成立過程と編纂者の問題   参考:日本古典文学全集、小学館



 「万葉集」という書名が付けられたのは、いつ誰によってか、不明である。これには当然、編纂成立のいきさつの問題が関わってくる。この成立過程に関しては、名義の問題以上に多くの万葉集研究者の間に盛んに論議が繰り返されており、いまだに定説として信ずるに足るものをみない。それは万葉集そのものの内部に徴すべき証拠がなく、史書などこれとほぼ時を同じくする記録類にも言及したものがないためである。
 さかのぼり得る最も古い伝承も平城京を離れて百年近くも経った頃のこと、

     貞観の御時、万葉集はいつばかり作れるぞととはせたまひければ、よみて奉りける  文屋有季        

     神無月しぐれ降りおけるならの葉の名におふ宮の古言ぞこれ(古今997)

とあるのや、同真名序に、

 昔、平城天子侍臣に詔して万葉集を撰ばしむ。それより以来、時は 代を歴、数、百年に過ぎたり。
などとあるのがよりどころである。 


 貞観年間(855-76)もおそらく後半に清和天皇が「万葉集はいつごろ作ったものか」と尋ね、文屋有季が「奈良時代の古歌です」と答えた、という頼りない話であるが、真名序の「平城天子」も、旧都平城を懐かしみこれに移り住んだ第五十一代の平城天皇と考えられなくもないが、それよりも「寧楽宮に即位したまふ天皇」(533題詞)即ち聖武天皇をさしていると考えるほうが自然であろう。この他にも後世の文献を引いて推測説がいろいろ試みられているが、いずれも確かではない。
 ただその中にあって、幾分信を置くべきかと思われるのは、元暦校本の巻第一目録の頭書、

 裏書云、高野姫天皇天平勝宝五年左大臣橘諸兄萬葉集を撰ぶ。

の書き入れである。「高野姫天皇」は孝謙天皇、その四年前の天平勝宝元年(749)、聖武天皇が退位した後即位した。その五年というと、巻第十九の巻末から巻第二十の巻首にかけての時期で、もしその裏書の言うとおりであれば巻第二十の成立はそれ以後ということになる。橘諸兄は同八年に致仕し、九年に薨ずる。万葉最後の歌は更にその二年後の作であるから、天平勝宝五年撰ということは有り得ないことだが、諸兄の撰という点は、なお考慮に値することである。

 この諸兄撰者説を従いがたいとしたのは藤原俊成の「万葉集時代考」(略して「万時考」)である。それは、諸兄が聖武天皇や孝謙天皇の勅命を受けて編纂したのでは有り得ない事を、万葉集の記事から確かめた、それなりに実証的というべき批判説であるが、勅撰説でなくても諸兄撰者説は成り立つ可能性がある。
 諸兄と大伴家持との共撰かとしたのは仙覚である。彼もまた、先に示した「高野姫天皇天平勝宝五年云々」の奥書をどの証本かで見て、これを重視し、巻第十九の巻尾近く、諸兄の子奈良麻呂が但馬の按察使の任に赴く時の餞宴で、家持が

 白雪の降り敷く山を越え行かむ君をそもとな息の緒に念ふ(4305)

と、詠んだところ、左大臣(諸兄)が尾(第五句)を換えて「息の緒にする」と修正したが、やはり原案がいいといったと左注にあるのを引いて、諸兄も撰者だと知る証でなかろうか、というのである。このエピソ-ドはいろいろな意味で興味深いが、諸兄が家持の歌作についても容喙するほどに家持に対して個人的に好意的であったことは確かである。家持が編纂作業の中心的立場にあったことは、契沖もいっており、疑う余地のないところであるが、その後ろ盾として諸兄がいたとしても不思議ではない。

 四千五百余首もの歌がどのようにして集められたかという問題には、家持に近く、かつ歌に関心を持ち、台閣の首班、左大臣という権力の座にある人が、一時的にも顧問か監修者として実務者家持の背後にあった、と考えるほうが答えやすいし、また家持単独編纂説とも矛盾しない。
 家持単独編纂説は契沖に始まる。その著「代匠記」初稿本・精撰本とも、総論篇ともいうべき「総釈」において、万葉集が勅撰ではありえないこと、家持の単独編纂なることを数々の内部徴証に照らして力説する。その多くは巻第十七以降に偏るが、それ以前についても、家持個人ないし大伴氏一族が全体に対して占める割合の高さは他を圧し、大伴氏の家の集が切り分けられたとみるべき痕跡は著しい。
 例えば、巻第八は家持およびその周辺の人々の作品が比較的に多い巻であるが、他の巻では「大伴宿禰家持」と、姓を落とさず署名するのが例であり、この巻でもそう書いた箇所もある一方、

 大伴家持霍公鳥(ほととぎす)歌一首(1481)
 大伴家持橘歌一首(1482)
 大伴家持晩蝉(ひぐらし)歌一首(1483)

のように姓を脱して記すこともあり、むしろその方が一般的である。そしてこのことは家持だけにとどまらず、その弟の書持、同族の清縄・村上・利上・四綱らにも及び、四綱は巻第三・四でもその扱いをされている。真人・朝臣に告ぐ高姓の大伴氏について、姓の「宿禰」を略することは異例である。

 大伴坂上郎女は家持にとって叔母にあたる。その郎女の娘坂上大嬢が家持と結婚した後、郎女が大嬢に歌を贈るについて、

 大伴坂上郎女従跡見庄賜留宅女子大嬢歌一首并短歌(726題詞)
 右二首大伴氏坂上郎女賜女子大嬢也(4245左注)

などのように、一般に皇族・貴族などの尊者が下位者に物や歌などを授与し、受け取る下位者がそれをかたじけないことに思うことを表す敬語動詞「賜ふ」を用いている。母親が娘に歌を贈る事を「娘」の夫である家持がかたじけないと思っているという家の事情、身内の関係が透けて見えるようである。また、家持が妻の大嬢に代わって坂上郎女に贈る歌を作って、その題詞に、

 為家婦贈在京尊母所誂作歌一首并短歌(4193)

とある、その「尊母」も、歌中に「親の尊」「尊き我が君」の語があるとはいえ、家庭内での母娘、叔母甥同士の私的感情がそのまま持ち込まれており、契沖もそれを指摘している。

 巻第十七以下の四巻は、家持の身辺の歌日誌ともいうべく、天平十八年(746)以降、天平宝字年(759)までの十四年間、公私の別なく自他の作を書き留め続けた体裁になっている。中でも巻第十九の終わり近く、自作について「述拙懐歌」(4309)と謙遜したり、同巻尾に、

  ただし、この巻の中に作者の名字を偁はずして、ただ年月所処縁起のみを録せるは、皆大伴家持が裁作れる歌詞なり

とことわったりするのは、その最も確かな証拠である。
 ところが、巻第一と巻第二とだけにはその大伴氏の私家集的性格をほとんど認めることが出来ない。ただ巻第二の相聞の部に旅人らの父大伴安麻呂が巨勢郎女を妻問うた時の贈答歌があり(101、102)、続いて二人の間に生まれた田主と石川女郎との唱和、その田主の弟宿奈麻呂に、おそらく同一人と思われる石川女郎が贈った歌があるが、これらは巻第三以下の諸巻に分け収められた大伴氏の記録とは別個の資料に出たものであろう。家持が編纂した(あるいは依嘱を受けたというべきか)のは、これら二巻の後を継いだのであって、勅撰かとさえいわれる巻第一・二の少なくとも大半は、既に完成していたのであって、これに家持の手は及ばなかったのではないか。
 ただし、そう考える上に唯一の障害がある。それは巻第二の冒頭「君が行き日長くなりぬ」(85)の歌の左注に、

 右一首歌山上憶良臣類聚歌林載焉

とある、その「山上憶良臣」の署名のあり方に問題があることである。
 令の規定によれば、従五位下である山上憶良は先姓後名、「山上臣憶良」と書くのが正しい。総じて、官人の姓名を口頭または文書で称する場合、氏族名の順にするのが一般的な形であり、氏名姓にすれば敬意を込めた形式になる。公式令六十八条の規定などはその端的な一例である。当の山上憶良についても、現に巻第一・二の題詞では、

 山上憶良在大唐時憶本郷歌(63)
 山上臣憶良追和歌一首(145)

のように書かれている。ところが巻第三の題詞や巻第十九の左注では、

 山上憶良臣罷宴歌一首(340)
 右二首追和山上憶良臣作歌(4189)

のように書かれており、これは敬意を含んだ書き方である。山上憶良に対してその扱いがなされているのは、編纂者が憶良に対して個人的に敬意を抱いている故と考えられ、家持が少年の頃大宰府に在って、日夕接した憶良に対する敬慕の情けが、この敬称法を採らせたとするのが最も自然な解釈であろう。もっとも、題詞と左注との間におのずから差があり、題詞の公的なのに比して、左注には私的な感情が入り込みやすく、そのために、巻第六の天平五年の条で、

  山上臣憶良、沈痾の時の歌一首

 士やも空しくあるべき万代に語り継ぐべき名は立てずして (983)   

 右の一首、山上憶良臣の沈痾の時に、藤原朝臣八束、河辺朝臣東人を使はして疾める状を問はしむ。ここに、憶良臣、報ふる語巳畢る。須くありて、涕を拭ひ悲嘆して、この歌を口吟す。

とあるような違いが生じることになる。このことから考えて、先にみたように、巻第二の中で「山上憶良臣」とあるのも、左注であり、勅撰かといわれる部分でも、左注は編纂者の私的感情が割り込むことがあったと考えてよいのではなかろうか。

 万葉集は、天平宝字三年(759)以後にも多少の手直しがなされており、新しいところでは、延暦四年(785)家持が死んだ後にも改竄・修補が加えられた形跡があって、やや誇張したいい方をすれば、その原本も成立過程においては一種類に限らず、複数あっていろいろに分かれたと考えることが出来る。


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