出典:猪股靜彌著朝日カルチャ−ブックス-37「万葉百話」大阪書籍






 うめ(ウメ)バラ科119首  わが園に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ来るかも  大伴旅人  826
 あしび(アセビ)ツツジ科10首  磯のうへに生ふる馬酔木を手折らめど見すべき君がありといはなくに  大来皇女  166
 さくら(サクラ)バラ科41首  世間も常にしあらねば屋戸にある桜の花の散れる頃かも  久米女郎  1463
 もも(モモ)バラ科7首  春の苑紅にほふ桃の花下照る道に出で立つ少女  大伴家持  4163
 すもも(スモモ)バラ科1首  わが園の李の花か庭に降るはだれのいまだ残りたるかも  大伴家持  4164
 からたち(カラタチ)ミカン科1首  枳の棘原刈り除け倉立てむ屎遠くまれ櫛造る刀自  忌部首  3854
 なし(ナシ)バラ科4首  黄葉のにほひは繁し然れども妻梨の木を手折り挿頭さむ  作者不詳  2192
 つつじ(ツツジ)ツツジ科9首  山越えて遠津の浜の石つつじ我が来るまでに含みてあり待て  作者不詳  1192

うめ(ウメ)バラ科 119首
 早春を代表する花
     わが園に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ来るかも  大伴旅人 (巻五、826)
  万葉時代、医師を志す医生たちは「本草」を習得すべく規定(医疾令)されていた。当時の本草に「新修本草」がある。同書の巻十二にウメの実がヒシの実などと共に薬効ある植物として記載されている。思うに、ウメは平城京時代のはじめに、薬用植物として中国から渡来したものであろう。
 草木を愛した万葉びとたちは、この外来植物の花を愛で、またたく間にわが国の早春を代表する花としてとらえ、多くの歌に詠みこんだのである。「万葉集」にウメの歌が119首。ハギの歌141首につぐ多くの歌数である。
 万葉歌人のうち、最もウメを愛したのは大伴旅人であった。旅人は大宰府の長官として九州に赴任する時、佐保山の自宅の庭に、妻と二人でウメの木を植えた。外来の珍しいウメを植えこむ二人の心には、任果てて帰宅するまでの無事安寧を祈る思いもあったに違いない。二人は神亀四年(727)の十二月頃九州に出発。九州到着後、間もない神亀五年三月頃、妻はにわかに病死した。
 天平二年(730)の春、旅人は大宰府管内の役人を集めて宴会を催し、庭前に咲くウメを題に作歌を命じた。当日の「梅花の歌」32首が「万葉集」巻五に編集されている。はじめに掲げた歌は宴会の主人旅人の歌である。
 天平三年の春、大納言に任ぜられて帰京した旅人は、佐保山の自宅の庭のウメを見て次の一首を詠んだ。




     吾妹子が植えし梅の樹見るごとにこころ咽つつ涙し流る 大伴旅人 (巻三、456)


 「わが妻の植えた梅の木を見るたびに、心がつまる思いで涙が流れる」という歌意。土屋文明はその著「万葉集私注」において次の如く説いている。「四五句など平凡と思われる程であるが、旅人の歌は、常にこうした目立たない句の中に、無限の感動を湛えている」と。この歌に対し、これ以上の適切な評はないのである。
あしび(アセビ)ツツジ科 10首 
 葉の毒に酔う馬
     磯のうへに生ふる馬酔木を手折らめど見すべき君がありといはなくに  大来皇女 (巻二、166) 大来(大伯)皇女

 仲間でアシビの話をしていた時、奈良県山辺郡山添村出身の友人は、少年のころ子馬にアシビをたべさせ馬が死んでしまった話を持ち出した。友人はアシビにそんなに毒があるのを知らず他の秣と一緒に与え、馬もまた毒のあるアシビをかぎ分けることが出来なかったのである。彼が何度もその話をするのは、よほど馬の死が哀れであったのだろう。
 さて、閑話休題。はじめに掲げた歌の作者大来皇女は斉明天皇七年(661)征西の旅の途中、今の岡山県邑久郡で生まれた。天武天皇を父とし、母は天智の娘太田皇女。同母の弟が大津皇子。天武天皇死後、政治権力を手にした持統女帝にとって大津皇子は目ざわりな存在であったのだろう。「日本書紀」に「朱鳥元年(686)冬十月二日、皇子大津謀反発覚」と記されている。一夜明けて翌十月三日大津皇子は自宅で死を命じられている。時に皇子は二十四歳の青年であった。
 姉の大来皇女は、父天武の在位中伊勢斎宮に奉仕していた。天武天皇の死去で任が果て都に帰って見ると、愛する弟はこの世の人でなかった。帰京の意味もなかった思いである。


    見まく欲りわがする君もあらなくになにしか来けむ馬疲るるに  大来皇女 (巻二、164)


 アセビの花の咲くころであろう。弟の亡骸は二上山に移された。はじめに掲げた歌は「岩のほとりのアセビの花房を折もしようが、見せる弟が生きているとはだれも言ってくれないことよ」という姉大来皇女の深い嘆きである。二上山、妹山と背山の並ぶあの山は仲むつまじかった姉と弟のみ霊が、永久に相たずさえている姿なのだ。

    鴛鴦の住む君がこの山斎今日見れば馬酔木の花も咲きにけるかも   御方王 (巻二十、4535)


  作者は平城京の役人。自宅の庭園であろうか、池におしどりを飼い、庭木としてアセビを植えて賞美していたことが歌われている。アセビは秋の終わり頃、つぶらな花房を垂れ、冬を越し春風が吹きはじめると、にわかにつぼみがふくらみ始める。

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さくら サクラ)バラ科 41首
 人の心を表現する
     世間も常にしあらねば屋戸にある桜の花の散れる頃かも  久米女郎 (巻八、1463)

 「万葉びとにとって、春の花といえばウメ。サクラは論外であった」という結論めいたいい方が定着しつつある。「万葉集」中ウメの歌119首サクラの歌が41首という歌数の差が、右の論拠になっているようである。 ウメは大伴旅人らが歌人として活躍する天平初年ごろ、大陸から渡来した。貴族、文化人たちは外来の花に目をうばわれ、ウメの花の下で宴を張り歌の会を催した。ウメの歌の七割、87首の作者名が明らかなのは、作者の中心が上層の人であったことと、歌が記録の必要な社交場で詠まれたことを物語っている。サクラの歌41首中、作者名のわかっている歌15首、残る26首は作者不詳の歌である。サクラは、名もない人々の心にまでしみ入って歌われた花であった。そして、サクラの歌の多くは、はなやかに咲き、いさぎよく散ってゆく花に人の世の運命を、また作者自身の心のうごきを見ようとしたものである。万葉びとが草木を詠む時の基本の姿勢、本来の心でサクラの花は歌われているのである。
 はじめに掲げた歌は、「万葉集」にこの一首を残した久米女郎が、厚見王という方に贈った歌。「世の中も、不変でなく移りゆくものなので、わが家のサクラの花も散りゆくこのごろです」という歌意。作者は、自分の老いを厚見王にうったえたのであろうか、人の世の無常を嘆いているのであろうか。淡々とした声調の中に、深い心のこもった歌である。日本人の心情に宿るサクラの花への愛着の源流のような歌である。
 日本の文学者で、最もサクラを愛したのは中世の西行であろう。 


        ねがはくは花の下にて春死なむそのきさらぎのもち月の頃      西行法師


出家した西行の願いは、釈迦入滅の二月十五日、サクラの花の下で死去することであった。西行は、華麗に咲き乱れる花の姿に、落花のはかなさの見える詩人である。彼は、右の歌の願いどおり文治六年(1190)二月十六日に死去し、藤原俊成らを驚かせ、また悲しませたという。

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もも(モモ)バラ科 7首
 古く中国から渡来
     春の苑紅にほふ桃の花下照る道に出で立つ少女  大伴家持 (巻十九、4163


 歌にかぎらず、芸術を志向する者にとって、自己の作品が見えるということは大変なことである。
 このモモの花の歌は、家持の手になる巻十九の巻頭を飾る一首。「春の園のくれないに咲きにおうモモの花、その花の下かげ道に、つと出で立った少女よ」という歌意。モモは古く中国から渡来した植物。中国ではスモモとモモは春を代表する花として詩文に描かれている。派手なモモの花をとり上げたこの歌の情趣には、どこか大陸風の面影が漂っている。
また、この歌を口ずさんでいると、薬師寺の吉祥天女像や高松塚古墳の女性群像が思い出されるのは、一首に絵画風の気分が流れているためであろう。この美麗な絵画風の歌境は、家持以前の人麻呂や赤人らの歌になく、彼が開拓した独自の世界であった。おそらく、北国で春を待ちこがれるあこがれの世界の形象された歌であったろう。
 家持の年譜をたどってみると、この歌は彼が三十三歳、越中守であった時の作品。「万葉集」には、この歌につづいて、スモモの歌、さらにカタクリの歌など、彼独自の作品が展開されてゆく。思うに、二十九歳の春から四年あまりの越中生活は、歌人家持にとって、まことに重要な意味をもつ年月であった。彼は越中において常に武門の出である自分を恃みながら、時の力に屈することなく、草木をみつめ歌の道に精進した。そして、人間として大きくなってゆく。深く広い人間にしてはじめて自分が見え、自分の芸術が見える。巻十九の巻頭を飾ったモモの花の歌は、彼の自信作であった。 ちなみに、巻十九の巻末の歌を掲げてみよう。




      うらうらに照れる春日に雲雀あがり情悲しも独りしおもへば  大伴家持 (巻十九、4316)


 歌の後に、およそ次のごとき説明がある。「春の日の暮れなずむころ、鳴く鳥の声がある。うら悲しい心は歌でなければ払いさることができない。そこで、このひばりの歌を作って屈折した心をほぐすのである」と。

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すもも(スモモ)バラ科 1首
 中国の詩の影響か
     わが園の李の花か庭に降るはだれのいまだ残りたるかも  大伴家持 (巻十九、4164)


 「万葉集」にスモモの歌は一首。天平勝宝二年(750)三月一日の夕べ、越中で大伴家持がモモとスモモの花を見て二首の歌を詠んだ。モモの歌は前回の四話に掲げて置いた。
 はじめに掲げたスモモの歌は「我が庭のあの白いのはスモモの花であろうか、それとも庭にはらはらと降った雪の残ったものか」という歌意。このみずみずしい生気あふれる二首の歌は、彼の歌日記と称される「万葉集」巻十九の巻頭を飾っている。
 この歌を作った三月一日は太陽暦の四月十五日。越中の春もすでになかば、モモとスモモの花ざかりであったろうが、家持が二つの花をあわせて詠んだのは、中国の詩文の影響と考えられるのである。中国ではモモとスモモは春を代表するめでたい花。「詩経」の祝婚歌の一節に「今し栄ゆるモモかスモモか。平王の御孫と斎侯の御子」(目加田訳)と、歌われている。結婚の二人をモモとスモモの花にことよせて祝福した表現である。「みずほの国」と呼ばれるわが国の歴史において、実に長い間農業や農事に関する学問は軽視されてきたが、元禄のころの儒者貝原益軒がはじめて草木の栽培法などの研究著述を成した。元禄七年(1694)刊行の「花譜」は農書に類する彼の著述の最初のもの。植物の増やし方や、月々の花の咲く草木の栽培法を解説してある。スモモについて次のように述べている。「スモモはすき返したやわらかい土は悪い。実らず。正月に木のまたに石や瓦を多く置くべし。実がなる。」と。益軒がスモモの枝に石などを置けというのは、農村の正月行事「成木責め」であろう。果物の木に鎌などの刃物をもって迫り「なるか、ならぬか」と呼びかける。すると木かげから「なります。なります」と木に代わって答える。木を傷めたり、おどかしたりして秋の豊作を木に誓わせるまじないである。
 昔、農村では、自宅の子供に供する果物の木を、畑の隅に植えてあった。秋のカキ、クリ、ミカン。初夏の果物としてはビワ、アンズ、スモモ、イクリ等であった。


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からたち(カラタチ)ミカン科 1首
 四季ごとに表情
     枳の棘原刈り除け倉立てむ屎遠くまれ櫛造る刀自  忌部首 (巻十六、3854)


 カラタチは、唐より渡来したタチバナという意味のカラタチバナが略された名である。カラタチは、刺の多い小枝をさし交わして密生するので、生垣として利用される。大和の古寺や農家の庭先に見かけるカラタチの垣は、よく刈り込まれていて何年経っても同じ形に美しい。法華時(奈良市法華寺町)の塀の外、街に面したカラタチの大垣は、その長さ二百メ−トルを超え、大和路のカラタチの生垣のうち最も立派である。
 春四月の中旬まだ新芽の萌えないカラタチの垣に、点々とミカンの花に似た五弁の白い花が咲き、あたりにはやさしい香りが漂う。花が終わり五月の風が吹きはじめると、にわかに新芽が萌える。みどりの若い枝が三つ葉の葉と刺を伴って伸びる。独特のつやをもった淡緑色の若葉は、五月の木々の新緑の中で最も美しいのではないかと思われるほどである。若葉の頃は鋭い刺までがやさしく柔らかである。秋になると、夏の茂みの中でひそかにふくらんでいた果が黄色に売れる。冬、雪の積もった青いカラタチの垣に、ところどころ黄金色の玉の輝くさまは、また趣の深いものである。地味ながら四季それぞれに表情を変えるカラタチの美しさが愛され、寺院や家々の生垣に植えられたのであろう。


     枳殻の立枝つぶら実色づきぬしとど降る雨ゆふべ寒けし  岡 麓 


 作者は正岡子規に師事したアララギの歌人。初冬のカラタチを歌って余すところがない。「万葉集」にカラタチの歌は一首。歌はカラタチ・倉・屎・櫛など多くの物の名を一首に歌いこんだもの。「カラタチのいばらを刈のぞき、倉を立てよう。屎をどこか遠くにしてくれ。櫛造りの刀自世」という歌意。刀自は、戸の主という意味のトヌシがトジになった言葉。一家の主婦を指す言葉であり、また女性の敬称としても用いられた。「万葉集」のころは、女性が櫛を作っていたのであろうか。


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なし(ナシ)バラ科 4首
 趣の深い白い花
 黄葉のにほひは繁し然れども妻梨の木を手折り挿頭さむ
  もみぢばのにほひはしげししかれどもつまなしのきをたをりかざさむ
 作者不詳 (巻十、2192)

 「紅葉の色美しい木々が茂っている。でも、私はつまなしの木を折ってかざしにしよう」という意。しかしそれは表向きの歌意で、この歌には別の意味がこめられていると言う。第四句の「妻梨」は掛詞で、木の名のナシを”無し”にかけ、夫の無いことをいったもの。「美しいもみじのごとき女は多いが、私は夫のない女を手にしよう」という心を歌ったものである。「万葉集」ではこの歌につづいて次の歌が登場する。 



      露霜の寒き夕べの秋風にもみちにけりも妻梨の木は  作者不詳 (巻十、2193)


 「つゆじもの寒い夕風に、つまなしの木は紅葉しましたよ」というのが表向きの歌意であるが、もともとは前の一首への答えが本旨である。「秋風のごとき君の誘いに、今日まで相手がなくさびしかった私の心が動きました」という意味。二首とも、民謡として歌われたものであろう。
 ナシにはアリノミという別名がある。ナシはナシに通じるのを忌みきらって、反対の有りの実と命名したものである。
 文箱や刀のさやなどの蒔絵に梨地がある。下地のうるしに金銀の粉を蒔き、さらにうるしをかけてとぎ出したもの。文字通りナシの実のはだを思わせる蒔絵である。私はある展覧会で見た「金梨地糸巻太刀」と呼ばれる厳島神社の太刀(重要文化財)を思い出している。毛利輝元が秀吉にもらったものを神社に寄進した太刀という。あの見事なさやの蒔絵は、名もない蒔絵師がうす暗い部屋でうるしにまみれて作ったものであろう。その蒔絵師の前には、はだの粗いヤマナシの実がころがっていたであろう、などと空想をほしいままにしている。
 ナシは春の終わりごろ、ビロ−ドのごとくやわらかい葉にかこまれて五弁の白い花が咲く。春雨にぬれて咲く花は格別に趣が深い。白楽天は、涙をたたえた楊貴妃の美しさを「梨花一枝春帯雨」と形容している。白楽天はナシの花を愛していたのであろう。


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つつじ(ツツジ) ツツジ科 9首
 素朴な娘の微笑
  山越えて遠津の浜の石つつじ我が来るまでに含みてあり待て
   やまこえてとほつのはまのいはつつじわがくるまでにふふみてありまて
 作者不詳 (巻七、1192) 

「タケは実を結ぶことまれな李」。明治時代の小学校の理科教科書に、そう説明してあった。葛城山の東南斜面を覆っていたカツラギザサが、花を咲かせて実を結んだのは昭和30年前後のこと。実を結んだササは年余にして枯れ果て、ササの下かげでひそかに息づいていたツツジがにわかに全盛の時代を迎えた。数年にして一メ−トル近い木になったコバノミツバツツジ、ミヤコツツジ、レンゲツツジ、モチツツジなどが、初夏の葛城山の河内側の全斜面を真っ赤に彩っている。その数は百万本を超えると言われる。
 しかし、あの十年前の花のあとのササの実は今はどうなっているであろうか。土に埋もれてひそかに息づいているに違いない。密生したツツジが立ち枯れはじめた時、ササがふたたび全盛時代を迎えるのではあるまいか。そう考えると葛城山のツツジは悠久の自然界における栄枯盛衰の天の理の一節を、まのあたりに見せてくれていることになる。「万葉集」にツツジの歌は九首。丹ツツジ、白ツツジ、石ツツジなどが、海辺に、山に咲くさまが歌われている。宮の庭園に植えられたツツジの歌(185)もある。それらツツジの歌もまた、「万葉集」の草木を歌う場合の常として、恋の心の表出や、亡き人をしのぶよすがとして歌われている。はじめの歌は作者不詳。「山越えて」は枕詞。遠津の浜は地名ではなく遠い海辺。「遠い海辺の岩かげに咲くツツジよ。私がくる日までツボミのまま待っていて暮れよ」という歌意。遠い旅先で見かけた美しいツツジの花に寄する愛着と解してみると、この一首は、珍しくも純粋にツツジの花の美しさをうたった歌ということになる。しかし、それだけではいかにも曲がない。この一首もまた、恋の民謡であったと解する説がある。遠い浜辺の岩かげに咲くツツジの花は、実はかねて知り合った少女のこと。「少女よ、私が訪ねてくるまでツボミのままでいてくれよ(他の男性になびかないでくれ)」という男歌。この歌を口ずさむ若者の目に、岩かげのツツジは、素朴な少女の微笑に見えるのである。



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