雑 歌 | 古 語 辞 典 へ | ||
大宰帥大伴卿、凶間に報ふる歌一首 | |||
禍故重畳し、凶間累集す。永に崩心の悲しびを懐き、独ら断腸の泣を流す。ただ、両君の大助によりて、傾命わづかに継げらくのみ。 筆の言を尽さぬは、古今嘆くところは。 | |||
796 | 世間は空しきものと知る時しいよよますます悲しかりけり | ||
神亀五年六月二十三日 けだし聞く、四生の起滅は夢のみな空しきがごとく、三界の漂流は環の息まらぬがごとし。このゆゑに、維摩大士も方丈に在りて染疾の患へを懐くことあり、釈迦能仁も双林に坐して泥洹の苦しびを免るることなし、と。故に知りぬ、二聖の至極すらに力負の尋ね至ることを払ふことあたはず、三千世界に誰れかよく黒闇の捜ね来ることを逃れむ、といふことを。二鼠競ひ走りて、度目の鳥旦に飛ぶ、四蛇争ひ侵して、過隙の駒夕に走る。ああ痛きかも。 紅顔は三従とともに長逝す、素質は四徳とともに永滅す。何ぞ図らむ、偕老は要期に違ひ、独飛して半路に生かむとは。蘭室には屏風いたづらに張り、断腸の哀しびいよよ痛し、枕頭には明鏡空しく懸かり、染筠の涙いよよ落つ。泉門ひとたび掩ざされて、また見るに由なし。ああ哀しきかも。 |
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797 | 愛河の波浪はすでにして滅ぶ、 苦海の煩悩も結ぼほるることなし。 従来この穢土を厭離す、 本願はくはその浄刹に託せむ。 |
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日本挽歌一首 | |||
798 | 大君の 遠の朝廷と しらぬひ 筑紫の国に 泣く子なす 慕ひ来まして 息だにも いまだ休めず 年月も いまだあらねば 心ゆも 思はぬ間に うち靡き 臥やしぬれ 言はむすべ 為むすべ知らに 石木をも 問ひ放け知らず 家ならば かたちはあらむを 恨めしき 妹の命の 我れをばも いかにせよとか にほ鳥の ふたり並び居 語らひし 心背きて 家離りいます | ||
反歌 | |||
799 | 家に行きていかにか我がせむ枕付く妻屋寂しく思ほゆべしもあらむ | ||
800 | はしきよしかくのみからに慕ひ来し妹が心のすべもすべなさ | ||
801 | 悔しかもかく知らませばあをによし国内ことごと見せましものを | ||
802 | 妹が見し楝の花は散りぬべし我が泣く涙いまだ干なくに (ブログ再掲・HP再掲) | ||
803 | 大野山霧立ちわたる我が嘆くおきその風に霧立ちわたる | ||
神亀五年七月二十一日筑前国守山上憶良 上 |
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惑情を反さしむる歌一首并せて序 | |||
或人、父母を敬ふことを知りて侍養を忘れ、妻子を顧みずして脱屣よりも軽みす。自ら倍俗先生と称る。意気は青雲の上に揚るといへども、身体はなほ塵俗の中に在り。いまだ修行得道の聖に験あらず、けだし山沢に亡命する民ならむか。 このゆゑに、三綱を指し示し、五教を更め開き、遣るに歌をもちて、その惑ひを反さしむ。歌曰はく、 |
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804 | 父母を 見れば貴し 妻子見れば めぐし愛し 世間は かくぞことわり もち鳥の かからはしもよ ゆくへ知らねば 穿沓を 脱き棄るごとく 踏み脱きて 行くちふ人は 石木より なり出し人か 汝が名告らさね 天へ行かば 汝がまにまに 地ならば 大君います この照らす 日月の下は 天雲の 向伏す極み たにぐくの さ渡る極み きこしをす 国のまほらぞ かにかくに 欲しきまにまに しかにはあらじか | ||
反歌 | |||
805 | ひさかたの天道は遠しなほなほに家に帰りて業を為まさに | ||
子等を思ふ歌一首并せて序 | |||
釈迦如来、金口に正に説きたまはく、「等しく衆生を思ふこと羅睺羅のごとし」と。また説きたまはく、「愛は子に過ぎたることなし」と。 至極の大聖すらに、なほし子を愛したまふ心あり。いはむや、世間の蒼生、誰れか子を愛せずあらめや。 |
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806 | 瓜食めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲はゆ いづくより 来りしものぞ まなかひに もとなかかりて 安寐し寝さぬ | ||
反歌 | |||
807 | 銀も金も玉も何せむにまされる宝子にしかめやも | ||
世間の住みかたきことを哀しぶる歌一首并せて序 | |||
集まりやすく排ひかたきものは八大の辛苦なり、遂げかたく尽くしやすきものは百年の賞楽なり。古人の嘆くところ、今にも及ぶ。 このゆゑに、一章の歌を作り、もちて二毛の嘆を撥ふ。その歌に曰はく、 |
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808 | 世間の すべなきものは 年月は 流るるごとし とり続き 追い来るものは 百種に 迫め寄り来る 娘子らが 娘子さびすと 韓玉を 手本に巻かし 或いはこの句有り、曰はく、赤裳裾引き」といふ よち子らと 手たづさはりて 遊びけむ 時の盛りを 留みかね 過ぐしやりつれ 蜷の腸 か黒き髪に いつの間か 霜の降りけむ 紅の 一には「丹のはなす」といふ 面の上に いづくゆか 皺が来りし 一には「常なりし笑ひ眉引き 咲く花の うつろひにけり 世間は かくのみならし」といふ ますらをの 男さびすと 剣大刀 腰に取り佩き さつ弓を 手握り持ちて 赤駒に 倭文鞍うち置き 這ひ乗りて 遊びあるきし 世間や 常にありける 娘子らが さ鳴す板戸を 押し開き い辿り寄りて 真玉手の 玉手さし交へ さ寝し夜の いくだもあらねば 手束杖 腰にたがねて か行けば 人に厭はえ かく行けば 人に憎まえ 老よし男は かくのみならし たまはきる 命惜しけど 為むすべもなし | ||
反歌 | |||
809 | 常磐なすかくしもがもと思へども世の事理なれば留みかねつも | ||
神亀五年七月二十一日 嘉摩の郡にして撰定す。 筑前国守山上憶良 | |||
伏して来書を辱なみし、つぶさに芳旨を承はる。たちまちに隔漢の恋を成し、また抱梁の意を傷ましむ。ただ羨はくは、去留恙なく、つひに披雲を待たまくのみ。 | |||
歌詞両首 大宰帥大伴卿 | |||
810 | 竜の馬も今も得てしかあをによし奈良の都に行きて来むため | ||
811 | うつつには逢ふよしもなしぬばたまの夜の夢にを継ぎて見えこそ | ||
答ふる歌二首 | |||
812 | 竜の馬を我れは求めむあをによし奈良の都に来む人のたに | ||
813 | 直に逢はずあらくも多く敷栲の枕去らずて夢にし見えむ | ||
大伴淡等謹状 | |||
梧桐の日本琴一面 対馬の結石の山の孫枝なり | |||
この琴、夢に娘子に化りて曰はく、「余、根を遥島の祟巒に託せ、幹を九陽の休光に晞す。長く煙霞を帯びて、山川の阿に逍遥す、遠く風波を望みて、雁木の間に出入す。ただに怒る、百年の後に、空しく溝壑に朽ちなむことのみを。たまさかに良匠に遭ひ、斮りて小琴に為らる。質麁く音少なきことを顧みず、つねに君子の左琴を希ふ」といふ。すなはち歌ひて曰はく、 | |||
814 | いかにあらむ日の時にかも声知らむ人の膝の上我が枕かむ | ||
僕、詩詠に報へて曰はく、 | |||
815 | 言とはぬ木にはありともうるはしき君が手馴れの琴にしあるべし | ||
琴娘子、答へて曰はく、「敬みて徳音を奉はる。幸甚々々」といふ。 | |||
片時ありて覚き、すなはち夢の言に感け、慨然止黙をること得ず。故に公使に附けて、いささかに進御らくのみ。 謹状 不具 | |||
天平元年十月七日 使に附けて進上る | |||
謹通中衛高明閤下 謹空 | |||
跪きて芳音を承はり、嘉懽こもこも深し。すなはち知る、竜門の恩、また蓬身の上に厚しといふことを。恋望の殊念は、常の心に百倍す。謹みて白雲の什に和へ、もちて野鄙の歌を奏す。 房前謹状 | |||
816 | 言とはぬ木にもありとも我が背子が手馴れの御琴地に置かめやも | ||
十一月八日 還使の大監に附く | |||
謹通 尊門 記室 | |||
筑前の国恰土の郡深江の村子負の原に、海に臨める丘の上に二つの石あり。大きなるは、長一尺二寸六分、囲み一尺八寸六分、重さ十八斤五両、小さきは、長一尺一寸、囲み一尺八寸、重さ十六斤十両。ともに楕円く、状鶏子のごとし。その美好しきこと、勝げて論ふべからず。いはゆる径尺の璧これなり。 或いは「この二つの石は肥前の国彼杵の郡平敷の石なり、占に当りて取る」といふ 公私の往来に、馬より下りて跪拝せずといふことなし。古老相伝へて「往者、息長足日女命、新羅の国を征討したまふ時に、この両つの石をもちて、御袖の中に挿著みて鎮懐と為したまふ。実には御裳の中になり このゆゑに行人この石を敬拝す」といふ。 すなはち歌を作りて曰はく、 |
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817 | かけまくは あやに畏し 足日女 神の命 韓国を 向け平らげて 御心を 鎮めたまふと い取らして 斎ひたまひし 真玉なす 二つの石を 世の人に 示したまひて 万代に 言ひ継ぐがねと 海の底 沖つ深江の 海上の 子負の原に 御手づから 置かしたまひて 神ながら 神さびいます 奇し御魂 今のをつづに 貴きろかむ | ||
818 | 天地のともに久しく言ひ継げとこの奇し御魂敷かしけらしも | ||
右の事、伝へ言ふは、那珂の郡伊知の郷蓑島の人建部牛麻呂なり。 | |||
梅花の歌三十二首并せて序 | |||
天平二年の正月の十三日に、帥老の宅に萃まりて、宴会を申ぶ。時に、初春の令月にして、気淑く風和ぐ。梅は鏡前の粉を披く、蘭は珮後の香を薫らす。しかのみにあらず、曙の嶺に雲移り、松は羅を掛けて蓋を傾く、夕の岫に霧結び、鳥は殻に封ぢらえて林に迷ふ。庭には新蝶舞ひ、空には故雁帰る。ここに、天を蓋にし地を坐にし、膝を促け觴を飛ばす。言を一室の裏に忘れ、衿を煙霞の外に開く。淡然自ら放し、快然自ら足る。もし翰苑にあらずは、何をもちてか情を攄べむ。詩に落梅の篇を紀す、古今それ何ぞ異ならむ。よろしく園梅を賦して、いささかに短詠を成すべし。 | |||
819 | 正月立ち春の来らばかくしこそ梅を招きつつ楽しき終へめ 大弐紀卿 | ||
820 | 梅の花今咲けるごと散り過ぎず我が家の園にありこせぬかも 少弐小野大夫 | ||
821 | 梅の花咲きたる園の青柳はかづらにすべくなりにけらずや 少弐粟田大夫 | ||
822 | 春さればまづ咲くやどの梅の花ひとり見つつや春日暮らさむ 筑前守山上憶良 | ||
823 | 世の中は恋繁しゑやかくしあらば梅の花にもならましものを 豊後守大伴大夫 | ||
824 | 梅の花今盛りなり思ふどちかざしにしてな今盛りなり 筑後守葛井大夫 | ||
825 | 青柳梅との花を折りかざし飲みての後は散りぬともよし 笠沙弥 | ||
826 | 我が園に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ来るかも 主人 | ||
827 | 梅の花散らくはいづくしかすがにこの城の山に雪は降りつつ 大監伴氏百代 | ||
828 | 梅の花散らまく惜しみ我が園の竹の林にうぐひす鳴くも 少監阿氏奥島 | ||
829 | 梅の花咲きたる園の青柳をかづらにしつつ遊び暮らさな 少監土氏百村 | ||
830 | うち靡く春の柳と我がやどの梅の花とをいかにか分かむ 大典史氏大原 | ||
831 | 春されば木末隠りてうぐひすぞ鳴きて去ぬなる梅が下枝に 少典山氏若麻呂 | ||
832 | 人ごとに折りかざしつつ遊べどもいやめづらしき梅の花かも 大判事丹氏麻呂 | ||
833 | 梅の花咲きて散りなば桜花継ぎて咲くべくなりにてあらずや 薬師張氏福子 | ||
834 | 万代に年は来経とも梅の花絶ゆることなく咲きわたるべし 筑前介佐氏子音 | ||
835 | 春なればうべも咲きたる梅の花君を思ふと夜寐も寝なくに 壱岐守板氏安麻呂 | ||
836 | 梅の花折りてかざせる諸人は今日の間は楽しくあるべし 神司荒氏稲布 | ||
837 | 年のはに春の来らばかくしこそ梅をかざして楽しく飲まめ 大令史野氏宿奈麻呂 | ||
838 | 梅の花今盛りなり百鳥の声の恋しき春来るらし 少令史田氏肥人 | ||
839 | 春さらば逢はむと思ひし梅の花今日の遊びに相見つるかも 薬師高氏義通 | ||
840 | 梅の花手折りかざして遊べども飽き足らぬ日は今日にしありけり 陰陽師磯氏法麻呂 | ||
841 | 春の野に鳴くやうぐひすなつけむと我が家の園に梅が花咲く 算師志氏大道 | ||
842 | 梅の花散り乱ひたる岡びにはうぐひす鳴くも春かたまけて 大隅目榎氏鉢麻呂 | ||
843 | 春の野に霧立ちわたり降る雪と人の見るまで梅の花散る 筑前目田氏真上 | ||
844 | 春柳かづらに折りし梅の花誰れか浮かべし酒坏の上に 壱岐目村氏彼方 | ||
845 | うぐひすの音聞くなへに梅の花我家の園に咲きて散る見ゆ 対馬目高氏老 | ||
846 | 我がやどの梅の下枝に遊びつつうぐひす鳴くも散らまく惜しみ 薩摩目高氏海人 | ||
847 | 梅の花折りかざしつつ諸人の遊ぶを見れば都しぞ思ふ 土師氏御道 | ||
848 | 妹が家に雪かも降ると見るまでにここだもまがふ梅の花かも 小野氏国堅 | ||
849 | うぐひすの待ちかてにせし梅が花散らずありこそ思ふ子がため 筑前掾門氏石足 | ||
850 | 霞立つ長き春日をかざせれどいやなつかしき梅の花かも 小野氏淡理 | ||
員外、故郷を思ふ歌両首 | |||
851 | 我が盛りいたくくたちぬ雲に飛ぶ薬食むともまたをちめやも | ||
852 | 雲に飛ぶ薬食むよは都見ばいやしき我が身またをちぬべし | ||
後に梅の歌に追和する四首 | |||
853 | 残りたる雪に交れる梅の花早くな散りそ雪は消ぬとも | ||
854 | 雪の色を奪ひて咲ける梅の花今盛りなり見む人もがも | ||
855 | 我がやどに盛りに咲ける梅の花散るべくなりぬ見む人もがも | ||
856 | 梅の花夢に語らくみやびたる花と我れ思ふ酒に浮かべこそ 一には「いたづらに我れを散らすな酒に浮かべこそ」といふ | ||
松浦川に遊ぶ序 | |||
余、たまさかに松浦の県に往きて逍遥し、いささかに玉島の潭に臨みて遊覧するに、たちまちに魚を釣る娘子らに値ひぬ。花容双びなく、光儀匹ひなし。柳葉を眉の中に開き、桃花を頬の上に発く。意気は雲を凌ぎ、風流は世に絶れたり。僕、問ひて「誰が郷誰が家の子らぞ、けだし神仙にあらむか」といふ。娘子ら、みな咲み答へて「児等は漁夫の舎の児、草庵の微しき者なり。郷もなく家もなし。何ぞ称り云ふに足らむ。ただ、性水に便ひ、また仙山を楽しぞ。あるいは洛浦に臨みて、いたづらに玉魚を羨しぶ、あるいは巫峡に臥して、空しく煙霞を望む。今たまさかに貴客に相遭ひ、感応に勝へず、すなはち欵曲を陳ぶ。今より後に、あに偕老にあらざるべけむ」といふ。下官対へて「唯々、敬みて芳命を奉はらむ」といふ。時に、日は山の西に落ち、驪馬去なむとす。つひに懐抱を申べ、よりて詠歌を贈りて曰はく、 | |||
857 | あさりする海人の子どもと人は言へど見るに知らえぬ貴人の子と | ||
答ふる詩に曰はく、 | |||
858 | 玉島のこの川上に家はあれど君を恥しみあらはさずありき | ||
蓬客のさらに贈る歌三首 | |||
859 | 松浦川川の瀬光り鮎釣ると立たせる妹が裳の裾濡れぬ | ||
860 | 松浦なる玉島川に鮎釣ると立たせる子らが家道知らずも | ||
861 | 遠つ人松浦の川に若鮎釣る妹が手本を我れこそまかめ | ||
娘子らがさらに報ふる歌三首 | |||
862 | 若鮎釣る松浦の川の川なみの並にし思はば我れ恋ひめやも | ||
863 | 春されば我家の里の川門には鮎子さ走る君待ちがてに | ||
864 | 松浦川七瀬の淀は淀むとも我れは淀まず君をし待たむ | ||
後人の追和する詩三首 帥老 | |||
865 | 松浦川川の瀬早み紅の裳の裾濡れて鮎か釣るらむ | ||
866 | 人皆の見らむ松浦の玉島を見ずてや我れは恋ひつつ居らむ | ||
867 | 松浦川玉島の浦に若鮎釣る妹らを見らむ人の羨しさ | ||
宜、啓す。 | ![]() |
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伏して四月の六日の賜書を奉はる。跪きて封函を開き、拝みて芳藻を読む。心神の開朗にあること、泰初が月を懐くがごとし、鄙懐の除袪せらゆること、楽広が天を披くがごとし。辺城に羈旅し、古旧を懐ひて志を傷ましめ、年矢停まらず、平生を憶ひて涙を落すがごときに至りては、ただし、達人は排に安みし、君子は悶へなし。伏して冀はくは、朝には懐翟の化を宣べ、暮には放亀の術を存め、張・趙・を百代に架へ、松・喬を千齢に追ひたまはむことを。兼に垂示を奉はるに、梅苑の芳席に、群英藻を摛べ、松浦の玉潭に、仙媛の答を贈りたるは、杏壇各言の作に類ひ、衛皐税駕の篇に疑ふ。耽読吟諷し、戚宜が、主に恋ふる誠、誠犬馬に逾え、徳を仰ぐ心、心葵藿に同じ。しかれども、碧海地を分ち、白雲天を隔つ。いたづらに傾延を積み、いかにしてか労緒を慰めむ。孟秋節に膺る。伏して願はくは、万祐日に新たにあらむことを。 今し相撲部領使に因せ、謹みて片紙を付く。 宜 謹啓 不次 |
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諸人の梅花の歌に和へ奉る一首 | |||
868 | 後れ居て長恋せずは御園生の梅の花にもならましものを | ||
松浦の仙媛の歌に和ふる一首 | |||
869 | 君を待つ松浦の浦の娘子らは常世の国の海人娘子かも | ||
君を思ふこと尽きずして、重ねて題す二首 | |||
870 | はろはろに思ほゆるかも白雲の千重に隔てる筑紫の国は | ||
871 | 君が行き日長くなりぬ奈良道なる山斎の木立も神さびにけり | ||
天平二年七月十日 | |||
憶良 誠惶頓首 謹みて啓す。 | |||
憶良、聞くに、「方岳諸侯・都督刺史、ともに典法によりて部下を巡行し、その風俗を察み」と。意内多端にして、口外に出だすこと難し。謹みて三首の鄙歌をもちて、五蔵の鬱結を写かむと欲ふ。その歌に曰はく、 | |||
872 | 松浦県佐用姫の子が領布振りし山の名のみや聞きつつ居らむ | ||
873 | 足姫神の命の魚釣らすとみ立たしせりし石を誰れ見き 一には「鮎釣ると」といふ | ||
874 | 百日しも行かぬ松浦道今日行きて明日は来なむを何か障れる松 | ||
天平二年七月十一日 筑前国司山上憶良 謹上 | |||
大伴佐提比古郎子、ひとり朝命を被り、使を蕃国に奉はる。艤棹してここに帰き、やくやく蒼波に赴く。妾松浦佐用姫、かく別れの易きことを嗟き、かく会ひの難きことを歎く。すなはち高き山の嶺に登り、離り去く船を遥望し、悵然肝を断ち、黯然魂を銷つ。つひに領布を脱きて麾る。傍の者涕を流さずということなし。よりてこの山を号けて、領布麾の嶺といふ。 すなはち歌を作りて曰はく、 |
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875 | 遠つ人松浦の佐用姫夫恋ひに領布振りしより負へる山の名 | ||
後人の追和 | |||
876 | 山の名と言ひ継げとかも佐用姫がこの山の上に領布を振りけむ | ||
最後人の追和 | |||
877 | 万代に語り継げとしこの岳に領布振りけらし松浦佐用姫 | ||
最最後人の追和二首 | |||
878 | 海原の沖行く船を帰れとか領布振らしけむ松浦佐用姫 | ||
879 | 行く船を振り留みかねいかばかり恋しくありけむ松浦佐用姫 | ||
書殿にして餞酒する日の倭歌四首 | |||
880 | 天飛ぶや鳥にもがもや都まで送りまをして飛び帰るもの | ||
881 | ひともねのうらぶれ居るに竜田山御馬近づかば忘らしなむか | ||
882 | 言ひつつも後こそ知らめとのしくも寂しけめやも君いまさず | ||
883 | 万代にいましたまひて天の下奏したまはね朝廷去らずて | ||
敢えて私懐を布ぶる歌三首 | |||
884 | 天離る鄙に五年住まひつつ都のてぶり忘らえにけり | ||
885 | かくのみや息づき居らむあらたまの来経行く年の限り知らずて | ||
886 | 我が主の御霊賜ひて春さらば奈良の都に召上げたまはね | ||
天平二年十二月六日 筑前国司山上憶良 謹上 | |||
三島王、後に松浦佐用姫の歌に追和する一首 | |||
887 | 音に聞き目にはいまだ見ず佐用姫が領布振りきとふ君松浦山 | ||
大伴君熊凝が歌二首 大典麻田陽春作 | |||
888 | 国遠き道の長手をおほほしく今日や過ぎなむ言どひもなく | ||
889 | 朝露の消やすき我が身他国に過ぎかてぬかも親の目を欲り | ||
熊凝のためにその志を述ぶる歌に敬和する六首并せて序 筑前国守山上憶良 | |||
大伴君熊凝は、肥後の国益城の郡の人なり。年十八歳にして、天平三年の六月の十七日をもちて、相撲使某国司官位姓名の従人となり、京都に参る向ふ。天に幸はひせらえず、路に在りて疾を獲、すなはち安芸の国佐伯の郡高庭の駅家にして身故りぬ。臨終る時に、長嘆息して曰はく、「伝へ聞くに、『仮合の身は滅びやすく、泡沫の命は駐めかたし』と。このゆゑに、千聖もすでに去り、百賢も留まらず。いはむや凡愚の微しき者、いかにしてかよく逃れ避らむ。ただし、我が老いたる親、ともに庵室に在す。我れを待ちて日を過ぐさば、自らに傷心の恨みあらむ、我れを望みて時に違はば、かならず喪明の泣を致さむ。哀しきかも我が父、痛きかも我が母。一身の死に向ふ途は患へず、ただ二親の生に在す苦しびを悲しぶるのみ。今日長に別れなば、いづれの世にか覲ゆること得む」といふ。 すなはち歌六首を作りて死ぬ。その歌に曰はく、 |
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890 | うちひさす 宮へ上ると たらちやし 母が手離れ 常知らぬ 国の奥処を百重山 超えて過ぎ行き いつしかも 都を見むと 思ひつつ 語らひ居れど おのが身し 労はしければ 玉桙の 道の隈廻に 草手折り 柴取り敷きて 床じもの うち臥い伏して 思ひつつ 嘆き伏せらく 国にあらば 父とり見まし 家にあらば 母とり見まし 世間は かくのみならし 犬じもの 道に伏してや 命過ぎなむ 一には「我が世過ぎなむ」といふ | ||
891 | たらちしの母が目見ずておほほしくいづち向きてか我が別るらむ | ||
892 | 常知らぬ道の長手をくれくれといかにか行かむ糧はなしに 一には「干飯はなしに」といふ | ||
893 | 家にありて母がとり見ば慰むる心はあらまし死なば死ぬとも 一には「後は死ぬとも」といふ | ||
894 | 出でて行きし日を数へつつ今日今日と我を待たすらむ父母らはも 一には「母が悲しさ」といふ | ||
895 | 一世にはふたたび見えぬ父母を置きてや長く我が別れなむ 一には「相別れなむ」といふ | ||
貧窮問答の歌一首并せて短歌 | |||
896 | 風交り 雨降る夜の 雨交り 雪降る夜は すべもなく 寒くしあれば 堅塩を とりつづしろひ 糟湯酒 うちすすろひて しはぶかひ 鼻びしびしに しかとあらぬ ひげ搔き撫でて 我れをおきて 人はあらじと 誇ろへど 寒くしあれば 麻衾 引き被り 布肩衣 ありのことごと 着襲へども 寒き夜すらを 我れよりも 貧しき人の 父母は 飢ゑ寒ゆらむ 妻子どもは 乞ふ乞ふ泣くらむ この時は いかにしつつか 汝が世は渡る 天地は 広しといへど 我がためは 狭くやなりぬる 日月は 明しといへど 我がためは 照りやたまはぬ 人皆か 我のみやしかる わくらばに 人とあるを 人並に 我れも作るを 綿もなき 布肩衣の 海松のごと わわけさがれる かかふのみ 肩にうち掛け 伏盧の 曲盧の内に 直土に 藁解き敷きて 父母は 枕の方に 妻子どもは 足の方に 囲み居て 憂へさまよひ かまどには 火気吹き立てず 甑には 蜘蛛の巣かきて 飯炊く ことも忘れて ぬえ鳥の のどよひ居るに いとのきて 短き物を 端切ると いへるがごとく しもと取る 里長が声は 寝屋処まで 来立ち呼ばひぬ かくばかり すべなきものか 世間の道 | ||
897 | 世間を厭しと恥しと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば | ||
山上憶良 頓首 謹上 | |||
好去好来の歌一首 反歌二首 | |||
898 | 神代より 言ひ伝て来らく そらみつ 大和の国は 皇神の 厳しき国 言霊の 幸はふ国と 語り継ぎ 言ひ継がひけり 今の世の 人もことごと 目の前に 見たり知りたり 人さはに 満ちてはあれども 高照らす 日の大朝廷 神ながら 愛での盛りに 天の下 奏したひし 家の子と 選びたまひて 勅旨 反して「大命」といふ 戴き持ちて 唐国の 遠き境に 遣はされ 罷りいませ 海原の 辺にも沖にも 神づまり うしはきいます もろもろの 大御神たち 船舳に 反して「ふなへに」といふ 導きまをし 天地の 大御神たち 大和の 大国御魂 ひさかたの 天のみ空ゆ 天翔り 見わたしたまひ 事終り 帰らむ日には またさらに 大御神たち 船舳に 御手うち懸けて 墨縄を 延へたるごとく あぢかをし 値嘉の崎より 大伴の 御津の浜びに 直泊てに 御船は泊てむ 障みなく 幸くいまして 早帰りませ | ||
反歌 | |||
899 | 大伴の御津の松原かき掃きて我れ立ち待たむ早帰りませ | ||
900 | 難波津に御船泊てぬと聞こえ来ば紐解き放けて立ち走りせむ | ||
天平五年の三月の一日に、良が宅にして対面す。献るは三日なり。 山上憶良 | |||
謹上 大唐大使卿 記室 | |||
沈痾自哀文 山上憶良作 | |||
ひそかにおもひみるに、朝夕山野に佃食する者すらに、なほ災害なくして世を渡ること得、常に弓箭を執り、六斎の、大きなると小さきと、孕むと孕まぬとを論はず、ことごとに殺し食ふ、これをもちて業とする者をいふぞ 昼夜河海に釣漁する者すらに、なほ慶福ありて俗を経ることを全くす。 漁夫・潜女、おのもおのも勤むるところあり、男は手に竹竿を把りて、よく波浪の上に釣り、女は腰に鑿籠を帯びて、潜きて深潭の底に採る者をいふぞ いはむや、我れ胎生より今日までに、自ら修善の志あり、かつて作悪の心なし。 諸悪莫作、諸善奉行の教へを聞くことをいふぞ このゆゑに三宝を礼拝し、日として勤めずといふことなし、 毎日に誦経し、発露懺悔するぞ 百神を敬重し、夜として欠くることありといふことなし。 天地の諸神等を敬拝することをいふぞ ああ媿しきかも、我れ何の罪を犯してかこの重き疾に遭へる。 いまだ、過去に造れる罪か、もしは現前に犯せる過なるかを知らず、罪過を犯すことなくは、何ぞこの病を獲むといふ 初め痾に沈みしより巳来、年月やくやくに多し。 十余年を経たることをいふ 是時年七十有四。鬢髪斑白にして、筋力尫蠃なり。ただに年老いたるのみにあらず、またこの病を加ふ。諺に曰はく、「痛き瘡は塩を灌き、短き材は端を截る」といふは、この謂ひなり。四支動かず、百節みな疼み、身体はなはだ重きこと、鈞石を負へるがごとし。 二十四銖を一両となし、十六両を一斤となし、三十斤を一鈞となし、四鈞を一石となす。合せて一百二十斤なり 布に懸かりて立たむと欲へば、折翼の鳥のごとし、杖に倚りて歩まむとすれば、跛足の驢のごとし。 吾れ、身はすでに俗を穿ち、心も塵に累ふをもちて、禍の伏すところ、祟の隠るるところを知らむと欲ひ、亀卜の門、巫祝の室、往きて問はずといふことなし。もしは実にもあれ、もしは妄にもあれ、その教ふるところに随ひて、幣帛を奉り、祈禱らずといふことなし。しかれども、いよよ増苦あり、かつて減差なし。我れ聞くに、「前の代に、多く良医ありて、蒼生の病患を救療す。楡柎・扁鵲・華他・秦の和・緩・葛稚川・陶隠居・張仲景らのごときに至りては、みな世に在りつる良医にして、除愈さずといふことなし」と。 扁鵲、姓は秦、字は越人、渤海郡の人なり。胸を割き心を採り、易へて置き、投るるに神薬をもちてすれば、すなはち寤めて平のごときぞ。華他、字は元化、沛国の譙の人なり。もし病の結積沈重して内にある者あれば、腸を刳りて病を取り、縫復して膏を摩る、四五日にして差ゆ 件の医を追ひ望むとも、あへて及ぶところにあらじ。もし聖医神薬に逢はば、仰ぎて願はくは、五蔵を割り刳き、百病を抄り探り、膏盲の隩処に尋ね達り、 盲は鬲なり、心の下を膏となす。これを攻むれども可からず、これを達せども及ばず、薬も至らぬぞ 二豎の逃れ匿れたるを顕はさむと欲ふ。晋の景公疾めるときに、秦の医緩視て還るは、鬼に殺さゆといふべしといふことをいふぞ 命根すでに尽き、その天年を終ふるすらに、なほ哀しびとなす。 聖人賢者、一切の含霊、誰れかこの道を免れめや いかにいはむや、生録いまだ半ばにもあらねば、鬼に枉殺せらえ、顔色壮年なるに、病に横困せらゆる者はや。世に在る大患の、いづれかこれより甚だしからむ。 志恠記に伝はく、「広平の前の大守北海の徐玄方が女、年十八歳にして死ぬ。その霊、憑馬子に謂ひて『我が生録を案ふるに、寿八十余歳に当る。今妖鬼に枉殺せらえて、すでに四年を経』といふ。ここに憑馬子に遇ひて、すなはちさらに活くこと得たり」といふはこれなり。内教には「瞻浮州の人は寿百二十歳なり」といふ。謹みて案ふるに、この数かならずしもこれに過ぐること得ずといふにはあらず。故に、寿延経には、「比丘あり、名を難達といふ。命終らむとする時に臨み、仏に詣でて寿を謂ひ、すなはち十八年を延べたり」といふ。ただ善く為むる者は天地と相畢る。その寿天は業報の招くところにして、その修き短きに随ひて半ばとなるぞ。いまだこの算にも盈たずして、たちまちに死去す。故に「いまだ半ばにもあらず」といふぞ。任徴君曰はく、「病は口より入る、故に君子はその飲食を節す」といふ。これによりて言へば、人の疾病に遇ふは、かならずしも妖鬼にあらず。それ、医方諸家の広説、飲食禁忌の厚訓、知易行難の鈍情の三つは、目に盈ち耳に満つこと、由来久しきぞ。抱朴子には「人はただその死なむとする日を知らず、故に憂へぬのみ。もしまことに羽翮して期を延ぶること得べきを知らば、かならずにこれをなさむ」といふ。ここをもちて観れば、すなはち知りぬ、我が病はけだし飲食の招くところにして、自ら治むること能はぬものかといふことを 帛公略説には「伏して思ひ自ら励むに、この長生をもちてす。生は貪るべし、死は畏るべし」といふ。天地の大徳を生といふ。故に死にたる人は生ける鼠にだに及かず。王侯なりといへども、一日気を絶てば、積める金山のごとくにありとも、誰れか富めりとなさむ、威き勢海のごとくにありとも、誰れか貴しとなさむ。遊仙窟には「九泉の下の人は、一銭にだに直せず」といふ。孔子曰はく、「これを天に受けて、変易すべからぬものは形なり、これを命に受けて、請益すべからぬものは寿なり」といふ。 鬼谷先生の相人書に見ゆ 故に知りぬ、生の極めて貴く、命の至りて重しといふことを。言はむと欲へども言窮まる、何をもちてか言はむ。慮らむと欲へども慮絶ゆ、何によりて慮らむ。 おもひみるに、人、賢愚となく、世、古今となく、ことごとくに嗟歎す。歳月競ひ流れて、昼夜も息まず、 曾子曰はく、「往きて反らぬは年なり」といふ。宣尼が臨川の嘆きもこれなり 老疾相催して、朝夕に侵し動く。一代の懽楽、いまだ席前にも尽きねば、 魏文の時賢を惜しむ詩には「いまだ西苑の夜をも尽くさねば、にはかに北邙の塵と作る」といふぞ 千年の愁苦、さらに座後に継ぐ。 古詩には「人生百に満たず、何ぞ千年の憂へを懐かしむ」といふぞ もしそれ群生品類、みな有尽の身をもちて、ともに無窮の命を求めずといふことなし。このゆゑに、道人方士の、自ら丹経を負ひ名山に入りて薬を合するは、性を養ひ神を怡びしめて、長生を求むるぞ。抱朴子に曰はく、「神農云はく、『百病愈えず、いかにしてか長生すること得む』といふ」と。帛公また曰はく、「生は好き物なり、死は悪しき物なり」といふ。もし不幸にして長生すること得ずは、なほ生涯病患なき者をもちて、福はひ大きなりと為さむか。今し吾れ、病に悩まさえ、臥坐すること得ず。かにかくに、為すところを知ることなし。福はひなきことの至りて甚だしき、すべて我れに集まる。「人願へば天従ふ」と。もし実にあらば、仰ぎて願はくは、たちまちにこの病を除き、さきはひに平のごとくなること得む。鼠をもちて喩へと為す、あに愧ぢずあらめやも。 すでに上に見ゆ |
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俗道の仮合即離し、去りやすく留めかたきことを悲歎しぶる詩一首并せて序 | |||
ひそかにおもひみるに、釈・慈の示教は、 釈・慈氏をいふ すでにして三帰 仏・法・僧に帰依することをいふ 五戒を開きて、法界を化く、 一に不殺生、二に不偸盗、三に不邪婬、四に不妄語、五に不飲酒をいふ 周・孔の垂訓は、すでにして三綱 君臣・父子・夫婦をいふ 五教を張りて、邦国を済ふ。 父は義に、母は慈に、兄は友に、弟は順に、子は孝にあることをいふ 故に知りぬ、引導は二つなれども、得悟はただ一つのみなることを。 ただし、世に恒質なし、このゆゑに陵谷も更変す、人に定期なし、このゆゑに寿夭も同じしからず。撃目の間に、百齢すでに尽く、申譬の頃に、千代も空し。旦には席上の主となり、夕には泉下の客となる。白馬走り来るとも、黄泉には何にか及かむ。隴上の青松は、空しく信剣を懸く、野中の白楊は、ただに悲風に吹かゆるのみ。ここに知りぬ、世俗にはもとより隠遁の室なく、原野にはただ長夜の台のみありといふことを。 先聖すでに去り、後賢も留まらず。もし贖ひて免るべきことあらば、古人誰れか価の金なけむ。独り存へて、つひに世の終を見る者ありといふことを聞かず。このゆゑに、維摩大士は玉体を方丈に疾ましめ、釈迦能仁は金容を双樹に掩したまへり。 内教には「黒闇の後より来むことを欲はずは、徳天の先に至るを入るることなかれ」といふ。 徳天は生なり、黒闇は死なり 故に知りぬ、生るればかならず死ありといふことを。死をもし欲はずは、生れぬにしかず。いはむや、たとひ始終の恒数を覚るとも、何ぞ存亡に大期を慮らむ。 |
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901 | 俗道の変化は撃目のごとし、 人事の経紀は申譬のごとし。 空しく浮雲と大虚を行き、 心力ともに尽きて寄るところなし。 |
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老身に病を重ね、経年辛苦し、さらに児等を思ふ歌七首 長一首 短六首 | |||
902 | たまきはる うちの限りは 瞻浮州の人の寿は百二十年なりといふ 平らけく 安くもあらむを 事もなく 喪なくもあらむを 世間の 厭けく辛けく いとのきて 痛き瘡には 辛塩を 注くちふがごとく ますますも 重き馬荷に 表荷打つと いふことのごと 老いにてある 我が身の上に 病をと 加へてあれば 昼はも 嘆かひ暮らし 夜はも 息づき明かし 年長く 病みしわたれば 月重ね 憂へさまよひ ことことは 死ななと思へど 五月蝿なす 騒く子ども 打棄てては 死には知らず 見つつあれば 心は燃えぬ かにかくに 思ひ煩ひ 音のみし泣かゆ | ||
反歌 | |||
903 | 慰むる心はなしに雲隠り鳴き行く鳥の音のみし泣かゆ | ||
904 | すべもなく苦しくあれば出で走り去ななと思へどこらに障りぬ | ||
905 | 富人の家の子どもの着る身なみ腐し捨つらむ絹綿らはも | ||
906 | 荒栲の布衣をだに着せかてにかくや嘆かむ為むすべをなみ | ||
907 | 水沫なすもろき命も栲綱の千尋にもがと願ひ暮らしつ | ||
908 | しつたまき数にもあらぬ身にはあれど千年にもがと思ほゆるかも 去にし神亀二年に作る。ただし類をもちての故に、さらにここに載せる | ||
天平五年の六月丙申の朔にして三日戊戌に作る。 | |||
男子名は古日に恋ふる歌三首 長一首 短二首 | |||
909 | 世の中の 貴ひ願ふ 七種の 宝も我れは 何せむに 我が中の 生れ出でたる 白玉の 我が子古日は 明星の 明くる朝は 敷栲の 床の辺去らず 立てれども 居れども ともに戯れ 夕星の 夕になれば いざ寝よと 手をたづさはり 父母も うへはなさがり さきくさの 中にを寝むと 愛しく しが語らへば いつしかも 人と成り出でて あしけくも よけくも見むと 大船の 思ひ頼むに 思はぬに 横しま風の にふふかに 覆ひ来れば 為むすべの たどきを知らに 白栲の たすきを懸け まそ鏡 手に取り持ちて 天つ神 仰ぎ祈ひ祷み 国つ神 伏して額つき かからずも かかりも 神のまにまにと 立ちあざり 我れ祈ひ祷めど しましくも よけくはなしに やくやくに かたちくづほり 朝な朝な 言ふことやみ たまきはる 命絶えぬれ 立ち躍り 足すり叫び 伏し仰ぎ 胸打ち嘆き 手に持てる 我が子飛ばしつ 世間の道 | ||
反歌 | |||
910 | 若ければ道行き知らじ賄はせむ黄泉の使負ひて通るらせ | ||
911 | 布施置きて我れは祈ひ祷むあざむかず直に率行きて天道知らしめ | ||
右の一首は、作者いまだ詳らかにあらず。ただし、裁歌の体、山上の操に似たるをもちて、この次に載す。 | |||
万葉集 巻第五 | ![]() |
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