部立てと歌数   参考:日本古典文学全集、小学館
 

 編纂者は万葉集の歌を分類配列するに当たって、作品の成立年代の古新は第二の基準とし、それよりもなるべく内容を優先させる方針を貫こうとした。三大部立(ぶだて)と呼ばれる雑歌・相聞・挽歌の三部門がそれである。「雑歌」は「くさぐさの歌」の意で、相聞・挽歌に含まれない種々の内容を含み、行幸従駕の作をはじめとして、公私の旅の歌、宴会の歌、四季折々に嘱目した景物の詠などがその中心になっている。その名称は、「文選」の分類の一つとしての大見出し「雑詩」によったと思われる。「文選」には「雑歌」という名目も立てられているが、これは「くさぐさの歌謡」の意であって、おそらく編集者は「雑詩」によってこの部立を設けたと見るべきであろう。 次に「挽歌」は本来、人を葬る際に柩を挽く者が謡う歌を意味するが、広く死を悲しむ歌を指し、時には死地に赴く人が自ら哀傷する歌さえもこれに含まれる。万葉集の「挽歌」の部立名が「文選」の「挽歌」―歌謡的性格の「挽歌」と、創作された「挽歌詩」とを含む−によることは、まず間違いないと思われる。
 「相聞」は「相問」と同義で、もとは相手の様子を尋ねる、便りをし合うの意を持つ。転じて、心のうちを述べることにもなり、万葉集では対詠のみならず独詠をも含めた恋愛の歌を主にさす。「相聞」の語は「文選」にはただ一例だけで(巻第四十二、書の部)、出典と称するには不安がある。ただしこの語は漢籍の書簡類(書儀・法帖など)には甚だ多く、贈答や往来の場合にしきりに使用されている。「文選」の分類で言えば「書」の部に入るものだが、万葉集編纂者の意識としては、雑歌・挽歌に対する部分の名としては「書」の一字では不釣合いと考えたのか、「書」の部に関係のある「往来存問」(音信・贈答)の意の「相聞」をもってこれに代えたのであろう。その意味で、部立名としての「相聞」も「、「文選」から暗示を得ているといえる。


 この三つの分類によって万葉集の歌の大半は分類され、例外となる巻は終わりの数巻に過ぎない。巻第十五および巻第十七以下は、この分類によらず、第二の基準である時の古新を縦糸にしている。つまり、原資料たる歌群や個人の歌日記を時間の推移に従って並べた形を採っている。そのことは編纂作業が一筋縄ではいかなかったことを示すと共に、また編者がなるべく三大部立の基本線を崩すまいと努めたにもかかわらず、どうしてもその方針を貫けなかった事情がそこにあったと解すべきであろう。
 ただし、その雑歌・相聞・挽歌の三分基準は必ずしも厳密ではなかった。先入観なく見るならば、当然、相聞の中に収められるべき歌が雑歌や挽歌の中にあるとか、重出歌・小異歌の一方は雑歌、他方は相聞と分けて入れられている、というような不揃いな分類が散見する。後世の勅撰集でも多少疑問が持たれる配列を見るが、万葉集もその例に洩れなかったのである。
 その上更に、表現形式や歌体などの形式的な要因が分類の名目の中に割り込んでくることもある。即ち、巻第十一・十二において見られる名目だが、相聞を表現法の上から、直接に自分の感情を述べる「正述心緒(ただにおもひをのぶる)」、何らかの外界物象を媒材としてそれに託して自分の気持ちを述べる「寄物陳思(ものによせておもひをのぶる)」、そしてその傾向を更に進め隠喩にまで達した「譬喩歌(ひゆか)」と三分する、小刻みな分類がなされており、また「問答歌」「羈旅発思(たびにしておもひをおこす)」「悲別歌」などの情況による区分があり、時には雑歌との仕切りを取り払い、歌体の特異性だけで設けた「旋頭歌」のごときもある。先行資料としての「柿本朝臣人麻呂歌集」や「古歌集」などにあった分類法を受けたのでもあろうが、「雑歌」「相聞」「挽歌」の三大部立をなるべく崩すまいと努めつつ、ついに守り切れなかった編纂者の苦心をそこに見るべきであろう。
 また歌を雑歌・相聞に分けた上に四季の別を配している巻もある。巻第八と巻第十とが即ちそれである。四季の別によって事物やそれを素材とした詩を分類することは、はやく六朝期の類書や詩集にその例を見、万葉集においても同じようなことがあるのも中国の影響と考えられなくもない。しかし、二十四節気、折節の移り変わることの規則正しさにかけては世界中のどこよりも、中国さえもその点では及びがたいとされるわが国の風土的事情、そしてそれに反応する住む人の心の動き、感受性の繊細さが、おのずからにこの分類形式を採らせたとみる方が自然ではなかろうか。ただし、万葉集の四季の歌には秋の「あはれ」を詠んだものがほとんど見当たらない。その点、「懐風藻」の詩の中には秋気の悲哀が詠まれていて奇異な感じがしなくもない。しかし、それは「楚辞」や「文選」の詩句の借用であり、やはり万葉人の季節感からしては秋の悲傷は歌の素材になお遠く、また万葉集には詩におけるほどの模倣・摂取が不可能な壁があったというべきであろう。あるいは、例えば「古今集」の四季の歌において、巻第一の春歌上が、立春・春雪・鶯・若菜・霞のように、季節の推移進行に従って並べられ、春歌下・夏歌・秋歌上・同下・冬歌と続くのに比べると、万葉集では巻第八において、春雑歌・春相聞・夏雑歌・夏相聞・・・と八つに分け、それぞれの中で年代の古い歌から新しい歌へと並べてあるのは、詠まれた歌の年代の古新を重視する方針をなるべく崩すまいとする気持ちが編者にあったからではないか。それが原資料の形を出来る限り守ろうという気持ち、ひいては「いにしへ」への憧れの気持ちをそこに見るべきではないか、と思うことである。


 近世から明治・大正の近代までの諸学書は、歌や題詞・左注などの所在を示すのに寛永版本の丁数によった。例えば「藤原宮の役民が作る歌」という題詞を有する長歌(50)は巻第一の二十二丁表、「藤原宮の御井の歌」(52)は同巻の二十三丁の裏、というような表示法をとるのが例であった。しかし、明治末年に松下大三郎らによる「国歌大観」の業が成り、その中に寛永版本を底本とした万葉集も収められ、それに付された「国歌大観」の番号の便利性が一般に認められて、昭和初年頃から刊行された本文・注釈書・学書でこれによらないものはない。
 古典文学全集では最後は4516番で終わっているが、これは寛永版本における歌の並べ方・表示に準拠して番号を付したら当然こうなるというだけで、決して万葉集の歌が4516首あることを示すものではない。 万葉集の歌の中には「或本歌に曰く」とか「一本に云ふ」とかいう形で異伝歌や小異歌を参考として揚げることがかなりある。そのうち、短歌で言えば五句揃っておらず、そのため一首の体をなしていないものは別として、しからぬものが時に一首独立した歌として計算され、また時に左注中の引用と同じ扱いを受け、数に入らないこともある。しかし、これは寛永版本のみを責め難く、大かたの古写本でもしばしばあいまいに掲出がなされ、歌を書き洩らし、それを後人が別系統本によって補入したり、連続する二首の歌を続けて書いたり、一首の長歌の冒頭部分だけ切り離し、独立した一首の短歌と思い誤ったりすることがある。例えば、巻第六の石上乙麻呂土佐配流の長歌三首(1024,1025,1026)を、元暦校本は一首の長歌のように段落を設けずに書き、紀州本は1025,1026,1027を続け書いている。ところが、神宮文庫では、1025に相当する部分

 王命恐見刺並之国尓出座耶吾背乃公帷矣(オオキミノミコトカシコミサシナミシクニニイデマスヤワガセノキミヲ)

を1024の後に続け、西本願寺本ではその部分を1024から独立させ、一首の短歌のように扱っている。あるいは文永本段階における仙覚の新案であろうか。今日では一般に本居宣長案に多少修正を加えた形で1025に続けて解するのが例であるが、その文永本の形を受けた寛永版本によって番号を打つならば、右の「王命恐見・・・背乃公矣」が1020、そしてこれに続く「かけまくもゆゆし恐し・・・」が1021ということになるのは、しかたない。一首の長歌でありながら、1020、1021の番号が付されているのは、そのような理由による。また巻第八の長歌1432の前半についても、同じような切り離しがなされていた形跡があり、それらの不確実な要素を反映して、万葉集全体として平安朝末期書写の近衛家旧蔵「万葉集目録」の如きには4500首とある。
 しかしまず「代匠記」の4515、「万葉集古義」の4496というところが妥当な歌数だろうか。


 短歌の問題と共に歌の配列順についても、寛永版本ひいてはそれを受けた「国歌大観」のそれには考うべき点がある。その最も重大な誤りは巻第七の1194以下1222(旧国歌大観番号)に至る29首が近衛本(大矢本も)の綴じ違えによる混乱である。当然西本願寺本などの順序に改めるべきだが、これを仮にあるべき形に戻しても、また新しい混乱が予想されるだけのこと。今は、いかなる原因でこのような誤りが生じたかを記述しておきさえすれば、逆に書誌の研究の材料となるべく、すべて「国歌大観」の示すまま現状どおりにすべきであろう。これほどの大きな混乱ではないにせよ、古写本によっては歌順に小さな出入りがあることは校本万葉集の記事からも知られ、正確な歌順についてはなお今後の研究に待つべきものと思われる。

 
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