万葉集に辿る歴史 
 

 
誰もが学校の歴史授業で習う「大化の改新」。その事件の存在を、今日に至るまである程度の既成事実として認識するのは、日本で初めての正史となる「日本書紀」の記述に基づく。皇極四年(645)六月十二日、場所は飛鳥板蓋宮の「大極殿」。事件そのものは、時の権勢を誇る、蘇我入鹿暗殺事件。
 ここに、日本書紀の記事の内容を、概訳してみる。倉山田麻呂、表文を読み終えようとしてしているが、その間に入鹿を襲う役目の子麻呂たちがやってこない。計画が発覚したか、と恐れ冷や汗が全身を流れる。表文を読む声も震え、手もわななく。鞍作臣(入鹿)、それを怪しんで問う、「どうゆうわけで、震えわななく」という。

 山田麻呂それに答えていう、「天皇に近くはべることをかしこみ、不覚にも汗が流れる。」と。中大兄、子麻呂たちが、入鹿の威勢に畏れ逡巡している様を見ていう、「咄嗟(やあ」といい、すなわち子麻呂たちと共に、その不意に出て、剣を持って入鹿の頭肩を切り裂く。
 この日は、半島の三韓進調の日で、入鹿は必ず大極殿に来る。蘇我倉山田麻呂が三韓の上表文を読み上げるのを合図に、刺客が斬りこむ手はずになっていた。計画通り山田麻呂が表文を読んでいるが、刺客の佐伯連子麻呂は、恐れのために食を戻し切り込めない。そこで中大兄皇子の活躍が描かれている。このような正史における臨場感は、史記の刺客列伝にある荊軻伝の秦始皇帝を襲撃するときの記述に通じている。

 この暗殺事件が歴史上大きな変革といわれた「大化の改新」の端緒となったことは、間違いない。ただ、「大化の改新」そのものの意義としては、未だに多くの説があり、通説があるとはいえ、その研究は今日もなされている。
 ただ一つの事実は、確実にあった。それは、蘇我氏の滅亡・・・。


 

 素人でも自然に考えられることは、あれほど神代の時代から天皇家の絶対的な支配構造を「記紀」は訴えておきながらそれでは、この入鹿暗殺事件は、何のためだったか、ということ。それまで、一豪族の絶大な権力の前に、皇親も太刀打ち出来なかった事実があったからこその、このようなク−デタ−もどきの事件が存在したと考えるのが、自然だと思う。
 天皇という称号が初めて使われたのが、この二十七年後の大海人皇子によるク−デタ−、いわゆる「壬申の乱」で、その後勝利した大海人皇子が即位して、「天皇」となる。現人神の出現になるわけだ。記紀のそれ以前の天皇の称号は、勿論その天武時代に編纂されたために、過去の系統を万世一系としたもの。天武から新たに時代をスタ−トさせても、充分不思議ではないのに、あたかも、自分が正当な皇位継承者であるかのように、歴史を作ってしまった。中国の王朝の変遷を考えれば、山賊上がりの王朝だってある。決して、当時にあっては無茶なことでもなかったと思うが、天武は自らの出自を神代からの血筋としたかったのだろうか。 もう一つ、不思議なことがある。この事件に関する当事者の歌は、万葉集などの当時の歌集に、一つも残されていないこと。各地の有力な豪族が凌ぎを削っていた時代を想起させる。万葉の頃というのは、世情も落ち着き、少なくとも初期の国家体制が整った証にもなるのかもしれない。
 この「大化の改新」で力を得た中大兄皇子にとって、自身の権力を万全にするには、目障りな者たちの粛清にあったと思う。本ペ−ジの中心、有間皇子は、まさにその渦中にいた人物といえる。というのも、「大化の改新」があった大化元年に、有間皇子の父孝徳天皇が即位した。そして、次期天皇となる皇太子に、中大兄皇子を立てた。この時点で、中大兄皇子と有馬皇子との関係が微妙なものになってきた。もっとも、その時点では、中大兄20歳、有間6歳と思われるが、後の事を考えれば、有馬は大きな障害になる。
 晩年の孝徳が中大兄皇子から受けた辱めは、有間の心にどう映ったか。簡単に言えば、中大兄皇子は、孝徳を見限り、その側近だけを残して、難波の都から飛鳥に帰ってしまった。失意の中で孝徳天皇は死ぬが、15歳の有間皇子の激しい怒りは、中大兄皇子を脅かせたことは間違いないだろう。いつか、必ず有間は牙をむく、と。
 そんな背景の中で、有間皇子を陥れる策略が練られたのだ。その表舞台にたったのは、蘇我赤兄。このとき、中大兄皇子からの指示があったのか、あるいは赤兄が皇子の意を察して行動を起こしたのかは分らない。赤兄は、有間に近づき、
現政権の「失政」を訴え、有間の決起を導いた。当時19歳の有間皇子は、先の父の恨みもあってか「吾は年始めて兵をもちいるべき時なり」と答えたと、日本書紀には書かれている。そして、その誘導に成功した赤兄は、有間皇子の謀反の意思を確認すると、人を派遣して有間皇子を捕らえ、斉明天皇と中大兄皇子が療養している紀温湯に護送した。中大兄皇子の直接の訊問となる。日本書紀には、「何の故か謀反けむとする」という中大兄皇子の問いに対し「天と赤兄と知らむ。吾もっぱら解らず。」と答えている。・・・あなたが、一番知っているのではないか・・・ということだろう。

 この前日、紀温湯までの囚われての道中、残した歌が二首

    岩代の浜松が枝を引き結びま幸くあらばまたかへり見む     (巻二、141

    家にあれば笥に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る     (巻二、142) 

これらは、行く手の前途を神にすがるしかないと思った有間皇子の想いなのか。142は、常緑樹の青葉に飯を盛って神を祭る旅の慣わしとすれば、だが...。
 たとえ、奸計によるこの運命であろうと、有間皇子は初めて怒りを公にした。今まさに、その思ったことを問われているのであって、謀反を起こしたとは史実にはないと思う。失政だと語ったことは、いくらでも言い訳できると思っていての「神頼み」というのか。私は、後の有間皇子に対する多くの同情を思うと、もっと毅然としていたのではないかと思う。それゆえに、追悼歌も、この二首に続いて掲載されている。有間皇子が、ありふれた器量の皇子なら、後の世まで人々の心を動かさないだろう。先の二首が有間の実作かどうかも本当のところは定かではないが、その想いがあるからこそ、長い間も、彼の作として残されてきたと思う。二首の歌から表面的に感じるのは、生還への願望だが、自身の愚かさと、後世への希望だと思いたい。 この皇子に対する追悼の歌が、時を越えて掲載されている。 

 紀伊国に幸せる時に、川島皇子の作らす歌 或は云はく、山上憶良の作なり、といふ

    白波の浜松が枝の手向くさ幾代までにか年の経ぬらむ      (巻一、34
                 (一に云ふ、「年は経にけむ」)
            
 日本紀に曰く、「朱鳥四年(690)庚寅の秋九月、天皇紀伊国に幸す」 浜辺の松の枝の手向くさ(行路の平安を祈って、道の神に布や木綿、糸などを供えること)は、何年くらい年を経たものだろう。行幸の際、この浜辺の松を見る川島皇子。彼には32年前のまだ幼少の頃の事件が思い出されるのだろう。この作歌のとき、川島皇子は34歳という。皮肉なのは、この皇子こそ、有間皇子を死に追いやった中大兄皇子、天智天皇の子供なのだ。この松の結び枝を見て、誰もが想起する有間皇子の事件。天智朝崩壊後、天智の遺児たちは、天武・持統朝に皇親でありながら、不遇に甘んじていた。そしてなにより、この川島皇子、天武の皇子である大津皇子とは、兄弟以上の仲だったのであるが、川島の裏切りで大津は死んだ。その悔恨の情が、いにしへの有間皇子の事件と重なったのではないか。日本初の律令体制が、スタ−トしたばかりの国家体制の中で、若い皇子たちの政争へ巻き込まれる様は、唯一こうした歌でしか、発露を求められなかったのか。

 長忌寸奥麻呂、結び松を見て哀咽する歌二首

    岩代の崖の松が枝結びけむ人はかへりてまた見けむかも     (巻二、143

    岩代の野中に立てる結び松心も解けず古思ほゆ         (巻二、144

 奥麻呂は、大宝元年(701)に紀伊行幸を供にしていると思われるが、そのときに、四十数年前のこの事件、そしていわくの松を見たのだろうか。結び松を、再び見ることのなかった有間皇子、そしてこの松もまた、有間皇子を死に追いやった人たちに、心をくすぶらせているのか。

 山上憶良の追和する歌一首

    翼なすあり通ひつつ見らめども人こそ知らね松は知るらむ    (巻二、145) 

こんな左注が載っている、「右のくだんの歌どもは、棺を挽く時に作る所にあらずといへども、歌の意(こころ)を准擬す。故以に挽歌の類に載せたり。」くだんの歌どもは、有間皇子からの五首を指している。この編者の気持ちは、何なのだろう。無念の思いで死んだ有間皇子の気持ちは、人には解らないだろうが、その魂が翼を広げて松の上を飛び回っている様は、この松には解るだろう。
  
 大宝元年(701)辛丑、紀伊国に幸せる時に、結び松を見る歌一首 柿本朝臣人麻呂が歌集の中に出でたり

    後見むと君が結べる岩代の小松が末をまた見けむかも      (巻二、146) 

 後に見ようと思って、皇子が結んでおいた岩代の小松の梢を、また見たであろうか。見ることもなく死んだ皇子が痛ましい、と嘆いている。いずれも、四十数年前の事件を、心を痛めて詠っている。この意味するところは、それだけ有間皇子の死が、長い間語り継がれ、しかも同情の念さえも薄れてはいない。そこが肝心だと思う。有間皇子は、それだけの人物だったということになり、ただの哀れみなら、もっと悲運の死を遂げた人たちも多くいたはずだ。有間皇子という人となりは、歴史の中ではただの悲運の皇子でしか登場しないが、その歴史自体が、皇子の悲運を語らずして、知らしめているのではないか。そう、何ゆえに、悲運なのか、と。この追悼の歌とも思える四首が詠まれ、そして「万葉集」という歌集に載るということは、少なくとも有間皇子の当時の政権下では、有り得ないことだろう。中大兄皇子、後の天智天皇の近江朝は、672年壬申の乱で滅んだ。このような追悼の歌が世に出るのは、やはり一つの政権交代の産物といえるだろう。

 [万葉集全歌 141〜146参照]
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