万葉集巻第七 
 
 
       雑 歌  古 語 辞 典 へ
      天を詠む  
1072 天の海に雲の波立ち月の舟星の林に漕ぎ隠る見ゆ  
      右の一首は、柿本朝臣人麻呂が歌集に出づ。  
      月を詠む  
1073 常はかつて思はぬものをこの月の過ぎ隠らまく惜しき宵かも
1074 ますらをの弓末振り起し猟高の野辺さへ清く照る月夜かも  
1075 山の端にいさよふ月を出でむかと待ちつつ居るに夜ぞ更けにける  
1076 明日の宵照らむ月夜は片寄りに今夜に寄りて夜長くあらなむ
1077 玉垂の小簾の間通しひとり居て見る験なき夕月夜かも  
1078 春日山おして照らせるこの月は妹が庭にもさやけくありけり  
1079 海原の道遠みかも月読の光少き夜はくたちつつ
1080 ももしきの大宮人の罷り出て遊ぶ今夜の月のさやけさ  
1081 ぬばたまの夜渡る月を留めむに西の山辺に関もあらぬかも  
1082 この月のここに来れば今とかも妹が出で立ち待ちつつあららむ
1083 まそ鏡照るべき月を白栲の雲か隠せる天つ霧かも  
1084 ひさかたの天照る月は神代にか出で反るらむ年は経につつ  
1085 ぬばたまの夜渡る月をおもしろみ我が居る袖に露ぞ置きにける
1086 水底の玉さへさやに見つべくも照る月夜かも夜の更けゆけば  
1087 霜曇りすとにかあるらむひさかたの夜渡る月の見えなく思へば  
1088 山の端にいさよふ月をいつとかも我は待ち居らむ夜は更けにつつ
1089 妹があたり我は袖振らむ木の間より出で来る月に雲なたなびき  
1090 靫懸くる伴の男広き大伴に国栄えむと月は照るらし  
      雲を詠む  
1091 穴師川川波立ちぬ巻向の弓月が岳に雲居立てるらし
1092 あしひきの山川の瀬の鳴るなへに弓月が岳に雲立ちわたる  
      右の二首は、柿本朝臣人麻呂が歌集に出づ。  
1093 大海に島もあらなくに海原のたゆたふ波に立てる白雲  
      右の一首は、伊勢の従駕の作。  
      雨を詠む  
1094 我妹子が赤裳の裾のひづちなむ今日の小雨に我れさへ濡れな
1095 通るべく雨はな降りそ我妹子が形見の衣我れ下に着り  
      山を詠む  
1096 鳴る神の音のみ聞きし巻向の檜原の山を今日見つるかも
1097 みもろのその山なみに子らが手を巻向山は継ぎしよろしも  
1098 我が衣にほひぬべくも味酒三室の山は黄葉しにけり  
      右の三首は、柿本朝臣人麻呂が歌集に出づ。  
1099 みもろつく三輪山見ればこもりくの泊瀬の檜原思ほゆるかも  
1100 いにしへのことは知らぬを我れ見ても久しくなりぬ天の香具山
1101 我が背子をこち巨勢山と人は言へど君も来まさず山の名にあらし  
1102 紀伊道にこそ妹山ありといへ玉櫛笥二上山も妹こそありけれ  
      岡を詠む  
1103 片岡のこの向つ峰に椎蒔かば今年の夏の蔭にならむか
      川を詠む  
1104 巻向の穴師の川ゆ行く水の絶ゆることなくまたかへり見む
1105 ぬばたまの夜さり来れば巻向の川音高しもあらしかも疾き  
      右の二首は、柿本朝臣人麻呂が歌集に出づ。  
1106 大君の御笠の山の帯にせる細谷川の音のさやけさ
1107 今しくは見めやと思ひしみ吉野の大川淀を今日見つるかも  
1108 馬並めてみ吉野川を見まく欲りうち越え来てぞ滝に遊びつる  
1109 音に聞き目にはいまだ見ぬ吉野川六田の淀を今日見つるかも
1110 かはづ鳴く清き川原を今日見てはいつか越え来て見つつ偲はむ  
1111 泊瀬川白木綿花に落ちたぎつ瀬をさやけみと見に来し我れを  
1112 泊瀬川流るる水脈の瀬を早みゐで越す波の音の清けく
1113 さ檜隈檜隈川の瀬を早み君が手取らば言寄せむかも  
1114 ゆ種蒔くあらきの小田を求めむと足結ひ出で濡れぬこの川の瀬に  
1115 いにしへもかく聞きつつか偲ひけむこの布留川の清き瀬の音を
1116 はねかづら今する妹をうら若みいざ率川の音のさやけさ  
1117 この小川霧ぞ結べるたぎちたる走井の上に言挙げせねども  
1118 我が紐を妹が手もちて結八川またかへり見む万代までに
1119 妹が紐結八河内をいにしへの淑き人見きとここを誰れ知る  
      露を詠む  
1120 ぬばたまの我が黒髪に降りなづむ天の露霜取れば消につつ
      花を詠む  
1121 島廻すと磯に見し花風吹きて波は寄すとも採らずはやまじ
      葉を詠む  
1122 いにしへにありけむ人も我がごとか三輪の檜原にかざし折りけむ
1123 行く川の過ぎにし人の手折らねばうらぶれ立てり三輪の檜原は  
      右の二首は、柿本朝臣人麻呂が歌集に出づ。  
      蘿を詠む  
1124 み由野の青根が岳の蘿席誰れか織りけむ経緯なしに
      草を詠む  
1125 妹らがり我が通ひ道の小竹すすき我れし通はば靡け小竹原
      鳥を詠む  
1126 山の際に渡るあきさの行きて居むその川の瀬に波立つなゆめ
1127 佐保川の清き川原に鳴く千鳥かはづと二つ忘れかねつも  
1128 佐保川に騒ける千鳥さ夜更けて汝が声聞けば寐ねかてなくに  
      故郷を詠む  
1129 清き瀬に千鳥妻呼び山の際に霞立つらむ神なびの里
1130 年月もいまだ経なくに明日香川瀬々ゆ渡しし石橋もなし  
      井を詠む  
1131 落ちたぎつ走井水の清くあれば置きては我れは行きかてぬかも
1132 馬酔木なす栄えし君が掘りし井の石井の水は飲めど飽かぬかも
      倭琴を詠む  
1133 琴取れば嘆き先立つけだしくも琴の下樋に妻や隠れる
      吉野にして作る  
1134 神さぶる岩根こごしきみ吉野の水分山を見れば悲しも
1135 皆人の恋ふるみ吉野今日見ればうべも恋ひけり山川清み   
1136 夢のわだ言にしありけりうつつにも見て来るものを思ひし思へば  
1137 すめろきの神の宮人ところづらいやとこしくに我れかへり見む
1138 吉野川巌と栢と常磐なす我れは通はむ万代までに  
      山背にして作る  
1139 宇治川は淀瀬なからし網代人舟呼ばふ声をちこち聞こゆ
1140 宇治川に生ふる菅藻を川早み採らず来にけりつとにせましを  
1141 宇治人の譬への網代我れならば今は寄らまし木屑来ずとも  
1142 宇治川を舟渡せをと呼ばへども聞こえずあらし楫の音もせず
1143 ちはや人宇治川波を清みかも旅行く人の立ちかてにする  
      摂津にして作る  
1144 しなが鳥猪名野を来れば有馬山夕霧立ちぬ宿りはなくて 一本には「猪名の浦みを漕ぎ来れば」といふ
1145 武庫川の水脈を早みか赤駒の足掻くたぎちに濡れにけるかも  
1146 命をし幸くよけむと石走る垂水の水をむすびて飲みつ  
1147 さ夜更けて堀江漕ぐなる松浦舟楫の音高し水脈早みかも
1148 悔しくも満ちぬる潮か住吉の岸の浦廻ゆ行かましものを  
1149 妹がため貝を拾ふと茅淳の海に濡れにし袖は干せど乾かず
1150 めづらしき人を我家に住吉の岸の埴生を見むよしもがも  
1151 暇あらば拾ひに行かむ住吉の岸に寄るといふ恋忘れ貝  
1152 馬並めて今日我が見つる住吉の岸の埴生を万代に見む
1153 住吉に行くといふ道に昨日見し恋忘れ貝言にしありけり  
1154 住吉の岸に家もが沖に辺に寄する白波見つつ偲はむ
1155 大伴の御津の浜辺をうちさらし寄せ来る波のゆくへ知らずも  
1156 楫の音ぞほのかにすなる海人娘子沖つ藻刈りに舟出すらしも 一には「夕されば楫の音すなり」といふ
1157 住吉の名児の浜辺に馬立てて玉拾ひしく常忘らえず  
1158 雨は降る仮廬は作るいつの間に吾児の潮干に玉は拾はむ
1159 名児の海の朝明のなごり今日もかも磯の浦廻に乱れてあるらむ  
1160 住吉の遠里小野の真榛もち摺れる衣の盛り過ぎゆく  
1161 時つ風吹かまく知らず吾児の海の朝明の潮に玉藻刈りてな
1162 住吉の沖つ白波風吹けば来寄する浜を見れば清しも  
1163 住吉の岸の松が根うちさらし寄せ来る波の音のさやけさ
1164 難波潟潮干に立ちて見わたせば淡路の島に鶴渡る見ゆ  
      羈旅にして作る  ページトップへ
1165 家離り旅にしあれば秋風の寒き夕に雁鳴き渡る
1166 円方の港の洲鳥波立てや妻呼びたてて辺に近づくも  
1167 年魚市潟潮干にけらし知多の浦に朝漕ぐ舟も沖に寄る見ゆ  
1168 潮干ればともに潟に出で鳴く鶴の声遠ざかる磯廻すらしも
1169 夕なぎにあさりする鶴潮満てば沖波高み己妻呼ばふ  
1170 いにしへにありけむ人の求めつつ衣に摺りけむ真野の榛原
1171 あさりすと磯に我が見しなのりそをいづれの島の海人か刈りけむ  
1172 今日もかも沖つ玉藻は白波の八重をるが上に乱れてあるらむ  
1173 近江の海港は八十ちいづくにか君が舟泊て草結びけむ
1174 楽浪の連庫山に雲居れば雨ぞ降るちふ帰り来我が背  
1175 大御船泊ててさもらふ高島の三尾の勝野の渚し思ほゆ
1176 いづくにか舟乗りしけむ高島の香取の浦ゆ漕ぎ出来る舟  
1177 飛騨人の真木流すといふ丹生の川言は通へど舟ぞ通はぬ  
1178 霰降り鹿島の崎を波高み過ぎてや行かむ恋しきものを
1179 夏麻引く海上潟の沖つ洲に鳥はすだけど君は音もせず  
1180 足柄の箱根飛び越え行く鶴の羨しき見れば大和し思ほゆ
1181 若狭にある三方の海の浜清みい行き帰らひ見れど飽かぬかも  
1182 印南野は行き過ぎぬらし天伝ふ日笠の浦に波立てり見ゆ 一には「飾磨は漕ぎ過ぎぬらし」といふ  
1183 家にして我れは恋ひなむ印南野の浅茅が上に照りし月夜を
1184 荒磯越す波を畏み淡路島見ずか過ぎなむここだ近きを  
1185 朝霞やまずたなびく竜田山舟出しなむ日我れ恋ひむかも
1186 海人小舟帆かも張れると見るまでに鞆の浦廻に波立てり見ゆ  
1187 ま幸くてまたかへり見むますらをの手に巻き持てる鞆の浦廻を  
1188 鳥じもの海に浮き居て沖つ波騒くを聞けばあまた悲しも
1189 朝なぎに真楫漕ぎ出て見つつ来し御津の松原波越しに見ゆ  
1190 あさりする海人娘子らが袖通り濡れにし衣干せど乾かず
1191 網引きする海人とか見らむ飽の浦の清き荒磯を見に来し我れを  
      右の一首は、柿本朝臣人麻呂が歌集に出づ。  
1192 山越えて遠津の浜の岩つつじ我が来るまでにふふみてあり待て  
1193 大海にあらしな吹きそしなが鳥猪名の港に舟泊つるまで
1194 舟泊ててかし振り立てて廬りせむ名児江の浜辺過ぎかてぬかも  
1195 妹が門出入の川の瀬を早み我が馬つまづく家思ふらしも
1196 白栲ににほふ真土の山川に我が馬なづむ家恋ふらしも  
1197 背の山に直に向へる妹の山事許せやも打橋渡す  
1198 人にあらば母が愛子ぞあさもよし紀の川の辺の妹と背の山
1199 我妹子に我が恋ひ行けば羨しくも並び居るかも妹と背の山  
1200 妹に恋ひ我が越え行けば背の山の妹に恋ひずてあるが羨しさ
1201 妹があたり今ぞ我が行く目のみだに我れに見えこそ言とはずとも  
1202 足代過ぎて糸鹿の山の桜花散らずもあらなむ帰り来るまで  
1203 名草山言にしありけり我が恋ふる千重の一重も慰めなくに
1204 安太へ行く小為手の山の真木の葉も久しく見ねば蘿生しにけり  
1205 玉津島よく見ていませあをによし奈良なる人の待ち問はばいかに  
1206 潮満たばいかにせむかと海神の神が手渡る海人娘子ども
1207 玉津島見てしよけくも我れはなし都に行きて恋ひまく思へば  
1208 黒牛の海紅にほふももしきの大宮人しあさりすらしも
1209 若の浦に白波たちて沖つ風寒き夕は大和し思ほゆ  
1210 妹がため玉を拾ふと紀伊の国の由良の岬にこの日暮らしつ  
1211 我が舟の楫はな引きそ大和より恋ひ来し心いまだ飽かなくに
1212 玉津島見れども飽かずいかにして包み持ち行かむ見ぬ人のため  
1213 紀伊の国の雑賀の浦に出で見れば海人の燈火波の間ゆ見ゆ
1214 麻衣着ればなつかし紀伊の国の妹背の山に麻蒔く我妹  
      右の七首は、藤原卿が作。いまだ年月審らかにあらず。  
1215 つともがと乞はば取らせむ貝拾ふ我れを濡らすな沖つ白波  
1216 手に取るがからに忘ると海人の言ひし恋忘れ貝言にしありけり
1217 あさりすと磯に棲む鶴明けされば浜風寒み己妻呼ぶも  
1218 藻刈り舟沖漕ぎ来らし妹が島形見の浦に鶴翔る見ゆ  
1219 我が舟は沖ゆな離り迎へ舟片待ちがてり浦ゆ漕ぎ逢はむ
1220 大海の水底響み立つ波の寄せむと思へる磯のさやけさ  
1221 荒磯ゆもまして思へや玉の浦離れ小島の夢にし見ゆる
1222 磯の上に爪木折り焚き汝がためと我が潜き来し沖つ白玉  
1223 浜清み磯に我が居れば見む人は海人とか見らむ釣りもせなくに  
1224 沖つ楫やくやくしぶを見まく欲り我がする里の隠らく惜しも
1225 沖つ波辺つ藻巻き持ち寄せ来とも君にまされる玉寄せめやも 一には「沖つ波辺波しくしく寄せ来とも」といふ  
1226 粟島に漕ぎ渡らむと思へども明石の門波いまだ騒けり
1227 海の底沖漕ぐ舟を辺に寄せむ風も吹かぬか波立てずして  
1228 大葉山霞たなびきさ夜更けて我が舟泊てむ泊り知らずも  
1229 さ夜更けて夜中の方におほほしく呼びし舟人泊てにけむかも
1230 三輪の崎荒磯も見えず波立ちぬいづくゆ行かむ避き道はなしに  
1231 磯に立ち沖辺を見れば藻刈り舟海人漕ぎ出らし鴨翔る見ゆ  
1232 風早の三穂の浦廻を漕ぐ舟の舟人騒く波立つらしも
1233 我が舟は明石の水門に漕ぎ泊てむ沖へな離りさ夜更けにけり  
1234 ちはやぶる鐘の岬を過ぎぬとも我れは忘れじ志賀の統め神
1235 天霧らひひかた吹くらし水茎の岡の港に波立ちわたる  
1236 大海の波は畏ししかれども神を斎ひて舟出せばいかに  
1237 娘子らが織る機の上を真櫛もち掻上げ栲島波の間ゆ見ゆ
1238 潮早み磯廻に居れば潜きする海人とや見らむ旅行く我れを  
1239 波高しいかに楫取水鳥の浮寝やすべきなほや漕ぐべき
1240 夢のみに継ぎて見えつつ高島の磯越す波のしくしく思ほゆ  
1241 静けくも岸には波は寄せけるかこれの屋通し聞きつつ居れば  
1242 高島の安曇白波は騒けども我れは家思ふ廬り悲しみ
1243 大海の磯もと揺り立つ波の寄せむと思へる浜の清けく  
1244 玉櫛笥みもろと山を行きしかばおもしろくしていにしへ思ほゆ
1245 ぬばたまの黒髪山を朝越えて山下露に濡れにけるかも  
1246 あしひきの山行き暮らしやど借らば妹立ち待ちてやど貸さむかも  
1247 見わたせば近き里廻をた廻り今ぞ我が来る領巾振りし野に
1248 娘子らが放りの髪を由布の山雲なたなびき家のあたり見む  
1249 志賀の海人の釣舟の綱堪へなくも心に思ひて出でて来にけり
1250 志賀の海人の塩焼く煙風をいたみ立ちは上らず山にたなびく  
      右の件の歌は、古集の中に出づ。  ページトップへ
1251 大汝少御神の作らしし妹背の山を見らくしよしも
1252 我妹子と見つつ偲はむ沖つ藻の花咲きたらば我れに告げこそ  
1253 君がため浮沼の池の菱摘むと我が染めし袖濡れにけるかも
1254 妹がため菅の実摘みに行きし我れ山道に惑ひこの日暮らしつ  
      右の四首は、柿本朝臣人麻呂歌集に出づ。  
      問答  
1255 佐保川に鳴くなる千鳥何しかも川原を偲ひいや川上る
1256 人こそばおほにも言はめ我がここだ偲ふ川原を標結ふなゆめ  
      右の二首は、鳥を詠む。  
1257 楽浪の志賀津の海人は我れなしに潜きはなせそ波立たずとも
1258 大船に楫しもあらなむ君なしに潜きせめやも波立たずとも  
      右の二首は、海人を詠む。  
      臨時  
1259 月草に衣ぞ染むる君がため斑の衣摺らむと思ひて
1260 春霞井の上ゆ直に道はあれど君に逢はむとた廻り来も  
1261 道の辺の草深百合の花笑みに笑みしがからに妻と言ふべしや
1262 黙あらじと言のなぐさに言ふことを聞き知れらくは悪しくはありけり  
1263 佐伯山卯の花持ちし愛しきが手をし取りてば花は散るとも
1264 時ならぬ斑の衣着欲しきか島の榛原時にあらねども  
1265 山守の里へ通ひし山道ぞ茂くなりける忘れけらしも  
1266 暁と夜烏鳴けどこの森の木末の上はいまだ静けし
1267 あしひきの山椿咲く八つ峰越え鹿待つ君が斎ひ妻かも  
1268 西の市にただひとり出でて目並べず買ひてし絹の商じこりかも
1269 今年行く新島守が麻衣肩のまよひは誰れか取り見む  
1270 大船を荒海に漕ぎ出や船たけ我が見し子らがまみはしるしも  
      所に就きて思ひを発す 旋頭歌  
1271 ももしきの大宮人の踏みし跡ところ沖つ波来寄らずありせば失せずあらましを  
      右の十七首は、古歌集に出づ。  
1272 子らが手を巻向山は常にあれど過ぎにし人に行きまかめやも
1273 巻向の山辺響みて行く水の水沫のごとし世の人我れは  
      右の二首は、柿本朝臣人麻呂歌集に出づ。  
      物に寄せて思ひを発す  
1274 こもりくの泊瀬の山に照る月は満ち欠けしけり人の常なき  
      右の一首は、古歌集に出づ。  
      行路  
1275 遠くありて雲居に見ゆる妹が家に早く至らむ歩め黒駒  
      右の一首は、柿本朝臣人麻呂歌集に出づ。  
      旋頭歌  
1276 大刀の後鞘に入野に葛引く我妹真袖に着せてむとかも夏草刈るも  
1277 住吉の波豆麻の君が馬乗衣さひづらふ漢女を据ゑて縫へる衣ぞ  
1278 住吉の出見の浜の柴な刈りそね娘子らが赤裳の裾の濡れて行かむ見む  
1279 住吉の小田を刈らす子奴かもなき奴あれど妹がみためと私田刈る  
1280 池の辺の小槻の下の小竹な刈りそねそれをだに君が形見に見つつ偲はむ  
1281 天にある日売菅原の草な刈りそね蜷の腸か黒き髪にあくたし付くも  
1282 夏蔭の妻屋の下に衣裁つ我妹うら設けて我がため裁たばやや大に裁て  
1283 梓弓引津の辺にあるなのりその花摘むまでに逢はずあらめやもなのりその花  
1284 うちひさす宮道を行くに我が裳は破れぬ玉の緒の思ひ乱れて家にあらましを  
1285 君がため手力疲れ織りたる衣ぞ春さらばいかなる色に摺りてばよけむ  
1286 はしたての倉橋山に立てる白雲見まく欲り我がするなへに立てる白雲  
1287 はしたての倉橋川の石の橋はも男盛りに我が渡してし石の橋はも  
1288 はしたての倉橋川の川のしづ菅我が刈りて笠にも編まぬ川のしづ菅  
1289 春日すら田に立ち疲れ君は悲しも若草の妻なき君し田に立ち疲る  
1290 山背の久世の社の草な手折りそ我が時と立ち栄ゆとも草な手折りそ  
1291 青みづら依網の原に人も逢はぬかも石走る近江県の物語りせむ  
1292 港の葦の末葉を誰れか手折りし我が背子が振る手を見むと我れぞ手折りし  
1293 垣越しに犬呼び越して鳥猟する君青山の茂き山辺に馬休め君  
1294 海の底沖つ玉藻のなのりその花妹と我れとここにしありとなのりその花  
1295 この岡に草刈るわらはなしか刈りそねありつつも君が来まさむ御馬草にせむ  
1296 江林に臥せる鹿やも求むるによき白栲の袖巻き上げて鹿待つ我が背  
1297 霰降り遠江の吾跡川楊刈れどもまたも生ふという吾跡川楊  
1298 朝月の日向の山に月立てり見ゆ遠妻を待ちたる人し見つつ偲はむ  
      右の二十三首は、柿本朝臣人麻呂歌集に出づ。  
1299 春日なる御笠の山に月の舟出づ風流士の飲む酒坏に影に見えつつ  
       喩 喩 歌  
      衣に寄する  
1300 今作る斑の衣面影に我れに思ほゆいまだ着ねども  
1301 紅に衣染めまく欲しけども着てにほはばか人の知るべき  
1302 かにかくに人は言ふとも織り継がむ我が機物の白き麻衣  
      玉に寄する  
1303 あぢ群のとをよる海に舟浮けて白玉採ると人に知らゆな  
1304 をちこちの磯の中にある白玉を人に知らえず見む縁もがも  
1305 海神の手に巻き持てる玉故に磯の浦廻に潜きするかも  
1306 海神の持てる白玉見まく欲り干たびぞ告りし潜きする海人  
1307 潜きする海人は告れども海神の心し得ねば見ゆといはなくに  
      木に寄する  
1308 天雲のたなびく山の隠りたる我が下心木の葉知るらむ  
1309 見れど飽かぬ人国山の木の葉をし我が心からなつかしみ思ふ  
      花に寄する  
1310 この山の黄葉の下の花を我れはつはつに見てなほひにけり  
      川に寄する  
1311 この川ゆ舟は行くべくありといへど渡り瀬ごとに守る人のありて  
      海に寄する  
1312 大海をさもらふ港事しあらばいづへゆ君は我を率しのがむ  
1313 風吹きて海は荒るとも明日と言はば久しくあるべし君がまにまに  
1314 雲隠る小島の神の畏けば目こそ隔てれ心隔てや  
      右の十五首は、柿本朝臣人麻呂歌集に出づ。  
      衣に寄する  
1315 橡の衣は人皆事なしと言ひし時より着欲しく思ほゆ  
1316 おほろかに我れし思はば下に着てなれにし衣を取りて着めやも  
1317 紅の深染めの衣下に着て上に取り着ば言なさむかも  
1318 橡の解き洗ひ衣のあやしくもことに着欲しきこの夕かも  
1319 橘の島にし居れば川遠みさらさず縫ひし我が下衣  
      糸に寄する  
1320 河内女の手染めの糸を繰り返し片糸にあれど絶えむと思へや  
      玉に寄する  
1321 海の底沈く白玉風吹きて海は荒れるとも採らずはやまじ  
1322 底清み沈ける玉を見まく欲り干たびぞ告りし潜きする海人  
1323 大海の水底照らし沈く玉斎ひて採らむ風な吹きそね  
1324 水底に沈く白玉誰が故に心尽して我が思はなくに  
1325 世間は常かくのみか結びてし白玉の緒の絶ゆらく思へば  
1326 伊勢の海の海人の島津が鰒玉採りて後もか恋の繁けむ  
1327 海の底沖つ白玉よしをなみ常かくのみや恋ひわたりなむ  
1328 葦の根のねもころ思ひて結びてし玉の緒といはば人解かめやも  
1329 白玉を手には巻かずに箱のみに置けりし人ぞ玉嘆かする  
1330 照左豆が手に巻き古す玉もがもその緒は替へて我が玉にせむ  
1331 秋風は継ぎてな吹きそ海の底沖にある玉を手に巻くまでに  
      日本琴に寄する  
1332 膝に伏す玉の小琴の事なくはいたくここだく我れ恋ひめやも  
      弓に寄する  
1333 陸奥の安達太良真弓弦はけて引かばか人の我を言なさむ  
1334 南淵の細川山に立つ檀弓束巻くまで人に知らえじ  
      山に寄する  
1335 岩畳畏き山と知りつつも我れは恋ふるか並にあらなくに  
1336 岩が根のこごしき山に入りそめて山なつかしみ出でかてぬかも  
1337 佐保山をおほに見しかど今見れば山なつかしも風吹くなゆめ  
1338 奥山の岩に苔生し畏けど思ふ心をいかにかもせむ  
1339 思ひあまりいたもすべなみ玉たすき畝傍の山に我れ標結ひつ  
      草に寄する  ページトップへ
1340 冬こもり春の大野を焼く人は焼き足らねかも我が心焼く  
1341 葛城の高間の草野早知りて標刺さましを今ぞ悔しき  
1342 我がやどに生ふるつちはり心ゆも思はぬ人の衣に摺らゆな  
1343 月草に衣色どり摺らめどもうつろふ色と言ふが苦しさ  
1344 紫の糸をぞ我が搓るあしひきの山橘を貫かむと思ひて  
1345 真玉つく越智の菅原我れ刈らず人の刈らまく惜しき菅原  
1346 山高み夕日隠りぬ浅茅原後見むために標結はましを  
1347 言痛くはかもかもせむを岩代の野辺の下草我れし刈りてば 一には「紅の現し心や妹に逢はずあらむ」といふ  
1348 真鳥棲む雲梯の社の菅の根を衣にかき付け着せむ子もがも  
1349 常ならぬ人国山の秋津野のかきつはたをし夢に見しかも  
1350 をみなへし佐紀沢の辺の真葛原いつかも繰りて我が衣に着む  
1351 君に似る草と見しより我が標めし野山の浅茅人な刈りそね  
1352 三島江の玉江の薦を標めしより己がとぞ思ふいまだ刈らねど  
1353 かくしてやなほや老いなむ雪降る大荒木野の小竹にあらなくに  
1354 近江のや八橋の小竹を矢はがずてまことありえむや恋しきものを  
1355 月草に衣は摺らむ朝露に濡れての後はうつろひぬとも  
1356 我が心ゆたにたゆたに浮蒪辺にも沖にも寄りかつましじ  
      稲に寄する  
1357 石上布留の早稲田を秀でずとも縄だに延へよ守りつつ居らむ  
      木に寄する  
1358 白菅の真野の榛原心ゆも思はぬ我れし衣に摺りつ  
1359 真木柱作る杣人いささめに仮廬のためと作りけめやも  
1360 向つ峰に立てる桃の木ならめやと人ぞささやく汝が心ゆめ  
1361 たらちねの母がその業る桑すらに願へば衣に着るといふものを  
1362 はしきやし我家の毛桃本茂み花のみ咲きてならざらめやも  
1363 向つ峰の若桂の木下枝取り花待つい間に嘆きつるかも  
      花に寄する  
1364 息の緒に思へる我れを山ぢさの花にか君がうつろひぬらむ  
1365 住吉の浅沢小野のかきつはた衣に摺り付け着む日知らずも  
1366 秋さらば移しもせむと我が蒔きし韓藍の花を誰れか摘みけむ  
1367 春日野に咲きたる萩は片枝はいまだふふめり言な絶えそね  
1368 見まく欲り恋ひつつ待ちし秋萩は花のみ咲きてならずかもあらむ  
1369 我妹子がやどの秋萩花よりは実になりてこそ恋ひまさりけれ  
      鳥に寄する  
1370 明日香川七瀬の淀に棲む鳥も心あれこそ波立てざらめ  
      獣に寄する  
1371 三国山木末に棲まふむささびの鳥待つごとく我れ待ち痩せむ  
      雲に寄する  
1372 岩倉の小野ゆ秋津に立ちわたる雲にしもあれや時をし待たむ  
      雷に寄する  
1373 天雲に近く光りて鳴る神し見れば畏し見ねば悲しも  
      雨に寄する  
1374 はなはだも降らぬ雨故にはたつみいたくな行きそ人の知るべく  
1375 ひさかたの雨には着ぬをあやしくも我が衣手は干る時なきか  
      月に寄する  
1376 み空行く月読壮士夕さらず目には見れども寄るよしもなし  
1377 春日山山高くあらし岩の上の菅の根見むに月待ちかたし  
1378 闇の夜は苦しきものをいつしかと我が待つ月も早も照らぬか  
1379 朝霜の消やすき命誰がために千年もがもと我が思はなくに  
      右の一首は、譬喩歌の類にあらず。ただし、闇の夜の歌人の所心の故に、ともにこの歌を作る。よりてこの歌をもちて、この次に載す。  
      埴に寄する  
1380 大和の宇陀の真埴のさ丹付かばそこもか人の我を言なさむ  
      神に寄する  
1381 木綿懸けて祭るみもろの神さびて斎むにはあらず人目多みこそ  
1382 木綿懸けて斎ふこの社超えぬべく思ほゆるかも恋の繁きに  
      川に寄する  
1383 絶えず行く明日香の川の淀めらば故しもあるごと人の見まくに  
1384 明日香川瀬々に玉藻は生ひたれどしがらみあれば靡きあはなくに  
1385 広瀬川袖潰くばかり浅きをや心深めて我が思へるらむ  
1386 泊瀬川流るる水沫の絶えばこそ我が思ふ心遂げじと思はめ  
1387 嘆きせば人知りぬべみ山川のたぎつ心を塞かへてあるかも  
1388 水隠りに息づきあまり早川の瀬には立つとも人に言はめやも  
      埋れ木に寄する  
1389 真鉋持ち弓削の川原の埋れ木のあらはるましじきことにあらなくに  
      海に寄する  
1390 大船に真楫しじ貫き漕ぎ出なば沖は深けむ潮は干ぬとも  
1391 伏越ゆ行かましものをまもらふにうち濡らさえぬ波数まずして  
1392 石そそき岸の浦廻に寄する波辺に来らばか言の繁けむ  
1393 磯の浦に来寄る白波返へりつつ過ぎかてなくは誰れにたゆたへ  
1394 近江の海波畏みと風まもり年はや経なむ漕ぐとはなしに  
1395 朝さぎに来寄る白波見まく欲り我れはすれども風こそ寄せね  
      浦の沙に寄する  
1396 紫の名高の浦の真砂地袖のみ触れて寝ずかなりなむ  
1397 豊国の企救の浜辺の真砂地真直にしあらば何か嘆かむ  
      藻に寄する  
1398 潮満てば入りぬる磯の草なれや見らく少く恋ふらくの多き  
1399 沖つ波寄する荒磯のなのりそは心のうちに障みとなれり  
1400 紫の名高の浦のなのりその磯に靡かむ時待つ我れを  
1401 荒磯越す波は畏ししかすがに海の玉藻の憎くはあらずて  
      舟に寄する  
1402 楽浪の志賀津の浦の舟乗りに乗りにし心常忘らえず  
1403 百伝ふ八十の島廻を漕ぐ舟に乗りにし心忘れかねつも  
1404 島伝ふ足早の小舟風まもり年はや経なむ逢ふとはなしに  
1405 水霧らふ沖つ小島に風をいたみ舟寄せかねつ心は思へど  
1406 こと放けば沖ゆ放けなむ港より辺著かふ時に放くべきものか  
      旋頭歌  
1407 御幣取り三輪の祝が斎ふ杉原薪伐りほとほとしくに手斧取らえぬ  
       挽 歌  
1408 鏡なす我が見し君を阿婆の野の花橘の玉に拾ひつ  
1409 秋津野を人の懸くれば朝撒きし君が思ほえて嘆きはやまず  
1410 秋津野に朝居る雲の失せゆけば昨日も今日もなき人思ほゆ  
1411 こもりくの泊瀬の山に霞立ちたなびく雲は妹にかもあらむ  
1412 たはことかおよづれことかこもりくの泊瀬の山に廬りせりといふ  
1413 秋山の黄葉あはれとうらぶれて入りにし妹は待てど来まさず  
1414 世間はまこと二代はゆかずあらし過ぎにし妹に逢はなく思へば  
1415 幸はひのいかなる人か黒髪の白くなるまで妹が声を聞く  
1416 我が背子をいづち行かめとさき竹のそがひに寝しく今し悔も  
1417 庭つ鳥鶏の垂り尾の乱れ尾の長き心も思ほえぬかも  
1418 薦枕相枕きし子もあらばこそ夜の更くらくも我が惜しみせめ  
1419 玉梓の妹は玉かもあしひきの清き山辺に撒けば散りぬる  
1420 玉梓の妹は花かもあしひきのこの山蔭に撒けば失せぬる  
      羈旅歌  
1421 名児の海を朝漕ぎ来れば海中に鹿子ぞ鳴くなるあはれその鹿子  
   
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