私観大伴家持 

 私が、大伴宿禰家持のことを、強く意識したのは最近のことだ(2013年3月)。それまでは、万葉集編纂に関わった中心人物、と言う程度の認識しかなかった。 しかも多くの相聞歌を残し、その殆どが今で言うプレイボーイ然とした「男」、名門氏族の驕りを見せ付ける。
 このような男でも、歌の世界では重宝がられるのか、と一種の嫉みのような気持ちもあった。
 しかし、私のそんな家持観を一転させた女性がいた。それは笠女郎。 この女性については、公式な記録は伝わらない。いや公式なというだけではなく、他にも伝わるものがない。唯一万葉集に、彼女が詠った計二十九首が載せられ、それがすべて大伴家持へ贈った歌であること。それを知るのみだ。
 その歌の悲痛さは、大伴家持との悲恋を思わせるに十分な内容のものだが、そこで初めて家持のことを知る。通説では、いっときは恋仲になっただろうが、やがて女性の方が振られてしまう、そんな説になっている。この女性に家持が贈った歌は、僅か二首。彼女の二十九首に比して、あまりの少なさに、通説のような見方になるのも理解できる。しかしその二首が、簡単に二人の関係を物語りはしない。そこには、家持の悲痛が詠われている。笠女郎と別れた後に贈った二首とある。
 別れて尚も贈らなければならなかった二首...
 

    (笠女郎贈大伴宿祢家持歌廿四首)大伴宿祢家持和歌二首
今さらに妹に逢はめやと思へかもここだ我が胸いぶせくあるらむ 614
なかなかに黙もあらましを何すとか相見そめけむ遂げざらまくに 615
  巻第四  相聞

 
 天皇代別大伴家持詠歌年表及び年譜 (大伴家持、718年~785年)     家持在所   歌 数
   元正 霊亀元年(715年)~養老八年(724年)  平城(奈良)  平城  0
   聖武 神亀元年(724年)~天平二十一年(749年)  平城・難波・恭仁(一時期三都)  筑紫・三都・越中  170首
   孝謙 天平感宝元年(749年)~天平宝字二年(758年)  平城  越中  227首
   淳仁 天平宝字二年(758年)~天平宝字八年(764年)  平城  1首
   称徳(孝謙重祚) 天平宝字八年(764年)~神護景雲四年(770年)  平城  不明
   光仁 宝亀元年(770年)~天応元年(781年)  平城  不表
   桓武 天応元年(781年)~延暦二十五年(806年)  平城~長岡京(784)~平安京(794)  不明
   平城 大同元年(806年)~大同二年(807年)  平安京  0
 巻別年紀不詳の大伴家持詠歌、目録より      歌 数
   巻第三  3首
   巻第四  42首
   巻第八  26首
   巻第十六  2首
 運命を背負った大伴家持      


 天皇 年号  西暦  家持(及び関係者)年譜(年齢、数え年) 家持詠歌  万葉集を中心とした時代背景 
 元正  養老
二年
718年 (家持1歳)
家持生れる。父・大伴旅人、母・丹比朗女。
【2月】大伴旅人、中納言。
  1月、越前国より能登国を、上総国より安房国を分立。
3月、長屋王、大納言となる。
9月、元興寺を新京(平城)に移す。藤原武智麻呂、式部卿。
11月、僧徒の村里出入を禁止。
12月、遣唐使多治比県守帰国。道慈帰国し、金光明最勝王経を請来。
この年、藤原不比等ら養老律令を修訂する。薬師寺を平城に移す。
   三年 719年 (家持2歳)
【9月】大伴旅人、山背国摂官。
  5月、越前国より能登国を、上総国より安房国を分立。
6月、皇太子、はじめて朝政をきく。
7月、初めて按察使を置く。
常陸国守藤原宇合、備後国守大伴宿奈麻呂、伊予国守高安王ら、按察使。
10月、僧徒の村里出入を禁止。
同月、新田部親王、舎人親王皇太子の輔翼をつとめる。
12月、道慈帰朝。
   四年 720年 (家持3歳)
【3月】大伴旅人、征隼人持節大将軍。
【8月】大伴旅人、帰京を命ぜられる。
  2月、隼人反して大隈国守を殺す。農民対策を決定。
5月、舎人親王ら日本書紀三十巻、系図一系を撰進。
8月、藤原不比等薨。
同月、舎人親王知太政官事。新田部親王知五衛及び授刀舎人事。
9月、蝦夷叛乱し按察使を殺す。多治比県守を持節征夷将軍に任ずる。
同月、阿倍駿河、持節鎮狄将軍となる。
10月、石川君子兵部大輔。
   五年 721年 (家持4歳)
【正月】大伴旅人、正三位。
  正月、長屋王、従二位右大臣に、藤原房前正三位に、藤原宇合、正四位となる。
正月、学識者、春宮に侍する。宇合、常陸国守離任。
正月、佐為王・山上憶良ら退朝後、東宮(後の聖武)に侍することを命ぜられる。
正月、県犬養橘三千代、正三位となる。
5月、笠麻呂、出家し沙弥満誓と号する。
6月、按察使制を整備。
同月、藤原麻呂左右京大夫。諏訪国を置く。
9月、井上女王を斎内親王とす。
10月、参議藤原房前兼内臣。
12月、元明太上天皇崩御。
   六年 722年 (家持5歳)   正月、穂積老、天皇を批判した罪に拠り佐渡国に流される。
2月、衛士仕丁ら三年交替となる。
同月、安倍広庭参議。
閏4月、良田一百万町開墾案成る。
7月、民間の宗教運動たかまる。
   七年 723年 (家持6歳)   2月、満誓、造筑紫観世音寺別当となる。
4月、三世一身の法を施行。
5月、吉野離宮行幸(巻第六笠金村作)。隼人風俗の歌舞を奏上。
7月、太安万侶歿。
この年以前に常陸国風土記成る。
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 聖武  神亀
元年
724年 (家持7歳)   正月、出雲国造、出雲広島、神賀辞を奏す。
2月、天皇即位、改元。長屋王、正二位左大臣。藤原房前、正三位となる。
3月、吉野離宮行幸。
同月、海道の蝦夷反し、宇合を持節大将軍に任ずる。
5月、薩妙観に河上忌寸、吉宜に吉田連、楽浪河内に高丘連、答本陽春に麻田連賜姓。
7月、長屋王宅の七夕の宴。山上憶良の歌。
10月、紀伊国行幸(巻第六赤人作)。
   二年 725年 (家持8歳)   5月、吉野離宮行幸(巻第六赤人・金村作)。
7月、国家の平安を祈り、金光明経・最勝王経を読ます。
9月、災異を除くため三千人を出家さす。
10月、難波宮行幸(金村作)。
山上憶良、「倭文たまき」の歌を作る。
   三年 726年 (家持9歳)   9月、文人112人詩賦。
9月15日、播磨国印南野行幸(『続日本紀』には10月7日行幸とある) 
10月、藤原宇合、知造難波宮事となる。
この年、
山上憶良、筑前守か。行基、山崎の橋を造る。
   四年 727年 (家持10歳)
大伴旅人、大宰帥。
  正月、諸王・諸臣子ら、授刀寮に散禁される。
2月、巡察使を派する。
同月、難波宮を造営。
5月、三香原離宮行幸。
閏9月、基王誕生。
10月、阿倍広庭、中納言となる。
11月、基親王、皇太子にたてる。
  五年 728年 (家持11歳)
【4月】大伴旅人妻・大伴朗女死去。
【5月】勅使を大宰府に派遣し、喪を弔う。
【6月23日】大伴旅人「凶問に報ふる歌」。
【9月】大伴旅人、大宰府官人らと香椎宮を拝み、香椎の浦で作歌。
大伴旅人、吉野離宮を思う歌、吹田温泉で鶴が音を聞く歌。
  3月、天皇鳥池塘に宴を催す。文人ら曲水の詩を賦す。
5月、長屋王、大般若経六百巻を書写。
7月21日、山上憶良、筑前国守として部内を視察中、嘉摩郡において「日本挽歌」「惑へる情を反さしむる歌」など選定。

同月、藤原武智麻呂播磨守兼按察使。
8月、石上乙麻呂、越前国守に任ぜられる。
同月、初めて内匠寮・中衛府を置く(令外官)。
9月、基王歿。
12月、国家の平安を祈り金光明経六十四帖六百四十巻を諸国に頒布転読さす。
難波宮行幸(金村歌集)大宰少弐石川足人遷任。
   天平
元年
729年 (家持12歳)
【10月】大伴旅人、倭琴を藤原房前に贈るに当って書簡と歌とを添える。
【11月】藤原房前、大伴旅人に返歌を贈る。
  2月、長屋王、謀反の罪により自尽させられる。漆部君足ら密告。
3月、藤原武智麻呂、大納言となる。
同月、口分田の全般的再分割制を決定。
4月、異端・幻術・呪詛など禁止。
6月、背に「天王貴平知百年」とある亀を献上。
7月、山上憶良、七夕の歌を作る。
8月、改元。光明を皇后に冊立。
9月、葛城王左大弁。藤原房前中務卿。
11月、京畿の班田司を任命。
   二年 730年 (家持13歳)
【正月13日】梅花歌三十二首。
【4月6日】大伴旅人、在京の吉田宜に梅花歌・松浦川に遊ぶ序を含む書簡を贈る。
【6月】大伴旅人、重態。
【7月】大宰帥大伴旅人宅の七夕の歌。吉田宜、旅人に返書。
【10月】大伴旅人、大納言。
【11月】大伴坂上郎女、大宰府出発。
【12月】大伴旅人、上京。
  3月、天皇松林宮に宴を催す。文章生曲水の詩を賦す。
4月、皇后宮職に施薬院を設置。婦女の旧衣服を改め、新様とする。
同月、光明子の発願により興福寺五重塔を建立。
9月、諸国防人を停止。
同月、大納言丹治比池守歿、
同月、京、諸国に盗賊多し。
同月、行基ら春日大社で連日集会を開く。
同月、安芸・周防でも宗教運動拡がる。
凶作。
   三年 731年 (家持14歳)
【正月】大伴旅人、従二位。
【7月15日】大伴旅人歿、享年67。
  3月、諏訪国を廃す。
6月12日、大伴君熊凝死。
8月、藤原宇合・藤原麻呂・葛城王ら参議となる。
同月、行基らへの宥和策をうちだす。
同月、諸国の推挙による方式で参議六名を任命。
9月9月、藤原武智麻呂、大宰帥を兼任。
11月、畿内に惣管、諸道に鎮撫使を置く。新田部親王大惣管、藤原宇合副惣管、藤原麻呂山陰道鎮撫使。
この年聖武天皇、
宸翰雑集成る。
   四年 732年 (家持15歳)
【3月】大伴坂上郎女、佐保の宅において呼子鳥の作歌。
  正月、多治比県守中納言。
2月、中納言阿倍広庭歿。
3月、知造難波宮事藤原宇合ら、功成り褒賞を受ける。
8月、多治比広成を遣唐大使に任命(翌年4月、難波を出発)。
8月、藤原房前を東海東山道、多治比県守を山陰道、
藤原宇合を西海道節度使として派遣。この年、山上憶良上京か。
   五年 733年 (家持16歳)
6-999  正月、県犬養橘三千代歿。
2月、出雲国風土記成る。
3月1日、遣唐大使多治比広成、山上憶良を訪ねる。

同3日、憶良「好去好来の歌」を作る。
4月、遣唐使、難波津を出発。
6月、憶良「老いたる身に病を重ね、年を経て辛苦み、また児等を思ふ歌」を作。
「沈痾自哀文」、沈痾の時の歌「士やも空しくあるべき」もこの前後に成るか。
憶良この後、幾ばくもなく卒か。
この年、良弁奈良羂索院(金鐘寺)建立(東大寺の前身)。
この頃、
肥前国風土記、豊後国風土記成るか。
大伴宿祢家持初月歌一首  (万葉集中、家持作の年紀のほぼ明らかな最初の歌)
 【
999
  六年 734年 (家持17歳)   正月、藤原武智麻呂、右大臣となる。
2月、朱雀門の歌垣。
3月、難波宮行幸(赤人作歌)。
4月、大地震。
11月、遣唐使多治比広成・下道真備・僧玄昉ら、種子島に漂着、帰国。
   七年 735年 (家持18歳)
  3月、多治比広成入京。
4月、下道真備、僧玄昉ら帰朝。
真備は、唐礼、太衍暦、楽書要録等を献上。
僧玄昉は、仏像、経論五千余巻を献上。
5月、入唐使請益秦大麿、問答六巻を献上。
8月、大宰府管下の諸国に疫病流行。
9月、新田部皇子歿。
11月、舎人皇子歿。
この年、天然痘流行し、死去する者多し。
  八年 736年 (家持19歳)
【2月】大伴三中遣新羅副使。
8-1570~73 2月、阿倍継麻呂を遣新羅大使に任命。
同月、浮浪人対策。
3月、三香原離宮行幸。
4月、遣新羅大使継麻呂ら拝朝。
6月、遣新羅使人の一行、難波を出発。
同27日、吉野離宮行幸(赤人作、赤人詠年代の明らかな最後の歌)。
11月、葛城王ら臣籍に下り、橘氏の姓を賜る。
12月、歌舞所の宴歌。
【9月】大伴家持秋歌四首。
 【
1570~1573】(右四首天平八年丙子秋九月作)
   九年 737年 (家持20歳)
【4月】大伴坂上郎女、逢坂を越え来る歌。




 
  正月、遣新羅使大判官壬生宇太麻呂ら帰国、入京。
大使阿倍継麻呂は、帰途、対馬にて客死。
副使大伴三中は病を得て、遅れて帰国、入京。
遣新羅使人ら、新羅国のわが使いの旨を受け付けざることを報告。
朝廷は五位以下の官人を召集し、新羅対策を協議。
同月、藤原麻呂陸奥持節大使。
2月、新羅討伐論起こる。
3月、国ごとに釈迦三尊像を造らせ、大般若経を書写さす。
4月、房前歿。大宰諸国大疫。
6月、長田王歿。多治比県守歿。
7月、麻呂歿。武智麻呂歿。
8月、宇合歿。橘佐為歿。水主内親王歿。

同月、多治比広成参議。玄昉、僧正となる。
9月、橘諸兄、大納言となる。多治比広成中納言。
同月、防人を本郷に帰し筑紫人を充てる。

同月、私出挙稲を禁止。
同月、鈴鹿王を知太政官事に。
12月、藤原豊成参議。
大倭国を改め大養徳国とする。
この春疫瘡大流行、夏から秋にかけて死者多数。
  十年 738年 (家持21歳)
【7月】大伴子虫、長屋王を誣告した中臣東人を惨殺する。
17-3922
8-1595
正月、阿倍内親王(孝謙)立太子。
同月、橘諸兄、正三位右大臣となる。石上乙麻呂左大弁。
2月、国分二寺についての詔。
5月、諸国の健児を停止。
橘諸兄伊勢神宮神宝使。
7月、大伴子虫、長屋王を誣告した中臣宮処東人を惨殺する。
同月、西池宮で真備・諸才子梅樹を詠ずる詩を賦す。
8月、諸国に国郡の図を進上させる。

10月、橘諸兄旧宅において橘奈良麻呂集宴。

同月、巡察使を派す。
12月、藤原広嗣、大宰少弐となる。
【7月7日】十年七月七日之夜獨仰天漢聊述懐一首
 【
3922】右一首大伴宿祢家持作

【10月】橘朝臣奈良麻呂結集宴歌十一首
 【
1595】右一首内舎人大伴宿祢家持 / 以前冬十月十七日集於右大臣橘卿之舊宅宴飲也
  十一年 739年 (家持22歳)
【4月】大伴牛養、参議。
【6月】大伴家持の愛妾死去。
3-465、467
3-468~477
8-1623
8-1629
8-1630
3月、石上乙麻呂、久米若売に姧け土佐に、若売は下総に配流。
同月、再度甕原宮行幸。
4月、高安王、桜井王に、大原真人賜姓。
同月、多治比広成歿。
6月、諸国兵士制を停止。
同月、天皇、高円野で遊猟(巻第六坂上郎女)。
7月、渤海使来朝。
10月、天平五年入唐使、判官平群広成入京。
12月、渤海使朝廷に国書・貢物を献上。
 
【6月】十一年己卯夏六月大伴宿祢家持悲傷亡妾作歌一首
 【
465
又家持見砌上瞿麦花作歌一首【
467
移朔而後悲嘆秋風家持作歌一首【
468
又家持作歌一首[并短歌]【
469~472
悲緒未息更作歌五首【
473~477
【8月】大伴家持至姑坂上郎女竹田庄作歌一首
 【
1623】(右二首天平十一年己卯秋八月作)
【9月】大伴宿祢家持報贈歌一首
 【
1629】(右三首天平十一年己卯秋九月徃来)
【同月】又報脱著身衣贈家持歌一首
 【
1630】右三首天平十一年己卯秋九月徃来
  十二年 740年 (家持23歳)
8-1631、1632
6-1033
6-1036、1037
6-1039、1040
2月、難波宮行幸、知識寺の廬舎那仏を拝する。
5月、諸兄の相楽別業に赴く。
6月、大赦(
石上乙麻呂、中臣宅守らは対象外)。
8月、和泉監を河内国に併合。
9月、大宰府で大宰少弐藤原広嗣謀反。
10月23日、大野東人を大将軍に任じ、鎮圧。
藤原広嗣逮捕。
同29日、天皇、関東へ行くと告げて離京。以後五年間平城に戻らず。
11月1日、藤原広嗣斬刑。

翌2日、天皇、河口の行宮に着く(家持作)。【巻第六・1033】
12月15日、天皇、伊賀・伊勢・美濃・近江を経て恭仁京に着く。都城造営着手。
【6月】大伴宿祢家持攀非時藤花并芽子黄葉二物贈坂上大嬢歌二首
 【
1631、1632】右二首天平十二年庚辰夏六月徃来
【10月】十二年庚辰冬十月依大宰少貳藤原朝臣廣嗣謀反發軍 幸于伊勢國之時河口行宮内
 【
1033
【10月】十二年庚辰冬十月依大宰少貳藤原朝臣廣嗣謀反發軍 幸于伊勢國之時
 【
1036、1037、1039、1040
  十三年 741年 (家持24歳)
【12月】大伴稲公、因幡守。

17-3933~35
4-768、70、71
4-772
4-773~777
8-1468
8-1633、1634
8-1635
8-1636
4-778
4-780~784
4-786~788
4-789~793
8-1639
正月、恭仁京で新年の朝賀を受ける。
2月、国分二寺に関する条例。
同月、牛馬の屠殺を禁止。
閏3月、五位以上の官人の平城京居住を禁ずる。
5月、常額の衛士のほかに衛士千人を徴発。
7月、下道真備東宮学士、藤原仲麻呂民部卿、橘奈良麻呂大学頭、紀清人治部大輔兼文章博士。
8月、平城の二市を恭仁京に移す。
9月、巨勢奈氐麻呂、智努王造宮卿。
10月、畿内、諸国の優婆塞らを造都に使役。
同月、行基、泉橋寺を建立。
11月、勅して新京を「大養徳恭仁大宮」と定める。
12月、安房国を上総国に復帰させ、能登国を越中国に併合させる。





 
【4月3日】橙橘初咲霍公鳥飜嚶 對此時候タ不暢志 因作三首短歌以散欝結之緒耳
 【
3933~3935】右四月三日内舎人大伴宿祢家持従久邇京報送弟書持
在久邇京思留寧樂宅坂上大嬢大伴宿祢家持作歌一首 【
768
大伴宿祢家持更贈大嬢歌二首 【
770、771
大伴宿祢家持報贈紀女郎歌一首 【
772
大伴宿祢家持従久邇京贈坂上大嬢歌五首 【
773~777
大伴家持贈坂上大嬢歌一首 【
1468
大伴宿祢家持贈坂上大嬢歌一首[并短歌] 【
1633、1634
大伴宿祢家持贈安倍女郎歌一首 【
1635
大伴宿祢家持従久邇京贈留寧樂宅坂上大娘歌一首 【
1636
以下紀年(~天平十六年)が明白ではないが、推測できるもの

大伴宿祢家持贈紀女郎歌一首 【778
大伴宿祢家持更贈紀女郎歌五首 【
780~784
大伴宿祢家持贈娘子歌三首 【
786~788
大伴宿祢家持報贈藤原朝臣久須麻呂歌三首 【
789~793
尼作頭句并大伴宿祢家持所誂尼續末句等和歌一首 【
1639
  十四年 742年 (家持25歳)   正月、大宰府を廃止。
2月、天皇大安殿で五節田儛と少年童女の踏歌を見る。
同月、天皇金字の金光明最勝王経を書写し、諸国に分つ。
5月、采女を郡ごとに一人貢進させる。
8月、紫香楽宮を造営。智努王、高丘河内ら造離宮司。紫香楽宮行幸。
9月、巡察使を派遣。京畿内の班田使を任命。
10月、塩焼王と女孺五人を獄す。
同月、田籍を造る。
11月、大野東人歿。
12月、大原高安歿。
同月、紫香楽宮行幸。
  十五年 743年 (家持26歳)
8-1601~03
8-1606、1607
6-1041
6-1044
8-1609
正月、紫香楽宮より還幸。
2月、佐渡国を越後国に併合。
5月、恭仁京で皇太子五節を舞う。橘諸兄、従一位左大臣となる。
同月、藤原豊成従三位中納言、仲麻呂を参議に起用。
同月、三世一身の法を廃し、墾田永年私財法施行。
同月、恭仁京にて、皇太子五節舞いをまう。
7月、紫香楽宮行幸。
10月、大仏発願の詔、行基弟子らを率いて衆庶を勧誘。
12月、恭仁京造営中止。
同月、筑紫に鎮西府を置く。
【8月】大伴宿祢家持秋歌三首
 【
1601~1603】右天平十五年癸未秋八月見物色作
【同月16日】大伴宿祢家持鹿鳴歌二首
 【
1606、1607】右二首天平十五年癸未八月十六日作
【同日】十五年癸未秋八月十六日内舎人大伴宿祢家持讃久邇京作歌一首 【
1041
安積親王宴左少辨藤原八束朝臣家之日内舎人大伴宿祢家持作歌一首 【
1044
大伴宿祢家持歌一首 【
1609
  十六年 744年 (家持27歳)
6-1047
3-478~483
17-3938~43
閏正月、百官に、恭仁、難波いずれを都とすべきか下問。恭仁京から駅鈴や天皇印、高御座などを取り寄せる。
同月、難波宮行幸。
同月、安積親王歿、年十七歳。
2月24日、天皇独り紫香楽宮行幸。
同月26日、左大臣橘諸兄、難波を皇都とするが、庶民は自由に居住往来してよい、との勅を代読する。
4月、紫香楽宮の西北の山に火。
同月、造兵、鍛冶の二司を廃止。
5月、肥後国に地震、大雨。
7月、天皇、紫香楽より、難波宮に還幸。
同月、元正太上天皇智努離宮、仁岐河行幸。
9月、巡察使を畿内七道に派遣。
10月、道慈示寂。国司と土豪との通婚を禁止。
同月、元正太上天皇珍努、竹原井離宮行幸。
同月、光明皇后、楽毅論を写す。
11月、甲賀寺に廬舎那仏像の体骨柱を建てる。
【正月11日】同月十一日登活道岡集一株松下飲歌二首
 【
1047】右一首大伴宿祢家持作
【2月3日】十六年甲申春二月安積皇子薨之時内舎人大伴宿祢家持作歌六首
 【
478~480】右三首二月三日作歌
【3月24日】十六年甲申春二月安積皇子薨之時内舎人大伴宿祢家持作歌六首
 【
481~483】右三首三月廿四日作歌
【4月5日】十六年四月五日獨居平城故宅作歌六首
 【
3938~3943】右六首歌者天平十六年四月五日獨居於平城故郷舊宅大伴宿祢家持作
 
  十七年 745年 (家持28歳)
【正月】大伴家持・大伴古麻呂、従五位下。
 
  1月、行基、大僧正となる。
4月、紫香楽宮の周辺で山火頻々。地震。
5月2日、官人僧侶らの意見が平城還都に一致。
同月6日、天皇、恭仁京に還幸。
同月10日、市人平城に大移動。
同月11日、天皇、平城に帰京。甲賀寺での造仏挫折。

6月、鎮西府を廃し大宰府を復活。
8月、難波京に行幸。滞在中、天皇重病となり、一時危篤状態に陥ったが平癒し、同月、大養徳国の国分寺金光明寺(金鐘寺)に大仏の造立を開始。
9月、知太政官事鈴鹿王歿。
同月、皇嗣問題をめぐり橘奈良麻呂ら密謀。
11月、玄昉筑紫へ左遷、観世音寺を造らす。
この年大官大寺を大安寺と改める。
 
  十八年 746年 (家持29歳)
【3月】大伴家持、宮内少輔。
【6月】大伴家持、越中国守。
【閏7月】大伴家持、越中国守に赴任。

17-3948
17-3965、69、
17-3970、72、
17-3975、76

17-3979、80、81
17-3982、3983
3月、藤原仲麻呂式部卿。橘奈良麻呂民部大輔。
4月、橘諸兄兼大宰帥。藤原豊成ら鎮撫使。
6月、玄昉歿。
同月、藤原宿奈麻呂越前守。
10月、天皇、元正太上天皇、皇后、金鐘寺(東大寺)行幸。廬舎那仏供養。
同月、下道真備に吉備朝臣賜姓。
12月、七道の鎮撫使を停止。京畿内、諸国の兵士制復活。凶作。
【正月】天平十八年正月白雪多零積地數寸也 於時左大臣橘卿率大納言藤原豊成朝臣及諸王諸臣等参入太上天皇御在所 [中宮西院]供奉掃雪 於是降詔大臣参議并諸王者令侍于大殿上諸卿大夫者令侍于南細殿 而則賜酒肆宴勅曰汝諸王卿等聊賦此雪各奏其歌
 【
3948
【8月7日】大伴家持赴任一月、館集い宴
 【
3965、3969、3970、3972、3975、3976
【9月25日】哀傷長逝之弟歌一首[并短歌]
 【
3979~3981】右天平十八年秋九月廿五日越中守大伴宿祢家持遥聞弟喪感傷作之也
【11月】相歡歌二首 越中守大伴宿祢家持作
 【
3982、3983】右以天平十八年八月掾大伴宿祢池主附大帳使赴向京師 而同年十一月還到本任 仍設詩酒之宴弾絲飲樂 是日也白雪忽降積地尺餘 此時也復漁夫之船入海浮瀾 爰守大伴宿祢家持寄情二眺聊裁所心
  十九年 747年 (家持30歳)
【5月】大伴家持、税帳使として上京。
17-3984~88
17-3991~94
17-3999~01
17-4002~06
17-4007、08
17-4009~11
17-4012
17-4013、14
17-4015、16
17-4019、21
17-4024~26
17-4030、31
17-4035~39
正月、天皇寝膳違和により大赦。
2月、法隆寺、大安寺、元興寺の縁起并流記資財帳成る。
3月、大養徳国を改め大倭国とする。
同月、光明皇后、天皇の病平癒を祈り新薬師寺を建立。
8月、越中国の土豪砺波臣志留志、米三千石硯を廬舎那仏の知識に奉る。
9月、東大寺の大仏像の鋳造を開始。
11月、天皇、国分寺の造営を督励。田地を寄進。








 
【2月20日】忽沈枉疾殆臨泉路 仍作歌詞以申悲緒一首[并短歌]
 【
3984~3988】右天平十九年春二月廿日越中國守之舘臥病悲傷聊作此歌
【3月3日】更贈歌一首[并短歌] / 含弘之徳垂恩蓬体不貲之思報慰陋心 載荷<来眷>無堪所喩也
 【
3991~3994】三月三日大伴宿祢家持
【3月5日】昨暮来使幸也以垂晩春遊覧之詩 今朝累信辱也以フ相招望野之歌 一看玉藻稍寫欝結二吟秀句已ニ愁緒 非此眺翫孰能暢心乎 但惟下僕禀性難彫闇神靡塋 握翰腐毫對研忘渇終日目流綴之不能 所謂文章天骨習之不得也 豈堪探字勒韻叶和雅篇哉 抑聞鄙里少兒 古人言無不酬 聊裁拙詠敬擬解咲焉 [如今賦言勒韵同斯雅作之篇 豈殊将石間瓊唱聲遊<走>曲歟 抑小兒譬濫謡 敬寫葉端式擬乱曰] / 七言一首 / <杪>春余日媚景麗 初巳和風拂自軽 / 来燕ヘ泥賀宇入 歸鴻引廬迥赴瀛 / 聞君<嘯>侶新流曲 禊飲催爵泛河清 / 雖欲追尋良此宴 還知染懊脚レイテイ
 【
3999,4000、4001】三月五日大伴宿祢家持臥病作之
【3月20日】述戀緒歌一首[并短歌]
 【
4002~4006】右三月廿日夜裏忽兮起戀情作 大伴宿祢家持
【3月30日】二上山賦一首 [此山者有射水郡也]
 【
4009~4011】右三月卅日依興作之 大伴宿祢家持
【4月16日】四月十六日夜裏遥聞霍公鳥喧述懐歌一首
 【
4012】右大伴宿祢家持作之
【4月20日】大目秦忌寸八千嶋之舘餞守大伴宿祢家持宴歌二首
 【
4013、4014】右守大伴宿祢家持以正税帳須入京師 仍作此歌聊陳送別之嘆 [四月廿日]
【同月24日】遊覧布勢水海賦一首[并短歌] [此海者有射水郡舊江村也]
 【
4015、4016】右守大伴宿祢家持作之 [四月廿四日]
【同月26日】四月廿六日掾大伴宿祢池主之舘餞税帳使守大伴宿祢家持宴歌并古歌四首
 【
4019】右一首大伴宿祢家持作之
 【
4021】右一首守大伴宿祢家持和
【同日】守大伴宿祢家持舘飲宴歌一首[四月廿六日] 【
4023
【同月27日】立山賦一首[并短歌] [此山者有新川郡也]
 【
4024~4026】四月廿七日大伴宿祢家持作之
【同月30日】入京漸近悲情難撥述懐一首并一絶
 【
4030、4031】右大伴宿祢家持贈掾大伴宿祢池主 四月卅日
【9月26日】思放逸鷹夢見感悦作歌一首[并短歌]
 【
4035~4039】右射水郡古江村取獲蒼鷹形容美麗鷙雉秀群也於時養吏山田史君麻呂調試失節野猟乖候摶風之翅高翔匿雲腐鼠之餌呼留靡驗於是張設羅網窺乎非常奉幣神祇恃乎不虞也粤以夢裏有娘子喩曰使君勿作苦念空費精神放逸彼鷹獲得未幾矣哉須叟覺寤有悦於懐因作却恨之歌式旌感信守大伴宿祢家持 [九月廾六日作也]
  二十年 748年 (家持31歳)
 
17-4041~4044
17-4045~4053
17-4054~4055
18-4061、
18-4067~69
18-4078、79、
18-4087、4088
18-4090、92
18-4072、75
18-4094~96
18-4100~03
18-4106~08
3月、藤原豊成大納言。
4月、元正太上天皇歿、年六十九歳。
8月、釈奠の服器及び儀式を改める。
同月、天皇、葛井広成宅行幸。















 
【正月29日】
4041~4044】右四首天平廿年春正月廿九日大伴宿祢家持
【3月】
 礪波郡雄神河邊作歌一首【
4045
 婦負郡渡鵜坂河邊時作一首【
4046
 見潜鵜人作歌一首【
4047
 新川郡渡延槻河時作歌一首【
4048
 赴参<氣>太神宮行海邊之時作歌一首【
4049
 能登郡従香嶋津發船射熊来村徃時作歌二首【
4050、4051
 鳳至郡渡饒石川之時作歌一首【
4052
 従珠洲郡發船還太沼郡之時泊長濱灣仰見月光作歌一首
  【
4053】右件歌詞者 依春出擧巡行諸郡 當時當所属目作之 大伴宿祢家持
怨鴬晩哢歌一首【
4054
造酒歌一首【
4055】右大伴宿祢家持作之 
【3月16日】越前國掾大伴宿祢池主来贈歌三首 / 以今月十四日到来深見村 望拜彼北方常念芳徳 何日能休 兼以隣近忽増戀 加以先書云 暮春可惜 促膝未期 生別悲<兮> 夫復何言臨紙悽断奉状不備 / 三月一五日大伴宿祢池主 / 一 古人云
 【
4100~4103】三月十六日 
【3月24日】天平廿年春三月廾三日左大臣橘家之使者造酒司令史田邊福麻呂饗于守大伴宿祢家持舘爰作新歌并便誦古詠各述心緒 
于時期之明日将遊覧布勢水海仍述懐各作歌
 【
4061】右一首守大伴宿祢家持 ( / 前件十首歌者廿四日宴作之 )
 【
4067】右一首大伴宿祢家持和之 / 前件十首歌者廿四日宴作之
【3月25日】廿五日徃布勢水海道中馬上口号二首
 【
4068、4069】(前件十五首歌者廿五日作之)
【同日】至水海遊覧之時各述懐作歌
 【
4072】右一首大伴家持 ( / 前件十五首歌者廿五日作之)
 【
4075】右一首大伴家持 / 前件十五首歌者廿五日作之
【3月26日】掾久米朝臣廣縄之舘饗田邊史福麻呂宴歌四首
 【
4078、4079】右二首大伴宿祢家持 / 前件歌者廿六日作之
【4月1日】四月一日掾久米朝臣廣縄之舘宴歌四首
 【
4090】右一首守大伴宿祢家持作之
 【
4092】右一首守大伴宿祢家持作之

詠庭中牛麦花歌一首
 【
4094】右先國師従僧清見可入京師 因設飲饌饗宴 于時主人大伴宿祢家持作此歌詞送酒清見也
 【
4095】右郡司已下子弟已上諸人多集此會 因守大伴宿祢家持作此歌也
 【
4096】右此夕月光遅流和風稍扇 即因属目聊作此歌也
 
後追和橘歌二首 【
4087、4088】右二首大伴宿祢家持作之
 
【4月4日】越中守大伴宿祢家持報歌并所心三首 【4106~4108】右四日附使贈上京師
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 孝謙 天平
勝宝
元年
749年 (家持32歳)
【4月】大伴家持、従五位下から、従五位上。
この少し前、大伴坂上大嬢、越中国へ下向したか?





 
18-4109、10
18-4112
18-4113~16
18-4117
18-4118~21
18-4122~24
18-4125~29
18-4130~33
18-4134
18-4135、4136
18-4137~39
18-4140~42
18-4143
18-4144、4145
18-4146、4147
18-4148
18-4149~51
18-4158
18-4159
正月、天皇・皇后、大僧正行基を招いて受戒。
同月、官人の妻子多く飢乏し給米。
2月、行基、菅原寺にて寂滅、年八十二歳。
同月、朝廷の路頭に屡匿名の書を投ず。
同月、陸奥国より初めて産出した黄金を献ずる。
4月1日、天皇、東大寺に幸し、鋳造中の廬舎那仏に産金を報告、感謝すると共に、国民に喜びを分つ詔を発する。天皇自らを「三宝の奴」と称す。諸臣の位階を昇叙させ、橘諸兄は正一位に、藤原豊成は大納言から右大臣に、などとし、大伴家持は従五位下から従五位上となる。
同月14日、天平二十一年を天平感宝元年と改元。
閏5月、橘奈良麻呂侍従。天皇薬師寺に遷御、御在所とする。
7月、聖武天皇譲位、孝謙天皇即位(阿倍内親王)。
同月2日、天平感宝元年を天平勝宝元年と改元。
8月、藤原仲麻呂、大納言兼紫微令となる。藤原奈良麻呂、参議になる。
同月、大隈、薩摩の隼人、土風の歌舞を奏す。
9月、紫微中台の官制施行。
10月、東大寺大仏の本体の鋳造完了。河内知識寺行幸。
11月、大嘗。大郡宮遷御。八幡大神の託宣、石川年足・藤原魚名迎神使。
12月、東大寺行幸。大唐、渤海の呉楽、五節田舞、久米舞を奏す。
この年、奈良麻呂らクーデタの謀議を重ねる。










 
【5月5日】天平感寶元年五月五日饗東大寺之占墾地使僧平榮等 于守大伴宿祢家持送酒僧歌一首 
 【
4109
【5月9日】同月九日諸僚會少目秦伊美吉石竹之舘飲宴 於時主人造白合花縵三枚疊置豆器捧贈賓客 各賦此縵作三首
 【
4110】右一首守大伴宿祢家持
 【
4112】右一首大伴宿祢家持[和]
【 同月10日】獨居幄裏遥聞霍公鳥喧作歌一首[并短歌]
 【
4113~4116】右四首十日大伴宿祢家持作之 
(行英遠浦之日作歌一首)【
4117】右一首大伴宿祢家持作之
 
【同月12日】賀陸奥國出金詔書歌一首[并短歌]
 【
4118~4121】天平感寶元年五月十二日於越中國守舘大伴宿祢家持作之
 
【5月】為幸行芳野離宮之時儲作歌一首[并短歌] 【
4122~4124

【同月14日】為贈京家願真珠歌一首[并短歌]
 【
4125~4129】右五月十四日大伴宿祢家持依興作
 
【同月15日】教喩史生尾張少咋歌一首并短歌 / 七出例云 / 但犯一條即合出之 無七出輙<弃>者徒一年半 / 三不去云 / 雖犯七出不合<弃>之 違者杖一百 唯犯奸悪疾得<弃>之 / 兩妻例云 / 有妻更娶者徒一年 女家杖一百離之 / 詔書云 / 愍賜義夫節婦 / 謹案 先件數條 建法之基 化道之源也 然則義夫之道 情存無別 / 一家同財 豈有忘舊愛新之志哉 所以綴作數行之歌令悔<弃>舊之惑 其詞云
 【4130~4133】右五月十五日守大伴宿祢家持作之 
【同月17日】先妻不待夫君之喚使自来時作歌一首 【
4134】同月十七日大伴宿祢家持作之 
【閏5月23日】橘歌一首[并短歌] 【
4135、4136】閏五月廿三日大伴宿祢家持作之
 
【同月26日】庭中花作歌一首[并短歌] 【4137~4139】同閏五月廿六日大伴宿祢家持作 
【同月27日】國掾久米朝臣廣縄以天平廿年附朝集使入京 其事畢而天平感寶元年閏五月廿七日還
 【
4140~4142

(聞霍公鳥喧作歌一首) 【4143
【閏5月28日】為向京之時見貴人及相美人飲宴之日述懐儲作歌二首
 【
4144、4145】同閏五月廿八日大伴宿祢家持作之 
【6月1日】天平感寶元年閏五月六日以来起小旱百姓田畝稍有凋色也 至于六月朔日忽見雨雲之氣仍作雲歌一首 [短歌一絶]
 【
4146、4147】右二首六月一日晩頭守大伴宿祢家持作之
【同月4日】賀雨落歌一首 【
4148】右一首同月四日大伴宿祢家持作 
【7月7日】七夕歌一首[并短歌] 【
4149~4151】右七月七日仰見天漢大伴宿祢家持作
【11月12日】越前國掾大伴宿祢池主来贈戯歌四首 / 忽辱恩賜 驚欣已深 心中含咲獨座稍開 表裏不同相違何異 推量所由率尓作策歟 明知加言豈有他意乎 凡賀易本物其罪不軽 正贓倍贓宣<急>并満 今勒風雲發遣<徴>使 早速返報不須延廻 / 勝寶元年十一月十二日 物所貿易下吏 / 謹訴貿易人断官司 廳下 / 別<白> 可怜之意不能黙止 聊述四詠准擬睡覺
【12月】宴席詠雪月梅花歌一首 【
4158】右一首一二月大伴宿祢家持作 
(【
4159】右一首少目秦伊美吉石竹舘宴守大伴宿祢家持作)
  二年 750年 (家持33歳)
【2月】大伴家持、越中部内の墾田を検察するために巡回する。
【3月9日】大伴家持、出挙の事務遂行のため旧江村に赴く。









 
18-4160
18-4161
18-4162
19-416364、65
19-4166~82
19-4183
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19-4190~92
19-4193~96
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19-4201~07
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19-4243
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正月、橘諸兄、姓を宿禰から朝臣に改める。
同月、吉備真備を筑前守に左遷。

2月、出雲国造、出雲弟山、神斎賀事を奏す。
3月、駿河国守黄金を献上。
9月、第十次遣唐使を任命。藤原清河を大使に、大伴胡麻呂を副使に。
9月、石上乙麻呂歿。
10月、八幡大神の教えにより、乙麻呂に従三位を授け大宰帥に任ずる。
同月、元正太上天皇を奈保山陵に改葬。





 
【正月2日】天平勝寶二年正月二日於國廳給饗諸郡司等宴歌一首
 【
4160右一首守大伴宿祢家持作
 
【同月5日】判官久米朝臣廣縄之舘宴歌一首
 【
4161】同月五日守大伴宿祢家持作之
 
【2月18日】縁檢察墾田地事宿礪波郡主帳多治比部北里之家 于時忽起風雨不得辞去作歌一首
 【
4162】二月十八日守大伴宿祢家持作
【3月1日】天平勝寶二年三月一日之暮眺矚春苑桃李花作二首
 【
4163、4164
 
 見飜翔鴫作歌一首【4165
【同月2日】二日攀柳黛思京師歌一首 【
4166
      攀折堅香子草花歌一首 【
4167
      見歸鴈歌二首 【
4168、4169
      夜裏聞千鳥喧歌二首 【
4170、4171
      聞暁鳴雉歌二首 【
4172、4173
      遥聞泝江船人之唱歌一首 【
4174
【同月3日】三日守大伴宿祢家持之舘宴歌三首 【
4175~4177
【同月8日】八日詠白大鷹歌一首[并短歌] 【
4178、4179
      潜鵜歌一首[并短歌] 【
4180~4182
【3月9日】季春三月九日擬出擧之政行於舊江村道上属目物花之詠并興中所作之歌 / 過澁谿埼見巌上樹歌一首 [樹名都萬麻] 【
4183
【同月】悲世間無常歌一首[并短歌] 【
4184~4186】 
    豫作七夕歌一首 【
4187
    慕振勇士之名歌一首[并短歌]
     【
4188、4189】右二首追和山上憶良臣作歌
 
【3月20日】詠霍公鳥并時花歌一首[并短歌]
 【
4190~4192】右廿日雖未及時依興預作也
 
【同月】為家婦贈在京尊母所誂作歌一首[并短歌] 【4193~4194
【同月24日】廿四日應立夏四月節也 因此廿三日之暮忽思霍公鳥暁喧聲作歌二首 
 【
4195、4196
【同月】贈京丹比家歌一首 【
4197

【同月27日】追和筑紫大宰之時春苑梅歌一首
 【
4198】右一首廿七日依興作之
 
(詠霍公鳥二首) 【
4199、4200
【4月3日】四月三日贈越前判官大伴宿祢池主霍公鳥歌不勝感舊之意述懐一首[并短歌]
 【
4201~4203

(不飽感霍公鳥之情述懐作歌一首[并短歌]) 【4204~4207
【同月5日】京の留女女郎より坂上大嬢へ歌が届く
【同月同日】詠山振花歌一首[并短歌] 【
4209、4210
【同月6日】六日遊覧布勢水海作歌一首[并短歌] 【
4211、4212
【同月9日】贈水烏越前判官大伴宿祢池主歌一首[并短歌]
 【
4213~4215】右九日附使贈之
【同月同日】詠霍公鳥并藤花一首[并短歌] 【
4216、42170】同九日作之
(更怨霍公鳥哢晩歌三首) 【
4218~4220
(贈京人歌二首) 【
4221、4222】右為贈留女之女郎所誂家婦作也 [女郎者即大伴家持之妹]
【同月12日】十二日遊覧布勢水海船泊於多コ灣望見藤花各述懐作歌四首
 【
4223】守大伴宿祢家持
【同月同日】見攀折保寶葉歌二首 【
4229】守大伴宿祢家持
【同月同日】還時濱上仰見月光歌一首 【
4230】守大伴宿祢家持
【同月22日】廿二日贈判官久米朝臣廣縄霍公鳥怨恨歌一首[并短歌]
 【
4231、4232
【5月6日】追同處女墓歌一首[并短歌]
 【
4235、4236】右五月六日依興大伴宿祢家持作之
4237】右一首贈京丹比家
【 5月27日】挽歌一首[并短歌](南家の長男豊成ではなく次男・仲麻呂の二男・久須麻呂?)
 【
4238~4240】右大伴宿祢家持弔聟南右大臣家藤原二郎之喪慈母患也 五月廿七日
【同月】(
霖雨へ日作歌一首) 【4241】(右二首五月)
【同月】(見漁夫火光歌一首) 【
4242】右二首五月
【6月15日】【
4243】右一首六月十五日見芽子早花作之 
【6月】京の坂上郎女から娘の坂上大嬢へ贈った歌が届く
【9月3日】九月三日宴歌二首 【
4247】右一首守大伴宿祢家持作之
【10月16日】【
4249】右一首同月十六日餞之朝集使少目秦伊美吉石竹時守大伴宿祢家持作之
【12月】雪日作歌一首【
4250】右一首十二月大伴宿祢家持作之














 











 
 
  三年 751年 (家持34歳)
【7月17日】大伴家持、少納言となって越中を離れる。
【8月5日】大伴家持、帰京の途につく。


 
19-4253
19-4254、4258
19-4262
19-4263
19-4272~74
19-4275、4277
19-4278、4279
19-4280
19-4283
正月、多紀内親王歿。
同月、孝謙、東大寺に行幸。御船王に淡海真人賜姓。
2月、出雲国造、出雲弟山、神賀事を奏す。
4月、菩提を僧正とする。
同月、遣唐使の平安祈禱のため伊勢太神宮及び諸社に幣帛を奉る。石川年足奉幣使。
10月、聖武太上天皇病患。大赦。
同月、伊香王に甘南備真人賜姓。
11月、吉備真備を入唐副使。
同月、『懐風藻』成る。






 
【正月2日】天平勝寶三年 
 【
4253】右一首歌者 正月二日守舘集宴 於時零雪殊多積有四尺焉 即主人大伴宿祢家持作此歌也
【3日】 【
4254】右一首三日會集介内蔵忌寸縄麻呂之舘宴樂時大伴宿祢家持作之
【同日】守大伴宿祢家持和歌一首 【
4258
【2月2日】二月二日會集于守舘宴作歌一首 
 【
4262】右判官久米朝臣廣縄以正税帳應入京師 仍守大伴宿祢家持作此歌也 但越中風土梅花柳絮三月初咲耳

【4月16日】詠霍公鳥歌一首
 【
4263】右四月十六日大伴宿祢家持作之
【8月4日】以七月十七日遷任少納言 仍作悲別之歌贈貽朝集使掾久米朝臣廣縄之館二首 /既満六載之期忽値遷替之運 於是別舊之悽心中欝結 拭な之袖何以能旱 因作悲歌二首式遺莫忘之志 其詞曰
 【
4272~4274】右八月四日贈之

【同月5日】五日平旦上道 仍國司次官已下諸僚皆共視送 於時射水郡大領安努君廣嶋 門前之林中預設<餞饌>之宴 于<此>大帳使大伴宿祢家持和内蔵伊美吉縄麻呂捧盞之歌一首 【4275
【同日】大伴宿祢家持和歌一首 【
4277
【同日】向京路上依興預作侍宴應詔歌一首[并短歌] 【
4278、4279
【同日】為壽左大臣橘卿預作歌一首 【
4280
【10月22日】十月廿二日於左大辨紀飯麻呂朝臣家宴歌三首
 【
4283】右一首少納言大伴宿祢家持當時矚梨黄葉作此歌也
  四年 752年 (家持35歳)
【閏3月】大伴古慈斐の家にて、遣唐副使大伴胡麻呂の予餞・慰労の宴を催す。
19-4290、4291
19-4296
19-4302
19-4305
正月、太上天皇の病癒えず。
同月、山口人麻呂遣新羅使。大宰府白亀を献上。
2月、雑戸制を復活し、旧により使役。
3月、遣唐使拝朝。
同月、大仏の塗金に着手。
同月、安倍虫麻呂歿。
4月9日、東大寺廬舎那仏開眼会。その夕、孝謙天皇、藤原仲麻呂の田村第に入り、そこを御在所とする。
6月、新羅王子金泰廉ら来朝。
7月、三原王歿。
8月、京中の巫覡十七人を捉え流刑に処する。
9月、智努王に文室真人賜姓。
11月、佐渡国を復活。
11月8日、聖武太上天皇、橘諸兄邸に行幸し、肆宴する。
同月、橘奈良麻呂を但馬因幡按察使に任ずる。
この年邑知王文室真人賜姓。
この頃、
正倉院鳥毛立女屏風成る。
(為應詔儲作歌一首[并短歌])
 【
4290、4291】右二首大伴宿祢家持作之
【11月8日】十一月八日在於左大臣橘朝臣宅肆宴歌四首
 【
4296】右一首少納言大伴宿祢家持 [未奏]
【同月25日】廿五日新甞會肆宴應詔歌六首 
 【
4302】右一首少納言大伴宿祢家持
【同月27日】廿七日林王宅餞之但馬按察使橘奈良麻呂朝臣宴歌三首 
 【
4305左大臣換尾云 伊伎能乎尓須流 然猶喩曰 如前誦之也 / 右一首少納言大伴宿祢家持
  五年 753年 (家持36歳)
【正月】石上宅嗣宅にて集宴する。(家持作なし)
19-4309~11
19-4412
19-4313
19-4314~16
20-4321
正月、唐朝における朝賀式に参列する諸国使節のうち、日本の席次が不当に低い、と遣唐副使の大伴胡麻呂が抗議し、改めさせる。
同月、平群広成歿。
2月、小野田守遣新羅大使。
3月、巨勢奈弖麻呂歿。
5月、渤海使拝朝し信物を献上。
7月、紀清人歿。
同月、文室智努、亡夫人茨田郡王のために仏足石及び歌碑を造立。
同月、兵士を雑役に使うことを禁止。
同月、栗栖王歿。
11月、遣唐副使大伴古麻呂、唐僧鑑真を伴って揚子江を出航。
12月、遣唐副使吉備真備益久島に来着。鑑真ら薩摩国に着く。
同月、西海道の諸国凶作、田租を免ずる。
【同月11日】十一日大雪落積尺有二寸 因述拙懐歌三首 【4309~4311
【同月12日】十二日侍於内裏聞千鳥喧作歌一首 【
4412
【2月19日】二月十九日於左大臣橘家宴見攀折柳條歌一首 【
4313

【同月23日】廿三日依興作歌二首 【4314、4315
【同月25日】廿五日作歌一首 【
4316
【8月12日】天平勝寶五年八月十二日二三大夫等各提壷酒 登高圓野聊述所心作歌三首
 【
4321】右一首少納言大伴宿祢家持
  六年 754年 (家持37歳)
【正月】大伴家持宅において、一族の者、集宴する。
【4月】大伴家持、兵部少輔。
【11月】大伴家持、山陰道使。

20-4327
20-4328
20-4329
20-4330~37
20-4338
20-4339~44
正月7日、孝謙天皇の東常宮南大殿において肆宴あり。
同月16日、遣唐副使大伴胡麻呂、鑑真らを伴って入京。吉備真備の船紀伊国に漂着。
2月、小野老南島の牌を修理さす。
4月、吉備真備大宰大弐。東大寺に戒壇を築き、授戒制度を確立。
7月、宮子娘歿。
8月、奉誅。大皇太后を佐保山陵に火葬。
9月、国司ら不正多く百姓困窮し、正倉に米なし。よって収穫の如何を問わず田祖を免ず。
10月、官人百姓の雙六を禁止。
11月、巡察使を派する。畿内、十国風水害。
同月、宇佐八幡の神託詐欺により、禰宜尼大神杜女を日向国に、大神多麻呂を多褹に配流。
【3月19日】三月十九日家持之庄門槻樹下宴飲歌二首 
 【
4327】右一首長谷攀花提壷到来 因是大伴宿祢家持作此歌和之
【同月25日】同月廿五日左大臣橘卿宴于山田御母之宅歌一首
 【
4328】右一首少納言大伴宿祢家持矚時花作 但未出之間大臣罷宴而不擧誦耳
【4月】詠霍公鳥歌一首 【
4329】右一首四月大伴宿祢家持作
【7月7日】七夕歌八首 
 【
4330~4337】右大伴宿祢家持獨仰天海作之
【同月28日】 【
4338】右一首同月廿八日大伴宿祢家持作之
4339~4344】右歌六首兵部少輔大伴宿祢家持獨憶秋野聊述拙懐作之 
  七年 755年 (家持38歳)
【2月】大伴家持、兵部少輔として筑紫に派遣される東国出身の防人を検校するために、難波に赴き彼らおよびその家族の歌を国別に提出させ、また家持自らの作を挟む。
20-4355~60
20-4384~86
20-4419~21
20-4422~24
20-4432~36
20-4458、4459
20-4467、4469
20-4474、4475
20-4477
正月、年紀の「年」を「歳」に改める(天平勝宝九歳八月まで)。
5月、左大臣橘諸兄、丹比国人宅にて集宴。また、橘奈良麻呂宅にても集宴。
同月、大隈国菱刈村の浮浪九百三十余人郡家を建てんと乞い許される。
6月、大宰府管内の諸国に兵衛一人、采女一人を献上させる。
8月、内裏南安殿にて肆宴。
9月、東大寺戒壇院を建立。
10月、聖武太上天皇不予。天下に大赦、放賎。12月晦日まで殺生を禁断。田籍を造る。
11月、厚見王を遣わし伊勢の太神宮に奉幣。
同月、橘諸兄、奈良麻呂宅にて集宴。
同月某日、諸兄、酒席において多少叛状あるかと誤解されかねない類の発言をなし、それを側近の者から密告される。 
同月、唐において安祿山の乱おこる。



 
     
【 2月8日】(天平勝寳七歳乙未二月相替遣筑紫諸國防人等歌)追痛防人悲別之心作歌一首[并短歌]
 【
4355~4357】右二月八日兵部少輔大伴宿祢家持
【同月9日】(天平勝寳七歳乙未二月相替遣筑紫諸國防人等歌)
 【
4358~4360

【同月13日】(天平勝寳七歳乙未二月相替遣筑紫諸國防人等歌)陳私拙懐一首<[并短歌]>
 【
4384~4386】右二月十三日兵部少輔大伴宿祢家持
【同月17日】獨惜龍田山櫻花歌一首 【
4419
【同日】獨見江水浮漂糞怨恨貝玉不依作歌一首 【
4420
【同日】在舘門見江南美女作歌一首 【
4421
 右三首二月十七日兵部少輔大伴家持作之
【同月19日】(天平勝寳七歳乙未二月相替遣筑紫諸國防人等歌)為防人情陳思作歌一首[并短歌]
 【
4422~4424】右十九日兵部少輔大伴宿祢家持作之
【同月23日】(天平勝寳七歳乙未二月相替遣筑紫諸國防人等歌)陳防人悲別之情歌一首[并短歌]
 【
4432~4436】二月廿三日兵部少輔大伴宿祢家持
【3月3日】三月三日檢校防人 勅使并兵部使人等同集飲宴作歌三首 
 【
4458、4459】右二首兵部使少輔大伴宿祢家持
【5月9日】五月九日兵部少輔大伴宿祢家持之宅集宴歌四首
 【
4467】右一首大伴宿祢家持、【4469】右一首大伴宿祢家持
【同月18日】十八日左大臣宴於兵部卿橘奈良麻呂朝臣之宅歌三首
 【
4474、4475】右二首兵部少輔大伴宿祢家持追作
【8月13日】八月十三日在内南安殿肆宴歌二首 
 【
4477】右一首兵部少輔従五位上大伴宿祢<家持> [未奏]
  八年 756年 (家持39歳)

20-4481
20-4484~86
20-4487、4488
20-4489~94
20-4495
20-4498
2月、橘諸兄致仕。
同月、聖武太上天皇、孝謙天皇・光明皇太后と河内離宮に行幸し、さらに難波宮へも行幸。太上天皇一人は堀江にも行幸。
4月、平城宮に還御。奈良麻呂、古麻呂らのクーデタ計画すすむ。
5月2日、聖武太上天皇崩、年五十六歳。遺詔により新田部親王の子道祖王を皇太子とする。
同月10日、大伴古慈斐、淡海三船、朝廷を誹謗した罪により拘禁される。ただし三日後に放免。
同月19日、太上天皇を佐保山陵に葬る。仏式にして追諡せず。
同月、鑑真、良弁大僧郡。
6月、東大寺大仏殿に薬を置き、病人を救済。
同月、聖武天皇の遺品を東大寺(正倉院)に納める。

8月、近江朝の書法百巻を祟福寺に施入。
10月、仲麻呂、東大寺に献物。
12月、皇太子(道祖王)をはじめ山背王・藤原豊成・同仲麻呂らの諸王臣を、東大寺・大安寺・薬師寺などの諸寺に遣わし、聖武天皇の追善法要を行う。
この年、山背王、藤原弟貞の姓名を賜う。
【2月24日】天平勝寶八歳丙申二月朔乙酉廿四日戊申 太上天皇<大>后幸行於河内離宮 經信以壬子傳幸於難波宮也 三月七日於河内國伎人郷馬國人之家宴歌三首 
 【
4481】右一首兵部少輔大伴宿祢家持
【同月同日】 【
4484~4486】右三首江邊作之
【3月20日】 【
4487、4488】右二首廿日大伴宿祢家持依興作之
【6月17日】喩族歌一首[并短歌]
 【
4489~4491】右縁淡海真人三船讒言出雲守大伴古慈斐宿祢解任 是以家持作此歌也
【同月同日】臥病悲無常欲修道作歌二首 【
4492~4493
【同月同日】願壽作歌一首 【
4494】以前歌六首六月十七日大伴宿祢家持作
【11月5日】冬十一月五日夜小雷起鳴雪落覆庭忽懐感憐聊作短歌一首【
4495】右一首兵部少輔大伴宿祢家持
【同月8日】 【
4498】右一首兵部少輔大伴宿祢家持後日追和出雲守山背王歌作之
  天平宝字
元年
757年 (家持40歳)
【6月】大伴家持、兵部大輔。


20-4505
20-4507
20-4508、4509
20-4514
20-4516
正月、橘諸兄歿、年七十四歳。
3月、親王群臣を召し瑞字を見さす。道祖王廃太子。
4月、舎人親王の子大炊王を皇太子とする。
5月、大宮改修の理由から孝謙天皇、藤原仲麻呂の田村第に移る。
同月、能登・安房・和泉の諸国を再度分立。
同月、仲麻呂、紫微内相となり、内外の諸兵事を掌握。
同月、養老律令を施行。
6月、橘奈良麻呂右大弁。
同月9日、諸氏の長が族人を集めることを禁ずるなど、治安維持のための勅令を定める。
同月28日、橘奈良麻呂らが田村宮を包囲・襲撃しようとしている陰謀を、山背王・巨勢堺麻呂らが通報する。
7月4日、奈良麻呂の変起こり、反仲麻呂派の諸王臣合計四百十三人が死刑ないし流刑に処せられる。奈良麻呂歿。道祖王歿。大伴古麻呂歿。小野東人歿。
同月、左大臣豊成を左遷。

同月、天皇、諸司、京畿内の百姓村長を召集して教戒。
8月、天平宝字と改元。
同月、諸国の調庸を免除し、雑徭六十日を半減。
同月、多治比広足、官を辞する。
同月、天皇の乳母故山田御母(比売島)の宿禰姓を剥奪。
閏8月、大宰府の東国防人を止めて帰郷させ西海道(九州)の兵士で充当する。
11月、内裏にて肆宴あり、皇太子(大炊王)・仲麻呂、奏歌を作る。
【3月4日】三月四日於兵部大丞大原真人今城之宅宴歌一首
 【
4505】右兵部少輔大伴家持属植椿作
【同月23日】勝寶九歳六月廿三日於大監物三形王之宅宴歌一首
 【
4507】右兵部大輔大伴宿祢家持作
4508】右一首大伴宿祢家持悲怜物色變化作之也
4509】右大伴宿祢家持作之
【12月18日】十二月十八日於大監物三形王之宅宴歌三首
 【
4514】右一首右中辨大伴宿祢家持
【12月23日】廿三日於治部少輔大原今城真人之宅宴歌一首
 【
4516】右一首右中辨大伴宿祢家持作
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 淳仁 二年 758年 (家持41歳)
【6月】大伴家持、因幡国守に任ぜられる。
20-4517~19
20-4522、4525
20-4527、4530
20-4530、4533
20-4536
20-4538
20-4539
正月、内裏にて初子の肆宴あり。正倉院の子日目利箒・手辛鋤を用いる。
同月、八道諸国に問民苦使を派する。
同月、民間の群飲を禁止。
2月10日、藤原仲麻呂宅にて、渤海大使小野田守予餞の宴を設ける。
同月、大和守稲公、奇藤を献上。
同月、近時、飲酒の席で政局を批判する者あり、乱を未然に防ぐために、許可なく集飲することを禁ずる、との勅令を発する。
4月、阿倍沙美麻呂歿。
7月、東海東山両道の百姓その要望を問民苦使に提出。
8月、孝謙天皇譲位。淳仁天皇(大炊王)即位。先帝を勝宝感神聖武皇帝、日並知皇子を岡宮御宇天皇と追尊。
同月、仲麻呂、大保に任ぜられ、恵美押勝と称し、天皇から尚舅と呼ばれる。
同月、官号呂改正。
9月、遣渤海大使小野田守帰国。
同月、西海道問民苦使は民の疾苦二十九件を採訪。
10月、国司の任期を四年から五年に改める。
同月、陸奥国の浮浪人をして桃生城をつくらせる。
同月、逃亡農民をとらえて、柵戸とする。
12月、田守唐国の消息(安禄山の乱)を奏す。
【正月3日】二年正月三日召侍従竪子王臣等令侍於内裏之東屋垣下即賜玉箒肆宴 于時内相藤原朝臣奉勅宣 諸王卿等随堪任意作歌并賦詩 仍應詔旨各陳心緒作歌賦詩 [未得諸人之賦詩并作歌也] 
 【
4517】(未奏)右一首右中辨大伴宿祢家持作 但依大蔵政不堪奏之也
【同月6日】
 【
4518】(未奏)右一首為七日侍宴右中辨大伴宿祢家持預作此歌 但依仁王會事却以六日於内裏召諸王卿等賜酒肆宴給祿 因斯不奏也
【 同日】六日内庭假植樹木以作林帷而為肆宴歌
 【
4519】(未奏)右一首右中辨大伴宿祢家持 [不奏]
【2月】二月於式部大輔中臣清麻呂朝臣之宅宴歌十<五>首
 【
4522、4525、4527、4530、4533】(右一首)右中辨大伴宿祢家持
(属目山齊作歌三首 【
4536】右一首右中辨大伴宿祢家持)
【2月10日】二月十日於内相宅餞渤海大使小野田守朝臣等宴歌一首
 【
4538】右一首右中辨大伴宿祢家持 [未誦之] 
【7月5日】七月五日於治部少輔大原今城真人宅餞因幡守大伴宿祢家持宴歌一首
 【
4539】右一首大伴宿祢家持作之
  三年 759年 (家持42歳) 20-4540 5月、運脚の飢苦を救うために常平倉を置く。
6月、百官僧侶ら封事を提出。
同月、舎人親王を祟道尽敬皇帝と追尊。
同月、諸国の駅路に果樹を植えさせる。
7月、広岡古那可智(聖武夫人)歿。
8月、唐招提寺を建立。
9月、新羅討伐論再燃。諸国に造船を命ず。
同月、坂東八国などの浮浪人二千名を雄勝柵戸とする。
10月、姓の君字は公に、伊美吉は忌寸とする。
11月、国分寺の図を諸国に頒布。
12月、巡察使隠没田を摘発
【正月1日】三年春正月一日於因幡國廳賜饗國郡司等之宴歌一首
 【
4540】右一首守大伴宿祢家持作之
 
  四年 760年 (家持43歳)
【正月】大伴上足事件。
  正月、巡察使を派する。仲麻呂、大師(太政大臣)となる。大伴上足事件。
同月、多治比広足歿。
2月、菩提仙那歿。
同月、石川広成、高円朝臣賜姓。
3月、万年通宝、大平元宝、開基勝宝を鋳造。
閏4月、道璿歿。
6月、光明皇后歿、年六十歳。
7月、国毎に阿弥陀浄土の画像を造る。
8月、藤原不比等の功績を賞して淡海公と追諡。藤原武智麻呂、房前に太政大臣追贈。
10月、巡察使勘出の水田を全輸の正丁に分割する。
この年、
藤原八束、真楯の名を賜う。
この頃、
家伝(大織冠伝)成る。
  五年 761年 (家持44歳) 3月、京戸の農民多く地方に逃亡、寄住地で口分田を与える(土断)。
8月、巡察使、国司の荒政について報告。
10月、孝謙太上天皇、近江国保良宮に行幸、道鏡看病。遣唐使任命。
11月、新羅征討の動員計画、三道に節度使を置く。
  六年 762年 (家持45歳)
【正月】大伴家持、信部大輔となり、返り咲く。
正月、淡海三船文部少輔。
2月、健児制を充実。
3月、宮の西南に池亭を造り、曲水の宴を設く。
5月、淳仁天皇と孝謙太上天皇との対立表面化。孝謙、法華寺に移る。
6月、太上天皇再び大権を行使。国家の大事、賞罰は孝謙女帝自らが行い、小事は淳仁が行えと詔する。
10月、県犬養広刀自(安積親王生母)歿。
諸国、飢饉。李白歿。王維歿(前年)。
  七年 763年 (家持46歳)
この年、藤原良継(宿麻呂)、佐伯今毛人、石上宅嗣、家持らによる恵美押勝暗殺計画が発覚。訊問され、良継のみ官位、姓を剥奪される。(良継、罪を一人で被り、名を洩らさず)
5月、大和上鑒真示寂、年七十七。
8月、儀鳳暦を廃し、大衍暦を使用。
同月、亢旱、凶作、疫病流行。
9月、「神火」問題。道鏡、少僧都となる。
この年、藤原良継(宿奈麻呂事件)おこる。
  八年 764年 (家持47歳)
【正月】大伴家持、薩摩国守に左降される。
 
  正月、吉備真備造東大寺長官。
5月、粟田女王歿。
6月、藤原御楯歿。
9月、藤原仲麻呂、都督使となる。仲麻呂の叛乱計画発覚。動乱(11日~17日)。藤原仲麻呂(恵美押勝)歿。藤原豊成右大臣、道鏡大臣禅師に任ぜられる。

同月、氷上塩焼(塩焼王)歿。
10月、淳仁廃帝を淡路に移す。船王を隠岐、池田王を土佐に配流。
同月、称徳女帝重祚(孝謙)。
 称徳 天平神護元年 765年 (家持48歳)
【2月】大宰少弐紀広純、薩摩守に左遷。家持離任。
  正月、改元。
3月、寺院以外の加墾禁止令実施。
8月、和気王、謀叛の嫌疑で処刑される。
9月、神功開宝を鋳造。
10月、廃帝、淡路の配所で悶死。
同月、紀伊行幸。
同月19日、南浜の望海楼に雅楽及び雑伎を奏す。
同月30日、女帝、弓削寺で礼仏。唐、高麗楽、百済舞を奏す。
閏10月、道鏡、太政大臣禅師となる。
11月、右大臣藤原豊成歿、年六十二歳。
  二年 766年 (家持49歳)   正月、永手、右大臣となる。真楯大納言、真備中納言、石川宅嗣参議。左右京畿内の踏歌を禁止。
3月、藤原真楯(八束)歿、年五十二歳。
4月、東国防人を旧によって差発。
5月、吉備真備の奏上により、壬生門で百姓の訴状を受理。

6月、敬福(百済王)歿。
9月、巡察使をおくる。
10月、員外国司の赴任を一切禁止。道鏡法王、永手左大臣、真備右大臣。
  神護景雲元年 767年 (家持50歳)
【8月】大伴家持、大宰少弐となる。
  2月、佐伯今毛人を造西大寺長官に任ずる。
同月、大学行幸、釈奠を行う。山階寺行幸。林邑及び呉楽を奏す。出雲国造、出雲益方、神賀事を奏す。
3月、法王宮職を置く。同月、西大寺法院行幸。
文士ら曲水を賦す。
7月、内堅省を置く。
8月、改元。
9月、中臣習宜阿曽麻呂豊前介となる。初めて八幡比売神宮に寺をつくる。
10月、伊治城を造る。
  二年 768年 (家持51歳)   2月、弓削清人、大納言となる。藤原種継、美作守となる。
3月、巡察使の奏上。
9月、陸奥の鎮兵逃亡。
12月、山階寺僧基真、飛騨国に流される。
  三年 769年 (家持52歳)   2月、左大臣永手の邸に行幸。
同月、陸奥国桃生、伊治二城周辺に東国の民を移す。
5月、不破内親王を京外に出す。県犬養姉女、氷上志計志らを土佐に配流。
6月、浮宕百姓二千五百余人を陸奥国伊治村に置く。
同月、中臣清麻呂に大中臣朝臣の姓を与える。
9月、宇佐八幡の神託の件で、道鏡の怒りに触れ、和気清麻呂、姉広虫を大隈に配流。
10月、由義宮に行幸し、西京となす。
同月、大宰府の要請で史記、漢書、後漢書、三国志、晋書各一部を賜う。
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 光仁 宝亀
元年
770年 (家持53歳)
【6月】大伴家持、民部少輔となる。
【9月】大伴家持、左中弁兼中務大輔に任ぜられる。



 
  2月、西大寺東塔の心礎を破却。由義宮行幸。
3月3日、由義宮行幸、歌垣、歌謡二首あり。博多川に宴遊。百官文人及び大学生ら
曲水の詩を上る。28日、葛井、船、津、文、武生、蔵六氏の男女二百三十人、歌垣に供奉。河内大夫、藤原雄田麻呂舞を奏す。
4月、平城京に還幸。
8月、天皇歿、年五十三歳、大納言白壁王立太子。
同月、蝦夷の酋長宇漢迷公宇屈波字ら賊地に逃還。
同月、道鏡を造下野国薬師寺別当とする。
9月、令外の官を省く。
同月、和気清麻呂を召還。
10月、皇太子即位(白壁王)。改元。
同月、僧徒の山林修業をゆるす。
同月、文室浄三(智努王)歿。
同月、阿倍仲麻呂(唐土で)歿。藤原清河(唐土で)歿か。
11月、志貴皇子御春日宮天皇と追尊。井上内親王を皇后に冊立。
杜甫歿。
  二年 771年 (家持54歳)
【11月】大伴家持、従四位下に昇る。
  正月、他戸親王を皇太子に立てる。
2月、左大臣永手歿。
3月、真備致仕、大中臣清麻呂、右大臣となる。
9月、林王に山部真人賜姓。
10月、武蔵国を東海道に属せしめる。
万葉集、この年以後成立(一説)。
  三年 772年 (家持55歳)
【2月】大伴家持、式部員外大輔となる。
  2月、内堅省、外衛府を廃止。
3月、井上内親王皇后を廃する。
4月、道鏡歿。
5月、廃太子。
同月、藤原浜成、歌経標式を撰上。
6月、阿曽麻呂、大隈守となる。
9月、巡察使を派する。大伴駿河麻呂を陸奥按察使に任ずる。
10月、下野国の農民多く陸奥国に逃入。加墾禁止令を解く。
  四年 773年 (家持56歳)
  正月、山部親王を皇太子に立てる。
4月、天下に大赦、宝字一、八両年度の「逆党」の遠近の配流を放還させる。
8月、放火問題に対処。
10月、井上内親王、他戸を幽閉。
11月、行基らの道場に水田を寄進し保護を加える。僧正良弁示寂。
  五年 774年 (家持57歳)
【3月】大伴家持、相模守となる。
【5月】大伴御依歿。
【7月】大伴駿河麻呂ら、陸奥国遠山村の蝦夷を伐つ。
【9月】大伴家持、左京大夫、ついで兼上総守の地位につく。
  2月、諸国飢饉。
3月、員外国司の処分。
7月、陸奥の蝦夷反き、桃生城に迫る。諸国をして池溝を修造させる。
同月、大伴駿河麻呂ら、陸奥国遠山村の蝦夷を伐つ。
10月、国中公麻呂死。
  六年 775年 (家持58歳)
【11月】大伴家持、衛門督となる。
  4月、井上内親王、他戸王獄死。
6月、畿内の員外史生以上を解却。遣唐使任命。
10月、真備歿、年八十三歳。
同月、初めて天長節を行う。
  七年 776年 (家持59歳)
【3月】大伴家持、伊勢守を拝命。
  正月、検税使を七道に派する。
2月、南門に大隈、薩摩の隼人俗伎を奏す。
5月、志波村の蝦夷と戦い。
7月、駿河麻呂歿。
11月、陸奥の軍三千人を発して胆沢の賊を伐たしむ。
  八年 777年 (家持60歳)
【正月】大伴家持、従四位上を授けられる。
  正月、良継(宿奈麻呂)を内大臣とする。
8月、古慈斐歿、年八十三歳。
9月、良継歿、年六十二歳。
11月、天皇不予。
12月、志波村の蝦夷に敗れ、官軍敗走。
  九年 778年 (家持61歳)
【正月】大伴家持、正四位下に昇進。
  2月、大和国宇智河麻呂崖碑成る。
3月、大納言魚名、内臣となる。
10月、皇太子伊勢神宮親拝。
9-11月、遣唐使帰朝。肥前と薩摩に到泊。
前年よりこの間に万葉集成る。(一説)
  十年 779年 (家持62歳)   正月、魚名を内大臣とする。
2月、唐大和上東征伝(淡海三船)成る。
3月、遣唐副使大神末足帰朝。
5月、唐使、唐朝の書を上り、信物を貢す。
7月、藤原百川歿、年四十八歳。
8月、国司の荒政を詰責。
10月、「神火」問題。
12月、縄麻呂歿、年五十一歳。河内女王歿。
  十一年 780年 (家持63歳)
【2月1日】大伴家持、参議として台閣に列する。
【同月9日】大伴家持、右大弁となる。
  2月、太政官の執政部拡充。蝦夷との交戦つづく。
同月、石上宅嗣大納言。
3月、諸制改革。
同月、伊治公呰麻呂の叛乱。按察使紀広純を殺害。
10月、浮浪人対策を出す。
11月、文室邑珍(邑知王)没。
12月、巫覡の活動を抑圧。
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 桓武 天応
元年
781年 (家持64歳)
【4月】大伴家持を兼春宮大夫に任ずる。正四位上に授けられる。
【5月】大伴家持、左大弁となる。
【8月】大伴家持、母の喪とけて本官に復する。
【11月】大伴家持、従三位に昇進。
  正月、改元。
2月、能登内親王歿。
4月、皇太子即位(山部親王)。皇弟早良を皇太子に立てる。
6月、政府、員外の官を悉く廃止する方向に動く。大宰帥浜成を員外帥とする。
同月、右大臣清麻呂致仕。魚名を左大臣に任ずる。
同月、石上宅嗣歿、年五十三歳。
12月、光仁太上天皇歿、年七十三歳。
  延暦
元年
782年 (家持65歳)
【正月】大伴家持、川継事件に座して解官。
【5月】大伴家持、再び春宮大夫となる。
【6月】大伴家持、兼陸奥按察使鎮守将軍に任ぜられる。
  閏正月、氷上川継謀叛発覚、伊豆に配流。不破内親王淡路配流。
2月、大伴伯麻呂歿。
3月、三方王、流罪となる。種継、参議となる。
4月、造営、勅旨の二省をやめる。
6月、左大臣魚名失脚。田麻呂を右大臣とする。
8月、改元。
12月、浮浪人を戸籍に付する。
  二年 783年 (家持66歳)
【7月】大伴家持、中納言に昇進。
  3月、右大臣田麻呂歿、年六十二歳。
4月、陸奥国の官人、多く私田を営み、鎮兵を使役。
6月、坂東八国をして散位の子、郡司の子弟、浮浪人を簡抜して武術を習得させる。
同月、寺院の新設、寺領の拡大を禁止。
7月、藤原魚名歿。
同月、是公を右大臣とする。
12月、京内諸寺の銭財出挙を抑制。
同月、豊富百姓や寺院の土地集積を禁止。
  三年 784年 (家持67歳)
【正月】大伴家持の子、永主、従五位下に叙せられる。
【2月】大伴家持、持節征東将軍を拝命。
  正月、小黒麻呂、種継を中納言に起用。
6月、山背国長岡村に造都。造長岡宮使を任命。
閏9月、京中盗賊多く街路に出没、放火する。11月、国司の開墾を禁止。
同月、長岡宮に遷る。
  四年 785年 (家持68歳)
【4月】大伴家持、百姓を募り、人兵を国府に加え、東西の防禦を設けることを建言。
【8月28日】陸奥の任所において、家持歿。
【9月】大伴家持の死後、種継暗殺事件によって除名され家財を没収される。永主ら流刑。
  5月、赤雀、皇后宮に現れる。衆僧の村里への出入りを禁断。
7月、淡海三船歿、年六十四歳。
8月、天皇、大和国行幸。
9月、種継、暗殺される。大伴継人、同竹良、佐伯高成らを検挙。
10月、皇太子早良親王を廃する。
11月、安殿親王を皇太子にたてる。
  八年 789年   7月、伊勢、美濃、越前に勅し、三関を廃止。
この年、
高橋氏文成る。
  九年 790年   2月、藤原浜成歿。
  十三年 794年   8月、続日本紀の撰修を命じる。
10月、平安京に遷る。
11月、山背を改め山城とし、新京を平安京と命名。
宝亀年間よりこの年の間までに、万葉集の最終編纂成る(一説)。
 桓武・平城 延暦
二十五年及び大同
元年
806年 【3月】勅によって故大伴家持は罪科を除かれ本位に復した。   3月、種継暗殺事件に連座して除名された者を赦す。
5月、安殿親王即位。改元。
  大同
二年
807年   2月、斎部広成、古語拾遺撰上。
この頃(平城朝)に万葉集成る(一説)。

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 巻別年紀不詳の大伴家持詠歌、目録より  目 録  歌番号
  巻第三 (三首)  大伴宿祢家持贈同坂上家之大嬢歌一首  譬喩歌   406
   大伴宿祢家持贈同坂上家之大嬢歌一首  譬喩歌   411
   大伴宿祢家持歌一首  譬喩歌   417
  巻第四(四十二首)  (笠女郎贈大伴宿祢家持歌廿四首)大伴宿祢家持和歌二首 相聞  614、615
   大伴宿祢家持与交遊別歌三首 相聞  683~685
   大伴宿祢家持贈娘子歌二首 相聞  694、695
   大伴宿祢家持到娘子之門作歌一首 相聞  703
   大伴宿祢家持贈童女歌一首 相聞  708
   大伴宿祢家持贈娘子歌七首 相聞  717~723
   大伴宿祢家持歌一首 相聞  725
   大伴宿祢家持贈坂上家大嬢歌二首 [離絶數年復會相聞徃来] 相聞  730、731
   (大伴坂上大嬢贈大伴宿祢家持歌三首)又大伴宿祢家持和歌三首 相聞  735~737
   (同坂上大嬢贈家持歌一首)又家持和坂上大嬢歌一首 相聞  739
   (同大嬢贈家持歌二首)又家持和坂上大嬢歌二首 相聞  742、743
   更大伴宿祢家持贈坂上大嬢歌十五首 相聞  744~758
   (紀女郎贈大伴宿祢家持歌二首 [女郎名曰小鹿也])大伴宿祢家持和歌一首 相聞  767
  巻第八(二十六首)  大伴宿祢家持鴬歌一首 春雑歌  1445
   大伴宿祢家持春雉歌一首 春雑歌  1450
   大伴宿祢家持贈坂上家之大嬢歌一首 春相聞  1452
   大伴家持贈和歌二首 春相聞  1466、1467
   大伴家持霍公鳥歌一首 夏雑歌  1481
   大伴家持橘歌一首 夏雑歌  1482
   大伴家持晩蝉歌一首 夏雑歌  1483
   大伴家持唐棣花歌一首 夏雑歌  1489
   大伴家持恨霍公鳥晩喧歌二首 夏雑歌  1490~1491
   大伴家持懽霍公鳥歌一首 夏雑歌  1492
   大伴家持惜橘花歌一首 夏雑歌  1493
   大伴家持霍公鳥歌一首 夏雑歌  1494
   大伴家持雨日聞霍公鳥喧歌一首 夏雑歌  1495
   大伴家持霍公鳥歌二首 夏雑歌  1498~1499
   大伴家持石竹花歌一首 夏雑歌  1500
   大伴家持攀橘花贈坂上大嬢歌一首[并短歌] 夏相聞  1511~1513
   大伴家持贈紀女郎歌一首 夏相聞  1514
   (衛門大尉大伴宿祢稲公歌一首)大伴家持和歌一首 秋雑歌  1558
   (巫部麻蘇娘子鴈歌一首)大伴家持和歌一首 秋雑歌  1567
   (<日>置長枝娘子歌一首)大伴家持和歌一首 秋雑歌  1569
   大伴宿祢家持到娘子門作歌一首 秋雑歌  1600
   大伴宿祢家持雪梅歌一首 冬雑歌  1653
   大伴宿祢家持歌一首 冬相聞  1667
  巻第十六 (二首)  大伴宿禰家持嗤咲吉田連石麻呂痩歌二首  3875、3876

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 運命を背負った大伴家持 
 大伴氏とは
 史実、あるいは史実らしきものから、大伴氏の系譜を求めると、大伴旅人、家持に至るまで、かなりの労力を要するだろう。大雑把に言えば、第二十五代天皇、継体を越しの国から招聘するのに尽力したのが、大伴金村。その頃の大伴氏は、物部氏、巨勢氏などの有力豪族の合議制の下でのリーダー格のようなもので、表立った絶対権力者ではなかった。しかし、その実力は群を抜いていた。私には、その程度の知識しかない。もっとも、読本を拾い読み程度の知識はあるのだが、どれも私の大伴氏への琴線には触れてこない。
 私が、初めて大伴氏を意識したのは、もう四十年近くも前になる。その頃、漸く芽生えた文学、ことに「万葉集」への傾倒が著しく、その歌集の最終編纂者が大伴家持ではないか、と言われているくらいの知識はあった。その程度だ。そして、あまりにもその「偉業」とでもいうべき大歌集「万葉集編纂」のスケール感に、私などすぐには立ち向かえなかった。
 その頃、梅原猛の「水底の歌」という連載が、当時の文芸誌「すばる」(だったと思う)であり、何かのきっかけで...そうだ、他の文芸作品を盛んに読み出した頃だから...その「水底の歌」の舞台が、私の故郷・島根の益田であり、その海中調査の様子がその連載に載せられていた。何の調査かといえば、柿本朝臣人麻呂の死の真相を解明するための調査だった。
 その記憶にある断片を思い出すと、従来人麻呂は石見の国司として、その地で病死したとされているが、事実は違って、「刑死」...しかも、「水死」ではないか、という説を打ち出した流れの中での調査だった。と記憶している。有名な「鴨山五首」をその根拠にして、この歌はどうみてもまっとうな死に方をしていない、無念の塊だ、とでもいうような...。
 それまでの私の万葉集への興味は、若い頃にありがちな「相聞歌」の甘い響きに誘われて、ロマンチスト気取りでいたものだが、この連載を知るに及び、柿本朝臣人麻呂が私の中で、大きく浮かび上がってきた。そうか、万葉集と言うのは、歌にこめられた人々の真実の声をも探りだせるのか、と感心もした。しばらく、史実とは別に、人麻呂の周辺で起こった、万葉人たちの「うたごころ」に酔いしれたものだが、それを一変させたのが、やはり飛鳥時代の歴史館を知らず知らずに身に付けてしまったことの必然だったと思う出来事。それは、初めて歴史小説の類を読んだことだった。
 その作品は、黒岩重吾著「天の川の太陽」...672年の壬申の乱を扱った長編小説。
 そこで、初めて「大伴」の人たちのエネルギッシュな活躍を知る。
 大伴旅人、家持の時代から二世代前の人たちの活躍した時代。
 当時、大伴金村失脚以来、あまり目立つ活躍もなかった「大伴氏」...。その大伴氏が、壬申の乱で、軍事力では劣勢の大海人皇子(後の天武天皇)側についた。
 まず、大伴長徳(ながとこ)...言うなれば、この人物から、大伴氏は息を吹き返したことになる。壬申の乱に先立つ645年の『大化改新』(として知られるクーデタ)。長徳が初めて正史に登場したのは、642年のこと。そもそも、六世紀の大伴金村の失脚以来、大伴家は衰退した、と言っても、物部氏のように他の豪族たちから攻撃され打ちのめされた訳ではないので、家門としての命脈は細々ではあっても、続いている。政権への復帰には厳しい道のりではあっても、まったく目がなかったわけではなかった。大化改新でも、目立つ活躍はなく、蘇我大臣家の滅亡や朝廷の高官たちの相次ぐ死に伴い、自然と上位に昇りつめていった、という感じだ。
 ただし、それも表向きであり、政治の中枢は大化改新の立役者、中大兄皇子と藤原鎌足が専横しており、長徳の役割といえば、他の豪族たちへの調整役のようなものだったのだろう。
 改新政府で、大伴長徳が得た右大臣の地位は、その後の大伴家の礎となり、また大伴諸家の中で、長徳の系統がその主流となる。
 大伴旅人の父、大伴安麻呂は、この長徳の六男。その兄が大伴御行(五男)であり、後に二人とも大納言となる。長徳には、さらに二人の弟がいた。大伴馬来田、大伴吹負。この二人こそが、672年の壬申の乱の立役者といえる。長徳が651年に死、その後の大伴家の首領は誰なのか解らないが、これ以後壬申の乱(672年)までの朝廷の中枢に、大伴家は名を残していない。長徳亡き後の大伴家に、要職につくような年長者がいなかったのかもしれない。ここに、壬申の乱で彼らが大海人皇子側に加わった、という大きな理由がある。
 天智天皇の死後(671年歿)、天智が病で臥したとき大海人皇子は、野心の無きことを示すべく吉野へ隠遁していたが、その動きを懸念する近江朝の対策は、行われていなかった。それど頃ではない内政の事情もあったようだが、このとき大海人皇子の元には、各方面から情報が集まり、その豪族や農民たちの不満を利用するように、大海人皇子は決起に至るのだが...『日本書紀』での大伴氏のこのときの動きは、詳細に述べられている。
 長徳の弟、馬来田と吹負は、飛鳥の旧居を引き上げ、近江朝に見切りをつけた形になった。そして、長徳の子、御行と安麻呂もまた、叔父たちと行動を共にする。
 ここに、積極的に反近江朝側に対する不満を表わしたことになる。かつての軍事的伴造の首長であった大伴家の再起をかけた決断だった。
 黒岩重吾「天の川の太陽」で、私が一番惹かれた要素は、その活躍する人物たちが、勿論大伴氏は言うまでもないが、他にはこの大海人皇子の舎人たちの活躍だ。軍事氏族の名だたる集団ではなく、大海人皇子の側近たちというべき、舎人たちの活躍が目覚しい。偵察、情報収集などの隠密行動が、どれほど決起の判断に及ぼしたことか。そして、大伴氏の他の氏族たちへの説得も功を奏する。
 当時の世情が、近江朝への不平不満で一杯であった、といっても、いざ内戦となれば、正規軍である近江軍の圧倒的な数には太刀打ちできない。しかし、そこに大伴家はかけた。東から南から近江を攻め、幾つかの局地戦では苦戦したものの、結局次第に傍観していた他の氏族たちも大海人皇子側に加わるようになり、この古代史上の権力争奪の戦いは...大海人皇子側の勝利に終る。
 この「乱」の評価には、いろいろと学説もあるが、史実としては、ここで近江朝が終り、新しい「王朝」が生まれたことには違いないことだ。そして、大伴家にとっても、ようやく政治の表舞台へ復帰、という願いが叶った。
 ただし、大海人皇子が天武天皇として行った治世は、天智の事跡を引き継いだものの他は、より徹底的に天皇の絶対支配者としての意識付けのための機構改革だった。すなわち天皇の権力を唯一無二のものに仕立て上げたことに言える。それは、混沌とした時代の安定化には、随分と効果的だったと思う。だから、それまでの合議的な有力氏族の高官たち権限は、逆に縮小されてしまった。しかし、戦勝の論功行賞としての見返りは充分だったようで、この天武治世では大きな混乱もなく、中央集権国家への土台が、確実に進んでいった。天皇の「現人神」宣言があったのかどうか、解らないが、それを示唆する歌が、万葉集に残されている。

 
   壬申年之乱平定以後歌二首
  皇者 神尓之座者 赤駒之 腹婆布田為乎 京師跡奈之都
   大君は神にしませば赤駒の腹這ふ田居を都と成しつ
    おほきみは かみにしませば あかごまの はらばふたゐを みやことなしつ  (天皇は神なので、馬が腹這うような、そんなところまで都にしてしまわれた)
 右一首大将軍贈右大臣大伴卿作  
 巻第十九 4284 大伴御行  
 
  大王者 神尓之座者 水鳥乃 須太久水奴麻乎 皇都常成通 [作者未詳]
   大君は神にしませば水鳥のすだく水沼を都と成しつ [作者未詳]
    おほきみは かみにしませば みづとりの すだくみぬまを みやことなしつ  (天皇は神なので、水鳥の騒ぐ沼までも、都にされてしまわれた)
 巻第十九 4285 作者未詳  
 右件二首天平勝寶四年二月二日聞之 即載於茲也  (右の件の二首は、天平勝宝四年(752年)二月二日に聞きて、即ち茲に載す)
 

 この歌は、八十年前の壬申の乱の直後に、天皇賛歌として詠われたもののようだ。一首目の大伴卿...大伴御行で、天皇を「神」だと言っている。これが、壬申の乱後の、各氏族たちの天皇観を物語らせているだろう。
 どうして、八十年後のこのタイミングで、載せられたものなのか...編纂者は、この年二月二日に聞いた、という。その話題になったであろう背景を知りたいものだ。
 大伴馬来田、吹負兄弟については、『日本書紀』にその後の事跡が残されていないので、詳細は解らない。天武は大臣たちの合議制をとらなかった。ただし大伴吹負については、『続日本紀』巻三十四に、「常道(常陸方面)頭」の任にあったことが記されている。しかし、天武十二年(683年)、二人は相次いで亡くなっている。天皇は、馬来田への信任がとても厚かったようで、死に際して弔問のために泊瀬王を邸に遣わし、その功績を称讃し、大紫位を追贈している。吹負には、大錦中位を追贈しているが、馬来田への信任とは差がある。
 そして、この大伴家の二人の次代を担うのが、大伴長徳の五男大伴御行と六男大伴安麻呂だ。御行は、天武四年(675年)に栗隈王(橘諸兄の祖父)が兵政官の長についたとき、大輔に任ぜられ、その時の位階は「小錦上」だった。安麻呂は、朱鳥元年(686年)に新羅使金智祥が筑紫に来着した時に接待の任を与えられ、河内王とともに、大宰府に赴いている。天武が薨じた686年頃には、安麻呂は大蔵官の長であり、御行は太政官の代表する地位となっていることから、この大伴氏を代表する二人は、天武朝の重臣として活躍していたことが解る。御行の方が年長と言うこともあるだろうが、安麻呂よりも地位は高いので、この時点での大伴家の長は、御行の系統だと思われる。尚694年正月には、正式に大伴家の氏上を御行にしている。
 その頃から藤原鎌足の第二子、不比等が実力を発揮し出し、持統天皇の時代、そして文武天皇の治世に至っては、彼の力を抜きには政局は動かせなくなっていた。そんな中で、まず大伴御行が696年大納言になる。そして701年に御行が没すると、大伴安麻呂が705年八月、大納言を任ぜられた。
 この時代を牽引した勢力は言うまでもなく藤原一族であり、不比等の着々と築き上げる基盤は、後の四兄弟による藤原氏専横へと繋がる。710年に都を平城に遷し、それに伴って、大伴安麻呂は、佐保川の畔に新邸を営み、そこが以後二代にわたる大伴大納言家の本拠となる。御行亡き後、大伴家の氏上となった安麻呂の邸では、旅人、田主の他、異腹の宿奈麻呂、稲公、坂上郎女らがいた。これが、その大伴家を護り抜こうとする象徴ともいえる「佐保大納言家」と言われるものだ。
 大伴安麻呂は、714年五月、この佐保邸において死去した。その胸に去来するものは何だったのか...想像は出来るが、他人の想像では追いつかないほどの感慨を持って死に向かったことだろう。大伴家の再興が、なったと感じたのだろうか、それとも、実質的に藤原一族に抑えられている朝廷への不満は...あったのだろうか。そして、次代の旅人への期待は何だったのだろう。
 大伴旅人は、戦乱で勝ち取った父の栄誉を見ている。しかし、家持は...その祖父の没後の誕生でもあり、戦乱の世をじかに聞くこともなかった。家持の知る大伴家は、形ばかりの高位の氏族大伴家。そして、父旅人の飛鳥故京への慕情を知るにつけ、生まれながらに知る都は、この平城という、すでに戦乱は遠い過去の出来事として聞くだけの幼少期を過ごす。...やがて、大宰府に父とともに生活圏を移すまでは...
 
七歳から十二歳ころになる。ここでの見聞や交流が、後の家持の資質を形成したと思う。父・旅人は同じ頃筑前守としてやってきた山上憶良と交流を深め、それを家持は間近で見ている。憶良の見識は、家持を驚かせるものばかりだったことだろう。当時の最先端の文化を誇る中国・唐に遣唐使として何年も滞在し、その思想の新しさに、少年家持は傾倒をもしたことだろう。


 政治家への野心から歌人への変貌
 大伴家持が万葉集中で初めて年紀の解る歌を残すのは、巻第六・999、家持十六歳のとき。父・旅人が亡くなって二年目のこと。その頃の家持は、佐保大納言家を仕切る叔母坂上郎女に頼りながらも、ようやくこの名門大伴家の跡継ぎをしっかり自覚していたことだろう。 

 大伴宿祢家持初月歌一首 
  振仰而 若月見者 一目見之 人乃眉引 所念可聞
   振り放けて三日月見れば一目見し人の眉引き思ほゆるかも
    ふりさけて みかづきみれば ひとめみし ひとのまよびき おもほゆるかも
巻第六 999 雑歌
 

 この歌が、今のところ万葉集中での、判明し得る大伴家持の最初の歌となっている。この巻第六は、養老七年(723年)から、天平十六年(744年)まで、欠く年もあるが基本的には年立別そして雑歌の部立で成り立っている。その構成の背景で、家持の歌が天平五年の歌群の中に見えることから、天平五年(733年、家持十六歳)と推測されている。
 十六歳といえば、現代的な感覚では想像もできないが、当時としてはすでに家門を背負うほどの成人と見做されていたことだろう。ただし、「万葉集」はあくまで「歌集」であり、「歴史書」ではなく、その個人の政治的な動静が記録されなければならない義務はない。だから、この家持の万葉集デビューも、「三日月」に寄せる淡い恋慕の表現として少年らしさが伺える。勿論、この手ほどきは叔母・坂上郎女のものだ。そして、当時まだ朝廷では無位無官の少年家持を、佐保大納言家に相応しい氏上に育てなければならない坂上郎女の決意も並大抵なものではなかったろう。
 
 この天平年間には、早々に皇親政治の筆頭である長屋王の失脚(藤原氏の策略)があり、その後の藤原四卿による朝廷支配は揺るぎないものになっていた。大伴家から見る藤原氏は、新興氏族であり、数代何百年もの間天皇に仕えた大伴氏にとっては、相当はがゆい思いをさせられていたことだろう。しかし、父・旅人が見せた朝廷と距離をおく生き様は、少年家持に大きな影響を与えていたと思う。大宰府で過ごしたおおらかな時代を、家持は人間の内面性まで描こうとする憶良や父の影響をしっかり身に付けて帰京する。大納言となって帰京する父に対して、家持の誇らしげな笑顔が浮ぶ。世を儚い、人を儚い、思うように生きて、尚且つ朝廷の要職、大納言。そんな大氏族の京での厚遇を、子ども心に期待もしていたことだろう。
 ところが、帰京して感じる都の空気は、家持の希望を一瞬のうちに打ち砕いたのではないだろうか。名門氏族とはいえ、名ばかりの要職を与えられ、その実権は新興の藤原一族が握っている。誇らしく思っていた名門大伴家は、家持の幻影でしかなかった。そんな失意の中でも、旅人亡き後の叔母坂上郎女の大伴家再興の執念めいたエネルギーは、家持にも感じられたことだろう。この叔母は、ごく若い頃に知太政官事・穂積皇子と結婚し、その穂積皇子が亡くなると、藤原四卿の末弟、麻呂と結ばれる。しかし、理由はわからないが、その離縁後、異母兄である大伴宿奈麻呂(旅人の異母弟)と結婚し、坂上大嬢、二嬢を生む。この経歴だけでも、この女性が、たとえ本人の意志でなくとも、人脈と言うものを相当意識していることが伺えると思う。
 大伴家持が、万葉集の中で多くの女性たちと相聞歌を交わすのも...この頃からだろう。それを叔母の坂上郎女が黙って見ているはずはない。おそらく何度も何度も、大納言家の跡継ぎとしての自覚を迫ったことだろう。まだ官職に就くには早い年頃の家持は、少年期特有の「遊び」に精を出したはずだ。それに、叔母の思いも伝わっていたのだろうか...、付き合う人を、考えろ、とでも。父・旅人の時代からの影響で、藤原北家の房前への親近感はあったのだろう。当時の四卿の中でも、兄・武智麻呂よりも皇親の信頼が厚かった二男の房前。その三男の八束こそが、年齢的にも、家持にとっては、最も親しくしたい「友」ではなかったか。そして、その八束のつながりで、橘諸兄の長男、奈良麻呂とも交流を深めていく。勿論、当初はそれぞれはまだ官職もなく、品のいい、素性の確かな「遊び仲間」...しかし、家持にとっては、将来の国政を担う「仲間」のつもりもあったのだろう。
 この頃(736年)、十九歳の家持には「秋の歌」と題する四首の詠歌がある(書庫-6)。その四首に続く、藤原八束の二首。題詞からでは、その繋がりは分からないが、歌の内容から、非常に呼応している感じを受ける。こうした「歌の世界」での交流を通して、家持は大伴家の磐石を期していこうとしたのだろう。まさにこの頃の政治の頂点は、藤原四卿亡き後の、右大臣橘諸兄を頂点とした皇親政治の時代だった。藤原氏にとっては、かろうじて、参議に南家・武智麻呂の長男・豊成がいるだけで、後に政権を揺るがす、その弟の仲麻呂もやっと従五位下に付いたばかり。さらに、式家・宇合の長男・広嗣も大宰少弐も官職に就いてはいるが...藤原氏のかつての勢いはない。だから、家持の選択も、純粋に「遊び仲間」と言うだけではなく、当時の権勢を見据えての最善の手立てだと、思っていたに違いない。
 それが、慢心とは言えないまでも、大納言家に不安はないと判断し、貴族らしく、名門氏族らしく、優雅に遊ぶ...青年期独特の自信があったのだろう。
 
 その頃の女性関係は、相聞歌を見る限り、遊び心での戯れや、恋の切なさを詠う青年らしさが横溢している。私が、一番謎と感じている「笠女郎」との関係など、意外に深いものかもしれないが、それはまた別な項目で考えたいと思う。ただ、家持二十二歳のとき、愛しい「妻」(妾)を亡くし、それを機に坂上郎女の娘・大嬢を妻に迎えている。その頃から、おそらく家持の本来の志である大納言家の名実共に名を成す意思が宿ったのだろう。二十九歳で越中守に任ぜられ、都を離れて赴任する家持の歌風は、この越中において一皮剥けた。
 越中国への赴任前の数年間、都は聖武天皇の狂気に満ちたかのような安易な遷都騒動に振り回されていた。平城京、難波京、恭仁京...実質的にこの三都が存在したことになる。しかし、官人たちの平城京住まいは禁止され、家持も恭仁京での居住まいを強いられたり、少なからず不満もあったことだろう。740年には、大宰府で藤原広嗣が謀叛の蜂起をする。貴族のみで不満を募らせ愚痴をこぼすレベルではなく、農民や地方の士族をも立ち上がったこの謀叛には、さすがの都人も、そして家持でさえも不安感にさいなまれたことだろう。藤原広嗣の最大の不満は、橘諸兄政権にあったのだから...。それは大伴家の望みに大きな影を残したものだった。
 そんな時期での越中国への赴任なので、家持には、またも疎外感を与えたのかもしれない。ちょうど、父・旅人が政局の不安な時代を筑紫に追い遣られたように...。
 越中守時代の、官人家持が有能であったかどうか分からない。しかし、この越中時代の歌作には、年齢的にも若い頃とは違った趣があるという。それは、父・旅人のようにおおらかな自然への慈しみもあるのだろう。
 都の政争を離れ、地方の長官として、そこで家持の人間性が大きく飛躍したと思う。勿論、名門氏族としての魂を揺さぶるような聖武天皇の詔もあった。
 749年、東大寺廬舎那仏の黄金に窮していたとき、陸奥国に黄金が産出し、それを献上されたことが天皇の詔として知らされ、その中で大伴氏、佐伯氏についてもこれまでの皇室への忠義を想い、今後も務めて欲しいことが述べられていた。これに対して、聖武天皇、諸兄のラインでのし上ろうとしている家持がどれほど感銘を受けたことか。そうした不穏な都の様子ではあっても、皇室の大伴家への信頼を確認した家持は、一層越中時代をゆとりを持って過ごしただろう。しかし...その都の実情は...
 

 この時期の都は、すでに藤原仲麻呂が勢力を増大化させており、橘諸兄の長男である奈良麻呂も、その対立の先鋒に立っていた。八束といえば、藤原一族と言う立場もあろうが、彼個人の想いで、やはり中間派を決め込んでいる。奈良麻呂からの再三のグループへの誘いを、家持はきっぱりなのか、あるいは慎重になのか分からないが、受けてはいない。それは、藤原八束の姿勢が、家持に随分影響を与えていると思う。氏上である以上、浅慮な行動は取るべきではない。それが、家持の本心だろう。その意味で、物理的にも遠い越中国での生活は、家持にとってはひと時の平穏な時代となったはずだ。仲麻呂派、諸兄派...次第に大伴家の再度の決断を迫られる時期が近づいてきている。それを、家持は...感じていたのだろうか...。

 大伴家持が、歌人としてその名を轟かせる一つに、万葉集全歌約四千五百首の内、473首を残していること。さらに、その万葉集中での歌歴二十七年間の中でも、この越中時代の五年間の歌数が、223首。それ以前では十四年間で158首なので、この越中時代の多作振りに驚くと共に、上述の地方施政官の家持の人間性の深まりを、この越中時代に見てしまう。都での政治的緊張から解放された家持は、ここで「歌人」となった...のだと思う。

 
大伴家持、越中時代の歌 (歌意私的解釈は、順次書庫へ載せる)

 玉櫛笥二上山に鳴く鳥の声の恋しき時は来にけり  巻第十七 4011  二上山  747年3月30日
 石瀬野に秋萩しのぎ馬並めて初鷹猟だにせずや別れむ  巻第十九 4273  石瀬野  751年8月4日
 朝床に聞けば遥けし射水川朝漕ぎしつつ唄ふ舟人  巻第十九 4174  射水川  750年3月2日
 立山に降り置ける雪を常夏に見れども飽かず神からならし  巻第十七 4025  立山  747年4月27日
 渋谿の崎の荒礒に寄する波いやしくしくにいにしへ思ほゆ  巻第十七 4010  渋渓  747年3月30日
 馬並めていざ打ち行かな渋谿の清き礒廻に寄する波見に  巻第十七 3976  渋渓  746年8月7日
 もののふの八十娘子らが汲み乱ふ寺井の上の堅香子の花  巻第十九 4167  堅香子  750年3月2日
 礒の上のつままを見れば根を延へて年深からし神さびにけり  巻第十九 4183  都万麻  750年3月9日
 雄神川紅にほふ娘子らし葦付[水松之類]取ると瀬に立たすらし  巻第十七 4045  葦付  746年春
 あゆの風 [越俗語東風謂之あゆの風是也] いたく吹くらし奈呉の海人の釣する小船漕ぎ  巻第十七 4041  奈呉の浦  748年1月29日
 阿尾の浦に寄する白波いや増しに立ちしき寄せ来東風をいたみかも  巻第十八 4117  英遠の浦  749年
 明日の日の布勢の浦廻の藤波にけだし来鳴かず散らしてむかも [一頭云 霍公鳥]  巻第十八 4067  布勢の水海  748年3月24日
 しなざかる越に五年住み住みて立ち別れまく惜しき宵かも  巻第十九 4274  しなざかる越  751年8月5日
 

 天平勝宝三年(751年)8月、大伴家持は少納言に任ぜられ、越中国を離れ都に戻る。ときに三十四歳。越中での五年の歳月は、職務もそつなくこなし、満を持しての帰京と胸を弾ませていたことだろう。越中時代の歌作に見られるように、旺盛な自然の中に飛び込み詠い、そして官人としての自覚をも持ち、ようやく大伴家の氏上として廟政への参画に臨める期待も大きかったに違いない。しかし、京に戻っての家持には、すぐに失望への念を思い知らされる。そのことは、帰京後この越中時代を偲んで詠った歌が一首も残されていないことでも分かる。それどころではない情勢が渦巻いていたのだろう。相変わらずの権力闘争は、家持の周辺、大伴一族の身内の中にも不穏な影を落とす。一族を集め、慎重に行動するように訴えるのも、また作歌どころの話ではなかっただろう。事実、その後の八年間で、歌作は92首しかない。あの越中時代は何だったのだろうか、と思うほどだが、歌人・家持が、自身の意思に関わらず、政争へとの関わりを避けられないことを物語っているだろう。

 
鬱積の果てには...

 帰京後の慌しさの中でも、家持の行動の範囲は次第に狭められていく。頼みの橘諸兄は健在であるにしても、すでに藤原仲麻呂の専横はあからさまになっており、誰にも手が付けられない状態だった。そんな中で、政局がらみではない幾つかの宴があちこちであり、家持も招かれることも多かった。しかし、いずれも当たり障りのない宴なのに、気が気でない家持は、いつも恐々としていたに違いない。そんな宴に参加しただけで、色を付けられかねない時勢だった。橘家の宴には、そんな気兼ねもなく参加できただろう。その席には藤原八束もいた。藤原一族がすべて仲麻呂派と言うわけではない。仲麻呂を疎ましく思う藤原氏もいる。北家の八束もそうだった。そして懸念しなければならないのは、諸兄の長男・奈良麻呂との交流だろう。奈良麻呂は、かねてから父・諸兄を失脚させようとしている仲麻呂の排除を考えていた。家持へも何度もその打診はあったという。しかし、八束がそうであるように、家持もまた慎重にならざるを得なかった。
 
754年四月、兵部少輔に任ぜられた家持は、そのすぐあとに、防人に関する事務の総責任者となる。これこそが、万葉集を万葉集たらしめる「歌集」の運命の人事だったと思う。越中時代の歌でも、何も当時全国に赴任している都の官僚は多くいた。それでも、この現代まで伝わる当時の歌は、家持が歌人であって、歌を結果的にであっても後世に残す役割を担ったからだ。他の国司で、このように「歌集」のような仕事以外への情熱を持つ人材はいなかったのだろう。となれば、家持が防人の総責任者にならなければ...防人歌は、決して残らなかった。誰が、それを編纂し、残そうとするのか。誰もいなかった、出来なかったのでは、と思う。そもそも、防人歌という記録も行われたかどうか、疑問に思える。万葉集の価値の一つである「防人歌」の存在を、この時の人事が決めたとすれば...まさに運命の「人事」だったと思う。
 おそらく、家持は懸命にその任に没頭したことだろう。そうしなければ、自身だけではなく、大伴家の行く末に大きな影響を与える決断を容赦なく迫られる、そんな不安もあったことだろう。

 そのような職務上の縁と言うものもあるものだ。家持が、難波で東国十国から防人たちを引率してくる防人部領使・藤原宿奈麻呂と再会している。彼は、740年に筑紫で謀叛の決起をした藤原広嗣の弟で、その後の配流などの罪を経験しながらも、現在では相模国守になっていた。兄の謀叛が、今も尚彼を不遇の地位におしとどめていた。後に、家持とこの宿奈麻呂は、反仲麻呂という立場で接触するのだが、このときはどんな再会だったことだろう。宿奈麻呂の胸中に、仲麻呂への恨みが鬱積していることは、家持も見抜いたのかもしれない。そうであれば...尚更家持にとっては、今近づくことは出来ない相手だったのだろう。こうして、橘奈良麻呂のグループだけではなく、藤原氏の中にも、仲麻呂への不満勢力が現実にいることを、家持は実感したはずだ。
 
 756年、橘諸兄を象徴とする皇親政治の大きな支えであった聖武上皇が亡くなる。そこから、大きく政局が動くことになる。諸兄に絶対的な信頼を置く上皇の死によって、藤原仲麻呂の専横はいっそう激しくなり、それに伴い反仲麻呂派の動きもどちらが機先を制するか、というぎりぎりのところまで来ていた。天平の内乱期には、時政に背を向けた名門の若い世代が少なくはなかった。そして、今はさらに混沌とした時代になろうとしている。混沌と言う「混乱」ではなく、独裁政治による、先の読めない混沌とした時局、そんな時代に、どんな処世術が正しいのか...誰も答えを見出せない。家持もそうだろう。しかし、仲麻呂からその才能を疎まれ、何かのきっかけで謀叛の罪を着せられるかもしれない藤原八束は、『続日本紀』の小伝に、「従兄仲麻呂心にその能を害(にく)む、真楯(八束)それを知りて、病と称して、家居し、頗る書籍を翫べり」とある。まさに、蟄居のごとく、だ。

 757年の正月、橘諸兄は、失意の中に亡くなる。この大政治家の庇護の下で大伴家の将来を託していた家持にとって、これからの処し方に、どれだけの不安があったことだろう。仲麻呂は、この諸兄の死を好機にし、遣りたい放題の愚挙に出る。聖武上皇の遺詔で皇太子となった道祖王の廃太子。諸兄亡きことによって、これほどの横暴がまかり通る。もう誰にも阻止は出来ないところまできている。そしてついに、それほどの権力を手にした仲麻呂は、宿敵とも言える橘奈良麻呂らの謀議の密告を受け、七月その一派を捕える。この「奈良麻呂の変」は、全体的な歴史の中で見ると、未遂に終った事件だが、その後の動揺を鎮めるために行われた数々の措置が、いかに大変なことだったかを窺い知ることができる。
 こうした歴史の事実関係は、専門書に任せて、私はそのときの家持の心情を思う。この謀叛未遂でも、大伴家の一族から積極的に関わった支族もいた。


 家持の胸中は、複雑だったことだろう。奈良麻呂を初め、かつての盟友を裏切ったと思われることの心の痛さ。勿論、家持はそれを避けようとして努力はしていたのだが、結果的に盟友を見捨てて、自分は難を逃れた。そのことの説明を、どう自分に納得させたのだろう。
 この事件以降、家持は佐保邸で宴は開いていない。相当な落ち込みようだったと思う。大伴支族の有力者たちも、かなり失っている。いくら大納言家に直接の関わりのない事件だとはいっても、大伴氏の氏上として、家持には堪えられない絶望感を味わったことだろう。
 翌758年7月、家持は因幡国守として、任地へ向かう。そして年明けの国庁での賀宴、大伴家持が万葉集に残した、最後の歌を、ここに...

 三年春正月一日於因幡國廳賜饗國郡司等之宴歌一首
    新 年乃始乃 波都波流能 家布敷流由伎能 伊夜之家餘其騰
      新しき年の初めの初春の今日降る雪のいやしけ吉事
         あらたしき としのはじめの はつはるの けふふるゆきの いやしけよごと
 巻第二十 4540
 

 ここで、家持の万葉歌人としての詠歌は終っている。同時に、万葉集も...現在に残る歌集としては、この歌を最後と見做している。
 この頁の「私観大伴家持」は、取り敢えずここで終える。
本来であれば、歌作の見えないその後の「大伴家持像」こそが主題になるべきだが、ここまで頑なに政争に関わらず対処してきた家持が、この後一変して事変に名を出す。
 785年に陸奥国で亡くなるまでの、二十六年間...「歌人・大伴家持」でもあった「万葉の主人公」が、廟政への「大伴氏としての執念」を見せようとしている。
 またその『私観』事については、ここに加筆したいと思う。今は、「その後の家持」として、下段の【晩年の大伴家持】(小学館)で補うことにする。


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