高市皇子の悲痛歌を通して思うもの

  みもろのみわのかむすぎ巳具耳矣自得見監乍共いねぬよぞおおき  巻第二-156 
 みわやまのやまへまそゆふみじかゆふかくのみゆえにながくとおもひき  巻第二-157
 やまぶきのたちよそひたるやましみずくみにゆかめどみちのしらなく  巻第二-158 



十市皇女が薨じた天武七年(679)、古代史上最大の内戦といわれ、その結果先の「大化の改新」(645)で中央集権国家体制への萌芽を一気に開かせた「壬申の乱」(672)から七年・・・が経った。
 この十市皇女にとっての「壬申の乱」そのもの、そしてその後の生涯を、寡黙な皇子・高市は短歌に籠めて哀しんだ。
仮に古代史をドラマにするなら、この万葉の時代が最も多くのエピソ−ドを提供してくれるだろう。しかし、その中にあって、このペ−ジでとり上げる「高市皇子と十市皇女」は具体的な接点がどこにも語られていない。ただただ、この三首の挽歌が、高市皇子の秘めたる想いを知らせてくれる。

 
 まず十市皇女のことから書かなければならない。関連書物に於いても、十市の生年は確定されていないが、だいたいの予想はつく。額田王と若い頃結ばれた大海人皇子(後の天武天皇)の間の皇女であることは間違いないらしく、生年も大化五年(649)頃だと言われている。そして、天智四年(665)頃、天智の皇子・大友皇子と結婚している。更に言えば、この結婚が政略結婚だったことは、大方の見解となっている。何故、政略結婚なのか...。天智天皇には、四人の皇子がいたが、最年長の大友皇子を特に愛していた。万葉集と同時代的な資料としても意味のある「懐風藻」に、大友皇子の二篇の詩がある。その「伝」によると「皇子博学多通にして、文武の材幹あり」と讃えており、天智が自分の後継者に、と期待するのは当然と言えた。しかし、そこで大きな問題が起こる。皇位継承が、嫡男をもって実施されることは、実質的にはこの後の天武朝において形作られていくが、この時期天智を悩ませたのは、愛する我が子と、弟である大海人皇子のどちらを立てるか、ということだった。本来なら、嫡男の大友に皇位を継承させるべきだと考えるが、問題は大友の母が、皇族の出身ではなく伊賀出身の采女だということ。それに引き換え大海人皇子は、天智と同じ母、斉明天皇であるため、皇位に一番近いといえる。もっとも、天武が天智の実弟であるかどうか、その点の疑義も多く存在している。
 天智は国家体制を何とか形あるものにしようとこの時期全力で基盤つくりに精を出している。その最中に、皇位継承問題で、有力な片腕である大海人皇子を敵に回すわけにはいかない。そのために、大友と十市を結婚させることは、天智にとって少なからずの安心感を得る手段だったのだろう。その伏線が、ゆくゆくは大友の皇位継承を実現させることにあった、と大海人はきっと思うはず。その面での狙いもあったと思う。そしていよいよ、天智は晩年病床の中で大海人を呼び、後を託す事を申し出る。これは、一見逆のようだが、その心の読みあいが、いろんな本に書いてある。ここで大海人が、その天智の申し出を受けたら...おそらく、天智は大海人を「謀反の意がある」と捕らえただろう。このくだりの迫真の様は、歴史を超えた一つのドラマのクライマックスを見るような緊迫感があった。大海人としては、本心から皇位継承の申し出を断り、その決意として出家することを、相手、天智に信じさせなければならない。ちょっとでも隙があれば、もうこの部屋からは出て行かれない、との覚悟もあっただろう。
 天智は、大海人が皇位継承を辞退し、大友皇子に任せるよう天智に進言したことに気をよくし、そのまま帰す。このとき、天智の重臣の一人が「虎を野に放つ」と嘆いたことまで、「日本書紀」には載っている。勿論、この日本書紀。その編纂の命を下したのは、この大海人...天武天皇だった。
 
 そして、天智天皇の崩御(671)。大友皇子は弘文天皇(明治時代になって、認められる)として即位した。このとき十市皇女も近江朝にいる。大海人は、少ない側近と共に吉野で出家している。後世の書物の中には、この十市が大海人のもとへ近江朝の秘密を伝える密書を送っていると書かれているが、その真為は未だに解らない。仮にその噂が存在することだけをとりあげても、十市と大友の結婚は愛し合ってのものではなかった、といえると思う。そして、私が一番それを強く思うのは、高市皇子の十市皇女の死を哀しむ歌が三首、万葉集に掲載されていること。高市皇子が、歌人として優れた才能があったとは、どの評論家も言っていない。そして、高市自身も、武人として生きてきたスタイルを、変えてはいない。ところが、この三首を...高市でさえも愛する者を失った悲しみを歌で表現したのだ、という驚き。そしてそれを掲載した編者の気持ちは、どうだったのだろう。きっと、高市と十市の関係を知っていたのだと思う。


 そもそも、高市皇子と十市皇女の関係だが、この二人は同じ天武の子供になる。高市の母は、九州の豪族宗像氏の出身で、そのために異母弟の草壁皇子・大津皇子ともに皇族の母を持つ二人より地位は低い。天武の皇子たちの中で、最年長と言えども、まだ母方の出身が大きく左右する時のこと。
 高市は、幼い頃から十市を慕っていたと思う。推定で4歳年上の十市は、高市にとって、姉弟以上の存在ではなかったか。だから、政略結婚の末に父天武を追い出した近江朝の大友皇子に嫁いだ十市を不憫に思い、高市皇子にとっての壬申の乱は、十市皇女を取り戻すための戦いでもあったはずだ。ただし、こんな解釈をする学者は、ほとんどいない。高市が十市を慕っていたとするのは、先の三首の挽歌で肯定できても、十市も高市を慕っていたとは、その手掛かりが存在しないからだ。それに、壬申の乱以後、父天武に引き取られた十市と高市が、一緒になったという事実もなさそうだし、誰もがこの二人の関係を、高市の一方通行だと思っている。勿論、専門家が述べることだから、私より多くのデ−タを基にしての推察なので、その反対意見は持ち出せない。私は、唯一感情的な部分で、この二人を結んでしまう。相聞歌のように二人が想いを交換し合うものではなく、そんな想いをそれぞれの立場ゆえに閉じ込め、しかし何か心では通じ合っている、そんな二人に思えてならない。だから、後に万葉集を編纂する者は、十市の死に際して、高市の唯一の歌を載せたのだと思う。当時宮廷歌人が謳歌していた時代、どうして武骨な高市の歌でしか十市の挽歌はないのか...。この事実が、二人の関係を、本物であったことを証明していると思う。
 ただし、この二人にとっても、容易に逢ったり出来ない事情はある。
 何と言っても、高市は十市の夫、大友皇子を討った男なのだ。壬申の乱19歳で父大海人皇子から総大将の任を与えられ、高市は先頭を走った。私は、ただただ十市のためだと思う。この乱での戦いぶりは、万葉集中最大の長歌となって
柿本人麻呂が、高市皇子が崩じた時に、献上している挽歌の中に見事な若武者として描かれている。
 母方の身分のために、決して皇位には就けないはずの高市皇子にとって、近江朝から十市を取り戻した時が人間的な充実感を味わった一時ではなかったか、と思う。その後、有力な皇子たちが諸々の事情で世を去っていくと、自然と現政権の第一功労者である高市皇子への期待が高まってくる。実際には、天皇にならなかったが、その実権を太政大臣という形で得てまもなく、病死している。
 高市皇子は、天皇になったとする説も、ほんとに少数だが存在はしている。けれども、彼にとっての人間としての最大の喜びは、十市の奪取であり、最大の悲しみは、十市の死であったことは、間違いないと思う。
 ちなみに、高市皇子の人望が宮中で浸透しているのを警戒した持統天皇が、亡き草壁皇子の遺児を天皇にせんがために障害となる高市皇子を毒殺した、との説もある。もう一つ、十市が斎王として斎宮に仕えるように持統が主張した、とする説もある。その場合、神に仕える女性に、死別したとはいえ結婚歴のある女性を斎宮に仕えさせることは、考えられないが、高市との関係を考えるなら、高市の台頭を恐れた持統の形振りかまわない姿が想像できる。 高市皇子・・・古代史上最大の戦乱において、総指揮官として国家の行く末を決めた戦いにおいて  私は、若干19歳の彼は、十市皇女のために戦ったと思いたい。


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