万葉集の名義とその読み方   参考:日本古典文学全集、小学館
            

 万葉集にはいまだに明らかになっていないことが多い。その成立事情や編纂目的などについても、古来様々な論議が繰り返され、時に既に決着がついたかのような説を成す者もなくはないが、外部は勿論、万葉内部にさえ確かな証拠といえるものはほとんどない。あらゆる意味において、万葉集はまだ多くの謎を秘めている。
 早い話が、その書名の読み方も、実際はどうだったのか、確実なところは分っていない。普通には、ほとんどの人が「マンヨ-シュ-」と読むが、つい最近まで「マンニョ-シュ-」と唱える者も、かなりいた。こうした読み方は「因縁(いんねん)」「観音(くわんのん)」などと同じく連声と呼ばれる中世以来の読み癖によるもので、この他にも「三位(さんみ)」「陰陽師(おんみょうじ)」「雪隠(せっちん)」「屈惑(くったく)」などmやtの韻尾の場合についても似たようなことがあるが、主としてn韻尾を持つ字が上に、そしてア・ヤ・ワ行で始まる文字が下に来て塾合する場合に起こる日本語特有の現象、それが連声である。中古においても、それがなかったとはいえないが、奈良時代以前には、おそらくなかっただろう。今日、マンヨ-、マンニョ-のいずれを採るべきか、上代人はどう唱えていただろうか。それがわからないのである。

 
 
 中国漢字音、それも隋唐期のいわゆる中古音でこの三字がどのように発音されていたか、それについては大体のことは分っているが、日本人が中国人と同じように発音したり聞き分けたりしたという保証はない。詳しいことは分らないが、万葉仮名の使用状態から見て、耳も口もブロ-クンで自己流、そのため、「万」は本来、無販切で元韻に属し、桓(くわん)韻の「満」(蔓、縵も同じ)などに比べてやや暗い音色の母音を持った中舌的な「マン」であったらしい。
 それよりも万葉集の中で「加万目(かまめ)」「伊隠万代(いかくるまで)」「孤悲而死万思(こひてしなまし)」「登万里(とまり)」「往乃万々(ゆきのまにまに)」などのように、マないしはマニの常用仮名の一つとして用いられたばかりでなく、「太安万侶(おおのやすまろ)」のように万葉以外でも人名など固有名詞表記に使われたありふれた文字であったことが分ればいい。「万」はマンであっただろう。「葉」はエフであろうが、そのエはア行・ヤ行のいずれであったろうか。即ちepfであったろうか、jepfであったろうか。おそらく後者であろう。「葉」は平声に移せば「塩」でありその「塩」は「出雲風土記(神門郡)」において、地名「塩冶(やむや)郷」を写すのに当てられ、その「塩冶」はもと「止屋」と書いていたのを、神亀三年726)に改字したとあるからである。このことは、「塩」が上古音でヤムであったが、中古音でイェムのような音となったという中国音韻史での推移を反映している。ヤク対エキ(益・役・駅など)のエがヤ行のそれであると同じように、「葉」のエはヤ行のそれに違いない。ということで、「万葉」は一応想像できるが「集」のシの頭子音がどのようであったかは見当もつかない。そもそも古代日本語のサ・ザ行の子音が何であったか、またサ・シ・ス・・・など母音の違いによってゆれがあったか、など、まだ不明のままである。ましてや、集の字は中国語では秦入切、つまり蔵・雑・自・慈・尽・聚・斉・賊などの諸字と同じdzの頭子音を持つ従母字であり、濁音字に属する。漢音でこそシフであっても呉音ならジフでなければならない。「雑歌」をザフカと読むならば万葉集は「マンイェプジプ」とでも写せばよいような音形で当時呼ばれていた可能性が大きい。先にこの三字の読み方からして確かなことがわからない、と言ったのは、この謂である。
 このHPの「万葉集原本表記」の漢文表記のところは漢字音読みを多くしている。「天皇」は「すめらみこと」ではなく「てんわう」とし、「肆宴」も「とよのあかり」ではなく「しえん」というようにした。「従駕(じゆうか)」「感愛(かんあい)」「恋慕(れんぼ)」「哀傷(あいしやう)」「悒懐(いふくわい)」などもその類である。 次に書名としての「万葉」の意味の問題に移る。これについては、おおむね、

 (一) 「よろずの言の葉」(多くの歌)
 (二) 「万代」「万世」(長い年月、永遠)の二通りに分けられるであろう。

前者は、後にも触れる鎌倉中期の、万葉集本文の校訂作業に携わり大きな功績を残した仙覚が、その著「万葉集註釈」(仙覚抄)に「先此集ヲ万葉ト名ヅケタルハ何意ゾヤ、答、是は万ノ詞ノ義ナリ」とするのが、その代表である。それは「古今集」の仮名序に「やまとうたは、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける」とあるのをもってその証とする。これに対し、後者を代表とするのは、近世元禄の世に現れた難波の学者契沖が「万葉代匠記」初稿本の冒頭に、万は十千の意だが、ここは物の多くあるをいったもの、そして葉は世の義、つまり「此集、万世までにつたはりて世をおさめ民をみちびく教ともなれ、といはひて名付けたるにや」といい、後世の「千載集」という勅撰集の名も同じ気持ちで付けられたのだと説いている。すべてに典拠を重んじる契沖は、「葉」が世の意であることの証として、「令義解」を公布した際の仁明天皇の詔に、 宜しく天下に頒ち、普く画一の訓へを遵用して萬葉に垂れしむべし。とあるのや、斎部広成の「古語拾遺」に、 時に随ひて制を垂れ、萬葉の英風を流へ、廃れたるを興し絶えたるを継ぎ、千歳の闕典を補ふ。とあるのを引いている。更にさかのぼれば、「日本書紀」(顕宗即位前紀)に、 克く四維を固めて、永く萬葉に隆りにしたまふ。というのもあり、中国本土について見れば、古く「梁書」武帝紀に求められる他、「文選」や「文館詞林」などに使用例がある。
 なかんずく、内容的にも年代的にも近い書物である「続日本紀」の完成を祝う、延暦十六年(797)の上奏文に、庶はくは、英を飛ばし茂を騰げ、二儀とともに風を垂れ、善を彰し悪を癉ましめ、萬葉に伝へて鏨となさむことを。とあるのは、でき上がったばかりの本が永遠に伝わらんことを念ずるという点で、万葉集の書名のそれと同じ意味でなかろうか。
 しかし一方でまた契沖は、(一)の「よろずの言の葉」説をも一理ありとしている。即ち「古今集」の真名序の中で、同集撰定の前段階の作業として、帝が紀友則・紀貫之らの撰者に詔して諸家の集および古来の旧歌を集めさせて「続万葉」と名づけた、とあるのは「葉」を「ことのは」の意とも解していたからであろうとし、後の勅撰集の名に「金葉」「玉葉」などと称するものがあるのも、この「万葉」を多くの言の葉と解しそれに倣ったからである、といっている。
 現代においては、「万葉」という漢語そのものに関する資料は甚だ多い。しかし上代では、当時伝来していた文献資料を学んだ結果、その書の命名が生まれたとみるほうが一般的であろう。例えば、正倉院宝物の聖武天皇宸翰「雑集」の中にも、父母への忠誠を、「万葉伝芳(万葉に芳を伝ふ)」と述べるなど、前に引いた「続日本紀」の上奏文の例に準ずるものがある。盛唐以前の「万葉」という漢語の意味は、むしろ一般にこの(二)の方である。なお「万葉集」という「万葉」+「集」の「集」は、中国の分類法によれば、多くの詩人たちの詩を集めた「総集」の意には用いず、「別集」という個人集の場合のみ名付ける。この方式によるならば、万葉集も「万葉――」と命名すべきであろう。しかし唐代に入ると「総集」の場合にも「某集」と称することが多くなる。「唐人撰唐詩群」の「国秀集」「河嶽英霊集」「篋中集」「捜玉小集」などは、その例である。多数の歌人の作を集めた万葉集も、「万葉選」「万葉藻」「万葉抄」などと呼ばず、「集」の字を付したのは、やはり唐代方式を学んだためであろう。
 また「萬葉集」か「万葉集」か、その文字の違いの問題もある。上代びとのよく利用した古本「玉篇」に、「万・・・武願反、聲類、俗萬字」と見える。これによれば、むしろ「万」が正しいかと思われる。しかし、前に引いた「雑集」などを見れば、「萬」「万」は併用されていたと考えられ、いわゆる正字意識によって集名としての「萬」か「万」かを決定することはできない。
 やはり万葉集には分らないことが多い。

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