俊頼髄脳   源俊頼(1055〜1129年)・平安時代 出典:新編日本古典文学全集・小学館「歌論集」 橋本不美男 校注・訳

歌論書用例歌 
 目 次    
 〔一〕  〔四〕歌人の範囲(以下途中)  〔七〕歌題と詠み方  〔十〕異名  〔十三〕連歌の表現
 〔二〕和歌の種類  〔五〕和歌の効用  〔八〕秀歌等の例  〔十一〕季語・歌語の由来  〔十四〕歌語の疑問
 〔三〕歌病  〔六〕実作の種々  〔九〕和歌の技法  〔十二〕表現の虚構と歌心  〔十五〕歌と故事

万葉集の部屋  万葉時代の雑学   歌 論 集 
  解題  
 本書に対しては、かつて故藤岡作太郎博士により疑書説が提示されたが(『国文学全史』平安朝篇)、故岡田希雄氏(「俊頼無名抄の著者と其著述年代」上・下<『芸文』第十二年第六・七号>)および久曾神昇博士(「俊秘抄に就いて」『国語と国文学』第十六巻三号)により、第五代勅撰集『金葉和歌集』の選者、源俊頼(1055〜1129)の手になることが再確認されている。また成立事情については、内部徴証により(頭注参照)、身分の高い女性に対する、作歌手引書として記述されていることは明らかに看取できる。この高貴な若い女性も、『今鏡』の「すべらぎの中第二」(玉章)の中の叙述、および顕昭本巻末奥書(「解説」参照)により、俊頼が関白藤原忠実の依頼で、その娘勲子(のちに鳥羽上皇に入内、皇后となり泰子と改名、院号は高陽院)のために述作したことがわかる。またその成立年次は、忠実の子忠通を「中納言殿」(連歌の項)と表記しているので、忠通の中納言在任の天永二年(1111)正月二十三日から永久三年(1115)正月二十八日(二十九日任権大納言)の間であろう。しかし、同世代の参議藤原長忠を「左大弁長忠」とも呼称している。長忠は永久三年八月十三日に右大弁から左大弁に転じ保安三年(1122)十二月十七日の任権中納言まで兼職していた(ちなみに任右大弁は天仁二年<1109>正月二十三日)。したがって、この忠通・長忠の官職表記では一致した年次は導き出せないが、「左」と「右」は相互に誤写しやすいこと、また忠通が忠実の子であり勲子の弟である事実を重視すべきであろう。これらの理由により、本書の成立は、いちおう下限を永久二年末、上限を天永二年の初めとしておこう(なお、歌説話の項の堀河中宮花合に関連して、中宮篤子の崩御永久二年十月一日を基準とする岡田・久曾神説があるが、それぞれの御説を参照されたい)。また書名についても、『和歌童蒙抄』(藤原範兼)以下には俊頼朝臣無名抄・俊頼朝臣抄物・俊頼抄として引用され、現存写本も俊頼無名抄・俊秘抄・俊頼口伝集・唯独自見抄など、さまざまな名目で伝存している。したがって、当初より明確な標題はなかったものと思われる。本全集の底本とした国立国会図書館本は、「俊頼髄脳」と標目されているので、書名はそれによった。
 本書は、和歌の論書としても、また学書としても整序されたものではない。それは、本書の述作目的が、若い女性のための、実作の手引書であったことによろう。そのためには、和歌全般に対する知識も与えなければならないし、細かい知識の導入にも、唯一の読者が興味を覚えるような、和歌説話を多分に盛り込むことも必要であったのであろう。またその構成も、記述の関連に従っており、必ずしも一貫した組織ではない。これも、唯一の読者を意識してのことであり、かつは俊頼自身の研究者的能力に欠けるところにもよろう。ともかくも本書は、序に始まり、和歌の種類、歌病、歌人の範囲、和歌の効用、実作の種々相、歌題と詠み方、秀歌等の例、和歌の技法、歌語とその表現の実態という順に記述されている。このうち、最後の、歌語を基底に置いての、その意味と表現の実態説明が全体の約三分の二を占め、異名・季語・歌語等の由来、表現の虚構と歌心、連歌の表現、歌語の疑問等を具体的に述べ、最後に詠まれた和歌と、その発想の基たる説話・伝承等の記述で終っている。
 以上のように、本書は作歌のための実用書として具体的な心得を説くことが主体をなしている。しかしながら、歌論としては公任論の祖述を宗とし、秀歌の具体例も、『拾遺集』『金玉集』を中心とする公任秀歌撰に主として求めていること、また、その所説・解釈が、『奥義抄』はじめ平安末・鎌倉初期の歌学書・歌論書に大きな影響を与えている事実に、和歌史的な価値を認めることができる。しかしながら、頭注で示したように、誤解・誤認は勿論、事実に対する誤りが非常に多い。これらは、部分的には公任・経信・基俊等も犯していることではあり、今日の標準で評価すべきではなかろう。しかしながら、俊頼は歌人ではあるが、いわゆる無学であったことも事実であろう。

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 俊頼髄脳  
 〕序 
  語釈   本文   訳
○大和歌。和歌。続いて秋津州・大倭などとあるので、唐歌(漢詩)に対する意識が含まれている。俊頼の新造語か。
○秋津島根。 我が国の異称。
大日本・大倭。 我が国の古名。大日本豊秋津州と熟して日本国の美称。奈良県御所市の旧地名から大和さらに日本国の称となった。『古事記』にある日本の古称。
○『古今集』仮名序。「花に鳴く鶯、水に住む蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける」からの連想記述か。
○『古今集』仮名・真名両序。
○現存する「和歌式」(歌経標式、喜撰式、孫姫式、石見女式)の類のみをさすのではなく、当時あったであろう「髄脳」と呼ばれた和歌作法書類を一般的にいったものか。
○四季以下の記述は、春・夏・秋・冬・賀・哀傷・離別・羈旅・恋・述懐(雑)と、撰集部立をだいたい追っている。
○以下、各季の代表的景物とそれに対する態度・心情を記す。春は盛りの短い桜花を観賞し、夏は郭公の初音を待ち、秋は散る紅葉を惜しみ、冬は雪の風情を懐かしむ。
○述懐ともとれるが、後に「思ひを述ぶ」とあるので、死別に対する自分の悲しみか。
○趣向。筋立て。
○仏教の末法思想の影響か。最澄に仮託される『末法燈明記』によれば永承七年(1052)より釈迦の教えが廃れ教法だけが残る末法期に入るとされた。
○歌の表現された様式をさす。姿とほぼ同義の用法か。
○この場合は具体的に、形態的な歌体区分と、『古今集』序の六義(そへ歌等六つの体)、「和歌式」の歌体区分、壬生忠岑・源道済等の和歌十体分類、藤原公任『新撰髄脳』(よき歌のさま等)などの風体的分類をも含めていうか。
○同心病(一首のうちに同語または同義語を二度使う)・乱思病(詞が優でなく意味がそぐわない)・欄蝶病(句首がよく句末が悪い)・渚鴻病(三・四句を重視しすぎ初・二句が悪い)・花橘病(諷喩する詞がまずく諷意が出ない)・老楓病(字足らず意足らず)・中飽病(句余り字余り)・後悔病(六句体)の八病をいう。
○藤原公任『和歌九品』をいう。「詞たへにして余りの心さへある」とし、「詞とどこほりてをかしき所なき」歌を最低の下品の下とし、浄土思想を借りて和歌を九品の風体に分類。
○以下の叙述は、一般に流布していない私家集等をさすか○朝、草葉などにたまる露。消えやすいたとえに使う。
○玉台の訓読。美々しく立派な建物。
○物事の不安定なことにたとえる。「あしたの露」と対句をなす。
○和歌の道。歌道。
○積極的に愛好する意か。
○京都府南部にある山。山頂に石清水八幡宮がある。
○石清水八幡宮。京都府八幡市にある。祭神は応神天皇・神功皇后・比売神の三座。貞観元年(859)九州の宇佐八幡を勧請。伊勢神宮・賀茂神社とともに三社と称され歴代朝廷の祟敬が深い。とくに毎年三月中午日また下午日に行われる石清水臨時祭(南祭)は賀茂祭(北祭)と双称され、天下の盛事であった。
○奈良市東方にある低山。春日神社の神域。
○藤原氏の氏神春日大明神をさす。当時は摂政関白は藤原氏の氏長者がなり、大多数の貴族は藤原氏であった。
○ひそかに誠実を貫けば、やがてはあらわな感応がある、という意で、『準南子』『説苑』等に記された成語が、当時一般的に伝称されていたのであろう。

 やまと御言の歌は、わが秋津州の国のたはぶれあそびなれば、神代よりはじまりて、けふ今に絶ゆることなし。おほやまとの国に生れなむ人は、男にても女にても、貴きも卑しきも、好み習ふべけれども、情ある人はすすみ、情なきものはすすまざる事か。たとへば、水にすむ魚の鰭を失ひ、空をかける鳥の翼の生ひざらむがごとし
 


 おほよそ歌のおこり、
古今の序和歌の式に見えたり。世もあがり、人の心も巧みなりし時、春・夏・秋・冬につけて、花をもてあそび、郭公を待ち、紅葉を惜しみ、雪をおもしろしと思ひ、君を祝ひ、身をうれへ、別を惜しみ、旅をあはれび、妹背のなかを恋ひ、事にのぞみて思ひを述ぶるにつけても、詠みのこしたるもなく、つづけもせる詞もみえず。いかにしてかは、末の世の人の、めづらしきにもとりなすべき。よく知れるもなく、よく知らざるもなし。よく詠めるもなく、よく詠まざるもなし。詠まれぬをも詠み顔に思ひ、知らざるをも知り顔にいふなるべし。
 



 そもそも歌に、
あまたの姿をわかち、八の病をしるし、九の品をあらはして、いときなき者を教へ、愚かなる心をさとらしむるものあり。しかはあれど、習ひ伝へざれば、さとること難く、うかべて学ばざれば、覚ゆることすくなし。埋木のむもれて、人に知られざる臥所を尋ね、滝の流れにながれて、過ぎぬる言の葉の葉を集めてみれば、浜の真砂よりもおほく、雨の脚よりもしげし。霞をへだてて春の山にむかひ、霧にむせびて秋の野辺にのぞめるがごときなり。山賊の卑しきことばなれど、尋ねざれば、あしたの露ときえ失せぬ。玉の台の妙なる御言なれど、きき知らざれば、風のまへの塵となりぬるにや。
 


 あはれなるかなや。
この道の目の前に失せぬる事を。俊頼のみ独り、このことをいとなみて、いたづらに歳月を送れども、わが君も遊め給はず。世の人もまた、憐れぶともなし。あけくれは身の憂へを嘆き、起き伏しは人のつらさを怨む。かくれては男山にましませる八つの幡のおほむうつくしみを待ち、あらはれては三笠の杜にさかえ給へる藤の裏葉にたのみをかく。めぐみ給へ。あはれび給へ。かくれたる信あれば、あらはれたる感あるものをや。





 古くからの雅語でつづった和歌は、我が日の本の国の、抒情的な慰み事であるので、遠く神代から起って、今日現在にいたるまで、連綿として詠まれ続いている。この永い伝統をもつ日本の国に生を享けた者は、男女を問わず、身分の高下にも関係なく、この和歌の道を進んで習得すべきであろうが、どうしても”もののあはれ”を感ずる人は巧みになるし、この情のない人は、和歌を詠んでも上手にならないようだ。この情のない人とは、たとえてみると、水中にすまなければならない魚類でありながら、肝心な鰭がなかったり、空を飛ぶはずの鳥でありながら、翼が生えないようなものである。
 和歌の起源については、大要は、『古今集』の序文その他の和歌作法書にも記されているので省略する。その昔、人の感動の表し方が巧緻であった頃は、四季の季節の変化に従って、春は花、夏は郭公、秋は紅葉、冬は雪と、それぞれの季の景物に想いを寄せて詠み、事に臨んでは、和歌によって天子を祝賀し、人に死別した我が身を嘆き、離別を痛み惜しんだ。また、旅情・男女の仲は勿論のこと、事立った胸中の感動を表すのも、すべて和歌によっていた。従って現在では、昔の人の詠み残してある趣向もほとんどなく、試みられていない歌語の続け方もないであろう。こんな現況では、どのように苦心して、末世の我々としては、新鮮な内容様式を和歌に盛り込むべきであろうか。ところが今の人々は、和歌に対して生半可な知識しか持たず、実作もまことに中途半端な詠み方である。それなのに一人前の歌人と思い込み、歌道を知らないくせに、人並みの発言をしているようだ。
 さて、和歌について、内容・様式から何種類かに分類し、修辞上の欠陥を八つの歌病として指摘し、また、詠み方からみて、理想的な風体から悪い例までを、九つの品格に区別したりして、年少者のこの道への入門、あるいは未熟な人に理解させるため、書き残された指導書は少なくない。しかしながら、これらを読んでも練達の人から直接習わなければ、本当に理解できないし、苦労して研鑽しなければ、体得することは少ない。世間に知られず埋没している所を尋ねたり、滝の流れに流されてしまった木の葉のような、過去の歌語を探し集めてみると、じつに、浜の真砂、強い雨脚よりも数多いものだ。このことは、待ち望む早春の山を霞越しに見たり、霧にこめられていながら秋の野を見たいと思うようなものである。たとえ山住みの卑しい人の詠んだ素朴な歌でも、注意していないと朝露のように消えてしまう。玉楼に住む貴人による優雅な歌語であっても、記しておかないと風前の塵と同じく跡形もなくなってしまうであろうよ。
 悲しいことであるよ。私の目前で和歌の道が絶えてしまうことは。この俊頼だけが一人、和歌の道を守り詠み続けて、思えばむなしく歳月を過したけれども、上は天子様も御奨励くださらず、また貴族社会の人々も和歌を愛好する様子もない。こうなってはいつも、こんなに歌道に執着する我が身を嘆き、また無関心な世人を怨むほかはない。このような次第なので、私としては、ひそかに我が源氏の氏神、男山にいます石清水八幡の御慈愛にすがり、表向きには藤原氏の氏神春日大明神の御威光により、多くの貴族たちが目覚めるのを待つしかない。両神よ。どうか神助をお恵みください。歌道に執心する私に御同情いただきたい。唐の書にいう「陰徳陽報」をせめて期待することにしよう。
   
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 〕和歌の種類 
  語釈   本文   訳
○藤原公任『新撰髄脳』で、心と対比された姿は、一首全体の表現様式・格調までを含んでいる。この場合は、区分される形態的様式と内容的な種類の両方を意味しよう。
○八病等に代表される歌病(かへい)。
○和歌の法則・作法などを述べた書。当時多くあったらしい。
 歌の姿を避るべきこと、あまたの髄脳にみえたれども、聞くとほく、心かすかにして、伝へきかざらむ人は、さとるべからざれば、間近きことの限りを、こまかにしるし申すべし。   和歌の表現された様式・内容等の区別、またいくつかの歌病は避けなければならない等は、多くの和歌指導書に書かれている。しかしながら初心者には、読んでも理解しにくく意味もとりがたい。したがって練達の人から直接教えを受けられない人は、和歌の道を詳しく知ることは出来ないと思うので、私の知っている限りを詳細に書き記してみよう。
  (1)短歌   
○本来は長歌の後に詠み添える短歌形式のもの。ここでは『古今集』真名序と同じく短歌と同義に使っている。



○古今・仮名序。

○須佐之男命。天照大神の弟。凶暴で天の岩屋戸の変を起し高天原を放逐された。『古事記』上巻に詳しい。
足名椎は出雲の国津神大山祗神の子、手名椎はその妻、簸川の川上に住む。娘奇稲田媛をねらう八岐大蛇を素盞鳴尊が退治し、媛は尊と結婚する。『古事記』上巻参照。
定形短歌を意味する
「いづも」(出雲)にかかる枕詞



「かた」(片)、「にほのみづうみ」(鳰の湖)にかかる枕詞。この歌、『日本書紀』巻二十二(推古天皇)では、長歌であり、『拾遺集』においても左注形式で、継続する「になれなれけめや」以下を補っている。顕昭の『古今集序註』によると、この歌を短歌形態としたのは俊頼が最初だという。また保安元年(1120年)書写の関戸本『三宝絵詞』中巻第一話の片岡山説話もこの歌を短歌とする。なお、この贈答歌は『今昔物語集』巻十一「聖徳太子於此朝始弘仏法語第一」にもあるが、説話は異なる。

普賢菩薩とともに、釈尊の左に侍して智恵をつかさどる仏。普通は獅子に乗る。
用明天皇の皇子。本名は厩戸皇子、豊聡耳皇子・上宮太子などとも。聡明で博識、仏教に深く帰依。第三十三代推古天皇即位とともに皇太子、摂政として政治を行い、「冠位十二階」「憲法十七条」を制定。仏教を奨励し寺院を建立し、『三経義疏』を著述。574−622年。
大阪府に含まれる。ただし斑鳩は大和国で、俊頼の誤記か。
聖徳太子の斑鳩の宮のあった所。奈良県生駒郡斑鳩町。法隆寺の東院夢殿が宮の址といわれる。
観世音菩薩の称号。衆生を済度するゆゑの称。観世音は勢至菩薩とともに阿弥陀如来の脇侍。『法華経』の普及とともに広く崇拝された。
『拾遺抄』本文の初句は「としをへて」
藤原公任撰、十巻五百八十八首の撰集。『拾遺集』の母胎となったもので、平安末期までは第三代の勅撰集として享受流布していた。
。僧侶が仏道を修めること。
『拾遺抄』の詞書は「おこなひし侍ける人の、くるしくおぼえ侍ければ、えおき侍らざりける夜のゆめに、おかしげなる法師のつきおどろかして、よみ侍ける」とある。
他系統本には「神仏」とあるが、底本は明らかに「神仙」とあるので、これに従う。
 はじめには反歌のすがた、

やぐもたつ いづもやへがき つまごめに 
     やへがきつくる そのやへがきを
 
 〔古事記・上一〕
               
これは、
素盞鳴尊と申す神の、出雲の国にくだり給ひて、足名椎・手名椎の神の、いつき娘を娶りて、もろともに住み給はむとて、宮造りし給ふときに、詠み給へるおほん歌なり。これなむ、句をととのへ、文字の数をさだめ給へる歌の、はじめなる。八雲たつ といふはじめの五文字は、その所に八色の雲の立ちたりくるとぞ、書きつたへたる。

しなてるやかたをかやまにいひにうゑて
      ふせるたびびとあはれおやなし
 
 〔拾遺・哀傷1350 聖徳太子〕
 返し 
いかるがやとみのをがはのたえばこそ
      わがおほきみのみなはわすれめ
 〔新撰和歌髄脳・三、拾遺・哀傷・1351〕


これは、
文殊師利菩薩の飢人にかはりて、聖徳太子にたてまつり給へる御返しなり。河内の国に、斑鳩といふ所に、富の小川といへる川のほとりに、飢ゑたる人の臥したるをみて、あはれび給ひければ詠める。飢人は文殊なり。太子は救世観音なれば、みな御心のうちに知りかはして、詠ませ給ひけるにや。



あさごとにはらふちりだにあるものを
     いまいくよとてたゆむなるらむ
 〔拾遺抄・雑下・578、拾遺・哀傷・1341〕

これは、拾遺抄の歌なり。おこなひしける人の、あからさまに寝ぶりいりたりければ、枕がみに、うつくしげなる憎のゐて、つきおどろかして、詠めるとしるせり。これらは神仙の御歌なれば、反歌の例にしるし申しけるなり。
まずはじめに、一般的な五・七・五・七・七の短歌の様式とは、次の歌が示している。

やぐもたつ・・・(立ち昇るみごとな八色の雲のような垣を、妻をこもらせるため、この出雲に幾重にも巡らそうよ。その垣を) 

この歌は、
素盞鳴尊という神が、神代に高天原から出雲の国に降られて、地の神である足名椎・手名椎夫妻の鍾愛の娘と結婚し、いっしょにお住みになろうとして、新殿をお造りなさった時に、お詠みなさった御歌である。この歌こそ、五・七・五・七・七と、句数とその順序、一句の文字数も決り整った和歌のはじまりである。「八雲たつ」という初句の五文字は、出雲のその場所に、八色の雲が立ち昇ったのでお詠みになったのだと、古書に書き伝えている。

しなてるや・・・(この片岡山に、食物もなく飢え臥している旅人がある。かわいそうなことよ。お前には親がないからであろうか) 

   その返歌に、飢人が、

いかるがや・・・(太子様の宮処のある、この斑鳩を流れる富の小川は、流れの絶えることはないでしょうが、もし万一はるか後に絶えたとしても、それ以後まで私は、情けをかけられた太子様の御名を、けっして忘れません) 

この返歌は、文殊師利菩薩が臥していた飢人に代わって、聖徳太子の御歌に応え奉ったのである。河内の国の斑鳩という所を流れている富の小川の川岸に、飢え疲れた旅人が倒れているのを、聖徳太子が御覧になり、悲しみ同情して詠まれたのである。じつは、飢人は文殊師利菩薩の化身であり、太子も救世観音の仮の御姿であったので、お互いの意図は知り尽していて、世のためお詠みになったのであろうか。

あさごとに・・・(毎朝掃除をしても塵はたまる。そのように修行を怠らなくても不十分なのに、いったいどのくらい生きられると思って修行を怠るのであろうか) 

これは『拾遺抄』にある歌である。修行をしていた僧が、しばらくの間寝込んでしまった時に、夢に、上品な僧が来て枕上に座り、揺り動かして目覚めさせ、この歌を詠んだと詞書に記している。以上の歌は、神通力を得た方々の御歌であるので、定形の和歌が古くから詠まれていた例として、書き留めるものである。
 
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  (2)旋頭歌(せどうか)  
『万葉集』等にある旋頭歌は、五七七の六区形態、すなわち片歌形態が繰り返された形となっている。俊頼論は平安時代に入ってからの異体を主としており、単に短歌形態より一句多いのを旋頭歌としている。

















『古今集』本文は贈答歌。贈答は「うちわたす遠方(そちかた)人にもの申すわれそのそこに白く咲けるは何の花ぞも」、返歌は「春されば野辺にまづ咲く見れど飽かぬ花幣(まひ)なしにただ名告るべき花の名なれや」。『古今六帖』の四句目は「そもそこに」。
 次に、旋頭歌といふものあり。例の三十一文字の歌の中に、いま一句を加へて詠めるなり。五文字の句、七文字の句、ただ心にまかせたり。加ふる所、また詠み人の心なり。しかはあれど、はじめの五文字、二つ重なれる歌はみえず。

ますかがみ そこなるかげに むかひゐて  
  みるときにこそ しらぬおきなに あふここちすれ
 〔新撰髄脳・17、拾遺・雑下・565〕

これは、中に七文字を添へたるなり。


かのをかに くさかるをのこ しかなかりそ
  ありつつも きみがきまさむ みまくさにせむ
 〔新撰髄脳・16、拾遺・雑下・567〕

これは、中に五文字を添へたるなり。


うちわたす をちかたひとに ものまうす 
  そもそのそこに しろくさけるは なにのはなぞも
 〔古今・雑躰・1007、新撰髄脳・15、六帖四・2510〕

これは、はてに七文字を添へたるなり。さまざま多かれど、さのみやはとて、しるし申さず。
 次に旋頭歌という形態がある。あの三十一文字の定形の中に、あと一句を加えて詠んだ様式である。加える一句は、五文字句でも七文字句でも、詠む人の自由である。また加える位置も、詠む人の意のままでよい。しかしながら、はじめから五文字句が二つ連続した旋頭歌は、古書にもない。

ますかがみ・・・(驚いたことだ。向き合った鏡の底に映る人影を見ると、私ではなく、まったく知らない老翁に逢うような気持ちがすることだ) 

この歌は、定形形式の中間に「みるときにこそ」と、七文字句を加えた例である。

かのをかに・・・(あの岡あたり一面で、草を刈っている男子よ。そう残りなく草を刈ってくれるな。いずれ必ずおいでになる私の恋人のための、馬のまぐさにしたいのですよ) 

これは、短歌形式の中間に「ありつつも」と五文字句を添えた例である。

うちわたす・・・(私は、はるか彼方にいらっしゃるあのお方にお尋ねしたい。いったい、その辺に真っ白に咲いているみごとな花は、なんの花なのでしょうか。私はぜひ知りたいものだ)

この旋頭歌は、終りに七文字句を加えたものである。このような例は、いろいろと多くあるけれども、これ以上例示しても意味ないので、打ち切ることにする。
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  (3)混本歌(こんぽんか)  
混本歌(こんぽんか)。『古今集』真名序、『喜撰式』、『孫姫式』にみえるが、正確な形態は未詳。この当時からは、短歌形態より一句少ないものを混本歌と考えていたらしい。





○『新撰和歌髄脳』によると「三国町の祝歌云」とある。
 次に、混本歌といへるものあり。例の三十一字の歌の中に、いま一句を詠まざるなり。

あさがほの ゆふかげまたず ちりやすき はなのよぞかし
 〔新撰和歌髄脳・10〕

これは、末の七文字を詠まざるなり。

いはのうへに ねざすまつがえ とのみこそたのむこころ あるものを
 〔新撰和歌髄脳・9〕

これは、中の七文字の、十文字あまり一文字ありて、はての七文字のなきなり。これもひとつの体なり。
 次に混本歌という形式がある。定形五・七・五・七・七のうち一句を詠まない形態である。

あさがほの・・・(朝顔が夕日に映えることなくしぼんでしまう。そのように表面は花やかだが、はかない世の中であることだ)

この混本歌は、末尾の七文字句を詠まない様式である。

いはのうへに・・・(巌の上に、しっかりと根を据えた太い松枝のように、あなただけだと頼りにする気持ちがあるのですよ。私は)

これは、中間の七文字句が十一字句となって、末句の七文字句がない形である。このような形態も、混本歌の一様式である。
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  (4)折句(をりく)   
平安前期、仁明・文徳朝頃の人。六歌仙および三十六歌仙の一人。婉麗な歌を詠み、また絶世の美女と伝えられ多くの小町伝説がある。

【校注者】
各句の一字目に「ことたまへ(琴を拝借させてください)」と入れて用件を伝え、一方、「琴」と同音の「こと(言葉)」について歌を詠みかけている。返歌も同様に「ことはなし(琴はございません)」と答えながら、「こと(言葉)」についての返事もしている。返歌、「花を折って散らしてしまった」「どこかへ遣ってしまった」ととるのは考え過ぎか。
 次に、折句の歌といふものあり。五文字ある物の名を、五句の上に据ゑて詠めるなり。小野小町が、人の許琴かりにやる歌、

とのはも きはなるをば のまなむ 
         
つをみよかし てはちるやは
 〔新撰和歌髄脳・11〕
  返し
とのはは こなつかしき なをると 
         
べてのひとに らすなよゆめ
 〔新撰和歌髄脳・12〕

句ごとの、はじめの文字を、読みてこころうべし。

 次には、折句の歌という表現様式がある。五文字分の事物の名称を、五句おのおのの頭に置いて詠んだ歌である。小野小町が、ある人のもとに琴を借りようとして持たした歌、

ことのはも・・・(ことたまへ。いったん口から出した言葉は永久に変えないようにしたいものだ。あの松葉の、時がたっても色も変わらず散らないのを見るように)

  頼まれた人の返歌、

ことのはは・・・(ことはなし。あなたのお言葉は―折句の歌―いつお聞きしても懐かしいものです。その花を折るように、出ばなを折ってしまった―琴がなかった―とは、ほかの人には知らさないでくださいね。けっして)

この折句の贈答は、各句ごとの最初の文字をたどれば、意味がわかるであろう。
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  (5)沓冠(くつかぶり)   

合薫香。数種の香料を練り合わせて作った香。

○村上御集・83、栄花物語・1・1。この折句沓冠の歌は、『新撰和歌髄脳』にも「仁和の聖主、沓香殿の女御の御許に遣はせる御製歌云」とあるが、『村上御集』にあり、『栄花物語』巻一・一にも、村上天皇と広幡御息所の逸話として記されているので、村上天皇御製と思われる。
○光孝天皇。流伝をそのまま記した俊頼の誤認か。
○村上天皇更衣源計子。広幡中納言庶明の娘、村上天皇との贈答歌が『拾遺集』以下に収載され、『十訓抄』によると、梨壺五人による万葉古点の発案者という。


○この折句沓冠の歌は『新撰和歌髄脳』によれば「貞行朝臣、かつらに行き通ふ所侍りけるに、京上したりと聞きて、七月七日到れりけるに、前に、花すすき、女郎花あるけるを見て、詠めるなり」とある。
 次に、沓冠折句の歌といへるものあり。十文字ある事を、句の上下におきて、詠めるなり。 あはせ薫(た)き 物すこし といへる事を据ゑたる歌、


ふさか てはゆきき きもゐ 
         たづねてこばこ きなばかへさじ     
 〔新撰和歌髄脳・13〕


これは、
仁和のみかどの、かたがたにたてまつらせ給ひたりけるに、みな心もえず、返しどもをたてまつらせ給ひたりけるに、広幡の御息所と申しける人の、御返しはなくて、薫き物をたてまつらせたりければ、心あることにぞおぼしめしたりけると語り伝へたる。 をみなへし はなすすき といへる事を、据ゑて詠める歌、

ののは しあきにに りぞま 
         へしだにあやな しるしけしきは     
 〔新撰和歌髄脳・14〕

これは、しもの 花すすき をば、さかさまに読むべきなり。これも一つのすがたなり。
 次にはさらに、沓冠折句という詠み方の和歌がある。十文字分の事物の名前を、五句それぞれの上下に一字ずつ置いて詠んだ歌である。たとえば、「合せ薫き物少し」ほしいという頼み事を、句の上下に置いて詠んだ歌、

あふさかも・・・(あはせたき・ものすこし。あの逢坂の関も、夜更けになれば往来を取り締まる関守もいない。同じようにここも人目は多いが、夜更けならば来たい女性は来なさいよ。もしも来たならば帰すことなく愛してあげますよ)

この歌は、光孝天皇が後宮の方々にさし遣わされたものだが、ほとんどの方が意味がわからず、とりあえず返歌を奉った中に、広幡の御息所と呼ばれた方だけが、返歌は申し上げず練香をさしあげましたので、天皇はこの御息所を、和歌の知識の深い者よと感心されていたと、今に語り伝えられている。「女郎花」「花薄」という各五文字を各句の上下に置いて詠んだ歌、

をののはぎ・・・(をみなへし→・はなすすき←。この小野萩は、去年の秋見た時とすっかり変わり、群生し花もたくさんつけている。考えてみると、長い間訪れなかったことは失敗であった。萩でさえ、一年間にこんな変化を示しているのだから)

この、各句の下に置いた文字「はなすすき」は、第五句末から逆さまにたどらなければ読めない。これも一つの詠まれ方である。
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  (6)廻文(くわいぶん)


○この廻文歌は本書が初出。『奥義抄』以下の廻文歌の例歌として多く使われるが、出典不明。


○不詳。小論・抄論ともあり、また尼ではなく后とする書もあるが、いずれが正しいか未詳
 
 次に、廻文の歌といへるものあり。草の花を詠める歌、

むらさくにくさのなはもしそなはらばなぞしもはなのさくにさくらむ
 〔出典不明〕

これは、
摂論の尼が歌なり。さかさまに読めば、すみのまのみす といへる事の体に、おなじ歌に詠まるるなり。
 次に、廻文歌という作り方がある。草花を詠んだ歌で、

むらくさに・・・(あの雑然と群生している草々の、一つ一つの名前に、外見してわかるように瘡(くさ)という意味がもし込められているのならば、なぜにあのような美しい花をたくさん咲かせるのであろうか)

これは、摂論の尼が作った歌である。逆さに読んでも、ちょうど「隅(すみ)の間(ま)の御簾(みす)」と同じ文字の続け方で、上からでも下からでも、同義の歌として詠んだものである。

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  (7)長歌
現在の長歌の意に使う。『歌経標式』『喜撰式』『孫姫式』および『古今集』真名序にみられる和歌の形態的区分の名称は、短歌・長歌ともに現在の概念と同様に呼ばれている。ところが、同じ真名序の和歌、すなわち短歌の起源の説明に「はじめて三十一字の詠あり、今の反歌のおこりなり」と説明したり、『古今集』巻十九「雑躰」に詞書には「長歌」とありながら、項目立てに「短歌」と標出したりしている。この頃から名称の混乱が生じたのか。以後、時代を通じて、長歌・短歌の概念規定論は繰り返されている。
○おきつなみ。「荒れ」の枕詞。
○皇后(皇太夫人)温子の薨じた東七条宮。
○作者自身の「伊勢」を「伊勢の国の海人」に譬えた。
○海人の縁により皇后を舟に仮託した。
○伊勢が皇后に頼ることを舟が岸に寄ることに譬えた。
○悲しみが極まると血の涙(紅色)が出る。
○紅の涙を時雨に見立て、その時雨のたび重なりにより、紅葉は色濃くなり散っていく。見立てと縁語による巧妙な事件の展開を叙述している。
○后と后に仕えた人々。「かた」は「かげ」が正しい。
○穂の出たすすき。
○風になびく薄の穂を、空に向って亡き后を招く、人々の袖と、心象的に仮託した。
○平安初期の歌人。三十六歌仙の一人。伊勢守藤原継蔭の娘。宇多后温子に仕え、宇多天皇の皇子を生み「伊勢の御」と呼ばれた。歌人中務の母。
○宇多天皇女御温子。関白藤原基経の娘。醍醐天皇即位に際し、その養母たるにより皇太夫人となり中宮職が置かれ、中宮・皇后と称された。延喜七年(907年)六月八日薨ず。延喜三年から薨ずるまで東七条宮に住んだので七条中宮・東七条皇后と呼ばれた。
○柿本人麻呂。
○天武天皇の皇子。壬申の乱に天皇に代わって軍事を統括し、690年太政大臣となり696年薨ず。
○原拠は『万葉集』巻二・199にあるが、冒頭部だけで大部分を欠き、しかも原文と比べると省略も多く異文もはなはだしい。これとほぼ同文のものは『孫姫式』『新撰和歌髄脳』にみられるので、これからの孫引きか、あるいは共通する『万葉抄』によったものであろう。
○以下の叙述は、伊勢の長歌が、我が名から海人に託し、水の縁により表現を展開し、涙を時雨に、時雨からその縁により紅葉を導き出し、花薄で結んだ言葉の技巧的表現に対して、心象的には直接表現であることをいう
○卵。殻子(かいご)の意。小鳥の卵。
○万葉歌は、次点期の訓であり、新点以後とだいぶ異なる。この箇所も十文字句二句とするが、現在の訓によれば、「己(な)が父に 似ては鳴かず 己が母に 似ては鳴かず」と五・七・五・七となっている。なお、『袋草紙』上巻(藤原清輔)においても、「俊頼朝臣抄物云」として、この拙をあげ、「予見数本、全其句不違乱、如何。件歌在彼集第九巻。家持歌也」として、「長歌ノ旋頭歌」という俊頼説を否定している。
○幣。札物として奉る物。贈物。
○自己の動作に対する謙遜の助動詞。
○「たつ」(立)・「たゆ」(絶)にかかる枕詞
○「ひらけたる」は現訓「咲きをゐる」。
○以下の現訓を参考のため示すと「秀つ枝は 散り過ぎにけり 下枝に 残れる花は しましくは 散りな乱れそ 草枕 旅行く君が還り来るまで」とあり、引用の句切れと異なる。
○「たび(旅)・むすぶ(結)・ゆふ(結)・かり(仮)・つゆ(露)・たご」等にかかる枕詞。
○五・七の連続の間に五字句が添加されたとするが...
○『古今集』仮名序等に引用され和歌の父母と言われた有名歌の上句。
○上句(かみのく)「
五・七・五」のこと。下句(しものく)は末(すえ)。
○「浅香山」の歌の第四句。
○詠む内容を、種々の事物に仮託して表現する。したがって仮託した事物によって表現する詞は変わる。
○この長歌は主を失った故皇后温子東七条宮の寂寞さを荒海、故后を舟、仕えていた者を舟を失い海中に残された海人と比喩してはじまる。しかしながら悲しみの紅涙を袖にそそぐ時雨とたとえた句で水の縁が切れ、時雨→紅葉→散る(人々の離散)→残る花薄→穂が空を招く(故后を慕う)→空飛ぶ初雁→外から泣き悲しむ(伊勢)と、仮託する事物を変えながら追悼の情を表現している。
○公任の『新撰髄脳』に
、「貫之、躬恒は中比の上手なり」とあるが、ここの中比はそれ以後、おそらく髄脳類の多く作られたと思われる村上朝以降をさすか。
○中国の古歌謡を集め、それに楽章をつけた『楽府』のうち、相和歌辞五、四絃曲の名称。人生の短いのを嘆き、時には音楽で楽しもうという意味を述べたものという。
○『楽府』のうち平調曲の名称。人の寿命の長短を歌うことから付けられたとも、また歌声の長いことから名づけられたともいわれる。
 次に、短歌といへるものあり。それは、五文字、七文字とつづけて、わが言はまほしき事のある限りは、いくらとも定めず、言ひつづけて、はてに七文字を、例の歌のやうに、二つつづ綴るなり。


おきつなみ あれのみまさる みやのうちに としへてすみし いせのあまも ふねながしたる ここちして よらむかたなく かなしきに なみだのいろの くれなゐは われらがなかの しぐれにて あきのもみぢと ひとびとは おのがちりぢり わかれなば たのむかたなく なりはてて とまるものとは はなすすき きみなきにはに むれたちて そらをまねかば はつかりの なきわたりつつ よそにこそみめ     
 〔古今・雑躰・1006 伊勢〕



これは、
伊勢が、七条の后におくれたてまつりて、詠める歌なり。こと葉をかざりて、よそへ詠めれば、この頃の人は、これを学ぶなるべし。人丸が、高市の皇子に寄せたてまつれる歌、


かけまくも かしこけれども いはまくも ゆゆしけれども あすかやま まがみがはらに ひさかたの あまつみかどを かしこくも さだめたまひて かみさぶと いはがくれます まきのたつ ふはやまこえて かりふやま とどまりまして あめのした さかえむと われもともども
 〔孫姫式・新撰和歌髄脳・4〕


これは、
こと葉もかざらず、差し事に鏈(くさ)れるなり。また、万葉集の中に、十文字ある句を、二つ添へたる歌、


うぐひすの かひごのなかの ほととぎす ひとりうまれて しやがててににてなかず しやがははににてなかず うのはなの さけるのべより とびかへり きなきとよまし たちばなの はなはをちらし ひねもすに なけどききよし まひはせむ とほくなゆきそ わがやどの はなたちばなに すみわたれとり
 〔万葉・巻第九・1759〕


これは、よく知れる人もなし。ただ、旋頭歌のやうに、句を詠めれば、短歌の中に、旋頭歌とぞみ給ふる。

しらくもの たつたのやまの たぎのうへの をぐらのみねに ひらけたる さくらのはなは やまたかみ かぜしやまねば はるさめの つぎてしふれば いとすゑの えだはおちすぎ さりにけり しづえにのこる はなだにも しばらくばかり なみだれそ くさまくら たびゆくきみが かへりくるまで
 〔万葉・巻第九・1751〕


これは、
くさまくら といふ五文字の添へるなり。これを長歌(ちやうか)といへる事あり。世の末の人、さだかに知ることなし。ただうけ給はりしは、なが歌といへるは、長くくさりつづけて詠みながせるにつきて、長歌(ながうた)とはいふなり。ことばの短きゆゑに、みじか歌とはいふなり。詞みじかしといふは、例の三十一字の歌は、花とも、月とも、題にしたがひて詠むに、その物をいひ果つるなり。たとへば、浅香山かげさへみゆる山の井の と本(もと)にいひつれば、浅くは人をなど、なほ水のことに係りたる詞を、いひながすなり。この、短歌(みじかうた)には、歌のうちに言ふべき心をば、末まで言ひ流せども、詞を変へつつ、言はるるにしたがひて、わたり歩くなり。たとへば、沖つ浪荒れのみまさる宮のうちに と思ひ寄りなば、末まで、その海のことばに即きて、果つべきなり。これは、こと葉にひかされて、涙の色のくれなゐはといひて、また、花すすき にかかりて、空 をまねかせて、末に、初雁の鳴きわたりつつ と言ひて果つれば、歌の一つがうちに、数多の物を言い尽せるによりて、短歌(みじかうた)とはいふなりとぞ、中比(なかごろ)の人申しける。ただし、例の歌にも、あまたの物を詠める歌あり。あづさ弓おして春雨 ともいひて、末に、あすさへ降らば若菜つみてむ とも詠む。さればにや、例の歌を短歌(みじかうた)とも書きたる髄脳も見ゆるは。詩に、短歌行(たんかかう)、長歌行といへる事あり。されど、それにその心かなはずとぞうけ給はる。
 










 

 次に、短歌という形態がある。この様式は、五・七と繰り返し続けて、自分が歌に表現したい思いがある限りは、何句までと限定せずに、五・七と反復し続けて、終りに七文字句を、普通の三十一字の和歌のように七・七と二つ続けて止めるのである。

おきるなみ・・・(沖つ浪が荒れ増さるだけになったような、この皇后御所の中で、長年お仕えして老練な伊勢の海人のような私でさえも、このようなありさまになりますと―七条后崩―舟を流してしまったような心地がして、どこの岸辺に辿り着きようもなく、悲しみに沈んでいます。この悲しさで流す紅の涙は、私たちに降り注ぐ時雨のようなもので、それによって晩秋の紅葉が散るように、ともにお仕えした人々が別れ別れに去ってしまいますと、後には寄るべき木陰一つなくなってしまう。そして御所に残るものとしては、主なき庭に群生する花薄だけですが、その穂が、昇天された皇后様に呼びかけるがごとく、空に向って招くのを、私は初雁が鳴き渡るように、御所の外から泣きながら思いやることでしょう)

この歌は、あの伊勢が、お仕えする七条后温子に先立たれて詠んだ短歌(長歌)である。縁語・掛詞等を使い、種々な物に思いを寄せ、飾って詠んでいるので、今の人々は、このような詠み方を手本として学ぶのであろう。柿本人麻呂が高市皇子の殯宮に奉ったという挽歌、

かけまくも・・・(心にかけて思うことも畏れ多いことであり、口に出して言うのも忌みはばかられることでありますが、あえて申し上げます。あの明日香の真神原に、治世のための御殿を、かたじけなくもお定めになったが、悲しいことには、今は神となって御陵の中にお隠れになった高市皇子様よ。思えば、真木のそびえる不破山をお越えになり、かりふ山にお留りのうえ、この日の本を繁栄させようと、御自身も民草とともに努力されていたのに、痛ましいことになった)

この歌は、とくに修飾した言葉もなく、直接想うことを表現し続けているのである。また、同じ『万葉集』の中に、十文字もある句を二つも加えた歌がある。

うぐひすの・・・(あの鶯の卵の中に生み落とされ、鶯の雛に交じって、一羽の異分子として生れた郭公よ。お前は、育ての親である雌雄の鶯の面影もなく、その美声とはまったく掛け離れている。しかしながら、初夏になって、卯の花の咲く野辺から勇ましく飛んできて、高い声をあたりに響かせ、橘に止まっては、その花や葉をついばみ散らす。このように一日中鳴き散らしているが、私にとっては、むしろ男性的ないい声に聞こえる。郭公よ、いい物をあげるから、遠くへ行かないでくれ。このまま私の家の花橘に、長く棲みついてくれよ。郭公よ)

この歌に加えられている十文字句については、法則的にはだれも説明できない。しかしながら、三十一字歌に対する旋頭歌の一句挿入と同じ詠み方であるから、短歌(長歌)の中の旋頭歌的なものともみるべきであろう。

しらくもの・・・(この竜田山の山群の中の、激しい流れを前景とした小桜(おぐら)の嶺に、咲いている桜の花は、山が高くて風が止まないうえに、春雨が降り続いているので、枝の先端の花は、すでに散り去ってしまった。せめて、下枝に残った花だけでも、しばらくの間は散らないでほしいことだ。あの旅に出た方が、間もなく帰られるまでは) 

この歌は、普通の短歌(長歌)形式に、「くさまくら」という五文字句が別に添えられたものである。以上述べた五・七の繰り返しの形態を、長歌と称することもある。時代が下った今では、なぜだかはっきりわからない。ただ、私が聞いた範囲でいえば、「長歌」というものは、五・七を繰り返し長く連続して詠み続けることによって「ながうた」というのである。また、詞が短いので、「みじかうた」ともいうのである。この「詞が短い」という意味は、あの三十一文字からなる基本形の歌は、花だとか、月だとか、歌題をもとにして詠むのだが、五・七・五・七・七の中で、与えられた主題を表現しつくしている。たとえば、人を思う心を詠んだ古来有名な歌、「水が浅い上に浅香山という名の山までが映っているこの山の井のように」と上句を序詞で詠んだので、「山の井」にかける詞として「浅くは人を」と水の縁語ではじめて、「思ふものかは」と下句を完結させている。これに対して、この短歌(長歌)の表現様式は、一首の中に詠み込みたい内容情緒は、結句までに表現されてはいるものの、叙述の過程で寄せる詞を変化させ、一方では、変えた詞に引っ張られて、それに即した叙述をするというように、表面上は多岐の表現をとるのである。たとえば前述した伊勢の短歌(長歌)で、故后の宮殿を「沖つ浪荒れのみまさる宮」と比喩さたならば、定形歌ならば海の縁語で内容を展開させて完結させるべきだろう。とろがこの歌は、前の詞につれて、「涙の色の虹は」と海の縁語から変化し、ついには植物の「花薄」が表現され、それによって「空」を招かせ、結果的には空を飛ぶ「初雁の鳴き渡る」に作者の悲痛な心情を託して、詠み終っている。このように一首の歌の中に、数多くの事物を詠み込み心情を寄せているので、「みじかうた」というのだと、中昔の人は説明している。ただし、例の定形三十一字歌の中にも、多くの事物を詠み込んだ歌がある。『古今集』の春歌「梓弓は押し曲げて絃を張るが、今日はおしなべて春雨が降った」と上句で二つのことを詠み、下句で「明日も降るならば、もう若菜が摘めるだろう」と別のことを表現している。このような例もあるので、定形三十一文字歌を「短歌」と書いた作法書があるのであろうか。漢詩の連句に、短歌行・長歌行という様式がある。しかしながら、それとはまったく別の概念であると聞いている。
 
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   (8)誹諧歌(はいかい)
○『古今集』巻十九「雑体」の中の標目は「誹諧歌」。誹諧は中国の詩で使われた用語で「滑稽」の意味。ここではそれを「ざれごと歌」と解したのであろう。
○美しい鳴き声で、だれでも賞する鶯の「ホーホケキョ」を「サーヒトク(人来)」と、警戒の合図と見立てた誹諧的用語。
○「をみなへし」の「をみな」から、若い女性たちの嬌態に見立て、「なまめく」を植物の形容に使い、下句の「はな」も、女郎花の花の盛りと若い女性の女盛りをかけている。
○『古今集』本文は四句「あなかしがまし」。

○藤原頼通(992〜1074)。道長の子。後一条朝から後冷泉朝にいたる四十数年間関白の職にあり、いわゆる摂関時代の統括者として多くの歌会・歌合を主催し、私家集・歌合の集成もした。宇治に平等院を建立し別所としたので世に宇治関白と言われた。
○藤原公任(966〜1041)。関白小野宮頼忠の子。博学多芸で当時の人々に尊敬されたが、とくに和歌においては『拾遺抄』以下の秀歌撰、『新撰髄脳』等の歌論書を著し紀貫之の歌観を発展させ、俊頼以下の後代歌人に多大の影響をあたえた。四条宮に住んだので四条大納言と呼ばれた。
○源経信(1016〜1097)。俊頼の父。公任以後の期に、博学多芸を賞され、大宰権帥で薨じたので帥大納言と呼ばれた。
○藤原通俊(1047〜1099)。白河天皇の近臣として親政をを助けた。そのため源経信等の先輩歌人を超えて第四代勅撰の『後拾遺集』撰集下命を受け、非難を浴びた。
 次に、誹諧歌といへるものあり。これよく知れる者なし。また、脳髄にも見えたることなし。古今について尋ぬれば、ざれごと歌といふなり。よく物言ふ人の、戯れたはぶるがごとし。

むめのはなみにこそきつれうぐひすのひとくひとくといとひしもする
 〔古今・雑体・1011〕
あきののになまめきたてるをみなへしあなことごとしはなもひととき
 〔古今・雑体・1016 僧正遍昭〕



これがやうなることばある歌は、さもと聞ゆる。さもなき歌の、麗はしきことばあるは、なほ人に知られぬことにや。
宇治殿の、四条大納言に問はせ給ひけるに、「これは尋ね出だしまじき事なり。公任、逢ひとあひし先達どもに、随分に尋ねさぶらひしに、さだかに申す人なかりき。しかればすなはち、後撰、拾遺抄に撰べることなし」と申されければ、「さらば、術なき事なり」と申してやみにきとぞ、帥大納言におほせられける。それに、通俊中納言の後拾遺抄といへる集を撰びて、誹諧歌を撰べり。若(もし)おしはかりごとにや。これによりて、異事もおしはかるに、はかばかしき事やなからむとこそ申されしか。
 次に誹諧歌という名目がある。この意味をはっきり知っている者はいない。また脳髄類にもまったく記載されていない。『古今集』を見てみると、雑体の中の「ざれごと歌」に該当するようだ。多弁な人がよくする、冗談事のようなものであろう。

むめのはな・・・(私は梅の花を見に来たのであって他意はまったくないのだ。それだのにあの鶯は「ヒトク、ヒトク」とわざわざ私を嫌って鳴くとは、どうしたことだろう)
あきののに・・・(女郎花がしなをつくって秋の野に並んでいる。ああうるさいやつだ。花の盛りもひとときだよ)

この二首のように、鶯の鳴き声を「人来(ひとく)、人来」、また女郎花を女性とみて、「艶き立てる」等と表現してあれば、なるほどと思われる。このような見立てもなく、一見端正な雅語で表現されている誹諧歌は、今の我々に察知できない、内容・表現的な滑稽味があるのであろうか。私にはわからない。この誹諧歌の概念について、宇治関白頼通公が四条大納言公任に御質問なさったが、答えは「このことは詮索してはいけないことです。私は、今まであらゆる歌の先輩に、事あるごとにくどくどと尋ねましたが、誹諧歌とは、こういう歌なのだと、明確に説明した方はありませんでした。だからこそ、『古今集』以後の『後撰』『拾遺』二集には撰歌されていないのです」と申し上げたので、「それでは、どうしようもないことだ」と言って沙汰やみにしたと、頼通公が父帥大納言経信に話されたという。それにつけても、通俊中納言が『後拾遺抄』を勅撰した時に、誹諧歌として雑六に撰び入れている。おそらく通俊だけの当て推量による定義だてではなかろうか。このことによって『後拾遺抄』の他の部面を考えると、はっきりした撰歌でもなかろうと、父経信は批判していたことである。
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   (9)連歌(れんが) 
○上下句(本末)それぞれだけでは連歌ではない。詠みかけた句と応じた句の最小限二句(短連歌)を必要とする。
○『和漢朗詠集』夏夜の人丸詠とされている「夏の夜をねぬに明けぬといひおきし人は物をや思はざりけむ」が元歌か。『狭衣物語』等に引歌として多く使われている。「みぢかきものと言ひ初めし」は本書のみ




○『万葉集』本文の詞書には「尼、頭句を作り、并せて大伴宿禰家持、尼に誂へられて末句を続ぎ、等しく和ふる歌一首」とあり、前句には「尼作る」、後句には「家持継ぐ」との割注がつく。








「おく」「たま」「け(消)」にかかる枕詞「白露の置く」の「おく」から同音の「奥」、「花の色々」つまり「女どものあまた」がいる「簾の内」を導く。
○『後撰集』
「こゑすれば」。

○『後撰集』では、「秋の頃ほひ、ある所に女どものあまた簾の内に侍りけるに、男の歌の本をいひ入れて侍りければ、末は内より」と詞書があり、「白露のおくにあまたの声すれば花の色々ありとしらなむ」と定形仕立てであり、本書のように上句は完結していない。
○丑三つ時(現在のほぼ午前三時頃)。この「丑三つ」に「憂し見つ」をかけた。時刻は一昼夜を方位に結びつけ十二支に配して十二等分し、一刻をさらに四等分した。子(ね)が午前零時、午が午後零時にほぼ該当する。
○「子」の時と、「寝」をかけた。
『古今集』の略称。
 次に、連歌といへるものあり。例の歌の(なから)をいふなり。本末(もとすゑ)心にまかすべし。そのなかからがうちに、言ふべき事の心を、いひ果つるなり。心残りて、付くる人に、言ひ果てさするはわろしとす。たとえば、夏の夜をみぢかきものと言ひ初めし、といひて、人は物をや思はざりけむ と末に言はせむはわろし。この歌を、連歌にせむ時は、夏の夜をみぢかきものと思ふかな といふべきなり。さてぞかなふべき。




さほがはのみづをせきあげてうゑしたを
        かるわせいひはひとりなるべし
 〔万葉・巻第八・1639 尼・大伴家持〕

これは、
万葉集の連歌なり。よもわろからじと思へど、こころ残りて、末に付けあらはせり。いかなる事にか。






しらつゆのおくにあまたのこゑすなり
        はなのいろいろありとしらなむ
 〔後撰・秋中・293〕

これは、
後撰の連歌なり。

ひとこころうしみついまはたのまじよ
        ゆめにみゆやとねぞすぎにける
 〔拾遺抄・雑上・450、拾遺・雑賀・1184 女・良岑宗貞〕

これは、拾遺抄の連歌なり。これ二つはあひかなへり。
古今には連歌なし。
 次に、連歌という様式がある。例の定形歌を二つに分けて唱和するのである。唱が上句でするか下句かは詠む人の自由である。ただし、その半分の中で表現内容を完結させるのである。これが未完結で、和する人に完結させるのは、連歌様式としては悪いことである。たとえば、あの有名な歌を単に二分して、「夏の夜は短いものだと最初に言った」と中途半端に詠みかけ「その人は私のように、恋しさの思いで夏の夜を長々と感じたことはなかったのであろう」と、つける人に定形歌のように完結させるのはよくない。連歌様式で詠めば上句を「私はつくづく夏の夜は短いものだと思いますよ」と完結させるべきである。そうすれば連歌らしくなる。

さほがはの・・・(佐保川の水を塞き止めて植えた田を)

と詠みかけて、

かるわせいひは・・・(刈り入れて炊いた早稲飯を食べるのは、ただ一人なのであろう)


と応じている。これは『万葉集』中の連歌である。よもや悪かろうはずはないのだが、唱が不充分で、和で完結させている。『万葉集』なのに、どういうわけであろうか。

しらつゆの・・・(白露の置くではないが奥の方から、花やいだ多くの声が聞こえますね)
はなのいろいろ・・・(そうですよ。花のような美女が大勢いるのがわかるでしょう)

これは、『後撰集』中の連歌である。

ひとこころ・・・(まあなんと、いくら遅れるといって丑三つ時に見えるとは。あなたのお気持ちはわかりました。私は憂しと見て、もう頼りにしないことにします)
ゆめにみゆやと・・・(いや、恋しいあなたを、せめて夢にでもみようとして寝過ごして子の時を過ぎてしまいました。お許しを)

この一組は『拾遺抄』中の連歌である。以上二組は連歌の様式にあてはまっている。なお、『古今集』には連歌は収載されていない。
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   (10)物名(もののな) 
○歌題に事物の名称をあげ、それを一首の中に詠み込むが、意味上表面に出さないので、かくいう。『古今集』巻十の部立名は「物名(もののな)」。
○拾遺・物名・384 すけみ、輔相集・384。表面上は芹の緑と白の対象の妙を詠む。「ふかぜり」は根の長い芹か。
○『八代集抄』に「荒船神社筑前也」とあるが不詳。因幡・信濃・上野(鳥取県東部・長野県・群馬県)に「荒船」の地または山があり、それぞれ神社があるが、いずれとも決めがたい。
○拾遺・物名・385 しげゆき、重之集・385。
○陸奥国名取郡。今の宮城県名取市。「名取川」「名取の里」は歌の名所として、『古今集』以来詠まれており、『能因歌枕』または順徳天皇『八雲御抄』名所部にもあげられている。
○一首の歌として表向きの表現内容も無理なくまとまっており、物名の隠し方も巧みであることをいっている。
○「りうたむ」は、りんどうの古称。
○物名を生かすため「秋近く」と「表現しないで、音便を使って「秋近う」とした。なお、下句は、白露と朽れゆく色の赤茶とを対比させている。
○「きちかう」。ききょうの古称。
○この二首で「竜胆」「桔梗」を、「りうたむ」「きちかう」と読んで表記しているのは、当時にあっては日常普通の言い方ではないとしている。「りんだう」「ききやう」が普通の言い方であったのであろう。『源氏物語』にも、「き経」(手習)・「りんたう」(葵等)と表記。
○普通の呼び方ではなく、その本属を示めす文字の意。すなわち漢字で書いた文字の意で、従って次の「そのまま」とは当時の漢字音の通りの意であろう。
○似る。『源氏物語』桐壺巻「げに御かたちありさま、あやしきまでぞおぼえ給へる」。
○「生腹」。生みの母。これに「梨原」をかけた。
○奈良(大和)の「なしはら」であれば、「内侍原(ないしはら)が該当し、歴世春日祭勅使の着御の地である。しかし、これは俊頼の錯覚で、『枕草子』の「駅はなしはら」に該当する近江国(滋賀県)栗太郡梨原郷であろう。
○大中臣能宣。延喜二十一年(921―正暦二年(991)。平安中期の歌人で三十六歌仙の一人。源順等とともに『万葉集』の訓読(古点)と『後撰集』の撰進に従った。撰者五人は「梨壺の五人」と称された。なお『拾意抄』『拾意集』ともに贈歌は仲文、返歌は能宣とする。
○藤原仲文。延喜八年(908)―天元元年(978)。平安中期の歌人で、三十六歌仙の一人。
○かりも。車の「こしき」の孔にはめた鉄の管。「かも」ともいう。
○拾意・雑下・535 藤原仲文。中国の『史記』に、秦の趙高が鹿をさして馬だと言った故事。事を設けて人をだまし愚弄することをいう。
○「鴨」と「ス」。
○「鴛鴦」と「惜し」。
○拾意・雑下・536 大中臣能宣。
○贈歌を受けて「惜し」と「鴛鴦」を逆に。
○同じく終助詞「かも」と「鴨」。
○俊頼はこの下句を、副詞「しか」と「鹿」、名詞「今」と「馬」をかけていると理解したようだ。しかし、上句を受けて「疑うなんて鹿を馬と言ったような理不尽のことというべきでしょう」の意ではないか。「今」と「馬」をかけているという解はいささか強引。
○俊頼は和歌の形態的相違と詠歌様式の種別を、一括して和歌の種類的区分として説明してきたので、『万葉集』の部類で、後代歌集に見られない部立名称を、これに含めて付記したのであろう。
 次に、隠題(かくしだい)といへるものあり。物の名を詠むに、その物の名を歌のおもてに据ゑながら、その物といふことを、隠してまどはせる。


くきもはもみなみどりなるふかぜりはあらふねのみやしろくなるらむ
 〔拾遺抄・雑上・476 藤原輔相〕

これは、
荒船の御社 とうへる九文字を隠して、よしなき芹の歌に詠みなせるなり。

あだなりなとりのこほりにおりゐるはしたよりとくることをしらぬか
 〔拾遺抄・雑上・481 源重之〕

これは、
名取の郡(こほり) といへる所の名を隠して、よしなき氷のうへに、鳥のおろかにゐる由を詠めるなり。これらはおもしろし。


わがやどのはなふみちらすとりうたむのはなければやここにしもすむ
 〔古今・物名・442 紀友則〕

これは、
竜胆(りうたむ)といへる花 を隠して、花ふみ散らせる鳥をうらむるなり。

きちかうのはなりにけりしらつゆのおけるくさばもいろかはりゆく
 〔古今・物名・440 紀友則〕

これは、
桔梗(きちかう)るといへる花 を、隠せる歌なり。これらは、常に人の言ふ様にもみえず。常に言へるさまには、詠みにくければ、まことに書ける文字を尋ねてぞ、そのままに詠めるなり。世の末にも、さやうなる事あらば、その文字を尋ねて、詠むべきなり。


きみばかりおぼゆるひとはなしばらのむまやいでこむたぐひなきかな
 〔夫木抄・14884〕


これは、ならは、
梨原(なしはら)のむまや といふ所の名を、題にして詠めるなり。これは、なべての言葉につかば、いまやいでこむ とこそ詠むべけれ。むまや といへるは、言たがひたるさまに聞ゆれど、拾遺抄に、能宣仲文に、車の(かも)といへる物を乞はれて、無しといひければ、


をさしてむまといひけるひともあればかもをもをしとおもふなるべし
 〔拾遺抄・雑下・542 藤原仲文〕
  返し 
なしといへばをしかもとやおもふらむしかむまとぞいふべかりける
 〔拾遺抄・雑下・543 大中臣能宣〕

これをみれば、いま といへる言葉をば、むま といふべしとぞみゆる。これをよく心得て、かやうに詠むべきなめり。



 
万葉集に、相聞歌といへるは、恋の歌をいふなり。挽歌と書けるは、悲みの歌なり。譬喩(ひゆ)といひ、問答といへるは、文字にあらはれぬ。
 次に、隠題という詠み方がある。事物の名称を詠むのだが、その物名を、表現上は文字として表に出しながらも、他の詞の中に取り込んで、その事物ということは意味的に隠して、読む人を惑わすのである。

くきもはも・・・(茎も葉も、全部緑色である根深の芹ではあるが、洗うと、どうして根だけが白くなるのであろうか)

この歌は、「あらふねのみやしろ」という九文字の詞を、意味上は隠して、表面は関係のない芹の歌に詠み繕ったものである。

あだなりな・・・(無知とはいえはかないことである。鳥が氷の上に降りて遊んでいるが、まもなく下から解けてくるというのに)

この歌は、「なとりのこほり」という郡名を隠して、郡とは無関係の氷の上に、鳥が解けるのも知らずに無知にも遊んでいることを詠んだのである。これらの隠し方は自然で優れている。

わはやどの・・・(我が家の庭の花を踏み散らす鳥を、打ちこらしてやろう。いったい、我が家だけに来るのは、他に花咲く野がないからなのであろうか)

この歌は「りうたむ(りんどう)という花」の名を隠して、表向きは花を踏み散らしている鳥を恨む表現内容をとっているのである。

あきちかう・・・(野原には秋が近づいてきた。白露の置いた草葉も、しだいに枯れて色づいてくるこの頃である。)

これは「きちかう(ききょう)という花」の名を隠した歌である。しかしながら、この二首の、「りうたむ」とか「きちかう」とかは、歌語であって、現在、普通に人々が竜胆(りんどう)や桔梗(ききょう)を呼ぶ言い方とも思えない。普通の言い方では、歌に詠みにくいので、漢字で書いた文字を探し字音で訓(よ)んで、そのとおりに歌に詠み込んだのである。末世の現在でも、そのような事例にあった時は、物の名を漢字で書いてみて、その字音で詠むべきである。

きみばかり・・・(なんとあなたはとくに、似ているとしてもお母上に似ていらっしゃいますね。さあお母様出ていらっしゃい。これほど似ている母子はありませんね)

この歌は、奈良の「梨原の駅家(うまや)」という場所を、物名の題として詠んだのである。この歌の「むまや」という表現は、普通の詞でいうと、「いまやいでこむ」と詠むべきであろう。それを「むまや」と使ったのでは、違った意味のようにとれるであろうが、次のような例がある。『拾遺抄』の中に、能宣が仲文から、牛車の「かりも」という器具の借用を申し込まれて、手もとになかったので「ない」と言ったところ、仲文が、

かをさして・・・(中国では鹿を指して馬と言った人もあったので、鴨〔ス(かも)〕を鴛鴦(おし)〔惜し〕と思うのも、やむをえぬことだろう)
   と言ってきたので、返事に能宣が、
なしといへば・・・(手もとになかったのでないと言うと、さもけちで貸し惜し〔鴛鴦〕むかも〔ス〕と疑っている。手に入れば送るのに、急ぐのならば〔鹿や〕今〔馬〕すぐにと言うべきでしょう)

この返歌を見ると、「いま」という言葉を「むま」と言ってもよいといえよう。これらのことを頭に置いて、必要の場合は文字を変えても物名を生かして詠むべきであろう。
 
 以上にわたって、和歌の種類などを記したが、この他『万葉集』の分類に「相聞歌」とあるのは恋の歌をいうのである。「挽歌」と記されているのは哀傷歌である。その他「譬喩」また「問答」などの部類があるが、文字のとおりである。
 
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 〕歌 病
○八病に代表される、歌の病。
○「和歌四式」等の当時流布した古態の和歌式か。
○七病(歌経標式)、
 @頭尾(一・二句の末字が同じ)、
 A胸尾(一句の末字が二句の三字目または六字目と同じ)、
 B腰尾(三句の末字と他句の末字が同音)、
 C黶子(三句の末字と同音字が他句中にある)、
 D遊風(句中の二字目と末字が同音)、
 E同声韻(三句と五句の末字が同じ)、
 F偏身(三句以外の句で同音字を二字以上使う)。
 四病(喜撰式・石見女式)、
 @岸樹(一・二句の頭文字が同じ)、
 A風燭(句ごと二字目と四字目が同じ)、
 B浪船(五字句の四・五字目が同字、七字句の六・七字目が同字)、
 C落花(句ごとに同字が交わる)。
 八病(孫姫式)、
 同心病(一首のうちに同語または同義語を二度使う)、
 乱思病(詞が優でなく意味がそぐわない)、
 欄蝶病(句首がよく句末が悪い)、
 渚鴻病(三・四句を重視しすぎ初・二句が悪い)、
 花橘病(諷喩する詞がまずく諷意が出ない)、
 老楓病(字足らず・意足らず)、
 中飽病(句余り字余り)、
 後悔病(六句体)。
○八病の「同心」の内容を、心と字に分けたのであるが、すでに公任『新撰髄脳』に「ことを(歌病)あまたある中に、むねと去るべき事は二所に同じことのあるなり」として俊頼の同心・文字それぞれに該当する説明をしている。この祖述か。
○亭子院歌合勅判に「右は、山桜といふこと(峰)にまたげり」とある。
○拾遺・雑上・465。公任『新撰髄脳』にこの例歌をあげ、「詞異なれども心同じきをばななほ去るべし」と同心病に該当する記述がある。従来の詩病に模した歌病からの発展であり、俊頼はこの祖述か。
○六帖・一・58。三千年に一度しかならない桃の実を、西王母が漢の武帝に与えたという中国の説話による。『古今六帖』初句は「みちとせに」。
○勅判に「年とよむべきことを代といへりとて負く」とある。しかし「三千年」と詠めば「今年」と重なり文字病になる。
○公任『新撰髄脳』に「一文字なれども同じきはなほ
去るべし」とある。
○『新撰髄脳』にはこの例歌をあげ「ただし言葉同じけれども、心異なるは去るべからず」として病に入れていない。
○「みやこ」は「宮処」で帝王の宮殿のある所の意。俊頼は「み」を美称の接頭語と考えたか。
○忠岑十体、道済十体。『忠岑十体』『道済十体』ともに「余情体」の秀歌とする。
○九月。
○毎月。月ごと。
○有明月。夜明けに、なお空に残る月。順徳天皇『八雲御抄』枝葉部に「ありあけの月は、十五日以後をいふよし、在許[往生伝」とある。
○木の花。初春に咲くので梅の花。
○「春」「張る」にかかる枕詞。
○左右に分けて、和歌のよしあし等について問答し論議をたたかわすこと。論議の方式は仏法の論議に由来する。『大鏡』巻三「謙徳公伝」「この大納言殿(行成)よろづにととのひためへるに、和歌のかたや少しをくれたまへりけん。殿上に歌論議といふ事いできて、その道の人々いかが問答すべきなど、歌の学問よりほかのこともなきに、この大納言殿はものものたまはざりければ、いかなることぞとて、なにがしのとのの、なにはづにさくやこのはなふゆごもり、いかにときこえさせたまひければ、とばかりものものたまはで・・・」。
○難波江の港。今の大阪地方に該当。なお、仁徳天皇の皇居は難波高津宮。
○大和物語・一五五段・260。この歌『万葉集』現訓は「安積香山影さへ見ゆる山の井の浅き心をわが思はなくに」。『古今集』仮名序は初句、『喜撰式』は上句のみ。本書のように下句「人を思ふものかは」とするのは、『古今六帖』第二「山の井」、『大和物語』がある。また上句は下句のはじめ「浅く」の序詞。
○『万葉集』によれば福島県郡山市(旧安積郡)にある山。『八雲御抄』名所部には「或伊勢国、又在陸奥。陸奥は安積山也。紅葉」とある。
○『八雲御抄』名所部に「あさか」山を重出させ「俊頼はあさくはといへるに病ならじゆゑに、濁りてあざか山といふべしといへり。俊成は不可然也。かげさへみゆるやまのゐはこのあさか山也。又在尾張国、にごりていふべき也」とある。
○「手」は文字を書くこと。
○「手習ひ」の主体は習字であるが、手本の内容も習う教養・稽古・学問の意味も含む。
○『古今集』仮名序に「難波津の歌は帝の御初めなり。安積山の言葉は采女の戯れよりよみて、この二歌は、歌の父母のやうにてぞ手習ふ人の初めにもしける」とある。
○欠点・非難されること。
○和漢朗詠・392、金玉集・37。この歌『忠岑十体』『道済十体』には「神妙体」。『新撰髄脳』には「すぐれたることのあるときには、惣じて去るべからず」の例歌としてある。
○拾遺・雑春・1036・凡河内躬恒。
○「梓弓」は梓の木で作った弓。「張る」「春」の枕詞であるが、ここでは「梓弓おして」までが「春」の序詞で、意味の上では序詞も生きており(有心の序詞)、「梓弓押して張る」と「おして(おしなべて)春雨」と掛詞をなしている。
○古来の歌病のうち、七病(歌経標式)・四病(喜撰式)等は漢詩の詩病を模倣し、もっぱら同声同音の重なりを病とした。これに対して、同義語の重複は和歌を中心として考えられた日本化した歌病で、『孫姫式』八病の「同心病」に該当する。したがって声韻に関係なく、和歌表現としては忌避すべきと俊頼は考えていたのであろう。
○『古今集』『後撰集』『拾遺集』の三集。ただし本書の記述にもあるように、この当時は『拾遺抄』を第三代の勅撰集と考え、『拾遺集』とはしていなかった。
○鑑賞に堪えうる魅力という意か。
○ここまでが『孫姫式』八病のうち「同心」に抱括される歌病についての論評である。

○村上天皇の天徳四年(960年)三月三十日に清涼殿・後涼殿を使って催された歌合。十二題二十番。女性のための歌合であったが著名歌人を作者とし判者は左大臣実頼、左右の難陳もあり、後代の晴儀歌合の規範となった。
○中世以降の「歌の本意」「題の本意」のような特殊な概念ではなく一般概念。本来の姿、あるべきさま等の意。
○七病のうち「同声韻」にあたる。
○前歌と同じく天徳内裏歌合。
○「山」「峰」にかかる枕詞。
○山に隠れて見えないところ。
○天徳歌合のこの歌に対する判詞は「左歌、いとをかしくて、さてもありなむ」として、勝としている。
○公任『新撰髄脳』にいう「姿」の意か。すなわち一首全体の表現様式もしくは格調。歌柄と同意。具体的な個々の表現ではない。この点、俊頼の表現は概して曖昧である。
○金玉集・恋・40。
○漢語「虚空」の直訳で、漢語の意味「天・そら」のほか片恋の空しさを表したか。
○ここまでが『歌経標式』にいう七病の、主として各句の尾字が同字である歌病の種々に対する論評。
○天徳歌合における判詞には「右歌の上下の句の上に、同じ文字ぞあめる、憎さげにぞ、いかが候ふべきと奏すれば、左右の仰せなし、左の人申す、左はさる文字候はずと申すめれど、させる難にはあらぬにぞ」とある。
○拾遺・恋・三・787・源信明。この返歌は、中務の「さやかにもみるべき月を我はただ涙にくもる折ぞおほかる」。信明の歌は、『枕草子』にも引歌として引かれ有名であった。
○表面に現れること。この「ほ」は「帆」との掛詞で、三句の「船」の縁語ともなる。
○「門」。本来は水流の出入りする細くなった水路。詠者は大空にもこういう所があると想像した。
○現存する『喜撰式』『石見女式』『新撰和歌髄脳』等の四病の中にみられる。すなわち「第一岸樹者、第一句初字第二句初字同声也」(石見女式)とある。




○和漢朗詠・秋・紅葉・305。
○滋賀県守山市守山付近の山。「もる山」と詠まれ「漏る」との掛詞に多く使われる。
○以上が各句の頭字の同声を歌病とした四病(喜撰式等)に対する論評。


○「中の五文字」すなわち三句の末字は「本韻」として詩病の模倣である七病等では重視された。しかしながら初句末と三句末の同声だけを指摘した病はなく、「黶子」の三句末と他句末の同声がこれに該当する。おそらく黶子を敷延してその後に立てられた歌病であろう。

○初句「山風に」は『古今六帖』のみ、他は「谷風に」。六帖・一・春立日・5、金玉集・5。



○故郷、古京、古里。かつて都だった場所、なじみのある場所も「ふるさと」である。「故里は見しごともあらず斧の柄の朽ちしところぞ恋しかりける」(古今・991忠岑)は、すっかり変わってしまった生まれ育った故郷を詠み、「人はいさ心知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける」(古今・42 貫之)は、昔なじんだ家を、「故里となりにし奈良の都にも色はかはらず花は咲きにけり」(古今・90)は、本文と同様「旧皇居の地」を詠む。
○短歌の定形律。以下、いわゆる破格の歌を述べる。

○信明集・18。

○ここでは、ほんの短い時間の意。

○六帖・五・2987、催馬楽・我駒。『万葉集』初・二句、五句は「いで我が駒 早く行きこそ」「行きてはや見む」。催馬楽は「いで我が駒早く行きこせ真土山あはれ真土山はれ真土山待つらむ人を行きてはやあはれ行きてはや見む」。
○真土山。待乳山、とも。大和と紀伊の国境にあって、万葉の旅の歌で有名。和歌山県橋本市隅田町真土。「待つ」にかかる枕詞。
○拾遺抄・雑上・384・藤原伊尹、拾遺・雑・春・1009。「はなのいろ」は、梅の花。
○接尾辞。
○副詞。「な〜そ」の形で婉曲的な命令を表す。どうか〜してくださるな。
○「立つ」の枕詞。二句の「立つ」は飛び立つ意と名が表立つの意をかけている。
○接尾辞。上二段に活用して、そのような様子をする意。
 また、歌の病を避る事古き髄脳に見えたるごとくならば、その数あまたあり。それらを避りて詠まば、おぼろげの人の詠みうべきにもあらず。ただ世の末の人の、たもち避ることの限りをしるし申すべし。古き歌にも、それらの病を、避りて詠めりとも見えず。いまにも、避るべしとみゆるは同心の病、文字病なり。同心の病といへるは、文字は変わりたれども、心ばへの同じきなり。





山桜さきぬる時はつねよりも峰の白雲たちまさりけり
 〔延喜十三年三月亭子院歌合・二月二番右・4 紀貫之〕

これは、山 と 峰 となり。山のいただきを峰とはいへば、
病にもちゐるなり。

もがり船いまぞ渚によするなる汀のたづのこゑさわぐなり
 〔新撰髄脳・二、拾遺抄・雑下・509〕

これまた、渚 と 汀 となり。みぎはをなぎさともいへば、文字は変はりたれど、同じ心の病とするなり。

みちよへてなるてふ桃の今年より花さく春にあひぞしにける
 〔延喜十三年三月亭子院歌合・二月三番右・6 坂上是則〕


これも、年 と 世 とを病と、
亭子の院の歌合に定められたり。
 
文字病といふは、心の変わりたれども、同じ文字あるをいふなり。



みやまには松の雪だに消えなくにみやこは野辺に若菜つみけり
 〔古今・春上・19、新撰髄脳・10〕

この、みやこ と みやま なり。深山(みやま)に といへるはじめの五文字の、みや は、まことのおく山といひ、
都は野辺に といへる みや は、花のみやこといへる。文字は同じけれど、心は変わるなり。


今こむといひしばかりになが月のありあけの月をまちいでつるかな
 〔古今・恋四・691 素性〕

この、月 と 月 なり。
長月の と詠める 月 は、月次(つきなみ)の月なり。在明の月 と詠める 月 は、空に出づる月をいへば、心は変われど、なほ同じ文字なり。















難波津にさくやこの花冬ごもり今ははるべとさくやこの花
 〔古今・序、六帖・六・4032〕

これは、古き
歌論義といへるものに、互に論じたる事なれば、今はじめて申すべきにあらねど、難波津 といふは、なんばの宮をいひ、この花 といへるは、梅の花をいふなりといへど、なほ文字病は、避りどころ見えず。








浅香山かげさへみゆる山の井の浅くは人を思ふものかは
 〔古今・序、喜撰式、万葉・十六・3829、六帖・二・985〕

これはまた、文字の病なり。
浅香山 といふは、はじめの五文字は所の名なり。にごりていふべきなり。中の、浅くは人を といへるは、浅しといふ事なれば、心は変わるといへど、文字の病は避りがたくぞ見ゆる。これ二つは、歌の父母のとして、手習ふ人のはじめとして、幼き人の手習ひ初むる歌なりと、古き物にかけり。この父母の歌の病のあれば、末の世の子孫の歌の、病あらむに、なからむか。
 また、古き歌の中に、避りどころなき病ある歌も、あまた見ゆる。如何なることにかあらむ。


み山には霰ふるらしと山なるまさきのかづら色づきにけり
 〔古今・神遊歌・1077、六帖・一・226、新撰髄脳・13〕


これは、深山(みやま) と 外山(とやま) となり。

咲かざらむものとはなくに桜花おもけげにのみまだき見ゆらむ
 〔延喜十三年三月亭子院歌合・二月二番左・3 躬恒〕


この、咲かざらむ といへる らむ と、まだき見ゆらむ といへる らむ となり。

梓弓おして春雨けふ降りぬあすさへ降らば若菜つみてむ
 〔古今・春上・20〕

この、けふ降りぬ という 降り と、あすさへ降らば といふ 降り となり。これは
逃るる所なき病なり。これらみな、三代集に入れり。これはたとへば、人の容貌のすぐれたる中に、ひと所おくれたる所みゆれども、曲(くせ)とも見えぬがごとし。これらありとて、いとしもなからむ歌の病さへあらむには、ひきぢからも無くやあらむ
 
天徳の歌合、山吹を題にする歌に、



一重づつ八重やまぶきはひらけなむ程へて匂ふ花とたのまむ
 〔天徳四年三月晦内裏歌合・17 平兼盛〕

と詠めり。これを八重山吹の
本意にあらず。さらば、一重山吹にてこそはあらめと、さだめられたり。げに、さもと聞ゆ。本のすゑの果ての文字と、末(すゑ)の果ての文字と同じ。これは、歌に咎とする事なりと、さだめられたり。これにつきて、詠むまじきかと思へば、同歌合の桜の歌に、



あしひきのやまがくれなる桜ばな散り残れりと風に知らすな
 〔七番左・14 少弐命婦〕

と詠めり。桜ばな といへる な の字と、散り残れりと風に知らすな といへる、はての な 文字となり。山吹歌につきてこれをいはば同じ病か。されど、
これをば悪しともさだめられず。かやうの程のことは、歌によるなめり









わが恋はむなしき空にみちぬらし思ひやれども行くかたもなし
 〔古今・恋一・488、六帖・四・1973〕

末のはての、ゆくかたもなし といへる、はての し 文字と同じけれど、咎ありとも
聞えず
 同歌合に、

ことならば雲井の月となりななむ恋しきかげやそらに見ゆると
 〔十八番恋右・37 中務〕

と詠めり。これは、本のはじめの文字と、末のはじめの文字と同じ。
如何あるべきとさだめられたり。これまた、古き歌になきにあらず。


恋しさはおなじ心にあらずとも今宵の月を君見ざらめやは
 〔拾遺抄・恋下・363 源信明〕


と詠めり。こひしさは といふこと、こよひのつきを といふことなり。


秋風に声をほにあげてくる船はあまの渡る雁にぞありける
 〔古今・秋上・212 藤原菅根〕

この、あ と、あ となり。
 また、はじめの五文字のはじめの文字と、つぎの七文字のはじめの文字と同じきを、古き髄脳に、
岸樹(がんじゅ)の病といへり。これぞなほ避るべき事。同じ文字詠みつれば、ささへて耳とどまりて聞ゆれども、また、古き歌になきさまにはあらず。


しら露もしぐれもいたくもる山はした葉のこらずもみぢしにけり
 〔古今・秋下・260 紀貫之〕
秋の夜のあくるもしらず鳴く虫はわがごと物や悲しかるらむ
 〔古今・秋上・197 藤原敏行〕

詠めり
 また、
はじめの五文字の果ての文字と、中の五文字の果ての文字に同じきは、耳とどまりて悪しと聞ゆとかきたれど、古き歌に、みな詠み残したること見えず。


















山風にとくる氷のひまごとにうちいづる波や春のはつ花
 〔古今・春上・12 源当純、和漢朗詠・春・早春・16〕

山風に といへる に 文字と、ひまごとに といへる に の文字なり。


ふるさとは吉野の山しちかければひとひもみ雪降らぬ日はなし
 〔古今・冬・321〕

故里は といへる は の字と、近ければ といへる は の字となり。これ、ともに悪しくも聞えず。かやうの程の咎は、歌によるべきなり。
 
歌は三十一字あるを、三十四字あらば悪しく聞ゆれども、よくつづければ、悪しとも聞えず。



ほのぼのと ありあけのつきの つきかげに 
         もみぢふきおろす やまおろしのかぜ
 〔和漢朗詠・雑・402〕
しぬるいのち いきもやすると こころみに 
         
たまのをばかり あはむといはなむ
 〔古今・恋二・568 興風〕

さきの歌は三十四字あるなり。つぎの歌は三十三字あるなり。はじめの五文字、七文字ある歌、

いでわがこまは はやくゆきませ まつちやま 
         まつらむいもを はやゆきてみむ
 〔万葉・十二冬・3168〕

これら皆、よき歌にもちゐて、人に知られたり。
 文字のたらねば、よしなき文字を添へたる歌、

はなのいろを あかずみるとも うぐひすの 
         ねぐらのえだに て
なふれそ
 〔拾遺抄・雑上・384 藤原伊尹、拾遺・雑・春・1009「はなのいろ」〕

この、てななふれそも といへる、な 文字なり。

むらとりの たちにしわがな いまさらに 
         ことなしぶとも しるしあらめや
 〔古今・恋三・674〕

この、ことなしぶとも といへる、
 の字なり。これらみな、よき歌にもちゐたり。
 また、歌病を避けて詠めということは、和歌式などの古い髄脳類に記されており、そのとおりとすると歌病の数は多い。これらの歌病の禁制を忠実に守り避けて詠もうとすると、生半可な人ではとても和歌は詠めそうにもない。だから、でき得る限りこの末世である現在の人々が禁制を知りそれを避けなければならない限度をこれから書き記すことにする。古来禁制された歌病は多いが、古歌の中でも、それらの病をすべて避けて詠んでいるとも見えない。しかしながら、現在でも最小限度避けなければならないと思われるのが「同心病」と「文字病」である。「同心病」というのは、文字は異なるが意味するところが同じである詞の、同時使用をさすのである。

山桜・・・(あの山麓の桜が満開になった時は、不思議にも峰にかかる白雲が、はっきりと立ち昇ることだ)

この歌では、「山」と「峰」の同時使用である。山頂を峰というので、峰は山であるから同心病にあてはまるのである。

もがり船・・・(藻を刈る船が、いま渚に漕ぎ寄せているらしい。あの汀の田鶴の、声をあげて騒いでいることよ)

この歌でもまた、「なぎさ(渚)」と「みぎは(汀)」の連用である。「みぎは」すなわち水際は、「なぎさ」波打ち際とも表現するので、文字は変わっているが同義語であり、そこで同心病に該当すると規定されるのである。

みちよへて・・・(三千年に一度だけ実がなるという、この仙境の桃が、今年はちょうど花が咲くという。じつにめでたい春に我々は巡り会ったものであるよ)

この歌も、「年」と「世」が同義であり、同心病であると、亭子院歌合の宇多上皇勅判に決められている。
 文字病というのは、表す意味は違うけれども、同じ文字が使われているのをいうのである。

みやまには・・・(私のいる山奥では、松の雪さえもまだ消えないのに、都では早くも野辺の若菜を摘んでいることだ)

この歌の四句「みやこ」と初句「みやま」の「みや」が該当する。「深山には」と詠みはじめた初句の「みや」は、文字通り奥山を意味し、「都は野辺に」と詠んだ四句の頭の「みや」は、花やかな都の意味を持つ文字であるはずである。このように、文字は同じでも意味は違うのだが、やはり歌の病である。

今こむと・・・(今夜暗くさえなればすぐに行くよと、あなたが約束したばかりに、九月の長い夜を待ち尽し、ついに待ち人は来ないで、あの遅く出る有明の月を呼び出してしまったことですよ)

この歌に表現された上句の「月」と下句の「月」が該当する。「長月の」と詠んだ「月」は、一年のうちの九月という月である。また「在明の月」と詠んだ「月」は、文字通り空に出る月を意味しており、意味は違うのだが、やはり同じ文字なので文字病に該当するのである。














難波津に・・・(この難波津に咲いている梅の花よ。本当に、今こそ春が来たといわんばかりに、梅の花が咲いていることだ)

この歌は、古くからの「歌論義」という和歌論評の場合には必ず、何人かによって論評されてきた歌なので、今更私が事新しく言うべきことではないが、裏にひそむ意味では、「難波津」云々の花というのは、仁徳天皇の難波高津宮を意味し、「この花」というのは梅の花で、それに託して即位を促したといわれるが、やはり文字病の事実は覆いようはない。






浅香山・・・(水が浅いうえに、浅香山という名の山までが映っているこの山の井のように、決して浅い心で私は、あなたを思ってはおりませんよ)

この歌もまた、文字病に該当する。「浅香山」という初句五文字は、場所の名前である。本来は「あざか」と濁って発音する地名である。四句の「浅くは人を」と表現したのは、深浅の「浅し」という意味であるから、表現内容はまったく違うといっても、やはり同文病の歌病であることは確かと思われる。「難波津「浅香山」の二首は周知のように、和歌に関しては、赤児から養育する両親のような存在で、初等教育のはじめとして、年少者の教養・習字のはじめての教材として使われる和歌だと、昔の書物にも書いてある。この教養のもとになる歌でも歌病があるのだから、末世の、その教養を次々と受け継いできた我々の歌に、歌病があったとしても、とがめ立てもできないかもしれない。
 またこのほか、古歌の中に、弁解しようにもできない歌病が指摘できる歌も多数存在している。これはどういうことであろうか。

み山には・・・(奥山には霰が降っているに違いない。この里近くの山の正木の葛が、こんなにきれいに色づいているのも)

この歌は、初句の「深山」と三句の「外山」の二つの山が文字病に該当する。

咲かざらむ・・・(散ったあとに二度と咲かないというわけでもあるまいのに、どうしてその桜の花の咲かないうちから、目の前に浮ぶように見えるのであろうか)

この初句の「咲かざらむ」と詠んだ「らむ」と、結句「まだき見ゆらむ」の「らむ」が該当する。

梓弓・・・(梓弓は押し曲げて弦を張るが、今日はおしなべて春雨が降った。このうえ、明日も降るならば、もう若菜が摘めることであろう)

この歌の三句「今日降りぬ」の「降り」と、四句「明日さへ降らば」の「降り」が、活用形は違うが同語である。これは弁解の余地のない文字病である。しかしながら、以上記した文字病を持つ歌の大部分は、和歌の聖典である「三代集」の入集歌であり、秀歌と認定された歌である。それなのに歌病があるのは、たとえてみれば、顔かたちの美しい人ではあるが、ただ一箇所どこかにそぐわないところがあっても、とりたてて欠点とも見えないようなものである。これらの例は歌全体として許されようが、平凡な歌でしかも歌病を持っているのは、鑑賞に価しないであろうよ。
 天徳四年内裏歌合で、「山吹」題八番右は、

一重づつ・・・(あのきれいな八重山吹は、一重ずつゆっくりと咲いてほしいものだ。長い間咲きにおう花だと楽しみにしたいから)

と詠んだ。この歌で「一重づつ」開くと詠んだのでは八重山吹である意味がない。それでは一重山吹であろうと論定されている。これはじつにもっともな判定と思われる。そのうえ、上句の末字「む」と下句の末字「む」が同字である。これは詠歌法で欠点と決められたことであると指摘され、負と判定されている。この歌病の声韻にあたるものは、詠むべきでないのかと思うと、同じ天徳歌合の「桜」題七番左の歌に、

あしひきの・・・(あの山隠れに咲いている桜の花よ。まだ散り残っていると風には知らせないでね。わかったらすぐ散らされてしまうよ)

と表現されている。この上句末の「桜ばな」の「な」と、下句「散り残れりと風に知らすな」の末字「な」が問題である。前の「山吹歌」に準じてみれば、まったく同様の声韻の文字病であろうよ。しかしながらこの歌合判では、この歌の欠点は指摘されず勝となっている。この程度のことは、表現全体の善し悪しにより、歌柄のよいものは耳立たないのでろう。たとえばあの有名な、

わが恋は・・・(私の烈しい恋はこの虚空をすっかり満たしたに違いない。いくら思いを晴したいと思っても、その消えていく場所もないことだ)

の歌にしても、下句の末「行くかたもなし」と上句の末字「し」と同字であるが、これが欠点であると今まで言われていない。
 また、同じ天徳内裏歌合「恋」題十八番右で、

ことならば・・・(こんな状態で過ごすのなら、あなたはいっそ空の月になってほしいですよ。恋焦がれても逢えないよりも、毎夜恋しい姿を空に眺めることができましょうから)

と詠んでいる。この歌は上句の頭字と下句のそれが同じ「こ」である。これは耳ざわりで厭な感じだが判者はどうお考えですかと論難があった。しかしこれもまた、古歌にない例でもない。

恋しさは・・・(あなたは私のことを少しも想ってくれないでしょうが、今夜の月は、あなたを恋する私と同様に、御覧にならないことがありましょうか。私はそれだけでも満足しましょう)

この歌の上句のはじめ「こひしさは」と下句の言い出し「こよひのつきを」が該当する。また、

秋風に・・・(秋風の中を櫓の音を高くあげて来る船があると思ったが、それはじつは、大空の道を飛び渡る雁であったことだ)

この歌の上句「あ」と下句「あ」もそうである。
 また歌病のうち、初句の五文字の最初の文字と、二句の七文字の初めの文字とが同字であるのを、古い作法書類には「岸樹の病」と名付けている。この病こそ留意して避けるべきことである。二句続けてはじめに同字を詠んだ時は、音声がそこだけ角立って、耳ざわりに聞こえることは確かであるが、この病もまた、古歌に例のないことではない。

しら露も・・・(この守山では、その名のように白露も時雨もすっかり漏って草木にかかってしまう。そのためここは、下葉一枚残すことなく全山すべて紅葉していることだ)
秋の夜の・・・(この長い秋の夜の、ほどなく明けるのも知らない様子で、ただ鳴き続けている虫は、私と同じく何が悲しいのであろうか)

この名歌二首も、「し」と「あ」を、それぞれ初・二句のはじめに置いて詠んでいるのである。
 また、初句五言の末字と、三句五言の末字と同字であるのは、耳立って声調的に悪く聞こえると七病等に書いてあるが、古歌を見ると、この禁制を避けて詠んでいるとは思えない。
















山風に・・・(早春の山奥で解けはじめた谷川の氷の隙間ごとから、ほとばしり出てくる波、それが今年の初花なのであろうよ)

この歌の、初句「山風に」の末字の「に」と、三句「ひまごとに」の末字の「に」が同字であることが、この禁制に該当する。

ふるさとは・・・(この旧皇居の地は、なんといっても吉野山が近いので冬は寒く、一日たりとも雪の降らない日はないのである)

この古歌の初句「故里は」と詠んだ「は」と、三句「近ければ」の末字「は」が、前歌と同じく該当する。この両歌ともに、別に非難はされていないし、耳立つとも思えない。これくらいの欠点は、表現全体の、いわば歌柄の善し悪しによって、耳立つとか、さしつかえないとか決めるべきであろう。
 定形歌は三十一文字が本来であるが、それが三十四文字あろうとすると、韻律的には具合が悪いことは事実であるが、これも上手に組み合わせると、耳ざわりには聞こえない。

ほのぼのと・・・(かすかな有明の月が、まだ朝空に残っているこの情趣に添えて、その空から山伝いに風が、紅葉の葉を吹き下ろしてきたことだ)
しぬるいのち・・・(あなたを恋焦がれて今にも死にそうな私の命が、生き返ることもあろうかと、試しにも、少しの間だけでも逢ってやろうと言ってほしいものだ)

前歌は合計三十四字である。次の歌も三十三字ある。また初句五言句が七文字ある歌としては、

いでわがこまは・・・(さあ我が馬よ早く行ってくださいよ。きっと今頃私を待ちわびている恋人に、早く行き着いて逢いたいから)

これらの三首ともに、定形より字数の多い破格の歌であるが、古来、秀歌の用例として使われていて、多くの人に親しまれている。
 三十一文字に足りないので、意味のない文字を加えて定形とした歌もある。

はなのいろを・・・(美しく咲いた梅の花の色香を、ひねもすに鑑賞するのはよいが、感嘆のあまり鶯の寝床である梅の枝に、手を出すことはお互いによそうよ)


この末句「てななふれそも」の重複した「な」の一字が、添えた文字である。

むらとりの・・・(あなたとの噂は、飛び立つ鳥のように一気に広がったが、今さら何もないような顔をしても、効果があるだろうか)

この歌の「ことなしぶ」と表現した、接尾辞「ぶ」である。この二首とも秀歌とされている。
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 〔四〕歌人の範囲 
 おほよそ歌は、神・仏、みかど・きさきよりはじめたてまつりて、あやしの山賊にいたるまで、その心あるものは、皆詠まざるものなし。神仏の御歌は、さきにしるし申せり。帝の御製は、大鷦鷯の天皇の、たかみくらにのぼらせ給へる御製、

高き屋にのぼりて見ればけぶり立つ民のかまどもにぎはひにけり
 〔和漢朗詠・雑・刺史・693〕

これは、都うつりのはじめ、たかみくらにのぼらせ給ひて、民のすみかを御覧じて、詠ませ給へる歌なり。かまど などは、歌に詠まむには卑しき詞なれど、かみ詠みおかれぬれば、はばかりなし。みかどの御歌、いまはじめて書き出だすべきにあらず。延喜・天暦両帝の御集を御覧ずべし。
 嵯峨の后の御歌に、上わたらせ給ひたりけるに、

ことしげし暫しはたてれ宵のまにおけらむ露はいでてはらはむ
 〔後撰・雑一・1080 嵯峨后嘉智子〕

これら、さきのごとく、おのおのの御集を御覧ずべし。
 歌は仮名のものなれば、書かれざらむこと、詞のこはからむをば、詠むまじけれど、古き歌にあまた聞ゆ。行基菩薩の歌に、

霊山(りやうぜん)の釈迦のみまへにちぎりてし真如くちせずあひみつるかな
 〔拾遺・哀傷・1348 行基菩薩、今昔 巻十一〕

婆羅門僧正の返し、

迦毘羅衛(かびらゑ)にともに契りしかひありて文殊のみかほあひみつるかな
 〔拾遺・哀傷・1349 婆羅門僧正、今昔 巻十一〕

これは、聖武天皇と申しける女みかどの、東大寺をつくりて、行基菩薩に「供養せさせ給ひければ、「今、この御寺の供養にあはむとて、婆羅門僧正と申す人参るらむ。その人に供養せさせ給へ」と申させ給ひければ、待たせ給ひけれども、遅く見え給ひければ、「いかに」といぶかり思し召して、立ち、居、待たせ給ひける程に、その時になりて、折敷に香花をそなへて、海に浮けて、人して見せさせ給ひければ、折敷波につきて沖ざまへ行きて、見えずなりぬ。とばかりありて、折敷の花を先にたてて、参り給へりければ、よろこびおぼしく「とく」とすすめ申させ給ひけるに、婆羅門僧正に、詠みかけ申させ給ひける歌なり。霊山 と申すは、釈迦如来の、法華経説かせ給ひける所なり。真如 といへるは、まことといへることなり。返しの、迦毘羅衛 も同じことなり。この二人は、同じく文殊にておはしましけるとぞ言い伝へたる。また、高丘の親王、弘法大師に詠ませ給ふ歌、

いふならく奈落の底にいりぬれば刹利も修陀もかはらざりけり

御返し、大師、

かくばかり達磨の知れる君なれば多陀謁多までは到るなりけり

もとの歌に、奈落の底 と詠まれたるは、地獄を言ふなり。刹利も といへるは、帝后もといふなり。修陀も といへるは、あやしの乞丐もといへるなり。地獄に落ちぬれば、よき人もあやしの人も、同じ様なりと詠まれたるなり。返しは、かかる世の道理を、よくしろし召したる人なれば、かく、めでたき身にてはおはしますなりと、詠まれたるなり。伝教大師御歌、

阿耨多羅三藐三菩提の仏たちわが立つ杣に冥加あらせ給へ
 〔和漢朗詠・雑・仏事・602 伝教大師〕

これは、比叡の山を、末まで事なくあるべきよしを、詠ませ給へるなり。この人々こそ、歌などは、さるものもやあるとも知らでおはすべけれど、われが国の風俗の風俗なれば、みな給へり。

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