諸本・諸注の引用   巻第一
 一首全体の歌意解釈に及ばない範囲 (和歌を自分自身で感じるために) での「諸注」の注釈を引用掲載する。
 底本を、小学館「新編日本古典文学全集」とし、その凡例による。


 [西本願寺本を底本とし、古写本の校合は、校本萬葉集によると共に、桂本・元暦校本・金澤本・紀州本・類聚古集・古葉略類聚鈔・神宮文庫本など複製本の備わっているものはこれについて再検証し、冷泉本・陽明本・近衛本・京都大学本は現物について確認することに努め、また検天治本や諸家に伝わる断簡類についても目に触れたものはすべて校勘に付し、誤りがないように配慮した。]

 主な「注釈書」として、
 「小学館『新編日本古典文学全集万葉集』」、現代注釈書の中では比較的新しい。
 
「有斐閣『万葉集全注』」、これは全二十巻執筆者が異なり、それぞれに独自性がある私が重宝している書。従って、各巻ごとの整合性を求めていない点がいい。

 「中央公論社『万葉集注釈』」、澤瀉久孝著。語句の検証が丁寧でありがたい。


 
他、古語辞典に載らない「語句」の参考資料として、上記の書をベースに、古書の類の注釈書からの引用も載せる。
 尚、表の「歌番号」は「新編国歌大観歌番号」、諸注歌番号、及び文中歌番号は、「国歌大観歌番号 (旧歌番号)」。
 

巻第二 巻第三   巻第四  巻第五 巻第六   巻第七  巻第八  巻第九 巻第十   巻第十一  巻第十二  巻第十三  巻第十四  巻第十五  巻第十六  巻第  巻第十八  巻第十九 巻第二 
巻二 b                                    
巻二 c                                    
巻二 d                                    
巻二 e                                    

「代匠記」 契沖 「万葉代匠記」 初稿本 貞亨四年(1687)、精撰本 元禄三年(1690)   「注釈」  澤瀉久孝 「万葉集注釈」 中央公論社  昭和32~37年 
「攷證」 岸田由豆流 「万葉集攷証」  文政十一年(1828)   「大系」  岩波書店 「日本古典文学大系」  昭和37年 
「古義」  鹿持雅澄 「万葉集古義」 国書刊行会  天保十三年(1842)    「全注」  有斐閣 「万葉集全注」  昭和58年~平成18年 
「全釈」  鴻巣盛広 「万葉集全釈」  昭和5~10年    「新全集」  小学館 「新編日本古典文学全集」  平成8年 
「全註釈」 武田祐吉 「万葉集全註釈」 昭和23~25年    「新大系」  岩波書店 「新日本古典文学大系」  平成15年 
「私注」  土屋文明 「万葉集私注」 筑摩書房  昭和24~31年       
      

歌番号  語句 諸注 諸注引用 
巻第一 12  阿胡根の浦 代匠記  ホリはほしきなり、言はわが聞おきてみまくほしかりし野嶋をば見せつなり、紀州にも野嶋あるか、もしは紀の海の濱づらを經てかなたこなた御覽じ給ふに、淡路の野嶋を見やらせ給ふにや、遠き野嶋をさへ見つるに、あこねの浦は目の前に見ながら、底の深さに歸るさの家づとにすべき眞珠をえひろひ給はぬが殘多くおぼさるゝとなり、不拾は第十五等に比利比弖など云へる古風に依て今もヒリハヌと讀むべし
  子嶋 古義  子島羽見遠 [コシマハミシヲ]、(舊本に野島波見世追とありて、或頭(ニ)云、吾欲 [アガホル] 子島羽見遠、と註せるを今は擇び取用つ、吾欲とあるはよろしからねば、舊本に從つるなり、) 子島 [コシマ] は、紀伊 (ノ) 國名草 (ノ) 郡和歌山 (ノ) 城府より、今道三里ばかり北に兒島と云あり、今人家千五六百戸許ありて、往來の船の泊る處なりと其 (ノ) 國人云り、是なるべし、さてかねて見まほしく思ひし子島は見しものを、こゝをだに見たらば、思ひのこす事はさらにあるまじきにの意にて、次の句をのたまはむ下形なり、(野島は次にいふ、) 
巻第一 14  立見尓来之
  (たちてみにこし)
全注  み輿をあげて仲裁にやって来たの意。結句に続く。播磨風土記 (揖保郡上岡の里) に、三山の争いを仲裁しようとして出雲から阿菩大神がやって来たが、播磨の国の神阜 (かみおか) まで来た時、争いがやんだと聞き、この地にとどまったという伝説がある。この伝説を背景におく歌と見て、今の句の主語を阿菩大神と見るのが通説。往古の歌にはさような共通理解に立って表現を駆使することもあろう。一解と認められる。だが、そうした伝説を知らないで読むなら、「立って見にやって来た、この印南国原よ」というここの文脈は、主語を「印南国原」だと見る考えを一方で成立させる。風土記にいう揖保郡神阜は播磨の西部、この歌の印南国原は中部、およそ三十キロばかりの距離がある。同じ播磨でも別の土地の伝説を三山歌にただちに援用するのは疑問だとして、主語を文脈通りに「印南国原」と見る説がある。この場合、印南国原の地には、別途に印南国原そのものが大和に仲裁に向かったという伝説があったと見るわけである。揖保の地域も含めて「印南国原」と言ったとしてしまえばそれまでだが、ここでは一応新説に従っておく。古代人は「印南 (いなみ)」の地にしばしば「否(いな)」の意を連想した。「国原」が「山」の争いについて「否」と仲裁するために出で立つというのも、神話的、伝説的な発想といえるように思うからである。
巻第一 15  渡津海乃 豊旗雲尓 代匠記  ワタツミは海の摠名、また海神をも云、今は海神か、トヨ旗雲は八雲に云、大なる旗に似て赤き夕の雲なり、『袖中一委記、』皇覽云、□([山/虫]) 尤家在東郡壽張縣闞郷城中高七尺、常十月祠之、有赤氣出如絳、名爲□([山/虫]) 尤旗、懷風藻、大津皇子遊獵詩云、月弓輝谷裏、雲旌張嶺前。今かくつゞけ給は、雲は海神の興す物なる故か、海賦には吐雲霓 (ヲ) 潜 (ス) 靈居と云、此集十八には、此みゆる天の白雲わたつみの、奥つ宮べに立渡などもよめり、又皇覽に□([山/虫]) 尤が旗といへるやうに、海神の旗といへる心にや、第十六に、わたつみの殿のみかさなどよ)めるを思合すべし、
  伊理比弥之 全集  「見シ」の原文は神宮文庫本など「沙之」とあるが、それは中古の自由な読み方に合わせた捏造本文で、元暦校本などに「弥之」とあるのによる。
    注釈  原文「伊理比沙之」の「沙」の字、元暦校本類聚古集には「」とあり、紀州本には「佐」とあり、西本願寺本陽明文庫本その他の諸本には「祢」とあり、「沙」とあるは細井本と無点本以下の刊本のみであり、訓も金沢文庫本西本願寺本陽明文庫本京都大学本など「ネ」とあるので、原文を「沙」と断じて「サ」と訓む事に少し不安が感ぜられる。既に仙覚抄に「二條院御本ニ、イリヒネシト点ズ。漢字スデニ祢ナリ。尤入日ネシト点ズベシ。」と云つて「ネシトイフハ、ヤハラグト云フコトバナレバ、入日ヤハラビテハ、可屬晴天コト、殊ニソノイハレアヒカナヘル也」と説明したが、これは苦しいこじつけであり、全註釈には古本の「弥」によつて、「ミシ」と訓み、「見しの義」として「入日のさしてゐるのを見た今夜の月は」と訳され、下に述べるやうに、大野晋氏は主として結句の関連に於いて、同じ訓を主張されてゐる。武田博士のは、専ら古本尊重の意味から「弥之 (ミシ)」を採られたのであり、それは博士の敬服すべき態度であるが、結句との関連についてはその條で述べるとしても、まづこの句のとして考へるに、「見し」とすれば、当然「し」は過去の助動詞の連体形で、次の「今夜」につづくのであるが、「入日見し今夜」といふ言葉は、事実として少しをかしいのではなかろうか。「入日見し今夜」といふ事は入日を見た日の夜といふ事では無くて、入日を今夜見たといふ事になるからである。「ゆふ」「ゆふべ」といふ言葉は昔も今も日暮れ頃にも用ゐるが、宵といふのは今もその時間には用ゐない。殊に万葉では「真日久礼氐 (マヒクレテ) 与比奈波許奈尓 (ヨヒナハコナニ)」 (14・3461) で日が昏れてから宵になるのである。

  天原 雲無夕尓 烏玉乃 宵度月乃 入巻□毛 /あまのはら くもなきよひに ぬばたまの よわたるつきの いらまくをしも(9・1712)

とあり、「織女之 (タナバタノ) 袖続三更之 (ソデツグヨヒノ) 五更者 (アカトキハ)」 (8・1545) とあるのを見ても「よひ」は夜ふけにも及ぶのであり、この作と同様「こよひ」には「今夜」の文字が用ゐられてゐるのが通例であり、今夕、此夕の文字も二三用ゐられてゐるが、「物念此夕急明鴨」 (11・2593) とあるのを見ても、「入日見し今夜」はうなづけない。それに「見し」と云へば見た時は過ぎてゐる。豊旗雲も入日も眼前からは消えてゐる。「春過ぎて夏来るらし」 (28
) は眼前に春が過ぎ夏が来るところにその歌は生かされてゐるので、春が既に過ぎてしまつてゐるのでない事その條で述べる如く、況や美しい雲も入日も眼前に無く、しかも月はまだ出ない、といふのでは暗闇の歌になつてしまふ。「入日見し」の訓釈には従ひ難い。それならば「沙」や「佐」の文字に従ふかといふにここで無造作に流布本や紀州本に従ふのでは仙覚抄や全註釈に敬意を表するに及ばない事になる。「弥」や「祢」の文字との関連をも少し考察する必要がある。ここで注意せられる事は、元暦校本類聚古集に「弥」とありながらも訓は「イリヒサシ」とある事である。紀州本も同訓で文字は「佐」とさへなつてゐる。現存諸本中最も古い三本に「イリヒサシ」と訓でゐるのみならず、後にも述べるやうに、袖中抄綺語抄夫木抄に引用せられてゐるものも同様であるといふ事は注意されてよい。古本に「弥之」とありながらもミシの訓はなく、「祢之」とある本にネシの訓はあつてもそれは仙覚の所謂二條院御本にはじまるものであつて、それ以外の古訓がすべてサシに一致してゐる事を考へる時、この古訓こそ原本の正しい訓を伝へたものであつて、本文の方が誤つてしまつたと考へるべきではなかろうか。それならばやはり「沙」の誤でないかといふ事になりさうであるが、誤字の経路を自然にする為に、私はもう一歩前に溯つた推定を考へるのである。それは「沙」の文字となる前に「紗」の文字があつたといふ推定である。流布本に「沙」とあるものが、古写本に「紗」とある例は既に前 (一) にもあつたが、たとへば、

 桂本「為便奈紗 (スベナサ)」(4・757) -元暦校本紀州本以下「沙」
 天治本元暦校本類聚古集「人之悲紗 (ヒトノカナシサ)」(13・3337) -古葉略類聚鈔・紀州本以下「沙」
 元暦校本類聚古集「紗小牡鹿 (サヲシカ)」(10・2147) -紀州本以下「沙」
 紀州本「悲紗 (カナシサ)」(6・982) -類聚古集・西本願寺本以下「沙」
 (その他の例、『古径』三、130頁参照)

の如く、流布本のみならず、後の写本には「沙」とあるものも、古写本には「紗」とあつた例が十数例も拾ふ事が出来る事を思ふと、今もまた現存の諸本には「紗」とあるものを見ないけれども、それはたまたま「紗」とあつた古本が佚した為で、もし桂本天治本、或はもつと原本に近いものがあつたとしたならば「紗」の文字の見出されたであらうといふ事は十分想像する事が可能である。だとすればその「紗」から「弥」に誤つたと見る事は極めて自然に認められよう。糸偏と弓偏、「少」と「爾」とは楷書に直された活字としては全く似もつかぬ文字であるが、略体、草体の交へられた上代、中古の筆写文字としては「氵」と「糸偏」、「少」と「尓」とは極めて類似の文字となつて誤写の可能性は十分に認められる。勿論「沙」から「弥」への誤字も考へられないのではないが、右にあげた「紗」より「沙」への誤字のみあつてその逆は無い事も参照して、「沙」より「弥」へと考へるよりも「紗」より「弥」への経路の方がはるかに自然であらう。さて一旦「弥」と誤ればまた「祢」と誤る事これまた一歩の差である。かうして原文の「紗」から二つの誤字が生まれ、原文の「紗」は地下水のやうに姿をかくしてしまつたが、再び地上に姿をあらはした時には細井本の「沙」となつてゐたのであり、他方に「紗」又は「沙」から、サの表記文字としては最も使用例の多い「佐」の文字に不用意に書き換へられたものが紀州本の文字であると考へられる。それは「問 (モ)」より「毛 (モ)」へ (2・119)、「鹿 (カ)」より「香 (カ)」へ (2・121) などの例はいくつもあるからである。現存の諸本に実証の無い「紗」の文字を推定する事に異論が出るかと思ふが、右にあげたやうな「紗」→「沙」の実証が十数例もある以上はこれを傍証として、

 【紗】-「弥」(元暦校本・類聚古集)-「祢」(金沢文庫本・西本願寺本その他)
 【紗】-「沙」(細井本・刊本)
 【紗】-「佐」(紀州本)

といふ風な文字転写の跡を考へる事は認められると私は信ずる。そこまで考へる必要はないとも云へるけれども、仙覚抄、全註釈の異説があり、殊に後者は新説として再検討が加へられようとしてゐる折柄、これだけの考察は必要であると考へる。さて「入日さし」は、豊旗雲に入日がさして、の意。眼前の実景を中止法で云ひさしたのである。この語法についても異説が出てゐるが、それは結句の條で述べる。
清明己曽
  (さやけかりこそ)
【澤瀉久崇「万葉集注釈 巻第一-15-清明己曽-】の諸注の訓釈
 原文「清明己曽」には十数種の異訓がある。私にも「『清明』攷 (『古径』一) があり、私按をややくはしく述べた。そのはじめに管見に入る十三種の異訓を揚げておいたが、ここにそのうちのおもなもののみをあげると、

「1」 スミアカクコソ(元暦校本以下-京大本を除く-古写本より寛永本に至る諸本、秘府本万葉集抄より代匠記に至る諸注)
 仙覚抄に「入日能時ハ、月光清也云々」といひ、管見にも「此雲に入日のうつろひて、あかくみゆるは、日よりのよき相なれば」、代匠記も同じ意の語をくりかへして「今宵ノ月ハ必澄テ明ナルベキヲ喜テ詠ジ給フナルベシ」と云つてゐるが、まづスミといふ訓に疑問がある。「清」をスミと訓んだ例に「清江 (スミノエ)」 (69左注、3・295) があるから一応認められる訓のやうであるが、地名「住吉 (スミノエ)」は集中四十数例もあるにかかはらず「清」の文字の用ゐられたものただ二例のみである事もいぶかしく、その他には「澄む」の意に「清」の文字の用ゐられたもの集中になく、「吹風乃 (フクカゼノ) 声之清者 (オトノキヨキハ)」 (6・1042) の「清」をもとスメルと訓んでゐたが、これは新考にキヨキと改められたに従ふべきものであり、続紀 (三十) 宝亀元年三月の歌垣の歌に「須売流可波可母 (スメルカハカモ)」とあるが「澄む」の仮名書例の初出である。特に月には澄むといふのが王朝以後の通例となつてゐるが、万葉ではキヨシ、サヤケシの例のみである事からスミと訓む事には大きい疑問が抱かれる。次に「アカク」の訓であるが、地名「明 (アカシ)」 (3・254) があり、「日月波 (ヒツキハ) 安可之等伊倍騰 (アカシトイヘド)」 (5・892)、「安加吉許己呂乎 (アカキココロヲ)」 (20・4465) の形容詞としての用例があるが、その二例のみであり、然も共に抽象的な用例であつて、眼前に見る月光の形容としては用ゐられてゐないところにこれまた疑問が感ぜられる。それに僻案抄に「すみあかくといひては歌詞にならず。」と云つてゐるやうに、「清明」を二語に訓む事が拙く、斉藤茂吉氏も (「中大兄三山歌評釈」『万葉の歌境』所収) も「ここは、スミ・アカク、或は、キヨク・テリ、或はキヨク・アカリの如く小刻みになつては、一首の堂々たる声調を結ぶ事が出来ない。」と述べられてゐる事もうなづかれるやうに思ふ。次に「己曽」をコソと訓む事は諸本、諸注に一致するところであつて問題はないが、右に引用した代匠記の解釈はこの語については何の説明も加へてゐないけれども、これを係助詞と見た事はその解釈より認められる。上をアカクと訓めばその「こそ」は形容詞の連用形につく事になるが、さうした接続を認め難いと大野氏は云はれてゐる。その問題については後で一括して考へる事にしたい。以上あげたやうな難がある為に代匠記を最後としてこの説は用ゐられなくなつた。

「2」 スミアカリコソ(京都大学本)
 この訓は古写本のうち京大本にのみあるものだが、これはむしろ前のアカクのクの片仮名が形の類似から「リ」に誤つたと見るべきものである。しかし全註釈に至つてこの訓が採用されることになつたのである。新訓、新解でキヨクアカリコソと訓まれたのを訂正されたもので、「調子もよく整ひ、平易である」とあるが、また「月について澄む、明るといふ例の無いのはこの訓の弱点である。」とみづから云はれてゐるやうな難のある事は「1」の條を参照されれば一層明らかであらう。「明る」といふ言葉は集中に「安可流橘 (アカルタチバナ) 」 (19・4266) といふのが、しかも「赤る」の意味で用ゐられてゐるのみである。アカリと訓まれたのは、「こそ」を希望の助詞とされたからである。即ち希望の「こそ」がつづく為には、動詞の連用形たる事を必要としたからである。その事については、また後で述べるとして、第三句を「入日見し」とせられたのも、この結句との呼応を考へられての事で、その点行き届いた用意が、加へられてゐるのであるが、「入日見し」の訓に従ひ難い事、既に述べたところである。

「3」 アキラケクコソ(万葉考)
 考に「すみあかくと訓しは、万葉をよむ事を得ざるものぞ、紀にも、清白心を、あきらけきこころと訓し也、」と云つて以来、諸注翕然としてこの改訓に従ふに至つた。「清明」二字を一語として訓む事は僻案抄の「サヤケシト」にはじまるが、「と」の助詞を加へたところ拙く、アキラケクの調に及ばない。「清明」の文字は古事記上巻「汝心之清明何以知」、「我心清明故」とあり、記伝にアカキと訓んだが、敏達紀十年閏二月の條の「清明心」を右記伝の引用例中ではキヨクアカキと訓み、続日本紀宣命の第二詔「明浄心」、第三詔「浄明心」を同じ宣長の詔詞解では、アカキキヨキ、キヨキアカキと訓んでゐる。第五詔「清明正直心」、第七詔「浄明心」などと並べて、右の詔詞解の訓は正しいものと思はれ、「清明」をアキラケクと訓む確証と見るべきものではない。「安伎良気伎 (アキラケキ) 名尓於布等毛能乎 (ナニオフトモノヲ)」 (20・4466) の仮名書例と「明久 (アキラケク) 吾知事乎 (ワガシルコトヲ)」 (16・3886) の他にアキラケシといふ語が無い。「月明らかに星稀に」などといふ語に我々には、月に「明らけし」といふ事が当然に考へられるのであるが、集中には前に述べたやうに、月に「さやけし」、「きよし」の例のみあつて、「明らか」の例はない。これは『講話』の中へも述べたやうに、「明暗」「遅速」「強弱」はものの程度を「説明」する言葉であり、「清し」「さやか」はものの状態を「描写」する言葉であり、月光の形容としては当然後者が用ゐられたと見るべきでないかと思ふ。さういふ意味でもアキラケクの訓に疑問が感ぜられる。それにただアキラケクと訓むのであれば、「明」一字であつてよく、「清」の文字が不用だと思はれる点にも疑問がある。なほ、「こそ」との接続については「1」の「あかく」と同様である。

「4」 キヨクテリコソ(万葉集古義)
 古義には「清明をアキラケクといふは古言にあらず、」と云ひ、「明」は「照」の草体の誤つたものとした。「清く照る」の語例としては「月読之 (ツクヨミノ) 光者清 (ヒカリハキヨク) 雖照有 (テラセレド)」 (4・671)、「借高之 (カリタカノ) 野辺副清 (ノベサヘキヨク) 照月夜可聞 (テルツクヨカモ)」 (7・1070)、「雨晴而 (アメハレテ) 清照有 (キヨクテリタル) 此月夜 (コノツクヨ)」 (8・1569) などがあげられてゐる。「清く照る」の語はうなづかれるが、「照」の誤とする点に難があり、改修新講では「明」に「照」の義があるからと云つて、このままテリと訓まれてゐるが、さういふ訓読例が無いところに疑問がある。「こそ」との接続は「2」と同じく希望の助詞とするものであり、従つて古義では第三句の「入日さし」を「今入日のさすを見ておほせられたるにはあらず」といひ、「今夜の月見むとおもふ時しも、入日の空に心なく雲の棚引きよ、かくてはこよひの月もさやかならじを、いかでかの入日の影のこころよくてりて、雲もはれゆき、今夜の月しもさやかに有かしと作坐るなり」と云つてゐる。これでは豊旗雲に入日さす美しい実景は無い事になる。そこで前述武田、大野両氏の如き「入日見し」の説ともなつたわけであるが、次田氏は古義の訓に従ひながら「さし」の下には助動詞の「ぬ」を補つて見るべき所であるとされ、「入日が赤々とさしてゐる。」と、そこで切つて訳されてゐる。「ぬ」を補ふとする事はどうであらう。花田比露思氏は万葉私解の中で古義の説に従ひ、霧島の山裾で見た実景なども述べ、「入日さし・・・」と休止を置いて味はふべきものとされてゐる。

「5」 サヤニテリコソ(増訂選釈)
 訓読についての説明はされてゐないが、「清」をサヤと訓む事は、「妹袖 (イモガソデ) 清尓毛不見 (サヤニモミエズ)」 (2・135) ともあつて認められるが、前項のキヨクに一歩を進めたものだとは考へられない。

「6」 マサヤケクコソ(古泉千樫氏説〔アララギ 第十五巻第一号大正十一年 輪講茂吉曰ノ中〕)
 「清明」二字を僻案抄にサヤケシと訓んでゐる事右にあげたが、秋成の楢の杣にはサヤケクモと訓でゐる。「清有家里 (サヤケカリケリ)」 (7・1074)、「月清左 (ツキノサヤケサ)」 (7・1076) などの例と「浄河瀬 (キヨキカハセ) 見何明沙 (ミルガサヤケサ)」 (9・1737) とあるのとを見ると「清明」二字をサヤケシと訓む事が認められるので、それに「ま」といふ接頭語をつけてマサヤケクと訓む事もあつてよいやうに思はれる。「くはし」と「麻具波思 (まぐはし)」 (14・3424)、「かなし」と「麻可奈之 (マカナシ)」 (14・3567) などのやうに。しかし「ま」の接頭語は体言に冠せられるが通例であつて、用言に冠せられる事は少ない。たとへば「ま白」 (19・4155) といふ言葉はあるが「ま白し」といふ語は見当たらない (3・318参照)。従つて「まさやか」といふ言葉はあつても「まさやけし」といふ言葉はあるとは云ひきれない。事実「まさやけし」、「まさやけく」などの用例は見当たらない。マサヤケクはアキラケクに比して文字にも忠実であり、語意も適切であり、島木赤彦氏 (『鑑賞及び其批評』) が採用されてゐるのもうなづけるのであるが、右の点に疑問が感ぜられる。

「7」 マサヤケミコソ(品田太吉氏説 〔香蘭第十巻第八号昭和七年八月〕)
 「まさやけし」といふ語の存在に疑問が感ぜられるのであるから「まさやけみ」は尚更である。ただ「みこそ」といふ結びの例がある。

 (a) 木綿懸けて祭る三諸の神さびて斎むにはあらず人目多見許増 (ヒトメオホミコソ) (7・1377)
 (b) 息の緒に我れは思へど人目多社 (ヒトメオホミコソ) 吹く風にあらばしばしば逢ふべきものを (11・2359)
 (c) 小里なる花橘を引き攀ぢて折らむとすれど宇良和可美許曽 (ウラワカミコソ) (14・3574)
 (d) 言とはぬ木すら春咲き秋づけばもみち散らくは常乎奈美許曽 (ツネヲナミコソ) (19・4161)

これらによつて今もミコソの訓が考へられるやうであるが、「み」は「-であつて-」又は「-であるので-」の意(1・5) である事右の例を見ても明らかであり、今の場合には適しない。

「8」 キヨラケクコソ(松岡静雄氏説『日本古語大辞典』)
 折口博士 (「万葉集の鑑賞」中央公論 第四十九年第一号昭和九年一月) も同説である。(6) と似てゐるが、「きよら」の語は伊勢物語 (四十一段) をはじめ王朝の物語りには多く見られるが、集中には無く、「きよらけし」は尚更である。

「9」 
サヤケカリコソ(森本治吉博士説〔国語・国文 第七巻第一号、昭和十二年一月〕)
 これが「こそ」を願望の助詞と認め、従つてその上は用言の連用形とせなければならないとされたのであり、「さやけかり」の語は (6) の條にあげたやうに集中例もあり、極めて穏当な説のやうである。ただ「清明」二字をサヤケカリと訓む事に疑問がある。氏はこの歌の用字法から助詞の訓添も否定されてゐる位であり、活用語尾カリを訓添へる事は一層不可思議である。当然「有」の字があるべき事集中の多くの例がそれを示してゐる。だからもしさう訓むべきならば「清明」の二字を用ゐる代りに「清有」とあるべきだと思ふ。「有」と「明」とは〔実例表現できず〕草体の字が極めて似てゐるからであつてこれは誤字説によるべきものだと私は考へる。だがさうした誤字説を立ててまで「こそ」を願望と見なければならないか、そこに疑問がある。

「10」 
マサヤカニコソ(『小径』)
 「清明」をサヤカと訓む事までは、右に述べ来つたところにより誰にも認められるが、マとニとを訓添へる事には問題があらう。この作には訓添がないといふ意見もあるが、前の作の「立見」もタチテミと訓む事に異論なく、テの訓添があるのだから今もニの訓添は不都合とは云へない。又マの訓添は、「好去」をサキクと訓んだと思はれる例 (4・648、13・3227) があると共に、マサキクと訓んだと思はれる例 (7・1183、17・3957) もあるやうに、今も必ずしもマに相当する文字が無くとも、マを訓添へる事は考へられ、殊に「清」又は「明」一字でなくて、「清明」と重ねたところは「さやか」の意を強めた心が感ぜられ、且第二句の豊旗雲の「豊」とも呼応して、「ま」の接頭語を加へたと見る事が出来るのではないかと私は考へる。それにまた語として「麻佐夜可尓 (マサヤカニ)」 (20・4424) の用語例があるのだから、「清明」の二字をマサヤカニと訓む事は、右にあげ来つた諸訓の中では、誤字説によらず、原文のままで五音に訓むとしては最も穏当な訓み方でないかと私は考へたのである。たださういふ風に訓めば「こそ」は係助詞になる。私は係助詞として解釈したのであるが、近来「こそ」を願望と解する学者が多いので、もう一度この事を考へてみやうと思ふ。
巻第一 16  ずあり 全集  ザリはズアリの約。仮名書きはズアリ八対アリ五で、ズアリの例が多いが、「不□有」は仮にザリで統一する。
巻第一 17  道隈 (みちのくま) 全注  「隈」は、入り組んだ人目につきにくい所の意。境界地と意識される場所についていうことが多い。道の隈には邪霊が住みやすいので、道の神が祭られた。
    全集  隈は物陰にあって周囲から見えにくい所。古本『玉篇』に「隠蔽之処」とある。
    注釈  「くま」は説文 (十四) に「隈、水曲也」とあつて、本来は水の曲処であるが、また弓にも山にも、すべて入り曲つた処をいふ。神代紀下「八十隈」に注して「隈、此云 矩磨埿 (クマヂ)」とある。「此道乃八十隈毎 (コノミチノヤソクマゴトニ)」 (2・131) ともあり、道の曲がり角である。
委曲 (つばらにも) 全注  つまびらかに、十分に。「つばらかに」「つばらつばらに」などとも。「も」は、下の「しばしばも」の「も」と同じく、見得ないという打消の状況に対する嘆きをこめている。なお、「つばらに」を表すには、「委」もしくは「曲」だけでも間に合う (3・333「曲々ニ (つばらつばらに)」など)。ここは、漢語「委曲」を丁寧に宛てている。万葉歌全体こういう用字を調査して、万葉人の漢語意識を探ることも、古代研究の一つとして存在しえよう。
巻第一 19  綜麻形 (へそかた) 古義  古義(ヘソガタ)
 綜麻形 [ヘソガタ] は、地 (ノ) 名なるべし、崇神天皇紀に大綜麻杵 [オホヘソキ] と云人 (ノ) 名あり、由あるか、形は左野方 [サヌカタ]、山縣 [ヤマガタ] など地 (ノ) 名に多し、そのこ縣 [カタ] なるべきか、按 (フ)、此は三輪山の古 (ヘ) の異名なるべきか、上に云るごとく、閇蘇麻 [ヘソヲ] の三勾 [ミワ] 遺れるに因 (リ) て、其 (ノ) 地を美和 [ミワ] と名 [ナヅ] けたるよし見えたる閇蘇 [ヘソ] は即、綜麻 [ヘソ] にて、其 (ノ) 麻の遺れる状 [サマ] によりて、三輪 [ミワ] といひそめたる地 (ノ) 名なるがゆゑに、やがて綜麻形 [ヘソガタ] とはいひたるなるべしさて彼 (ノ) 地の異名なりけるから、本 (ノ) 名の三輪と云るのみ世にひろく傳はりて、綜麻形 [ヘソガタ] の稱 [ナ] は、後には、きこえぬことゝなれるにやあらむ、(紗寐形 [サヌカタ] の誤といふ説はいふにたらず、)
代匠記 【一首解釈】
 綜麻形乃林始、仙覺の曰、林の茂くして杣山などの形のごとくはやし初る心なり、そまかたに道やまどへるとよめる歌も、杣方と心得られたりと見えたり、今案、日本紀に綜麻をヘソとよめり、始の字は第十九に、始水をミツハナと點じたれば、水はなは水の出さきをいへば、今はサキと訓じて、ヘソカタノ、林ノサキノと讀べきか、古歌に、山深くたつをだまきとよみ、狹衣に、谷深く立をだまきは吾なれや、思ふ心の朽てやみぬるとよめるも、木の打しげりて丸に見ゆるが、をだまきのやうなれば、やがて押て苧環と名付たるか、若爾らばへそかたの林といはむ事も可准之、さてこれは所の名歟、狹野榛、狹はたゞ野榛也、榛ははりの木、俗にはんの木と云、古は此皮を以て絹を染たるを榛染と云、此榛と萩と紛るゝ事あり、又集中多く有れば別釋す、衣爾著成、是はキヌニツクナスと讀べきにや、神代紀は如五月蠅をサバヘナスとよめるは、さつきの蠅のごとくと云心なれば、つくなすも、つくごとくなり、此集に鏡なす玉藻なすなど讀り、十四に、高き根に雲のつくのすと云も雲のつくなすにて、雲の山に著如也、歌の心は、榛の衣に染つくやうに、我思ふ人は目につきて離ぬと云なり、此集第七に、今つくるまたら衣は目につきて、我におもほゆいまだきね共、此心なり、ワガセは、女を指て云へり、背も男女に通ず、別に釋す、此歌の註にいへる如く、始の長歌を和する歌とは見えず、
巻第一 23  白水郎 (あま) 全集  「海人」は水辺に生活し、塩を焼き漁労に従事する者をいう。原文の「白水郎」は中国の海辺に住み漁業を営んでいた住民 (男子) を表す。
 (『唐大和上東征伝』『入唐求法巡礼行記』など)
 
巻第一 25  み吉野
(地名に接頭語「み」)
全注   地名に接頭語「み」を冠するのは、古代では「吉野」「熊野」「越」に限られる。いずれも、格別の異境と意識され、霊威の地と見なされたからである。「吉野」は佳き野で、古くから大和朝廷の聖地とされた。「熊野」は隈野で、大和南端の隅の地、異界との境いの地とされた。「隈」が異霊のさまようところであること、十七「道の隈」参照。「越」は古事記神話に、八千矛神が沼河比売を求めて訪れた異境。大和北端の地と意識されたのであろう。「越」はまた七世紀の大和朝廷にとっての直接の祖、継体天皇発祥の地でもあった。
巻第一 27  淑人 (よきひと) 全集  優れて徳のある人。君子。原文「淑人」は『毛詩』(曹風)に「淑人君子」とあるのによったもの。第一句の「ヨキ人」は昔の君子、第五句の「ヨキ人」は今の君子をさす。後者は天皇の周囲にある諸皇子への呼びかけであろう。
巻第一 28  (ころも) 全注  「ころも」は、「ころ=裳」が原義であろう。「ころ」は直接、じかの意を表わす。「ころ臥す」「ころ来」など。よって「ころも」は肌にじかに着ける裳の意を示し、肌着・下着にいうことが多い。ここは直接着用する着衣で、白く望まれる布を、香具山を斎き祭る人たちの衣と見たものか。
巻第一 29  天尓満 (そらにみつ) 全注  「大和」の枕詞。古枕詞「そらみつ」を「空に満つ山」の意に取り成して人麻呂が五音に整えたものという (澤瀉久孝『万葉の作品と時代』)。人麻呂には独創的な枕詞が目立ち、それを通すだけでも新しい表現の時代が人麻呂によって始まったことが窺える。前の「栂の木の」もその一例。
    【「万葉の作品と時代」澤瀉久崇 -そらみつ-
 「そらみつ」の枕詞については、神武紀卅有一年の條に『及至饒速日命乘天磐船。而翔行太虚也。睨是郷而降之。故因目之曰虚空見日本國矣』とある故事によつたものだと代匠記などには記し、枕詞解は右の故事によつてゐるが、「もし虚空より見つる意ならむには、虚従 (そらゆ) 見しとこそいふべきを」疑ひ、「虚見津 (そらみつ) は虚御津なり」と解し、「饒速日命の天磐船に乗 (のら) して大虚 (おほそら) を搒廻 (こきめぐ) らししとき、遂にこの夜麻都国 (やまとのくに) を見 (め) し給ひて、天降りまし、其磐船を泊給ひし津なる謂 (よし)」と説いてゐる。稜威言別にも既にはやく同様の疑をあげて、「蒼天満山 (そらみつやま)」係けたものとし「さて満 (みつ) とは、山の満足 (みちたり) て、蒼天 (そら) まで聳上れるを云ふ。かく見る時は、万葉に、天爾満 (そらにみつ) と書たる爾 (に )も、ひが事にあらず、満の字も、借字にはあらず、正字にして、彼の集を解にも、いと安くなれるぞかし」と述べてゐる。実にそれらの説の如く、神武紀の説をそのまま「そらみつ」の解とする事は語法上無理であつて、その解釈は別に求むべきものかと思はれるが、この枕詞は既に記紀編纂当時には「あしひきの」などと同様一般には極めて親しみのある枕詞として用ゐられ、従つて神武紀の如き説も出たものと思はれ、もともと枕詞には、後世の地口洒落の類が多く多少の語法上の無理は許されるわけであり、万葉人にとつては、この枕詞の語成説として右の神武紀の説でも十分おちつく事が出来たのであらうと思う。むしろ枕詞解の如きはよけいな理屈だとも云へるのである。しかも人麻呂の作に至つて「天爾満」とある事に私は注意したいのである。-られ、従つて神武紀の如き説も出たものと思はれ、もともと枕詞には、後世の地口洒落の類が多く多少の語法上の無理は許されるわけであり、万葉人にとつては、この枕詞の語成説として右の神武紀の説でも十分おちつく事が出来たのであらうと思う。むしろ枕詞解の如きはよけいな理屈だとも云へるのである。しかも人麻呂の作に至つて「天爾満」とある事に私は注意したいのである。-られ、従つて神武紀の如き説も出たものと思はれ、もともと枕詞には、後世の地口洒落の類が多く多少の語法上の無理は許されるわけであり、万葉人にとつては、この枕詞の語成説として右の神武紀の説でも十分おちつく事が出来たのであらうと思う。むしろ枕詞解の如きはよけいな理屈だとも云へるのである。しかも人麻呂の作に至つて「天爾満」とある事に私は注意したいのである。-
 
樛木乃(つがのきの) 注釈  枕詞。「つぎつぎ」にかかる。「都賀乃樹乃 (ツガノキノ) 弥継嗣尓 (イヤツギツギニ)」 (3・324)、「刀我乃樹能 (トガノキノ) 弥継嗣尓 (イヤツギツギニ)」 (6・907) の如く、「ツガ」とも「トガ」ともあるが、同音又は類似音のくりかへしによつてつづけたものである。原文「樛」 (キウ)」は毛詩、周南に「南有樛木」とあり、伝に「木枝下曲曰樛」とあり、木の枝の曲 (マガ) る事で、木の名ではない。「栂」の文字は天正本節用集にはじめて見えてをり、今も東国北国では「ツガ」といひ畿内、九州では「トガ」 といふらしい。その栂の木になぜ「樛木」といふ文字を借用したかといふ事について従来の諸注に説明したものがなかつた。それを小島憲之君 (「万葉人の庖厨に漢籍あり」国語・国文 [第二十二巻第七号昭和二十七年七月]) は次の如く述べられてゐる。「ツガの木と樛との姿の類似から説明するのは未熟と云ふよりほかはない。人麻呂の創作過程を辿つて見るに、『・・・(枕詞) いやつぎつぎに・・・』の一節に於て、『つぎつぎ』の枕詞として何か創作しなければならなかつた、従つて同音の枕詞『つがのきの』が案出された、しかしその文字を何れの漢字にあてるかが問題である、しかもその漢字たるや、ひじりの御世以来歴代の天皇が次から次へと天下を治めると云つた意味を持つ文字ならばここに最もピツタリとするわけであり、遂に人麻呂は毛詩周南の『樛木』を思ひ出したわけである。この樛木は、

  顧葛藟之蔓延兮、託微茎於樛木 [言、二草之託樛木喩婦人之託夫家也] (文選寡婦賦李善注)
  覧彼遺音、恤此窮孤、譬彼樛木蔓葛以敷 (贈劉琨一首)

の例に見る如く蔓草などがからみつく木として知られて居り、これを少し展開させると天皇が前の天皇に続いてつぎつぎにと云つた表現にあたることになる、従つてこの際『ツガノキ』と『木枝下曲曰樛』との実体は各々違つてゐてよいわけになる、つまり人麻呂は単に毛詩の『樛木』を知つてゐたばかりでなく、その用例から帰納して万葉文字へと表はして行つたのである。そこにまた彼の表現力が見られる。
    全注  「いや継ぎ継ぎに」の枕詞。類音でかかる。「栂の木」はとがの木で、まつ科の常緑高木。原文「樛木」は、枝が垂れる、くずやつたなどの蔓性植物がまつわりつく木を言う。詩経 (周南風) の「南有樛木、葛藟纍之」 (樛木) に拠ったもので、まつわりつく蔓草の繁殖に天皇が次々と続く続く意を連想させた表記という
(小島憲之『上代日本文学と中国文学』中)。
  何方 御念食可 全注  「痛恨のあまりに投げかけた」くどき文句。失われたものを求めてやまぬ心情を背景とする表現。挽歌の慣用句(原田清「文芸の耕地」国語と国文学昭和二十年一月)。命失せたものを惜しむ言葉としてこの類は古くから葬儀の場で発せられていたらしい。が、それを歌の表現として取り込んだのは、これが最初。以後はほとんど挽歌に用いられている。「めせか」は「めせばか」の意で、「か」は疑問の助詞。
巻第一 34  まで(真手) 全注  原文「左右」は、両手 (左右の手) を「真手 (まて)」ということに基づく借字。「左右手」「ニ手」「諸手」ともある。 
巻第一 35  此也是能(これやこの) 古義  此也是[コレヤコノ]は、本居氏、此也是の是は、かのといふ意なり、すべてかのといふべき事を、このと云る例多し、さて上の此[コレ]は、今現に見る物をさしていふ、かのとは、常に聞居る事、或は世に云習へる事などをさして云、これや、かの云々ならむといふ意なりと云り、此(ノ)説のごとし、但し彼[カノ]此[コノ]は、もとより差別[ケヂメ]あることなれば、たゞに通(ハ)し云べきにあらざれば、こゝもかの彼方此方[ヲチコチ]と云意の處を許知碁知[コチゴチ]と云る例の如く、彼[カノ]と云べき意なるを、其を内にして此[コノ]と云るなり、行[ユク]と云意なる處を來[ク]といひ、然[シカ]と云意なる處を如此[カク]と云へるなど、みな同じ例なり、さて也[ヤ]は疑の辭なれば、この也[ヤ]の辭は、一首の終までかけて心得べし、此也是[コレヤコノ]は、此(レ)が彼(ノ)云々の某歟[ソレカ]といふ意、此曾是[コレソコノ]は、此(レ)が彼(ノ)云々の某曾[ソレソ]といふ意に見べし、十五に、巨禮也己能名爾於布奈流門能宇頭之保爾多麻毛可流登布安麻乎等女杼毛[コレヤコノナニオフナルトノウヅシホニタマモカルトフアマヲトメドモ]、續後紀十九長歌に、皇之民浦島子加天女釣良禮來弖紫雲棚引弖片時爾將弖飛往天是曾此乃常世之國度語良比弖七日經志加良[キミノタミウラシマノコガアマツメニツラレキタリテムラサキクモタナビケテトキノマニヰテトビユキテコレソユノトコヨノクニトカタラヒテナヌカヘシカラ]云々、後撰集に是や、此(ノ)往も還るも別(レ)乍知も知ぬも相坂の關、夫木集に、是や此(ノ)音にきゝつる雲珠櫻鞍馬の山にさけるなるべしなどあり、 
巻第一 36  秋津乃野邊 古義  秋津乃野邊 [アキツノヌヘ] は、吉野にある蜻蛉野なり、この野の名のはじめは、書紀雄略天意に見えたり、邊は字注に岸也側也方也などある、其(ノ) 意にて弊 [ヘ]と訓り、(或説に、某邊の邊は助辭ぞといへるは、いといとあたらぬことこぞ、さらば目邊 [マヘ] をたゞ目、尻邊 [シリヘ] をたゞ尻 [シリ]、行邊 [イクヘ] をだゞ行、何邊 [イヅヘ] をたゞ何、縁邊 [ヨルヘ] をたゞ縁、往邊 [イニシヘ] をたゞ往といはむか、是等は皆某方 [ナニカタ] てふ意とせずては、通 [キコ] ゆべからぬをや、目邊 [マヘ] は目方 [メカタ]、尻邊 [シリヘ] は尻方 [シリカタ]、行邊 [ユクヘ] は行方 [ユクカタ]、縁邊 [ヨルヘ] は縁方 [ヨルカタ] の意なるに、餘も准(ヘ) て知べし、又山邊 [ヤマヘ]、河邊 [カハヘ]、海邊 [ウミヘ]、奧邊 [オキヘ] などの邊も、本義 [モトノコヽロ] は皆方 [カタ] の意なれども、はやく云なれて後は、唯山河海奧といふことにて、邊はたゞ何となき助辭のごとくもなれるなり、よく心すべし、かゝれば集中にも奧邊之方 [オキヘノカタ]、何邊之方 [イヅヘノカタ] などよめるなり、然有 [サレ] ど是等のみにつきて、某邊の邊は、凡て助辭ぞとおもへるは、言の本(ノ) 義を遺 [ワス] れたる論 [コト] なりけり、) さてこれらの邊を、某邊といふときは、皆昔來 [ムカシヨリ] 濁 [ニゴリ] て唱ふめれども、凡て清べき例なり、古事記中卷崇神天皇(ノ)條に、麻幣、(目邊 [マヘ] なり、) 應神天皇(ノ)條に、母登幣 [モトヘ]、(本邊 [モトヘ] なり、) 須惠幣 [スヱヘ]、(末邊 [スヱヘ] なり、) 下卷仁徳天皇(ノ)條に、夜麻登幣 [ヤマトヘ]、(倭邊 [ヤマトヘ] なり、) 淤岐幣 [オキヘ]、(奧邊 [オキヘ] なり、) 雄略天皇(ノ)條に、須惠幣 [スヱヘ]、又意富麻幣 [オホマヘ]、(大目邊 [オホマヘなり、) 又書紀神代(ノ) 卷に、頭邊此云摩苦羅陛 [マクラヘト]、脚邊此云阿度陛 [アトヘト]、亦背揮此云志理幣提爾布倶 [シリヘテニフクト]、(尻邊手 [シリヘテ] に揮 [フク] なり、) 景行天皇(ノ) 卷に、麻幣菟耆瀰 [マヘツキミ]、仁徳天皇(ノ) 卷に、望苫弊須惠弊 [モトヘスヱヘ]、顯宗天皇(ノ) 卷に、野麻登陛 [ヤマトヘ]、繼體天皇(ノ) 卷に、漠等陛須衛陛 [モトヘスヱヘ]、齊明天皇(ノ) 卷に、何播杯 [カハヘ]、集中には、廿(ノ) 卷に、二ところ努敝 [ヌヘ]、十四に、夜麻敝 [ヤマヘ]、又波流敝 [ハルヘ]、廿(ノ) 卷に、波流弊 [ハルヘ] 又春敝 [ハルヘ]、又此(ノ) 卷に、奧敝 [オキ~]、四(ノ) 卷に、奧弊 [オキヘ]、十四に、於思敝 [オシヘ]、十五に六ところ、十八に一處於伎敝 [オキヘ]、十五に、於吉敝 [オキヘ]、又於枳敝 [オキヘ]、十七に、於伎弊 [オキヘ]、十五に、久爾敝 [クニヘ]、十九に、國敝 [クニヘ]、廿(ノ) 卷に、久爾弊 [クニヘ]、三卷に、曾久敝 [ソクヘ]、十七十九に、曾伎敝 [ソキヘ]、十四に、緒可敝 [ヲカヘ]、十七に、美夜故弊 [ミヤコヘ]、十八に、彌夜故敝 [ミヤコヘ]、又美夜敝 [ミヤヘ]、十九に二ところ谿敝 [タニヘ]、十五、に二ところ安之敝 [アシヘ]、廿(ノ) 卷に、安之弊 [アシヘ]、十五に、由久敝 [ユクヘ]、十八に、由具敝 [ユクヘ]、十九に、伊頭敝 [イヅヘ]、廿(ノ) 卷に須賣良弊 [スメラヘ]、又都久之閇 [ツクシヘ]、十八に、余留弊 [ヨルヘ]、又麻敝 [マヘ]、廿(ノ) 卷に、志利弊 [シリヘ]、又志流敝 [シルヘ]、又等許敝 [トコヘ]、五(ノ) 卷に一處、廿(ノ) 卷に二ところ由布弊 [ユフヘ]、十四に一處、十五に一處、十九に二ところ由布敝 [ユフヘ]など、假字書にはいづれも、清音の字を用ひたるによりて、凡某邊、又其方と書るをも清べきをしれ、(かゝるを猶清音と決めむも、いかにぞやいふ人もあれば、かくこちたきまで例どもを引出て、今は證 [アカ] しおくにぞ有ける、但(シ) 十(ノ) 卷に、山部 [ヤマヘ]、六(ノ) 卷、八(ノ) 卷、九(ノ) 卷、十(ノ) 卷に、春部 [ハルヘ]、三(ノ) 卷、六(ノ) 卷に、奧部 [オキヘ]、又同卷に、國部 [クニヘ]、九(ノ) 卷に、退部 [ソキヘ]、十(ノ) 卷に、崗部 [ヲカヘ]、六(ノ) 卷に、夷部 [ヒナヘ]、波萬部 [ハマヘ]、六(ノ) 卷に、葭部 [アシヘ]、故事部 [コシヘ]、古部 [イニシヘ] など書る、部(ノ) 字をヘとよめるはムレの切(マ) りたるにて、本居氏(ノ) 説に、部 [ヘ] はムレの切なり、ムレはメと切(マ) るを、メをヘと轉しいへりと云るが如く、濁るべき理なれども、既 [ハヤ] く云る如く、字(ノ) 訓は清濁互にまじへ用ふること、古例あれば、集中にも、部 [ヘ] 字を多くは清(ム) 例の處に用ひたり、其例を一二 [カヅカヅ] いはば、三(ノ) 卷に、倭部早 [ヤマトヘハヤク]、六(ノ) 卷倭部越 [ヤマトヘコユル]、三(ノ) 卷に、櫻田部鶴鳴渡 [サクラダヘタヅナキワタル]、七(ノ) 卷に、奧津浪部都藻纏持 [オキツナミヘツモマモモチ]、また安太部去小食手乃山之 [アダヘユクヲステノヤマノ]、吉野部登入座見者 [ヨシヌヘトイリマスミレバ]、又木部行君乎 [キヘユクキミヲ]、この木部行の部も、倭部越、安太部去などの部と同言なり、これら清例に用ひたるにても、疑をはらすべし、かくて唯書紀天智天皇(ノ) 卷に、施麻倍 [シマヘ]、集中に安之辨 [アシヘ]、八(ノ) 卷に一(ニ) 云夕倍 [ユフヘ]、廿(ノ) 卷に波麻倍 [ハマヘ] などあるのみは、正しからず、されど倍(ノ) 字は濁音ながら、清(ム) 處にもおほく用ひたり、又或人右の十五に安之辨 [アシヘ] とあるのみを見て、蘆邊の邊は濁べき例ぞといへるは、右に引出たる例どもをまでには、見ざりしものぞかし、又古事記雄略天皇(ノ) 大御歌に、久佐加辨能 [クサカベノ] とあるは、日下部 [クサカベ] てふ地(ノ) 名にて、日下邊の意にはあらず、思ひまどふべからず、但し今(ノ) 世にも目邊 [マヘ]、尻邊 [シリヘ]、行邊 [ユクヘ]、往邊 [イニシヘ] などの邊は、古(ヘ) へのごと清て唱ふる事なるを、此(ノ) 外某邊といふをば、をさをさ清て唱ふることはなくなれりき、) 
巻第一 38  秋立つ 全注 「秋立つ」は秋が立つで、秋になることをいう。「春立つ」「月立つ」とも。この類の表現は中国の「立秋」「立春」から影響を受けたもので、その先駆となすのが、この「秋立てば」である。伝統の言い方は、「秋去れば」。人麻呂集にも「春立つらしも」とあり、人麻呂が天武・持統朝の頃に尖鋭化された四季感覚を先取った人であることを告げる。中国では、「春夏秋冬」について「四季」といわず「四時」という。年は天官が立てた四つの時であって季の移ろいではないからである。人麻呂には「鹿猪(しし)」を表すのに「四時」を用いた例もあり、中国暦法の洗礼を受けて四季感覚を研いたことの一証となる。
巻第一 40  鳴呼見乃浦 (あみのうら) 注釈  原文「嗚呼見乃浦」とあるを僻案抄に「見」を「兒」の誤としてアゴノウラと訓み、に「志摩国英虞 (アゴノ) 郡の浦也」としてより諸注多くこれに従った。今志摩国は志摩郡一郡になつてゐるが、明治二十九年まで北の答志と南の英虞と二群に別れてゐた。その英虞郡の浦と解するのであるが、今鳥羽市より南へゆく電車の終点であり、真珠養殖によつても名を知られてゐる賢島の入海を英虞湾と呼ばれてゐる。だからそれをそのまま萬葉の英虞の浦と認める事も出来る。しかし従来の諸注は、それよりも東の海岸、太平洋に面した国府 (コー)、甲賀のあたりと推定してゐるものが多い。これは「阿湖行宮」と左注にも日本書紀を引用してゐるので、今の国府即ちその昔の国廳のあつたところであるから、行宮の所在地に擬する事がふさはしいと考へての事であらう。また次々の歌に見える答志や伊良英湾とも今の英虞湾では方角がかけ離れてゐると考へられた為とも云へる。地名辞書に「鳥羽浦の異名なるべし」と述べられてゐる如きもさうした考の上に立つてのものである。しかし和名抄の郷名と照らし合わせてもわかるやうに、英虞郡は甲賀、名錐 (奈切、ナキリ)、などとあつて、今の国府、甲賀より南西の地であつて、鳥羽市は答志郡の、しかも北端に近いところであつて、これを英虞に擬する事は出来ない。先年外遊の折、スペイン、マドリッドの古本屋で日本の古地図を見出して、志摩のあたりを見るとアゴといふ地名があつたのでうれしくなり求めて帰つたが、簡単な地図である為に今のどの辺にあたるかわからない。しかしその地図によつてアゴが郡名でなく、一郷名として存在してゐた事は認められたのであつた。それにしてもこの作の「嗚呼見」を果たして「嗚呼兒」の誤として断じてよいであらうか。といふのは、この作の類歌が巻第十五 (3610) に載せられ、その本文には「安胡乃宇良尓 (アゴノウラニ)」とあるにかかはらず、左注には「柿本朝臣人麻呂曰 安美能宇良 (アミノウラ)」とあるからである。この左注は今の人麻呂の作によつて加へたものと思はれるのであるが、そこにはつきり「安美」と書かれてゐるのであるから、少なくもその左注が加へられた時には「嗚呼兒」ではなかつた事が明らかである。だからもし「見」が「兒」の誤だとするならばその誤字は萬葉編纂以前のものだといふ事になる。だがそこまで溯つて誤字だと断ずべき論拠があるであらうか。のみならず、またかういふ事も考へられる。右の左注を加へた人が「嗚呼見」をアミと訓み、文字を変へて「安美」と書いたのならば編纂以前の誤字といふ事も可能であるが、人麻呂は自らの作の文字を自身で色々に書き変へてゐると思はれる例、たとへば「和多豆 (ニキタヅ)」 (2・131) と「柔田津(ニキタツ)」 (2・138)、「屋上 (ヤガミ)」 (2・135) と「室上 (ヤガミ)」 (2・135) のやうな例があるので、今も人麻呂自身「安美」と書いたものもあり、左注者がそれによつたとすれば誤字説は完全に成立たたない事になる。しかしそこまでは考へないにしても、ただ「兒」と「見」が似てゐるといふ事と阿胡行宮があるといふ事だけでアミはアゴだと断じてアミの地名を抹殺するのは軽率ではなからうか。住吉にはナゴ (7・1153) とアゴ (7・1154・1157) とがあるが、一方を他方の誤と断ずべきものではない。又アミの浦といふところも場所は違ふが既に前 (5) にもあり、海岸の地名としてあり得る名でもあり、その地名を求める事をしないで、誤字と決めてしまふ事は妄断であらう。それについて、(一)集中に「兒」「見」の誤字の実例の無い事、(ニ)当時の交通が倭姫命世記を見てもわかるやうに海路によつたと思はれる事、(三)今現にアミの濱と呼ばれる地のある事、その濱と相対した答志島の志波崎の南の海を坂手島の老漁夫がアミと呼んでゐる事などの事実から「嗚呼見」はやはりそのままアミと訓み、鳥羽湾の西に突出してゐる小濱の入海ではなからうか、といふ説 (昭和三十二年春、関西大学卒業論文) が、鳥羽市小濱出身の佐久間弥之祐君によつて述べられてゐる。私は過日その地に至り、その景観に接し、その濱に立つ海人をとめたちに聞いたのであるが、その小濱の北部をサトと呼び、南部をアミの濱と呼んでゐる事は確かであり、その濱に立つて沖を見ると、真正面に濱と相対したものが答志の崎であり、その答志の島にも一つ先に、私がいらごの島でないかと云つた (23・題) 神島が見え、その又彼方には三河の伊良湖岬が遠く霞んでゐる。次の作の答志とその次の作のいらごと、そして今の作のあみと、三首の歌枕が見はるかす一直線の上にあるといふあまりにも好都合な景観がそこに実在してゐる事を確かめた。しかもその濱の名は後世の好事家が萬葉にゆかりを求めて歌碑など建てて名づけそめたといふやうなものではなく、海藻を採り雑魚を乾してゐる海人のをとめ達が、昔からの呼び名として、誰も誰もさう呼びならはしてゐる名なのである。ただ問題はその名が古い文献に見えないといふ点である。しかし、文献が無いから信じられないとして「嗚呼見」「安美」の二つの文字を誤字と断ずる方がよいか、諸本に異同のない二つの文字をそのままにしてそれと一致する現在の地名をそれに擬する方がよいか。そのいづれを採るべきかと云へば後者の方が穏やかな処置と云へるのではなからうか。かう考へると前に引用した地名辞書をはじめ私注にもアゴとして-私注は答志島の和具及び鳥羽の阿久志をその遺名と考へられてゐる。-鳥羽港をそれに擬したのは従ひ難ひが、答志の崎との関連において鳥羽港を考へられたといふ点は当を得てゐるといふ事になるわけである。
巻第一 46  「短歌」について 全注   万葉集で「反歌」の位置にある歌は、一例 (13・3233) を除いてはすべて短歌である。万葉の長歌は、従える短歌をこれまで「反歌」と呼び、以後も大部分がそうである。が、この人麻呂の作において、はじめて「短歌」と記されている。そして、人麻呂の作のうち、時代の知られる長反歌における反歌の位置にある歌は、持統六年 (692) 冬のこの作以降、「短歌」と記されている (二例)。人麻呂以外では、持統九年の作者未詳の歌 (53) と、霊亀元年 (715) の笠金村集歌 (2・231~232) とがあるだけである。ところが、「53」とその長歌「52」は古くから人麻呂と何らかのかかわりがある作とされており、笠金村集歌については、金村に関する反歌の中でこれだけが「短歌」とならなければならなかった理由が見出せる (拙著『万葉集の歌人と作品』下第七章第一節)。人麻呂には、時代の明確でない例も含めると、計五例を数える。
 こういう点に着目して、人麻呂における反歌意識は持統六年を境いに変革した、反歌は長歌に対して単に従属するものではなく、短歌の持つ独自性において長歌と力を併せ、長歌の世界を短歌として発展させて結ぶべきものであるという自覚がこの歌を契機に人麻呂に定着した、従って、年代未詳の人麻呂の長反歌においても、「反歌」とあるのは持統五年以前、「短歌」とあるのは持統六年以降と認めてよいのではないか、とする説がある (稲岡耕二「人麻呂”反歌””短歌”の論」『万葉集研究』第二集)。「反歌」とある「3・240、262」など、年代上問題の残る歌もあるが、これは注目すべき説で、「短歌」とある反歌は、「反歌」とある反歌よりも、長歌からの独自性と展開生が強いといえる。この歌群でも、以下に続くように、「48、49」の二首によってその性格を看取することができる。
 人麻呂が「反歌」を「短歌」と記すような創作態度を現してくる芽生えは、これまでの作品にもあった。近江荒都歌の第二反歌がそうであったし、吉野讃歌でも、一首ずつだけながら、それぞれの下の句「絶ゆることなくまたかへり見む」や「たぎつ河内に船出せすかも」の中にその意識があった。とくに、近江荒都歌の第二反歌が第二次の推敲の結果で、長歌の大々的な改変に伴って光彩を放つに至ったと注したところによれば、短歌の短歌らしい抒情の輝きを尊ぶことによって新たなる長短歌の世界を打つ出すことが人麻呂においてつとに自覚の射程の中にあったことを物語る。「短歌」として反歌を据える輝かしい創作法も試行錯誤の果てに生れたのであった。
 反歌を複数仕立てに組み立てた最初の人も人麻呂であった。その反歌が詠出の当初から二首以上になるのは、「短歌」とあるこの作品以降に限られる。このことも、稲岡の新見が無稽でないことを示す。
 
巻第一 47  葉 過去君之 代匠記  眞草、「み」と「ま」と通ずる故に宜きに隨ひて讀なり、葉過ユク、此は葉の字の上に黄の字の落たるを強てかく讀たるなり、其故は第二卷に黄葉[モミチハ]の過ていゆく、第九に黄葉の過ゆくこら、十三に黄葉の散て過ぬ、又黄葉の過てゆきぬと云云、皆一同に挽歌の詞也、其外挽歌ならぬにかくつゞけたる歌おほし、又第九に人丸集の挽歌紀國にての作に、鹽氣[シホケ]たつありそにはあれど、徃水[ユクミツ]の、過ゆく妹がかたみとぞこし、是詞は少替て意は今の歌に同じ、然ればモミヂ葉ノ過ニシ君ガカタミトゾコシと讀べし、葉過ゆくもせはしく、跡の字の下によりと讀べき字もなし、必黄の字の落たるなり、紅葉も盛なる時あるに過としもつゞくるは、紅葉散むとて色付又惜めども脆く散物なればよそへて云なり、これより三首は人丸の私の心をよまれたるなるべし、日並[ヒナミシ]皇子の御狩せし野なれば君が形見とはいへり、ザリはズアリの約。仮名書きはズアリ八対アリ五で、ズアリの例が多いが、「不□有」は仮にザリで統一する。
巻第一 49 日雙斯 注釈  巻第二には「日並皇子」(167題)とあり、文武紀にも元明紀にも「日並皇子尊」とあり、栗原寺鑢盤銘には「日並御宇東宮」とある。今の原文「日雙斯」を元暦校本には右に赭で「ヒナミセシ」とあり、西本願寺本には「ヒナメセシ」とあつたのを、代匠記には「ヒナメシト四文字ニ読ベシ」とし「斯ハ知ノ字ノ仮名ト心得ベシ」と云つたが、狩谷棭齋の古京遺文には右の鑢盤銘の訓注として「比奈美志(ひなみし)」としてゐる。それについては講義に「この語の意は天つ日即ち天皇の並(ナミ)に天下知らす意にして、恐らくは今摂政といふ程の特別の意ある語とおもはれたり。されば『ヒナミ』といふべくして『ヒナメ』とはいふべきにあらず」とあるによるべきものである。代匠記に四文字に訓むべしとしたのは「斯」を仮名とし、仮名には「の」の訓添をしないと考へたと思はれるが、固有名詞には「足利湖(アドノミナト)」(9・1734)、「美豆保国(ミヅホノクニ)」(18・4094)などの例があるとして、美夫君志に「の」を訓添へたに従ふ。天武紀、持統紀には草壁皇子とあるを本集及び右の諸書には「ヒナミシノミコ」とあるは特にこの皇子を尊んで稱したものと思はれる。
巻第一 50  鴨じもの 注釈  「鹿(しし)じもの」鳥じもの」などの「じもの」とも同じく、鴨の如きもの、と普通訳されてゐるが、その「じ」は橋本四郎君によれば「時じ」 (1・26) の「じ」と同じく、本来は打消の意を持つたもので、似て非なるものを示す要素として用ゐられたもの。従ってこのような譬喩の場合に用ゐられ易いのである。もともと「鴨じ」といふシク活用形容詞の語幹と「もの」との熟合した体言で、それが連用修飾語として用ゐられたもの。体言が助詞を伴はずに連用修飾語になるといふのは体言一般の用法からみれば特殊であるが、形式名詞の場合は、「まま」「むた」「なべ」のやうに副詞を作るものがあり、副助詞の多くが形式名詞由来であり、「もの」「ゆゑ」のやうに接続助詞になるものもある事を考へると、形式名詞のもつはたらきの一つに連用修飾機能があつたと考へるべきではなからうか、といふのである。
図負留 (あやおへる) 全注   甲羅に瑞兆の模様を負う霊妙な亀。原文「図」は古来「フミ」と訓む。その義は模様を示す故、「阿夜 (アヤ) 垣のふはやが下に」(記・五)、「錦綾 (ニシキアヤ) の中に包める」(9・1807)、「画・綾・文-アヤ」(名義抄) などの例により「アヤ」(古典全集) に従う。宣命に「京職大夫従三位藤原朝臣麻呂等、負図亀一頭献奏賜不尓」(六詔)とある「負図亀」も「フミオヘルカメ」と訓み習わしている。これもアヤと訓める。「神」も「アヤシ」(旧訓)・「クスシ」(新訓) の両訓が可能。「帝」「霊」など相似る概念を示す文字も、諸文献に両様の訓があって参考にならない。ただ、仮名書例などによって比較すると、「あやし」は霊異の事物の現象面に対する感嘆、「くすし」 は霊異の神秘的な原動力に対する感嘆という違いが認められる。だから、「恠毛 (アヤシクモ) 我が衣手は干る時なきか」(7・1371) といえても、「クスシクモ我が衣手は云々」とはいえない。逆に、「うつせみの世の人我れも ここ (二星が年に一度しか逢わないこと) をしもあやに久須之弥 (クスシミ)」(20・4125) といえても、「世の人我れも・・・あやにアヤシミ」とはいえない。ここは「神亀」そのものをいう。クスシを採る。当代、神亀は、中国故事の影響もあり瑞兆の最高とされ、日本書紀・続日本紀・延喜式等に霊亀を尊ぶ記事が多い。霊亀・神亀などの年号もこの思想の投影。尚書の洪範九疇に対する孔伝に「天与禹、洛出書。神亀負文而出、列於背。」とある。ここの表現はこの注と関係があるかという (古典全集)。
  百不足 (ももたらず) 大系  この「枕詞」は、五十、八十にかかる。今日の我々の数の意識では、十、二十、三十、四十、五十というように順次大きな数字に至り、八十、九十、百に達する。すなわち数は一方的に順次に増大して行くものである。しかし、古代人の数の命名法を見ると、必ずしもこのように常に一方的な増大によってばかりはいない。例えば、アイヌ語の数詞構成を見ると、「5」までは手の指に関する命名が多いが、「6」以上になると、先に「10」の観念があって、それを基本として、「10」に至る数をもってその数の名としている。-以下要約-

1・shinep(shi-mompet は拇指
2・tup (私注:たぶん、人差し指)
3・rep(ri-mompet は中指)
4・inep(ine は数多くの意)
5・ashiknep(ashke は手の意。手という名詞をもって「5」を表す)
6・inep-e-sampe(「4」そこに-足りない、つまり「10-4」の意)
7・rep-e-sampe(「3」そこに-足りない、つまり「10-3」の意)
8・tup-e-sampe(「2」そこに-足りない、つまり「10-2」の意)
9・shinep-e-sampe(「1」そこに-足りない、つまり「10-1」の意)
10・u-an(「u」は双方。「an」は有る、つまり手が二本で、指が10本)

こうした数の命名法を減数法と名づけるが、このような命名法は世界各地に見出される。今、日本の場合を考えるに、「百足らず」と、先に「百」という大数が意識され、そこに未だ至らないという意味で足らずという言葉が用いられ、それが「五十」「八十」の枕詞となっているということは、古代日本人の数観念にも、減数法的な意識が存在していたことを示すもののように思われる。しかし、日本語の数詞の命名の中で、明らかに減数法によって成立していると指摘できるものが存在しているわけではない。
  
巻第一 52  日経・日緯・背友・影友 注釈 〔日の経 (ひのたて)〕
 成務紀に「以東西為
日縦。南北為日横。山陽曰影面。山陰曰背面。」とある。支那では東西を「緯」といひ、南北を「経」といふ。経は縦絲であり、緯は横絲で、縦横の名称が逆になつてゐる。しかもこの作では次々の句で示されてゐるやうに、日の経を単に東の意に用ゐてゐる。本朝月令に引く高橋氏文にも「日堅日横陰面背面乃諸国人」とあるも成務紀に似てゐるが、四方の意に用ゐたものと思はれ、今の歌と同じ用ゐ方であり、当時さういふ意に用ゐたものであらう。
〔日の緯 (ひのよこ)〕
 右に述べた如く、日本ではもと南北を云つたやうであるが、ここでは西をさしてゐる。
〔背友 (背面 せとも)〕
 背 (ソ) つ面 (オモ) の義。「日の経」の條で成務紀などを引用したやうに、山の背面、山陰、即ち北方をさす。
〔影友 (影面 かげとも)〕
 影 (カゲ) つ面 (オモ) の意。この影は光の方で、日の光に当る方、即ち南方。
  新大系  -東の方角を「日の経」、西の方角を「日の緯」、南の方角を「影面」、北の方角を「背面」と言う。日本書紀・成務天皇五年九月に「東西を以て日縦 (ひのたて) と為し、南北を日緯 (ひのよこ) と為し、山陽を影面 (かげとも) と曰ひ、山陰を背面 (そとも) と曰ふ」。当時このような方位思想が移入されていたことを裏付ける。中国では、周礼・考工記・匠人の「国中九経九緯」の賈公彦疏に「南北の道を経と為し、東西の道を緯と為す」と言う。経緯の定め方の基準が彼我一致しないようであるが、それは把握の仕方の差異であろう。
  春山跡 (はるやまと) 全注  青々とした春山の意。「玉の小琴」には、「此歌のすへての詞共を思ふに、分けて春といはんこといかが、其うへ、畝火乃、此美豆山者 (ハ)、弥豆山跡 (ト) といへるに対へても、「青香具山者 (アヲカグヤマハ)、青山跡 (アヲヤマト) と有へき物也、」と述べて誤字説を提出している。一方四季を色に配する場合、中国の五行説で、「春」は「青」にあたるので、「春山跡」のままで「アヲヤマト」と施訓する説もある (鈴木真咲「”春山”考」国語研究昭和二十七年四月)。その方が、「玉の小琴」にいうように「この瑞山は・・・瑞山と」に対しては整うけれども、春の行事である国見の季節を示す大切な言葉をことさら訓み変える必要もあるまい。
  天之御蔭 (あめのみかげ) 全注  天 (あま) つ日を避ける蔭。御殿。「天の」は、「天の香具山」の「天の」と同じく、ほめ詞。神話の雰囲気を喚起する。「蔭」は日光や雨などを避けるための覆いをいう。冠・笠・指羽 (さしは)・屋根など。
    注釈  この「かげ」は影面の影とは反対に光のさへぎられた蔭。天日に露出しないやうに、蔭をつくる宮殿の意。祈年祭の祝詞に「皇祖敷坐、下都磐根宮柱太知立、高天原千木高知、皇御孫命瑞御舎仕奉、天御蔭日御蔭隠坐」とあると同じく、その文によつてその意一層明らかであらう。
御井之清水
(みゐのきよみづ)
全注  井の水はその土地に生きる者の生命の源泉であるから、藤原の宮の御井の永遠性を祈ることは藤原の宮そのもののとこしえを祈ることにつながる。「御井」はよい水の出る井泉 (せいせん)。「井」を尊んでいう。「2・158」に「山清水 (ヤマシミヅ)」、東大寺諷誦文稿に「凍水 (シミツ)」の例があるけれども、「清水」を「マシミヅ」 (万葉考) と訓むこと、確証に恵まれない。「そ鏡」という語はないが、「真十 (まそ) 鏡」を「清 (まそ) 鏡」 (13・3316) と書いた例はいささか参考になるか。別に「スミミヅ」の訓があり (古典全集)、琴歌譜に「高橋の甕井 (みかゐ) の須美豆 (スミヅ)」 (16) とある例を「スミミヅ」の約と見て根拠としている。これの方が確かであろう。しかし、「御井のま清水」の訓には捨て難い魅力がある。訓詁の学としては邪道であると知りつつ、しばらく、万葉考の発明に従う。なお、「ま清水」の語は源氏物語に「見し人のゆくへは知るや宿のま清水」 (藤裏葉) とある。
巻第一 58  舟泊 (ふなはて) 全注  名詞形「舟泊」は歌にはこの一例のみ。題詞には、「長井の浦に船泊之夜作歌」 (15・3611) など、「フナハテ」と訓んだかと思われる例がいくつかある。
巻第一 59  妻吹風 (つまふくかぜ) 全注  家の切妻 (きりづま) の部分に吹きつける風、つまり、横殴りに吹く風の意か。正倉院文書に「柱十四根、土居長押一枝」 (大日本古文書十五、二百二十頁) などあるのは、家の側面、すなわち切妻のことと思われる。旅先の夫を思うて籠もる我が屋に横殴りに襲い掛かる風の荒 (すさ) びを気にしながら、夫を偲ぶ姿と思われる。この「つま」には配偶者である「妻」の意も意識されており、我が身そのものに風が吹きつける気分もこめられているのであろう。一種の懸詞である。この類は、縁語ともども、万葉集にもことのほか例が多い。-諸説多い-
    新全集   未詳。つむじ風を言うか。愛媛県東予市辺りでは旋風を「つまかぜ」という (全国方言辞典)。ツマに夫 (ツマ) をかける。
    注釈   「雪」の字、原文「妻」とあつて、(一) 文字通り妻の意に解する説、宗祇抄に「わかれて程をへぬればながらふる妻とよめる歟」とあり、(二) 褄の意に解するもの、それに更に両解があつて、(1) 仙覚抄の夜の衣とし代匠記に論語の郷黨篇に「必有寝衣長一身有半」とあるを引いて「夜ノモノハ長キ物ナレバツマモスソニナビキテアルヲナガラフルツマト云リ」と云ひ、(2) 攷証には「衣のつまなどの、風に吹きながさるるをいふ」とあつて普通に着てゐる衣の裾としてゐる。そしてその (1) (2) 両説とも更に右に引いたやうに (a) 「ながらふ」を「流る」の意に解いたものと、(b) 「ながくはへたる」 (燈)、「長ラフル」 (全釈) と解いたものとに別れてゐる。これらの説に対して (三) 久老は「妻」は「雪」の誤とした。即ちこの初二句に対して大別して三説、細別して六説が行はれてゐる。按ずるに、「妻」の文字をそのままに解するといふ事は望ましい態度には違ひないが、この説を採られた全註釈に「この世に生き永らへてゐる妻を吹く風の」と訳し「時を過ごしてゐる妻の意」「待ちあぐねてゐる情を写し」と解説されてゐるが、妻に風が吹くといふのも苦しく、その妻を作者自身とし「この世に生き永らへてゐる」といふのも苦しい。「流らふ」といふ言葉は前にしばしあつた「散らふ」 (1・36) などと同じもので、その継続をあらはす「ふ」は四段活用動詞の未然形に続き、更にハ行四段に活用する事は前に述べた。然るに今の「流る」は下二段活用の動詞である。従つてその「ふ」の活用も下二段に活用すると共に接続の形も本来の動詞の語尾にない「流ら」といふ形につづく事になつてゐる。さて「流らふ」は本来物の流れるに継続の意を持たせたものであつた。それが抽象的な意味に転じて時間の経過を意味するやうにもなる事は全註釈に述べられてゐる如く、

 淡雪の消ぬべきものを今までに流經者 (ナガラヘヌルハ) 妹に逢はむとぞ(8・1662)
 天霧 (あまき) らひ降りくる雪の消なめども君に逢はむと流經度 (ナガラヘワタル) (10・2345)

などはそれであつて、やがて「存命」の漢字があてられるやうになり、ナガの語に「長」の意があるかのやうにも考へられるに至つた。しかしまだ万葉時代にはそこまでの意識はなかつたと考へられる。やはり本来の「流」の意を存したものである。それにしても「ながらふる妻」といふ言葉の存在は認められる。しかし僅か月余の旅行で離れてゐるのを「この世に生き永らへてゐる妻」は「一日あはねば千日の思ひ」があるにしても、ことごとしすぎる。次の作に「け長く妹」とあるのはわかる。似た言葉ではあつても所に適しなければ歌詞として認める事は出来ない。(一) の解を苦しいと云つた所以である。(二) の解については既に略解に「衣といはずして、ただちにつまとつづくべきにあらず」といひ、槻乃落葉 (3・261 「天伝来」にこの作を「雪吹風」として引用し、その頭注) に「古へ衣に、裾袖襟 (スソソデエリ) などは歌にもよみたれど、妻をよめる事なし」と注意してゐる。しかし「褄」の語が全然無いとは云へない。業平の「唐衣着つつなれにしつましあれば」 (古今集巻十、伊勢物語第九段) の「つま」に褄の意をかけたとすれば、更に溯つて「韓衣 (カラコロモ) 着楢乃里之 (キナラノサトノ) 嬬待尓 (6・952)」も問題になるといふ事になるが、源氏物語にも「したがひのつま」 (葵)、「御衣のつま」 (賢木) の二語が見えるのみで、袖や裾に較べて用例は極めて少ない。服装の変遷と相俟つて褄の活躍するのは近世以後と見てよい。雨戸を少し繰り開けた縁に立つて、

 そこに立ちたは八文字様か夜風身の毒うちござれ

といふのであれば、「流らふる褄吹く風」の句も認められようが、時は大宝、作者は女王である。突然「流らふる褄」とあるのは疑ふに十分である。講義には語の省略も例のある事だとされてゐるが、そこにあげられたものが「あしひきの木の間」 (8・1495) の如き枕詞の例ばかりで、今に適切なものは一つもない。まして論語の郷黨篇を持ち出す事は無用の手数であり、「衾は裾の方ひまありとはなけれど風の吹いりて寒きものなれば」 (燈) などもくるしく、寝巻の褄に風が吹いては浅茅が宿の妻になつてしまはう。かうして (二) の解は (1) も (2) も (a) も (b) も万葉の歌の解釈としては成立たない事が明らかになつた。それが (三) の誤字説に従ふと、

 我が園に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ来るかも(5・822)
 巻向の桧原もいまだ雲居ねば小松が末ゆ沫雪流る(10・2314)
 我が袖に降りつる雪も流れ行きて妹が手本にい行き触れぬか(10・2320)

「雪」に「流る」といふ例かくの如く「流らふる雪吹く風」は極めて自然な万葉の詞句となる。そこには何の問題も残さないのである。この久老の卓見を現代の諸家が或は「従ひ難い」とし、或は心惹かれながらも「妻」の文字になほ拘泥してゐるのは、ただ現存の諸本に「雪」とある本がないからである。校異本万葉集には頭書に「異本妻作雪」とあるが、同書は久老歿後の出版であり、その校異は元暦校本などの名を上げるか、「古写本」と書くを例としてをり、単に異本とあるは疑はしく、現に「雪」とある本があつたとは認めかね、攷証の頭書にも「妻一本作雪」とあるも同様である。この歌、綺語抄 (上) にも夫木抄 (三十六「戀」) にも載せられてゐるが、共に「つま」とあつて「雪」とある本を見ない。だから誤字説を躊躇するといふのが現代学者の常識であるが、現存の諸本にはないが、確かに誤字と推定すべき例は多い。「君」 (18・4110題) と「妾」 (9・1727) とを「妻」と誤つた例もあり、現に題詞の「誉」を元暦校本・類聚古集・紀州本・冷泉本の諸本には「挙」に誤つてゐる。菊地壽人氏の精考に「『妻』も『雪』も横書の多い文字であるから」とも云はれてゐるやうに、「雪」が「妻」に誤るという事はないと云へない。誤字説には慎重でなければならないが、右に述べたやうに極めて素直に解釈の出来る誤字説に従はず、くるしいこじつけをしてまで旧本の文字に執着する事は、学者がみづからの道を尊重する所以ではない。久老の誤字説が卓見と認められる明証は他 (2・194) にもある。この二句は、チラチラと散る雪を吹く風の、の意である。
巻第一 62  対馬乃渡
(つしまのわたり)
新全集  対馬への渡航地点。渡りは船に乗って渡り行く所。ここは肥前五島列島をいうか。五島は対馬渡航の中継地点でもあった。このときの遣唐使は第八次にあたり、天智八年 (669) に派遣された第七次のそれから三十三年を経過している。この当時日本と新羅との国際関係が悪化していたため、従来の朝鮮半島の西岸を北上する、いわゆる北路をとらず、第八次以降は肥前から直接唐に渡る南路をとった。
巻第一 63 去来子等 (いざこども) 全注  「去来」をイザと訓むこと、「1・10」参照。「子ども」は、年下または目下の者を親しんで呼ぶ称。この類は「刺鍋に湯わかせ子ども」 (16・3824)、「いざ子ども大和へ早く」 (3・280)、「いざ子ども香椎の潟に・・・朝菜摘みてむ」 (6・957)などいくつかあり、すべて座を持つ歌に詠み込まれている。宴の場で直接居合わせる官人たちに呼びかける慣用句であったらしい (塩谷宗「万葉歌の一解釈」専修国文昭和五十一年三月)。
巻第一 65  霰打 (あられうつ) 全注  霰が大地を叩きつけて激しく降るの意。同音の「安良礼松原」をほめる枕詞。霰に「打つ」ということ、記歌謡に「笹葉に打つや霰のたしだしに」 (79) の例がある。「九十月の頃なれば、御まのあたり霰のふりければにもあるべし」 (橙) と見る考えがあり、注釈も従っている。ここには、地名「安良礼」に興趣を覚えつつ、志貴皇子の「霜」に応じて「霰」を持ち出した事情が潜んでいる。実景であって悪いことはないけれども、あえてそのことをとなえる必要もあるまい。
    注釈   代匠記に「霰は、物にうちつくるやうにふりて、ほとばしれば、うつともたばしるともよめり」といひ、「佐々波尓 (ササバニ) 宇都夜阿良礼能 (ウツヤアラレノ)」 (允恭記) の例をあげ、また「枕詞ニヤ」とも云つてゐる。「霰ふり」 (3・385) の枕詞もあり、同音繰返しの枕詞とも考へられるが、橙には「九十月の頃なれば、御まのあたり霰のふりければにもあるべし」と云つている。私注 (土屋文明「万葉集私注」) には、大阪測候所の近年の初霜は十月二十三日が最も早く、平均十一月十四日で、初雪は十二月四日が最も早く、平均十二月二十四日だといふ事をあげて、実景説を否定されてゐる。気温の変化はここ数十年の間でも甚だしく、京都付近の老農が若い頃には寒中は畑の土凍てついて鍬を入れる事出来ず、午前中は畑仕事が出来なかつたが、近年はさういふ事は決してないといふ話を聞いた事があり、私も三高入学の為入洛した明治四十二年四月七日には雪がふつてゐたが、近年はさういふ事は全くない。気候の変化については別にも述べるつもりであるが、今を以て上代を律する事は出来ない。ここは十月の吉野に雪がふつてゐたと見る (25参照) と同じく、霰が散つてゐる実景と考へる。
    代匠記  霰打安良禮松原住吉之弟日娘與見禮常不飽香聞
アラレフルアラレマツハラスミノエノオトヒヲトメトミレトアカヌカモ

 霰打をアヲレフルと点じたるはいかゞ、たゞアラレウツと字のまゝによむべし、霞は物に打つくるやうにふればなり、住吉は神功皇后紀云、亦表筒男中簡男底筒男三神誨之曰、吾和魂 [ニキタマ] 宜居大津渟中倉之長峽便因看往來船、於是隨神教以鎭坐焉、風土記云、本名|沼名掠 [ヌナクラ] 之長岡之國、今俗畧之直稱須美乃叡、霰松原、住吉にあり、弟日はたゞ弟にて日は助語なるべし、顯宗紀に弟日僕と宣へるに同じ、歌の心はあられ松原の面白きをあられさへ降て興を添へたるにうつくしき娘と共にみれば一入あかぬとなり、娘は此下に清江娘子進長皇子と云ふ歌あり姓氏未詳と注せり、其娘子なるべし、をとひをとめのごとく見れどあかれぬとにやとも聞ゆれど、弟日娘與とかけるも共にの心なる上、清江娘子と云女あればたゞ上の心なるべし、又按ずるに霰打といへるも必しも此時降りたるにはあらで枕詞にや、古歌にはかやうにいへる例あることなり、官本に娘をムスメと点ず、是俗に從ふなり、此集にヲトメとよみ、イラツメと点じてムスメとはよまず、
    私注   アラレウツ-枕詞。音の類似を以てつづけたのであらう。此の時の行幸は太陽暦の十一月十一日から二十六日までであるが、霰打つ即ち霰が降つて居たとも思はれない。前の歌の「霜ふりて」にしても、「寒き夕べは」といふには多少、作者の主観的強調が加はつて居るのであらうと思はれる。大阪測候所の近年の初霜は十月二十三日が最も早く、平均十一月十四日で、初雪は十二月四日が最も早く、平均十二月二十四日だといふ事をあげて、実景説を否定されてゐる。気温の変化はここ数十年の間でも甚だしく、京都付近の老農が若い頃には寒中は畑の土凍てついて鍬を入れる事出来ず、午前中は畑仕事が出来なかつたが、近年はさういふ事は決してないといふ話を聞いた事があり、私も三高入学の為入洛した明治四十二年四月七日には雪がふつてゐたが、近年はさういふ事は全くない。気候の変化については別にも述べるつもりであるが、今を以て上代を律する事は出来ない。ここは十月の吉野に雪がふつてゐたと見る (25参照) と同じく、霰が散つてゐる実景と考へる。大阪測候所の近年の初霜は十月二十三日が最も早く、平均十一月十四日で、初雪は十二月四日が最も早く、平均十二月二十四日である。尤も気温は七百年位の周期で変動するといふ説もあるが、直ちに比處はその説を採用し得るか否か。
  弟日娘 (おとひをとめ) 古義  弟日娘與[オトヒヲトメト]は、弟日[オトヒ]とは、娘子[ヲトメノ]の字[ナ]なるべし、(岡部(ノ)氏考に、弟日は、後(ノ)世に、兄弟のことを、おとゞいといふと同じくて、こゝも兄弟の遊行女婦がまゐりしをもて、かくよみ賜ふならむといへれど、兄弟をおとゞいといふは、弟與兄[オトトエ]といふことにて異[カハ]れり、且[マタ]書紀顯宗天皇(ノ)卷に倭者彼々茅原淺茅原弟曰僕[ヤマトハソヽチハラアサチハラオトヒヤツコ]是也とあるを引たれども、そはたゞ弟の義なるをや、其(ノ)故は天皇龍潜のむかし、播磨(ノ)國におはしまして、縮見(ノ)屯倉(ノ)首(カ)家に會[ツド]へる夜、天皇殊□[人偏+舞][タツヽマヒ]を作[ナシ]たまふ時。詰之曰[タケビタマハク]、倭者云々とありて、顯宗天皇は、仁賢天皇の御弟にておはします故に、御みづから弟日僕とはのたまへるにて知べし、
(私注:文中の「岡部氏」とは「賀茂真淵」)
巻第一 66 枕宿杼 (まくらきぬれど) 注釈  「枕宿杼」に諸訓があり、誤字説も出てゐる。そのうち考慮に値するもの「マクラニヌレド」 (元暦校本)、「マキテシヌレド」 (万葉考)、「マクラキヌレド」 (講義) の三つがある。そのうち第一説は今の我々には最も自然に感ぜられる訓み方であるが、「枕に寝る」といふ事は「枕にして (或は「巻きて」) 寝る」といふ事であり、「松が根を」といふ言葉をうけてはその「して」又は「巻きて」といふ言葉が必要なはずである。現に、

 ・・・浪の音の しげき浜辺
 敷妙の 枕尓為而 荒床に ころふす君が・・・ (2・220)
 奥つ浪来よる荒磯
色妙の枕等巻而奈世流君かも (2・222)
 しきたへの枕 (マクラヲ)
巻而妹と吾寝る夜は無くて年ぞ経にける (11・2615)

の如くいづれも「~を・・・枕になして」、「~を・・・枕と巻きて」、「枕を巻きて」などあつて「枕」から直接「寝る」に続いて「枕に寝る」といふ云ひ方はされてゐない。「城を枕に討ち死にする」といふやうな表現に慣れてゐる為に、「・・・を枕に寝る」といふ事も自然に感ぜられるのであるが、集中にあつては、他の言葉の場合でも、

 白たへの袖
〔着〕ぬれつつぞ来し (12・3123)
 山川
〔へなりて〕遠くとも (15・3764)

の如き「着」とか「へなりて」とかいふ言葉を省略しても意味はとる事が出来るが、それを省略した例がないやうに、「松が根を枕に寝る」といふ云ひ方は正しい文体ではない。即ち第一説は当時の用法としては穏やかでなく、「枕に巻く」「枕にする」の意をもつた動詞として、第二説か第三説によるべきである。「高山の磐根し巻きて」 (2・86) の例もあつて「まきてし」と訓む事は語としては穏やかであるが、「枕」の一字を「マキテシ」と訓む事は、語尾の他に「て」「し」の二語を訓添へる事となり、この歌の表記法としては異例である。この歌は語尾以外の語は助詞もすべて表記せられてゐるからである。結句の如きは重複した、親切な表記さへなされてゐる。かう考へると最も適切な訓としては第三説即ち「まくらき」といふ一語に訓むよりほかないといふ事になる。「まくらく」といふ語は今日では耳慣れない言葉であるが、「人の膝の上 (へ) わが摩久良可武 (マクラカム)」 (5・810)、「妹が袖われ枕可武 (マクラカム)」 (19・4163) の如く、枕を動詞にして「まくらく」と云つた確実な例があり、前者は天平元年の作ではあるが、作者大伴旅人は文武三年には既に三十五歳になつてゐたのであるから、今の作者と同時代の人と見るべきであり、今の作者が「枕 (まくら) く」といふ言葉を用ゐたといふ事は何の不振もなく認められるところである。さてかうして、松が根を枕にして寝るけれども、の意に解する事になるが、「ども」の意の下へのつづきについてまたいろいろの説が出てゐる。「寝れば」とあるべきやうに思はれるからである。しかしこれは全釈に「音に名高き大伴の高師の浜に旅寝して、佳景の中の人として、松の根を枕してゐるが、猶家が思はれるといふのである」と述べられてゐるのでよい。松が根を枕にするといふのは美しい松原の地に旅寝するといふ意であり、それを文字通りに松の根を枕にすると解するのは、「岸の埴生ににほはさましを」 (1・69) を赤土の上にねころぶ事と考へるのと同じ愚直さである。
巻第一 67  物戀之伎乃鳴事毛 注釈  この句の原文「物戀之伎乃鳴事毛 (モノコヒシキノナクコトモ)」とあつて、「物戀しき」と「鴫の鳴く事」とを掛け言葉にしたものだといふ説などが行はれてゐる。しかしこれはいかにも拙い。「戀しき」の「しき」と、鳥の名の「しぎ」とをかけるといふ事は、「集中に例がなければ、ひがごとなるよし宣長いへり」と既に略解に云つてゐる。それに対して「吾をまつ椿」 (73) だの「春さればまづさきくさの」 (10・1895) だのの例があげられたりするが、それは動詞と名詞とのかけ言葉であつて、今の如く形容詞の語尾と名詞との-しかも清濁を異にした-かけ言葉といふものは万葉にはなく、全く後世ぶりのものである。それに「鳴く事も」の句も拙劣である。そこで古写本を見ると、元暦校本類聚古集紀州本の三本いづれも「物戀之鳴毛」とあり、この三本の一致してゐる事は「七日不来哉」 (10・1917) の場合と同様 (『古径』三参照) 原形を存するものと考へられ、元暦校本に「之」と「鳴」との下に印をつけその右に朱筆で「伎」と「事」とを掻き入れてゐる事は後の補筆たる事を思はせるものであるが、西本願寺本には単に「戀鳴毛」とあつて「戀」の下右に「之」、左に「伎乃」とあり、「鳴」の下左に「事」とあり、頭書に「伎乃多本無之但法性寺殿御自筆本有之」とあり、「事」の下には「六條本有之」とある事は、右の「之」は筆録者の脱落を補つたもので、「伎乃」は法性寺殿御本により、「事」は六條本により補つたものである事を示してゐる。即ちこの句は古本に「物戀之鳴毛」とあつたが、それでは訓みがたいので「モノコヒシキノナクコトモ」と訓ませる為に甲本乙本を参照して「物戀之伎乃鳴事毛」の本文を作り上げたものと認めるべきである。全註釈にこの事を認め、「物戀之□鳴毛 (モノコヒシ□ネモ)」を原形として、その闕脱のところを、「客為而 (タビニシテ) 物戀敷尓 (モノコホシキニ)」(3・270) の例により「キニ」の語と、「鶴ガ」の語とを補つて「物戀しきに鶴が音の」とされたのは卓見と申すべきである。「臆説であつて、定訓とは為し難いが、今これを参考までに、」と述べられてゐるが、「鳴」を「ネ」と訓む事は「多頭我鳴 (タヅガネ)」 (10・2138)、「鶴鳴 (タヅガネ)」 (10・2249) などいろいろあり、この脱落は「物戀之 (モノコホシ)・・・」の「之」を「・・・之鳴 (ガネ)」の「之」と見誤つてその間の三字をとばしてしまつたもので、この種の脱字は今日我々の日常に於いて十分認め得るところである。のみならず正倉院御物天平十六年寫疏所符案には誤字、脱字に対する罰則まで残つてゐる。罰則とまでなつてゐる事は誤字脱字決して珍しいものでない事を示すものである。今この作の文字表記法を見るに仮名表記が詳細になされてをり、その点から云つても「物戀伎尓□鳴毛」といふ表記になつてゐたと考へることは殆ど動かすべからざる推定と云つてよい。ただ鳥の名が果たして鶴であるかといふ事は全註釈にも疑つてゐるやうに考慮の余地のある問題である。全註釈には鶴か雁かとあるが、もう一つ鴨も考へる事が出来る。処は難波の海辺であり、時は春である。この二つの條件に適ふものは雁か鴨か鶴か。雁の作は六十余首。その殆どすべては秋の作である。春の作としては天平勝宝二年三月二日、家持の越中にての作に、特に「見帰雁歌」と題したのが二首ある他は、神亀四年正月の長歌の中に「かりがねの来つぐこの頃」の句があるのみである。難波の作と認められるものは、

 朝 (あした) には 海辺にあさりし 夕されば 大和へ越ゆる 
し羨 (とも) し (6・954)

とあるのが、難波宮へ行幸の作の次に載せられてゐるので、やはりその地の作かと思はれるくらゐで、特に難波の雁が詠まれたと確実に認められるものは一首もない。雁は右の二つの條件に当る点の極めて乏しいものである。鴨はどうか。鴨の詠み入れられたもの二十七首ばかり。

 あしの葉に夕霧立ちてかもがねの寒きゆふべし汝 (な) をば偲はむ (14・3570)

 これは防人の歌かと思はれるもので、従つて作者は難波あたりの葦べを思ひやつてゐるのかとも見れば見られるといふ程のものに過ぎず、難波の鴨と確実に認められるものは前にあつた「葦邊ゆく鴨」 (64) が唯一で、しかも「羽がひに霜」の零る初冬の鴨である事その條で述べた。鴨もまた難波の春には縁の乏しいものである。鶴の作は集中四十六首、すぐこの先に見える難波宮行幸の作 (71) をはじめ、確実に難波の鶴と認められるものが八首に及んでゐる。

 ・・・夕されば 鶴が妻呼ぶ 難波潟 み津の崎より 大舟に ま梶繋貫 (かぢしじぬ) き 白浪の 高き荒海 (あるみ) を・・・ (8・1453)

 これは天平五年春閏三月に入唐使を送る笠金村の作で、難波での作とは思はれないが、「鶴が妻呼ぶ」が難波潟に対する枕詞の如き用ゐざまになつてゐる事が注意せられ、

 潮干 (ふ) れば 葦邊にさわく白鶴 (あしたづ) の 妻呼ぶこゑは 宮もとどろに (6・1064)

これは天平十六年難波宮での作と思はれるもので、「宮もとどろに」とある事が注意せられる。そしてその難波の鶴八首のうち、四首は確実に春の作たる事が明記せあっれてゐる。

 家思ふといをねず居れば鶴が鳴くあしべも見えず春の霞に (20・4400)

 即ち全註釈の「鶴が音」は臆測ではなく、最も妥当なる推定といふべきであらう。鶴の事は (71) にも述べる。なほ形容詞「戀し」は、「古非思家波 (コヒシケバ)」 (14・3376) をはじめ巻十四以後の仮名書例は「コヒシ」が通例になつてゐるが、斉明紀七年に「枳ミ我梅能 (キミガメノ) 姑裒之枳舸羅你 (コホシキカラニ)」とあるをはじめ、「毛毛等利能 (モモトリノ) 己恵能古保志枳 (コエノコホシキ)」 (5・834) など巻十三以前の仮名書例は「コホシ」であるので、今も「コホシキ」と訓む。
全註釈 【釈】
 物戀之□鳴毛-モノコホシ□ネモ。大矢本系統の本には、物戀之伎乃鳴事毛とし、モノコヒシキノナクコトモと訓し、諸説おおむねこれに從つている。しかしこの字面は、諸種の傳來を集めたもので、伎乃、および事の字は古い傳來には無く、闕脱してあつたものと認められる。すなわち西本願寺本には、本文は、物戀鳴毛とあつて、その戀鳴の中間の右に之の字、左に伎乃の字を補い書き、頭書には別筆で、「伎乃多本無之。但法性寺殿御自筆本有之」とある。また鳴毛の中間の左に「事、六條本有之」とある。元暦校本、類聚古集等には、本文を、物戀之鳴毛とし、元暦校本には、右に伎および朱で事を補つている。これらを綜合して考えるに、この句は、古來脱落があつて、數字を失つたものと認められる。これを補うのに多種の本から集め來ることは宜しくない。よつて今本文は、元暦校本の傳來のままにしておく。そのいかなる字が脱落しているかというに、これを推定することは困難であるが、「客爲而 (タビニシテ) 物戀敷爾 (モノコホシキニ)」(卷三、二七〇) などの例があつて、物戀シキニとあつたのであろうかとは考えられる。しかしこれに鳥の鴫を懸けて言つたというが、そういう例は他に見えない。その下の字は、鳴の字が、これも集中に例のあるように、ネと讀まれるので、その上に鶴、もしくは雁の如き鳥名を脱したとも見られ、これを聞いて慰むという歌意よりして、しばらく鶴の字脱として、鶴 (タヅ) ガ音 (ネ) モの訓を想定し得られる。以上はもとより臆説であつて、ただちに定訓とはしがたいが、今これを參考までに掲げておく、物戀シとは、何事となしに戀しい狀態である。
全注  底本には、「物戀之鳴毛 (モノコヒシキノナクコトモ)」とあり (元暦校本類聚古集紀州本も同様)、諸本を校合して、「物戀○(之)○(伎乃)鳴○(事)毛」と記す。「伎乃」については、頭書に「伎乃多本無之、但法性寺殿御自筆本有之。」とあり、「事」については、その下に「六条本有之」とある。いずれにしても、これでは文意不明。伝来途上、脱落改変があったものと見るべきである。これは「物戀之鳴毛 (モノコヒシキノナクコトモ)」という形で伝えられていたのだが、「物戀之鳴毛」をそのように訓むのは無理で意味不明なので、その訓に引かれて「伎乃」と「事」とが伝来途上に書き加えられたのであろう。全註釈に、「物戀之[□脱落]鳴毛」を原形と見、「物恋シキニ鶴 (タヅ) ガ音 (ネ) モ」の訓を想定、これを承けた注釈が [□] の中に「伎尓鶴之」の本文を推定したのに拠る。形容詞「恋し」には「戀之久」 (10・2119)、 「戀敷」 (10・2017) など活用語尾を丁寧に書くのを常とする。「鶴が音」も「多頭我鳴」 (10・2138)、「鶴之哭」 (3・352) のように「が」を明記するのが普通で、省略した例は「鶴鳴」 (6・1062、10・2249) しかない。巻一の歌にしては全体に文字数が多すぎるという不安は残るものの、注釈の本文推定は妥当であろう。これによれば、一首には「之」の字が目立つ、目移りがして、書写の間に脱落があったものか。さて、「恋し」には「コホシ・コヒシ」の両形があり、「コホシ」が古径かと言われる。けれども、表意文字「戀」については、万葉一般の「コヒシ」を採用する。「物恋し」は物につけて恋しく思われる意。「旅にして物恋しきに」 (3・270) の例がある。「鶴 (たづ)」は「鶴 (つる)」の歌語。「伊勢娘子ども相見鶴鴨 (アヒミツルカモ)」 (81) のように借訓仮名として用いられた例によれば、「鶴 (つる)」 の語も存在したことが知られる。けれども、「鶴 (つる)」は俗語だったらしく、歌詞には用いられていない。この類には、ほかに「かはづ (歌語)-かへる (俗語)」などがある。「鶴 (たづ)」は、「鹿」と同様、妻を求めて鳴くとされ、あるいは望郷を誘い、あるいは旅情を慰めるものとしてとらえている。
  原文「孤悲 新大系  「恋 (こひ)」の孤独と悲しみを視覚的に表意。
巻第一 68 忘而念哉
(わすれておもへや)
全注   「忘れて思ふ」は、忘れることも思い方の一つと見なした表現。「妹が心を忘れて思へや」 (4・502)、「袖交(か)へし子を忘れて思へや」 (11・2410) など。
    注釈   思ひ忘れるとか単に忘れるとかいふのとほぼ同じやうに「忘れて思ふ」といふ語が用ゐられてゐる例が、集中に八十九例見える。「思忘 (オモヒワスルル) 時も日もなし」 (6・914) と「思ひ忘る」といふ語も一例は見え、また、

 夏野行く牡鹿の角の束の間も妹が心を忘而念哉 (ワスレテオモヘヤ) (4・502)人麻呂
 大名児を彼方野辺に刈る草の束の間も吾忘目八 (ワレワスレメヤ)  (2・110)日並皇子

の二つを並べてみると「忘れて思へや」と「我れ忘れめや」とが殆ど同じ意味に用ゐられてゐる事がわかる。しかも、「忘れて思ふ」と「忘る」と二つの語が用ゐられてをり、一例ではあるが、「思ひ忘る」の例もあるところを見ると三者に区別を感じてゐたのではないかと思はれる。「忘れて」といふ表現は「忘れたやうな状態で」といふ意未で用ゐられたのではないかと思ふ。「似てし行かねば」 (2・207) 参照。
全註釈 忘而念哉 ワスレテオモヘヤ。ワスレテオモフは、思い忘れるの意であつて、忘れてまた思うの謂ではない。ヤは反語。「將會跡母戸八 [アハムトモヘヤ]」(卷一、三一) の條に説明した。思い忘れることが無いの意である。
攷證  忘而念哉 [ワスレテオモヘヤ]。
 おもへやの、やは、うらへ意のかへるてにをはにて、家なる妹を、わすれておもへや、わすれはせじといふ意也。本集十一 [廿六丁] に、君之弓食之將絶跡念甕屋 [キミカユツラノタエムトオモヘヤ] 云々。十五 [七丁] に比登比母伊毛乎和須禮弖於毛倍也 [ヒトヒモイモヲワスレテオモヘヤ] 云々などある類也。猶いと多し。
巻第一 72 作主未詳歌 全注  宇合は、藤原不比等の第三子。式家の祖。霊亀二年 (716) 八月遣唐副使、養老三年 (719) 七月、常陸守として安房・上総・下総を管する按察使となり、神亀元年 (724) 四月、式部卿正四位上として正蝦夷持節大将軍となり、同三年十月知造難波宮事、天平三年 (731) 八月参議、同四年八月西海道節度使を歴任、天平九年 (737) 八月五日、疫病に襲われ、参議式部卿兼大宰帥正三位で没。懐風藻に詩六首を伝える。
 その伝に行年四十四 (群書類従本懐風藻) とあり、公卿補任・尊卑分脈も四十四とする。これによると、今の歌の年を文武三年 (699) とすれば六歳、慶雲三年 (706) とすれば十三歳となる。だが、代匠記が見た懐風藻の伝本には「五十四」とあったという。四十四歳では霊亀二年の遣唐副使拝命が二十三となり、いかに藤原氏の御曹司にしても若過ぎる感がある。不比等の四子はすべて天平九年の疫病によって不帰の客となった。その時、第一子武智麻呂 (南家の祖) 五十八、第二子房前 (北家の祖) 五十七、第三子?宇合、第四子麻呂 (京家の祖) 四十三となり、四十四でも五十四でも矛盾はない。注釈にもいう通り、その経歴から見て兄房前に近かったと見、代匠記に引く伝えを可とすべきか。天和刊本の懐風藻には「年三十四」とあるという (古典大系)。「三」と「五」とは草体が似る。これは年五十四の誤伝かもしれない。五十四歳没でも、慶雲三年と見なければ、今のような歌を発表することは早熟に過ぎるであろう。
 ただし、宇合の行年は古くから四十四歳という伝えがあったのか、目録には「作主未詳歌」と記す。これは文武三年は勿論、慶雲三年と見ても、宇合が作者であることはありえないと判断した結果であろう。目録に本文への批判があるというのは、正否は別としてこういう面をいう。これによれば、慶雲三年の宴の席上、宇合の名で誰かが詠んだという考えも立てておくべきか。なお、「式部卿」は式部省の長官で、ここは極官を記したもの。「44」の「石上大臣ずと同様、後の編者の記入であろう。作者に官職を記すことは巻一を通してこの二例に限られる。
注釈  藤原宇合は鎌足の子の不比等の第三子。霊亀二年八月遣唐副使となる。養老三年七月按察使を置かれ、常陸国守として安房・上総・下総を管せしめらる。神亀三年十月知造難波宮事、天平三年参議、四年西海道節度使、九年八月薨ず。宇合の文字は続紀にはじめは馬養とあり、養老三年七月以後は多く宇合と書かれてゐる。ウマカヒを宇合と書くは、大伴旅人を淡等 (5・810題詞) と書く類で、字音を借りたもので、今は合 (カフ) をカヒにに転じ、マに相当する文字を略したのである。美夫君志別記に、養徳をヤマト、安芸国賀茂郡の養訓を和名抄 (八) に「也萬久尓 (ヤマクニ)」とすると同じく、美□作 (ミマサカ)、対□馬 (ツシマ) の類としてゐる。懐風藻に詩六首を載せてゐる。同集に六首もの作を採られてゐるのはこの人と藤原萬里とのみである。尊卑分脈 (一) に「有集二巻」とあつて、今伝わらないが、漢詩文に秀でてゐた事が察せられ、彼が国守であつた常陸の風土記が、他の国の風土記に較べて美麗な漢文で書かれてゐる所以もうなづかれる。歌は他に五首見える。式部卿任官の事は記されてゐないが、神亀元年四月の條に「式部卿正四位上」の肩書きがあるから、それ以前の任官である事は確かである。この作は次に述べるやうに弱年の作であり、「式部卿」とあるのは後の稱を用ゐたもので、そこにこの左注の加へられた時代が推察せられる。懐風藻流布本には年三十四とあるが、群書類従本には四十四とあり、公卿補任、尊卑分脈にも四十四とあるのでそれによるべきかとも思はれるが、代匠記には懐風藻を引用しながら年五十四として、「逆推スレバ天武十三年ニ生ル。此行幸、慶雲ノ比ナラバ二十余歳ナルベシ。」としてゐる。年三十四では遣唐副使が十三歳になつて問題にならず、四十四としても慶雲三年が十三歳となつて右の作者としての資格が生じない。そこでこの作者を疑ふ説も生じてゐる。そしてその説に都合のよい事は目録に「作主未詳歌」とある事である。それによれば問題は一切解消してしまう事になる。考、略解などはこれによつてゐる。しかし目録に作主未詳歌とある例は前 (67) にもあり、それによれば高安大島も抹殺する事になる。だが本文の左注に明記する作者名を削つて目録による事は本末転倒である。やはり今の場合も作者宇合として考察を加ふべきであり、そしてその作者として宇合を認める為には代匠記の説にかへるといふ事になる。ただ問題は現存の懐風藻に「年五十四」とあるものの見えない事であるが、現に「年三十四」とあるものは誤である事右に述べた如くであるから、「三」を「五」の誤と断ずる事も認められない事ではない。公卿補任によれば天平九年長兄の武智麻呂は年五十八であり、次兄の房前は年五十七であるから、三男の宇合が五十四であるといふ事も極めて自然に認められる。尤も四男の麻呂が年四十三とあるから、宇合が四十四である事も妨げない。しかし麻呂は養老五年に左右京大夫に任ぜられてゐる事が任官の記事の最初であるに対し、宇合は前記の如く既に霊亀二年遣唐副使となつてをり、又天平四年には兄房前と相並んで、東海、東山二道と西海道との節度使になつてゐる事などから考へても、宇合は麻呂よりも房前に近い年齢であつたのではないかといふ事が考へられる。なほいへば公卿補任の「四十四」は前田家一本には「四十五」とあるらしく、それが「五十四」の誤ではないかと考へられぬ事もない。そこあmでのせんさくはおくとしても、それを否定すべき論拠なく、肯定すべき論をたすける資料はあるのだから、私は代匠記の説に従ひ、天武十三年生といふ推定をとりたいのである。しかもこの作の年代は従来の諸家の如く、慶雲三年ではなく (66,71) の題詞の條でも述べたやうに、文武三年ではないかと考へるので、従つて右の推定によつて、宇合十六歳の折の作と考へたいのである。或はまだ定まつた妻なく、旅先での一夜妻、異性の肉体に対する鋭敏な感覚を持つ思春期の少年宇合の作、「敷栲の枕邊の人」の語のある所以が理解されるのではないか。かう考へる事は想像が過ぎるからであらうか。
枕之邊人
(まくらのあたり)
注釈 【訓釈】
「枕邊の人
忘れかねつも
 流布本には「枕之邊」とあつて、「マクラノアタリ」と訓まれてゐるが、細井本以外の古写本にはすべて「枕之邊人」とある。元暦校本には訓を缺き、片カナの朱の書き入れには「マクラセシヒト」とある。西本願寺本には「セシヒト」のところ青で「ノアタリ」とある。仙覚が改訓を試みたが、「人」の字の処置にこまり、後に至つて削つたものと思はれる。全註釈には「人」を復活して「マクラノベノヒト」と訓まれ、「枕の邊の人、すなはち妻である」とされた。「人」の文字はみだりに削るべきではなく、さりとて「マクラノベノヒト」の訓にもおちつきかねる。そこで二つの私按を試みた。その一つは、「枕邊之人」の誤として「マクラベノヒト」と訓む事であり、その二は「人」を下の「忘」と合わせ、もと「念」の一字であつたものが「人」「忘」の二字と誤つた。-「忘」を「王心」二字に誤つた例 (3・334) 参照-と見るのである。この説にすると「マクラノアタリオモヒカネツモ」となり、その「オモヒカネ」は思ひ得ずの意 (11・2499参照) ではなくて、思ひに堪へかねる意となる。後説でも解釈が出来ると思ふが、誤字説よりも文字の転倒と見た方が穏やかであり、前説によって解釈する。枕邊とすれば、それは上の「沖邊」とも相応じ、「敷栲の枕邊」と「玉藻刈る沖邊」と相対する事になり、二つの枕詞も生きる。そしてその枕邊の人を全註釈には妻とあるが、これは一夜妻であると私は考へる。「65・69」で述べたやうに難波の港の遊女である。さればこそ「敷栲の枕邊」の人なのである。葦火焚く屋の煤け妻に「敷栲の枕邊の人」はことごとしい。妻を云ふならば先づ「包厨邊 (くりやべ) の人」 であらう。又故郷の妻ならば「沖邊は漕がじ」も切実でない。ゆうべ敷栲の枕邊にたもとまきねし一夜妻の、そのなつかしい人の住む濱べに心をひかれてゐるのである。「忘れかね」の「かね」は既出「30」。「つ」は完了の助動詞、「も」は詠歎の助詞。
【考】
 私注には「マクラベノヒト」の訓の存在も認められながら「どうしても受け入れきれない卑俗さがある」として再び「マクラノアタリ」へ帰り、人の字があるとしても、そのまま、又は入の誤として、「アタリ」と訓めると述べられてゐるが、その訓読も無理であり、右の訓釈の条で述べたやうに解すれば「マクラベノヒト」の訓は難なく受け入れられると思ふ。
全注 「枕のあたり思ひかねつも
 「枕のあたり」は第二句の「沖邊」に対する。枕席を共にした旅先の一夜妻をいう。「思ひかねつも」は思う心を押さえきれないの意。ここは、「忘可祢津藻」の本文によって、「ワスレカネツモ」と訓むのが一般。注釈の別案「念可祢津藻 (オモヒカネツモ)」に拠るべきこと、後述。「かぬ」は「兼ぬ」と同源で、心の中の相反する作用二つが兼ねて働き、決着しきれないことをいう。ただ、「忘れかねつも」だと忘れようにも忘れられない、「忍びかねつも」だと辛抱しようにも辛抱しきれないの意となるが、「思ひかねつも」だと思うまいとするけれども思わないではいられないの意となる。これは、「かぬ」の上に来る動詞の性格に対応してそうなるもので、「かぬ」の本性に変りはない。「物言はず来にて思ひかねつも」 (4・503)、「なほし恋しく思ひかねつも」 (12・3096) など。この第四・五句、神宮文庫本・細井本と流布本以外は「枕之邊人忘・・・」とあり、「枕之邊人忘 (マクラベノヒトワスレ) ・・・」 (全註釈)、「枕之邊人 (マクラセシツマ)」 (増訂全註釈)、「枕邊之人忘・・・」 (注釈)、「枕之邊人忘 (マクラノアタリワスレ)・・・」 (古典全集) 等の諸説を見る。また、流布本には「枕之邊 (マクラノアタリ)」と訓み、「人」の字を除外している。注釈の別案に、諸本の「枕之邊人忘・・・」を古い形として、しかも、「人忘」はもと「念」とあったものがこの形に誤ったとするのが、最も考えられやすい道筋だと思う。一字を二字に写し誤ることはよくあり、もと「忘」とあったものが「王心」に誤った実例が、3・334にある (注釈参照)。
巻第一 73 不吹有勿勤
(ふかざるなゆめ)
全注  「ずあるな」は二重否定で強い命令を表わす。「ゆめ」は、禁止の表現と関わってその意を強調する副詞。「人の中言聞きこすなゆめ」 (4・660) など。
注釈  「ゆめ」は「浪立莫勤 (ナミタツナユメ)」 (3・246)、「浪立勿湯目 (ナミタツナユメ)」 (7・1122)、「波立勿謹 (ナミタツナユメ)」 (10・2040)、「浪立勿忌 (ナミタツナユメ)」 (10・2058) などの例により、「勤」を「ユメ」と訓むべき事を知ると共に語意も後世「ゆめゆめ人にな語りそ」などいふ「ゆめ」である事がわかる。集中卅一例、そのうち二十二例までは「・・・なゆめ」といふ形になつてゐる。従つて今も原文「不吹有勿」は「フカザルナ」と訓む事に不審はないが、否定を二つ重ねた云ひ方に耳慣れぬ感がせられる。吹いてくれといふのをわざわざ吹かずにあつてくれるなと云つてゐるのである。なほ考の條参照。-
新大系  「吹かざるなゆめ」は、漢文訓読の語法かと言われる (井上通泰「万葉集追攷」)。
全釈  不吹有勿勤 [フカザルナユメ]――吹カズアルナ、ユメで、必ず吹けよの意。
巻第一 74 山下風 (やまのあらし) 全注  「あしひきの下風 (アラシ) 吹く夜は」 (11・2679)、「衣袖 (ころもで) に山下 (アラシ) の吹きて」 (13・3282) などの例がある。倭名抄に「嵐-廬含反、和名阿良之-、山下出風也」(巻一) とある。「あらし」」「荒風」の意。
    古義   山下風之は、ヤマノアラシノと訓べし、集中に、山下阿下下風(八 (ノ) 卷に、山下風爾 [アラシノカゼニ]、十三に、阿下乃吹者 [アラシノフケバ]、十一に、下風吹禮波 [アラシフケレバ]、) など書て、阿良志 [アラシ] と訓り、和名抄に、孫□[立心偏+面](カ) 云、嵐 (ハ) 山下 (ヨリ) 出 (ル) 風也、和名阿良之 [アラシ]、とある意によりて書りと見えたり、名 (ノ) 義は荒風 [アラシ] なり、(十三に、荒風 [アラシ] と書り、七 (ノ) 卷に、荒足 [アラシ] と書るは借 (リ) 字のみ、) 風を志 [シ] といふは、風 (ノ) 神の名を志那都比古 [シナツヒコ] と申す志 [シ] 、また都牟志 [ツムシ]、また東風 [コチ] 疾風 [ハヤチ] などいへる知 [チ] も同じ、(志 [シ] と知 [チ] と通はし云ることは、古言に甚多し、)
  為當也 (はたや) 全注  「はた」は、あるいは、ひょっとすると、おそらくなどの意を表す。原文「為當」は六朝ごろの中国の俗語 (講義以下) で、「A」かそれとも「B」か選択する意を示す (小島憲之『上代日本文学と中国文学』中)。もともと「端 (はた)」の意を示す倭 (やまと) 言葉に、「為當」を宛てたもの。「や」は疑問の係助詞で、「寝む」で結ぶ。
    注釈 【訓釈】
はたや今宵も我がひとりねむ
 「はた」の原文「為當」は「於是許勢臣問王子恵曰、為當欲留此間。為當欲向本郷。」 (欽明紀、十六年二月) の如く用ゐられてをり、上の「為當」を「モシ」、下のを「ハタ」と訓ませたり、或は両方とも「ハタと訓ませたりしてゐるが、要するに国語の「はたまた」といふべきところに用ゐられてゐるので今も「ハタ」と訓でよいと思はれる為に拾穂抄に「はたやは又や也」といひ、現代にあつても「『また』に似てしかも詠歎の意を含ませたるなり」 (講義) と述べられ、全註釈や私注にも同様に解されてゐる。漢籍に見える「為當」「為復」「為」などの文字については古義、講義、井上通泰氏の「万葉雑話」 (五十三) (アララギ第二十六巻第八号昭和八年八月)、神田喜一郎氏の『日本書紀古訓攷証』、同氏「『万葉集は支那人が書いたか』続貂」 (国語・国文第二十一巻第一号昭和二十七年一月)、小島憲之氏の「万葉語『ハタ』の周辺」 (万葉第十六号、昭和三十年七月) などに多くの用例が揚げられてゐる。漢語としての「為當」及びそれに類する語の用法としてはそれらの緒論に十分盡されてゐる。その語は講義に「支那の六朝頃よりの俗語なるべきか」とあるを神田博士が肯定され、「為當」といふ言葉は、全く普通に会話などに用ゐられてゐた話し言葉であつた、と云はれ、「為當」などといふ言葉は、本格的な漢籍の中に現はれてくるものではなく、「従つて支那の古典や、それに倣うて書かれた雅文のものを、単に書物の上だけで知つてゐるものには、たうてい使用することができないのである。」と述べられてゐる。そこで、菊地壽人氏の精考に、真名伊勢物語には「為将」ともある事に注意し、「為當」又は「為将」は飜訳的にいへば「為(トス)
云々(セン)」「為云々(ナラン)」などいふ「とす」といふほどの気分に相当する詞らしいので、此歌の気分を、仮に他の語で現せば、「こよひも独り寝んとすらむ」といふほどの気分かと思はれる、と云はれてゐるのは一応うなづかれるやうに見えるけれども、当時の漢語としての「為當」には適当しない事になる。「為當」の用例としては、神田博士があげてをられる敦煌出土の神会禅師語録の巻一に見える使用例、

 問。作沒生離。(どのやうにして離れるのか)
 答。只沒離。無作勿生離。(ただ離れるだけ。「どうして離れる」といふわけのものではない)
 問。為是心離。為當眼離。(心が離れるのか、眼が離れるのか)
 答。我今只沒離。所無心眼離。

の如きものであり、小島君が、

 Aか?Bか?-Aか?或は (また) Bか?-もし (くは) Aか?もし (くは) Bか?
といひ、「つまり物を並べてAかBを選択する、一種の転換のことばであり、更に云へば一方を一旦あげて更に抑へながら他をあげるわけになる。」と云はれてゐるやうな意に用ゐられてをり、はじめにあげた欽明紀の「為當・・・為當・・・」はまさにぴつたりとそれに適合するものである。然るに万葉に於ける「はた」は今の場合をはじめ、

 さを鹿の鳴くなる山を越えゆかむ日だにや君に當不相将有 (ハタアハザラム) (6・953)

や「波太奈於毛比曽 (ハタナオモヒソ)」 (15・3745)、「波多也波多 (ハタヤハタ)」 (16・3854) などに至ると、いよいよ「AかBか」では片付かないやうに思はれる。そこで燈には、父成章の脚結抄に「はたは里言にセウコトモナイといふ義あり」とあるを引いて、「または一事のうへに更に一事のかさなるをいひ、はたはせむここちもなき事のやごとなくせらるる歎きなり」と云ひ、古義にも「そのもと心に欲 (ネガ) はず、厭 (イト) ひ悪 (ニク) みてあることなれど、外にすべきすぢなくて、止ごとなくするをいふ詞なり」といふやうな説も生れるに至つたのである。漢字としての適切な訓釈が国語としての正しい訓釈にならぬ事は万葉集に絶えずある事であつて-「風乎疾」 (3・294) を「カゼヲハヤミ」と訓むなども漢字の語意に拘泥した語讀である-「為當」の漢語としての解釈と「はた」といふ国語の解釈との追究は別々になされねばならぬ事は、既に井上氏の右の雑話に述べられてゐるところである。ただ、今の歌の「為當」は欽明紀の場合程に明瞭なものではないにしても、「為當」の二字が用ゐられた集中の唯一の例であり、その漢語としての意味によつて十分解釈の出来るものである。井上氏が、欽明紀のものは英語の「or」に当るが万葉のものはその意では当らないと云つてをられるが、少くも今の場合は当ると私は考へる。或は今夜もまたひとり寝する事にならうかといふので解く事が出来る。精考が「ああもしかすると」と訳されてゐるのもその点では大体当つてゐる。只他の「はた」については別に考へねばならぬ。それはそれぞれの條で述べる事にする。「や」は詠歎の係助詞。その語をうけて結句は連体止となつてゐるわけである。従つて「我」を旧訓に「ワレ」とあつたのを考に「ワガ」と改めたやうに、「伎美我伎麻左奴 (キミガキマサヌ)」 (20・4497) などと同様、「が」の助詞を加ふべきである。連体止には「が」「の」の助詞を用ゐるが上代の例 (20) であるからである。ああどうやら今夜も独寝をする事にならうか、の意。

〔考〕拾遺集巻十三に、

     題しらず     よみ人しらず
 あしひきの山下風も寒けきに今宵も
またやわがひとりねむ

とあるは、今の作から出たものであるが、ここに「はたや」が「またや」となつてゐる事は、「はた」が「また」である証とすべきものではなく、「はた」の語彙が失はれて通俗化された事を示すもので、「小松が末ゆ沫雪流る」 (10・2314) が「小松が原に沫雪ぞふる」 (新古今集巻一) となつた類であり、この拾遺の作と較べる事によつて、むしろ「はた」が「また」でない事を悟るべきである。その事は「寒けくに」が「寒けきに」となつてゐる点によつても、誤伝の程度を知るべきである。「寒けき」といふやうな言葉は上代にも後代にも生存しなかつた言葉であり、ただ万葉の誤読によつて残されたものである。それはあだかも「かて」「かつ」の語がわからなくなつて「がての」「がてを」といふ言葉が生じた (2・95) 如きである。
巻第一 75 衣応借 (ころもかすべき) 注釈  原文「借」とあるので旧訓の「カス」を攷証に「カル」と改めたが、集中には「貸」の文字なく、「借」を「カル」とも「カス」とも訓んでをり、

 あしひきの山行きくらし宿借者 (ヤドカラバ) 妹立ち待ちて宿将借鴨 (ヤドカサムカモ) (7・1242)

の例を見てもその事はわからう。今の場合は作者を主として云へば「カル」とも訓めるが、講義に「ここは我に同情をよせて朝風の寒きにさぞなやみたまはむなどいひて衣を貸してくるる妹もなき由にいへるものと思はるれば、我を客としたるいひざまと見るを趣深しとす。」と説明されてゐるやうに、「カス」と訓むべきである。衣の貸借の事は、

 秋風の寒き朝けを佐農 (さぬ) の岡ゆらむ君に衣 (きぬ) 貸さましを (3・361)

その他 (12・3011、14・3472) にも見える。上代の服装そのものが現代のやうな個人主義的なものでなく、それに男女別れ住む場合が多かつたといふ事も今の人以上にこの事に関心を誘つたので、歌の素材となり得た事が思はれる。
全注  「衣」は下着。旅などで男女が相別れるとき、ころもを交換する風習があった。そのころものことを、特に「形見の衣」という (4・747、7・1091など)。思い出のよすがにしようとしてのことであるが、互いの肌着に付着した魂によって互いに守り合うという心遣いから出た習いと見られる。「貸すべき」は貸してくれそうな、の意。原文「借」はカスともカルとも訓む字。「カルベキ (攷証)」の訓も考えられるこれども、「佐農 (さぬ) の岡越ゆらむ君に衣借 (きぬカサ) ましを」 (3・361)、「宿借らば妹立ち待ちて宿将借 (ヤドカサム) かも」 (7・1242) などの例や、「我を客としたるいひざまと見るを趣深しとす」 (講義) という見解により「カスベキ」と訓む。
巻第一 76 物部 (もののふ) 全注  [1・44] の作者、石上朝臣麻呂を指す (代匠記)。この歌の和銅元年 (708) の三月十三日に、右大臣から左大臣になった。石上氏はもと物部氏を名告ったが、天武朝の末年に「石上」の氏を賜った。即位・遷都などのとき、榎井氏とともに楯を立てる任務を慣例として負っていた。持統紀四年 (690) 正月、天皇即位の条に、「物部麻呂朝臣樹大楯とあり、続日本紀文武二年 (698) 十一月二十三日の条に「大嘗。直広肆榎井朝臣倭麻呂堅 (テ) 大楯 (ヲ) 直広肆大伴宿禰手拍 (たうち) 堅 (ツ) 楯桙 (ヲ) 」とある。物部朝臣麻呂、朱鳥元年 (天武十五、686) から石上朝臣麻呂と記されている。ところが、持統即位に際して大楯を立てるにあたっては、古くからの習わしを意識したのであろう、「物部」と呼ばれている。ここも同じ意識によって「石上」ではなく「物部」と称されたものと思われる。もっとも、「物部」は歌詞においては、「モノノフ (朝廷に仕える諸々の部族) と訓まれることが多いので、ここもそう訓むのが一般。しかし「モノノフ」と訓むべき例は、大部分、「八十伴の緒」「八十氏」「八十」「氏」を下に伴う。目下の例と「3・369」だけは異なり、「369」では「物部乃臣之壮士」と言い、こう呼ばれる人が麻呂の子石上朝臣乙麻呂であることによれば、これも「モノノベノオミノヲトコ」と訓じ、別扱いにすべきであろう。人物で「物部 (もののべ)」を名告る例は防人歌に多くある。よって、代匠記に「物部ヲモノヽフトヨメルハ此ニテハ誤ナリ。「モノヽヘトヨムヘシ」したのに、卓見として従う。
  大夫 (ますらを)  全注  宮廷に仕える立派な男子の意。人麻呂集歌では「健男」 (11・2354、2376)、「建男」 (11・2386) を宛て、他に「益卜雄」 (2・117)、「益荒夫」 (9・1800)、「益卜男」 (11・2758) などを宛てた例もある。軍王の「5」や人麻呂の「135」を契機に、中国周代の官名 (卿の下、士の上) で、万葉時代に四位五位の尊称として用いられた「大夫」がもっぱら宛てられるようになった。「5」の例は、宮廷人が自らを「ますらを」と呼んでいた。「61」と今の例は、第三者が宮廷人を「ますらを」と呼んでいる。
巻第一 77  副而 (そへて) 全集 副へて賜へる】
 「副へて賜へる」-「ソヘテ」は或る物に次ぐ存在として並べて、の意。元暦校本をはじめ底本などの大部分の古写本に、原文が「嗣而」とあり、従来「ツギテタマヘル」と読まれていたが、紀州本などに「副而・・・」と読める文字があり、これによって「ソヘテ・・・」と読む。形影相寄る如く常に妹天皇の側にあって補佐する立場としていう。このタマヘルは皇祖神が天皇にワレ(御名部皇女)を授けたことをいう。
新大系 副へて賜へる】
 第四句「副へて賜へる」の「副へて」の原文は、諸本「嗣而」。広瀬本冷泉本神宮文庫本は「副而」のように作る。
広瀬本等を活かして「そへて」と訓む「新編日本古典文学全集」の説に従う
    全注 継ぎて賜へる】 
 大君の守り役として、一続きのものとして賜わった、の意。作者御名部皇女は元明天皇の同母の姉で、実際には先に生れているけれども妹の天皇の地位を重んじ、臣下の立場でこう言ったもの (精考)。
注釈 継ぎて賜へる】 
 精考に「つぎてたまへる」は吾の修飾語で「君に次ぎて吾をも下し給へる」義であるとして、「代々の天皇は皇祖神の御議らひで、大八洲国の主として此世に下し給ふものといふが昔からの思想で、随つて今の天皇 (元明) も、その意味で特に御下しくだされたのは、いふまでもないが、
それに次いで、吾をも御下しくだされたといふのである。それは何の為かといへば、君の御護りとして、御輔佐としての意である事は、歌の意を推してこれも明らかな事である。その吾あるからは云々といふのである。(御名部皇女は天皇の姉君に当らせられるから、先に生れましたのであるが、臣下としての言であるから、かく申さねばならぬのである。) 」とあるのでこの二句の意は盡されてゐる。この二句については代匠記以来こちたき論議があり、結句の「吾」は「君」の誤とする宣長の説も出て、それに従ふ学者もあり、又「賜ふ」を「大君に賜へる意」 (花田氏私解) としたり、「蒼生ニタマヘルなり」 (新考) としたり、或は「生命を賜はれる意」 (山田氏講義、金子氏評釈) などもあるが、やや後世心のせんさくにすぎた感がある。既に近藤芳樹の註疏にも精考とほぼ同じ解釈が簡単に述べられ、全註釈も同様であるが、精考の説最もわかりやすく説明されてをり、むつかしい論を要しないと思ふから引用した。
 -原文「嗣」が紀州本に「副」とあり、金沢文庫本にも同様であるらしく、冷泉本には「□」〔私見では曖昧で解らない、何となく偏に「手と禸」、そして旁に「刂」〕とあるといふ。「副であれば「ソヘテ」と訓み、それでも天皇の「副人 (そへびと)」として、の意で解釈は可能であるが、紀州本にも訓はやはり「ツキテとあるので旧本のままにした。
巻第一 78  飛鳥 (とぶとりの) 全注 【とぶとり】四音
 「明日香」の枕詞。鳥は朝明 (あさけ) にとくに賑々しく飛来することから、類音「明日香 (あすか)」に懸けたものか (井手至「”飛鳥”考」万葉昭和四十七年五月)。盛んに飛ぶ鳥さながらの明日香という、土地ぼめの意味があることは疑えない。明日香から見ると、三輪山を真中に、左手に龍王山、右手に巻向山が左右の翼を広げたように連なり、大鳥が飛来しているように見える。明日香は常にこの飛ぶ鳥に守られている感じである。このことから「飛ぶ鳥-明日香」の関係が生じたのではないかということを、今は故人となった大浜厳比古が語ったことがある。捨て難い着想と思われるので、紹介しておく。原文「飛鳥」が「明日香」とかかわるときは、「の」にあたる表記がない。「飛鳥乃早く来まさね」 (6・971)のようなときには、その表記があり、区別されている。「明日香」の枕詞の場合は、「トブトリ」と四音に訓むべきである (金井清一「枕詞”飛鳥”四音考」国語と国文学昭和三十七年三月)。四音の枕詞は「そらみつ大和」 (一)、「味酒三輪の山」 (17)、「打ち麻 (そ) を麻続の王」 (23) などすでにあり、古代歌謡にも「天飛 (あまだ) む軽の娘子」 (記・83) などがある。
注釈 【とぶとりの】五音
 枕詞。天武紀朱鳥元年 (天武十五年) 七月の條に「戌年 (二十日)、改元曰朱鳥元年。 [朱鳥此云阿訶美苦利]。仍名宮曰飛鳥浄御原宮。」とあり、扶奏略記にも、「天武十五年丙戌大倭国進赤雉。七月改為朱鳥元年。」とあつて、赤い鳥を献じたものがあり、その瑞祥を喜んで浄御原宮に「飛ぶ鳥の」といふ枕詞を冠し、その宮の所在地である明日香の枕詞ともしたもので、後には-「長谷 (ハセ)」 (一標題)、「春日 (カスガ)」 (3・372) の如く-明日香の地名の文字にも用ゐるに至つたものである (『作品と時代』79頁~89頁参照)。
巻第一 79 万段 (よろづたび) 全注  原文「万段」の「段」を「タビ」と訓べき理由は未詳。小島憲之 (二所引考証) は、説文解字によれば、「段」はくぎり、分断されたものの意であるとし、「その動作が何度となく繰り返へされる」のが「万段」だという新見を示している。
    古義  萬段 [ヨロヅタビ] は、いく度もする意なり、一萬度とかぎれるにあらず、上の八十隈の類に、數多きことをいへるなり、大かた滿數をいふは、その數の多きよしなり、百 [モヽ] といひ千 [チ] といふも同じ、段 [タビ] は意を得てかける字なり、二 (ノ) 卷に、此道乃八十隈毎萬段顧爲騰 [コノミチノヤソクマゴトニヨロヅタビカヘリミスレド]、
  氷凝 (ひこごり) 全注
(ひこり)
 「和名抄」に、「四声字苑云、氷、-筆陵 (凌イ) 反、和名比、一云古保利-、水寒凍結也」 (巻一) とある。「凝り」は、「名義抄」に「凝」を「コル・コヽル」と訓む。神代紀上に「石凝姥」を「伊之居梨度咩 (イシコリドメ)」と訓み、集中に「夕凝 (ユフコリ) の霜置きにけり」(11・2692) の例がある。別に「凝敷 (コゴシキ)」(3・301、7・1332) の例もあり、「カハノヒコゴリ」の訓もありうる
    注釈  「氷凝り」流布本に「氷疑」とあるが、「疑」は類聚古集以外の諸本殆どすべて「凝」とあつてそれによるべき事疑を入れないが、「氷」は類聚古集と冷泉本とに「水」とある。それによると「カハノミヅコリ」と訓む。「凝」をコリと訓む事は「夕凝 (ユフコリノ) 霜置来 (シモオキニケリ)」 (11・2692) などの例によつて認められる。「氷」であれば旧訓の如く「ヒコリテ」とも訓めるが、先にも述べたやうに「テ」は訓みそへない方がよいから考に「コゴリ」と訓だ方がよい。「こごる」の語は万葉に見えないが、「磐金之 (イハガネノ) 凝敷山乎 (コゴシキヤマヲ)」 (3・301) の如く「こごし」の語はいくつもあり、又類聚名義抄 (法、上) にも「凝」に「コル」とも「ココル」とも訓がついてをり、「凝」をコゴルと訓み、「こごる」といふ動詞があつたと認める事も不都合ではない。即ち「氷凝」によれば「カハノヒコゴリ」と訓む事になる。そこでどちらがよいかといふに「川の水が凍る」といふのと「川の氷が凍る」といふのをくらべると前者が理屈にかなふやうに感ずるのは常識であり、現存の最も古い写本に「水」とあるのだからいよいよそれが正しいと考へられて、「カハノミズコリ」が多く採られる事になつたが、「こる」又は「こごる」は固まる事であつて「凍る」と同じではない。「零雪者 (フルユキハ) 凍渡奴 (コホリワタリヌ)」 (13・3280)、「佐保河波尓 (サホガハニ) 許保里和多礼流 (コホリワタレル) 宇須良婢乃 (ウスラヒノ)」 (20・4478) の如く万葉にも「こほる」といふ言葉があるにかかはらず、ここは「凝る」の方が用ゐられてゐるのである。さうだとすれば「川の水がかたまる」といふのと「川の氷がかたまる」といふのとどちらがよいか。「氷がかたまる」といふのは、考へれば理屈に合はぬやうであるが、現に使う言葉であり、せつかく「こほる」といふ言葉があるのに、わざわざ「水がかたまる」とは云はないはずだと思ふ。況やここは「磐床と」といふ修飾の語がついてゐるのである。即ち川面の薄氷が、暁方の寒さに磐石のやうに固まるのである。何の不都合がないばかりか、それでこそ言葉は生かされるのである。類聚古集はこの作については最古の写本であるが、時々さかしらな誤字がある (8・1418、その他)。現にここに「水疑」とあつて下の文字も「冫」が落ちてゐるのである。「氷」の「丶」が後から加へられたと見るよりも、落ちて「水」となつたと見る方が誤字の径路としても自然である。「河之」の文字をうけて「水」と早合点する事もありさうな誤である。即ち一、二の本によつて「水」に改めるよりも、紀州本その他の諸本のまま「氷」の文字を採る方が、本文の処置としても正常である。磐床のやうな川の氷がかたまつて、である。
巻第一 81 伊勢娘子 (いせをとめ) 全注  「娘子」は、「泊瀬娘子」(3・424) 、「常陸娘子」(4・521題詞)、「菟原 (うなひ)娘子」(9・1809)など、地名で呼ぶことが多い。采女・女孺・遊行女婦などをさす場合が目立つ。ここは文字通り、伊勢の地の美しい娘子の意。水を挹むのは女のわざとされ、「7・1256」「9・1808」「14・3546」、「19・4143」など、そのことを示す歌がたくさんある。「御井」といわれる名井であることから、「52~53」の「娘子」と同様、このおとめたちは神祭の水を挹む清浄にして神聖なおとめたちだったのであろう。「ども」は、同種のものが多いことを示す接尾語。人もしくはそれに準ずるものに用いる。「たち」にくらべて距離を意識しない対象に用いるので、ある時には親愛の情を、ある時には低く見る心情を醸し出す。ここは前者。
巻第一 82  流相見者
(ながれあふみれば)
全注  しぐれが大空のあちこちからはらはらと降るさを述べたもの。「ナガレアフ」は、底本はじめ類聚古集などの訓。ここは、「見る」の目的格で連体形。「流る」を再活用させた「流らふ」 (1・59) とは別語。雨の降るのを「流る」と言った唯一の例。地に落ちる雨ではなく宙に浮く雨に目を注いでいる点に、心の寂しさが表象されている。「合ふ」の複合語には、「立ち合う」「依り合う」「行き合う」などがある。
    新全集   「流レアフ」は、吹き捲くる風に雨脚が乱れ飛ぶさまをいうか。 
    古義  流相見者 [ナガラフミレバ] は、絶ず零 (ル) を見ればといふ意なり、流相 [ナガラフ] は那我流 [ナガル]を 長 [ノベ] たる詞なり、(良布 [ラフ] の切|流 [ル] となれり、さてこの延云なりといふ説、世におこなはれて、注者等その延云ゆゑのさだなきは、句の言の數のたらねば、留 [ル] を延て良布 [ラフ] といひ、又言の數のあまれば、良布 [ラフ] を約めて留 [ル] とも云るにて、實は留 [ル] も良布 [ラフ] も同じことなるを、心にまかせて、ともかうもいふとおもへるにや、そは後 (ノ) 世意にて、古 (ヘ) 人はさらにせざりしことぞかし、もししからば上古 (ノ) 歌に、四言六言などは、よむまじき理なるをもて、ゆゑなくして、延約はせざりしことをしるべし、されば差別有ことなり、流 [ナガル] はその流 [ナガルヽ] ことを直にいひ、那我良布 [ナガラフ] は、その流 (ル) ことの引つゞきて、絶ず長緩 [ノドヽヽ] しきをいふことなり、としるべし、さればこゝは□[雨冠に衆の皿が横になった日に置き換わった漢字]雨 [シグレ] のたゞ一 (ト) わたりにふることにはあらで長緩 [ノドヽヽ] と引つゞきて、絶ずふるよしなり、散 [チル] を知良布 [チラフ]、霧 [キル] を伎良布 [キラフ]、語 [カタル] を加多良布 [カタラフ]、足 [タル] を多良布 [タラフ]、取 [トル] を等良布 [トラフ] などいふ類も、みな其 (ノ) 定に意得べし、流相と書るは、ナガレアフのレアを切むれば、ナガラフとなれば、借 (リ) て書る字なり、(散相 [チラフ] 霧相 [キラフ] 語相 [カタラフ] など書るも同意、)さて雨雪の類の零 (ル) をも、流 (ル) と云は古語にて、集中に例多し、上にも云り、(後 (ノ) 世は水にのみいへど、古 (ヘ) はしからず、竪にも横にも、長くつゞくことには、那我流 [ナガル] といへり、)されば零 (ル) ことにも、(小松がうれゆ沫雪ながるなど云、)傳ふることにも、(妹が名は千代に流れむ、或は流 (カ) さへるおやのみことなど云、)那我流 [ナガル] と云て、みな同じこゝろばえなり、(又零ことを都多布 [ツタフ] と云こともあり、天傳ひ來る雪じものなどいふ是なり、)見者 [ミレバ] は、本の二句へかへしつゞけて意得べし、
    新大系  -結句は「流らふ見れば」と訓む通説よりは、「流れあふ見れば」と訓む次点系の訓の方が、語法的にも意味的にも遥かにすぐれている。万葉集の「しぐれ」は常に淋しく降る情景であり、視覚の景である。作者が「しぐれ」の音に耳を澄ました歌を詠むようになるのは平安時代以後である(三木雅博「聴雨考」『中古文学』1983年五月)。「一人寝る人の聞かくに神無月にはかにも降る初時雨かな」(後撰集・冬) 、「あはれにも絶えず音する時雨かなとふべき人もとはぬすみかを」(後拾遺集・冬) 「時雨、あられは、板屋」(能因本枕草子「降るものは」)。-