万葉集巻第十五 
 
 
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      遣新羅使人等悲別贈答及海路慟情陳思并當所誦之古歌  
3600 武庫の浦の入江の洲鳥羽ぐくもる君を離れて恋に死ぬべし  
3601 大船に妹乗るものにあらませば羽ぐくみ持ちて行かましものを  
3602 君が行く海辺の宿に霧立たば我が立ち嘆く息と知りませ  
3603 秋さらば相見むものを何しかも霧に立つべく嘆きしまさむ  
3604 大船を荒海に出だしいます君障むことなく早帰りませ  
3605 ま幸くて妹が斎はば沖つ波千重に立つとも障りあらめやも  
3606 別れなばうら悲しけむ我が衣下にを着ませ直に逢ふまでに  
3607 我妹子が下にも着よと贈りたる衣の紐を我れ解かめやも  
3608 我がゆゑに思ひな痩せそ秋風の吹かむその月逢はむものゆゑ  
3609 栲衾新羅へいます君が目を今日か明日かと斎ひて待たむ  
3610 はろはろに思ほゆるかもしかれども異しき心を我が思はなくに  
      右の十一首は贈答。  
3611 夕さればひぐらし来鳴く生駒山越えてぞ我が来る妹が目を欲り
      右の一首は秦間満。  
3612 妹に逢はずあらばすべなみ岩根踏む生駒の山を越えてぞ我が来る  
      右の一首は、しましく私家に還りて思ひを偲ぶ。  
3613 妹とありし時はあれども別れては衣手寒きものにぞありける  
3614 海原に浮寝せむ夜は沖つ風いたくな吹きそ妹もあらなくに  
3615 大伴の御津に船乗り漕ぎ出てはいづれの島に廬りせむ我れ  
      右の三首は、発つに臨む時に作る歌。  
3616 潮待つとありける船を知らずして悔しく妹を別れ来にけり  
3617 朝開き漕ぎ出て来れば武庫の浦の潮干の潟に鶴が声すも  
3618 我妹子が形見に見むを印南都麻白波高み外にかも見む  
3619 わたつみの沖つ白波立ち来らし海人娘子ども島隠る見ゆ  
3620 ぬばたまの夜は明けぬらし玉の浦にあさりする鶴鳴き渡るなり  
3621 月読の光りを清み神島の礒廻の浦ゆ船出す我れは  
3622 離れ礒に立てるむろの木うたがたも久しき時を過ぎにけるかも  
3623 しましくもひとりありうるものにあれや島のむろの木離れてあるらむ  
      右の八首は、船に乗りて海に入り、路の上にして作る歌。  
      所に当たりて誦詠する古歌  
3624 あをによし奈良の都にたなびける天の白雲見れど飽かぬかも  
      右の一首は、雲を詠む。  
3625 青楊の枝伐り下ろしゆ種蒔きゆゆしき君に恋ひわたるかも  
3626 妹が袖別れて久になりぬれど一日も妹を忘れて思へや  
3627 わたつみの海に出でたる飾磨川絶えむ日にこそ我が恋やまめ  
      右の三首は恋の歌。  
3628 玉藻刈る処女を過ぎて夏草の野島が崎に廬りす我れは  
      柿本朝臣人麻呂が歌には「敏馬を過ぎて」といふ。また「船近づきぬ」といふ。  
3629 白栲の藤江の浦に漁りする海人とや見らむ旅行く我れを  
      柿本朝臣人麻呂が歌には「荒栲の」といふ。また「鱸釣る海人とか見らむ」といふ。  
3630 天離る鄙の長道を恋ひ来れば明石の門より家のあたり見ゆ  
      柿本朝臣人麻呂が歌には「大和島見ゆ」といふ。  
3631 武庫の海の庭よくあらし漁りする海人の釣舟波の上ゆ見ゆ  
      柿本朝臣人麻呂が歌には「笥飯の海の」といふ。また「刈り薦の乱れて出づ見ゆ海人の釣舟」といふ。  
3632 安胡の浦に舟乗りすらむ娘子らが赤裳の裾に潮満つらむか  
      柿本朝臣人麻呂が歌には「嗚呼見の浦」といふ。また「玉裳の裾に」といふ。  
      七夕の歌一首  
3633 大船に真楫しじ貫き海原を漕ぎ出て渡る月人壮士  
      右は柿本朝臣人麻呂が歌。  
      備後の国の水調の郡の長井の浦に船泊りする夜に作る歌三首  
3634 あをによし奈良の都に行く人もがも草枕旅行く船の泊り告げむに  旋頭歌なり  
      右一首は大判官。  
3635 海原を八十島隠り来ぬれども奈良の都は忘れかねつも  
3636 帰るさに妹に見せむにわたつみの沖つ白玉拾ひて行かな  
      風早の浦に船泊りする夜に作る歌二首  
3637 我がゆゑに妹嘆くらし風早の浦の沖辺に霧たなびけり  
3638 沖つ風いたく吹きせば我妹子が嘆きの霧に飽かましものを  
      安芸の国の長門の島にして磯辺に船泊りして作る歌五首  
3639 石走る瀧もとどろに鳴く蝉の声をし聞けば都し思ほゆ  
      右一首は大石蓑麻呂。  
3640 山川の清き川瀬に遊べども奈良の都は忘れかねつも  
3641 礒の間ゆたぎつ山川絶えずあらばまたも相見む秋かたまけて  
3642 恋繁み慰めかねてひぐらしの鳴く島蔭に廬りするかも  
3643 我が命を長門の島の小松原幾代を経てか神さびわたる  
      長門の浦より船出する夜に、月の光を仰ぎ観て作る歌三首  
3644 月読みの光りを清み夕なぎに水手の声呼び浦廻漕ぐかも  
3645 山の端に月傾けば漁りする海人の燈火沖になづさふ  
3646 我れのみや夜船は漕ぐと思へれば沖辺の方に楫の音すなり  
      古挽歌并せて短歌  
3647 夕されば 葦辺に騒き 明け来れば 沖になづさふ 鴨すらも 妻とたぐひて 我が尾には 霜な降りそと 白栲の 羽さし交へて うち掃ひ さ寝とふものを 行く水の 帰らぬごとく 吹く風の 見えぬがごとく 跡もなき 世の人にして 別れにし 妹が着せてし なれ衣 袖片敷きて ひとりかも寝む  
      反歌一首  
3648 鶴が鳴き葦辺をさして飛び渡るあなたづたづしひとりさ寝れば  
      右は、丹比大夫、亡き妻を悽愴しぶる歌。  
      物に属きて思ひを発す歌一首并せて短歌  
3649 朝されば 妹が手にまく 鏡なす 御津の浜びに 大船に 真楫しじ貫き 韓国に 渡り行かむと 直向ふ 敏馬をさして 潮待ちて 水脈引き行けば 沖辺には 白波高み 浦廻より 漕ぎて渡れば 我妹子に 淡路の島は 夕されば 雲居隠りぬ さ夜更けて ゆくへを知らに 我が心 明石の浦に 船泊めて 浮寝をしつつ わたつみの 沖辺を見れば 漁りする 海人の娘子は 小舟乗り つららに浮けり 暁の 潮満ち来れば 葦辺には 鶴鳴き渡る 朝なぎに 船出をせむと 船人も 水手も声呼び にほ鳥の なづさひ行けば 家島は 雲居に見えぬ 我が思へる 心なぐやと 早く来て 見むと思ひて 大船を 漕ぎ我が行けば 沖つ波 高く立ち来ぬ 外のみに 見つつ過ぎ行き 玉の浦に 船を留めて 浜びより 浦礒を見つつ 泣く子なす 音のみし泣かゆ わたつみの 手巻の玉を 家づとに 妹に遣らむと 拾ひ取り 袖には入れて 帰し遣る 使なければ 持てれども 験をなみと また置きつるかも  
      反歌二首  
3650 玉の浦の沖つ白玉拾へれどまたぞ置きつる見る人をなみ  
3651 秋さらば我が船泊てむ忘れ貝寄せ来て置けれ沖つ白波  
      周防の国の玖河の郡の麻里布の浦を行く時に作る歌八首  
3652 真楫貫き船し行かずは見れど飽かぬ麻里布の浦に宿りせましを  
3653 いつしかも見むと思ひし粟島を外にや恋ひむ行くよしをなみ  
3654 大船にかし振り立てて浜清き麻里布の浦に宿りかせまし  
3655 粟島の逢はじと思ふ妹にあれや安寐も寝ずて我が恋ひわたる  
3656 筑紫道の可太の大島しましくも見ねば恋しき妹を置きて来ぬ  
3657 妹が家路近くありせば見れど飽かぬ麻里布の浦を見せましものを  
3658 家人は帰り早来と伊波比島斎ひ待つらむ旅行く我れを  
3659 草枕旅行く人を伊波比島幾代経るまで斎ひ来にけむ  
      大島の鳴戸を過ぎて再宿を経ぬる後に、追ひて作る歌二首  
3660 これやこの名に負ふ鳴門のうづ潮に玉藻刈るとふ海人娘子ども  
      右の一首は田辺秋庭。  
3661 波の上に浮き寝せし宵あど思へか心悲しく夢に見えつる  
      熊毛の浦に船泊りする夜に作る歌四首  
3662 都辺に行かむ船もが刈り薦の乱れて思ふ言告げやらむ  
      右の一首は羽栗。  
3663 暁の家恋しきに浦廻より楫の音するは海人娘子かも  
3664 沖辺より潮満ち来らし可良の浦にあさりする鶴鳴きて騒きぬ  
3665 沖辺より船人上る呼び寄せていざ告げ遣らむ旅の宿りを  
      一には「旅の宿りをいざ告げ遣らな」といふ。  
      佐婆の海中にしてたちまちに逆風に遭ひ、漲ぎらふ浪に漂流す。経宿の後に、幸くして順風を得、豊前の国の下毛の郡の分間の浦に到着す。ここに追ひて艱難を怛みし、悽惆しびて作る歌八首  
3666 大君の命畏み大船の行きのまにまに宿りするかも  
      右の一首は雪宅麻呂。  
3667 我妹子は早も来ぬかと待つらむを沖にや住まむ家つかずして  
3668 浦廻より漕ぎ来し船を風早み沖つみ浦に宿りするかも  
3669 我妹子がいかに思へかぬばたまの一夜もおちず夢にし見ゆる  
3670 海原の沖辺に灯し漁る火は明かして灯せ大和島見む  
3671 鴨じもの浮寝をすれば蜷の腸か黒き髪に露ぞ置きにける  
3672 ひさかたの天照る月は見つれども我が思ふ妹に逢はぬころかも  
3673 ぬばたまの夜渡る月は早も出でぬかも海原の八十島の上ゆ妹があたり見む  旋頭歌なり  
      筑紫の館に至りて、遥かに本郷を望み、悽惆しびて作る歌四首  
3674 志賀の海人の一日もおちず焼く塩のからき恋をも我れはするかも  
3675 志賀の浦に漁りする海人家人の待ち恋ふらむに明かし釣る魚  
3676 可之布江に鶴鳴き渡る志賀の浦に沖つ白波立ちし来らしも  
      一には「満ちし来ぬらし」といふ。  
3677 今よりは秋づきぬらしあしひきの山松蔭にひぐらし鳴きぬ  
      七夕に天漢を仰ぎ観て、おのもおのも所思を陳べて作る歌三首  
3678 秋萩ににほへる我が裳濡れぬとも君が御船の綱し取りてば  
      右の一首は大使。  
3679 年にありて一夜妹に逢ふ彦星も我れにまさりて思ふらめやも  
3680 夕月夜影立ち寄り合ひ天の川漕ぐ船人を見るが羨しさ  
      海辺にして月を望みて作る歌九首  
3681 秋風は日に異に吹きぬ我妹子はいつとか我れを斎ひ待つらむ  
      大使の第二男。。  
3682 神さぶる荒津の崎に寄する波間なくや妹に恋ひわたりなむ  
      右の一首は土師稲足。  
3683 風の共寄せ来る波に漁りする海人娘子らが裳の裾濡れぬ  
      一には「海人の娘子が裳の裾濡れぬ」といふ。  
3684 天の原振り放け見れば夜ぞ更けにける よしゑやしひとり寝る夜は明けば明けぬとも  
      右の一首は旋頭歌なり。  
3685 わたつみの沖つ縄海苔来る時と妹が待つらむ月は経につつ  
3686 志賀の浦に漁りする海人明け来れば浦廻漕ぐらし楫の音聞こゆ  
3687 妹を思ひ寐の寝らえぬに暁の朝霧隠り雁がねぞ鳴く  
3688 夕されば秋風寒し我妹子が解き洗ひ衣行きて早着む  
3689 我が旅は久しくあらしこの我が着る妹が衣の垢つく見れば  
      筑前の国の志麻の郡の韓亭に至り、船泊りして三日を経ぬ。時に夜月の光、皎々ちして流照す。たちまちにこの華に対し、旅情悽噎す。おのもおのも心緒を陳べ、いささかに裁る歌六首  
3690 大君の遠の朝廷と思へれど日長くしあれば恋ひにけるかも  
      右の一首は大使。  
3691 旅にあれど夜は火灯し居る我れを闇にや妹が恋ひつつあるらむ  
      右の一首は大判官。  
3692 韓亭能許の浦波立たぬ日はあれども家に恋ひぬ日はなし  
3693 ぬばたまの夜渡る月にあらませば家なる妹に逢ひて来ましを  
3694 ひさかたの月は照りたり暇なく海人の漁りは灯し合へり見ゆ  
3695 風吹けば沖つ白波畏みと能許の亭にあまた夜ぞ寝る  
      引津の亭に船泊りして作る歌七首  
3696 草枕旅を苦しみ恋ひ居れば可也の山辺にさを鹿鳴くも  
3697 沖つ波高く立つ日にあへりきと都の人は聞きてけむかも  
      右の二首は大判官。  
3698 天飛ぶや雁を使に得てしかも奈良の都に言告げ遣らむ  
3699 秋の野をにほはす萩は咲けれども見る験なし旅にしあれば  
3700 妹を思ひ寐の寝らえぬに秋の野にさを鹿鳴きつ妻思ひかねて  
3701 大船に真楫しじ貫き時待つと我れは思へど月ぞ経にける  
3702 夜を長み寐の寝らえぬにあしひきの山彦響めさを鹿鳴くも  
      肥前の国の松浦の郡の狛島の亭に船泊りする夜に、遥かに海浪を望み、おのもおのも心の旅を慟みして作る歌七首  ページトップへ
3703 帰り来て見むと思ひし我が宿の秋萩すすき散りにけむかも  
      右の一首は秦田麻呂。  
3704 天地の神を祈ひつつ我れ待たむ早来ませ君待たば苦しも  
      右の一首は娘子。  
3705 君を思ひ我が恋ひまくはあらたまの立つ月ごとに避くる日もあらじ  
3706 秋の夜を長みにかあらむなぞここば寐の寝らえぬもひとり寝ればか  
3707 足日女御船泊てけむ松浦の海妹が待つべき月は経につつ  
3708 旅なれば思ひ絶えてもありつれど家にある妹し思ひ悲しも  
3709 あしひきの山飛び越ゆる鴈がねは都に行かば妹に逢ひて来ね  
      壱岐の島に至りて、雪連宅満のたちまちに鬼病に遇ひて死去にし時に作る歌一首并せて短歌  
3710 天皇の 遠の朝廷と 韓国に 渡る我が背は 家人の 斎ひ待たねか 正身かも 過ちしけむ 秋去らば 帰りまさむと たらちねの 母に申して 時も過ぎ 月も経ぬれば 今日か来む 明日かも来むと 家人は 待ち恋ふらむに 遠の国 いまだも着かず 大和をも 遠く離りて 岩が根の 荒き島根に 宿りする君  
      反歌二首  
3711 岩田野に宿りする君家人のいづらと我れを問はばいかに言はむ  
3712 世間は常かくのみと別れぬる君にやもとな我が恋ひ行かむ  
      右の三首は挽歌。  
3713 天地と ともにもがもと 思ひつつ ありけむものを はしけやし 家を離れて 波の上ゆ なづさひ来にて あらたまの 月日も来経ぬ 雁がねも 継ぎて来鳴けば たらちねの 母も妻らも 朝露に 裳の裾ひづち 夕霧に 衣手濡れて 幸くしも あるらむごとく 出で見つつ 待つらむものを 世間の 人の嘆きは 相思はぬ 君にあれやも 秋萩の 散らへる野辺の 初尾花 仮廬に葺きて 雲離れ 遠き国辺の 露霜の 寒き山辺に 宿りせるらむ  
      反歌二首  
3714 はしけやし妻も子どもも高々に待つらむ君や島隠れぬる  
3715 黄葉の散りなむ山に宿りぬる君を待つらむ人し悲しも  
      右の三首は葛井連子老が作る挽歌。  
3716 わたつみの 畏き道を 安けくも なく悩み来て 今だにも 喪なく行かむと 壱岐の海人の ほつての占部を 肩焼きて 行かむとするに 夢のごと 道の空路に 別れする君  
      反歌二首  
3717 昔より言ひけることの韓国のからくもここに別れするかも  
3718 新羅へか家にか帰る壱岐の島行かむたどきも思ひかねつも  
      右の三首は六鯖が作る挽歌。  
      対馬の島の浅茅の浦に至りて船泊りする時に、順風を得ず、経亭すること五箇日なり。ここに、物華を瞻望し、おのもおのも慟みする心を陳べて作る歌三首  
3719 百船の泊つる対馬の浅茅山しぐれの雨にもみたひにけり  
3720 天離る鄙にも月は照れれども妹ぞ遠くは別れ来にける  
3721 秋去れば置く露霜にあへずして都の山は色づきぬらむ  
      竹敷の浦に船泊りする時に、おのもおのも心緒を陳べて作る歌十八首  
3722 あしひきの山下光る黄葉の散りの乱ひは今日にもあるかも  
      右の一首は大使。  
3723 竹敷の黄葉を見れば我妹子が待たむと言ひし時ぞ来にける  
      右の一首は副使。  
3724 竹敷の浦廻の黄葉我れ行きて帰り来るまで散りこすなゆめ  
      右の一首は大判官。  
3725 竹敷の宇敝可多山は紅の八しほの色になりにけるかも  
      右の一首は少判官。  
3726 黄葉の散らふ山辺ゆ漕ぐ船のにほひにめでて出でて来にけり  
3727 竹敷の玉藻靡かし漕ぎ出なむ君がみ船をいつとか待たむ  (再掲)  
      右の一首は少判官。  
3728 玉敷ける清き渚を潮満てば飽かず我れ行く帰るさに見む  
      右の一首は大使。  
3729 秋山の黄葉をかざし我が居れば浦潮満ち来いまだ飽かなくに  
      右の一首は副使。  
3730 物思ふと人には見えじ下紐の下ゆ恋ふるに月ぞ経にける  
      右の一首は大使。  
3731 家づとに貝を拾ふと沖辺より寄せ来る波に衣手濡れぬ  
3732 潮干なばまたも我れ来むいざ行かむ沖つ潮騒高く立ち来ぬ  
3733 我が袖は手本通りて濡れぬとも恋忘れ貝取らずは行かじ  
3734 ぬばたまの妹が干すべくあらなくに我が衣手を濡れていかにせむ  
3735 黄葉は今はうつろふ我妹子が待たむと言ひし時の経ゆけば  
3736 秋されば恋しみ妹を夢にだに久しく見むを明けにけるかも  
3737 ひとりのみ着寝る衣の紐解かば誰れかも結はむ家遠くして  
3738 天雲のたゆたひ来れば九月の黄葉の山もうつろひにけり  
3739 旅にても喪なく早来と我妹子が結びし紐はなれにけるかも  
      筑紫を廻り来て、海路にして京に入らむとし、播磨の国の家島に至りし時に作る歌五首  
3740 家島は名にこそありけれ海原を我が恋ひ来つる妹もあらなくに  
3741 草枕旅に久しくあらめやと妹に言ひしを年の経ぬらく  
3742 我妹子を行きて早見む淡路島雲居に見えぬ家つくらしも  
3743 ぬばたまの夜明かしも船は漕ぎ行かな御津の浜松待ち恋ひぬらむ  
3744 大伴の御津の泊りに船泊てて龍田の山をいつか越え行かむ  
      中臣朝臣宅守、狭野弟上娘子と贈答する歌  
3745 あしひきの山道越えむとする君を心に持ちて安けくもなし  
3746 君が行く道の長手を繰り畳ね焼き滅ぼさむ天の火もがも  
3747 我が背子しけだし罷らば白栲の袖を振らさね見つつ偲はむ  
3748 このころは恋ひつつもあらむ玉櫛笥明けてをちよりすべなかるべし  
      右の四首は、娘子、別れに臨みて作る歌。  
3749 塵泥の数にもあらぬ我れゆゑに思ひわぶらむ妹がかなしさ  
3750 あをによし奈良の大道は行きよけどこの山道は行き悪しかりけり  
3751 愛しと我が思ふ妹を思ひつつ行けばかもとな行き悪しかるらむ  
3752 畏みと告らずありしをみ越道の手向けに立ちて妹が名告りつ  
      右の四首は、中臣朝臣宅守、道に上りて作る歌。  
3753 思ふゑに逢ふものならばしましくも妹が目離れて我れ居らめやも  
3754 あかねさす昼は物思ひぬばたまの夜はすがらに音のみし泣かゆ  
3755 我妹子が形見の衣なかりせば何物もてか命継がまし  
3756 遠き山関も越え来ぬ今さらに逢ふべきよしのなきがさぶしさ 一には「さびしさ」といふ  
3757 思はずもまことあり得むやさ寝る夜の夢にも妹が見えざらなくに  
3758 遠くあれば一日一夜も思はずてあるらむものと思ほしめすな  
3759 人よりは妹ぞも悪しき恋もなくあらましものを思はしめつつ  
3760 思ひつつ寝ればかもとなぬばたまの一夜もおちず夢にし見ゆる  
3761 かくばかり恋ひむとかねて知らませば妹をば見ずぞあるべくありける  
3762 天地の神なきものにあらばこそ我が思ふ妹に逢はず死にせめ  
3763 命をし全くしあらばあり衣のありて後にも逢はざらめやも  一には「ありての後も」といふ  
3764 逢はむ日をその日と知らず常闇にいづれの日まで我れ恋ひ居らむ  
3765 旅といへば言にぞやすきすくなくも妹に恋ひつつすべなけなくに  
3766 我妹子に恋ふるに我れはたまきはる短き命も惜しけくもなし  
      右の十四首は中臣朝臣宅守。  
3767 命あらば逢ふこともあらむ我がゆゑにはだな思ひそ命だに経ば  
3768 人の植うる田は植ゑまさず今さらに国別れして我れはいかにせむ  
3769 我が宿の松の葉見つつ我れ待たむ早帰りませ恋ひ死なぬとに  
3770 他国は住み悪しとぞ言ふ速けく早帰りませ恋ひ死なぬとに  
3771 他国に君をいませていつまでか我が恋ひ居らむ時の知らなく  
3772 天地の底ひのうらに我がごとく君に恋ふらむ人はさねあらじ  
3773 白栲の我が下衣失はず持てれ我が背子直に逢ふまでに  
3774 春の日のうら悲しきに後れ居て君に恋ひつつうつしけめやも  
3775 逢はむ日の形見にせよとたわや女の思ひ乱れて縫へる衣ぞ  
      右の九首は娘子。  
3776 過所なしに関飛び越ゆる霍公鳥多我子尓毛止まず通はむ  
3777 愛しと我が思ふ妹を山川を中にへなりて安けくもなし  
3778 向ひ居て一日もおちず見しかども厭はぬ妹を月わたるまで  
3779 我が身こそ関山越えてここにあらめ心は妹に寄りにしものを  
3780 さす竹の大宮人は今もかも人なぶりのみ好みたるらむ  一には「 今さへや」といふ  
3781 たちかへり泣けども我れは験なみ思ひわぶれて寝る夜しぞ多き  
3782 さ寝る夜は多くあれども物思はず安く寝る夜はさねなきものを  
3783 世の中の常のことわりかくさまになり来にけらしすゑし種から  
3784 我妹子に逢坂山を越えて来て泣きつつ居れど逢ふよしもなし  
3785 旅と言へば言にぞやすきすべもなく苦しき旅も言にまさめやも  
3786 山川を中にへなりて遠くとも心を近く思ほせ我妹  
3787 まそ鏡懸けて偲へとまつり出す形見のものを人に示すな  
3788 愛しと思ひし思はば下紐に結ひつけ持ちてやまず偲はせ  
      右の十三首は中臣朝臣宅守。  
3789 魂は朝夕にたまふれど我が胸痛し恋の繁きに  
3790 このころは君を思ふとすべもなき恋のみしつつ音のみしぞ泣く  
3791 ぬばたまの夜見し君を明くる朝逢はずまにして今ぞ悔しき  
3792 味真野に宿れる君が帰り来む時の迎へをいつとか待たむ  
3793 宮人の安寐も寝ずて今日今日と待つらむものを見えぬ君かも  
3794 帰りける人来れりと言ひしかばほとほと死にき君かと思ひて  
3795 君が共行かましものを同じこと後れて居れどよきこともなし  
3796 我が背子が帰り来まさむ時のため命残さむ忘れたまふな  
      右の八首は娘子。  
3797 あらたまの年の緒長く逢はざれど異しき心を我が思はなくに  
3798 今日もかも都なりせば見まく欲り西の御馬屋の外に立てらまし  
      右の二首は中臣朝臣宅守。  
3799 昨日今日君に逢はずてするすべのたどきを知らに音のみしぞ泣く  
3800 白栲の我が衣手を取り持ちて斎へ我が背子直に逢ふまでに  
      右の二首は娘子。  
3801 我が宿の花橘はいたづらに散りか過ぐらむ見る人なしに  
3802 恋ひ死なば恋ひも死ねとや霍公鳥物思ふ時に来鳴き響むる  
3803 旅にして物思ふ時に霍公鳥もとなな鳴きそ我が恋まさる  
3804 雨隠り物思ふ時に霍公鳥我が住む里に来鳴き響もす  
3805 旅にして妹に恋ふれば霍公鳥我が住む里にこよ鳴き渡る  
3806 心なき鳥にぞありける霍公鳥物思ふ時に鳴くべきものか  
3807 霍公鳥間しまし置け汝が鳴けば我が思ふ心いたもすべなし  
      右の七首は、中臣朝臣宅守、花鳥に寄せ、思ひを陳べて作る歌。  
   
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