日本歌学大系[解題] 佐佐木信綱 風間書房
 万葉集の部屋  万葉時代の雑学  歌 論 集 
歌経標式(抄本)  藤原濱成(742~790) 藤原京家、参議藤原麻呂の子・和歌四式の一つ  歌論書としては現存最古、772年献上?
倭歌作式(喜撰式)  喜撰(生歿年不詳) 平安初期の僧・歌人、六歌仙の一人・和歌四式の一つ  仁和年間(885~889)の成立とも
和歌式(孫姫式)  著者不詳 平安時代の歌学書、和歌四式の一つ、歌病(かへい)や長歌の歌体などを説く  成立年未詳
石見女式(石見女髄脳)  著者不詳、和歌四式の一つ  成立年未詳、平安~鎌倉期?
新撰萬葉集序  菅原道真(845~903)・源當時、私撰歌集、上巻は道真、下巻は当時?「菅家万葉集」ともいう  序によれば、上巻893年、下巻913年
古今和歌集序  紀貫之(872?~945?)・紀淑望(?~919)、最初の勅撰和歌集、仮名序と真名序を併せ持つ「序」  延喜十三年(913)三月乃至十四年八月の間?
新撰和歌序  紀貫之(872?~945?)、平安時代に編まれた私撰和歌集、
『古今和歌集』から弘仁より延長年間までの秀歌360首を撰出したとするが、それ以外の歌も採られている
 延長8年(930~承平4年(934)の間に成立
和歌體十種  壬生忠岑(860~920)、紀貫之の門弟であり古今集の撰者の一人である忠岑が著した歌論書、
その漢文の序において、和歌の体を「古歌体」・「神妙体」・「直体」・「余情体」・「写思体」・「高情体」・「器量体」・「比興体」・「華艶体」・「両方体」の十種に分類している
 天慶八年(945)
和歌十體 (道済十体)  源道済(?~1019) 平安時代中期の官人・歌人、中古三十六歌仙の一人、和漢兼作の歌人  「和歌體十種」の抄出?
類聚證券  藤原実頼(900~970) 平安時代中期の公卿、小野宮殿とも呼ばれ、小野宮家の祖、摂政関白の先例となる  現存の歌学書中、その古い原形を伝える
歌論書用例歌
    歌経標式(かきょうひょうしき)(抄本)          藤原濱成
 真本は煩雑であるので、必要な部分のみを残し、さして重要でない部分を省略したのが抄本である。後述の如く忠嶺の和歌體十種と道濟の和歌十體とは全く同じものであり、忠嶺のにある煩雑な説明を省略し、例歌を少なくしたのが道濟のであるが、それと全く同趣の関係に存するものである。抄出年代は不明であるが、平安時代後期以前であり、既に藤原清輔は奥義抄などに抄本を引用している。従って軽便なるため相当に利用せられたことと思われる。
 抄本は伝本が極めて多く、又抄出以後幾度か転写せられている間に脱落を生じ、三種の内容のものが並び行われている。(なお武田祐吉博士の論述のままならば、更に別の一系統も存することになるが、それは書誤であるとのことである。)
 
 抄本甲  最初に宝亀三年(772年)五月七日の序があり、次に七病及び三種體のあるのは真本と同様であるが、七病及び三種體がすべて簡略になっており、最後に真本の跋がなく、その代わりに、「夫和歌者・・・和歌盛」跋のあるものである。而してこの跋は孫姫式の序の前半である。現存伝本中、この系統に属するものは極めて多く、木版本(国会図書館上野分館)、東京大学図書館本(南葵文庫舊蔵)、神宮文庫本、松井文庫本(静嘉堂分館)、竹柏園蔵本の中、桜井本、御巫本、谷森本、和歌四式本、(伴資矩本)、倭歌四式本(座田本)等の五部、福井久蔵博士蔵本、吉沢義則博士蔵本、鈴鹿三七氏蔵本、久曾神蔵本等相当の数に上る。真本を抄出したものであるが、完全な真本の現存しない今日においては、それを補うべき點も少なくない。例えば、査體七種の第五は真本に脱して居るが、本書によって補い得る。その他文字の異同に就いて云えば、査體第二の「譴警」が「繼警」とあるが如くであり、重要な意義を有するものである。
 
 抄本乙  前掲甲本に対比するに、七病の第四病以下及び雑体十種をすべて脱し、その代わりに喜撰作式にある「風聞和歌・・・四病・・・八階・・・」の一條の混入したものである。和歌連歌秘伝書(昭和八年刊)所収本がそれであり、写本としては前田家蔵本、彰考館文庫本を始め、和歌三式と外題のあるものは殆どすべてこの系統である。竹柏園蔵本の中宣盛本(平朝臣治孝奥書、喜撰式、孫姫式と合綴)、森本宗範本(和歌三式)、平井本(和歌之式、即ち三式にして、松下見林、契沖等の奥書あるもの)、木村正辭校本(和歌三式)、大形本(外題「濱成式、喜撰式、孫姫式」とあり、契沖本にして書き入れあるもの)、藍字附点本(現存は濱成式のみであるが、表紙もなく、奥に「濱成式終」とある点などより見て、三式が分離したものと思われる)の六部も同系統であり、何れも三式本である。喜撰式の一部が混入したのは三式本の錯簡に基づくのであり、濱成式以下三式の序を集めたものとの説は認めがたい。今井似閑が万葉緯に用いたのはこの系統本である。

 抄本丙  乙本に対比するに、その第三病までで以下の全くないものである。竹柏園蔵本中、二式本(濱成式、喜撰式)がそれである。尤も同書は七病の終まで他本によって補っている。その他には未だ管見に觸れないが、他にも伝本があるらしく、諸書に散見する。乙本と丙本との前後の関係は明らかにしがたい。即ち甲本の第四病以下が機械的動機によって失われ丙本となり、それに喜撰式の前半が附加せられて乙本となったか、甲本濱成式を始め三式一括せられていたものが脱落錯簡を生じて乙本となり、その後半が喜撰式であるからとて意識的に削除せられて丙本となったか、何れとも決し難い。但、甲本より乙丙両本の成ったことは事実であり、甲本のある以上、他の二本は殆ど必要はないと考えられる。


    倭歌作式(わかさくしき)[一名、喜撰式]          喜 撰
 倭歌作式というのが原名であろうが、撰者が喜撰であるので、濱成式の場合と同様に、喜撰式又は喜撰作式等とよばれている。和歌四式の一つとして古来尊重せられたもので、和歌現在書目録、和歌色葉、八雲御抄等に揚げられ、又諸文献に引用せられている。而して濱成式と同様に、平安時代後期に真偽両本が伝存し、源俊頼(俊頼髄脳)、藤原清輔(奥義抄)、藤原範兼(和歌童蒙抄)等の使用したのは、偽式であり、顕昭、藤原定家等の用いたのが真式であるという。顕昭等に従えば、真式は五句歌を短歌とし、長句歌を長歌とし、混本歌としては六句体歌を一首あげ、歌病に就いては七病八病等なく、唯四病のみを説明し、八階に関する條及び八十八物の異名が存したものであり、偽式は、六義、六体、八病等を含んでおり、五句歌を長歌とし、長句歌を短歌といい、混本歌を四句体歌として二首の例歌をあげ、又沓冠や折句歌などもあったよしである。詳細は拙文「喜撰偽式と新撰和歌髄脳」(文学四巻七号)に譲る。
 現存する諸本を調査するに両系統本があり、今日喜撰式として流布しているのが、その真式であり、宮内廳書陵部に伝存する新撰和歌髄脳が偽式であろう。真式においては更に二種に分類して見られる。
 
 甲本  最初に序があり、次に四病(岸樹、風燭、浪船、落花)、疊句、連句、長歌、混本歌、八階(詠物、贈物、述懐、恨人、惜別、謝過、題歌、和歌)があり、最後に八十八物の異名がある。これまでならば、顕昭、定家等が真式と述べているものと一致し、喜撰が仁和年中勅を奉じて作ったものと考えられるが、諸本にはこの次に更に追加がある。即ち最後に、「頃従武州得一書。其名謂神世古語。見此式事考粗相似。不替処相用、註異説左右載彼本泄此式二十六種則書写紙奥。次第雖為混雑、非遺恨」云々として、二十六種の異名を述べている。此文によれば、二十六種が追加であるは今更いうまでもないが、前の八十八物の中にも註の加えられたものの存することが知られる。従ってこの二十六種と八十八物の註記とを除けば喜撰式の原形に近づくであろうが、その推定は困難である。而して又八十八物の異名は互いに出入りがあり、殊に大部分は九種脱しているのであるが、完全なものもある。甲本系統極めて多く、和歌連歌秘伝書所収本を始め、写本は殆ど全部同系統本である。神宮文庫本、彰考館文庫本、前田家本、竹柏園蔵本中の、宣盛本、福王舊蔵本、澁紙表紙本、森本宗範本、平井本、木村正辭校本、大形本、和歌四式本、倭歌四式本の九部、久曾神蔵諸本等は何れも之に属するものである。八十八物異名は互いに出入りがあるが、神宮文庫本、倭歌四式本(竹柏園)、東大図書館本校合等の如く、八十八種あるのが原形であろう。

 乙本  甲本と全く同じであるが、その最後にある「頃従武州」云々以下の追加を省略したものである。それが意識的の削除であろうことは、八十八物異名の條に九種缼き、その旨を断っているのが甲本の一部と全く同様であることによって推定せられる。管見に触れた中では、彰考館文庫本、竹柏園二式本(濱成式、喜撰式)がそれである。彰考館本にはその代わり、「上来種々物也、異名随掇得分半如件、但其餘残可尋」とあり、それが原形かとも思われるが、やはり後人の作為であろう。

 かくて現存諸本のみでは、喜撰真式と合致し、少しも相違しないと断言することは出来ないのであるが、諸文献所載逸文と比較し、だいたい認められようと思う。最初に和歌起原等を述べた序文があり、次に和歌四病があり、それに関連して畳句、連句を述べ、長歌、混本歌を例を示して説明し、諸詠八階があり、最後に神世異名がある。濱成式等に倣ったままで殆ど論ずるに足らないところもあるが、長歌、混本歌等の説明の如く、平安中期以後の通説と異なる点、殊に神世異名の如き、枕詞の研究の第一歩をなすものである。かくて史的意義と共に内容価値も相当に注意すべきものである。
 喜撰式は、古来尊重せられたのであるが、古今集の誤謬をも説明するに最も好都合である喜撰偽式が、古今集尊重時代には普く行われ、俊頼、清輔、範兼、上覚等の諸書にも用いられた。然し碩学顕昭は断乎として之を斥け、定家も同じ態度に出たため、再び喜撰式が用いられるようになり、仙覚抄、河海抄、詞林采葉抄等も之に従い、今日伝本も少しからず伝存しているのである。
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    和歌式(わかしき)[一名、孫姫式(ひこひめしき)]          孫 姫
 原名は和歌式と思われるが、それは普通名詞と混同せられ易いので、撰者によって孫姫式(ひこひめしき)とよばれてゐる。然しその孫姫とは果たして如何なる人か、今日なほ不明である。顕昭の古今集註に、「七病は光仁御代濱成卿撰之、四病は仁和御代喜撰註之、八病は後に孫姫難喜撰也」とあり、喜撰式より後になったことと思われるが、何時頃か明らかでない。内容より見て喜撰式成立後間もない頃であろうと思われる。為兼卿和歌抄には、「寛平の御時、孫姫、喜撰かさねて式をつくり」とあるが、果たして寛平頃か否かは決し難い。和歌現在書目録には「菅歟」とあるが、それだけで直ちに菅原道真の子女孫女であろうとも決せられない。鎌倉後期に成った代集には、髄脳口伝等の條に、「濱成卿和歌式、宇治山喜撰式、そどほりひめの式、いはみの女が髄脳、新撰髄脳、・・・」とあり、孫姫式をそどほりひめの式と述べてゐるようであり、従って孫姫は衣通姫であるとの一説もあったかと考えられるが、それは時代も合わず、取るに足らぬ説である。跋文中に「妾案、自衣通比咩巳来迄于聖代」とあるのを読み誤ったのであろうか。妾とあるによって、女子の手に成ったと知られるのみである。
 現存本は何れも同じ内容で、最初に八病があり、次に長歌式があり、最後に跋文がある。東大図書館本(南葵文庫旧蔵本)、神宮文庫本、彰考館文庫本、前田家蔵本、竹柏園蔵本中の宣盛本、森本宗範本、平井本、木村正辭校本、大形本、和歌四式本、倭歌四式本、久曾神蔵諸本等すべて全く同系統である。即ち管見に触れた範囲では異本を見ない。而してそれは平安後期以降の諸文献所載逸文の全部を残らず含んで居るとは言えない。和歌現在書目録、八雲御抄に、「有序」とあるが、現存本には序文がない。顕昭の万葉集時代難事に、
 
 孫姫式云、人丸古屋独歩於南都、山部高沙齊名於北闕、紀一文林分飛並逸、義暁譔僖同途競遠、伴五郎(国長)、伴大夫(春宗宿禰)、野相公(左大弁)、野大夫(貞梅朝臣)之輩、自貞観之前、大宝已後、和歌之士、煙涌波合、非其新調、高下倉慈、玆因矣。

とあり、同古今集序註に、

 孫姫式云、浪花津之蘆菔送三冬而奢、二月旧枯野之本柏、因新交而恨故人云々。

とあるのは、序文の一節であろうと思う。その他武田祐吉博士以下既に論ぜられてゐるように、歌経標式抄本の最後にある

 夫和歌者所以通達心霊揺蕩懐志者也。故在心為志發言為歌。昔自一橋之下男女定陰陽之義、八島之上山川分流岐之義(事見日本紀也)。神明感猶寄詞於歌詠、精誡所応莫不資其謳吟。素盞鳴尊之詠出編簡而不朽。衣通比咩之歌被管絃而猶存(事見日本紀)。和歌之時厥義優矣。雖正明屢移質文、更変而清濁之音是一。宮商之調斯在。功成作樂、非歌不宜。理定制禮、非歌不感。照燭三才輝麗万有、興星辰而若瓊、随橐籥而俱降。達於幽微之旨小大之際、動天地感鬼神、莫近於和歌。然上古人淳俗質、綴辭疎浅。専以意為宗。以下能以文為本。況一篇内遂之繁艶之詞、五句之中重犯八種之病者乎。雖古屋之晨陪紫闈人丸之夜降明曜而清詞麗句、其病未能免。自従国家践祚、海内傾注、君徳彰而頌聲興、王沢祐而和歌盛。

も亦その序の前半であろう。更に思うに、袖中抄巻十七に五箇所、

 孫姫式云、雨之滌涙蛍鰓須留於渡河。なく涙雨にふらなむわたり川水まさりなばかへりくるがに、瀧之流浦啁聲正聞於椎嶺。』
 孫姫式云、裂菅麻尚禱神、終得樂。於今日榊木綿。祠社に未知起於誰世、と(共古神歌也)。さかき葉にゆふとりしでてたが世にか神のいがきをいはひそめけむ。』
 孫姫式云、漢国屏風豈勝我神之立庭。倭州屏風欲釣故人之景路。(共古神歌也。)神かたにいせへわれゆくかへるさにもは毛まつらむかどさすなゆめ。』
 孫姫式云、致感之昧左法結之可知發願。四月に他方参之爰効。感ありて人のまうづるくらま山おこなふ法はそはか成りけり。』
 孫姫式云、縫織以笠憐錦羽云、用柳緑□□(変換不能)於枝鶯尻之刺梅針に、青柳をかたいとによりて鶯のぬふと云かさは梅のはな笠』

とあり、同袖中抄巻十八に、

 孫姫式云、銀漢鵲之会橋在夜槌、而降風霜。よやくふる衣やうすきかささぎのゆきあひの橋に霜やふりおける。

とあるのも、序文の一部であるが、又は他の部分であるか明確でない。
 歌病は濱成の七病が先ずなり、ついで喜撰の四病が作られ、それを難じて孫姫式の八病が出来たというのであり、孫姫式に八病のあったことは勿論である。清輔の奥義抄に、「出喜撰式並孫姫式」として掲げてゐる八病を現存本と対比するに、殆ど一致するのであり、平安後期のものと大体同一と思われる。顕昭の古今集註巻七にも、

 孫姫式、和歌八病中同心者、一篇之内再用同詞。古歌云、水カタキタカダノマチニマカズシテ水ナキヒヰニホト々ニヰヌ。再用水辭。是其病也。

とあるが、これは殆ど同様に同心病の條に見える。又河海抄帚木巻に、「孫姫式、あひみるめなきこの島にふけよりてあまうてみちぬよすがなみなり」とあるも、同心病の最後に見える。又奥義抄灌頂巻に、

 混本歌を喜撰并孫姫等の式に、後悔病歌と稱事、歌其名いかが。

とあり、顕昭の古今集序註に、

 喜撰式云、イハノウヘニネザスマツガエトオモヒシヲ、アサガホノユフカゲマタズウツロヘルカナ(孫姫式同載之)。

とあるのは、現存本後悔病の條にこの歌の見えることによって明らかである。
定家の長歌短歌説に、

 孫姫式、凡長歌式、五・七・五・七・五・七・七、五言與七言轆轤交往循環不極。其落句重用七言耳。柿本人麻呂呈高市親王歌曰、

  かけまくも かしこけれども ・・・・・・・

とあるのも現存本と一致してゐる。八雲御抄巻一に「濱成並孫姫式には以之稱長歌」とあるのも、これをさすのであろう。
 孫姫式には序文が闕けて居り、濱成式の奥に附されてゐるのも孫姫式の序文全体ではなかろうと考えられるが、その他如何なる内容が存したか知られない。逸文として菅見に触れたものを揚げるに、藤原仲實の古今集目録に、

 孫姫式云、基泉法師、有歌、このまより見ゆるは谷の蛍かもいさりに蜑の海へゆくかも

とあり、顕昭の古今集註巻十八に、

 如孫姫式者、基泉僖譔別人歟。基泉宏麗て、コノマヨリミユルハタニノホタルカモイサリニアマノウミヘユク火カ、僖繁伝(博)、ワガヤドハミヤコノタツミ云々。凡此式ニハ稱譔僖桑門也。

とあり、清輔の奥義抄下に、

 木にもあらず草にもあらぬ竹のよのはしにわが身はなりぬべらなり、・・・・孫姫式には此歌ははしたにわが身成ぬべらなりとぞ侍るれども・・・・・

とあり、清輔本古今集等の巻十八頭註にも、

 又孫姫式云、きにもあらずくさにもあらぬたけのよのはしたにわれもなりぬべらなり。又云、すぢにわがみはなりぬべらなり。其題目の文云、非木非草之身與竹筋斉用云々。然ばすぢとよむべき歟。

とあり、顕昭古今集註巻十八にも、

 キニモアラズクサニモアラヌタケノヨノフシニワガミハナリヌベラナリ、・・・・孫姫式ニハ此歌ハシタニワレモナリヌベラナリトアリ。又、スナニワガミハナリヌベラナリトアリ。

とあり、古今集註巻九に、

 都イデテケフミカノハライヅミガハカハカゼサムシ衣カセヤマ・・・・・孫姫式ニハ家ヲイデテケフミカノハラトアリ。

とあるが、それらがすべて序文の中に存したとは考えられないので、序文、八病、長歌式など以外にも存したのであろう。
 かくて現存本は零本に過ぎないのであるが、歌学史上逸すべからざるものである。例えば歌病論の如きも、濱成式、喜撰式では全く詩学の模倣のままであったが、本式においては和歌に適する如くに内容が改められてゐる。
 因にいふ、孫姫式の奥には、東山隱士圓雅の長禄四年書写の奥書と、橘業文の寛正四年書写の奥書とがあるが、これは唯孫姫式のみにかかるのでなく、歌経標式(抄本)、喜撰式、孫姫式の三部にかかるのである。一括して伝存した為に、その最後にのみ記されたのである。また円雅は歌人であり、その歌を集めた円雅集一冊が、宮内庁書陵部に伝存している。
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    石見女式(いわみのじょしき)[石見女髄脳]等ともいう          
 石見女式又は石見女髄脳等の名称を附して伝存するものは少なくなく、又その内容も一致していない。日本文学大辞典に中島氏は、内閣文庫所蔵の三本を以て三類として述べられてゐるが、その他にも伝存するものがあり、即ち四系統本が知られている。

 甲本  最初に「夫原和歌者感鬼神之幽情、慰天人之恋心、去者自神御世伝而」云々といふ序文と和歌四病とがあり、次に、「或記曰、和歌之道者天神応身萬法ノ体也。両句者天地陰陽胎金ノ二界也。上者胎蔵界、下者金剛界也。日月万物蔵之。五・七・五・七・七者五行五常五方五季也」に始まる陰陽五行説及び仏教思想による五句の説明があり、歌の守護神たる三十一神をあげ、土句三種深義を述べ、奥書に、
 是者住吉大明神御作也。天安元年正月二十八日授之在五中将。在五中将奉太神宮。太神宮奉送延喜聖帝云々。
 此説者従高貴大明神授在五中将以来二條家之重寶也。不及他家秘伝也。依宿習深得聞此奥義已。
とあり、終ってゐるもの及びその次に更に昔義并星宮口伝のあるものである。即ち内閣文庫の一本がそれであるが、その他に東京大学図書館本(南葵文庫旧蔵本)、竹柏園蔵和歌四式本などがそれである。東京大学本には昔義并星宮口伝はない。

 乙本  甲本の全内容を有し、更にその奥に、近来風体抄諸條の抄出及び阿古根浦口伝のあるもので、内閣文庫本の他に、神宮文庫本、竹柏園蔵倭歌四式本などがそれである。

 丙本  甲乙両本の巻頭にある「夫原和歌」云々の序文及び四病の條がなく、即ち陰陽五行説の條より始まり、星宮口伝の次に阿古根浦口伝、深秘口伝集(龍田川之事、御手洗河之事、斎宮段之事、月ヤアラヌノ事、業平人丸ノ歌ノ末ヲ読事、陽成院之御事)、深秘口伝(人麿三所墓事、仁和中将二義事、日神月神事、小野小町同時代事、無何有郷義事、ミズモアラズノ事)のあるもので、内閣文庫本の他に、竹柏園蔵石見女式(光廣本)、石見女髄脳などがそれである。

 丁本  丙本の全内容を有し、更に近来風体抄諸條の抄出、古来風体抄の大部の抄出、秘蔵抄の抄出のあるもので、松井文庫本がそれである。

 以上四種に分けて揚げたが、甲乙両本、丙丁両本は夫々巻頭が一致して居り、大きく二類にすることが出来る。前者の巻頭をなす「夫原和歌」云々の序文は、最初の十七文字が歌経標式にある文で、それ以下はすべて喜撰式にあるものである。従って、喜撰式の序の前に、濱成式の一文十七字を添加して石見女式の序としたのであり、後世の産物たること明確である。乙本丁本等に載せられてゐる近来風体抄の抄出は、明記されてゐないが、約十頁(四百字詰)程全く一致してゐるのであり、それを疑うことは出来ない。又丁本にある古来風体抄も明記はないが、三十七頁に達し唯途中に一ヶ所省略があるのみである。同じく秘蔵抄も五百余に達して居り明瞭である。然しそれらは伝本によって相違するのでそれを除き、諸本一致してゐる條を見るに、

 一、五句の五行説的説明  二、和歌守護三十一神  三、土句三種深義(五行説)  四、奥書  五、昔義并星宮口伝

である。一見何人にも鎌倉後期以後の作であることが明瞭であり、今更論ずる必要はない。例えば、その奥書を見ても、住吉明神の御作であり、天安元年業平に伝え、業平より太神宮に奉り、それから延喜聖帝へ伝え奉ったとするが如きは最も甚だしい。殊にその次の奥書には、「此説者従高貴大明神授在五中将已降二條家重宝也」云々とあり、何人が見ても、藤原為家の子孫が分裂して以来の事であり、鎌倉末期より寧ろ室町時代に入ってからの作であろうことが知られる。烏丸光廣は、

 本書片仮名ニテ書之。今平仮名ニテ写之。後人勿疑。凡歌道之極秘ハ何レモ浅ハカナルコト也。不信ノ者ハ見テ疑ヲ生ゼン。故ニ代々秘伝シテ非其器人ニハ伝ヘザルナリ。謹受納セヨ。  光廣判

と述べて伝授してゐるが、誠に尤と思はれる。古今伝授の類で、而かもそれより甚だしい。源義智はそれを感謝して「最古体殊勝之式、更無所可疑者乎」というが、今日よりは全く認められない。かくて何れも本大系に収録すべきものではないが、四式として有名であるので、揚げることにした。
 平安時代に作られた石見女式は如何であろうか。奥義抄序に、「歌のふみ式は光仁の御代に参議藤原朝臣濱成みことのりを承りて作れる歌の式、和歌は石見女髄脳などいひて家々の教えまま伝はれる」とあり、又和歌色葉にも「石見女の髄脳」とあって、当時存在したかとも思われるが、又一方、和歌現在書目録に、

 石見女姫髄脳
 勘解由安次官清行式(号石見女、是歟、未決)。

とあり、八雲御抄巻一にもそれに基づいてか、「石見女式(是安部清行式同物歟)。」と述べ給うてある所を見れば、既に存在しなかったのであろう。殊に清行式の逸文の存するに反し、石見女式の逸文の全く諸文献に見えない点よりしても、当時既に伝存しなかったのであろう。

 清行式は勿論存在したろうと思われ、袋草紙下巻に、
 勘解由安次官清行和歌式云、凡和歌者先花後実。不詠古語并卑陋所名、奇物異名。只花之中求華、玉之中択玉、長□瓦礫之辞、先風月之思矣。入詞林挙花、少其栄気者、捨兮不採。臨渇時汲泉、無其嘉名忍而不飲。是詞人遺風也。莫忽緒云々。

とある。そこ顕昭が、「顕昭伝、此式未尋得。尤以不審」と頭註を加えてゐるによれば、既にその頃稀覯本であったのであろう。八雲御抄巻六に「安倍清行が式日、凡和歌者先花後実、不詠古語并卑陋所名、奇物異名。ただ花の中に花をもとめ、玉の中に玉をさぐるべしといへり」とあるのは袋草紙によったのであろう。又江戸時代の和歌初学式巻四にも「安部清行曰、だびたる詞、異なる名所、物の異名をこのむべからず。名所はいくたびも花には吉野、紅葉には立田、月はをばすて等也と云々」とあるのも引用文を更に引用したものである。

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    新撰萬葉集 序 [一名、菅家万葉集]          菅原道真・源當時
 新撰萬葉集の現存伝本は二類に大別せられる。即ち原撰本と増補本である。原撰本は伝本が極めて少なく、近年出現した一本が知られてゐるのみである。奥書は次の如くである

 本云
  文永十一年十二月三日以九條二品本書写了。
  以或本書写了。此本無四度計事済々歟。可校合他證本者也。          朝議太夫紀朝臣判
  正平六年辛卯十一月十日書写之了。云崇敬云重宝旁以可秘々々。不可出箱底者也。       金吾源朝臣季範判
書式より見るに、「本云」は二項にかかり、最後の一項のみが別らしく、正平六年に識語を加へた際に、既に組本にあった識語を、「本云」と註記して、新たに加へたものと区別したのであろう。言ふまでもなく、この識語は三項より成っている。
 第一は、文永十一年十二月三日に書写したという識語で、書写した人は不明である。組本たる九條二品本は、藤原行家の所持本であろう。行家は、歌学の家たる六條家の歌人である。
       
       
       
       

  顯季 ――――顯輔 ―――― ┌ 清輔
├ 重家────┬─ 顯家───┬─ 知家──── 行家──── 隆博
 顯昭      └─ 有家     └─ 顯氏


 




父祖代々歌学者として知られ、顯輔は詞花集の撰者であり、清輔は続詞花集の撰者、殊に奥義抄、袋草子、和歌初学抄、和歌一字抄等の撰者として名高く、顯昭は平安時代第一級の歌学者と称せられ、袖中抄、古今集註以下著作も極めて多い。有家は新古今集の撰者の一人であり、知家は寶治二年仙洞歌合の際、為家の判に対して蓮性陳状を奉って有名である。行家は続古今集撰者の一人であり、この年五十二歳で、従二位左京大夫であったが、二月二十日に左京大夫を隆博に譲った。先祖代々歌人歌学者であったことを思へば、かかる珍書の伝存したことも当然であろう。第二は、「以或本書写了」云々とあり、組本を明記してゐないが、第一の識語により、九條二品本系統であったことは疑いなかろう。書写したのは、「朝議太夫紀朝臣」とあるのみで明らかでない。この書写は、文永十一年十二月乃至正平六年十二月の七十七年間であるが、それ以上詳しく知ることが出来ない。「朝議太夫」とあるので、この時代に正五位下又はそれ以上に進んだ人を、紀氏系図によって求めると、次の如くである。
       
       
       

   淑望  ├ 文長――― 文経――― 文栄
 長谷雄 ─── ┴ 淑光 ──(八代略)── 文盛――― ┴ 文元――― 文親





淑光は、天暦二年六十五歳で歿し、それより十代目の文元は正四位下縫殿頭であり、その子文親は従四位下大蔵権少輔であった。年代は明らかでないが、文栄が永仁六年十二月に歿してゐる点より見て、差支えないように思ふが、決定は許されない。第三は、正平六年書写の識語である。源季範は、尊卑分脈には、信明の曾孫と鳥羽院北面とがあるが、何れも平安時代の人で、時代があはない。「金吾」は衛門督ではなく、恐らく衛門尉あたりであろう。正平六年は、所謂南北朝時代で、北朝の親應二年に当る。本書は、その伝写本であり、料紙、筆致などより考へるに、室町初期應永以前であろうと思はれる。
 増補本と対比するに、上巻は殆ど一致してゐるが、下巻は甚だしく相違してゐる、即ち上巻は、最初に序があり、歌数も百十九首で、増補本と同じである。排列順序まで一致してゐるが、語句は若干相違している。下巻は、まづ序がなく、更に注意すべきは、歌のみであって、詩は一首もないのである。歌数も少なく百十首ほどである。春部は十二首で、増補本の第二・四・五・八・九・十・十二・十三・二十の九首がなく、夏部も十八首で、第十一・十六・十七・十八の四首がなく、秋部も三十四首で、第七・九・十三・二十八・二十九の五首がない。片仮名書の一首は異伝歌であろう。冬部は二十首で、第十九・二十の二首がなく、最後は思歌となってゐて二十首あり、第四・五・六・十八・二十一の五首がない。かくて都合二十五首ほど少なくなってゐる。それが原撰本の原形に近いものであろう。
 増補本は伝本が極めて多い。群書類従本のほかに、寛文七年版本、元禄九年版本、文化十三年版本等の木版本があり、写本としても書陵部本、内閣文庫本、彰考館文庫本、竹柏園本、久曾神蔵三部など、少なからず伝存してゐる。原撰本と対比して考へるに、後に増補せられたものと考へられる。主なる相違点は下巻で、まづ最初に序があり、ついで春部は九首多く二十一首、夏部は四首多く二十二首、秋部は五首多く三十九首、冬部は二首多く二十二首、恋部は五首多く三十一首、最後に更に女郎花の歌二十五首を増補してゐる。しかしそれらの歌を漢訳した詩を、上巻と同様にそれぞれの歌の次に揚げてゐる。
 本集の和歌は、寛平后宮歌合及び是貞親王家歌合のものが大部分であり、増補本は更に朱雀院女郎花合の歌を多く収めてゐる。中でも最も関係の深いのは寛平后宮歌合で、西下経一博士によれば、歌合二百首のうち百六十五首まで採られてをり、高野平氏の調査によれば更に多くなってゐる。しかして歌合左右と歌集上下巻との関係について、西下博士は次の如くに述べられてゐる。

歌合の春・秋の歌はその左を本集の上巻に収め、右を下巻に収め、殊に右の歌は順序の全く一致する部分がある。
歌合の夏の歌は三番の左まで、冬の歌は七番までを春・秋の如くし、以下を逆にしてゐる。恋の歌は、始めと終りとを春・秋の如くし、中間を逆にしてゐる。
 
高野氏もほぼ同様に述べられてゐるが、それは歌合の本文が誤ってゐる為である。即ち群書類従本歌合について見れば、夏部三番右が脱した為に、それ以下左右が反対になってをり、冬部八番左が脱した為に、同様にそれ以下が反対になったのである。恋部は六番左が脱したので、それ以下が反対になり、又十一番右が脱した為に、それ以下は原のままとなってゐる。かくて原形に改めて見れば、歌合の左右はそのまま撰集の上下巻となるのであり、少しも乱れてゐないことになるのである。この四首の脱落は推定ではあるが、番数その他何れの方面より見ても矛盾しないので、この推定は容易に認められるであろう。さて表示すれば次の如くである。括弧内は原撰本の歌数である。

 寛平后宮歌合歌数    新撰萬葉集所載歌数
 上巻  下巻  合計
 春部 40   左 20  16    34 (28)
 右 20    18 (12)
 夏部 37   左 20  17    33 (29) 
 右 17    16 (12)
 秋部 39   左 20  20    38 (36)
 右 19    18 (16)
 冬部 37   左 19  16    32 (31)
 右 18    16 (15)
 恋部 38   左 18  11    29 (26)
 右 20    18 (15)
 合計 191   左 97  80    166 (150)
 右 94    86 (70)

即ち現存歌合百九十一首の内百六十六首まで新撰萬葉集に出てをり、見えないのは僅かに二十五首である。原撰本によれば、四十一首見えないことになり、従って増補の際に十六首ほどこの歌合の歌を増したことになる。拙文「寛平御時后宮歌合考」(愛知大学文学論叢第八輯)参照。
 成立年代については、原撰本の序に、寛平五年九月とあるので、それを認めるべきであろう。選者は、古来菅原道真と伝称せられ、菅家萬葉集とも呼ばれてをり時代も矛盾しないので認められよう。「先生非啻賞和歌之佳麗、兼亦綴一絶之詩、挿数首之左」とある「先生」(先王)については、なほ疑問も存するのであるが、暫く伝称に従ふことにする。増補本の成立は、その序に延喜十三年八月とあるので、それを認めるべきであろう。その増補者は、和歌現在書目録、八雲御抄などによれば、源相公即ち参議源當時(文徳天皇御孫)である。拙文「新撰萬葉集原撰本の出現」(愛知大学文学論集第三集)参照。
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    古今和歌集(こきんわかしゅう) 序              紀貫之・紀淑望         
 延喜四年頃に多くの歌人に家集並びに古来の舊歌を献ぜしめられ、延喜五年四月更に紀友則、紀貫之、凡河内躬恒、壬生忠峯の四人に勅して部類せしめられたが、友則が間もなく歿したので、貫之以下の三人が撰集したのである。成立年代は明確にしがたいが、内部徴證によると、延喜十三年三月亭子院歌合の歌まで存するので、それ以後とすべきであり、作者の官名、朝臣の用法などを調査するに、中納言昇の官名により、延喜十四年八月以前となるので、延喜十三年三月乃至同十四年八月の間に成立したものとすべきであらう。拙文「古今集作者名並に成立年代考」(書誌学十四巻號)参照。
 古今集には仮名序と真名序とがあり、その前後については異論があり、古来多くの人々によって意見が提出せられてゐる。主なる諸説を総括すると次の如くにならう。
      

 一、仮名序を前とする説
  イ、仮名序を延喜時代の作とする場合
   a 真名序をも延喜時代の作とする説
   b 真名序を後世の作とする説
  ロ、仮名序を後世の作とする場合
     真名序も亦後世の作となる

 二、真名序を前とする説
  イ、真名序を延喜時代の作とする場合
   a 仮名序をも延喜時代の作とする説
   b 仮名序を後世の作とする説
  ロ、真名序を後世の作とする場合
     仮名序も亦後世の作となる


その中で最も激しく論争せられてゐるのは、両序の前後の問題である。詳細は拙文「古今和歌集両序成立年代考」(帝国学士院紀事二巻一)に譲り、略述するならば、共に延喜時代のもので、仮名序が前であらうと思ふ。貫之の傾向を注意するに、仮名序をもって奏覽せんとしたのであらうが、四囲の人々はそれを許さず、遂に紀淑望に真名序を依頼したのであらう。淑望に依頼する以上は、その人格を尊重し、自由な態度で執筆するやうにしたことは当然であらうが、淑望として見れば、内容に収めるべき事項は尋ねたであらうし、殊にすでに仮名序が成ってゐたとすれば、たとへそれが草稿本であったにしても、必ずやそれを参照したであらうと思はれる。両序を比較するに、前半が著しく相違してゐるのは、淑望が自由な態度で、殊に得意とする漢籍を多く参照した為であらうし、後半が近似してゐるのは、古今集撰集といふ事項を取り扱ひ、殊に歌人評など仮名序に職由した結果であらう。文章を比較するに「詞少春花之艶、名竊秋夜之長」の如きは、仮名序の「ことばはるのはなにほひすくなくして、むなしきなのみあきのよのながきをかこてれば」を漢訳したものとしか考へられない。枕詞まで直訳してゐる点を見るべきであらう。その他にもその證とすべき例は多い。
 仮名序の伝本は、古註の有無の相違が存するのみで、すべて同系統と考へられてゐたが、その後の調査によって、少なくとも三系統本の伝存することが知られるに至った。甲本は、鎌倉中期以前の写本が一部伝存するのみであり、乙本は、鎌倉時代の写本が明治初年まで伝存してゐたようであるが、現在は新写校合本が知られてゐるのみである。その他はすべて丙本であり、古註の存する伝本が大部分であるが、源兼行本系統の如く古註のないものも存する。主なる伝本を表示すれば次の如くにならう。

甲本  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 別稿本 (筆者保管、重美) 
乙本  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 花山法皇御本系統 (樋口氏旧蔵校本) 
丙本        非改竄本        無註本  兼行本系統 (三部) 伝寂連筆後藤氏蔵本 
有註本       古註混同本  元永本系統 (三部) 雅経筆西脇氏蔵本 
古註區別本    片仮名區別本  通宗本系統 (右衛門切) 
朱書區別本  通宗本系統 (天理本)  
一字下區別本  俊成本系統 (伝家隆筆本) 
朱点區別本  俊成本系統 (御家切、昭和切、永暦本寺等)  
細書區別本  定家本系統 
改竄本 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 伝尊圓親王筆本、東江源鱗筆本等 

甲本より乙本に、更に丙本になったものと推定せられる。
一例を示せば次の如くである。

 甲本・・・・・こまちが歌は、あはれなるやうにてつよからず。よきをんなのなやめる心あるにゝたり。
 乙本・・・・・おのゝこまちは、あはれなるやうにてつよからず。よきをむなのなやめるところあるがごとし。
 丙本・・・・・をのゝこまちは、いにしへのそどほりひめのりうなり。あはれなるやうにてつよからず。いはばよきをんなのなやめるところあるにゝたり。

内容には著しい相異がないので、精撰本と推定せられるものを収めることにした。
 古今集の序ではあるが、貫之の和歌に関する意見を組織的に述べたところがあり、わが評論史上、最古の最も意義深い文献である。その内容は、和歌論と撰集論とに大別せられ、前者は本質論、目的論、起原論、展開論、分類論、変遷批判論と六分せられ、後者は萬葉集撰集、六歌仙評、古今集撰集、撰集後抱負と四分して考へることができよう。六歌仙評は、貫之の秀歌論を見る上に忘るべかざるものである。
 真名序も、仮名序と同じく幾度も改稿せられたかも知れぬが、撰者の許に提出すれば、それで確定するわけであり、撰者の執筆した仮名序とは多少趣が相違するやうに思はれる。ともあれ、現存伝本は甚しい相違もなく、同系統本と推定せられる。現存本に存する異同は、むしろ後人の加註、誤脱などではあるまいか。
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    新撰和歌 序 (しんせんわか)           紀貫之         
 新撰和歌は歌集であるので新撰和歌集ともよばれ、又撰者の名により貫之髄脳、又は新撰貫之髄脳ともよばれてゐる。延長年中、貫之が醍醐天皇の勅命を奉じ、古今集の歌を中心とし、弘仁(実際には更に古い時代の歌人も入ってゐる)より延長に至るまでの間の人々の秀歌三百六十首を撰んだものである。貫之は非常に几帳面な人であり、苟くもしないといふ態度であり、古今集も八九年の歳月を費したのであったが、本集に於いても相当の歳月を費し、未だ上奏しないうちに崩御になり、又勅命を伝へた藤原兼輔も薨逝したといふので、承平三年十月以後に成立したこととなるであらう。
 一年三百六十日に則り三百六十首を撰び、四時に象り四軸とし、春と秋、夏と冬、慶賀と哀傷、離別と羈旅、恋と雑といふやうに、相対してゐるが、それは云ふまでもなく歌合の影響によるものであり、、既に菅家萬葉集に見られる傾向である。
 序文は大きく三分し、一、勅命拝受、二、撰集態度、三、撰集完了と見られ、その中の撰集態度を見るに、「花實相兼」の歌許りを撰んだのであり、「今之所撰玄又玄也」といひ、又
 皆是、以動天地感神祗、厚人倫成孝敬、上以風化下、下以諷刺上。・・・
と述べてゐる。貫之の最も理想的と考へた歌を集めたのであり、彼の秀歌論を見るに忘れてはならぬものである。古今集は貫之が主となったと考へられるが、やはり躬恒、忠峯等の意見も加はってゐるのであらう。
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    和歌體十種 (わかたいじっしゅ)           壬生忠岑         
 奥義抄、和歌現在書目録、和歌色葉、八雲御抄等にその名が見え、当時相当に尊重されたものと思ふが、その後殆ど存在を知られず、唯僅かに岡本保孝より木村正辞博士を経て竹柏園に入った新写本が知られてゐたのみであった。然るに近年安田家に古写本が入るに及んで広く知られるに至った。筆蹟よりすれば、高野切古今集第二種の系統を引くもので、伝藤原公任筆深窓秘抄(藤田美術館蔵)などと類似するものであり、平安時代後期のものであり、筆者の如何は別として、とにかく注意せられる古写本である。袖中抄巻三に、
 
 をがさはらのみつのみまきにあるゝうまもとればぞなづくこのわがそでとれ  顕昭云、是は忠峯十体の中、古歌の体の歌也。

とあり、また頓阿の井蛙抄巻一の最後(前田家蔵頓阿自筆本にはこのあたりがないが、切り取られたのであって、最初より存したことは、高松宮家蔵古写本以下によって明らかである)に、

  忠峯十体云、余情歌
 我宿の花見がてらに来る人は散りなむ後ぞ恋しかるべき
 今来むといひし許りに長月の有明の月をまち出づるかな
 思ひかね妹がり行けば冬の夜の河風寒み千鳥なくなり
 音羽川せき入れて落す瀧つせに人の心の見えもするかな
 和田の原八十島かけて漕出でぬと人にはつげよ海士の釣舟

  此体詞標一片義籠萬端。

とある(最後の「此体・・・萬端」の十字はない本とある本とあるによれば後人の追補かもしれぬ)。而してこれらはすべて現存本と合致し、平安後期に存したものとして差支ないこととなる。山田孝雄博士の調査によれば、現存本所収の例歌四十六首は、貫之五首、躬恒四首、伊勢同、人麿三首、道真同、素性二首、赤人同、康秀、貞文、敏行、篁、深養父、仲麿、ニ條后、宗貞、業平、千里、公忠、厚見王各一首、不明十一首であり、又所載歌集を見るに、古今集二十六首を劈頭に、四十三首まで平安時代のものに見られるのであり、歌の年代より見ても確かなものであらう。従ってその成立は序文により天慶八年十月であらう。
 現存本は第九の華艶体と第十の両方体との間に少し切取りがある。即ち華艶体歌五首のうち最後の一首、華艶体の説明及び両方体の最初の例歌三首を失ってゐる。従って例歌は四首不足であるが、両方体の例歌は、道済十體によって二首補ひ得、結局二首のみ不足となる。
 この十體は支那の詩学書並に空海の文鏡秘府論、文筆眼心抄、又歌経標式等の影響によって成ったものであり、次に述べる源道済の和歌十體への影響は殊に甚だしく、その他定家の十體にも影響したと考へられ、又公任の和歌九品にも関係があらうと思はれる。 

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    和歌十體 (わかじったい)           源道済         
 奥義抄、和歌現在書目録、八雲御抄等にその名が見え、奥義抄にはその全部が引用せられてゐる。それは唯十体の名と例歌各二首であり、それが果たして道済十体の全部であるか否かはなほ考へるべき余地が存するのである。即ち忠峯十体と対比するに、十体の名称も全く同じで、唯前者には「神妙体」の如く三字であるのを「神妙」と二字にしたのみであり、又例歌は忠峯のあげた各五首より二首づつを抄出したに過ぎず、各体の説明は全部省略してあり、唯それだけでは忠峯十体の抄出に過ぎず、道済の作とは言ひがたいのである。従って其の他に何か道済の加へた部分が存したであらうかと思って調査してゐるが未だに異本を見出し得ない。加之、近年宮内庁書陵部蔵和歌十体を見たが、それは鎌倉時代の古写本であり、しかもその内容は奥義抄所引のものと合致してゐる。従ってそれが道済十体の原形であらうと考へるに至った。忠峯十体との関係を示せば次の如くである。

   忠峯十體  道済十體
 1  古歌體 例歌五首  古體 例歌二首 (忠峯例歌第一・第二)
 2  神妙體 同 五首   神妙 同 二首  (同    第一・第二)
 3  直  體 同 五首  直體 同 二首  (同    第一・第三)
 4  余情體 同 五首   余情 同 二首  (同    第一・第二)
 5  写思體 同 五首  写思 同 二首  (同    第二・第三)
 6  高情體 同 五首   高情 同 二首  (同    第一・第二)
 7  器量體 同 五首  器量 同 二首  (同    第一・第二)
 8  比興體 同 五首   比興 同 二首  (同    第一・第二)
 9  華艶體 同 五首 (第五首脱)  體 同 二首  (同    第一・第二) 
 10  (両方)體 同 五首 (前三首脱)   両方  ―
 

以上の比較によって如何に近似してゐるか明瞭である。

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    類聚證 (るいじゅしょう)           藤原実頼        
 途中
  

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