広瀬本万葉集の出現        新編日本古典文学全集・小学館「万葉集」のはじめに 古典への招待  

  冷泉本系の全本 


 最近(私注:1993年)発見された広瀬本万葉集は、今から二百十余年前の天明元年(1781)に写されたもので、近世初期に寛永版本が刊行されてから百四十年近くも経っている。こんなに時代の下った写本にはたして資料価値があるのだろうか、と疑われても仕方がないとも言える。
 しかし、短歌について見るに、大半が、

 石激垂見之上乃左和良妣乃毛要出春尓成来鴨  
 タルミノウヘイハソヽクタルミノウヘノサワラヒノモエイツルハルニナリニケルカモ  (巻8・1422)
のように、その訓が西本願寺本など多くの本に見られる傍訓(振り仮名)形式でなく、別掲でしかも片仮名で書かれている。この事実からまず、非仙覚本でもいろいろの種類があるが、校本万葉集・首巻の分類に従えば、その中でも第七類に当る冷泉本系にこの本が属すると判断され、また、右の歌で言えば、行間上方に「タルミノウヘ」とあるが、藤原定家が歌作の参考にするために万葉歌で重要な語句を書き抜き集めた本『万葉集佳詞』の内容とほとんど一致するいわゆる摘出語の一つであるのも冷泉本系の特色である。
 冷泉本というのは正しくは伝冷泉為頼筆本と呼ばれるもので、その巻第一だけがお茶の水図書館に現蔵されている。その書風が近世初期の冷泉家の当主為頼の筆跡に似ているというのでその名があり、冷泉本系という分類名はそれをもって代表とする古写本群をさす。
 ところが広瀬本万葉集は巻第一だけでなく、二十巻完備の全本である。前回の第一冊でも述べたが、非仙覚本は、西本願寺本で代表される仙覚本に比べて校勘資料としての価値が高いが、残念なことに、これまで全本がなかった。それに対して仙覚本は七、八種類も現存し、その大部分が全本であるが、多少の語弊を恐れずに言えば、鎌倉中期の学僧仙覚その人の校定した一元に出たものであるため、近くて兄弟関係、遠くてもいとこ同士、と言ってよい近縁関係にあり、本文・訓共に相互に似た所が多く、特筆するに足る面が少ない。それ故に、ある歌または題詞・左注などの漢文表記で写本間に異同がある場合、支持する本の数の多寡だけで決定できないことが多い。
 その点、現存量の少ない非仙覚本は総じてそれぞれ個性的で、注目すべき内容が相対的に多く見られ、断簡零墨でも発見されると珍重され、異同に関心が寄せられる。そのことからしても、今回、全巻揃った広瀬本の出現の意義の大きさが予測されるであろう。

 
  広瀬本の卓越性  


 その端的な例を示そう。筑紫の大宰府、その長官の大宰帥などの「大宰」が「「太宰」と書かれるようになったのはいつ頃からであろうか。万葉集では目録を合わせて六十四回を算するが、第一次仙覚本である寛元本の姿を伝える神宮文庫本で「太宰」五十二、「大宰」は十二、という実情である。第二次の文永本を代表する西本願寺本では「太宰」五十四と微増する。これらは書写された鎌倉期の習慣が混入・反映したのである。それらに比して広瀬本は、目録のない巻があるため総数六十となるが、そのうち五十九まで「大宰」と書かれ、唯一の例外は巻第八・1614題詞の「丹生女王贈太宰帥大伴卿歌一首」だけである。

 また非仙覚本と仙覚本とで本文が異なり、非仙覚本の字面が少数勢力であるために、仙覚本のそれに比べて支持されなかったものが、広瀬本の援護を得て発言力を増す、という例が多い。今回の第二冊に収めた巻第五〜第九の範囲を主にして示せば、巻第八の七夕歌1532が、西本願寺本や神宮文庫本などに、

    霞立天河原尓待君登伊徃還
尓裳襴所沾

とあり、今日もこの本文・訓に従っている注釈書があるが、「程」の字は類聚古集・紀州本になく、ただそれらも、訓は中古に行われていた「ユキカフホトニ」を採っている。「程」の字があるのは仙覚がその訓に合わせて加えたものと想像される。私意で本文を改めたいわゆる意改である。ところが、広瀬本には「程」の字がない。仙覚本の影響を受けていない証拠である。「此徑尓弖師(このみちにてし)」(982)、「誰尓絶多倍(たれにたゆたへ)」(1393)、「布麻越者(ぬさおかば)」(1735)などそれと軌を一にして、いずれも広瀬本に拠るべき本文である。
 しかし、時には仙覚本が逆に原形をとどめていると考えられることもある。巻第七・1152は西本願寺本などの仙覚本に、
 
    馬双而今日吾見鶴住吉之岸之黄土於万世見

とあるが、元暦校本や類聚古集などの非仙覚本には「駒双而・・・」あり、訓も「こまなめて」となっている。このような場合、一般に非仙覚本の本文が重視され、「馬双而・・・」は仙覚の意改と見なされる傾向にあり、旧全集(日本古典文学全集)本もそれを採った。これは誤りであろう。中古に至って「コマ」の語が「ウマ」に対する雅語と考えられ歌に詠まれることが多くなり、万葉集でも「内乃大野尓馬数而」(4)、「馬之歩」(1007)など、本文に「馬」とあっても「こま」と読む非仙覚本が大半を占める。右の1152で元暦校本などが「駒双而・・・」としたのは訓に合わせた意改と解すべきであろう。現に万葉集に関する限り、「馬並めて」は十二例があるが、「駒並めて」の確例はない。非仙覚本もまた意改することがある証と言えよう。実は広瀬本は「馬 而」とあって、「双」に当る字が空白になっている。広瀬本にも欠陥は少なからずあり、殊に巻第七には誤字・誤脱の類が多い。 
 広瀬本だけが正しいと言う貴重な例に次のようなものがある。西本願寺本で示せば、

    春山之開乃乎為黒尓春菜採妹之白紐見九四与四門 (巻第八・1425)

 この「乎為黒」から「すぐろの薄」という歌語が生まれ、春の焼野の焦げて黒い小すすき、などと解されていたが、賀茂真淵は「乎烏里」の誤写と見た。ヲヲリは「開乎為流」(1751)などとして見え、草木の花や枝などが茂り咲く意のヲヲルという動詞の連用形で、万葉集に九例見える。広瀬本に「乎烏里」とあるのは真淵の推定が正しかったことを証明する。
 同じく巻第八の、例のごとく西本願寺本で示せば、

    目頬布君之家有波奈須為寸穂出秋乃過良久惜母 (1605)

の第三句も、広瀬本に「皮須為寸」とありハタススキと読まれているのが正しい。ハダススキの語義はいまひとつ明らかではないが、万葉集に他に八例ある。類聚古集を含む他の全写本に「波奈」とするのは、中古の『新撰万葉集』や『古今和歌集』などに多い「花すすき」の語に結び付けた捏造本文だったのである。


  消えた古字の生き残り 


 広瀬本の他の巻々にもこの種の注目すべく拠るべき本文や訓は多く、紙幅の許す限り今後、該当箇所の頭注で指摘する予定であるが、一つだけ特記すべき本文として挙げたいのは、巻第十八・4146の歌の題詞の中の「今」の字の存在である。
 それは、大伴家持が越中国守となって四年目の夏、約一ヶ月も雨が降らず田畑の作柄が心配されていた時、雨雲の兆しを見て喜び作った長歌の題詞で、西本願寺本などでは、
 
  天平感宝元年閏五月六日以来起小旱百姓田畝稍有凋色至于六月朔日忽見雨雲之氣仍作雲歌一首

とあって、大部分の古写本に異同がない。ただ一つ無視できないの校異として京都大学本の赭の書き入れ、いわゆる京赭には、右の中程「六月」の上に「今」の字があった本の存在を示す記事がある。しかるに、広瀬本には正式に、「・・・至于今六月朔日・・・」と書かれている。巻第十七以下の四巻は家持の歌にまつわる日録と見なされているが、ここに「今六月朔日」とあることは、万葉集の幾つかあったと想像される複数の原本のうち最も古い形を示すものである。この前後には元暦校本も残っているが、それにはもう「今」がない。これは後年、家持が万葉集を編纂する際に全体的な観点から削除した二次的原本の姿を示すのでなかろうか。
 
 このように広瀬本は信頼すべき本文や形式を伝える本であるが、いかなる写本もどこかに他本にない利点を持つと同時に、誤写・誤脱などの欠陥も多少指摘されることは避け難い。まして書写年代が下がり、転写に転写を重ねていれば新たな誤りが生じる。広瀬本も長所だけを丹念に拾い集めれば、校勘価値は量り知れないばかりである。


 


  定家卿本の伝本 


 広瀬本・巻第二十の最後に、これの祖本に発すると見るべき識語がある。それは書本(書写に用いた原本)と重ねて照合すべきだが、老眼の疲労でこれが限界だ、と訴えたあとに、

   参議侍従兼伊豫権守藤 [花押]

と自署している。この「藤某」こそ藤原定家で、参議・侍従・伊豫権守の三職を同時に兼任したのは建保三年(1215)正月十三日から丸一年のうちに限られ、その時、定家は五十四歳であった。花押も自署本も『拾遺愚草』や嘉禄本『古今和歌集』などに残る彼のそれに酷似する。
 『明月記』および『吾妻鏡』によれば、建保元年十一月、定家は源実朝に父祖相伝の万葉集の写しを贈っている。後年、仙覚が校定本を作るのに参考・吸収した三箇の証本の一つに鎌倉右大臣家本の名が見える。それと広瀬本の祖で定家卿本と目されるものと姉妹関係をなすであろうと推定するのが妥当だと判断される。先に挙げた「馬双而」が非仙覚本の本文と合わず、むしろ仙覚本と一致するのは、右の事情を考えれば氷解する。広瀬本の祖本は、定家が実朝に贈ったその補いとして作った父俊成秘蔵の本の写しだったのであろう。今にして思えば、これが「冷泉本」系と呼ばれる一つであることは偶合だが、この中の摘出語が定家撰の『万葉集佳詞』と合うのは当然過ぎることであった。
  甲斐の国学との関係 


 この本は巻第一と第二というふうに二巻ずつ合冊された十冊本であるが、巻第十九と第二十とは前後逆に綴じられている。その巻第十九の尾題のあとに、
   天明元年十二月二十四日調 梨園 春日昌預
と書かれている。この春日昌預がいかなる人かについて調査し教示してくださったのは山梨郷土研究会の吉田英也・飯田文彌の両氏である。それによれば、昌預は寛延四年(1751)に生まれ、長年、甲府町年寄を勤め、八十六歳で没した本姓山本金左衛門という人で、春日はその遠祖高坂弾正の別姓を称したものである。昌預は多忙な公務に携るかたわら各種古典の筆写に努め、また数多くの詠草を残した。
 広瀬本にはその周辺の甲斐の国学者たちの書き入れが多いが、その代表格で署名もある人は萩原元克である。元克は昌預より二歳年長で、昌預の実父加藤竹亭(春日翼)らと共に郷土の学者加賀美光章に学び、後年本居宣長に入門し、『道のしほり』『甲斐国名勝志』などを著す。広瀬本はこの萩原元克を主軸に、そして春日昌預は全体を統括する立場で、両人に親しい人々の協力を得て筆写されたものではなかろうか。

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