万葉集巻第十ニ 
 
 
       正 述 心 緒  古 語 辞 典 へ
2852 我が背子が朝明の姿よく見ずて今日の間を恋ひ暮らすかも  
2853 我が心ともしみ思ふ新夜の一夜もおちず夢に見えこそ
2854 愛しと我が思ふ妹を人皆の行くごと見めや手にまかずして  
2855 このころの寐の寝らえぬは敷栲の手枕まきて寝まく欲りこそ
2856 忘るやと物語りして心遣り過ぐせど過ぎずなほ恋ひにけり  
2857 夜も寝ず安くもあらず白栲の衣は脱かじ直に逢ふまでに
2858 後も逢はむ我にな恋ひそと妹は言へど恋ふる間に年は経につつ  
2859 直に会はずあるはうべなり夢にだに何しか人の言の繁けむ 或本の歌には「うつつにはうべも逢はなく夢にさへ」といふ  
2860 ぬばたまのその夢にだに見え継ぐや袖干る日なく我れは恋ふるを  
2861 うつつには直には逢はず夢にだに逢ふと見えこそ我が恋ふらくに  
       寄 物 陳 思
2862 人の見る上は結びて人の見ぬ下紐解きて恋ふる日ぞ多き  
2863 人言の繁き時には我妹子し衣にありせば下に着ましを  
2864 真玉つくをちをし兼ねて思へこそ一重の衣ひとり着て寝れ  
2865 白栲の我が紐の緒の絶えぬ間に恋結びせむ逢はむ日までに  
2866 新治の今作る道さやかにも聞きてけるかも妹が上のことを  
2867 山背の石田の社に心おそく手向けしたれや妹に逢ひかたき  
2868 菅の根のねもころごろに照る日にも干めや我が袖妹に逢はずして  
2869 妹に恋ひ寐ねぬ朝明に吹く風は妹にし触れば我れさへに触れ  
2870 明日香川高川避かし越ゑ来しをまこと今夜は明けずも行かぬか  
2871 八釣川水底絶えず行く水の継ぎてぞ恋ふるこの年ころを  或本の歌には「水脈も絶えせず」といふ  
2872 礒の上に生ふる小松の名を惜しみ人に知らえず恋ひわたるかも  
      或本の歌に曰はく  
2873 岩の上に立てる小松の名を惜しみ人には言はず恋ひわたるかも  
2874 山川の水陰に生ふる山菅のやまずも妹は思ほゆるかも  
2875 浅葉野に立ち神さぶる菅の根のねもころ誰がゆゑ我が恋ひなくに 或本の歌には「誰が葉野に立ちしなひたる」といふ  
      右の二十三首は、柿本朝臣人麻呂が歌集に出づ。  
       正 述 心 緒  
2876 我が背子を今か今かと待ち居るに夜の更けゆけば嘆きつるかも
2877 玉釧まき寝る妹もあらばこそ夜の長けくも嬉しくあるべき  
2878 人妻に言ふは誰が言さ衣のこの紐解けと言ふは誰が言
2879 かくばかり恋ひむものぞと知らませばその夜はゆたにあらましものを  
2880 恋ひつつも後も逢はむと思へこそおのが命を長く欲りすれ
2881 今は我は死なむよ我妹逢はずして思ひわたれば安けくもなし  
2882 我が背子が来むと語りし夜は過ぎぬしゑやさらさらしこり来めやも  
2883 人言の讒しを聞きて玉桙の道にも逢はじと言へりし我妹  
2884 逢はなくも憂しと思へばいや増しに人言繁く聞こえ来るかも  
2885 里人も語り継ぐがねよしゑやし恋ひても死なむ誰が名ならめや  
2886 確かなる使をなみと心をぞ使に遣りし夢に見えきや  
2887 天地に少し至らぬ大夫と思ひし我れや雄心もなき  
2888 里近く家や居るべきこの我が目の人目をしつつ恋の繁けく  
2889 いつはなも恋ひずありとはあらねどもうたてこのころ恋し繁しも    
2890 ぬばたまの寐ねてし宵の物思ひに裂けにし胸はやむ時もなし  
2891 み空行く名の惜しけくも我れはなし逢はぬ日まねく年の経ぬれば  
2892 うつつにも今も見てしか夢のみに手本まき寝と見るは苦しも 或本の歌の發句には「 我妹子を」といふ  
2893 立ちて居てすべのたどきも今はなし妹に逢はずて月の経ぬれば 或本の歌には「君が目見ずて月の経ぬれば」といふ  (再掲)  
2894 逢はずして恋ひわたるとも忘れめやいや日に異には思ひ増すとも  
2895 外目にも君が姿を見てばこそ我が恋やまめ命死なずは 一には「命に向ふ我が恋やまめ」といふ  
2896 恋ひつつも今日はあらめど玉櫛笥明けなむ明日をいかに暮らさむ   (再掲)  
2897 さ夜更けて妹を思ひ出で敷栲の枕もそよに嘆きつるかも  
2898 人言はまこと言痛くなりぬともそこに障らむ我れにあらなくに  
2899 立ちて居てたどきも知らず我が心天つ空なり地は踏めども  
2900 世の中の人のことばと思ほすなまことぞ恋ひし逢はぬ日を多み  
2901 いで如何に我がここだ恋ふる我妹子が逢はじと言へることもあらなくに  
2902 ぬばたまの夜を長みかも我が背子が夢に夢にし見えかへるらむ  
2903 あらたまの年の緒長くかく恋ひばまこと我が命全くあらめやも  
2904 思ひ遣るすべのたどきも我れはなし逢はずてまねく月の経ぬれば   (再掲)  
2905 朝去にて夕は来ます君ゆゑにゆゆしくも我は嘆きつるかも  
2906 聞きしより物を思へば我が胸は破れて砕けて利心もなし  
2907 人言を繁み言痛み我妹子に去にし月よりいまだ逢はぬかも  
2908 うたがたも言ひつつもあるか我れならば地には落ちず空に消なまし  
2909 いかならむ日の時にかも我妹子が裳引きの姿朝に日に見む  
2910 ひとり居て恋ふれば苦し玉たすき懸けず忘れむ事計りもが  
2911 なかなかに黙もあらましをあづきなく相見そめても我れは恋ふるか  
2912 我妹子が笑まひ眉引き面影にかかりてもとな思ほゆるかも  
2913 あかねさす日の暮れゆけばすべをなみ千たび嘆きて恋ひつつぞ居る  
2914 我が恋は夜昼わかず百重なす心し思へばいたもすべなし  
2915 いとのきて薄き眉根をいたづらに掻かしめつつも逢はぬ人かも  
2916 恋ひ恋ひて後も逢はむと慰もる心しなくは生きてあらめやも  
2917 いくばくも生けらじ命を恋ひつつぞ我れは息づく人に知らえず  
2918 他国によばひに行きて大刀が緒もいまだ解かねばさ夜ぞ明けにける  
2919 ますらをの聡き心も今はなし恋の奴に我れは死ぬべし  
2920 常かくし恋ふれば苦ししましくも心休めむ事計りせよ  
2921 おほろかに我れし思はば人妻にありといふ妹に恋ひつつあらめや  
2922 心には千重に百重に思へれど人目を多み妹に逢はぬかも  
2923 人目多み目こそ忍ぶれすくなくも心のうちに我が思はなくに  
2924 人の見て言とがめせぬ夢に我れ今夜至らむ宿閉すなゆめ  
2925 いつまでに生かむ命ぞおほかたは恋ひつつあらずは死なましものを  
2926 愛しと思ふ我妹を夢に見て起きて探るになきが寂しさ  
2927 妹と言はばなめし畏ししかすがに懸けまく欲しき言にあるかも  
2928 玉かつま逢はむと言ふは誰れなるか逢へる時さへ面隠しする  
2929 うつつにか妹が来ませる夢にかも我れか惑へる恋の繁きに  
2930 おほかたは何かも恋ひむ言挙げせず妹に寄り寝む年は近きを  
2931 ふたりして結びし紐をひとりして我れは解きみじ直に逢ふまでは  
2932 終へむ命ここは思はずただしくも妹に逢はざることをしぞ思ふ  
2933 たわや女は同じ心にしましくもやむ時もなく見てむとぞ思ふ  
2934 夕さらば君に逢はむと思へこそ日の暮るらくも嬉しかりけれ  
2935 ただ今日も君には逢はめど人言を繁み逢はずて恋ひわたるかも  
2936 世の中に恋繁けむと思はねば君が手本をまかぬ夜もありき  
2937 みどり子のためこそ乳母は求むと言へ乳飲めや君が乳母求むらむ  
2938 悔しくも老いにけるかも我が背子が求むる乳母に行かましものを  
2939 うらぶれて離れにし袖をまたまかば過ぎにし恋い乱れ来むかも  
2940 おのがじし人死にすらし妹に恋ひ日に異に痩せぬ人に知らえず  
2941 宵々に我が立ち待つにけだしくも君来まさずは苦しかるべし  
2942 生ける世に恋といふものを相見ねば恋のうちにも我れぞ苦しき  
2943 思ひつつ居れば苦しもぬばたまの夜に至らば我れこそ行かめ  
2944 心には燃えて思へどうつせみの人目を繁み妹に逢はぬかも  
2945 相思はず君はまさめど片恋に我れはぞ恋ふる君が姿に  
2946 あぢさはふ目は飽かざらねたづさはり言とはなくも苦しかりけり  
2947 あらたまの年の緒長くいつまでか我が恋ひ居らむ命知らずて  
2948 今は我は死なむよ我が背恋すれば一夜一日も安けくもなし  
2949 白栲の袖折り返し恋ふればか妹が姿の夢にし見ゆる  
2950 人言を繁み言痛み我が背子を目には見れども逢ふよしもなし  
2951 恋と言へば薄きことなりしかれども我れは忘れじ恋ひは死ぬとも   
2952 なかなかに死なば安けむ出づる日の入る別知らぬ我れし苦しも  
2953 思ひ遣るたどきも我れは今はなし妹に逢はずて年の経ぬれば  
2954 我が背子に恋ふとにしあらしみどり子の夜泣きをしつつ寐ねかてなくは  
2955 我が命の長く欲しけく偽りをよくする人を捕ふばかりを  
2956 人言を繁みと妹に逢はずして心のうちに恋ふるこのころ  
2957 玉梓の君が使を待ちし夜のなごりぞ今も寐ねぬ夜の多き  
2958 玉桙の道に行き逢ひて外目にも見ればよき子をいつとか待たむ  
2959 思ひにしあまりにしかばすべをなみ我れは言ひてき忌むべきものを  
      或本の歌には「門に出でて我が臥い伏す人見けむかも」といふ。一には「すべをなみ出でてぞ行きし家のあたり見に」といふ。柿本朝臣人麻呂が歌集には「にほ鳥のなづさひ来しを人見けむかも」といふ。  
2960 明日の日はその門行かむ出でて見よ恋ひたる姿あまたしるけむ  
2961 うたて異に心いぶせし事計りよくせ我が背子逢へる時だに  
2962 我妹子が夜戸出の姿見てしより心空なり地は踏めども  
2963 海石榴市の八十の街に立ち平し結びし紐を解かまく惜しも  
2964 我が命の衰へぬれば白栲の袖のなれにし君をしぞ思ふ  
2965 君に恋ひ我が泣く涙白栲の袖さへ漬ちてせむすべもなし  
2966 今よりは逢はじとすれや白栲の我が衣手の干る時もなき  
2967 夢かと心惑ひぬ月まねく離れにし君が言の通へば  
2968 あらたまの年月かねてぬばたまの夢に見えけり君が姿は  
2969 今よりは恋ふとも妹に逢はめやも床の辺去らず夢に見えこそ  
2970 人の見て言とがめせぬ夢にだにやまず見えこそ我が恋やまむ 或本の歌の頭には「人目多み直には逢はず」といふ
 
2971 うつつには言も絶えたり夢にだに継ぎて見えこそ直に逢ふまでに  
2972 うつせみの現し心も我れはなし妹を相見ずて年の経ぬれば  
2973 うつせみの常のことばと思へども継ぎてし聞けば心惑ひぬ    
2974 白栲の袖離れて寝るぬばたまの今夜は早も明けば明けなむ  
2975 白栲の手本ゆたけく人の寝る味寐は寝ずや恋ひわたりなむ  
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2976 かくのみにありける君を衣にあらば下にも着むと我が思へりける  
2977 橡の袷の衣裏にせば我れ強ひめやも君が来まさぬ  
2978 紅の薄染め衣浅らかに相見し人に恋ふるころかも  
2979 年の経ば見つつ偲へと妹が言ひし衣の縫目見れば悲しも  
2980 橡の一重の衣うらもなくあるらむ子ゆゑ恋ひわたるかも  
2981 解き衣の思ひ乱れて恋ふれども何のゆゑぞと問ふ人もなし  
2982 桃染めの浅らの衣浅らかに思ひて妹に逢はむものかも  
2983 大君の塩焼く海人の藤衣なれはすれどもいやめづらしも  
2984 赤絹の純裏の衣長く欲り我が思ふ君が見えぬころかも  
2985 真玉つくをちこち兼ねて結びつる我が下紐の解くる日あらめや  
2986 紫の帯の結びも解きもみずもとなや妹に恋ひわたりなむ  
2987 高麗錦紐の結びも解き放けず斎ひて待てど験なきかも  
2988 紫の我が下紐の色に出でず恋ひかも痩せむ逢ふよしをなみ  
2989 何ゆゑか思はずあらむ紐の緒の心に入りて恋しきものを  
2990 まそ鏡見ませ我が背子我が形見待てらむ時に逢はざらめやも  
2991 まそ鏡直目に君を見てばこそ命に向ふ我が恋やまめ  
2992 まそ鏡見飽かぬ妹に逢はずして月の経ゆけば生けりともなし  
2993 祝部らが斎くみもろのまそ鏡懸けて偲ひつ逢ふ人ごとに  
2994 針はあれど妹しなければ付けめやと我れを悩まし絶ゆる紐の緒  
2995 高麗剣我が心から外のみに見つつや君を恋ひわたりなむ  
2996 剣大刀名の惜しけくも我れはなしこのころの間の恋の繁きに  
2997 梓弓末はし知らずしかれどもまさかは君に寄りにしものを  
      一本の歌に曰はく  
2998 梓弓末のたづきは知らねども心は君に寄りにしものを  
2999 梓弓引きみ緩へみ思ひみてすでに心は寄りにしものを  
3000 梓弓引きて緩へぬ大夫や恋といふものを忍びかねてむ  
3001 梓弓末の中ごろ淀めりし君には逢ひぬ嘆きはやめむ  
3002 今さらに何をか思はむ梓弓引きみ緩へみ寄りにしものを  
3003 娘子らが績み麻のたたり打ち麻懸けうむ時なしに恋ひわたるかも  
3004 たらちねの母が飼ふ蚕の繭隠りいぶせくもあるか妹に逢はずして  
3005 玉たすき懸けねば苦し懸けたれば継ぎて見まくの欲しき君かも  
3006 紫のまだらのかづら花やかに今日見し人に後恋ひむかも  
3007 玉葛懸けぬ時なく恋ふれども何しか妹に逢ふ時もなき  
3008 逢ふよしの出でくるまでは畳薦隔て編む数夢にし見えむ  
3009 しらかつく木綿は花もの言こそばいつのまえだも常忘らえね  
3010 石上布留の高橋高々に妹が待つらむ夜ぞ更けにける  
3011 港入りの葦別け小舟障り多み今来む我れを淀むと思ふな  
      或本の歌に曰はく  
3012 港入りに葦別け小舟障り多み君に逢はずて年ぞ経にける  
3013 水を多み上田に種蒔き稗を多み選らえし業ぞ我がひとり寝る  
3014 魂合へば相寝るものを小山田の鹿猪田守るごと母し守らすも 一には「母が守らしし」といふ  
3015 春日野に照れる夕日の外のみに君を相見て今ぞ悔しき  
3016 あしひきの山より出づる月待つと人には言ひて妹待つ我れを  
3017 夕月夜暁闇のおほほしく見し人ゆゑに恋ひわたるかも  
3018 久方の天つみ空に照る月の失せなむ日こそ我が恋止まめ  
3019 十五日に出でにし月の高々に君をいませて何をか思はむ  
3020 月夜よみ門に出で立ち足占して行く時さへや妹に逢はずあらむ  
3021 ぬばたまの夜渡る月のさやけくはよく見てましを君が姿を  
3022 あしひきの山を木高み夕月をいつかと君を待つが苦しさ  
3023 橡の衣解き洗ひ真土山本つ人にはなほしかずけり  
3024 佐保川の川波立たず静けくも君にたぐひて明日さへもがも  
3025 我妹子に衣春日の宜寸川よしもあらぬか妹が目を見む  
3026 との曇り雨布留川のさざれ波間なくも君は思ほゆるかも  
3027 我妹子や我を忘らすな石上袖布留川の絶えむと思へや  
3028 三輪山の山下響み行く水の水脈し絶えずは後も我が妻  
3029 神のごと聞こゆる瀧の白波の面知る君が見えぬこのころ  
3030 山川の瀧にまされる恋すとぞ人知りにける間なくし思へば  
3031 あしひきの山川水の音に出でず人の子ゆゑに恋ひわたるかも  
3032 高湍なる能登瀬の川の後も逢はむ妹には我れは今にあらずとも  
3033 洗ひ衣取替川の川淀の淀まむ心思ひかねつも  
3034 斑鳩の因可の池のよろしくも君を言はねば思ひぞ我がする  
3035 隠り沼の下ゆは恋ひむいちしろく人の知るべく嘆きせめやも  
3036 ゆくへなみ隠れる小沼の下思に我れぞ物思ふこのころの間  
3037 隠り沼の下ゆ恋ひあまり白波のいちしろく出でぬ人の知るべく  
3038 妹が目を見まく堀江のさざれ波しきて恋ひつつありと告げこそ  
3039 石走る垂水の水のはしきやし君に恋ふらく我が心から  
3040 君は来ず我れは故なみ立つ波のしくしくわびしかくて来じとや  
3041 近江の海辺は人知る沖つ波君をおきては知る人もなし  
3042 大海の底を深めて結びてし妹が心はうたがひもなし  
3043 佐太の浦に寄する白波間なく思ふを何か妹に逢ひかたき  
3044 思ひ出でてすべなき時は天雲の奥処も知らず恋ひつつぞ居る  
3045 天雲のたゆたひやすき心あらば我れをな頼めそ待たば苦しも  
3046 君があたり見つつも居らむ生駒山雲なたなびき雨は降るとも  
3047 なかなかに何か知りけむ我が山に燃ゆる煙の外に見ましを  
3048 我妹子に恋ひすべながり胸を熱み朝戸開くれば見ゆる霧かも  
3049 暁の朝霧隠りかへらばに何しか恋の色に出でにける  
3050 思ひ出づる時はすべなみ佐保山に立つ雨霧の消ぬべく思ほゆ  
3051 殺目山行き返り道の朝霞ほのかにだにや妹に逢はざらむ  
3052 かく恋ひむものと知りせば夕置きて朝は消ぬる露ならましを  
3053 夕置きて朝は消ぬる白露の消ぬべき恋も我れはするかも  
3054 後つひに妹は逢はむと朝露の命は生けり恋は繁けど  
3055 朝な朝な草の上白く置く露の消なばともにと言ひし君はも  
3056 朝日さす春日の小野に置く露の消ぬべき我が身惜しけくもなし  
3057 露霜の消やすき我が身老いぬともまたをちかへり君をし待たむ  
3058 君待つと庭のみ居ればうち靡く我が黒髪に霜ぞ置きにける 或本の歌の尾句には「白栲の我が衣手に露ぞ置きにける」といふ  
3059 朝霜の消ぬべくのみや時なしに思ひわたらむ息の緒にして  
3060 楽浪の波越すあざに降る小雨間も置きて我が思はなくに  
3061 神さびて巌に生ふる松が根の君が心は忘れかねつも  
3062 み狩りする雁羽の小野の櫟柴のなれはまさらず恋こそまされ  
3063 桜麻の麻生の下草早く生ひば妹が下紐解かずあらましを  
3064 春日野に浅茅標結ひ絶えめやと我が思ふ人はいや遠長に  
3065 あしひきの山菅の根のねもころに我れはぞ恋ふる君が姿を 或本の歌には「我が思ふ人を見むよしもがも」といふ  
3066 かきつはた左紀沢に生ふる菅の根の絶ゆとや君が見えぬこのころ  
3067 あしひきの山菅の根のねもころにやまず思はば妹に逢はむかも  
3068 相思はずあるものをかも菅の根のねもころごろに我が思へるらむ  
3069 山菅のやまずて君を思へかも我が心どのこの頃はなき  
3070 妹が門行き過ぎかねて草結ぶ風吹き解くなまたかへり見む  一には「直に逢ふまでに」といふ  
3071 浅茅原茅生に足踏み心ぐみ我が思ふ子らが家のあたり見つ 一には「妹が家のあたり見つ」といふ  
3072 うちひさす宮にはあれど月草のうつろふ心我が思はなくに  
3073 百に千に人は言ふとも月草のうつろふ心我れ持ためやも  
3074 忘れ草我が紐に付く時となく思ひわたれば生けりともなし  
3075 暁の目覚まし草とこれをだに見つついまして我れと偲はせ  
3076 忘れ草垣もしみみに植ゑたれど醜の醜草なほ恋ひにけり  
3077 浅茅原小野に標結ふ空言も逢はむと聞こせ恋のなぐさに  
      或本の歌には「来むと知らせし君をし待たむ」といふ。また、柿本朝臣人麻呂が歌集に見ゆ。然れども落句少しく異なるのみ。  
3078 人皆の笠に縫ふといふ有間菅ありて後にも逢はむとぞ思ふ  
3079 み吉野の秋津の小野に刈る草の思ひ乱れて寝る夜しぞ多き  
3080 妹待つと御笠の山の山菅の止まずや恋ひむ命死なずは  
3081 谷狭み嶺辺に延へる玉葛延へてしあらば年に来ずとも 一には「岩つなの延へてしあらば」といふ  
3082 水茎の岡の葛葉を吹きかへし面知る子らが見えぬころかも  
3083 赤駒のい行きはばかる真葛原何の伝て言直にしよけむ  
3084 木綿畳田上山のさな葛ありさりてしも今ならずとも  
3085 丹波道の大江の山のさな葛絶えむの心我が思はなくに  
3086 大崎の荒礒の渡り延ふ葛のゆくへもなくや恋ひわたりなむ  
3087 木綿包み 一には「畳」といふ  白月山のさな葛後もかならず逢はむとぞ思ふ 或本の歌には「絶えむと妹を我が思はなくに」といふ  
3088 はねず色のうつろひやすき心あれば年をぞ来経る言は絶えずて  
3089 かくしてぞ人は死ぬといふ藤波のただ一目のみ見し人ゆゑに  
3090 住吉の敷津の浦のなのりその名は告りてしを逢はなくも怪し  
3091 みさご居る荒礒に生ふるなのりそのよし名は告らじ親は知るとも  
3092 波の共靡く玉藻の片思に我が思ふ人の言の繁けく  
3093 わたつみの沖つ玉藻の靡き寝む早来ませ君待たば苦しも  
3094 わたつみの沖に生ひたる縄海苔の名はかつて告らじ恋ひは死ぬとも  
3095 玉の緒を片緒に縒りて緒を弱み乱るる時に恋ひずあらめやも  
3096 君に逢はず久しくなりぬ玉の緒の長き命の惜しけくもなし  
3097 恋ふることまされる今は玉の緒の絶えて乱れて死ぬべく思ほゆ  
3098 海人娘子潜き採るといふ忘れ貝世にも忘れじ妹が姿は  
3099 朝影に我が身はなりぬ玉かぎるほのかに見えて去にし子ゆゑに  
3100 なかなかに人とあらずは桑子にもならましものを玉の緒ばかり  
3101 ま菅よし宗我の川原に鳴く千鳥間なし我が背子我が恋ふらくは  
3102 恋衣着奈良の山に鳴く鳥の間なく時なし我が恋ふらくは  
3103 遠つ人狩道の池に住む鳥の立ちても居ても君をしぞ思ふ  
3104 葦辺行く鴨の羽音の音のみに聞きつつもとな恋ひわたるかも  
3105 鴨すらもおのが妻どちあさりして後るる間に恋ふといふものを  
3106 白真弓斐太の細江の菅鳥の妹に恋ふれか寐を寝かねつる  
3107 小竹の上に来居て鳴く鳥目を安み人妻ゆゑに我れ恋ひにけり  
3108 物思ふと寐ねず起きたる朝明にはわびて鳴くなり庭つ鳥さへ  
3109 朝烏早くな鳴きそ我が背子が朝明の姿見れば悲しも  
3110 馬柵越しに麦食む駒の罵らゆれど猶し恋しく思ひかねつも  
3111 さ桧隈桧隈川に馬留め馬に水飼へ我れ外に見む  
3112 おのれゆゑ罵らえて居れば青馬の面高夫駄に乗りて来べしや  
      右の歌一首は、平群文屋朝臣益人伝へて云はく、昔聞くならく、「紀皇女竊かに高安王に嫁ぎて嘖はえたりえい時に、この歌を作らす」といふ。ただし、高安王は左降せらえ、伊予国守に任けらゆ。  
3113 紫草を草と別く別く伏す鹿の野は異にして心は同じ  
3114 思はぬを思ふと言はば真鳥住む雲梯の杜の神し知らさむ  
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3115 紫は灰さすものぞ海石榴市の八十の街に逢へる子や誰れ  
3116 たらちねの母が呼ぶ名を申さめど道行く人を誰れと知りてか  
      右の二首  
3117 逢はなくはしかもありなむ玉梓の使をだにも待ちやかねてむ  
3118 逢はむとは千度思へどあり通ふ人目を多み恋つつぞ居る  
      右の二首  
3119 人目多み直に逢はずてけだしくも我が恋ひ死なば誰が名ならむも  
3120 相見まく欲しきがためは君よりも我れぞまさりていふかしみする  
      右の二首  
3121 うつせみの人目を繁み逢はずして年の経ぬれば生けりともなし  
3122 うつせみの人目繁くはぬばたまの夜の夢にを継ぎて見えこそ  
      右の二首  
3123 ねもころに思ふ我妹を人言の繁きによりて淀むころかも  
3124 人言の繁くしあらば君も我れも絶えむと言ひて逢ひしものかも  
      右の二首  
3125 すべもなき片恋をすとこの頃に我が死ぬべきは夢に見えきや  
3126 夢に見て衣を取り着装ふ間に妹が使ぞ先立ちにける  
      右の二首  
3127 ありありて後も逢はむと言のみを堅く言ひつつ逢ふとはなしに  
3128 ありありて我れも逢はむと思へども人の言こそ繁き君にあれ  
      右の二首  
3129 息の緒に我が息づきし妹すらを人妻なりと聞けば悲しも  
3130 我がゆゑにいたくなわびそ後つひに逢はじと言ひしこともあらなくに  
      右の二首  
3131 門立てて戸も閉したるをいづくゆか妹が入り来て夢に見えつる  
3132 門立てて戸は閉したれど盗人の穿れる穴より入りて見えけむ  
      右の二首  
3133 明日よりは恋ひつつ行かむ今夜だに早く宵より紐解け我妹  
3134 今さらに寝めや我が背子新夜の一夜もおちず夢に見えこそ  
      右の二首  
3135 我が背子が使を待つと笠も着ず出でつつぞ見し雨の降らくに  
3136 心なき雨にもあるか人目守り乏しき妹に今日だに逢はむを  
      右の二首  
3137 ただひとり寝れど寝かねて白栲の袖を笠に着濡れつつぞ来し  
3138 雨も降り夜も更けにけり今さらに君去なめやも紐解き設けな  
      右の二首  
3139 ひさかたの雨の降る日を我が門に蓑笠着ずて来る人や誰れ  
3140 巻向の穴師の山に雲居つつ雨は降れども濡れつつぞ来し  
      右の二首  
       羈 旅 発 思
3141 度会の大川の辺の若久木我が久ならば妹恋ひむかも  
3142 我妹子を夢に見え来と大和道の渡り瀬ごとに手向けぞ我がする  
3143 桜花咲きかも散ると見るまでに誰れかもここに見えて散り行く  
3144 豊国の企救の浜松ねもころに何しか妹に相言ひそめけむ  
      右の四首は、柿本朝臣人麻呂が歌集に出づ。  
3145 月変へて君をば見むと思へかも日も変へずして恋の繁けむ  
3146 な行きそと帰りも来やとかへり見に行けど帰らず道の長手を  
3147 旅にして妹を思ひ出でいちしろく人の知るべく嘆きせむかも  
3148 里離り遠くあらなくに草枕旅とし思へばなほ恋ひにけり  
3149 近くあれば名のみも聞きて慰めつ今夜ゆ恋のいやまさりなむ  
3150 旅にありて恋ふれば苦しいつしかも都に行きて君が目を見む  
3151 遠くあれば姿は見えず常のごと妹が笑まひは面影にして  
3152 年も経ず帰り来なむと朝影に待つらむ妹し面影に見ゆ  
3153 玉桙の道に出で立ち別れ来し日より思ふに忘る時なし  
3154 はしきやししかある恋にもありしかも君に後れて恋しき思へば  
3155 草枕旅の悲しくあるなへに妹を相見て後恋ひむかも  
3156 国遠み直には逢はず夢にだに我れに見えこそ逢はむ日までに  
3157 かく恋ひむものと知りせば我妹子に言問はましを今し悔しも  
3158 旅の夜の久しくなればさ丹つらふ紐解き放けず恋ふるこのころ  
3159 我妹子し我を偲ふらし草枕旅のまろ寝に下紐解けぬ  
3160 草枕旅の衣の紐解けて思ほゆるかもこの年ころは  
3161 草枕旅の紐解く家の妹し我を待ちかねて嘆かふらしも  
3162 玉釧まき寝し妹を月も経ず置きてや越えむこの山の崎  
3163 梓弓末は知らねど愛しみ君にたぐひて山道越え来ぬ  
3164 霞立つ春の長日を奥処なく知らぬ山道を恋ひつつか来む  
3165 外のみに君を相見て木綿畳手向けの山を明日か越え去なむ  
3166 玉かつま安倍島山の夕露に旅寝えせめや長きこの夜を  
3167 み雪降る越の大山行き過ぎていづれの日にか我が里を見む  
3168 いで我が駒早く行きこそ真土山待つらむ妹を行きて早見む  
3169 悪木山木末ことごと明日よりは靡きてありこそ妹があたり見む  
3170 鈴鹿川八十瀬渡りて誰がゆゑか夜越えに越えむ妻もあらなくに  
3171 我妹子にまたも近江の安の川安寐も寝ずに恋ひわたるかも  
3172 旅にありてものをぞ思ふ白波の辺にも沖にも寄るとはなしに  
3173 港廻に満ち来る潮のいや増しに恋はまされど忘らえぬかも  
3174 沖つ波辺波の来寄る佐太の浦のこのさだ過ぎて後恋ひむかも  
3175 在千潟あり慰めて行かめども家なる妹いいふかしみせむ  
3176 みをつくし心尽して思へかもここにももとな夢にし見ゆる  
3177 我妹子に触るとはなしに荒礒廻に我が衣手は濡れにけるかも  
3178 室の浦の瀬戸の崎なる鳴島の磯越す波に濡れにけるかも  
3179 霍公鳥飛幡の浦にしく波のしくしく君を見むよしもがも  
3180 我妹子を外のみや見む越の海の子難の海の島ならなくに  
3181 波の間ゆ雲居に見ゆる粟島の逢はぬものゆゑ我に寄そる子ら  
3182 衣手の真若の浦の真砂地間なく時なし我が恋ふらくは  
3183 能登の海に釣する海人の漁り火の光りにいませ月待ちがてり  
3184 志賀の海人の釣りし燭せる漁り火のほのかに妹を見むよしもがも  
3185 難波潟漕ぎ出る舟のはろはろに別れ来ぬれど忘れかねつも  
3186 浦廻漕ぐ熊野舟つきめづらしく懸けて思はぬ月も日もなし  
3187 松浦舟騒く堀江の水脈早み楫取る間なく思ほゆるかも  
3188 漁りする海人の楫音ゆくらかに妹は心に乗りにけるかも  
3189 和歌の浦に袖さへ濡れて忘れ貝拾へど妹は忘らえなくに 或本の歌の末句には「忘れかねつも」といふ  
3190 草枕旅にし居れば刈り薦の乱れて妹に恋ひぬ日はなし  
3191 志賀の海人の礒に刈り干すなのりその名は告りてしを何か逢ひかたき  
3192 国遠み思ひなわびそ風の共雲の行くごと言は通はむ  
3193 留まりにし人を思ふに秋津野に居る白雲のやむ時もなし  
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3194 うらもなく去にし君ゆゑ朝な朝なもとなぞ恋ふる逢ふとはなけど  
3195 白栲の君が下紐我れさへに今日結びてな逢はむ日のため  
3196 白栲の袖の別れは惜しけども思ひ乱れて許しつるかも  
3197 都辺に君は去にしを誰が解けか我が紐の緒の結ふ手たゆきも  
3198 草枕旅行く君を人目多み袖振らずしてあまた悔しも  
3199 まそ鏡手に取り持ちて見れど飽かぬ君に後れて生けりともなし  
3200 曇り夜のたどきも知らぬ山越えています君をばいつとか待たむ  
3201 たたなづく青垣山の隔なりなばしばしば君を言問はじかも  
3202 朝霞たなびく山を越えて去なば我れは恋ひむな逢はむ日までに  
3203 あしひきの山は百重に隠すとも妹は忘れじ直に逢ふまでに 一には「隠せども君を思はくやむ時もなし」といふ  
3204 雲居なる海山越えてい行きなば我れは恋ひむな後は逢ひぬとも  
3205 よしゑやし恋ひじとすれど木綿間山越えにし君が思ほゆらくに  
3206 草蔭の荒藺の崎の笠島を見つつか君が山道越ゆらむ 一には「み坂越ゆらむ」といふ  
3207 玉かつま島熊山の夕暮れにひとりか君が山道越ゆらむ 一には「夕霧に長恋しつつ寐ねかてぬかも」といふ  
3208 息の緒に我が思ふ君は鶏が鳴く東の坂を今日か越ゆらむ  
3209 磐城山直越え来ませ礒崎の許奴美の浜に我れ立ち待たむ  
3210 春日野の浅茅が原に遅れ居て時ぞともなし我が恋ふらくは  
3211 住吉の岸に向へる淡路島あはれと君を言はぬ日はなし  
3212 明日よりはいなむの川の出でて去なば留まれる我れは恋ひつつやあらむ  
3213 海の底沖は畏し礒廻より漕ぎ廻みいませ月は経ぬとも  
3214 飼飯の浦に寄する白波しくしくに妹が姿は思ほゆるかも  
3215 時つ風吹飯の浜に出で居つつ贖ふ命は妹がためこそ  
3216 熟田津に舟乗りせむと聞きしなへ何ぞも君が見え来ずあるらむ  
3217 みさご居る洲に居る舟の漕ぎ出なばうら恋しけむ後は逢ひぬとも  
3218 玉葛幸くいまさね山菅の思ひ乱れて恋ひつつ待たむ  
3219 後れ居て恋ひつつあらずは田子の浦の海人ならましを玉藻刈る刈る  
3220 筑紫道の荒礒の玉藻刈るとかも君が久しく待てど来まさぬ  
3221 あらたまの年の緒長く照る月の飽かざる君や明日別れなむ  
3222 久にあらむ君を思ふにひさかたの清き月夜も闇の夜に見ゆ  
3223 春日なる御笠の山に居る雲を出で見るごとに君をしぞ思ふ  
3224 あしひきの片山雉立ち行かむ君に後れてうつしけめやも  
       問 答 歌
3225 玉の緒の現し心や八十楫懸け漕ぎ出む船に後れて居らむ  
3226 八十楫懸け島隠りなば我妹子が留まれと振らむ袖見えじかも  
      右の二首  
3227 十月しぐれの雨に濡れつつか君が行くらむ宿か借るらむ  
3228 十月雨間も置かず降りにせばいづれの里の宿か借らまし  
      右の二首  
3229 白栲の袖の別れを難みして荒津の浜に宿りするかも  
3230 草枕旅行く君を荒津まで送りぞ来ぬる飽き足らねこそ  
      右の二首  
3231 荒津の海我れ幣奉り斎ひてむ早帰りませ面変りせず  
3232 朝な朝な筑紫の方を出で見つつ音のみぞ我が泣くいたもすべなみ  
      右の二首  
3233 豊国の企救の長浜行き暮らし日の暮れゆけば妹をしぞ思ふ  
3234 豊国の企救の高浜高々に君待つ夜らはさ夜更けにけり  
      右の二首  
   
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