人のところへ行かうとの心である。
  『万葉集注釈』〔澤潟久孝、昭和32~37年成〕 
 〔吾が待ちし 秋萩咲きぬ 今だにも にほひに行かな 彼方人に〕
 
ワガマチシ アキハギサキヌ イマダニモ ニホヒニユカナ ヲチカタビトニ
 
吾等待之白芽子開奴今谷毛尓寶比尓往奈越方人迩(『元暦校本』
  【口訳】私が待つた秋萩が咲いた。せめて今でもなまめき交しに行かうよ。川の彼方の人のところへ。
【訓釈】秋萩咲きぬ―「白芽子」を『元暦校本・類聚古集』にシラハキとある。『細井本・京都大学本(赭)』も「白」の左にシラとあるが、『紀州本・西本願寺本』以後アキハギとある。「白芽子」とあるはここ一つであり、この先に「白風」とあり、青、赤、白、黒を四季に配して、春、夏、秋、冬となり、白は秋にあたるのでアキカゼと訓むべきであるから、ここもアキハギと訓むべきものと思はれる。梅には紅梅がまだ無く(8・1644)、萩には白萩が無かつたと思はれる。萩が咲いた事は七夕の近い事を示した事になる。
    今だにもにほひに行かな―平素は逢へないが、せめて萩の咲いた今なりとも、の意。「にほひに行かな」は略解に「巻十三に、艶の字をにほひと訓し心にて、後の詞にていはば、なまめきにゆかむといふ意ならむ。」とある。「艶」をニホフと訓んだ例は「令艶色(ニホハシ)」(1859)、「艶(ニホヘル)」(1872)が既にあつた。恋人に逢つてなまめき交すことを云つた。
    彼方人に―「彼方」は前(2・110)にあつた。ここは天の河をへだてた彼方の人で、織女をさす。

【考】赤人集に「秋はきさきぬ」「にほひにゆかむならしかたみに」、流布本「我またぬ」「ならしかてらに」とある。
 
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