万葉時代の故人とは   参考:日本古典文学全集、小学館
 

 大伴旅人が、妻を偲んで歌った三首、巻第三-441、442、443は、紛れもなく亡くなった者を「故人」としている。
その題詞にも

 「神亀五年戊辰大宰帥大伴卿思恋故人歌三首」

とあるが、この根拠は巻第八-1476の左注に

 「右、神亀五年戊辰大宰帥大伴卿之妻大伴郎女遇病長逝焉。于時、勅使式部大輔石上朝臣堅魚遣大宰府弔喪并賜物也」

とあり、大伴郎女が、この筑紫の地で、この年に亡くなったことが分る。だから、故人であることは、今の私たちには、何の疑いもないことなのだが、この当時かなりの影響のあった唐詩を見ると、そう簡単に「故人=亡き人」とは言い切れない。
 唐詩の中の「故人」という語が、李白の「故人西辞黄鶴楼」、王維の「西出陽関無故人」のように死人の例には使われていないことを知る。謝朓の詩は玉台新詠巻四、文選巻第二十九に見え「故人心尚爾」は古詩、古楽府の「相去万余里、故人心尚爾」を踏まえた詩だが玉台新詠・巻四(岩波文庫本)の鈴木虎雄訳解によると、「以前の吾が夫」と解釈している。ただし、「大漢和辞典」は「故人」の項の死んだ人の意味の用例としてこの詩を挙げている。やはりこの詩の意味から考えると、この故人は亡くなった人ではなく、鈴木の解釈が妥当と思われる。この故人の語の引用は松井簡治の「大日本国語辞典」にある。この辞典はさらに、最近でも出典として引用される和漢朗詠集・下・懐旧にある、白居易の「一灑故人文」を引用している。朗詠にはこの詩と並んで白居易の「泉下故人多」がある。この故人は、亡くなった人の意味ではなく、ここは旧知でなければならない。
 「故人」について、「漢語詞典」は一、旧友(後漢書)、二、旧妻(古楽府)、また「現代漢語詞典」は老朋友、旧友としている。「辞源」は一、猶言旧人、二、漢人於門生故吏之前率自故人、三、今通称友人曰故人、「唐詩三百首詞典」も旧友とあり、いずれも死者の意味はない。「故」には釈名・釈喪制に、「漢以来謂死為物故、言其諸物皆就朽故也」とあり、「説文通訓定声」の引用によると、史記・張丞相伝、匈奴伝の「物故」の例が見えるが、しかし直接故人とは結びつかない。故人の用例はとても多く、すべてを挙げて論証は出来ないが、荘子(山水)、呂氏春秋、漢書、後漢書、文選、玉台新詠、唐詩に見える。先述のように、唐詩選、三体詩、唐詩三百首、「中国名詩選」(松枝茂夫編)、「古詩選」(入谷仙介)の解釈は「旧知」としている点では同じである。中国古典文学の世界の故人は、主として旧知の意味として用いられている。

 日本では、日本書紀、古事記には用例はない。書記・神代巻の天孫降臨の条に、「亡者」、「死人」とある。風土記、懐風藻、文華秀麗集にも見えない。本朝文粋、菅原文時の「老閑行」にある「生徒去不入室、故人厭不至門」の故人は死者ではなく、旧友である。菅家文草に十六例があり、日本古典文学大系本の解釈では、ほとんど旧知の意味であるが、その中で巻三の「冬夜閑居話旧」の「相論前事故人在」、巻四の「哭翰林学士」の「聞喪泣読故人書」の故人を亡き人、故人(おそらく死者の意味だろう)としている。前者は事実は亡き人を含んでも、旧知としても無理な解釈ではない。後者は死後間もなくの話であるから、亡き人の意味が強いといえるが、旧知の意味の故人という表現をとったともいえる。

 「大日本国語辞典」は故人の例として源平盛衰記を出しているが、これより以前何処まで遡れるかは明らかではない。
 「故」を墓誌銘に記す例は、船首王後墓誌、高谷連枚人墓誌に見える。この用法は故の字の説明にはない。この例がいつから始まったのかは明らかではない。

 万葉集に戻すと、万葉集の「個人」は直接大伴旅人との関係によって表現されている。唐詩の通用例では旧知だが、夫婦二人の間の自己の妻を故人とよんだ例があるかどうかは明らかではない。夫婦の間で故人といえば新人に対するもので旧妻を意味する。万葉集では「故人」はこの一例に過ぎず、また奈良朝文献にも管見では例を見ない。この故人が、先に髄代の故人を亡き人と解釈した場合と同じであるとすると、何を媒介としてその語がもたらされたか、一つの問題として提起されるべきだろう。

 
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