万葉集巻第十一 
 
 
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2355 新室の壁草刈りにいましたまはね 草のごと合ふ娘子は君がまにまに  
2356 新室を踏み鎮むる子し手玉鳴らすも 玉のごと照らせる君を内にと申せ
2357 泊瀬の斎槻が下に我が隠せる妻 あかねさし照れる月夜に人見てむかも 一には「人見つらむか」といふ  
2358 ますらをの思ひ乱れて隠せるその妻 天地に通り照るともあらはれめやも 一には「ますらをの思ひたけびて」といふ
2359 愛しと我が思ふ妹は早も死なぬか 生けりとも我れに寄るべしと人の言はなくに  
2360 高麗錦紐の片方ぞ床に落ちにける 明日の夜し来なむと言はば取り置きて待たむ
2361 朝戸出の君が足結を濡らす露原 早く起き出でつつ我れも裳裾濡らさな  
2362 何せむに命をもとな長く欲りせむ 生けりとも我が思ふ妹にやすく逢はなくに  
2363 息の緒に我れは思へど人目多みこそ 吹く風にあらばしばしば逢ふべきものを  
2364 人の親娘子子据ゑて守山辺から 朝な朝な通ひし君が来ねば悲しも  
2365 天なる一つ棚橋いかにか行かむ 若草の妻がりと言はば足飾りせむ  
2366 山背の久背の若子が欲しと言ふ我れ あふさわに我れを欲しと言ふ山背の久世  
      右の十二首は、柿本朝臣人麻呂が歌集に出づ。  
2367 岡の崎廻みたる道を人な通ひそ ありつつも君が来まさむ避き道にせむ  
2368 玉垂の小簾のすけきに入り通ひ来ね たらちねの母が問はさば風と申さむ  
2369 うちひさす宮道に逢ひし人妻ゆゑに 玉の緒の思ひ乱れて寝る夜しぞ多き  
2370 まそ鏡見しかと思ふ妹も逢はぬかも 玉の緒の絶えたる恋の繁きこのころ  
2371 海原の道に乗りてや我が恋ひ居らむ 大船のゆたにあるらむ人の子ゆゑに  
      右の五首は、古歌集の中に出づ。  
       正 述 心 緒  
2372 たらちねの母が手離れかくばかりすべなきことはいまだせなくに
2373 人の寝る味寐は寝ずてはしきやし君が目すらを欲りし嘆くも 或本の歌には「 君を思ふに明けにけるかも」といふ  
2374 恋ひしなば恋ひも死ねとや玉桙の道行く人の言も告げなく
2375 心には千重に思へど人に言はぬ我が恋妻を見むよしもがも  
2376 かくばかり恋ひむものぞと知らませば遠くも見べくあらましものを
2377 いつはしも恋ひぬ時とはあらねども夕かたまけて恋ひはすべなし  
2378 かくのみし恋ひやわたらむたまきはる命も知らず年は経につつ  (再掲)  
2379 我れゆ後生まれむ人は我がごとく恋する道にあひこすなゆめ  
2380 ますらをの現し心も我れはなし夜昼といはず恋ひしわたれば  
2381 何せむに命継ぎけむ我妹子に恋ひぬ前にも死なましものを  
2382 よしゑやし来まさぬ君を何せむにいとはず我れは恋ひつつ居らむ  
2383 見わたせば近き渡りをた廻り今か来ますと恋ひつつぞ居る  
2384 はしきやし誰が障ふれかも玉桙の道見忘れて君が来まさぬ  
2385 君が目を見まく欲りしてこの二夜千年のごとも我は恋ふるかも  
2386 うち日さす宮道を人は満ち行けど我が思ふ君はただひとりのみ  
2387 世の中は常かくのみと思へどもはたた忘れずなほ恋ひにけり  
2388 我が背子は幸くいますと帰り来と我れに告げ来む人も来ぬかも  
2389 あらたまの五年経れど我が恋の跡なき恋のやまなくあやし  
2390 巌すら行き通るべきますらをも恋といふことは後悔いにけり  
2391 日並べば人知りぬべし今日の日は千年のごともありこせぬかも  
2392 立ちて居てたづきも知らず思へども妹に告げねば間使も来ず  
2393 ぬばたまのこの夜な明けそ赤らひく朝行く君を待たば苦しも  
2394 恋するに死するものにあらませば我が身は千たび死にかへらまし  
2395 玉かぎる昨日の夕見しものを今日の朝に恋ふべきものか  
2396 なかなかに見ずあらましを相見てゆ恋ほしき心まして思ほゆ  
2397 玉桙の道行かずあらばねもころのかかる恋には逢はざらましを  
2398 朝影に我が身はなりぬ玉かきるほのかに見えて去にし子ゆゑに  
2399 行き行きて逢はぬ妹ゆゑひさかたの天露霜に濡れにけるかも  
2400 たまさかに我が見し人をいかならむよしをもちてかまた一目見む  
2401 しましくも見ぬば恋ほしき我妹子を日に日に来れば言の繁けく  
2402 たまきはる世までと定め頼みたる君によりてし言の繁けく  
2403 赤らひく肌も触れずて寐ぬれども心を異には我が思はなくに  
2404 いで何かここだはなはだ利心の失するまで思ふ恋ゆゑにこそ  
2405 恋ひ死なば恋ひも死ねとか我妹子が我家の門を過ぎて行くらむ  
2406 妹があたり遠くも見ればあやしくも我れは恋ふるか逢ふよしなしに  
2407 玉くせの清き川原にみそぎして斎ふ命は妹がためこそ  
2408 思ひ寄り見ては寄りにしものにあれば一日の間も忘れて思へや  
2410 高麗錦紐解き開けて夕だに知らずある命恋ひつつかあらむ  
2411 百積の船隠り入る八占さし母は問ふともその名は告らじ  
2412 眉根掻き鼻ひ紐解け待つらむかいつかも見むと思へる我れを  
2413 君に恋ひうらぶれ居れば悔しくも我が下紐の結ふ手いたづらに  
2414 あらたまの年は果つれど敷栲の袖交へし子を忘れて思へや  
2415 白栲の袖をはつはつ見しからにかかる恋をも我れはするかも  
2416 我妹子に恋ひすべながり夢に見むと我れは思へど寐ねらえなくに  
2417 故もなく我が下紐を解けしめて人にな知らせ直に逢ふまでに  
2418 恋ふること慰めかねて出でて行けば山を川をも知らず来にけり  
       寄 物 陳 思  ページトップへ
2419 娘子らを袖振る山の瑞垣の久しき時ゆ思ひけり我れは  
2420 ちはやぶる神の持たせる命をば誰がためにかも長く欲りせむ  
2421 石上布留の神杉神さぶる恋をも我れはさらにするかも  
2422 いかならむ名負ふ神に手向けせば我が思ふ妹を夢にだに見む  
2423 天地といふ名の絶えてあらばこそ汝と我れと逢ふことやまめ  
2424 月見れば国は同じぞ山へなり愛し妹はへなりたるかも  
2425 来る道は岩踏む山はなくもがも我が待つ君が馬つまづくに  
2426 岩根踏みへなれる山はあらねども逢はぬ日まねみ恋ひわたるかも  
2427 道の後深津島山しましくも君が目見ねば苦しかりけり  
2428 紐鏡能登香の山も誰がゆゑか君来ませるに紐解かず寝む  
2429 山科の木幡の山を馬はあれど徒歩より我が来し汝を思ひかねて  
2430 遠山に霞たなびきいや遠に妹が目見ねば我れ恋ひにけり  
2431 宇治川の瀬々のしき波しくしくに妹は心に乗りにけるかも  
2432 ちはや人宇治の渡りの瀬を早み逢はずこそあれ後も我が妻  
2433 はしきやし逢はぬ子ゆゑにいたづらに宇治川の瀬に裳裾濡らしつ  
2434 宇治川の水泡さかまき行く水の事かへらずぞ思ひ染めてし  
2435 鴨川の後瀬静けく後も逢はむ妹には我れは今ならずとも  
2436 言に出でて言はばゆゆしみ山川のたぎつ心を塞かへたりけり  
2437 水の上に数書くごとき我が命妹に逢はむとうけひつるかも  
2438 荒礒越し外行く波の外心我れは思はじ恋ひて死ぬとも  
2439 近江の海沖つ白波知らずとも妹がりといはば七日越え来む  
2440 大船の香取の海にいかり下ろしいかなる人か物思はずあらむ  
2441 沖つ藻を隠さふ波の五百重波千重しくしくに恋ひわたるかも  
2442 人言はしましぞ我妹綱手引く海ゆまさりて深くしぞ思ふ  
2443 近江の海沖つ島山奥まけて我が思ふ妹が言の繁けく  
2444 近江の海沖漕ぐ舟のいかり下ろし隠りて君が言待つ我れぞ  
2445 隠り沼の下ゆ恋ふればすべをなみ妹が名告りつ忌むべきものを  
2446 大地は取り尽すとも世の中の尽しえぬものは恋にしありけり  
2447 隠りどの沢泉なる岩が根も通してぞ思ふ我が恋ふらくは  
2448 白真弓石辺の山の常磐なる命なれやも恋ひつつ居らむ  
2449 近江の海沈く白玉知らずして恋ひせしよりは今こそまされ  
2450 白玉を巻きてぞ持てる今よりは我が玉にせむ知れる時だに  
2451 白玉を手に巻きしより忘れじと思ひけらくは何か終らむ  
2452 白玉の間開けつつ貫ける緒もくくり寄すれば後もあふものを  
2453 香具山に雲居たなびきおほほしく相見し子らを後恋ひむかも  
2454 雲間よりさ渡る月のおほほしく相見し子らを見むよしもがも  
2455 天雲の寄り合ひ遠み逢はずとも異し手枕我れまかめやも  
2456 雲だにもしるくし立たば慰めて見つつも居らむ直に逢ふまでに  
2457 春柳葛城山に立つ雲の立ちても居ても妹をしぞ思ふ  
2458 春柳葛城山に立つ雲の立ちても居ても妹をしぞ思ふ  
2459 我がゆゑに言はれし妹は高山の嶺の朝霧過ぎにけむかも  
2460 ぬばたまの黒髪山の山菅に小雨降りしきしくしく思ほゆ  
2461 大野らに小雨降りしく木の下に時と寄り来ね我が思ふ人  
2462 朝霜の消なば消ぬべく思ひつついかにこの夜を明かしてむかも  
2463 我が背子が浜行く風のいや早に言を早みかいや逢はずあらむ  
2464 遠き妹が振り放け見つつ偲ふらむこの月の面に雲なたなびき  
2465 山の端を追ふ三日月のはつはつに妹をぞ見つる恋ほしきまでに  
2466 我妹子し我れを思はばまそ鏡照り出づる月の影に見え来ね  
2467 久方の天照る月の隠りなば何になそへて妹を偲はむ  
2468 三日月のさやにも見えず雲隠り見まくぞ欲しきうたてこのころ  
2469 我が背子に我が恋ひ居れば我が宿の草さへ思ひうらぶれにけり  
2470 浅茅原小野に標結ふ空言をいかなりと言ひて君をし待たむ  
2471 道の辺の草深百合の後もと言ふ妹が命を我れ知らめやも  
2472 港葦に交じれる草のしり草の人皆知りぬ我が下思ひは  
2473 山ぢさの白露重みうらぶれて心も深く我が恋やまず  
2474 港にさ根延ふ小菅ぬすまはず君に恋ひつつありかてぬかも  
2475 山背の泉の小菅なみなみに妹が心を我が思はなくに  
2476 見わたしの三室の山の巌菅ねもころ我れは片思ぞする 一には「みもろの山の岩小菅」といふ  
2477 菅の根のねもころ君が結びてし我が紐の緒を解く人もなし  
2478 山菅の乱れ恋のみせしめつつ逢はぬ妹かも年は経につつ  
2479 我が宿の軒にしだ草生ひたれど恋忘れ草見れどいまだ生ひず  
2480 打つ田には稗はしあまたありといへど選えし我れぞ夜をひとり寝る  
2481 あしひきの名負ふ山菅押し伏せて君し結ばば逢はずあらめやも  
2482 秋柏潤和川辺の小竹の芽の人には忍び君に堪へなくに  
2483 さね葛後も逢はむと夢のみにうけひわたりて年は経につつ  
2484 道の辺のいちしの花のいちしろく人皆知りぬ我が恋妻は 或本の歌には「いちしろく人知りにけり継ぎてし思へば」といふ  
2485 大野らにたどきも知らず標結ひてありかつましじ我が恋ふらくは  
2486 水底に生ふる玉藻のうち靡き心は寄りて恋ふるこのころ  
2487 敷栲の衣手離れて玉藻なす靡きか寝らむ我を待ちかてに  
2488 君来ずは形見にせむと我がふたり植ゑし松の木君を待ち出でむ  
2489 袖振らば見ゆべき限り我れはあれどその松が枝に隠らひにけり  
2490 茅渟の海の浜辺の小松根深めて我れ恋ひわたる人の子ゆゑに  
      或本の歌に曰はく  
2491 茅渟の海の潮干の小松ねもころに恋ひやわたらむ人の子ゆゑに  
2492 奈良山の小松が末のうれむぞは我が思ふ妹に逢はずやみなむ  
2493 礒の上に立てるむろの木ねもころに何しか深め思ひそめけむ  
2494 橘の本に我を立て下枝取りならむや君と問ひし子らはも  
2495 天雲に翼打ちつけて飛ぶ鶴のたづたづしかも君しまさねば  
2496 妹に恋ひ寐ねぬ朝明にをし鳥のこゆかく渡る妹が使か  
2497 思ひにしあまりにしかばにほ鳥のなづさひ来しを人見けむかも  
2498 高山の嶺行くししの友を多み袖振らず来ぬ忘ると思ふな  
2499 大船に真楫しじ貫き漕ぐほともここだ恋ふるを年にあらばいかに  
2500 たらつねの母が養ふ蚕の繭隠り隠れる妹を見むよしもがも  
2501 肥人の額髪結へる染木綿の染みにし心我れ忘れめや 一には「 忘らえめやも」といふ  
2502 隼人の名に負ふ夜声のいちしろく我が名は告りつ妻と頼ませ  
2503 剣大刀諸刃の利きに足踏みて死なば死なむよ君によりては  
2504 我妹子に恋ひしわたれば剣大刀名の惜しけくも思ひかねつも  
2505 朝月の日向黄楊櫛古りぬれど何しか君が見れど飽かざらむ  
2506 里遠み恋ひうらぶれぬまそ鏡床の辺去らず夢に見えこそ  
2507 まそ鏡手に取り持ちて朝な朝な見れども君は飽くこともなし  
2508 夕されば床の辺去らぬ黄楊枕何しか汝れが主待ちかたき  
2509 解き衣の恋ひ乱れつつ浮き真砂生きても我れはありわたるかも  
2510 梓弓引きてゆるさずあらませばかかる恋にはあはざらましを  
2511 言霊の八十の街に夕占問ふ占まさに告る妹は相寄らむ  
2512 玉桙の道行き占に占なへば妹に逢はむと我れに告りつも  
       問 答  ページトップへ
2513 すめろぎの神の御門を畏みとさもらふ時に逢へる君かも  
2514 まそ鏡見とも言はめや玉かぎる岩垣淵の隠りたる妻  
      右の二首  
2515 赤駒が足掻速けば雲居にも隠り行かむぞ袖まけ我妹  
2516 こもりくの豊泊瀬道は常滑のかしこき道ぞ恋ふらくはゆめ  
2517 味酒のみもろの山に立つ月の見が欲し君が馬の音ぞする  
      右の三首  
2518 鳴る神の少し響みてさし曇り雨も降らぬか君を留めむ  
2519 鳴る神の少し響みて降らずとも我は留まらむ妹し留めば  
      右の二首  
2520 敷栲の枕響みて夜も寝ず思ふ人には後も逢ふものを  
2521 敷栲の枕は人に言とへやその枕には苔生しにたり  
      右の二首  
      以前の一百四十九首は、柿本朝臣人麻呂が歌集に出づ。  
       正 述 心 緒  
2522 たらちねの母に障らばいたづらに汝も我れも事なるべしや  
2523 我妹子が我れを送ると白栲の袖漬つまでに泣きし思ほゆ  
2524 奥山の真木の板戸を押し開きしゑや出で来ね後は何せむ  
2525 刈り薦の一重を敷きてさ寝れども君とし寝れば寒けくもなし  
2526 かきつはた丹つらふ君をいささめに思ひ出でつつ嘆きつるかも  
2527 恨めしと思ふさなはにありしかば外のみぞ見し心は思へど  
2528 さ丹つらふ色には出でず少なくも心のうちに我が思はなくに  
2529 我が背子に直に逢はばこそ名は立ため言の通ひに何かそこゆゑ  
2530 ねもころに片思ひすれかこのころの我が心どの生けるともなき  
2531 待つらむに至らば妹が嬉しみと笑まむ姿を行きて早見む  
2532 誰れぞこの我が宿来呼ぶたらちねの母に嘖はえ物思ふ我れを  
2533 さ寝ぬ夜は千夜にありとも我が背子が思ひ悔ゆべき心は持たじ  
2534 家人は道もしみみに通へども我が待つ妹が使来ぬかも  
2535 あらたまの寸戸が竹垣網目ゆも妹し見えなば我れ恋ひめやも  
2536 我が背子がその名告らじとたまきはる命は捨てつ忘れたまふな  
2537 おほならば誰が見むとかもぬばたまの我が黒髪を靡けて居らむ  
2538 面忘れいかなる人のするものぞ我れはしかねつ継ぎてし思へば  
2539 相思はぬ人のゆゑにかあらたまの年の緒長く我が恋ひ居らむ  
2540 おほろかの心は思はじ我がゆゑに人に言痛く言はれしものを  
2541 息の緒に妹をし思へば年月の行くらむ別も思ほえぬかも  
2542 たらちねの母に知らえず我が持てる心はよしゑ君がまにまに  
2543 ひとり寝と薦朽ちめやも綾席緒になるまでに君をし待たむ  
2544 相見ては千年やいぬるいなをかも我れやしか思ふ君待ちかてに  
2545 振分けの髪を短み青草を髪にたくらむ妹をしぞ思ふ  
2546 た廻り行箕の里に妹を置きて心空にあり地は踏めども  
2547 若草の新手枕をまきそめて夜をや隔てむ憎くあらなくに  
2548 我が恋ふることも語らひ慰めむ君が使を待ちやかねてむ  
2549 うつつには逢ふよしもなし夢にだに間なく見え君恋ひに死ぬべし  
2550 誰ぞかれと問はば答へむすべをなみ君が使を帰しやりつも  
2551 思はぬに至らば妹が嬉しみと笑まむ眉引き思ほゆるかも  
2552 かくばかり恋ひむものぞと思はねば妹が手本をまかぬ夜もありき  
2553 かくだにも我れは恋ひなむ玉梓の君が使を待ちやかねてむ  
2554 妹に恋ひ我が泣く涙敷栲の木枕通り袖さへ濡れぬ 或本の歌には「 枕通りてまけば寒しも」といふ  
2555 立ちて思ひ居てもぞ思ふ紅の赤裳裾引き去にし姿を  
2556 思ひにしあまりにしかばすべをなみ出でてぞ行きしその門を見に  
2557 心には千重しくしくに思へども使を遣らむすべの知らなく  
2558 夢のみに見てすらここだ恋ふる我はうつつに見てばましていかにあらむ  
2559 相見ては面隠さゆるものからに継ぎて見まくの欲しき君かも  
2560 朝戸を早くな開けそあぢさはふ目が欲る君が今夜来ませる  
2561 玉垂の小簾の垂簾を行きかちに寐は寝さずとも君は通はせ  
2562 たらちねの母に申さば君も我れも逢ふとはなしに年ぞ経ぬべき  
2563 愛しと思へりけらしな忘れと結びし紐の解くらく思へば  
2564 昨日見て今日こそ隔て我妹子がここだく継ぎて見まくし欲しも  
2565 人もなき古りにし里にある人をめぐくや君が恋に死なする  
2566 人言の繁き間守りて逢ふともやなほ我が上に言の繁けむ  
2567 里人の言寄せ妻を荒垣の外にや我が見む憎くあらなくに  
2568 人目守る君がまにまに我れさへに早く起きつつ裳の裾濡れぬ  
2569 ぬばたまの妹が黒髪今夜もか我がなき床に靡けて寝らむ  
2570 花ぐはし葦垣越しにただ一目相見し子ゆゑ千たび嘆きつ  
2571 色に出でて恋ひば人見て知りぬべし心のうちの隠り妻はも  
2572 相見ては恋慰むと人は言へど見て後にぞも恋まさりける  
2573 おほろかに我れし思はばかくばかり難き御門を罷り出めやも  
2574 思ふらむその人なれやぬばたまの夜ごとに君が夢にし見ゆる 或本の歌には「 夜昼と言はずあが恋ひわたる」といふ  
2575 かくのみし恋ひば死ぬべみたらちねの母にも告げずやまず通はせ  
2576 大夫は友の騒きに慰もる心もあらむ我れぞ苦しき  
2577 偽りも似つきてぞするいつよりか見ぬ人恋ふに人の死せし  
2578 心さへ奉れる君に何をかも言はず言ひしと我がぬすまはむ  
2579 面忘れだにもえすやと手握りて打てども懲りず恋といふ奴  
2580 めづらしき君を見むとこそ左手の弓取る方の眉根掻きつれ  
2581 人間守り葦垣越しに我妹子を相見しからに言ぞさだ多き  
2582 今だにも目な乏しめそ相見ずて恋ひむ年月久しけまくに  
2583 朝寝髪我れは梳らじうるはしき君が手枕触れてしものを  
2584 早行きていつしか君を相見むと思ひし心今ぞなぎぬる  
2585 面形の忘るとあらばあづきなく男じものや恋ひつつ居らむ  
2586 言に言へば耳にたやすし少なくも心のうちに我が思はなくに  
2587 あづきなく何のたはこと今さらに童言する老人にして  
2588 相見ては幾久さにもあらなくに年月のごと思ほゆるかも  
2589 ますらをと思へる我れをかくばかり恋せしむるは悪しくはありけり  
2590 かくしつつ我が待つ験あらぬかも世の人皆の常にあらなくに  
2591 人言を繁みと君に玉梓の使も遣らず忘ると思ふな  
2592 大原の古りにし里に妹を置きて我れ寐ねかねつ夢に見えこそ  
2593 夕されば君来まさむと待ちし夜のなごりぞ今も寐ねかてにする  
2594 相思はず君はあるらしぬばたまの夢にも見えずうけひて寝れど  
2595 岩根踏み夜道は行かじと思へれど妹によりては忍びかねつも  
2596 人言の繁き間守ると逢はずあらばつひにや子らが面忘れなむ  
2597 恋死なむ後は何せむ我が命生ける日にこそ見まく欲りすれ  
2598 敷栲の枕動きて寐ねらえず物思ふ今夜早も明けぬかも  
2599 行かぬ我れを来むとか夜も門閉さずあはれ我妹子待ちつつあるらむ  
2600 夢にだに何かも見えぬ見ゆれども我れかも惑ふ恋の繁きに  
2601 慰もる心はなしにかくのみし恋ひやわたらむ月に日に異に  或本の歌には「 沖つ波しきてのみやも恋ひわたりなむ」といふ  
2602 いかにして忘れむものぞ我妹子に恋はまされど忘らえなくに  
2603 遠くあれど君にぞ恋ふる玉桙の里人皆に我れ恋ひめやも  
2604 験なき恋をもするか夕されば人の手まきて寝らむ子ゆゑに  
2605 百代しも千代しも生きてあらめやも我が思ふ妹を置きて嘆かむ  
2606 うつつにも夢にも我れは思はずき古りたる君にここに逢はむとは  
2607 黒髪の白髪までと結びてし心ひとつを今解かめやも  
2608 心をし君に奉ると思へればよしこのころは恋ひつつをあらむ  
2609 思ひ出でて音には泣くともいちしろく人の知るべく嘆かすなゆめ  
2610 玉桙の道行きぶりに思はぬに妹を相見て恋ふるころかも  
2611 人目多み常かくのみしさもらはばいづれの時か我が恋ひずあらむ  
2612 敷栲の衣手離れて我を待つとあるらむ子らは面影に見ゆ  
2613 妹が袖別れし日より白栲の衣片敷き恋ひつつぞ寝る  
2614 白栲の袖はまゆひぬ我妹子が家のあたりをやまず振りしに  
2615 ぬばたまの我が黒髪を引きぬらし乱れてさらに恋ひわたるかも  
2616 今さらに君が手枕まき寝めや我が紐の緒の解けつつもとな  
2617 白栲の袖触れてし夜我が背子に我が恋ふらくはやむ時もなし  
2618 夕占にも占にも告れる今夜だに来まさぬ君をいつとか待たむ  
2619 眉根掻き下いふかしみ思へるにいにしへ人を相見つるかも  
      或本の歌に曰はく  
2620 眉根掻き誰をか見むと思ひつつ日長く恋ひし妹に逢へるかも  
      一書の歌に曰はく  
2621 眉根掻き下いふかしみ思へりし妹が姿を今日見つるかも  
2622 敷栲の枕をまきて妹と我れと寝る夜はなくて年ぞ経にける  
2623 奥山の真木の板戸を音早み妹があたりの霜の上に寝ぬ  
2624 あしひきの山桜戸を開け置きて我が待つ君を誰れか留むる  
2625 月夜よみ妹に逢はむと直道から我れは来つれど夜ぞ更けにける  
       寄 物 陳 思  ページトップへ
2626 朝影に我が身はなりぬ韓衣裾のあはずて久しくなれば  
2627 解き衣の思ひ乱れて恋ふれどもなぞ汝がゆゑと問ふ人もなき  
2628 摺り衣着りと夢に見つうつつにはいづれの人の言か繁けむ  
2629 志賀の海人の塩焼き衣なれぬれど恋といふものは忘れかねつも  
2630 紅の八しほの衣朝な朝な馴れはすれどもいやめづらしも  
2631 紅の深染めの衣色深く染みにしかばか忘れかねつる  
2632 逢はなくに夕占を問ふと幣に置くに我が衣手はまたぞ継ぐべき  
2633 古衣打棄つる人は秋風の立ちくる時に物思ふものぞ  
2634 はねかづら今する妹がうら若み笑みみ怒りみ付けし紐解く  
2635 いにしへの倭文機帯を結び垂れ誰れといふ人も君にはまさじ  
      一書の歌に曰はく  
2636 いにしへの狭織の紐を結び垂れ誰れしの人も君にはまさじ  
2637 逢はずとも我れは恨みじこの枕我れと思ひてまきてさ寝ませ  
2638 結へる紐解かむ日遠み敷栲の我が木枕は苔生しにけり  
2639 ぬばたまの黒髪敷きて長き夜を手枕の上に妹待つらむか  
2640 まそ鏡直にし妹を相見ずは我が恋やまじ年は経ぬとも  
2641 まそ鏡手に取り持ちて朝な朝な見む時さへや恋の繁けむ  
2642 里遠み恋わびにけりまそ鏡面影去らず夢に見えこそ  
      右の一首は、上に柿本朝臣人麻呂が歌の中に見ゆ。ただし、句々相換れるをもちてのゆゑに、ここに載す。  
2643 剣大刀身に佩き添ふる大夫や恋といふものを忍びかねてむ  
2644 剣大刀諸刃の上に行き触れて死にかもしなむ恋ひつつあらずは  
2645 うち鼻ひ鼻をぞひつる剣大刀身に添ふ妹し思ひけらしも  
2646 梓弓末のはら野に鳥狩する君が弓弦の絶えむと思へや  
2647 葛城の襲津彦真弓新木にも頼めや君が我が名告りけむ  
2648 梓弓引きみ緩へみ来ずは来ず来ば来そをなぞ来ずは来ばそを  
2649 時守の打ち鳴す鼓数みみれば時にはなりぬ逢はなくもあやし  
2650 燈火の影にかがよふうつせみの妹が笑まひし面影に見ゆ  
2651 玉桙の道行き疲れ稲席しきても君を見むよしもがも  
2652 小治田の板田の橋の壊れなば桁より行かむな恋ひそ我妹  
2653 宮材引く泉の杣に立つ民のやむ時もなく恋ひわたるかも  
2654 住吉の津守網引のうけの緒の浮かれか行かむ恋ひつつあらずは  
2655 手作りを空ゆ引き越し遠みこそ目言離るらめ絶ゆと隔てや  
2656 かにかくに物は思はじ飛騨人の打つ墨縄のただ一道に  
2657 あしひきの山田守る翁が置く鹿火の下焦れのみ我が恋ひ居らむ  
2658 そき板もち葺ける板目のあはざらばいかにせむとか我が寝そめけむ  
2659 難波人葦火焚く屋の煤してあれどおのが妻こそ常めづらしき  
2660 妹が髪上げ竹葉野の放れ駒荒びにけらし逢はなく思へば  
2661 馬の音のとどともすれば松蔭に出でてぞ見つるけだし君かと  
2662 君に恋ひ寐ねぬ朝明に誰が乗れる馬の足の音ぞ我れに聞かする  
2663 紅の裾引く道を中に置きて我れは通はむ君か来まさむ 一には「 裾漬く川を」といふ また「 待ちにか待たむ」といふ  
2664 天飛ぶや軽の社の斎ひ槻幾代まであらむ隠り妻ぞも  
2665 神なびにひもろき立てて斎へども人の心はまもりあへぬもの  
2666 天雲の八重雲隠り鳴る神の音のみにやも聞きわたりなむ  
2667 争へば神も憎ますよしゑやしよそふる君が憎くあらなくに  
2668 夜並べて君を来ませとちはやぶる神の社を祷まぬ日はなし  
2669 霊ぢはふ神も我れをば打棄てこそしゑや命の惜しけくもなし  
2670 我妹子にまたも逢はむとちはやぶる神の社を祷まぬ日はなし  
2671 ちはやぶる神の斎垣も越えぬべし今は我が名の惜しけくもなし  
2672 夕月夜暁闇の朝影に我が身はなりぬ汝を思ひかねに  
2673 月しあれば明くらむ別も知らずして寝て我が来しを人見けむかも  
2674 妹が目の見まく欲しけく夕闇の木の葉隠れる月待つごとし  
2675 真袖持ち床うち掃ひ君待つと居りし間に月かたぶきぬ  
2676 二上に隠らふ月の惜しけども妹が手本を離るるこのころ 再掲  
2677 我が背子が振り放け見つつ嘆くらむ清き月夜に雲なたなびき  
2678 まそ鏡清き月夜のゆつりなば思ひはやまず恋こそまさめ  
2679 今夜の有明月夜ありつつも君をおきては待つ人もなし  
2680 この山の嶺に近しと我が見つる月の空なる恋もするかも  
2681 ぬばたまの夜渡る月のゆつりなばさらにや妹に我が恋ひ居らむ  
2682 朽網山夕居る雲の薄れゆかば我れは恋ひむな君が目を欲り  
2683 君が着る御笠の山に居る雲の立てば継がるる恋もするかも  
2684 ひさかたの天飛ぶ雲にありてしか君をば相見むおつる日なしに  
2685 佐保の内ゆあらしの風の吹きぬれば帰りは知らに嘆く夜ぞ多き  
2686 はしきやし吹かぬ風ゆゑ玉櫛笥開けてさ寝にし我れぞ悔しき  
2687 窓越しに月おし照りてあしひきのあらし吹く夜は君をしぞ思ふ  
2688 川千鳥棲む沢の上に立つ霧のいちしろけむな相言ひそめてば  
2689 我が背子が使を待つと笠も着ず出でつつぞ見し雨の降らくに  
2690 韓衣君にうち着せ見まく欲り恋ひぞ暮らしし雨の降る日を  
2691 彼方の埴生の小屋に小雨降り床さへ濡れぬ身に添へ我妹  
2692 笠なみと人には言ひて雨障み留まりし君が姿し思ほゆ  
2693 妹が門行き過ぎかねつひさかたの雨も降らぬかそをよしにせむ  
2694 夕占問ふ我が袖に置く白露を君に見せむと取れば消につつ  
2695 桜麻の麻生の下草露しあれば明かしてい行け母は知るとも  
2696 待ちかねて内には入らじ白栲の我が衣手に露は置きぬとも  
2697 朝露の消やすき我が身老いぬともまたをちかへり君をし待たむ  
2698 白栲の我が衣手に露は置き妹は逢はさずたゆたひにして  
2699 かにかくに物は思はじ朝露の我が身ひとつは君がまにまに  
2700 夕凝りの霜置きにけり朝戸出にいたくし踏みて人に知らゆな  
2701 かくばかり恋ひつつあらずは朝に日に妹が踏むらむ地にあらましを  
2702 あしひきの山鳥の尾の一峰越え一目見し子に恋ふべきものか  
2703 我妹子に逢ふよしをなみ駿河なる富士の高嶺の燃えつつかあらむ  
2704 荒熊のすむといふ山の師歯迫山責めて問ふとも汝が名は告らじ  
2705 妹が名も我が名も立たば惜しみこそ富士の高嶺の燃えつつわたれ  
      或歌に曰はく  ページトップへ
2706 君が名も我が名も立たば惜しみこそ富士の高嶺の燃えつつも居れ  
2707 行きて見て来れば恋ほしき朝香潟山越しに置きて寐ねかてぬかも  
2708 阿太人の梁打ち渡す瀬を早み心は思へど直に逢はぬかも  
2709 玉かぎる岩垣淵の隠りには伏して死ぬとも汝が名は告らじ  
2710 明日香川明日も渡らむ石橋の遠き心は思ほえぬかも  
2711 明日香川水行きまさりいや日異に恋のまさらばありかつましじ  
2712 ま薦刈る大野川原の水隠りに恋ひ来し妹が紐解く我れは  
2713 あしひきの山下響み行く水の時ともなくも恋ひわたるかも  
2714 はしきやし逢はぬ君ゆゑいたづらにこの川の瀬に玉裳濡らしつ  
2715 泊瀬川早み早瀬をむすび上げて飽かずや妹と問ひし君はも  
2716 青山の岩垣沼の水隠りに恋ひやわたらむ逢ふよしをなみ  
2717 しなが鳥猪名山響に行く水の名のみ寄そりし隠り妻はも 一には「 名のみ寄そりて恋ひつつやあらむ」といふ  
2718 我妹子に我が恋ふらくは水ならばしがらみ越して行くべく思ほゆ 或本の歌の發句には「 相思はぬ人を思はく」といふ  
2719 犬上の鳥籠の山なる不知哉川いさとを聞こせ我が名告らすな  
2720 奥山の木の葉隠れて行く水の音聞きしより常忘らえず  
2721 言急くは中は淀ませ水無川絶ゆといふことをありこすなゆめ  
2722 明日香川行く瀬を早み早けむと待つらむ妹をこの日暮らしつ  
2723 もののふの八十宇治川の早き瀬に立ちえぬ恋も我れはするかも 一には「立ちても君は忘れかねつも」といふ  
2724 神なびの打廻の崎の岩淵の隠りてのみや我が恋ひ居らむ  
2725 高山ゆ出で来る水の岩に触れ砕けてぞ思ふ妹に逢はぬ夜は  
2726 朝東風にゐで越す波の外目にも逢はぬものゆゑ瀧もとどろに  
2727 高山の岩もとたぎち行く水の音には立てじ恋ひて死ぬとも  
2728 隠り沼の下に恋ふれば飽き足らず人に語りつ忌むべきものを  
2729 水鳥の鴨の棲む池の下樋なみいぶせき君を今日見つるかも  
2730 玉藻刈るゐでのしがらみ薄みかも恋の淀める我が心かも  
2731 我妹子が笠のかりての和射見野に我れは入りぬと妹に告げこそ  
2732 あまたあらぬ名をしも惜しみ埋れ木の下ゆぞ恋ふるゆくへ知らずて  
2733 秋風の千江の浦廻の木屑なす心は寄りぬ後は知らねどし  
2734 白真砂御津の埴生の色に出でて言はなくのみぞ我が恋ふらくは  
2735 風吹かぬ浦に波立ちなき名をも我れは負へるか逢ふとはなしに 一には「女(をみな)と思ひて」といふ  
2736 酢蛾島の夏身の浦に寄する波間も置きて我が思はなくに  
2737 近江の海沖つ島山奥まへて我が思ふ妹が言の繁けく  
2738 霰降り遠つ大浦に寄する波よしも寄すとも憎くあらなくに  
2739 紀の海の名高の浦に寄する波音高きかも逢はぬ子ゆゑに  
2740 牛窓の波の潮騒島響み寄そりし君は逢はずかもあらむ  
2741 沖つ波辺波の来寄る佐太の浦のこのさだ過ぎて後恋ひむかも  
2742 白波の来寄する島の荒礒にもあらましものを恋ひつつあらずは  
2743 潮満てば水泡に浮かぶ真砂にも我はなりてしか恋ひは死なずて  
2744 住吉の岸の浦廻にしく波のしくしく妹を見むよしもがも  
2745 風をいたみいたぶる波の間なく我が思ふ妹は相思ふらむか  
2746 大伴の御津の白波間なく我が恋ふらくを人の知らなく  
2747 大船のたゆたふ海にいかり下ろしいかにせばかも我が恋やまむ  
2748 みさご居る沖つ荒礒に寄する波ゆくへも知らず我が恋ふらくは  
2749 大船の艫にも舳にも寄する波寄すとも我れは君がまにまに  
2750 大き海に立つらむ波は間あらむ君に恋ふらくやむ時もなし  
2751 志賀の海人の煙焼き立て焼く塩の辛き恋をも我れはするかも  
      右の一首は、或いは「石川君子朝臣作る」といふ。  
2752 なかなかに君に恋ひずは比良の浦の海人ならましを玉藻刈りつつ  
      或本の歌に曰はく  
2753 なかなかに君に恋ひずは縄の浦の海人にあらましを玉藻刈る刈る  
2754 鱸取る海人の燈火外にだに見ぬ人ゆゑに恋ふるこのころ  
2755 港入りの葦別け小舟障り多み我が思ふ君に逢はぬころかも  
2756 庭清み沖へ漕ぎ出る海人舟の楫取る間なき恋もするかも  
2757 あぢかまの塩津をさして漕ぐ船の名は告りてしを逢はざらめやも  
2758 大船に葦荷刈り積みしみみにも妹は心に乗りにけるかも  
2759 駅路に引き舟渡し直乗りに妹は心に乗りにけるかも  
2760 我妹子に逢はず久しもうましもの安倍橘の苔生すまでに  
2761 あぢの住む渚沙の入江の荒礒松我を待つ子らはただ独りのみ  
2762 我妹子を聞き都賀野辺のしなひ合歓木我れは忍びず間なくし思へば  
2763 波の間ゆ見ゆる小島の浜久木久しくなりぬ君に逢はずして  
2764 朝柏潤八川辺の小竹の芽の偲ひて寝れば夢に見えけり  
2765 浅茅原刈り標さして空言も寄そりし君が言をし待たむ  
2766 月草の借れる命にある人をいかに知りてか後も逢はむと言ふ  
2767 大君の御笠に縫へる有間菅ありつつ見れど事なき我妹  
2768 菅の根のねもころ妹に恋ふるにし大夫心思ほえぬかも  
2769 菅の根のねもころ妹に恋ふるにし大夫心思ほえぬかも  
2770 あしひきの山沢ゑぐを摘みに行かむ日だにも逢はせ母は責むとも  
2771 奥山の岩本菅の根深くも思ほゆるかも我が思ひ妻は  
2772 葦垣の中の和草にこやかに我れと笑まして人に知らゆな  
2773 紅の浅葉の野らに刈る草の束の間も我を忘らすな  
2774 妹がため命残せり刈り薦の思ひ乱れて死ぬべきものを  
2775 我妹子に恋つつあらずは刈り薦の思ひ乱れて死ぬべきものを  
2776 三島江の入江の薦を刈りにこそ我れをば君は思ひたりけれ  
2777 あしひきの山橘の色に出でて我は恋なむを止め難にすな  
2778 葦鶴の騒く入江の白菅の知らせむためと言痛かるかも  
2779 我が背子に我が恋ふらくは夏草の刈り除くれども生ひしくごとし  
2780 道の辺のいつ柴原のいつもいつも人の許さむ言をし待たむ  
2781 我妹子が袖を頼みて真野の浦の小菅の笠を着ずて来にけり  
2782 真野の池の小菅を笠に縫はずして人の遠名を立つべきものか  
2783 さす竹の世隠りてあれ我が背子が我がりし来ずは我れ恋めやも  
2784 神奈備の浅小竹原のうるはしみ我が思ふ君が声のしるけく  
2785 山高み谷辺に延へる玉葛絶ゆる時なく見むよしもがも  
2786 道の辺の草を冬野に踏み枯らし我れ立ち待つと妹に告げこそ  
2787 畳薦へだて編む数通はさば道の芝草生ひずあらましを  
2788 水底に生ふる玉藻の生ひ出でずよしこのころはかくて通はむ  
2789 海原の沖つ縄海苔うち靡き心もしのに思ほゆるかも  
2790 紫の名高の浦の靡き藻の心は妹に寄りにしものを  
2791 海の底奥を深めて生ふる藻のもとも今こそ恋はすべなき  
2792 さ寝がには誰れとも寝めど沖つ藻の靡きし君が言待つ我れを  
2793 我妹子が何とも我れを思はねばふふめる花の穂に咲きぬべし  
2794 隠りには恋ひて死ぬともみ園生の韓藍の花の色に出でめやも  
2795 咲く花は過ぐる時あれど我が恋ふる心のうちはやむ時もなし  
2796 山吹のにほへる妹がはねず色の赤裳の姿夢に見えつつ  
2797 天地の寄り合ひの極み玉の緒の絶えじと思ふ妹があたり見つ  
2798 息の緒に思へば苦し玉の緒の絶えて乱れな知らば知るとも  
2799 玉の緒の絶えたる恋の乱れなば死なまくのみぞまたも逢はずして  
2800 玉の緒のくくり寄せつつ末つひに行きは別れず同じ緒にあらむ  
2801 片糸もち貫きたる玉の緒を弱み乱れやしなむ人の知るべく  
2802 玉の緒の現し心や年月の行きかはるまで妹に逢はずあらむ  
2803 玉の緒の間も置かず見まく欲り我が思ふ妹は家遠くありて  
2804 隠り津の沢たつみなる岩根ゆも通してぞ思ふ君に逢はまくは  
2805 紀の国の飽等の浜の忘れ貝我れは忘れじ年は経ぬとも  
2806 水くくる玉に交じれる磯貝の片恋ひのみに年は経につつ  
2807 住吉の浜に寄るといふうつせ貝実なき言もち我れ恋ひめやも  
2808 伊勢の海人の朝な夕なに潜くといふ鰒の貝の片思にして  
2809 人言を繁みと君を鶉鳴く人の古家に語らひて遣りつ  
2810 暁と鶏は鳴くなりよしゑやしひとり寝る夜は明けば明けぬとも  
2811 大海の荒礒の洲鳥朝な朝な見まく欲しきを見えぬ君かも  
2812 思へども思ひもかねつあしひきの山鳥の尾の長きこの夜を  
      或本の歌に曰はく  
2813 あしひきの山鳥の尾のしだり尾の長々し夜をひとりかも寝む  
2814 里中に鳴くなる鶏の呼び立てていたくは泣かぬ隠り妻はも 一には「里響め鳴くなる鶏の」といふ  
2815 高山にたかべさ渡り高々に我が待つ君を待ち出でむかも  
2816 伊勢の海ゆ鳴き来る鶴の音どろも君が聞こさば我れ恋ひめやも  
2817 我妹子に恋ふれにかあらむ沖に棲む鴨の浮寝の安けくもなし  
2818 明けぬべく千鳥しば鳴く白栲の君が手枕いまだ飽かなくに  
       問 答  ページトップへ
2819 眉根掻き鼻ひ紐解け待てりやもいつかも見むと恋ひ来し我れを  
      右は、上に柿本朝臣人麻呂が歌の中に見ゆ。ただし、問答なるをもちてのゆゑに、ここに累ね載す。  
2820 今日なれば鼻ひ鼻ひし眉かゆみ思ひしことは君にしありけり  
      右の二首  
2821 音のみを聞きてや恋ひむまそ鏡直目に逢ひて恋ひまくもいたく  
2822 この言を聞かむとならしまそ鏡照れる月夜も闇のみに見つ  
      右の二首  
2823 我妹子に恋ひてすべなみ白栲の袖返ししは夢に見えきや  
2824 我が背子が袖返す夜の夢ならしまことも君に逢ひたるごとし  
      右の二首  
2825 我が恋は慰めかねつま日長く夢に見えずて年の経ぬれば  
2826 ま日長く夢にも見えず絶えぬとも我が片恋はやむ時もあらじ  
      右の二首  
2827 うらぶれて物な思ひそ天雲のたゆたふ心我が思はなくに  
2828 うらぶれて物は思はじ水無瀬川ありても水は行くといふものを  
      右の二首  
2829 かきつはた佐紀沼の菅を笠に縫ひ着む日を待つに年ぞ経にける  
2830 おしてる難波菅笠置き古し後は誰が着む笠ならなくに  
      右の二首  
2831 かくだにも妹を待ちなむさ夜更けて出で来し月のかたぶくまでに  
2832 木の間より移ろふ月の影を惜しみ立ち廻るにさ夜更けにけり  
      右の二首  
2833 栲領布の白浜波の寄りもあへず荒ぶる妹に恋ひつつぞ居る 一には「恋ふるころかも」といふ  
2834 かへらまに君こそ我れに栲領巾の白浜波の寄る時もなき  
      右の二首  
2835 思ふ人来むと知りせば八重葎覆へる庭に玉敷かましを  
2836 玉敷ける家も何せむ八重葎覆へる小屋も妹と居りせば  
      右の二首  
2837 かくしつつあり慰めて玉の緒の絶えて別ればすべなかるべし  
2838 紅の花にしあらば衣手に染め付け持ちて行くべく思ほゆ  
      右の二首  
       譬 喩  
2839 紅の深染めの衣を下に着ば人の見らくににほひ出でむかも  
2840 衣しも多くあらなむ取り替へて着ればや君が面忘れたる  
      右の二首は、衣に寄せて思ひを喩ふ。  
2841 梓弓弓束巻き替へ中見さしさらに引くとも君がまにまに  
      右の一首は、弓に寄せて思ひを喩ふ。  
2842 みさご居る洲に居る舟の夕潮を待つらむよりは我れこそまされ  
      右の一首は、舟に寄せて思ひを喩ふ。  
2843 山川に筌を伏せて守りもあへず年の八年を我がぬすまひし  
      右の一首は、魚に寄せて思ひを喩ふ。  
2844 葦鴨のすだく池水溢るともまけ溝の辺に我れ越えめやも  
      右の一首は、水に寄せて思ひを喩ふ。  
2845 大和の室生の毛桃本繁く言ひてしものをならずはやまじ  
      右の一首は、水に寄せて思ひを喩ふ。  
2846 ま葛延ふ小野の浅茅を心ゆも人引かめやも我がなけなくに  
2847 三島菅いまだ苗なり時待たば着ずやなりなむ三島菅笠  
2848 み吉野の水隈が菅を編まなくに刈りのみ刈りて乱りてむとや  
2849 川上に洗ふ若菜の流れ来て妹があたりの瀬にこそ寄らめ  
      右の四首は、草に寄せて思ひを喩ふ。  
2850 かくしてやなほやまもらむ大荒木の浮田の社の標にあらなくに  
      右の一首は、標に寄せて思ひを喩ふ。  
2851 いくばくも降らぬ雨ゆゑ我が背子が御名のここだく瀧もとどろに  
      右の一首は、滝に寄せて思ひを喩ふ。  
   
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