中臣朝臣宅守、狭野弟上娘子と贈答する歌
 
 万葉集巻第十五は、天平八年(736)六月新羅に派遣された使人たちの歌145首と、同十二年初め頃越前に流された中臣宅守と妻狭野弟上娘子が交わした歌63首から成っている。この構成から感じるのは、この巻のテ−マは「別れ」になると思う。
 その際立っているのが...この巻全体を色濃く覆う「悲別・・引き裂かれた愛」だと思う。
 どのような「形」の悲劇なのか、いろいろ説もあるが、その概要を書いてみる。
 まずその前に、この巻第十五が、どのように評価されてるか、ある書籍の引用も踏まえて書いてみる。

 「万葉集二十巻のうち、読んで最も心の弾まない巻は、この第十五であろう。前・後半共、内容は異なるが、いずれも離愁、泣き言ばかりが並んでいる。作者たちの境遇に同情はするが、空しさ、やり切れなさは共通する。(略)」(新編・日本古典文学全集、小学館)心が弾まない理由が、泣き言ばかり...だからこそ、心のあるがままに歌う和歌の本来の姿があるのではと思う。万葉集の全体の構成の仕方の中で、この巻第十五の内容のバランスが「やり切れない」のなら、それも理解できる。しかし、そうであれば、この巻の編者をこそ批判しなければならないが、この引用文の執筆者は、作品自体が「空しい」、「やり切れない」と言う。
 しかし、後半のテ−マ、このペ−ジの主題でもある二人の贈答歌については、あらたな見方も記されてる。「後半は、いかなるとがを犯してのことか、神祇伯中臣東人の第七子宅守という者が、越前国配流となった。蔵部女嬬であったその妻狭野弟上娘子は都に残って、夫婦は別離の悲しみをこもごも歌に詠み、都鄙間で相聞した。ここで注目すべきことは、この二人の歌に、概して男が愚痴を言って嘆き、女がそれをなだめあやす、というような、世の常の恋歌の在り方とは逆の、倒錯した形が見られることである。例えば、男が、あかねさす昼は物思ひぬばたまの夜はすがらに音のみし泣かゆ(3754)と泣き崩れ、時には、こんなに苦しむのは「妹」、あなたがいけないからだ、と恨むことさえある。それに、白てへの我が衣手を取り持ちて斎へ我が背子直に逢ふまでに(3800)と、答えて女は、希望を失わずに生きていましょうね、と励ますように言う。そこに新しい型の男女の結びつきを見る面白みはある。(略)」この引用に見られるように、何故この宅守が流刑の身になったのか、定説はない。
 しかし、限られた文献の中から、推測は出来るし、その書物も多い。
 真実は何か、ではなく、どのような原因があって、あのような...そう、「引き裂かれた愛」が生まれたのか、その自然な流れが・・・極端に言えば、真実であると思う。文献解釈が主体ではなく、詠じた作者の心は、文字になくても詠み語られているはずだから......。
 悲劇の概要

まず、手掛かりの始めとして、目録、題詞から触れてみる 
中臣朝臣宅守、蔵部の女嬬狭野弟上娘子を娶りし時に、勅して流罪に断じて越前国に配す。ここに夫婦別れ易く会ひ難きことを相嘆きて、各慟む情を陳べ贈答せる歌六十三首
中臣朝臣宅守娶蔵部女嬬狭野弟上娘子之時、勅断流罪配越前国也。於是夫婦相嘆易別難会、各陳慟情、贈答歌六十三首
別れに臨みて娘子が悲嘆して作る歌四首    掲載済 臨別娘子悲嘆作歌四首
中臣朝臣宅守、上道して作る歌四首      掲載済 中臣朝臣宅守上道作歌四首
配所に至りて中臣朝臣宅守が作る歌十四首 至配所中臣朝臣宅守作歌十四首
娘子が京に留まりて、悲傷し作れる歌九首 娘子留京、悲傷作歌九首
中臣朝臣宅守が作る歌十三首 中臣朝臣宅守作歌十三首
娘子が作る歌八首 娘子作歌八首
中臣朝臣宅守が更に贈る歌二首 中臣朝臣宅守更贈歌二首
娘子が和へ贈る歌二首 娘子和贈歌二首
中臣朝臣宅守、花鳥に寄せて思ひを陳べて作る歌七首 中臣朝臣宅守寄花鳥陳思作歌七首

 ここでは別れ別れになることの事実において、その気持ちを贈答歌として載せていることだけが記されている。ということは、この二人の出来事は、説明も要らないほど、誰もが納得する罪での、別れだったのかもしれない。そうでなければ、もっと詳しくその事件が、何らかの手段で、あるいは、どこかの文献に記録されているはずだ。
 しかもこの巻十五の編者は、流罪の事実は載せても、二人の相聞を載せることが世間の顰蹙を買うとは思っていない。ある意味では、同情的な編集の仕方になっている。何故ならこの一巻の主要テ−マに沿って、後半のこの六十三首は、読むものに執拗に愛の切なさ、苦しさを与えてしまう。もっと深く言えば、この第十五は、この二人の為に存在しているかのようにも思えてしまう。それだけ、六十三首もの一気掲載は、構成としては圧巻と言える。確かに、何らかの意図は存在したと思う。
 だから、ますますこの宅守の罪...そこに興味を引かれてしまう。
 
 中臣氏は、古来神祇官の家で宅守も後に神祇大副という官についている。彼の父、東人は神祇伯で刑部卿も勤めた。宅守は、その東人の七男となる。
 宅守の流罪の時期については、前述の目録や題詞だけでは分らないが、「続日本紀」に関連記事がある 天平十一年(739)二月二十六日「この日以前の大辟(死刑罪)以下はすべて許せ」という旨の詔が出ており、翌十二年六月十五日の大赦の勅は「数人の罪人はその限りにあらず」とあり、その中に宅守の名前が載っている。これで理解できるのは、少なくとも最初の大赦の時には、宅守は罪人でなく、翌年の大赦の時点では、罪人であったこと。
 
 現在、宅守の流罪については、二つの解釈に絞られている。
 一つは、題詞による解釈。「娶るとき」というのは妻として迎え入れるときに起因するもの。つまり、狭野弟上娘子に「蔵部女嬬」という肩書きが付いているが、この「女嬬」というのは宮廷内の最下位の女性官人と言われている。「蔵部」と言う役所はないが斎宮寮に「蔵部司」という部署があり、そこの所属であれば神に仕える身での結婚と言うのは、宅守自身も神祇官として、なおさら慎まなければならない立場だった、といえる。それでも結婚に踏み切った二人には、当然覚悟はあったはずだ。ただし、歴然とした法律違反であったかどうか、そこが判然としない。それが、二人の賭けでもあったと思う。そして、その不安は的中し、宅守は断罪される。
 もう一つの、解釈は、宅守自身の罪を問われたため。では、その罪とは?
 それがどうにも分らないのが現状らしい。ただ先の解釈の反論として、存在している一つの見方という程度だと思う。その反論の根拠は、当時もう一組の男女間の不祥事があり、その場合は、女の方も流罪になっている。「続日本紀」天平十一年三月三月二十八日の記録にある。しかし今回の宅守と娘子の場合は、宅守だけが流罪で娘子は罪に問われていない。ということは、娘子には、そもそも罪は存在しなかった、と考えるのが、自然かもしれない。
 それにしても万葉集という大掛かりな「歌集」の中でも、その歌群としては異彩を放つ二人の贈答歌。その悲劇性は際立つけれど、文献上では、宅守の罪に関しての記事は、見当たらない。同時代資料である正史と万葉集の立場の違いを想像させるものとして、興味あるところになっている。

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