懐風藻の成立は、天平勝宝三年(751)、まさに「万葉集」と同時代の作品といえる。当然、万葉作歌たちの中でも、この「懐風藻」に詩賦を残している者も多い。そして「万葉集」と同じように、正史には書かれていない作者個人のプロフィ−ルが、また別な視点から書かれている。もっとも、その対象者が半世紀も前の人物であることが、ある程度の思い切った評伝として語られるのだろう。とはいっても、国家としてようやく体制が出来つつあるさなかに、いくら前時代のこととはいえ、下手をすると現体制批判との誤解も免れない危険性はあったと思う。
 
 このペ−ジでとり上げたのは、691年35歳で亡くなった、河(川)島皇子の「伝」について、その編者の意図を考えてみたかったから。河島皇子の歌は、「万葉集」にただ一首載っているが、その
歌さえも、どこか暗示的な気がする。その歌の響き方の一つとして、「策略・時代を超えた追悼」では、有間皇子への哀切と、自身の大津皇子への裏切りの悔恨をオ−バ−ラップさせた。
 そして、その大津皇子の悲劇について、「懐風藻」の編者は、その「伝」に於いて河島皇子の関わり、及びその是非に言及している。

  
  「津の逆を謀るに及びて、島則ち変を告ぐ。朝廷、其の忠正を嘉みすれど、朋友はその才情を薄しとす。議する者、未だ厚薄を詳らかにせず。」

 朝廷の人々は、河島皇子の忠節の態度を賞したが、友人たちは友情の薄いのを非難した。ただし、河島皇子の忠義心の厚さか、盟友への薄情なのか、分らない。

  「然れども、余以為らく、私好を忘れて公に奉ずるは、忠臣の雅 事、君親に背きて交を厚くするは悖徳の流のみ、と。但し、未だ争 友の益を尽くさずして、其の塗炭に陥るるは、余も亦
   疑う。」

 
 しかし、私が思うには、私情を捨てて公に奉ずる(親友を告発する)のは、忠臣としてなすべき正しいことである。君や親に背いて友情を重んずるのは、徳に反する連中のすることだ。けれども、河島皇子が争友(争ってでも相手の誤りを正す真の友人)としてなすべきことをせず、親友を塗炭に追い込んだことは、私も疑問に思う。

 この「懐風藻」の特色の一つに、こうした編者の作者への想いが「伝」にこめられていることだろう。
 そして、その語るところは、決して体制に靡かず、また同時に世評へも靡かない。それが、あらゆるものへ通じる道義であることを、この時代の人の良識者の倫理観を知らせてくれる。今我々は高度な文明の下に、多くの得がたいものを得ることが出来る。古代へ目をやり、そのレベルを「昔の人は、大変だったね」と、ある種の哀れみで見ることがある。ところが、何もない時代だったからこそ、普通の人でさえ人としての弁えは心得ていたのだろう。
 最近の企業としての不祥事が、常のようにニュ−スを賑わしているが、中には必ず良識のある人たちがいる。ところがその人たちは、おそらく会社の意に沿わないということで、疎外されているのかもしれない。内部告発が、今日的な手段ではあるけれども、この「懐風藻」の編者のいうように、「争ってでも相手の誤りを正す真の友人」が、まず最初の方法だろう。
 残念な事に、「懐風藻」の編者は誰なのか...今もなお不明。
 
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