万葉集難解訓及び訓未詳の資料 〔語句のテキストは、小学館「新編日本古典文学全集万葉集」による。尚資料引用の歌番号は原著に基づく旧歌番号〕
[2024年10月6日より作成] | |||||||||
目次 | 舟公宣奴嶋尓 | 巻三 250(旧249) | [2024年10月6日] | 三津の崎波を恐み隠り江の 舟公宣奴嶋尓 | 柿本朝臣人麻呂覊旅歌八首 | ||||
巳具財耳矣自得見監乍共 | 巻二 156 | [2024年10月7日] | みもろの神の神杉 巳具財耳矣自得見監乍共 寐ねぬ夜ぞ多き | 十市皇女薨時高市皇子尊御作歌三首 | |||||
内乃大野尓 | 巻一 4 | [2024年10月10日] | たまきはる 宇智の大野に 馬並めて朝踏ますらむその草深野 | 天皇遊猟内野之時中皇命使間人連老獻歌 | |||||
雪驪 朝樂毛 | 巻三 264(旧262) | [2024年10月15日] | 矢釣山木立も見えず降りまがふ 雪驪 朝樂毛 | 柿本朝臣人麻呂獻新田部皇子歌一首 [并短歌] | |||||
莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣 | 巻一 9 | [2024年10月23日] | 莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣 我が背子がい立たせりけむ厳橿が本 | 幸于紀温泉之時額田王作歌 | |||||
作者・作歌事情 | 巻三 322(旧319) | [2024年11月13日] | 右一首高橋連蟲麻呂之歌中出焉 以類載此 | 有斐閣「萬葉集全注巻三-319、321〔考〕」 | |||||
奈麻余美乃 | 巻三 322(旧319) | [2024年11月14日] | 「枕詞」かかり方未詳とされている | 有斐閣「萬葉集全注巻三-319〔注〕」 | |||||
可奈和 | 巻三 388(旧385) | [2025年1月14日] | 「草取可奈和」 音訓ともに難 | 「柘枝伝(しゃしでん)」に絡め諸注の解釈 | |||||
船木伐 樹尓伐歸都 | 巻三 394(旧391) | [2025年1月17日] | 「船木伐 樹尓伐歸都」 訓解釈、語意解釈 | 諸注それぞれの解釈 | |||||
如何為鴨 | 巻三 406(旧403) | [2025年1月24日] | 「如何為鴨」 訓解釈、語意解釈 | 旧訓よりの改訓考察 | |||||
此旅人□[忄+可]怜 | 巻三 418(旧415) | [2025年2月2日] | 「此旅人□[忄+可]怜」 訓解釈 | 有斐閣「萬葉集全注巻三-415〔注〕」 | |||||
於曽理無 | 巻四 521(旧518) | [2025年3月9日] | 「於曽理無」 表記解釈 | 有斐閣「萬葉集全注巻四-518〔注〕」 | |||||
庭立 (麻手苅干) | 巻四 524(旧521) | [2025年3月11日] | 「庭立」 語意解釈 | 有斐閣「萬葉集全注巻四-521〔注〕」 | |||||
痛寸敢物 | 巻四 540(旧537) | [2025年3月18日] | 「痛寸敢物」 訓考 | 有斐閣「萬葉集全注巻四-540〔注〕」 |
巻 | 歌番号 (旧歌番号) |
語句 諸注訓解 | |
三 | 250 | 舟公宣奴嶋尓 | |
(249) | 「万葉拾穂抄」〔北村季吟、貞享・元禄年間(1684~1704)成〕 ふねこくきみかゆくかのしまに 舟公(フナキミ)など野島にこぎゆくかと也 野島(ノシマ)は八雲ノ御抄ニ淡路(アハヂ)ト云々。 |
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「万葉代匠記」〔契沖(1640~1701)、貞亨四年(1687)成〕 舟公宣奴島爾〔フネコクキミカユクカノシマニ〕 今舟公とのみかけるは榜と云字の落ちたるにやと思ふを、第十卷人丸集の七夕歌に、ふねこぐ人と云人にも舟人とのみあり、総じて人丸集の歌は殊に文字簡略にして讀加へたる事多し、第十一の相聞の歌など心を著くべし、宣の字のよみやう未詳、かは疑の詞なり、奴島は淡路の野島なり、奴農これらの字互にぬとものとも用ひたれば今の奴島も或本にはヌジマと點ぜり、假令ヌジマとよむともたゞ音を通して意得べし、歌の心は、三津の浪を恐れて漕出す入江にとまり居し舟人の、今は、にはよしとてや、野島を指て漕行くらむとなり、 |
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「万葉集童蒙抄」〔荷田春満、享保年間(1716~35)成〕 舟公宣奴島爾 古本印本共にふねこぐきみがゆくかぬじまにとよめり。舟公宣の三字をかくよめることいかに共心得難し。とかく誤字脱字あらんか。此書面の通にて案をめぐらして見る師案には、公の字は泊の字にて船はつるなどよめる字なれば、泊の字にして見る時はふねこぎとめてとよむべし。宣の字は宿の宇なるべし。しからばやどれとよむべし |
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荷田春滿、萬葉集童子問 問 舟公宣奴島爾、此六字先訓ふねこぐきみがゆくかのしまにといへり、かくよまるべきにや、義も心得がたし。賢按の訓はなきにや。 答 下の句よみがたし。宣の字はのるとよめば、舟に乘の義なるべし。奴島をのしまとよめるはあしゝ。次の歌の野島とおなじこと也。日本紀の古語野は皆ぬとよむ、後にはのとよみて、ぬものも五音相通なれば害はなけれども、ぬしまとよむべし、古語也。此歌文字の漏脱したる歟、異訓有べくもみえず、しばらくさしおきて異本をまつべし。 |
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「万葉考」〔賀茂真淵、宝暦十年(1760)成〕 舟令寄〔フネハヨセナム〕、敏馬崎爾〔ミヌメノサキニ〕」、かくや有けん今本にこゝの二句を舟公宣奴島爾と有てふねこぐきみがゆくかぬじまにと訓たるは字も誤訓もひかわさなり此歌にふねこぐ君てふ言有べきにや宣をゆくと訓べきや此ぬしのしらべをもしらぬ人の強ごとなりこは手をつくべきよしもなけれど後の考の爲にもとて右のことく字も訓もなし試るのみ猶よく心得たらん人正せかし扨三津より船びらきしつれども沖の浪高き時は牟古の浦間につきて敏馬の崎をさして行て風をまもりて淡路阿波明石などへこぐなり且みぬめは名高き崎なればはやく漕行て見ばやてふ心にてもよみしなるべしこの所みぬめと有つらん事次の歌をもてもおもへ卷十に三津能波麻備爾於保夫禰爾、眞可治之自奴伎、可良久爾爾、和多理由加武等、多太牟可布、美奴 面乎左指天〔メヲサシテ〕、之保麻知弖、美乎妣伎由氣姿、於伎 敝〔ベ〕爾波、之良奈美多加美、宇良末 欲理〔ヨリ〕、許藝弖和多禮婆、和伎毛故爾、安波治乃之麻波、由布左禮婆、久毛爲可久里奴、云云敏馬浦の事は下にいと多く出たり【今本敏は奴となり馬と崎は崎のかたへの消たるを嶋の一字とせしなり】 |
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「万葉集略解」〔橘千蔭、寛政十二年(1800)成〕 ふねこぐきみが。ゆくかぬしまに。 舟公宣奴島爾の六字、今の訓よし無し。字の誤れるならむ。試に言はば、舟令寄敏馬崎爾なども有りけむ。さらばフネハヨセナム、ミヌメノサキニと訓むべし。宣長は、舟八毛何時寄奴島爾と有りけん。八毛を公一字に誤り、何時を脱し、寄を宣に誤れるならむとて、フネハモイツカ、ヨセムヌジマニと訓めり。いづれにても有るべし。是は西の國へ旅行くとて、難波の御津〔ミツ〕より船出せし日の歌なり。卷六、風吹かば浪か立たむと候ふにつだの細江に浦隱れつつと言へる類ひなり。 |
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「万葉集攷証」〔岸田由豆流、文政十一年(1828)成〕 舟公〔フネコグキミガ。宣奴島爾〔ノルカヌシマニ〕。 この二句よく考ふれば、本のまゝにて、こともなく明らかによく聞ゆるを、種々の説あり。まづ先達の説をあげて、後に予が説をいはむ。考云、こゝは舟令寄敏馬埼爾〔フネハヨセナムミヌメガサキニ〕、かくやありけん。今の本に、こゝの二句を、舟公宣奴島爾とありて、ふねこぐ君がゆくかぬじまにと訓たるは、字も誤り、訓もひがわざ也。この歌に、舟こぐ君といふ言あるべきや。宣も、ゆくと訓べきや。このぬしの歌のしらべをも、古歌のつゞけをもしらぬ人の強ごと也。こは、手をつくべきよしもなけれど、後の考への下にもとて、右の如くは、字も訓もなし試るのみ。猶よく意得たらん人、正せかし云々。宣長云、この二句は、舟八々何時寄奴島爾〔フネハヤイツカヨセムヌシマニ〕とあるべし。八々を公に誤り、何時を落し、寄を宣に誤りたり。八々〔ハヤ〕は早〔ハヤ〕にあらず。者〔ハ〕やの意也云々。久老云、こは脱誤ありと見えて、よみ得ぬを、わが藏本古本には、嶋の下に一字の闕字あり。故、考るに、舟公は、舟はもとありしを誤りしものか。古くは、もの草假字を、んと書たり宣は、不通の二字誤りしものか。しからば、ふねはもゆかずとよむべし。さて嶋の下に埼の字を脱せるなるべし。猶よく考ふべし云々。これらの説、古書をたすけんとはせで、例の古書を改めんとのみはかるにて、皆非なり。予案るに、舟公は、舊訓のまゝ、ふねこぐきみがとよむべし。こぐといふ言をよみ添るを、かたぶく人もあるべけれど、そは本集十(二十五丁)に、天漢水左閉而照舟竟舟人妹等所見寸哉〔アマノガハミヅサヘニテルフナワタリフネコグヒトニイモトミエキヤ〕云々とある、舟人を、ふねこぐひとにとよめるにてしるべし。こは、集中、添訓の一つの格なり。この事、くはしくは、下(攷證四上三十一丁)にいふべし。さてこゝは、人まろと同じごとく、舟をならべゆく旅人を、公〔キミ〕とはさせるにて、舟こぐ君とはいへど、その人自ら舟をこぐにはあらず。そは、本集九(二十八丁)に、其津於指而君之己藝歸者〔ソノツオサシテキミカコキイナバ〕云々。廿(十八丁)に安騰母比弖許藝由久伎美波〔アトモヒテコキユクキミハ〕云々とあるも、君とさせる人、自ら舟をこぐにはあらで、人にこがしむるをも、こぎゆくといへるにて、こゝもこがしめゆく君がといへるなるをしるべし。宣は、言をのるに、のりたまふといふ字にて、のるといはん事論なく、こゝに書るは借字にて、乘〔ノル〕なり。奴島爾〔ヌシマニ〕の爾もじは、上(攷證二上廿九丁二中四十八丁)にもいへる、をの意の爾もじ、宣〔ノル〕かの、かは、かもの意にて、奴島を乘かもといへる也。奴島〔ヌシマ〕は、淡路なり。一首の意は、三津の埼は、浪の高く荒くかしこさに、舟を榜〔コガ〕しめゆく君が、奴島の方を乘〔ノレ〕るかもといへる也。 |
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「万葉集古義」〔鹿持雅澄、天保十三年(1842)成〕 船公宣〔フネヨセカネツ〕。放島爾〔ヌシマノサキニ〕。 船公宣奴島爾は、字の甚誤れるものと見えたり、(舊訓に、フネナコグキミガユクカヌシマニ、とよめるなどは、論ふ限にあらず、)故(レ)案に、もとは舟寄金津奴島埼にとありしを、金を公に誤、寄を宣に誤、又そを顛例〔トコロヲタガ〕へ、また奴の上に、津(ノ)字を脱したるなるべし、また荒木田氏、古本には島の下に、一字の闕ありと云り、されば島の下に、埼(ノ)字脱たるなるべし、さらばフネヨセカネツヌシマノサキニと訓べし、七(ノ)卷に、水霧相奧津小島爾風乎疾見〔ミナギラフオキツコシマニカゼヲイタミ〕船縁金津心者念杼〔フネヨヤカネツコヽロハモヘド〕とあり、思(ヒ)合(ス)べし、(荒木田氏(ノ)考に、公は八毛(ノ)二字の誤、宣は不通(ノ)二字の誤、島の下埼(ノ)字を脱せるにて、舟八毛不通奴島埼爾にて、フネハモユカズヌシマノサキニと訓べし、と云るはあらず、そは字も似よらず、調もつたなければなり、本居氏の、舟八毛何時寄奴島爾とありしを、八毛を公に誤、何時(ノ)二字を脱し、寄を宣に誤れるにて、フネハモイツカヨセムヌシマニと訓べし、と云るも心ゆかぬ説なり、さる手筒なる詞、此(ノ)朝臣の作〔ウタ〕にあるべくもなし、又略解に、舟令寄敏馬崎爾などありけむ、フネハヨセナムミヌメノサキニと訓べし、と云るは、いよいよつたなし、そは浪を恐みといひながら忽(チ)舟をよせむと云べきことにあらざればなり、)奴島は淡路の野島なり、今もなほ淡路に奴島といふ島ありとぞ、(野をば後(ノ)世は能〔ノ〕とのみ呼〔イフ〕を、これをば後まで奴島〔ヌシマ〕と呼來れるはめでたし、)土佐日記にも、正月卅日夜半許に船を出して、阿波のみとを渡る云々、寅卯の時ばかりに奴島〔ヌシマ〕と云處を過て、田無川と云處を渡とあり、 |
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「口訳万葉集」〔折口信夫、1916~17年成〕 船漕ぐ君が行くか、野島〔ヌジマ〕に |
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「新訓万葉集」〔岩波文庫、佐佐木信綱、1927年刊行〕 訓未詳 |
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「万葉集全釈」〔鴻巣盛広、昭和5~10年成〕 舟公〔フネコグキミガ〕宣奴島爾〔ノルカヌジマニ〕 ○舟公〔フネコグキミガ〕――船人。この句或は誤字か。 ○宣奴島爾〔ノルカヌジマニ〕――野島をさして舟を乘り出したよといふのであらう。この歌の下句は古來誤字として、これを改める説が多い。考は舟令寄敏馬崎爾〔フネハヨセナムミヌメノサキニ〕、玉の小琴は、舟八毛何時寄奴島爾〔フネハモイツカヨセムヌジマニ〕、槻の落葉は、舟八毛不通奴島埼爾〔フネハモユカズヌジマガサキニ〕、古義は、舟寄金津奴島埼爾〔《フネヨセカネツヌジマガサキニ〕など樣々であるが、文字を改めないで、宣をノルとよみ、フネコグキミガノルカヌジマニとよんで、右の通りに解した。宣の字は他に用例はないが、乘るに借り用ゐられない字ではあるまい。野島は地圖に示す如く、淡路の北部の西岸にある。古義に淡路の南方の海上にある、沼島としたのは大なる誤である。これは瀬戸内海航行の際の作であるから、紀淡海峽を出て南行する筈はない。 〔許〕 誤字があるらしいから、評はやめて置かう。ともかく難波津から西行する時の作らしい。下に、柿本朝臣人麿下筑紫國海路作歌二首があるから、或はその往路の作かも知れない。 |
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「万葉集総釈」〔楽浪書院、昭和10~11年成 卷第三概説 吉澤義則 〕萬葉集總釋 第二、樂浪書院、290頁、1935.11.5 同卷後半卷四は石井庄司担当、著作権有り 舟公宣奴島爾 【語釋】 此の歌は第四、五句の訓が確定しないために萬葉集難解歌の一つとして古來幾多の説が行はれ、近くは生田耕一氏の攷證 (國學院雜誌昭和七年三・四月號所載、萬葉集難語難訓攷再録)も存するのであるが、遺憾ながら未だ定説と稱すべきもの無く、今後の研究に俟つの他ないのである。 |
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「万葉集評釈」〔窪田空穂、昭和18~27年成〕 ○舟公宜 四句より五句へかけてのものと取れるが、訓み難いものである。旧訓は「ふねこぐきみがゆくか」と訓んでいるが、強いたものである。諸注それぞれに訓を試みているが、定訓とはなり得ないものである。文字の誤脱があるものと思われる。問題として残すべきである。 |
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「万葉集全註釈」〔武田祐吉、昭和23年~25年成〕 舟公〔フナビトキミガ〕宣奴島尓〔ノリヌシマベニ〕 舟公宣奴島尓 フナビトキミガノリヌシマベニ。この歌の四五句に相當する部分と考えられるが、まだ定訓を得ない。この歌は仙覺新點の歌であるが、仙覺は、これをフネコクキミカユクカノシマニと訓じた。その後諸説が出たが、今、校本萬葉集によつてこれを述べれば、代匠記初稿本に、舟公をフナキミと訓じ、公の下脱字あるかとし、また、奴島をヌジマとも訓じた。童蒙抄に、公は泊の誤り、宣は宿の誤り、訓フネコキトメテヤトレとした。考に、舟令寄敏馬埼爾の誤りとし、訓フネハヨセナムミヌメノサキニとした。玉の小琴に、舟八毛何時寄奴島爾の誤りとし、訓フネハモイツカヨセムヌジマニとした。槻落葉に、宣は不通の誤り、島の下埼の字脱とし、訓フネハモユカズヌシマノサキニとした。攷證に、もとのままで訓フネコグキミガノルカヌシマニとした。檜嬬手〔ひのつまで〕に、舟八也何時泊奴島爾の誤りとし、訓フネハヤイツカハテムヌシマニとした。古義に、舟寄金津奴島埼爾の誤りとし、訓フネヨセカネツヌシマノサキニとした。略解補正に、訓フネコクキミハカヨフとした。以上の中、多くの誤字説のある中に、攷證や略解補正が誤字説を採らなかつた見識は多とするに足りる。さりとて原文のままで明解を得る見こみもない。舟公は、諸説多くフネコグキミと讀み、これに助詞ハまたはガを添えているが、さような讀み方は不可能ではない。宣は海事に關しては「海神〔ワタツミノ〕持在白玉〔モテルシラタマ〕見欲〔ミマクホリ〕千遍告〔チタビゾノリシ〕潜爲海子〔カヅキスルアマ〕」(卷七、一三〇二)、「底清〔ソコキヨミ〕沈有玉乎〔シヅケルタマヲ〕欲見〔ミマクホリ〕千遍曾告之〔チタビゾノリシ〕潜爲白水郎〔カヅキスルアマ〕」(同、一三一八)の如き歌があり、それらの告とこの歌の宣とを同語と見る場合に、ノルの訓が浮かびあがる。奴はヌの音の字だから、宣奴をもつてノリヌと讀むことはできる。奴島をノシマ、またはヌシマと讀む説は、淡路の野島に思い寄せての訓と見られるが、野島の野の音韻は、奴の字で表示される音韻とは違うので、この點に不安定があり、また三津の埼と野島との關係も、地理上離れ過ぎている。古葉略類聚鈔に、奴の上に美の字があるが、美奴島爾では意をなさず、島を馬の誤りとすればミヌメニであるが、それも地理的に離れている。今、舟公を、訓を補つてフナビトキミガと讀む。さて宣奴島尓は何とも讀みがたいが、宣奴をノリヌとし島にべを讀み添えて、島尓をシマベニとする。以上、本文および訓の檢討を試みたまでであつて、要するに未詳の句とするほかはない。 |
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「評釈万葉集」〔佐佐木信綱、昭和23~29年成〕 この歌は第四・五句が難解で未だ定訓を得るに至らない。しかして今日までの試訓も攷證の外は何れも多少の改字によつてゐる。考は「舟令魚敏馬崎爾」の誤寫とし、フネハヨセナムミヌメノサキニと訓み、玉の小琴は「舟八毛何時寄奴島爾」の誤として訓はフネハモイツカヨセムヌジマニ、古義は「舟寄金津奴島埼爾」で、訓フネヨセカネツヌジマノサキニ、攷證は「宣」は「乘」の借字として「フネコグキミガノルカヌジマニ」と訓み、「奴島に乘る」は奴島の方への義である、と解してゐる。また全釋は訓は攷證に同じいが、ノルを乘り出す義に取つてゐる。他に生田耕一氏の詳しい論考もあるが、なほ研究すべきである。 |
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「万葉集私注」〔土屋文明、昭和24~31年成〕 フネナルキミハ ユクカヌジマニ 〇フネナルキミハ 原文「舟公」はフネコグキミと訓まれて居る。巻十、(一九九六)の「舟人」をフネコグヒトと訓むのと同じく仙覚の新点と見える。然し共にコグとまで強調しなくも、フナビト位でも意味の通ずる所であるが、音数上フネナルキミと訓むべきであらうか。キミガといふのが従来の訓であるが、ここは寧ろキミハの方が自然のやうに思はれる。 〇ユクカニジマニ 之も仙覚の訓である。「宣」は通也といふ意を取つてユクと訓んだものと見える。或は「宣」はノル即ち乗るに仮用されたものとしても意味はとれるが、ユクの方が現在の語感からは理解が容易だ。ヌジマは次の歌に野島とある所で、淡路西岸の地、離島ではない。 |
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「萬葉集本文篇」〔塙書房・佐竹昭広、昭和38年成〕 舟公宣奴島尓 定訓なし |
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「万葉集注釈』〔澤潟久孝、昭和32~37年成〕 フネナルキミハ ヤドリヌシマニ この二句古来難訓とされてゐる。紀州本以下に「舟公宣奴島尓」とあり、フネコクキミカユクカノシマニと訓まれてゐるのが仙覚の新点であるが、訓義共にうなづき難く、諸説あつて決しない。たとへば、 舟泊 宿奴島尓 (フネコギトメテ ヤドレヌシマニ) 童蒙抄 舟令寄 敏馬埼尓(フネハヨセナム ミヌノサキニ) 万葉考 舟八毛何時 寄奴島尓(フネハモイツカ ヨセムヌシマニ ) 玉の小琴 舟寄金津 奴島埼尓(フネヨセカネツ ヌシマノサキニ) 古義 の如きは相当自由な誤字説である。 1 舟公 宣奴島尓(フネコグキミガ ノルカヌシマニ) 攷證 2 舟公 宣奴島尓(フネコグキミハ カヨフヌシマヘ) 略解補正 3 舟尓有公 宣奴島尓(フネナルキミハ ウベナヌシマニ) 生田耕一「難語難訓攷」 4 舟公宣 美奴馬島尓(フナヒトサワタ ミヌメノシマニ) 加藤順三「国語・国文」第十巻第八号、昭和十五年八月 5 舟公 宣奴島尓(フナビトキミガ ノリヌシマベニ) 増訂本全註釈 6 舟公 宣奴島尓(フネナルキミハ ユクカヌシマニ) 私注 7 舟公宣 奴島尓(フナキミノリシ ヌシマチカヅク) 塚原鐵雄「萬葉」第五号、昭和廿七年十月 8 舟公 宣奴島尓(フネニイソハキ ノレバヌシマニ) 尾山篤二郎「萬葉」第六号、昭和廿八年一月 などは文字をそのままに、又は少し改めたものである。右のうち、「3 舟尓有公」は類聚古集と古葉略類聚鈔(三・二五ウ)とには「舟尓公」(前者には「公」を右に書き、「尓」の下へ入れるしるしをつえてゐる)とあるによつて「有」又は「在」を脱したものと認めたのである。「8」の「公」は「私」の反対で、勤しむの意で訓んだ。「1・8」の「宣」は乗るの借訓と認める。「2・6」の「宣」は通也とあるによつたもの。「5・7」の「宣」は「告(の)る」の意とする。「4」の「宣」は「喧」の通用とする。「4」の「美」は古葉略類聚鈔に「美」と思はれる文字のあるによる。「7」の「尓」は「迩」に通じ「近」の意とする。右の諸説に検討を加へるに、まづフネコグキミとフネナルキミとを較べると後者の方が「舟公」の文字に適切な訓である事は認められよう。フネコグもフネナルも同じやうにも見えるが、後者は船員も船客もこめてであり、前者は船員に限られる。同じく人麻呂の集に「舟人(フネナルヒトハ) 妹等所見寸哉(イモトミエキヤ)」(十・一九九六)といふのがあり、これも旧訓にフネコグヒトとあつてその訓が多く行はれてゐるが、その場合は七夕の彦星であるから、フネコグよりもフネナルの方が適切である事一層明らかである。用字としても「こぐ」の文字を省略した例は他に無い。「平城之人(ナラナルヒト)」(十・一九〇六)の「之」を誤字とする説もあるが、ナルと義訓する事は認められるであらう。その「之」を更に省略するといふ事も考へられ、「舟公」をフネナルキミと訓む事はうなづかれると思ふ。それに既に生田氏も注意したやうに、「舟尓公」とある古本のある事は「在」又は「有」の脱落を考へさせる。二本の「尓」を衍字としてみだりに削り去るべきものでないやうにも思ふ。しかし私は必ずしも「舟公」を脱字と断ずるのでない。「舟公」でフネナルキミと訓ませるつもりであつたが、人麻呂は他(二・一三一、一三五、一三七)でも試みてゐるやうにまた一本には「舟尓有公」とも書いた、その「尓」の一字が二つの古本に残つたと見る事も出来ようと思ふ。いづれにしても「尓」の文字のある事は、その点からもフネナルキミの方が適切である事が認められる。即ち「1・2」の訓は従ひ難い。フナヒトの訓はコグを入れるよりは穏やかであるが、「公」をヒトと訓んだ例は他に無い。「舟公」二字をフネビトキミと訓む事は無理であらう。フナキミは「舟公」に対しては適切である。「舟君」の語は集中にはないが土佐日記(正月十四日の條、その他)にはある。その意味でフネナルキミに次ぐものと認められる。まづこの両訓を存して次に移る。「宣」をノルと訓む事は当然の事のやうであるが、集中には「宣」の文字は土理(刀理)宣令(三一三、八・一四七〇)といふ作者名の他には宣尼、宣懐翟之化、など漢文中に四ヶ所見えるのみで、歌の文字としては他に一例も見えない。「のる」といふ語をあらはす文字としては「告」(廿六例)、「謂」(八例)、「詔」(一例)であつて「宣」の文字は用ゐられてゐない。況やそのノルを「乗る」の意の借訓とする事は甚だ疑はしく、さういふ意味で「1・5・7・8」の宣の訓釋には俄かに従ひ難い。殊に「5 宣奴」をノリヌと訓む事は正訓のやうに見えるが、「宣る」に「ぬ」の助動詞を続けた点にも疑問がある。「伊毛我名能里都(イモガナノリツ)」(十五・三七三〇)、「名者告手師乎(ナハノリテシヲ)」(十二・三一七七)など、「のる」に対しては助動詞「つ」が続く事が例である。それに解釈としても「のりぬ」とだけあるを「無事を祈つた」と訳されてゐる事はしひて都合のよい解釈に敷衍されたやうな感がある。又「宣」を「2 カヨフ」、「6 ユク」、と訓む事も、この文字を何とか訓まうとする試としては認められるが、それでは初二句を受けるものとして歌意を成さない。その点「宣」を「喧」の通用文字として「4 サワク」と訓む説は「船人動(フナヒトサワク) 浪立良下(ナミタツラシモ)」(七・一二二八)の例もあつて、宣の文字をそのままに生かす道としては最も難の少ない案であるのではないかと私は考へる。だがその問題は暫く後に廻して、次の「奴島」をヌシマと訓み、淡路の野島とする説を見るに、「野島」の「野」は努、怒、弩の仮名を用ゐるべき所謂甲類のノであり、「奴」はヌであつて仮名違ひである。又かりに野島をヌシマと云つた事もあつたとしても難波のみ津と淡路の野島とではあまりにもかけ離れてゐる。即ち用字の上からも地理上の位置からしても「1・2・3・6・7・8」の諸説は成立しない。その点「4 美奴馬島」即ち次の歌にある敏馬だとする説は、既に考にも述べられた説であり、それならば地理的に野島よりは難波に近く、仮名違ひもなく、それに加藤氏の説なると、「美」の字は古葉略類聚鈔により、馬は島と似た文字であるから混じたのが脱したといふので、上の「舟尓有」を認めるやうな意味で認められる。加藤氏はあげられてゐないが、「美奴面(ミヌメ)」(十五・三六二七)の用事例もある。ただ同氏は島といふのは島嶼に限らず「海上にやや遠く見ゆる陸地」の意味にも用ゐるから敏馬の島も許されるとあるのは少しどうかと思ふ。大和島(二五五)が海上から見た難波の陸地である事は前から説かれてゐる事であり、島が水辺の陸地をさす事は例のある事ながら、敏馬には浦とか埼とかあつて、島といふ例を見ないからである。それに、敏馬であれば野島より遥かに近いにしても、上三句に対してやはり距りがあり、隠り江が右に述べた難波の入江ではなくて「難波より武庫へかけての曲浦」といふ事になるが、-加藤氏の武庫と云はれるのは敏馬と同じ場所といふ意かと思ふが、さうすると前にあげた攷證の隠り江の解と同じ事になる―武庫の湊は今の西宮のあたりであり、難波より武庫への行程と武庫より敏馬への行程とはほぼ同じであるから、舟人は一体どこにゐるのだか、そのへんが甚だあいまいになる。ここに敏馬説にも難があると見ねばなるまい。最後に「7 尓」を「近づく」とする説は「宣」をサワクと訓むのと同等の価値のある新見であるが、「尓」は集中に夥しく用ゐられてゐる文字ながら「汝」の意に用ゐられたと思はれる一例(七・一一二四)の他はすべて「ニ」の仮名に用ゐられてをり、今ここに特にこの新例をひらく事によつてこの歌が生かされるとは思はれない事、既にこの説には他にも難のある事によつて明らかである。以上のやうに見来ると右の諸説のうち、加藤氏の説が比較的穏やかであるといふ程度で、いづれも一二か所に難がある。そこで私案を陳ずる。「宣」の字が集中の歌に用ゐられてゐず疑はしい事、前に注意した。又かりに「宣」としてノリと訓んだとしても「告(の)りぬ」とは云はない事も述べた。問題はこの字にある。ここに誤がありはしないかと考へる時、従来一顧もされずに埋もれてゐた童蒙抄の誤字説「宿」の文字があざやかに日の光に浴する時節が到来したと私は考へるのである。「宿」と「宣」とは活字の文字としてはやや離れてゐるが、筆写の文字としては「〇変換不能」と「△変換不能」とは極めて接近する。宿が宣に誤るといふ事は十二分に認める事が出来る。さて「宿」の誤とすれば「宿奴」は「ヤドリヌ」となる。「宣(の)る」ならば「つ」であるべきであるが、「宿る」ならば「ぬ」であること「毛美知葉能(モミチバノ) 知里奈牟山尓(チリナムヤマニ) 夜杼里奴流(ヤドリヌル)」(十五・三六九三)によつて明らかである。海浜に舟泊てする事を「やどる」といふ事、 大船尓 可之布里多弖天 波麻藝欲伎 麻里布能宇良尓 (也杼里)可世麻之/大船にかし振り立てて浜清き麻里布の浦に(宿り)かせまし (十五・三六三二) など一々あげるには及ばないであらう。さて「宿奴」が「ヤドリヌ」となれば「島尓」は「シマニ」となる。「島に」とだけぽつりとある事が何か突然のやうでおちつかないと感ぜられるかも知れない。島といふものを大海の中に浮かぶ島嶼と限るならば、さういふ風にも感ぜられようが、加藤氏の言にもあつたやうに、島は水に臨んだ陸地であり、海中に突き出たところは勿論、川の中洲も島といふ事を妨げないのであり、難波津は淀川、泉川、大和川の諸川の流れ入るところ、その河口のところは、一つの川にいくつもの中洲を考へる事が出来ると共に、川と川との間もまた島と呼ぶ事が出来る。云はば江の間に島があるとも、島の間に江があるとも云へる観を呈してゐたと考へられる。それが即ち三津の隠り江の島なのである。難波の八十島といはれた昔ばかりでなく、今も大阪の地名を拾へば、福島、都島、堂島、網島、柴(クニ)島、松島、櫻島、姫島、中之島、四貫島、御幣島、出來島、江之子島、富島、蒲島、古島、芳島、北島、南島、西島、外島、三島、百島、千島等々々。難波の三津は江にあらざれば島、島にあらざれば江である。即ちこの作は分かり易い形に直せば、 み津の埼浪をかしこみ隠り江の舟なる君は [(その隠り江の)島に] 宿りぬ といふ事になる。結句の中間切はこの作の次の作の左注に引かれたものにもあつて、それを今のと並べると、 野島が崎に いほりす 吾は 舟なる君は やどりぬ 島に 両者を較べて語の位置を転換したに過ぎない事が認められよう。かうして結句の訓が定められたとすると第四句ははじめに述べたやうにフネナルキミハとなる。さてその「舟なる君」とはどういふ人か。作者との関係はどうか。作者みづからを「君」といふのは穏当を欠く。と云うつてただ行きずりに見る旅の人であつては一首の感動を成し得ない。やはり作者が「君」と呼ぶべき人に供養しての旅であつたと考へる。「草枕 多日夜取世須(タビヤドリセス) 古昔念而」(一・四五)と歌つたのは題詞によつてその主が軽皇子である事がわかるが、今は「君」とのみあつてどういふ身分の人であるかわからない。しかしやはりさうした身分の人であつたと考へられる。前者は荒山中を越える草枕の旅であり、これは荒浪を伺候(さもら)うて舟出しようとする海路の旅であり、山と海との相違があるだけで、「旅宿りせす」の主語は皇子であり、「やどりぬ」の主語は君であるが、作者もまたそのやどりを共にしてゐる一人である事は全く同じである。即ち今は君と共に作者は隠り江の島にやどつたのである。そこに作者の旅愁が生きる。かう解すれば古来難解といはれた二句中の只一字を誤字とする事によつて一首の首尾整うた訓釋となるやうに思ふがどうであらうか。 |
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「万葉集全訳注」〔中西進・講談社文庫、昭和58年成〕 脚注- 「公」の用字は覡(かんなぎ)の徒のゆえか。以下の訓未定。 第五句「美奴メ(敏馬)の島に」、「美奴の島廻(み)に」とよむべきか。美奴の島は所在不明。「尓」の字底本にない。古葉略類聚鈔による。「美」の字底本にない。古葉略類聚鈔による。 |
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「万葉集全注」〔有斐閣、昭和58年~平成18年成〕 〔注〕 舟公 宣奴嶋尓(フルナルキミハ ノラスヌシマニ) 〇舟なる公は―土佐日記の「船君(ふなぎみ)」(船中の乗客の長)と同意であろう。ここでは人麻呂の上司(二五六番歌の〔考〕参照)。 〇宣らす―宣言される。スは尊敬の助動詞。句割れ。 〇奴島に―「野島(のしま)」に同じ。兵庫県津名郡北淡町野島。「奴」はノと訓むのは無理でヌ。「努(ノ)・怒(ノ)・弩(ノ)」の誤写でもない。すなわち「野」はノとも、まれにヌとも発音したのであり、今はそのヌを「奴」と表記したもの。おの表記例に「伊勢の奴(ヌ)」(紀・七八)、「奴(ヌ)つ鳥」(紀・九六)がる。さてこの「奴島(ぬしま)に」は舟公(ふなぎみ)の宣言の言葉である。古典集成の如く「奴島にと宣る」の順序で訓むのは無理であろう(〔考〕参照)。 〔考〕 二四九番歌は、下半句古来の難訓歌と言われ、未だ定訓をえない。この機会に諸訓を揚げる。 (私注:上記「注釈」で「12説」記載したので重複を避け、その後の以下13から記する) 13 舟公 宿奴嶋尓 (フネナルキミハ ヤドリヌシマニ) 「万葉集注釈」〔澤潟久孝、昭和32~37年成〕 14 舟公 宣努島尓 (フネナルキミハ ノラスノシマニ) 「大浜厳比古『舟公 宣努島尓』私訓-万葉歌結句中間切れについての考察」山辺道昭和三十一年三月」 「伊丹末雄『万葉集難訓考』」 15 舟公 宣奴島尓 (フネナルキミハ ノルヌシマニト) 「井出至『柿本人麻呂の羇旅歌八首をめぐって』万葉集研究第一集、古典集成」 16 舟公 宿美奴馬尓 (フネナルキミハ ヤドルミヌメニ) 「稲岡耕二『万葉人における旅』国文学昭和四十八年七月」 以上の諸訓の根拠及びその批判は割愛する。まず言えるのは誤字脱排除の方向をたどってきたことである。事実誤字説で成功しているものはない。次に、そのままの字面としても、「宣」や「尓」を複雑な訓詁を経て訓を出すことも避けるべきであろう。すると、「14・15」の二つしか残らぬことになる。ただ「15」は漢文訓読式になってしまう。集中には幾多の漢文式表記はあるが、「宣奴島尓」を「奴島にと宣(の)る」と訓むのは無理。そこで「14」が最も自然となる。ただし、伊丹説は「宣=乗」の借訓説だが、意をなさぬ。それで大浜論文を対象とする。まず「努島尓(ノシマニ)」と「努(ノ)」に改めることは不要で「奴島尓(ヌシマニ)」でよい。また解釈の点で従えないところがある。それは「舟なる公」を舟上で亀卜を行う人と解している点である。これは魏志倭人伝(三世紀半ばの日本の事を記している)に見える「持(ぢ)さい」の如き習俗が八世紀近くまで残存したと考えない限り、この解は無理であろう。次に、「宣らす野島に」の解において、「野島に渡らんとのらす」よりも「野島を対象としてじかにのらす」なのだと説いている。土地神への祈禱歌で、それは野島へ行くことを宣言しているのと同じだというのである。しかし、私はそういう予祝的な宣言と見るより、「野島に(渡らむ)」というのが、舟君の宣言の内容だと見る方が極めて自然ではないかと考える。そこで「宣(の)らす。『奴島に』。」と解したい。すると三・四の句割れになるが、これについては大浜論文に詳しく説いている。以上、この歌は、難波での風待ちに断を与えて、これから西方の野島を目指して出発しようとする宣言を、舟君が与えた旅立ちの作と見られる。だから八首の最初にある。この「舟なる公」とは誰か。二五六番歌の〔考〕で述べる。 |
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「新編日本古典文学全集」〔小学館、平成8年成〕 舟公 宣奴嶋尓-誤字説を含め十数種の試訓があるが、いずれも従い難い。 |
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「新日本古典文学大系』〔岩波文庫校訂版、平成25年~〕 「舟公 宣奴嶋尓」は、現在に至るまで解読不可能。多数の試訓、数々の誤字説も提起されて来たが、依然として氷解しない。『講義』『定本』など、訓を保留。後考に俟つ。 |
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一 | 4 | 内乃大野尓 | |
「万葉集注釈』〔澤潟久孝、昭和32~37年成〕 巻第一-3題詞中 「内野」 は和名抄(五)に大和国宇智郡あり、今の奈良県宇智郡の野である。そこまでは誰にも云へる事であるが、その宇智郡のどの辺だとなると諸説があつて決しない。続日本紀文武天皇慶雲三年二月の條に「丁酉(廿三日)。車駕幸内野」とあるのと同所かと思はれる。今宇智と名の付く村は宇智、北宇智、南宇智の三村がある。宇智村は五條町の東北で、北宇智はその北である。もと大鐵と呼ばれ、今は近鐵と呼ばれてゐる電車線吉野口から国鉄和歌山線に乗り換へて南する最初の駅が北宇智で、その辺りから西が北宇智村であり、北宇智駅から次の五條駅に至る手前のところが宇智村である。五條町の南に吉野川が流れてをり、その川の南が野原町であり、更にその南が南宇智村である。大和志では内大野を大野村と注してゐるが、その大野といふのは阪合部(サカベ)村大野の事で、右の南宇智の西にあたり紀州堺に近いところである。この反歌に「宇智の大野」とあるが、大野は固有名詞でない。北島葭江氏の大和地誌に「大王が狩猟せられたり、大軍を動かされたりする場合に大野といつたものでも、其処が愛人の住家であり、美しい花の咲いて居る場合なら小野といふのが、萬葉人の感情生活の自由な所である」と述べられてゐるとほりであり、題詞にも、続紀にも「内野」 とあつて、宇智といふ固有名詞こそ動かせないもので、大野は歌の言葉であり、それを大野村と結びつける必要はない。位置から云つてもふさはしいところと云へない。その点では南宇智村も同様で、北宇智、宇智の地をさしおいて特に南宇智をそれと考へる事は妥当とは云ひがたい。一方神名帳に宇智神社がある。大和志には「在今井安生寺邑宇智川東南今稱国生明神。境内有安生寺云々」 とあり、その今井は今宇智村の大字であり、五條町の東郊にあたる。そこで阪口保氏は「宇智神社のあたりから、五條町・野原町の方面へ展開した当時の原をさしたものであらう」(『萬葉集大和地理辞典』) とされてをり、大井重二郎氏は野原町は吉野川の水域で、河水が氾濫して河流を変じてをり、河岸地帯の平地を宇智野にあてるのは軽率であるとして、阿騎野同様丘陵上の台地だとし、「宇智村浮田杜所在地付近より五條町包含して西方に展開し、岡より牧野村釜窪に連なる大地を云ふ」(『萬葉大和』) とある。これらの説に対して、北島葭江氏は北宇智村の南、荒坂峠の頂から北方、北宇智の高原を望んだ景観を美しく描かれ、この野なら狩猟の獲物が無尽蔵であらうとして、「又内の語の添うた地名もここに多い限りに於て、また当時の人々の往来した越智、五條野、巨勢などに近くて、五條付近の平野よりもより多く狩猟地たる条件を具へて居る点から見て、或は此処が此の歌に表はされた内の大野ではあるまいか」 (『大和地誌』) と述べられてゐる。按ずるに、和名抄には宇智郡の郷名として「阿陁(アダ) 賀美(カミ) 那珂(ナカ) 資母(シモ)」 の四つをあげてゐる。「かみ、なか、しも」 とは、上宇智、中宇智、下宇智の意で、宇智郡は大別して阿陁と上、中、下の宇智とになつてゐた事を示すものと考へられ、それは今日も同様であり、阿陁は宇智郡の東部で、吉野川の北が大阿太村となり、南が南阿太村となり、宇智郡の西部で上宇智が北宇智となり、中宇智が宇智、五條、野原などとなり、下宇智が南宇智、阪合部となつたにすぎない。かう私は考へるので、すると一方に、 ま葛原なびく秋風吹く毎に阿太乃大野のはぎの花散る (十・二〇九六) と「阿太の大野」 があると共に、この反歌に「宇智の大野」 がある所以が了解せられるわけで、「阿太の大野」 といふ言葉がある以上、同じ宇智郡ではあつても、東部までを宇智野とは云はず、西部のしかも河内、紀伊境の山岳地帯は除いて、北、中、南にわたつての高原をひろく宇智野と呼ばれたと見るべきものである。それ以上のせんさくをする事は、むしろ歌枕解釈の範囲を越えるものだとも云ふ事が出来る。ただ実際に於いて狩猟の行はれた場所を想像して、或は北宇智を考へ、或は五條の北郊を考へる事は自由である。北島氏が「内の語の添うた地名」 と云はれたのは、北宇智駅の西方数町の村落「近内(ちかうち)」 などを意味されたものと思はれ、これは「近つ飛鳥」「近つ淡海」 などの「近」 と同じく、都に近い宇智の意味で、同じ宇智の中でも都に近いところとして親しまれてゐたと考へれば、北島氏の想像も捨てがたいものになるであらう。まことに近内の小学校の傍より南して荒坂峠を越えて五條に出るのであるが、峠は南北の野を見はるかす一重山ではなくて、上りつ下りつする二重山で、その間に人家点在、二つ目の峠を越して大池二つあり、画に見るままの緑青の池水の色美しく、み狩場としての昔を偲びやるに十分である。題詞及び反歌に「内」 とある文字が今は「宇智」 と書かれるやうになつたのは、仙覚抄に、 於2國郡郷村等(ニ)1、用(ハ)2二字(ヲ)1用(ハ)2好字(ヲ)1元明天皇御宇、和銅六年(ニ)被v作2諸國(ノ)風土記(ヲ)1時事也。其以前ハ、國郡郷村ノ名、或ハ一字二字、又郷村等、眞名假名ニテ、或ハ三字四字モアリケル也。 とある事情によるものである。 |
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三 | 264 | 雪驪 朝樂毛 | |
(262) | 「万葉集註釈」〔仙覚、文永六年(1269)成〕 〔落亂〕雪驪朝樂毛《〔チリマカフ〕ユキモハタラニマヰテクラクモ・チリミタレイ本ユキハタラナルアシタヽノシモ》 此歌古點ニハ、イコマヤマコタチモミヘスチリミタレユキノウサキマアシタタノシモト點ス。發句、イコマ山、矢ノ字ヲ、イトヨメルコトハ、サモハヘリナム。矢ヲ、イト云コトハ、アルカ故也。釣ヲコマト和セムコト、其心ヲ得ス。是ヤツリ山ナルヘシ。第二卷ニモ、ヤツリ河トヨメリ。山河替レリトイヘトモ、其所是ヲナシキヲヤ。腰句以後、マタ、チリマカフ雪モハタラニマヰテクラクモト和スヘシ。長歌ニステニ、ヒサカタノ、アマツタヒコシ、ユキシモノ、ユキヽツヽマセ、トコヨナルマテトヨメリ。キタルコヽロコレオナシカルヘシ。 |
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「万葉拾穂抄」〔北村季吟、貞享・元禄年間(1684~1704)成〕 雪驪(ゆきもはたらに)朝樂毛 (仙覚「朝 まいてく」 「楽 らく」 「毛 も」) 雪のうさきまとは雪中にうさきむまに乗て遊興の心にやうさき馬は耳長き馬也 鄭綮(テイケイ) か云/|詩思(シシ) は□[さんずい+覇]橋(ハキヤウ) の雪中/□[馬+戸]子(ロシ) の上に在といへる俤も侍にや仙点の矢釣山は大和也雪もはたらにはまたらにふる也まいてくらくもとはまいり來るといふにや但まいてくらくといふは古点にをとり侍歟 |
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「万葉代匠記」〔契沖(1640~1701)、貞亨四年(1687)成〕 下句は古點ユキノウサギマアシタタノシモなりけるを仙覺今の點に改められたる由彼抄に見えたり、今按上句古點はイコマヤマコダチモミエズチリミダレなりけるを今の如く改められたるは仙覺の功なり、ハタラはまだらなり、下句は新古の點共に意得がたし、先づ古點に驪をウサギマとよめるは思ふに驪の字誤れる歟、次に新点にハタラとよまれたるは如何なる字書によられたるか、和名云、毛詩注云、驪、[音離、漢語抄云、驪馬、黒毛馬也、] 純黒馬也、又設文にも馬深黒色と注す、はたらはまだらなれば馬斑毛など云注あらばこそハタラとは和せめ、集中に雪をハタレ、ハタラなどよめる事多ければ推量にて點ぜられたるにや、今按ユキニクロコママヰテクラクモと和すべきか、水碧鳥逾白と云ふが如く雪の白妙なるにあひて黒駒のいとゞ黒く見えむに騎てまゐで來むは眞ありぬべし、 |
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「万葉集童蒙抄」〔荷田春満、享保年間(1716~35)成〕荷田春滿、萬葉集童子問 問 仙覺註釋云、此歌古點には、いこまやまこだちもみえずちりみだれ雪のうさぎまあしたたのしもと點ず。發句いこま山、矢の字をいとよめることはさもはべりなん、矢をいと云詞有が故也。鈎をこまと和せむこと其心を得ず、是やつり山なるべし。第十二卷にもやつり川とよめり。山河かはれりといへどもその所是同じきをや。腰句以後又ちりまがふ雪もはだらにまゐでくらしもと和すべし。長歌にすでに、久かたのあまつたひこし雪じものゆききつゝませとこよなるまでとよめり。きたる心是おなじかるべしといへり。この釋しかるべきにや。 答 矢鈎山をいこまやまとよむべき義なきことは明かなり。しかれども仙覺異本をみずして古訓を難ぜるは非也。古本に一本鈎を駒に作たれば、矢駒山ならばいこまやま正訓なるべし。句中に驪字あればい駒山は縁有、矢つり山は縁なし矢鈎川あれば八鈎山ともよむべけれども、第一句の詮下の句に聞えねば、矢駒山しかるべし。然れども矢鈎山眞本正字ならば一僻案有。日本紀を案ずるに、八鈎宮は近飛鳥に在て、顯宗天皇此八鈎宮に即位ましましたれば、此八鈎宮天武天皇までもつたはりて、新田部皇子に傳りてましませる歟。しからばすこしより所なきにあらず。たとひ顯宗帝の宮はなくとも、その宮跡に宮を營給へることも有べし。是一僻案なれども、日本紀にも八釣宮と書、此集第十二卷の歌にも八鈎川とかければ、第十二卷の八鈎川は飛鳥に有べし。その證第十二卷の歌飛鳥川をよめる次に八鈎川の歌をつらねたり。今八の字をかへて矢とかけるをみれば、矢駒山にていこまやまをよめる歟。しからすば矢は矣の誤にて、矣駒山にていくやまのとよめる歟。八鈎山は宮には縁あれども歌の詞に縁なければ、やつり山にはしたがひがたし。いこま山いく山二の中なるべし。 童子問 雪驪、此二字先訓ゆきもはだらにとあり。さるべき訓にや。 答 雪驪の二字を義訓にせばはだらともよむべき歟。驪の字をはだらとよむべき理りなし。理は説文にも馬深黒色とあればくろうまとかこまとかはよむべし。はだれといふは雪の一名なれば、雪の一字をはだれとよみ、驪の一字をくろこまとよむべけれども、猶異訓有べき歟。 童子問 朝樂毛、此三字先訓まゐでくらくも也、可v然や。 答 右の三字はさもよまるべし、義有べし。歌の意は、人麻呂新田部皇子の宮にまうづることゝもきこえ、又は皇子の朝參のことゝもきこえて、いまだ一決しがたし。猶後按に決べし。 |
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「万葉考」〔賀茂真淵、宝暦十年(1760)成〕 雪□[足+麗](ユキニキホヒテ) 〔雪□[足+麗](ユキノハダレニ) 撮要抄〕今本驪とあるは黒馬の事なればかなはず一本□[麗+鳥]と有もよしなし仍て□[足+麗]ならんかこはから文に(漢書)□[足+麗]v履起迎注(ニ)履不v著v跟曳之而行也言(ハ)甚/遽[イソグ]也といへれば雪のふるにいそぎきほひて參たる意をしらせて□[足+麗]の字を書しならん歟 朝樂毛(マヰリクラクモ) 朝は公にいふ言を借て參來るてふ意なり樂も良久の言に借たり來留の留を延て良久といふも樂を良久の言に惜し例多し下に夜渡月競あへんかも卷十九に落[フル]雪を腰爾奈都美□[氏/一]參來之云云 ○雪もはだらにと訓も或本に雪とはだれのあしたたのしもと訓も共に強言故に言のをさまらぬなり |
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「万葉集略解」〔橘千蔭、寛政十二年(1800)成〕 驪をハタラと訓みたれど、驪は馬深黒色とあれば、ハタラと訓むべからず、駁の字の誤りならんか。然らばハタラと訓むべし。翁は驪は躧の誤りなるべし。躧は字書に履不v著v跟曳v之而行言2其遽1也とあれば、キホヒテと訓むべし。さて結句マヰリクラクモと訓みて、人麻呂の皇子の殿にまゐりこし勞を言へりと言はれき。卷八に、今日降りし雪に競而 [キホヒテ] わが宿の冬木の梅は花咲きにけりとも詠めれば、さて有りなんか。猶考ふべし。 |
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「万葉集攷証」〔岸田由豆流、文政十一年(1828)成〕 雪(ユキモ)驪(ハダラ・ハダレ)ニ。 活字本、驪を□[麗+鳥]に作りたれど、□[麗+鳥]は鶯の事にて、さらにここに由なし。又考にも、久老が考にも、驪を□[足+麗]に改めて、ゆきにきほひてとよまれつれど、例のわたくし事なれば、用ひがたく、よくよく考ふれば、猶、印本に、驪とあるぞ、正しかりける。いかにとなれば、字鑑集に、驪[カラスマダラノウマ]とよみて、はだれと、まだらと、一つ言なれば、驪は、はだれの借字なる事、明らけし。そもそも、はだれ、まだら、はらら、この三つ、皆一つ言にて、まづ、はらゝといふ言は、書紀神代紀に、若2沫雪1以蹴散、蹴散此云2倶穢簸邏々筒須(クヱハラヽカス)1とあるは、土を雪のちれる如くに、けちらかすといふを、くゑはらゝかすといへれば、はらゝかすとは、散(チラ) すことにて、本集二十 [二十五丁] に、安麻乎夫禰波良々爾宇伎弖(アマヲブネハララニウキテ) 云々とあるも、海士小舟(アマヲブネ) の散たる如くに、浮たるをいひ、新撰字鏡に、毳浪良介志(ハハラケシ)、又/知留(チル) とあるにても、はらゝかすは、散(チラ) すことなるをしるべし。俗言に、物の離々(ハナレバナレ) なるを、ばらばらといふも、同言にて、散離(チリハナレ) たるをいへる也。またはだれといふ言は、本集十 [三十七丁]に、薄垂霜零寒此夜者(ハタレシモフリサムシコノヨハ) 云々。また [六十二丁] 小竹葉爾薄太禮零覆(ササノハニハタレフリオホヒ) 云々。八 [十四丁] に、沫雪香薄大禮爾零登見左右二(アワユキカハダレニフルトミルマデニ)、流倍散波何物花其毛(ナガラヘチルハナニノハナゾモ) 云々。十九 [九丁] に、吾園之李花可(ワガソノノスモヽノハナカ)、庭爾落波太禮能未遺有可母(ニハニチルハタレノイマタノコリタルカモ) 云々とありて、斑(マダラ) なる意なれど、まだらなるも、散々(チリチリ) に雪霜花などの散(チリ) たるをいふにて、もとは、はらゝと一つ言なる事、らとたと、らとれと、音通ふ故に、はらゝを、はだれともいひ、まとはと、れとらと、音通ふ故に、はだれを、まだらともいふ也。さて、ここは雪をも、まだらにふみちらして、八釣山の別宮にまゐる意なる事、まへにいへる事どもを考へ合せて、しるべし。 朝樂毛(マヰデクラクモ)。 これを、考にも、略解にも、あしたむぬ《しもとよまれつるは、甚しき誤り也。本集七 [四十一丁]に、朝蒔君之所思而(マヰデマクキミガモハレテ) 云々ともありて、爾雅釋言に、陪朝也。注に、臣見v君曰v朝とあれば、朝參の義もて、朝をまゐでくとは訓る也。是を、久老が、まゐりくと訓しも非也。本集十八 [二十七丁] に、麻爲泥許之(マヰデコシ) 云々。二十 [三十二丁] に、麻爲弖枳麻之乎(マヰデキマシヲ) 云々などあるにても、まゐでとよむべきをしるべし。こは、中ごろより、音便に、まうでき、まうでくなどいふと同じく、皇子の別宮にまうづる也。樂(ラク) は借字にて、るを延たる言、毛(モ) は助字にて、一首の意は、皇子の別宮のある、矢釣山の木立さへ、見えぬばかりに、道もふりまがへる大雪を、まだらなるまでふみちらして、宮にもうできつる也と申すなり。 |
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「万葉集古義」〔鹿持雅澄、天保十三年(1842)成〕 ○雪驪は、解難し、字の誤などあるべし、(略解に、驪は、駁(ノ)字の誤か、しからばはだらと訓べし、といへれどいかゞ、抑々まだらは班、はだらは離にて、各別なる言なり、猶下に委く云むを見て辨ふべし、また岡部氏は、驪は、□[足+麗]の誤なるべし、□[足+麗]は、字書に、履不v著v□[足+良](ヲ)、曳之而行、言2其遽(ヲ)1也とあれば、きほひてと訓べしと云れど、きほひといふ詞は、物に對ひて競(アラソ) ふ意の詞にて、ただに行 (ユクコト) の、遽 (トキ) をいふことならねば、□[足+麗](ノ) 字も迂 (トホク) やあらむ、又しか遠き字を用ひたりとせむことも、集中の例にたがひていかゞなり、さればこれは、かいなでの人の歌にもあらねば、角/矯 (ナホ) さむとて、牛ころすといふ諺 (コト) の恐もあるべければ、強たる説いはむよりは、中々にもだりてあるべきか、しかれども力(ラ) 及ばじとて、黙 (ナホ) あらむには、つひによき考(ヘ)も出來まじければ、打かへして、思ふべきことにはあるなり、) 故(レ)案(フ) に、驪は、驟(ノ) 字の誤なるべし、驪と驟とは、草書の體かりそめに見別がたく、甚まぎらはしければ、誤りたるものなるべし、驟(ノ) 字(ハ) 佐和久(サワク)と訓て、集中に甚多く用ひたり、されば雪驟は、ユキニサワキテと訓べし上に云たる如く、養老三年に、此(ノ) 皇子に、内舍人二人大舍人四人衛士二十人を賜へるよし見え、同じ四年に、知五衛及授刀舍人事とさへ爲賜ふとあれば、數多の舍人が類雪に驟(サワ)きて、八釣 (ノ) 宮に朝參侍(マヰリサモラ)ひしさま、思ひやるべし、又此(ノ) 下に、皇子乃御門乃五月蠅成驟騷舍人者(ミコノミカドノサバヘナスサワクトネリハ)、とあるをも合 (セ) 見て、いよいよ驟(サワク)といふべきを思 (フ) べし、 ○朝樂毛は、樂の下に、吉(ノ) 字などの脱たるものなるべし、朝は十八に、朝參乃伎美我須我多乎(マヰリノキミガスガタヲ)とありて、朝參の意をもて書(キ)、樂は老樂(オユラク)、戀樂(コフラク)など、良久(ラク)の假字に多く用ひたれば、朝樂にて、マヰラクと訓べし、さてその良久(ラク)は、留(ル)の伸りたる言にて、(良久(ラク)は留(ル)と切る、)參る事のといふ意なり、吉(ヨシ)は、皇子の御繁榮を稱へたるにて、毛(モ)は、歎息(ノ) 辭なり、 |
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「口訳万葉集」〔折口信夫、1916~17年成〕 降り亂(ミダ)る雪はだらなる朝(アシタ)樂(タヌ)しも |
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「新訓万葉集」〔岩波文庫、佐佐木信綱、1927年刊行〕 雪以下定訓ヲ得ズ 或ゆきにこまうつあしたたのしも、ゆきにうまなめまゐりくらくも、 ゆきにうくづきまゐりくらくも |
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「万葉集全釈」〔鴻巣盛広、昭和5~10年成〕 ○雪驪(ユキニサワゲル)―― 驪の字の訓、古來樣々である。これをハダラとよむ説が仙覺以來多く行はれてゐる。考には□[足+麗]の誤としてユキニキホヒテ、古義には驟の誤としてユキニサワギテとよんでゐる。文字を改めるのは賛成しかねるが、類聚古集は驟となつてゐるのであるから、或は本來驟であつたかも知れない。又この驪の字は、本集中全く他に用例がないから、誤字説も有力である。予は類聚古集に從ひ、サワゲルと訓まうと思ふ。もし文字を流布本通りにして置くならば、代匠記精撰本にユキニクロコマとよんであるのに從ひたい。新訓にユキニコマウツとあるのも面白いが、ウツがどうも賛同しかねる。ユキニサワゲルは雪の中で戯れ騷いでゐる意。 ○朝樂毛(アシタタヌシモ)―― 朝は樂しいよの意。朝をマヰリとよんで、マヰテクラクモ、マヰデタノシモ、マヰリクラクモ、マヰラクヨシモなどの訓があるが、從ふべきでない。朝はマヰリとよんだ例は他にない。卷十八に朝參乃(マヰリノ)(四一二一)とあるが、これは朝の字をマヰリとよんだのではない。 |
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「万葉集総釈」〔楽浪書院、昭和10~11年成 卷第三概説 吉澤義則 〕 ○第三句以下は舊本には「落亂雪驪朝樂毛(チリマカフユキモハタラニマヰテクラシモ)」とあり、集中難訓難解歌の一つとされてゐるが、こゝには生田耕一氏の新説を紹介しておく。それによれば驪は類聚古集によつて驟に改め、ウクツクと訓むのである。うくつくは馳驟の意。從つて、三句は降りまがふ雪の中を馬を驅つて馳驟する朝の樂しさよ、といふ意味になる。但し生田氏は右の訓解の他に今一つ神田本の驢をとつて「落(フ)リ亂れ雪驢(ユキハタラ)ナル朝(アシタ)樂シモ」しと訓み、「雪が降り亂れて今は見る限り野も山も一面班らに雪が降り積つた、何と樂しい朝である事よ」といふ解釋を提出してをられるが、氏自らは前説に從ひ度いと言つてをられる。(日本文學論纂、又は萬葉集難語難訓攷)なほ今後の研究に俟ちたい。 |
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「万葉集評釈」〔窪田空穂、昭和18~27年成〕 ○落り乱ふ雪に驟き 「落り乱ふ」は、降るために、物の紛れて見えない状態をいったもの。「乱ふ」は連体形で、「雪」につづく。「驟」は、諸本、文字に異同があり、したがって訓もさまざまで、定説がない。この字は、『類聚古集』のものである。この字を原形であろうとしたものは、古くは『古義』で、訓を「さわぎて」としている。ついで、これに従って考証をしたのは生田耕一氏で、『日本文学論纂』で、「うくづき」と訓んでいる。これをさらに詳しく考証したのは『講義』で、要は、「うくづく」は、日本書紀、『文選』の古訓に用例のある語である。意義は、『新撰字鏡』に「駆」とあり、なお『説文』には「馬疾歩也」、『玉篇』には「奔也」ともあり、馬を走らすことの古語だといっている。今はこれに従う。二句、物のまぎれるような大雪の中を、お見舞いにと路を急ぐことを、具象的にいったもの。 ○朝楽も 「朝」は、漢語の「朝す」の意の字。訓は、旧訓、〔考〕のものである。「まゐり来」は、尊い所へ伺う意を、そちらを主としていった語で、今だとまいり行くという意である。 「「らく」は、「く」を添えることによって、「来」を名詞形としたもので、「も」は、詠歎。お伺いすることであるかの意。 |
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「万葉集全註釈」〔武田祐吉、昭和23年~25年成〕 雲驟 [ユキノサワケル] 朝樂毛 [アシタタノシモ] 雪驟 ユキノサワケル。驟は類聚古集による。この句、舊訓ユキノウサキマと讀んでいるのは、雪驢とあるによるものであろうか。現に神田本には雪驢に作つている。仙覺本には雪驪に作り、ユキモハタラニとしている。しかし雪驢や雪驪では、意を成しかねるのであつて、雪驟に作るによるほかはないのである。講義がこれによつて、ユキニウクツクと讀んだのは、耳馴れない古語を撿出したものというべきである。驟は、馬の疾歩するをいう字であるが、集中「佐保川爾(サホガハニ) 小驟千鳥(サバシルチドリ)」(卷七、一一二四) とあるものを除けは、すべてサワクと讀んで通ずるものである。その一二を擧げれば「取持流 (トリモテル) 弓波受乃驟 (ユハズノサワキ)」(卷二、一九九)、「夕霧丹 (ユフギリニ) 河津者驟 (カハヅハサハク)」(卷三、三二四)、「高島之 (タカシマノ) 阿渡川波者 (アトカハナミハ) 驟鞆 (サワケドモ)」(卷九、一六九〇)、「□[手偏+求]手折 (フサタヲリ) 多武山霧 (タムノヤマギリ) 茂鴨 (シゲミカモ) 細川瀬 (ホソカハノセニ) 波驟祁留 (ナミノサワケル)」(同、一七〇四)。サワクは、普通物音の亂れてあるにいうが、波のサワクは、視覺をも併わせているのであつて、雪のサワクということも、無理ではないと考えられる。この句を、ユキノサワケルとして次句の朝の修飾句とする時は、極めて自然に解釋される。 朝樂毛 アシタタノシモ。マヰテクラクモ(舊訓)、マヰリクラクモ(考)、マヰリタヌシモ(槻) 等の諸訓があるが、四句をユキノサワケルと讀む以上、アシタタノシモと讀んで、よく通ずるのである。 |
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「評釈万葉集」〔佐佐木信綱、昭和23~29年成〕 ○驪 類聚古集に「驪」、神田本には「驢」となつてゐる。考は「□[足+麗]」の誤としてゐる。 〇落り亂る雪に驪うつ 舊訓チリマガフユキモハダラニとあるが解し難いので種々の説があり、誤字説による考の訓チリマガフユキニキホヒテに賛する説が多い。今ここには「落亂」はフリミダルと改め、「驪」は新撰字鏡に、「駿馬也。純黒也」とあり、廣韻に黒馬と駿馬との二義が見をるからコマと訓み、ウツを補ひ「雪」に續けてユキニコマウツとした。かやうな添訓は、他にも例がある。なほ、類聚古集の「驟」に從へば、類聚名義抄に、此の字をウクツクと訓んでゐるから、ユキニウクツクと訓んでもよい。「驟」もウクツクも馬の早く走る意である。又「驟」によりユキニサワケル又はユキノサワケルとも訓み得る。なほ「驪」はウサギウマであるから、類聚古集にユキノウサギマと訓んでゐるが、意を成さない。この字に從つて、ユキハダラナルと訓み得ることを生田耕一氏は説いてゐる。 ○朝樂しも 舊訓マイデクラクモと訓み、參朝して來ることよの義に解し、考はマヰリクラクモと改めた。これを支持する説も少くないが、今、類聚古集・代匠記一説等に據り、アシタタノシモとする。なほこの歌に就いては、生田氏に詳しい論考がある。 |
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「万葉集私注」〔土屋文明、昭和24~31年成〕 ユキニウマナム アシタタヌシモ 〇ユキニウマナム 此は集中難訓の一つであるが、「驪」の伝によればクロコマかコマナムであらう。「驪」は字書に馬色純黒者とも駕両馬日驪ともある。ユキニクロコマの訓も無邪気で心引く訓であり、雪中を黒馬に騎つてゆくといふ意味も、現代人には幼稚に感ぜられるとしても別に不自然ではない。「驪」の字は巻五、遊於松浦河序中にも見えるが、それは「驪馬将去」で明らかに駕両馬から来た意であるから、ここも其の意にするのが穏やかであらうと思はれる。また「驟」とある本によればサワグとよむべきであらうが、フリミダレ ユキノサワゲルでは歌調停滞して一首をなし難い程である。其他ウクツク、コマウツ等の訓は餘りに事を好む如く思はれて従へない。 〇アシタタヌシモ 雪の朝は楽しい。 |
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「萬葉集本文篇」〔塙書房・佐竹昭広、昭和38年成〕 ユキニサワケル アシタタノシモ 「驪」類聚古集「驟」ニ作ル |
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「万葉集注釈』〔澤潟久孝、昭和32~37年成〕 ユキノサワケル アシタタノシモ 「驪.」―類聚古集「驟」とあり、右に「驢 或本」とし、紀州本「驢」、活字無訓本「鸝」とあり、その他の諸本は「驪」とある。―は難訓の文字としてウサキマ(古点)、ハタラニ(仙覚抄)、クロコマ(代匠記)、ハタレニ(攷證)、などあり、又「躧」の誤としてキホヒテ(考、槻乃落葉)、「驟」の誤としてサワキテ(古義)、などとも訓まれ、類聚古集には、ウクツクの朱筆の訓があり、講義はそれにより日本書紀、文選の古訓、類聚名義抄などを引いて馬をはしらすこととし、全註釈は同じく類聚古集の文字により、驟をサワクと訓む例 (三二四、二・一九九) をあげてユキノサワケルとした。それらの説に対して小島憲之君 (「萬葉集本文批評の或る場合」 国文学 第三号、昭和廿六年二月) は真福寺本翰林学士集に「魚驪入舟浦 龍戦超鳴條」 の句があり、驪を驟の意に用ゐた例のある事に注意された。そして類聚古集に驟としたのはさかしらに改めたのではないかとされている。これは小島君の説に従ひ、驪のままで驟の意に解くべきもので、類聚古集では「冬木成」(一・一六) を「冬木盛」 とし、「石激」(八・一四一八) を「石灑」 としたのと全く同じく、後の人に解しやすい通用の文字に改めたものと思はれる。即ちここは「驢」のままでサワクとする。「さわく」は「奥津浪(オキツナミ) 鯵乎聞者(サワクヲキケバ)」(七・一一八四) の如く、明らかに音について云つてゐる例の方が多いが、「御獦人(ミカリビト) 得物矢手挟(サツヤタバサミ) 散動而有所見(サワキタリミユ)」(六・九二七) の如く、形についても云ひ、雪の散り乱れる事を「さわく」といふ事も十分認められる。ここは次の句の「朝」を修飾するものとしてサワケルと訓む。なほこの事次に述べる。 「朝楽しも」―類聚古集、紀州本、細井本の三本にアシタタノシモとあり、それが古点であつたが、仙覚抄にマヰデクラクモと改めて諸本それに従ひ、諸注にもそれにより或はマウデクラクモ(童蒙抄)、マヰリクラクモ(考) などとも訓んでゐる。これらはいづれも上の句をユキモハダラニ、ユキニクロコマ、ユキニキホイテなどと訓んだ為に下もさう訓まずに居られなくなつたものであり、「朝参」 などの意で、さう訓めない事はないが、右に述べたやうに上の句をユキノサワケルと訓めば、しひてさういふ事を考へる必要なく、あたりまへに、文字通りアシタタノシモとする古訓にかへるべきである。雪の散り交ひみだれる朝の眺めが楽しいことよ、といふのである。 |
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「万葉集全注」〔有斐閣、昭和58年~平成18年成〕 ユキニサワケル アシタタノシモ 〇雪に騒ける- 原文「雪驢」とある。類聚古集に「驟」とあり、右に「驢 或本」とし、紀州本に「驢」とあり、古来難訓の文字として諸説が出た。類聚古集に「ユキノウサキマ」とあり、ノウサキの右に朱で「ニウクツク」とある。このウサキマの訓は「驢」字に基づくものであり、ウクツクの訓は「驟」字に基づく訓と考えられる。仙覚抄では、「雪驢」をユキモハタラニ、代匠記初稿本ではユキモハタラノとも、代匠記精撰本ではユキニクロコマかともし、童蒙抄ではハダレノコマノとし、考では「躧」の誤りとしてユキニキホヒテと訓み、古義は「驢」は「驟」の誤りとしてユキニサワキテと訓み、講義は「雪驟」としてユキニウクヅキ(「皇子の宮の舎人等の馬を馳せて先を争ひ、出仕せるさま」) と訓み、全註釈は「雪驟」としてユキノサワケルと訓むなど、他にも多くの文字や訓がある。これらに対し、小島憲之は真福寺本『翰林学士集』に「魚驪入舟浦 龍戦超鳴條」の句があり、「驢」を「驟」の意に用いていること、そして類聚古集の「驟」はさかしらの改字であろうと指摘した(『上代日本文学と中国文学』中、第四章)。注釈これにより「雪驢」の文字でユキノサワケル(雪の乱れている) と訓んだ。かくして文字の上では「雪驢」が正しいことが分かるが、注釈の如く解すると、上句の「降りまがふ(降り乱れる)」と「雪のさわける(雪の乱れている)」とは同じ内容を表すことになってしまう。もっとも、注釈では上句を「降りまがひ」と連用形に訓でいるけれども、それとても同じことである。それに対し、古典集成では全釈「ユキニサワゲル」に従い「雪に騒(さわ)ける」と訓み、「雪に出仕の人がにぎやかにはしゃいでいる」と解した。「驟」は『説文』に「馬疾歩也」とあることから、講義の如き解釈も成立するからウクヅクと訓んでよいとする説もあろうが、しかし、集中の「驟」は、人麻呂の「弓弭(ゆはず)の驟(さわ)き」(2・一九九)を始めとして五例ともすべて、音響(他は蛙・浪音) に関して用いられているし、また「木立も見えず降りまがふ雪」の中で馬を疾駆させたところで見えるわけではなく、人々の声がしてこそ歌になることを想えば、「驢」はサワクでなくてはならない。 〇朝楽しも- 古点アシタタノシモが、仙覚抄にマヰテクラクモに改めた。それは上句の「驢」の訓クロコマなどに引かれたためであった。今は古点に戻るべきである。 |
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「新編日本古典文学全集」〔小学館、平成8年成〕 雪驪 朝樂毛-原文のまま(定訓なし) 「驪」 は類聚古集などの古写本に「驟」とする。「驟」にサワク・ウグツクの訓があり、「驪」のままでも「驟」の意味があるため、第四句をユキニサワケル・ユキニウグツク、第五句をアシタタノシモ・マヰデクラクモなどと読む説があるが、いずれも定説とはし難い。なおウグツクは馬などが躍り歩く事をいう。 |
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「新日本古典文学大系』〔岩波文庫校訂版、平成25年~〕 ユキニツドヘル アシタタノシモ 第四句は難訓の一つである。(萬葉集私注)。 西本願寺本等「雪驪」、類聚古集「雪驟」。類聚古集の「雪驟」を「雪□[耳偏に聚]」の誤字と見なして、「雪にあつまる」「雪につどへる」と訓むことも一案であろうか。いずれにせよ、雪に集まり集(つど)う主体は人、馬を馳せて雪を見に来た人々であろう。また、類聚古集の本文「雪驟」によって、「雪にあつまる」もしくは「雪につどへる」と訓むことが考えられるか。結句「朝楽毛」はアシタタノシモと訓む。万葉集に用いられた形容詞「楽し」は、もっぱら「遊び」、特に「酒宴」の文脈に使用される。ここの「朝楽しも」も、雪見の酒宴ではないかと想像される。ここは一応、以上のように訓み解いておく。 |
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一 | 9 | 莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣 | |
「万葉集註釈」〔仙覚、文永六年(1269)成〕 ユフツキノアフキテトヒシ ワカセコカイタヽセルカネイツカハ(マヽ)アハナム ユフツキトハ、十三四日ノユフヘノ月也。イタヽセルカネトイヘルハ、イハ、發語ノ詞。ヨメル心ハ、ユフツキノコトク、アフキテトヒシワカセコカ、タチテヤアルラン、イツカアハントヨソヘヨメル也。コレハ愚老新點ノ歌ノハシメノ歌也。彼新點ノ歌、百五十二首ハヘルナカニ、コレハクハシク尺ヲカキソヘテ侍ル歌也。クハシキムネヲシラント思ハン人ハ、可有披見彼(ノ)尺(ヲ)也。 |
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「万葉集管見」〔下河辺長流、寛文年間(1661~1673)成〕 夕月のあふきてとひしわかせこ あふくは、たかきものに對する心也。相見る前の人を、あかむる心にて、かくいふ也。 わかせこは、夫婦にかよはしていふ詞也。女のうたによむ時は、おつとをいひ、男のうたにては我妻をいふなり。 いたゝせるかね いは上にいふかことく、發語ノ詞也。たゝせるかねは、たゝせるかにといふ詞也。 |
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「万葉拾穂抄」〔北村季吟、貞享・元禄年間(1684~1704)成〕 [莫囂圓隣之大相兄爪謁氣] 吾瀬子之射立為兼五可新何本 [ゆふつきのあふきてとひし] わかせこかいたゝせるかねいつかあはなん ゆふつきのあふきて 仙抄云ゆふつきは十三四日の夕の月也いたゝせるかねはいは發語の詞 よめる心は夕月のことくあふきてとひし我せこか立てやあるらんいつかあはんとよそへよめる也 是は愚老新点の哥のはしめ哥也彼新点の哥百五十首侍る中に是は委尺を書そへて侍る哥也云々 愚案莫囂圓隣之大相兄爪を夕月のあふきてとよみ 新何本をあはなんとよむ事愚意なとの及ふ所にあらすなから只彼抄に任せて書付侍る所也 |
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「万葉代匠記」〔契沖(1640~1701)、貞亨四年(1687)成〕 莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣吾瀬子之射立爲兼五可新何本 [ユフツキノアフキテトヒシワカセコカイタヽセルカネイツカアハナム] 我セコは妻をさして云、御供に出立時いつの頃か歸りなんやと我を夕月をあふぎみる如く思ひて問し妹が、今は歸るべき比とて立待らんに、いつか歸て相見なんとなりイタヽセルのいは發語の詞なり、ガネはがになり、兼の字此集音をも用たれば、イタヽセリケンとよむが勝るべし、此歌の書やう難儀にて意得がたし、いりほがなるに似たれど、試に今案を加へて後世に便ぜん、仙覺抄を見るに、今の点は仙覺所爲なれば信じ難し、先書樣を釋せば、莫囂は無喧なり、堯の時の老人も日入而息と云ひ、淵明が詩にも日入群動息と作て、夕に至れば靜なれば義を以て莫囂を夕とす、圓隣は十五夜に對していへり、圓月に隣るなり、源氏に五六日の夕月夜ともいひたれど、今は十日餘なるべし、莫囂は圓隣を待てユフとよまれ、圓隣は莫囂によりてツキとよまる、他所に引き分てば共によまるべからず、大相七兄爪謁氣は、此の中の謁の字は靄なるべし、靄は雲状と注したれば、此句をオホヒナセソクモとよむべし、五可新何本をばイツカシガモトとよむべし、□[手偏+總の旁]じてはユフ月シ履ヒナセソ雲、吾セコガ、イタヽセリケン、イツカシガモト、かくよむべきか、第十一に、遠妻の振放 [フリサケ] 見つゝ偲ぶらん、此月の面に雲十棚引、此意にや、イタヽセリケンは立て我を望て待つなり、イツカシガモトとは、しさなり、後にもしがといへる所あり、己の字此集にさとよめり、第九にさが心からおぞや此君とよみて、己とも君とも同人を云たれば、必ずしも賤しむる言のみにもあらず、然れば月夜に立て我方を見おこすらん妹が許にいつか歸り到らむとなり、又新河本をニヒガホともよむべし、いつか歸りてめづらしくにほへる顔を見むとなり、又月を見てだに思よそへて我慰まんと云心もあるべし、 |
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『万葉集僻案抄』〔荷田春満、享保年間(1716~1735)成〕 莫囂圓隣之。大相七兄瓜謁氣。吾瀬子之。射立爲兼。五可新何本。 此歌の文字、古よりよみおほせたる人もなければにや、仙覺はじめてよみたるよしをいへり。その訓には、 ゆふつきの。あふきてとひし。わかせこか。いたゝせるかね。いつかあはなん。 かくよみてより、諸家の本皆此よみをつけて、此訓の是非をいへる説もみへず。かの注釋云。ゆふつぎとは十三四日の夕べの月也。いたゝせるかねといへるは、いは發語の詞。よめる心は、夕月の如くあふぎてとひしわがせこが、たちてやあるらん。いつかあはんと、よそへよめる也。これは愚老(仙覺?) 新點の歌のはじめの歌也。彼新點の歌百五十二首侍るなかに、これは委しく尺を書そへて侍る歌也。くはしきむねをしらんと思はん人は、可爲披見彼尺也とあり。しかれば此集の歌、仙覺新點百五十二首の尺別にかけりとしられたれども、予いまた彼尺を見ざれば、可不を辨へがたし。右の文字の上につきて右の訓點をつけられたるはさるゆゑこそありつらめ。たとひ訓證訓義ありとても、第一句より第二句のつゞき、かくよみては、歌といふものにてはなし。夕月のあふぎてとひしとはつゞかぬ詞也。此句つゞくつゞかぬさかひは、歌をしる人にあらざればいはれず。後しる人わきまへしるべし。予が僻案の訓は、此歌の文字古本一樣ならずして、諸家の古本文字相違あれば、一定なしがたきによりて異字につゞきて異訓をもなして、いまだ一訓に決せず。若正本正字の古本を見ることあらば、その時一訓にきはむべし。僻案三訓あり、其訓の一には。 ゆふくれの。やまやついゆき。わかせこか。いたたせりけん。いつかしかもと。 ゆふくれは夕暮也。やまやつは山谷也。いゆきは、いは發語辭也。ゆきは行也。わがは我うへなり。せこは夫君を指辭。古本の傍注に、奉天武天皇歌也とあれば、天武天皇を指て云。額田王は天武天皇の夫人なれば、わがせことは云へり。天武天皇皇子にてまします時、此行幸の供奉し給ふなるべし。よりて額田王都に留りて、天皇へ奉れる歌とみへたり。いたゝせりけんとは、いは發語辭。たゝせりけんは、立せ給ふらんとおしはかりおもひやり給ふ意也。いつかし(が脱歟?)もととは、古語に此句あり。日本紀にみへたり。それは嚴橿之本なり。此句は嚴□[判読不能]本の義にて、きびし岩ほのもとなどに立やすらひ給ら也(らん〔二字傍点〕の誤寫歟?) とおもひやるを云。歌の意は、山路はさらでだに越がたきに、まして夕暮のみ山谷かげなどの旅行は、いとくるしかるべければ、けはしき岩ほのもとにもつかれて立やすらひ給ふらんと、いたはりてよみて奉れる歌とみへたり。此歌の文字をかくまむより所は左にしるしぬ。 莫囂圓隣之。これを一古本に、莫囂國隣之とかきで、ナナクリノと片かなを付たり。しかれば圓隣は、國憐をあやまれる歟。國燐の二字はくれとよむべし。國はくとよむ例おほし。憐はあはれとよむ字なれば、下の一音をとりてれとよむべし。音もレンなれば、音をかりては上をとり、訓をかりては下をとりて、いづれにてもれとよむべし。莫囂の二字をゆふとよむは、一古本に莫は奠に作を見し也。又古葉略要集に、此歌の文字二字略(異?)にして、囂を器に作たり。よりて莫囂は、奠器をあやまれるとしりぬ。奠器なればゆふとよむべし。本朝の故實神祭の具には、必木棉あり。木棉の義訓に奠器と書たるを、夕の訓に用ゆるは借訓也。仙覺のゆふとよめるもも、若此意歟。故に奠器國燐之の五字につきて、夕ぐれのとよむ也。 大相七兄。これをやまやつとよむは、大相は大なるすがたなれば、山の義訓にかける歟。七兄は七歳の兄は八歳なれば、やつの義にかけるよりかりて、やつは谷の古語なれば、山谷とす。 爪謁氣。これをいゆきとよむは、一古本に、爪を瓜に作を見ていとよむ也。瓜なればうり也。うりの約言はいなれば也。謁氣をゆきとよむは、古葉略要集には、謁を湯に作たり。よりて爪湯氣の三字につきていゆきとよむ也。吾瀬子より下は、音訓常に用る字なれば、わがせこがいたゝせりけん、いづかしがもとゝよむには、うたがひ有べからぬは、しひていふにをよばす。今ひく古葉略要集は見る人すくなかるべし。此書はこの廿とせあまりのさき、春日若宮神主大中臣祐宗朝臣やつがれがもとに物まなびに來りしこと有。その頃比集のことにをよびて、彼家に傳へし古葉略要集を、祐宗朝臣もち來りて見せ侍し時、此集の文字のたがひとも校合せしなり。古葉略要集いまに彼家に有べし。 又僻案訓二には。 ゆふきりの。そらかきくれて。わがせこか。いたゝせりけん。いつかしかもと。 莫囂圓隣之。これをゆふきりのとよむは、前にしるす如く、奠器國隣としてよむ也。奠器は前にいふがごとし。國隣をきりとよむは、くにの約言き也。隣はとなりの下のりをとれば也。凡國語にラリルレロの五音を上にいふことなし。よりて此五音のかなを訓に云ときは、皆下の音をとり用るならひなれば、隣の字を里とよみ、隣(憐?) の字をれとよむなり。大相七兄爪謁氣、これをそらかきくれてとよむは、前には大相の字を山とよめども、天ともよむべし。大相の義訓は、山よりも天の訓その義まさるべき歟。七兄爪をかきとよむは、一古本に七の字なき本もあり。又七兄の二字を一字に七兄とかける古本をもみければ、七兄は虎の字歟。轉寫□[言+爲]に七兄と二字になせる歟。もし虎の字なれば、虎爪の二字はかきとよむべし。義訓の借訓也、謁氣の二字をくれてとよむは謁は靄と通用て、陰晦也と云字注と(も?) あれば、謁氣はくらしとも、くれてともよむべし。下の句は前のにおなじ。上の句は訓異なれども、意は前の歌にことならず。天武天皇に奉給ふ歌にて、湯の山の夕暮の旅行をいたはり、山氣ふかゝるべきことなどおもひやり給ふ意なるべし。此外に僻案の訓猶一つあれども、上の句の文字いづれを正字とも決がたければ、あまりにくだくだしくいはんもいかゞなれば、もらして先二訓のみをかき付ぬ。かさねて異本異字を見ることあらば、その時又いふべし。仙覺の新點と予の僻訓との是非は、文字の正しき古本を見る人辨へ給ふべし。 |
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「万葉考」〔賀茂真淵、宝暦十年(1760)成〕 莫囂國隣之 [キノクニノ]、 こはまづ神武天皇紀に依に、今の大和國を内つ國といひつ、さて其内つ國を、こゝに囂 [サヤギ] なき國と書たり、同紀に、雖邊土未清餘妖尚梗而 [トツクニハナホサヤゲリト云ドモ]、中洲之地無風塵 [ウチノクニハヤスラケシ] てふと同意なるにて知ぬ、かくてその隣とは、此度は紀伊國を差なり、然れば莫囂國隣之の五字は、紀乃久爾と訓べし、又右の紀に、邊士と中州を對云しに依ては、此五字を外 [ト] つ國のとも訓べし、然れども云云の隣と書しからは、遠き國は本よりいはず、近きをいふなる中に、一國をさゝでは此歌にかなはず、次下に、三輪山の事を綜麻形と書なせし事など相似たるに依ても、猶上の訓を取べし、 〔此一二句は、諸本に字ども違ひ多し、こゝは宜を取つ、其よし別記にいふ、○綜麻形の訓の事は其歌にいふ、〕 大相 [ヤマ]、 山なり、 古兄□[氏/一] 湯氣 [コエテユケ]、 越てゆけなり、 吾瀬子之 [ワガセコガ]、 こは大海人 [アマノ] 皇子命か、又何れにても、此姫王の崇み親み給ふ君の、前に此山路を往ませし事あるを思ひ給ふなるべし、 射立爲兼 [イタヽセリケム]、 射は發言、たゝせりは立しと云に同じくてあがめいふなり、けんはけるらんの畧にて過にし事をいふ辭なり、 五可新何本 [イヅカシガモト]、 五は借字にて嚴なり、可新何本は橿 [カシ] 之本なり、 〔嚴に五の訓を借て、清濁を嫌はぬは、借字の常なり、○嚴は崇くして恐き勢ひをいふ、それを本にて、神天皇の御事、或は整ていがしき事などをいふ、このかしは神の坐所の齋 [イハヒ 木なればいへり、〕 紀に (垂仁)天照太神(ヲ)鎮2坐/磯城 [シキノ] 嚴橿之本(ニ)1、古事記に、(雄略條)美母呂能 [ミモロノ]、伊都加斯賀母登 [イツカシガモト]、加斯賀母登と云も同じ、かゝれば神の坐 [マス] この山路の齋 [イツ] 橿の木の下に、前つ時吾背子の立給ひし事を聞傳へてかくよみ給へるなりけり、○こは荷田大人のひめ歌なり、さて此歌の初句と、斉明天皇紀の童謡 [ワザウタ] とをば、はやき世よりよく訓 [ヨム] 人なければとて、彼童謠をば己に、此歌をばそのいろと荷田(ノ)信名(ノ)宿禰に傳へられき、其後多く年經て此訓をなして、山城の稻荷山の、荷田の家に問に、全く古大人の訓に均しといひおこせたり、然れば惜むべきを、ひめ隱しおかば、荷田大人の功も徒に成なんと、我友皆いへればしるしつ、 |
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「万葉集略解」〔橘千蔭、寛政十二年(1800)成〕 此歌荷田東萬呂翁、キノクニノヤマコエテユケワガセコガイタタセリケムイヅカシガモトと訓めり。其故は、古本莫囂國隣之と有り。古葉略要集には、奠器國隣之とあり。又一本に莫器圓憐之と有り。二の句古本大相云兄爪謁氣と有り。古葉略要に大相土兄瓜湯氣とあり。一本に大相七兕竭氣と有り。是らを合せ考ふるに、七も土も古の字の誤り、瓜は氐を誤り、謁は湯を誤れるなるべし。さてかくくさぐさの中にて正しきを取りてみれば、莫囂國隣之は、神式紀に依るに、今の大和國を内つ國といへり。其内つ國をここには囂 [サヤギ] なき國と書けり。同紀に雖邊土末清餘妖猶梗而中洲之地無風塵の十七字を、とつくにはなほさやげりといへども、うちつくにはやすらけしと訓めるを以て、囂 [サヤギ] なき國は大和なれば、其隣とはここは紀伊をさせり。されは此五字キノクニノと訓まる。大相古兄氐湯氣の七字、ヤマコエテユケと訓むよし考に見ゆ。平春海云、大相土三字にてヤマと訓むべし。さらば大相土見乍湯氣にて、ヤマミツツユケと訓まむか。一本に兄を見に作りたるもあれば、今見に作れるを用ひて、爪を乍の誤りとなさむかと言へり。さも有るべし。吾瀬子之射立爲兼五可新何本の十三字、ワガセコガイタタセリケムイヅカシガモトと訓むべし。嚴に五の訓を借りて、清濁に拘はらぬは借字の常なり。山コエテユケ云云、又山見つつゆけ云云、是はいづれにても、此女王の尊み親み給ふ者の先きに、此山路を往き給へる事を思ひ出て、從駕の人にのたまふなるべし。イタタセリケムのイは發語、立たせたまひけむなり。イヅカシは垂仁紀天照大神磯城/嚴橿 [イヅカシ] が本に座すといひ、古事記美母呂能伊都加斯加母登加斯賀母登と云ふに同じ。かかれば神を齋へる山路の橿にて、後世神木と言ふものなり。其木の本に、吾背子の立せ給ひし事を傳へ聞しめして、詠み給へるなるべし。さて元暦本には、草囂云云爪湯氣と有りて、瀬の下子の字無し。千蔭が持たる古葉略類聚抄には莫器、圓隣云云湯氣と有り。此歌はいたく誤りたりと見ゆ。此初句キノ國ノと訓むも強ひたる事の樣なり。理りもいかがに聞ゆ。されど、今外に考へ得たりと思ふ事も無ければ、暫く右の説を擧げつ。猶考ふべき事なり。 |
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「万葉集燈』〔富士谷御杖、文政五年(1822)成〕 莫囂圓隣之。大相七兄爪謁氣。吾瀬子之 [ワカセコガ]。射立爲兼 [イタヽセリケム]。五可新何本 [イツガシガモト] 此上の二句は、此集中の難義なり。古點「ゆふづきのあふぎてとひし」とあり。此もじどもを、いかで、かくよみけむともしられず。大かた、一首の上もときがたし。束麻呂は「きのくにの山こえてゆけわがせこがいたゝせりけむいつがしがもど」とよみき。三四五の句はしかるべし。一二の訓はなほ心よからざるがうへに、下にも應ぜず。又あづまなる春海は「山みつゝゆけ」とよめり。これも下にうちあはず。いづれも、心よからねば、しばらく後考をまつべし。此集もと、戯れてかゝれたるもじも多く、しかのみならず、誤もすくなからねば、かうやうの歌これにかぎらず多し。しひたる考をして、人をあやまらむよりは、のぞきおくにしかざるべし。たとひかうやうの歌、此集中二十首・三十首のぞきおきたりとも、倒語をまねぶには、事たりたる事なるべし。世に、萬葉集をみる事、たゞこのうはべをのみ見しるに過ず。大旨にいへるが如く、もと萬葉集をみむは、上古の人の詞のつけ所、ならびに、詞の用ひざまをしるを要とすべければ、たゞ四五卷を會得すとも、伶俐の人は、歌道の本意はさとらるべし。まして、二三十首をのぞくをや。猶さるべき考もいでこば、今かきくはへてむ。 |
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「万葉集攷証」〔岸田由豆流、文政十一年(1828)成〕 莫囂圓隣之 [ユフツキノ] 大相七兄爪謁氣 [アフキテトモヒシ] 吾瀬子之 [ワカセコガ] 射立 [イタヽ] 爲 [ス・セル] 兼 [ガネ] 五可新何本 [イツカシガモト・イツカアハナム] この歌、一二の句解しがたし。おのれ思ひ得る事あらねば、たゞ故人の説をのみあぐ。 見ん人心のひかん方にしたがふべし。いづれも心ゆきてもおぼえねど、予はしばらく久老か春海が説によらんとす。 莫囂圓隣之。大相七兄爪謁氣。 代匠記云、この歌のかきやう、難文にて心得がたし。しひて第一の句を案ずるに、莫は禁止の詞にて、なかれなれども、たゞなしともよめり。囂は左傳杜預注に喧□[口+花]也といへり。堯の時、老人ありて、日出而起、日入而息といひ、又陶淵明が詩に、日入群動息と作れり。されば、陰氣に應じて、くるれば靜かになる心にて、莫囂を夕とはよめるか。圓隣とは、十日過るころは、月もやうやうまろに見ゆれば、七八日の月は、それにとなりつれば、かくはかけるにや。第二の句は、かきやうよみやうひたすら心得ず云々。考別記云、今本に、莫囂圓隣之、大相七兄爪謁氣とあるのみを守りで、強たる説どもあれど、皆とらず。何ぞといはゞ、諸の本に字の違多きを見ず、古言に本づきて訓べきものともせず、後世の意もていふ説どもなればなり。仍て年月に多くの本どもを集へ見るに、まづ古本に、莫囂國隣之とあり。古葉略要に奠器國隣之とす。又一本に莫哭國隣之とす。今本と四本。かゝるが中に古本ぞ正しかりき。二の句は、古本に大相云兄爪謁氣とあり。古葉略要に大相土兄瓜湯氣とす。一本に大相七咒瓜謁氣とす。又今と四本なり。是を考るに、七も土も、古の草より誤り、謁は湯なり。これを合せもて、大相古兄□[氏/一] 湯氣となす時は、言やすく意通れり云々。考云、莫囂國隣乃 [キノクニノ]、こはまづ、神武天皇紀に依に、今の大和國を内つ國といひつ。さてその内つ國を、こゝに囂 [サワキ] なき國と書たり。同紀に、雖邊土未清餘妖尚梗而中州之地無風塵 [トツクニハナホサヤケリトイヘトモウチツクニハヤスラケシ] てふと、同意なるにて、知ぬ。さてその隣とは、此度は紀伊國をさす也。然れば、莫囂國隣之の五字は紀 [キ] の久爾 [クニ] のと訓べし。又右の紀に、邊土と中州を對云しに依ては、此五字を外 [ト] つ國のともよむべし。然れども、云々の隣と書しからは、遠き國はもとよりいはず、近きをいふなる中に、一國をさゝでは、此歌にかなはず。次下の歌に、三輪山を綜麻形とかきなせし事など、相似たるによりても、猶上の訓をとるべし。大相 [ヤハ(マヽ)] やまなり。古兄□[氏/一] 湯氣 [コエテユケ] 越てゆけなり云々。宣長が玉勝間云、萬葉一の卷に、莫囂國隣之 [カマヤマノ]、霜木兄□[氏/一] 湯氣 [シモキエテユケ] とあり。莫囂は加麻 [カマ] と訓べし。加麻 [カマ] をかく書るよしは、古へに人のものいふを制して、あなかまといへるを、そのあなをはつ(はぶ?)きて、かまとのみもいひつらん。そは、今の世の俗言に、囂 [カマヒス] しきを制して、やかましといふと同じ。やかましは、囂 [カマヒス]しといふことなれば、かまといひて、莫 [ナカレ]囂 [シキコト] といふ意なり。さて、かま山といふは、神名帳に、紀伊國名草郡、竈山神社、諸陵式に、同郡竈山墓と見えたるこれ也。此御墓は、神武天皇の御兄、五瀬 [イツセノ] 命の御墓にて、古事記書紀にも見えたり。神社も、御墓も、古への熊野道ちかき所にて、今もあり。國隣は、夜麻 [ヤマ] とよむべし。山は隣の國の堺なるものなれば、かくも書くべし。國の字は、本には圓とあるを、一本に國とある也。霜の字、本に大相とあるは、霜の草書を、大相の二字と見て誤れる也。そもそも、この事は、書紀、齊明天皇卷に、四年冬十月、庚戌朔甲子、幸紀温湯とありて、十一月までも、かの國にとゞまりませりしさま見えたれば、霜のふかくおくころ也。木兄□[氏/一] は、本には木(ノ)字を、七に誤り、或本には土にも云にも誤り、□[氏/一] ノ字は爪に誤れり。又湯の字を謁に誤れるを、そは一本に湯とある也。久老が信濃漫録云、莫囂圓隣の歌、師の考に、初句をきのくにのとよまれしは、いかゞ也。紀の國行幸に、きのくにの山こえてゆけとは、いふべきにあらず。紀の山をこえて、いづくにゆくにや。また第二句の、大相を、やまとよまれしも、いかなる意とも心得がたし。これはもと、大相土の三字を、やまとはよまれしものならんを、その土の字を、古の誤字として、次の句にとられしより、しひて大相の二字をやまとよみおかれしものとこそおぼゆれ。宣長、これをよみあらためて、初句をかま山とよみしもいかゞなり。物語ぶみに、あなかまと手かくなどいへるは、あゝやかましと制する言にて、かまはすなはち囂の字にあたれば、かまとよまんに、莫の字/衍 [アマ] れり。弟二句を、霜木兄□[氏/一] 湯氣 [シモキエテユケ] と改めよめるも、いかゞ也。又霜の、橋上、野面などにおきわたしたらんこそ、歌にもよみならひつれ。山上の霜、いかにぞや。雪にてありたし 雪はふみわけがたければ、消てのちゆけともいふべけれど、霜はさるものにしもあらねば、いかゞなり。とまれ、かくまれ、この第二句の訓は、たれもいかゞに思ふべかめるを、別に考出べき才力 [チカラ] なきゆゑに、もだをるならん。己 [オノレ] が考は、囂 [カマヒスシキ] ことなきは、耳なし山なり。圓 [ツブラ] は山の形にて、倭姫命世記に、圓 [ツブラ]〔奈留〕有小山〔支〕、其所〔乎〕都不良[ツブラ]〔止〕号 [ナツケ]〔支〕と見えたれ [(マヽ)]。しかれば、莫囂圓は耳なし山なり。耳無山に隣れるは、香具山なれば、莫囂圓隣之は、かぐ山のとよむべし。大相土は、書經洛誥に、大相東土とあるによるに、大に相 [ミル]土 [ツチヲ] は國見なるべし。兄爪謁氣の兄は、一本无につくれゝば、爪謁の二字は、靄の一字を誤れるものにて、无靄氣はさやけきなれば、第二句をは、くに見さやけみとよむべきなり云々。春海云、大相土の三字にて、やまとよむべし。さらば大相土見乍湯氣にて、やま見つゝゆけとよまんか。一本に兄を見に作りたるもあれば、今、見に作れるを用て、爪を乍の誤りとなさんか云々。 吾瀬子之 [ワカセコカ]。 吾せこは、集中いと多く見えて、親しみ敬ひていふ言なり。こゝにわがせことあるは、此行幸に供奉し給ふ皇太子〔天智〕をさしてのたまへるなるべし。吾せこは、古事記上卷に、我夫子 [ワカセコ] 云々。本集十六〔十五丁〕に吾兄子 [ワカセコ] 云々などあるがごとし。又/兄 [セ] とのみいふも同じ。下にいふべし。 射立 [イタヽ] 爲 [ス・セル] 兼 [カネ]。 いたゝすのいは發語にて、心なし。上〔七丁〕にいへるがごとし。がねといふ詞は、集中いと多かり。古事記下卷に、波夜夫佐和氣熊 [ハヤブサワケノ]、美游須比賀泥 [ミヲ(マヽ)スヒカネ] 云々。本集三〔三十四丁〕に、後將見人者語繼金 [ノチミンヒトハカタリツグガネ] 云々などあるがごとく、皆その料にといふ言なり。中古の書にきさきがね、坊がね、むこがねなどいへるもこゝと同じく、その料にまうくるなり。 五可 [イツカ] 新河本 [シカモト・アハナン]。 この訓、説々あれど、眞淵、宣長などの説によりて、いづかしがもとゝよめり。されど、其注くはしからねば、今くはしくいはん。古事記下卷に、美母呂能伊都加斯賀母登 [ミモロノイヅカシガモト] 云々。書紀垂仁紀一書に、天照大神、鎭坐於/磯城嚴橿之本 [シキノイヅカシカモト] 云々。倭姫世記に、倭國/伊豆加志本宮云 [イヅカシガモトノミヤ] 々などあるいづは、垂仁紀に嚴橿 [イヅカシ] とかけるがごとく、嚴の意なり。嚴 [イヅ] は書紀神武紀に、嚴瓮、此云怡途背 [イヅヘ] 云々。同紀に、嚴咒詛、此云怡途能伽辭離 [イヅノカジリ] 云々。神功紀に、嚴之御魂 [イヅノミタマ] 云々などある嚴にて、忌清 [イミキヨ] まはりて、齋 [イツ] く意なり。嚴は古事記に、伊都とかきたるに、またこゝに五の字をかりてかければ、清 [スム] べきかとも思へど、書紀に嚴を怡途 [イヅ] とよみ、倭姫世記に伊豆とかけるにても、濁るべき事明らか也。さて五の字を濁音の所にかりて書るは、うたがはしきやうなれど、五手船を本集廿〔十九丁〕に伊豆手夫禰とかけるにても思ふべし。すべて、借字の例、清濁にかゝはらざること、前の句にがねといふ所に、兼金などかけるにてもしるべし。可新 [カシ] は假にて橿なり。和名抄木類に、唐韻云橿〔音薑和名加之〕萬年木なり云々とあるがごとし。本 [モト] は大祓祝詞に、彼方之繁木本 [ヲチカタノシケキカモト] 云々などあるがごとく、木の下なり。そは、説文に木下曰本云々。山海經西山經注に、本根也云々などあるがごとし。 |
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「万葉集古義」〔鹿持雅澄、天保十三年(1842)成〕 奠器圓隣之 [ミモロノ]。大相土見乍湯氣 [ヤマミツヽユケ]。吾瀬子之 [ワガセコガ]。射立爲兼 [イタヽシケム]。五可新何本 [イヅカシガモト]。 〇奠器圓隣之、(奠器、舊本 [モトノマキ] には莫囂、元暦(ノ)本 [マキ] には草囂、又/一本 [アルマキ] には莫器と作 [カケ] り、今は古葉略要集によれり、圓は六條本には圖、古本には國と作 [カケ] り、今は舊本のまゝを用 [トリ] つ、) 此(ノ)一句はミモロノと訓べし、ミモロとは御室 [ミムロ] にて、神祇 [カミ] を安置奉 [マセマツ]る室をいふなること、三(ノ)卷に、吾屋戸爾御諸乎立而枕邊爾齋藤戸乎居 [ワガヤドニミモロヲタテテマクラベニイハヒヘヲスヱ]、六(ノ)卷に三諸着鹿背山際爾 [ミモロツクカセヤマノマニ]、七(ノ)卷に三諸就三輪山見者 [ミモロツクミワヤマミレバ]、又/木線懸而祭三諸乃神佐備而 [ユフカケテイツクミモロノカムサビテ]、十九に、春日野爾伊都久三諸乃 [カスガヌニイツクミモロノ]、などあるにて知べし、(梁塵秘抄(ノ)歌に、賢木葉に木綿採垂 [ユフトリシデ] て誰(ガ)世にか神の御室と齋(ヒ)初けむ、) さてその神の御室の近隣には、常に奠(ノ)器をおき圓 [メグ] らしてあれば、こゝはその義 [コヽロ] もて、奠(ノ)器/圓 [メグラス]隣(ニ)と書て、ミモロとは訓せたるなるべし、(又思ふに、もしは圓は圍(ノ)字の寫(シ)誤にてもあらむか、圍 [カコム] 隣(ヲ) とするときはましてさらなり、) かくてこゝのミモロは、即(チ)三輪山のことなり、三輪山を、三室山といへること、二(ノ)卷に、三諸之神之神須疑 [ミモロノカミノカムスギ]、七(ノ) 卷に三毛侶之其山奈美爾 [ミモロノソノヤマナミニ]、また味酒三室山 [ウマサケミムロノヤマノ]、九(ノ)卷に、三諸乃神能於婆勢流泊瀬河 [ミモロノカミノオバセルハツセガハ] などよめり、猶古事記にも書紀にも、往往 [コレカレ] 其(ノ)例見えたり、(かくて古來 [コシカタ] の諸註者 [フミトキビトヾモ]、まづ此(ノ)一句を舊本に、莫囂とあるに据 [ツキ] て説來 [トキキタ] れる故、解 [サトリ] 得たる人なし、) こは必(ズ)ミモロなるべく思ふよしは、古事記下(ツ)卷雄略天皇、引田部(ノ)赤猪子に賜へる大御歌に、美母呂能伊都加斯賀母登 [ミモロノイツカシガモト] とあるは、三輪山の嚴橿之本 [イヅカシガモト] のことにて、即(チ)此 [コヽ] の五可新何本も、其(レ)と同じかるべければなり、又書紀垂仁天皇(ノ)卷に、天照大神鎭(リ)坐(ス)磯城(ノ)嚴橿之本(ニ)、(倭姫(ノ)世紀に、倭(ノ)國伊豆加志(カ)本(ノ)宮(ニ)八箇歳奉(ル)齋(キ)、) とあるも同じ、三輪山のあたりの嚴橿なるべきをも思へ、 ○大相土見乍湯氣、(土(ノ)字、舊本には七、古本には云と作り、拾穗本にはなし、今は古葉略要集に從(レ)り、見(ノ)字、舊本には兄、一本には□[凹/儿] と作り、今は又一本に從(レ)り、乍(ノ)字、舊本に爪と作るは、乍の誤寫なるべければ今改(メ)つ、湯(ノ)字、舊本には謁、一本には竭と作 [アリ]、今は古葉略要集によれり、) 大相土は、山の義 [コヽロ] にとりて書りとおもはるれば、大和土見乍湯氣は、ヤマミツヽユケと訓べし、(この一句は、既 [ハヤ]く平([ノ) 春海もしかよみつ、) ○吾瀬子之 [ワガセコガ](子(ノ)字、元暦本になきはわろし、)は、瀬 [セ] は借(リ)字、吾夫子之 [ワガセコガ] なり、此 [コ] は大海 [オホアマノ] 皇子(ノ)尊か、(天智天皇は此(ノ)時皇太子にて、從駕 [ミトモツカ] へ賜へる趣書紀に見ゆ、大海(ノ)皇子(ノ) 尊は京師に留(リ)坐しか、) 又は孰(レ)にても此(ノ)女王の親 [シタシ] みおもほし賜ふ人をさしてのたまへるなるべし、 ○射立爲兼は、イタヽシケムと訓べし、古事記上(ツ)卷に、二柱(ノ)神立天(ノ)浮橋(ニ)而云々、訓立(ヲ)云多々志 [タヽシト]、此(ノ)集五(ノ)卷に、奈都良須等美多々志世利斯 [ナツラストミタヽシセリシ]、などあり、イはそへ言にて、物をいひ出す頭におく辭なり、此(ノ) 上天皇遊獵の時の歌に委(ク)云り、タヽシはタチの伸りたる言にて、(タシの切チ、) あがめていふ言なり、即(チ)こゝは立賜ひけむといふ意になれり、 ○五可新何本は、イヅカシガモトと訓べし、嚴橿之本 [イヅカシガモト] なり、さて書紀(上に引り、)に、嚴橿の字を書るをおもへば、清淨なる橿といふ義 [コヽロ] なるべければ、伊豆 [イヅ] と濁るべし、さてこゝに五(ノ)字をしも書るは、いかにぞや思ふ人もあるべけれども、凡て借(リ)字には、清濁かたみにまじへ用ふる例 [アト] ありて、集中に、可豆思加 [カヅシカ] を勝牡鹿、また幡 [ハタ] すゝきを皮すゝき、又並の意の奈倍 [ナベ] てふ詞に、苗(ノ)字をあまたところに書(キ)、七卷に、庭多豆水 [ニハタヅミ] を庭立水と書(キ)、十一には、夕片設 [ユフカタマケ] を夕方枉と書り、又出雲(ノ)國(ノ)造(ノ)神賀(ノ)詞、同國風土記、延喜式(ノ)神名帳などに、大穴牟遲 [オホナムヂ] を大穴持と書る類、猶多かるべし、(神功皇后(ノ)紀細事に、一(ニ) 云云、且重曰(ク)、吾(カ)名(ハ)向□[櫃の旁] 男聞襲大歴五御魂速狹騰 [ムカヒツノヲキソオホノイヅノミタマハヤサノボリ] 尊也、とあるは嚴御魂 [イヅノミタマ] てふ事ときこえたり、されば嚴を五と書しことも、古(ク)よりの事なるべし、) されど又一(ツ)には古事記に、伊都如斯 [イツカシ] と書るを正しとせば異義 [コトコヽロ] なり、そのことは下にいたりていふべきついであれば、さらに云べし、 ○歌(ノ)意は、親(シ)みおもほし賜(フ)夫 [セノ] 君の、豫 [カネ] て三諸の嚴橿が本に立賜はむのよし有しなるべし、さて此(ノ)度の行幸に供奉 [ミトモツカヘ] 賜ふにつきて相別 [ワカレ] の悲しさに、夫(ノ)君を今一(ト)度/髣髴 [ホノカ]にも見まくおもほして、今や嚴橿が本に立し賜ひけむほどなるぞ、暫(ク)三諸の山見つゝ行(ケ)と、自 [ミヅカラ] の從者等 [トモビトドモ] に令 [オホ] せ賜へるなるべし、 ○此(ノ)歌の書樣、謎 [ナゾ] といふものゝ如くにして、甚く解 [サト] り易 [ヤス] からぬがゆゑに、諸説 [トキゴトヾモ] 多けれども、共に全 [モハラ] 從 [ウケ] がたかりしを、おのれやうやうに考出しつ、(此(ノ)歌舊説もあれど、訓るやうも解るやうも、すべてをさなければ、今わづらはしくいはず、近(キ)世にいたりて、水戸侯(ノ)釋に、莫囂圓隣之の圓(ノ)字は、圖とある本に從てマガヅリノと訓(ミ)、曲鉤 [マガヅリ] の義として、曲鉤は初月をたとへたる名なりとのたまひ、大相七兄爪謁氣の謁(ノ)字を靄の誤とし、靄氣の二字を雲と釋 [ミ] て、オホヒナセソクモと訓(ミ)、覆莫爲雲 [オホヒナセソクモ] の義とし、さて末(ノ)句をイタヽセリケムイヅカシガモト、と訓給へるは大抵よし、されどすべての趣、強たる説にして古意ならず、こは古學に未(ダ)熟 [クハシ] からざりし世のほどなれば、かく解 [トカ] れしもうべなりけり、岡武氏(ノ)考には、莫囂國隣之大相古兄氐湯氣として、キノクニノヤマコエテユケと訓り、莫囂 [サヤギ]國は無風塵と云る意にて大和(ノ)國なり、其(ノ隣は紀伊(ノ)國なり、と云るは謂あり、大相の字をヤマと訓しは、いかなる義にや甚意得がたし、この説を平(ノ)春海が助け直して、大相土見乍湯氣として、ヤマミツヽユケと訓しは、さもあるべきことなりかし、されど其(レ)までもあらじ、こは紀(ノ)國の行幸なるに、紀(ノ)國の山超て行(ケ)と云むこといかに、紀(ノ)國の山を超て何處 [イヅク] に行とすべけむや、無用説 [イタヅラゴト] といふべし、本居氏(ノ)説に、莫囂國隣之は、カマヤマノと訓べし、莫囂をカマと訓(ム)故は、古(ヘ)に人の物云を制して、あなかまと云ること多く見ゆ、それを今の俗言には、やかましと云り、然ればかまとばかりいひて、莫(レ)囂(キコト)といふ意なり、國隣は、山は隣(ノ)國の境にあるものなれば、かくも書べし、大相は霜(ノ)字の誤、七は木(ノ)字の誤、爪は氐(ノ)字の誤、謁は湯とある本に據て、シモキエテユケなり、此(ノ)幸は十月にて、十一月までも彼(ノ)國に留(リ)坐る趣なれば、霜の深くおくころなり、吾瀬子は天智天皇を指奉る、此(ノ)時皇太子にて供奉したまへる趣、書紀に見えたり、射立爲兼は、イタヽスガネと訓べし、五可新何本は、即(チ)龜竈(ノ)神社の嚴橿之本なり、此(ノ)女王も皇太子に從ひ奉りて行賜へるにて、竈山に詣賜はむとする日の朝など、霜のふかくおけるにつきて、よみ賜へるさまなりと云り、莫囂國隣をカマヤマと訓しは、さもあるべき理なれども、山の霜とはいふべくもなし、また兄(ノ)字をエの假字に用ひたることも、集中に例なし、また射立爲兼をイタヽスガネとよみたるも、理は通ゆるに似たれども、賀禰 [ガネ] てふ詞かゝるところにありては、下への連も聞惡くして、古(ヘ)人の風調 [クチツキ] ともおもはれず、そは一首(ノ)歌を誦 [トナ] へ擧てよく玩味 [アヂハヒミ] ば、おのづからしらるべし、ことに此(ノ)女王は作歌 [ヨミウタ] に秀群 [スグレ] て、さしも世に聲 [キコ] えたる人なるに、しか調(ヘ)のわるき歌よみ出賜はむや、さてまた嚴橿は上に云るごとく、三輪山のあたりにのみありて、さばかり名だゝるを、おして紀(ノ)國にありとせしもいかにぞや、強説といふべし、かゝれば此(レ)等の説を、人のあまなはざるもうべにぞありける、又或本に由中(ノ)道萬呂が説とて書入たるに、莫囂圓隣之を、舊訓にユフツキノとあるを用べし、其(ノ)謂は晝にくらぶれば、夜はしづかなる意にて莫囂と書るなり、圓は滿月の形、その隣は夕月の意なりといへり、こは強て考へたる説なるうへ、一首の意を、いかにとも解竟 [トキヲ] へざれば、さておくべし、又荒木田(ノ)久老が病床漫筆といふものに云、囂 [カマビスシキ] ことなきは耳无なり、圓は山の形にて、倭姫(ノ)世記に、圓奈留 [ツブラナル]有小山支 [キ]、其所/乎 [ヲ] 都不良止 [ツブラト] 號(ケ)支 [キ]と見えたり、しかれば莫囂圓は耳無山なり、耳無山に隣れるは香山なれば、莫囂圓隣之は、カグヤマノと訓べし、大相土は、續紀四(ノ)卷に、相土建帝王之邑(ヲ)とあるによるに、大に相 [ミル] 土(ヲ)は國見なるべし、兄は一本无に作れば、爪謁の二字は、靄の一字を誤れるものにて、無靄氣はさやけきなれば、第二句はクニミサヤケミと訓べきなり、第四句は本居氏が訓にしたがひて、イタヽスガネとよむべし、ガネはいたゝすであらむといふ意、第五句は古寫の一本に、五可期何本とあれば、イツカアハナモと訓べしと云り、此(ノ)考は甚 [イト] めづらしげにはきこゆれど、まづ圓は山の形と云ることいかゞ、すべて山は圓なるものに しもあらず、いはゆる圓(ラ)奈留 [ナル] 小山も、尋常 [ヨノツネ] の山どもの形 [サマ] とは異 [カハ] りて、圓なる由にて、其所を都不良 [ツブラ] とも號 [ナヅケ] しといふ意にこそあれ、なべての山の形の圓ならむには、しかことごとしく其所乎都不良止號支などいふべきことかは、又迦具山の國見といはむも、あまりに打まかせたるいひ樣 [ザマ] にて、古(ヘ)人の口氣 [コトバ] ともおもはれず、いでやそはいかにまれ、イタヽスガネといひて、いたゝすであらむといふ意とするも、古語の格 [サマ] にたがひ、また何本をナモとよまむことも、いかにぞや、かくては一首の意も通 [キコ] えかねたれば、とにかくに此(ノ)説も用ふるにたらず |
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「口訳万葉集」〔折口信夫、1916~17年成〕 三栖山 [ミスヤマ]の檀 [マユミ] 弦 [ツラ] はけ、わが夫子 [セコ] が射部 [イメ] 立たすもな。吾か偲 [シヌ] ばむ 紀伊の國の三栖山の檀でこさへた、弓に弦をかけて、あの御方は、今頃張り番をつけておいて、獣狩りをしてゐられることだ。其にわたしは、かうして焦れてゐねばならぬか。(この歌は、萬葉第一の難訓の歌とせられてゐるもので、これも亦、一説と見て貰ひたい。萬葉辭書の中 「三栖山」 参照。) |
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「新訓万葉集」〔岩波文庫、佐佐木信綱、1927年刊行〕 莫囂圓隣之ノ一二句イマダ定訓ヲ知ラズ圓或国(神田本)、湯(元暦校本)、「謁」い立たし或い立たたせり |
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「万葉集全釈」〔鴻巣盛広、昭和5~10年成〕 莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣 吾が背子が い立たしけむ 嚴橿が本 莫囂圓隣之 大相七兄爪謁氣 吾瀬子之 [ワガセコガ] 射立爲兼 [イタタシケム] 五可新何本 [イツカシガモト] これは萬葉集中の最も訓み難い歌である。三句以下は大體右の訓でよいやうに思はれるが、上の二句は全くよみ難い。試みに古來の訓のうち、比較的よいと思はれるものを列擧すると、 ユフツキノ アフギテトヒシ ワガセコガイタタセルカネイツカハアハナム(仙覺抄) ユフツキシ オホヒナセソクモ ワガセコガイタタセリケムイツカシガモト(代匠記) キノクニノ ヤマコエテユケ ワガセコガイタタセリケムイツカシガモト(考) カマヤマノ シモキエテユケ ワガセコガイタタスガネイツカシガモト(玉かつま) カクヤマノ クニミサヤケミ ワガセコガイタタスカネイツカアハナモ(信濃漫録) マツチヤマ ミツツアカニト ワガセコガイタタシマサバワハココニナモ(檜嬬手) ミモロノ ヤマミツツユケ ワガセコガイタタシケムイツカシガモト(古義) カグヤマノ クニミサヤケミワガセコガイタタセリケムイツカシガモト(國歌大觀) マツチヤマ ミツツコソユケワガセコガイタタシケムイツカシガモト(新考) これらはいづれも誤字を認め、又戯書として工夫した訓法が多い。その訓の理由を記すべきであるが、あまりに煩雜であるからここには省く。原書を參照せられたい。このうちに誤字は或はあるであらうが、この卷の用字法から考へると、戯書とするはどうかと思はれる。この訓法に就いては、なほ大いに研究を要する。かかる次第であるから、譯はこれを省くことにする。 |
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萬葉集總釋第一 樂浪書院 1935.5.30発行 (1)萬葉集總説 (3)萬葉集概説 武田祐吉 莫囂圓隣之 大相七兄爪謁氣 吾瀬子之 射立爲兼 五可新何本 【語釋】 この歌は集中第一の難歌と云はれ、昔から實に多樣の讀み方が出來たがいまだ首肯するに足る讀み方がない。今次にその中の二三をあげておく。 夕月の仰ぎて問ひしわが夫子 [せこ] がい立たせるがねいつか逢はなむ 夕月し覆ひなせそ雲わが夫子 [せこ] がい立たせりけむ嚴橿 [いつかし] がもと 紀の國の山越えて行けわが夫子 [せこ] がい立たせりけむ嚴橿 [いつかし] がもと 竈 [かま] 山の霜消えて行けわが夫子 [せこ] がい立すがね嚴橿がもと 香具山の國見さやけみわが夫子 [せこ] がい立たすがねいつか會はなも 眞土山見つゝ飽かにとわが夫子 [せこ] がい立たしまさば吾はこゝになも 三諸の山見つゝ行けわが夫子 [せこ] がい立たしけむ嚴橿がもと 右に依つても知られる通り、隨分違つた讀み方があつて、歸する所を知らない。要するにこの歌の上二句は、義理を以つて書いてあるのであらう。さういふ次第で、今日その眞生命を握むことの出來ないのは遺憾である。 |
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「万葉集評釈」〔窪田空穂、昭和18~27年成〕 莫囂円隣之 大相七兄爪湯気 吾 [わ] が背子 [せこ] が 射立為兼 [いたたせりけむ] 五可新 [いつかし] が本 [もと] 莫囂圓隣之 大相七見爪湯氣 吾瀬子之 射立爲兼 五可新何本 【語釈】○初二句は、古来訓み難くしている。多くの試訓があるが、定訓となっていない。◇三句は、問題でない。○四句は、粂川定一氏の訓である。○五句は、『代匠記』の訓である。 |
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「万葉集全註釈」〔武田祐吉、昭和23年~25年成〕 莫囂圓風隣之大相七兄爪湯氣 わが夫子 [せこ] が い立たせりけむ 五可新何本。 莫囂圓風隣之大相七兄爪湯氣 吾瀬子之 射立爲兼 五可新何本 【釋】莫號圓隣之大相七兄爪湯氣吾瀬子之射立爲兼五可新何本。 齋明天皇が紀伊の國の温泉に行幸あらせられた時、額田の王の詠んだ歌で、この歌は、集中第一の難歌といわれている。それで古來多數の讀み方が傳わつているが、まだいずれも定説とはいえない。今日の研究も、それ以上多きを加えることを得ないが、もし第二句の湯氣が、ユケと讀むべきものならば、氣はケの乙類の字であるから、これは動詞行クの已然形と見るべく、それよりも上方に、助詞コソを含んでいるのでは無いかという推量がなされる。しかしどの字をコソに當てるかというと、大相七兄爪あたりのうちに求めるほかはあるまいが、ここに至つてまた行きつまらざるを得ない。校異としては、神田本に圓を國に作り、細井本西本願寺本等の仙覺本系統に、湯を謁に作つている。この歌は、仙覺の新點の歌百五十二首の最初の歌であつて、仙覺は、ユフツキノ云々の訓を附したのであるが、元暦校本神田本等にある訓のうちには、仙覺以前の訓があるようであり、仙覺は、これを見なかつたので、自分の訓を最初の訓と思つたらしい。元暦校本には、吾瀬子之射立爲兼五可新何本の右に、赭でワカセコカイテタチシケムイツカシキカモとあり、神田本には、莫號國隣之の左に朱でナナクリノ、射立爲兼の左に朱でイテタチシケム、朔何本の左に朱でシテカモとある。今次に諸説を列擧する。 莫囂圓隣之大相七兄爪湯氣吾瀬子之射立爲兼五可新何本 [ワカセコカイテタチシケムイツカシキカモ](元赭) 莫囂國隣之 [ナナクリノ] 大相七兄爪湯氣吾瀬子之 射立爲兼 [イテタチシケム] 五可/朔何本 [シテカモ](神朱) 莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣吾瀬子之射立爲兼五可新何本 [ユフツキノアフギテトヒシワガセコガイタヽセルネイツカハナム](仙覺) 莫囂圓隣之大相七兄爪靄氣吾瀬子之射立爲兼五可新何本 [ユフツキシオホヒナセソクモワガセコガイタヽセリケムイツカシガモト](代精) 莫囂圖隣之大相七兄爪靄氣吾瀬子之射立爲兼五可新何本 [マガツリノオホヒナセソクモワガセコガイタヽシケムイツカシガモト](緯、契沖) 奠器國隣之大相七兄瓜湯氣吾瀬子之射立爲兼五可新何本 [ユフクレノヤマヤツイユキワガセコガイタヽセリケンイツカシガモト](僻) 奠器國隣之大相虎爪謁氣吾瀬子之射立爲兼五可新何本 [ユフキリノソラカキクレテワガセコガイタヽセリケンイツカシガモト](僻) 莫囂國隣之大相古兄氐湯氣吾瀬子之射立爲兼五可新何本 [キノクニノヤマコエテユケワガセコガイタヽセリケムイツカシガモト](考、春滿) 莫囂國隣之 [トツクニノ](考) 莫囂國隣之相大古兄氐湯氣 [イカノクニノアホコエテユケ](選要抄) 莫囂國隣之大相土見乍湯氣吾瀬子之射立爲兼五可新何本 [キノクニノヤマミツツユケワガセコガイタヽセリケムイツカシガモト](略、二句村田春海) 莫囂國隣之霜木兄氐湯氣吾瀬子之射立爲兼五可新何本 [キノクニノヤマミツツユケワガセコガイタヽスガネイツカシガモト](玉勝間) 莫囂圓隣之大相士兄爪謁氣吾瀬子者射立爲兼五可新何本 [ユフヅキノオホニテトヘバワガセコハイタヽセルガネイツカシガモト](冠辭續貂) 莫囂國隣之 [アケクレノ] ――――――――――(同、或説) 莫囂圓隣之大相土无靄氣吾瀬子之射立爲兼五可新何本 [カグヤマノクニミサヤケミワガセコガイタヽスガネイツカアハナモ](信濃漫録) ――――――――――大相土見乍湯氣 [ヤマミツヽユケ](織錦舍隨筆) 奠器圖隣弖美相嘉兒衣湯氣吾瀬子之射立爲兼五百可新何本 [ヌサトリテミサカコエユケワガセコガイタヽスガネユツカシガモト](織錦舍隨筆) 莫囂圓隣/支太相古曾湯氣 [キホヒコソユケ](書入本、粂川氏所引) 莫囂圓隣之大相土无靄氣 [ユフグレノヤマナクモリソ] 吾瀬子之射立爲兼五可新何本(同) 莫囂圓隣之大相古曾湯氣 [ナゴマリシホヒコソユケ](同) 莫囂國隣之大相土見乍竭意吾瀬子之射立爲座吾斯何本 [マツチヤマミツヽアカニトワガセコガイタヽシマサバワハコヽニナモ](檜) 奠器圓隣之大相土見乍湯氣吾瀬子之射立爲兼五可新何本 [ミモロノヤマミツヽユケワガセコガイタヽシケムイツカシガモト](古義) 莫囂國隣之大相土覽竭意吾瀬子之射立爲座五可期何本 [キノクニノクニミアカニトワガセコガイタヽシマサバイツカハナモ](橋本直香の私抄) 三栖 [ミス] 山の檀 [まゆみ] 弦 [つら] はけわが夫子 [セコ] が射部 [イメ] 立たすもな。吾か偲 [シノ]ばむ(口譯) 莫囂圓隣之大堆七兄爪□□謁氣吾瀬子之射立爲兼五可新何本 [マツチヤマミツヽコソユケワガセコガイタヽシケムイツカシガモト](新考) 草囂圓隣之大相七兄爪湯氣吾瀬子之射立爲兼五可新何本 [サカドリノオホフナアサユケワガセコガイタヽセリケムイツカシガモト](粂川定一氏、國語國文の祈究) 莫囂圓隣之大相七兄爪湯氣 [フケヒノウラニシヅメニタツ 吾瀬子之射立爲/兼五可新何本 [ケムイツカシガモト](宮嶋弘氏、萬葉雜記) 莫囂圓隣之大相七里謁氣吾瀬子之射立爲兼五可新何本 [シヅマリシカミナナリソネワガセコガイタタセリケムイツカシガモト](土橋利彦氏、文學) 莫囂圓隣之大相七兄爪湯氣吾瀬子之射立爲兼五可新何本 [ユフヅキノカゲフミテタツワガセコガイタタセリケムイツカシガモト](伊丹未雄氏、萬葉集難訓歌研究) 莫囂四隣之 ミヨシノノ] 大相七兄爪湯氣 [ヤマミツツユケ・ヤマミツメユケ] 吾瀬子之 [ワガセコガ] 射立爲兼 [イタタスガネ・イタタスガネヲ]五可新何本 [イツカアハナモ] (尾山篤二郎氏・國語と國文學) 莫囂圓隣之大相七見謁爪氣吾瀬子之射立爲兼五可新何本 [シヅマリシウラナミミサケワガセコガイタタセリケムイツカシガモト] (澤瀉久孝氏、萬葉) 莫囂圓隣之大相七見爪湯氣 [シヅマリシウラナミサワク(キ)](同) 莫囂圓隣之 [ユフヅキノ] 大相七兄爪湯氣 [カゲフミテタツ] 吾瀬子之 [ワガセコガ] 射立爲兼 [イタタセリケム] 五可新何本 [イツカシガモト](伊丹未雄氏、萬葉集難訓歌研究) 以上の外にもなお諸説があろう。またもとより訓によつて解釋が違い、同訓でも説が分かれている。例えば五句イツカシガモトと訓しても、代匠記は「何時か己が許」の義とし、僻案抄は「巖石が本」の義とし、考は「嚴橿が本」の義としている。しかし結局訓義共に未決というほかは無い。 |
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「評釈万葉集」〔佐佐木信綱、昭和23~29年成〕 莫囂圓隣之大相七兄爪湯氣吾瀬子之射立爲兼五可新可本 〔題〕 紀の温泉は所謂牟婁の湯で、今の西牟婁郡湯の崎温泉のことといふ。書紀によれば、齊明天皇四年冬十月行幸である。 〔訓〕 この歌は集中第一の難解歌で、未だ定説がない。特に三句までは、何か特別の表記法かと見られる。ここに三四の訓を掲げて、譯も評も共に省く。 夕月の仰ぎて問ひし吾背子がい立たせるがねいつか逢はなむ(元暦校本朱書入) 夕月し覆ひなせそわが夫子がい立たせりけむ嚴橿がもと(代匠記) 紀の國の山越えて行け吾が夫子がい立たせりけむ嚴橿がもと(考) 竈山の霜消えて行けわが夫子がい立たすがね嚴橿がもと(玉勝間) 三諸の山見つつ行け吾が夫子がいたたしけむ嚴橿がもと(古義) 眞土山見つつ飽かにとわが夫子がい立しまさば吾はここになも(檜嬬手) 四五句は「イタタシケムイツカシガモト」と思はれるが、これも上三句が決定しない限り、定訓とは言ひ難い。 |
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「万葉集私注」〔土屋文明、昭和24~31年成〕 莫囂圓隣之大相七兄爪湯氣吾瀬子之射立爲兼五可新何本 [マガリノ タブシミツツユケ ワガセコガ イタタシケム イツカシガモト] 勾のたぶし見つつ行け吾が背子がい立たしけむいつかしが本 マガリノ――此の一首は従来集中第一の難歌として、定訓のない歌であるから、なまじひに訓を試みるのは愚の至りであるが、大事を取つて手をつける人がなくなつたのでは、何時になつても進歩はないと思ふ。愚かなる試案も亦何かのことで正しい見解に寄与することがあるかも知れない。敢へて私見を記し留める所以である。マガリは莫囂隣、又は圓隣だけでも訓み得よう。前者は正音として、後者は圓の義を取つたものとして。そこで思ふに本来は莫囂隣で、その傍注として圓が別行にあつたのを、本文と注とを混同して一行に書き下ろしてしまつたのであらう。藤原宮役民作歌(五〇)中に元暦本等に盤磐とあり、又巻二但馬皇女御歌(一一六) に本によつて己母世とあるのは校異の傍注を本文に書き込んでしまつた例であらう。即ち磐は盤の校異、母は世の校異と思はれる。其等は莫囂の傍注圓と本文を重ねて書いたのと同じ事情と思はれる。勾は懿徳天皇の軽曲峡宮、安閑天皇勾金橋宮、巻二日並皇子薨去の時の人麻呂の歌に見える勾の池、広瀬の勾、勾川、當麻勾(之は姓氏であるが、元は地名であらう。) 等大和には幾つか所見のある地名である。樟勾宮、槻曲家などは所在明らかでないが、紀伊に玉垣勾頓宮がある。此等のマガリは皆地形による地名で、その為諸所に多いかつたものかも知れぬ。此の歌の場合は明日香を出でて紀伊に赴いたものの如くであるから、その途上の一地と見ることが出来る。 タブシ――七は多く土の誤字であらうと言はれて居るが、仮に士の誤として見る。そして戯訓でなく文字のままに訓み、「たぶせ」の轉音と解釈した。大をタ、相をフ、士をシと訓むのは普通の用字法のやうに思ふ。或は又誤字とせず七を直ちにシの音に用ゐたと見る方が自然かも知れぬ。田盧といふ字面は集中二例あるが、巻十六に自注でタブセと訓んで居る(三八一七)。タブシとなるのも音韻上無理はあるまい。田の中の小屋であることは分かる。 ミツツユケ――兄爪は見乍の誤字と見た。この誤字説は既に行はれて居る。類聚古集の消し下の字といふのが幾分この説を支持するかも知れない。 |
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「萬葉集本文篇」〔塙書房・佐竹昭広、昭和38年成〕 莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣 「謁」元暦校本、類聚古集「湯」ニ作ル上二訓定訓ナシ |
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「万葉集注釈』〔澤潟久孝、昭和32~37年成〕 莫囂圓隣之大相七兄爪湯氣 シヅマリシ ウラナミサワク (静まりし 浦浪さわく) 静まりし浦浪さわく――第一句の原文「莫囂圓隣之」は「莫囂」を「囂(かまびす)」しきことなしの意で、「静の義のシヅと訓みたし」とし、シヅマリシと土橋利彦(筆名鹽谷賛)氏(『海青篇』所収) の訓まれたるに従ふ。圓はマドのマをとり、--「常」(トコ) をトと訓む(二)やうに、――隣はリと訓む例(十三・三二四二)がある。第二句の「大相」は宮嶋弘君(『萬葉雑記』所収) が「相」は「卜」と通ずる語としてウラと訓まれたるに従ふ。大卜ウラと訓む例(十三・三三三三) がある。僧尼令に「卜相吉凶」の語があり、義解には「灼龜曰卜。視地曰相」とある。次の原文流布本には「七兄」とあり、代匠記にはナセと訓んだが、「兄」の字、類聚古集(十一)には「□(口の下に兀)」とあり、「□(口の下に兀)」は粂川氏もあげられてゐるやうに大宝二年御国春部里の戸籍にいくつも見えて「兄」の異体字であるから問題はないが、古葉略類聚鈔(五)には「□(口の下に元?)」とあつてややこしい字体であり、既に村田春海は一本「見」とありと断じてゐるのは、これを「見」と認めたものであるが、私もまた「見」が古葉略類聚鈔のややこしい文字となり、類聚古集では異体の「兄」となり、やがて諸本の「兄」に直されたと考へたいのである。さて「七見」とすればナミと訓み「浪」の意とする。浪のミは「見」と同じく甲類の仮名であつて仮名遣いにも牴触しない。「兄」を「見」と見るは墨縄も古義も採つてゐるところであるが、借訓とした点が私按である。あと「爪湯氣」の三字は流布本に「湯」を「謁」とあるによつて考へれば「謁爪氣」の顚倒として、「謁」は「見」に通ずるものとして「爪」は粂川氏の説によりサのの仮名とする。後にスの仮名に「□(爪に似ている)」があるのでややこしいが、大矢博士の仮名字体沿革一覧によれば治安四年の聖無動専念誦儀軌が初出で、それ迄は無く、爪をサの仮名に用ゐた例は集中に他には無いが、ウ音を略した略音仮名には「波利夫久路(ハリブクロ) 應婢都々気奈我良(オビツツケナガラ)」(十三・四一三〇)、「久草無良(クサムラ)」(十四・三五三〇)、「芳流波吉多礼登(ハルハキタレド) 烏梅能芳奈(ウメノハナ)」(十七・三九〇一)、「赤曾朋舟(アケノソホフネ) 曾朋舟尓(ソホフネニ)」(十三・三三〇〇) の「應(オウ)」「草(サウ)」「芳(ハウ)」「朋(ホウ)」は下のウ音を略してオ、サ、ハ、ホの仮名に用ゐたものであり、しかもそれらはいづれも一二ヶ所に見えるのみであるから、「爪(サウ)」をサの仮名に用ゐたと考へる事は可能である。そこで三字をミサケと訓で「見放け」の意とする。「気」は乙類仮名であつて、下二段活用の連用形として仮名遣も一致する。さうするとこの地へ曾遊の大海人皇子が、静まつた浦浪を見放けてお立ちになつたといふ意に解く事が出来るので、まづかういふ一案を考へたのであつたが、「謁」の字は「告也」と注せられて、それを本義とすべきもので、「見」と通ずるといふのは少し強引の感があり、且つ、元暦本には「湯」とあつて、そのさんずゐへんの上を後に朱筆で言に直してをり、類聚古集、紀州本にも「湯」とあり、はじめから「謁」となつてゐるのは西本願寺本以後、仙覚系統の流布本のみである事から考へると「湯」が原本の文字ではないかと思はれる。元暦本には時々さかしらの加筆があり、この作の第五句の原文「五可」の二字の間に朱で小さく「口」の字を書き入れ、「五」を「吾」に直さうとしたのも明らかにさかしらの加筆であり、又(二)の「煙立龍」の「龍」に「籠」と竹冠を加へたのも同様である事そのところで述べた。かうした例を思ひ合はわすと、「謁」の文字が仙覚交合以後の諸本にのみあり、元暦本に〔考〕の條で述べる仙覚の新点「ユフツキノアフキテトヒシ」と朱筆の訓が既に加へられてゐる所を見ると、その新点以後のさかしらと思はれ、元暦本の原本としては「湯」とあつたと思はれる。「湯」の文字は萬葉に屡用ゐられてゐる文字であるに反し、「謁」は歌の中には一度も用ゐられてゐない事とも考へ合はせ、古本に一致して「湯」とあるを萬葉原本の文字と認めるのが正しいやうに思はれる。なほ、「過」が「遏」に誤つた例(十・二〇二三) も参考になる(『古径』二)。さて「湯気」であつたとしたら、宮嶋君は「煮立つ」の戯書とされてゐるが、「沸く」の戯書と見た方が自然であり、さうすれば「爪湯気」の三文字ではサワクと訓まれ、「騒く」の意となる。「騒く」の語尾は今濁音となつてゐるが、集中ではすべて清音の仮名(五〇参照)が用ゐられてゐるので、当時は清音であつたと思はれ、その点も「沸く」との借訓が極めて適切である。「浦浪さわく」と訓むと第二句切れとなつて、作者が眼前に見る景となる。しかしまた「さわき」と訓む事も出来る。さう訓めば下に続く事になり、次に述べるやうに大海人皇子がお立ちになつた、その時の情景といふ事になる。しかし今私は前者即ちサワクと訓み、眼前の景と見るべきでないかと考へる。なほこれらの案については〔考〕の條を参照せられたい。 |
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「万葉集全注」〔有斐閣、昭和58年~平成18年成〕 莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣 (訓ナシ) 仙覚抄以来、三十数種にわたる訓み方がある。たとえば、仙覚抄では、この本文のままで「ユフツキノアフキテトヒシ」の訓を付し、注釈では、「莫囂圓隣之大相七兄爪湯氣 シヅマリシ ウラナミサワク」「莫囂圓隣之大相七見爪謁氣 シヅマリシ ウラナミミサケ」の試訓を与えている。しかし、定訓と呼ぶべきものはまだなく、私按もない。ただ「莫囂圓隣之」が初句、「大相七兄爪謁氣」が第二句であることはほぼまちがいなく、「莫囂圓隣」は地名か枕詞の一部、もしくは普通名詞、したがって「之」はノと理解したいところ。また第二句は、我が背子が「~を~する」意に解したく、その~するには、旅の歌の伝統として現れる「見る」の語を考えたいところ。たとえば、「海(山)ノ~波(月)見サケ(見ツツ)」というような形である。 |
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「新編日本古典文学全集」〔小学館、平成8年成〕 莫囂円隣之大相七兄爪謁氣 (訓ナシ) 底本の原文のまま。元暦校本に「莫囂円~爪湯氣」とあるなど、諸本によって多少の異同があるが、いずれによっても訓義未詳。今日まで三十数種以上の試訓が提出されているが現在のところ従うに足るものはない。 |
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「新日本古典文学大系』〔岩波文庫校訂版、平成25年~〕 莫囂円隣之大相七兄爪謁氣 (訓ナシ) |
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三 | 322 | 作者・作歌事情 | |
(319) | 324歌(旧321番歌)の左注「右一首高橋連蟲麻呂之歌中出焉 以類載此」の諸説ガイド。[考「作者・作歌事情」(有斐閣「萬葉集全注巻三-319)] (この巻三の筆者・西宮一民) 以下歌番号は、「旧歌番号」を表記 作者については記されていない。しかし、作者を比定する説が四種ある。 ① 類聚古集には題詞の下に「作者ヲ録(しる)サズ若シクハ同ジク赤人カ」とある。この赤人説に立つものに宮地春樹(古義紹介)説がある。 ② 紀州本・底本などの目録の題詞の下に「笠朝臣金村が歌の中に出づ」とある。拾穂抄が金村説である。 ③ 三二一番歌(旧歌番号)の左注に「右の一首は、高橋連虫麻呂が歌の中に出づ。類をもちてここに載す」とある。 この左注についてはその条で述べることとするが、澤瀉久孝「万葉集-詞章研究」(国語国文の研究昭和五年十月)、次田潤『万葉集新講』、佐佐木評釈などの虫麻呂説がある。 ④ 檜嬬手の柿本人麻呂説がある。 このうち、「①」は多分、前からの順でゆくと赤人になる、とするもので、確たる証拠があってのことではなかろう。また赤人の作風とは異なる。 「②」は目録が平安時代になるものであり、金村説はその時以後のものであろう。やはり作風が異なる。 また常識的には全く考えられないのは「④」である。 それらに対して、様々な角度から、虫麻呂作であろうとする「③」の説は支持できそうである。 詳しくは三二一番歌の〔考〕の「左注の意味」に譲る。 [「考」作歌事情・左注の意味」(有斐閣「萬葉集全注巻三-321)] (この巻三の筆者・西宮一民) [有斐閣の「萬葉集全注」は万葉集二十巻をそれぞれ一巻ごとに十五名の研究者が著している。] 作歌事情 長歌の一部を再び短歌にしたもので、長歌と反歌とが結合した姿において存在することが分かる。 左注の意味 「右の一首は、高橋連虫麻呂が歌の中に出づ。類をもちてここに載す」とある「右の一首」は、三二一番歌のみをさすとする説や、「三首」の誤りで、三一九~三二一番歌をさすとする説、さらに三一九番歌の〔考〕において紹介したように四種(①~④) の作者比定説があるという如く、かなり錯綜している。注釈では、この「右の一首」は三一九番の長歌をさしたもので、反歌の二首(三二〇、三二一) は当然その中に含まれると説いている。「一首」は「三首」の誤りとする説は独断であるが、結果的には三首をさすことになっている。既述の如く、三一九番の長歌と、三二〇、三二一番の反歌とは密接不可分の関係にあった。それで注釈の如き解釈が最も穏当と思われる。そうすると、この三首は虫麻呂の歌だと、巻三の編者が注していることになるから、これほど確かな資料はないわけである。たまたま、三一九番歌の題詞に作者名が無かったから、編者が不審を懐いて、このような左注をつけたのだと考えられる。この三首が虫麻呂の歌として過不足がないことは、注釈に、長歌の冒頭に枕詞を使った地名を重ねること(9・一七三八、一七五三などの虫麻呂の歌に見える)、指示代名詞「その」の反復が見られること、「こちごち」は人麻呂以外は虫麻呂のみ使用していることなどの特徴をもって説明し、万葉集新講にも、長歌に「詠何歌」と記すこと、内容面から、地理的説明のあること、叙事詩的色調を帯びていること、動的描写の多いこと、擬人法を用いていること、また表現技巧面から、対句の形式及び用法上の特色、観念語(例えば、国・飛ぶ・火・雪・山・海・神など)の反復が多いこと、句切れが多いことが虫麻呂の特色であることを指摘している。かくして、これらの三首は高橋連虫麻呂の歌と考えて差支えはなかろう。 |
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三 | 322 | 奈麻余美乃 | |
(319) | [注「奈麻余美乃」(有斐閣「萬葉集全注巻三-319)] (この巻三の筆者・西宮一民) 甲斐(山梨県) にかかる枕詞。かかり方未詳とされている。「生弓(なまゆみ)の返る」(賀茂真淵『冠辭考』)、「生善肉之貝(ナマヨミノカヒ)」(古義)、「熟せざる好味の意で、貝と同音の国を説明しているのであろうか。」(全註釈) 等の諸説がある。枕詞自体の説明はもとより、そのかかり方の説明においても全然何のことか分からない。原文「奈麻余美乃」とある。そこで、改めて考えてみよう。「黄泉(よみ)」は、『岩波古語辞典』では、「ヨモツのヨモの転。ヤミ(闇)の母音交替形か」とする。しかし、「宍串(シシクシ)ろ 黄泉に待たむと」(9・一八〇九) によると、「宍串ろ良み」で「黄泉」にかかっているのだから、ヨ(乙類) ミ(甲類) と考えなければならず、ヤミ(乙類)の語源説は斥けられるのである。ヨ(乙類)モ(甲類)ツクニのモは母音調和によって乙類となったと考えるべきである。このように「黄泉」の仮名遣いが、ヨ(乙類)ミ(甲類)だとすると、まさに今もナマヨ(乙類)ミ(甲類)で一致する。ナマは「奈麻強(ナマしひ)に」(4・六一三)、「那摩那摩迩(ナマナマニ)」(仲哀記) の例の如く、未熟、不完全なの意の接頭語。ナマヨミは半ば黄泉の国、の意であろうと思う。それがなぜ「甲斐の国」にかかるのか。「甲斐」の国名は、「峡(かひ)」に由来する(『大日本地名辞書』) という。しかし、「峡」はカヒ(甲類)だから、「甲斐」のカヒ(乙類)とは仮名遣いになる。誰もがその仮名遣いを知りながら、その語源説を捨てかねている。同じことは次にも言える。それは記・上の神名の「奥津(オキツ 辺津ヘツ)甲斐弁羅神(カヒベラノカミ)」の「甲斐(カヒ)」を「峡(かひ)」(もしくは「間(かひ)」「貝(かひ)」) と解しているが、その仮名遣いには気づいていても、それならカヒ(乙類)の意味は何かについては説明する人はなかった。そこで私は次のように考えた。「交(か)ふ」という動詞は四段と下二段の二種しか知られていないが、この「甲斐」が「交ふ」の上二段の連用名詞形(だからヒは乙類) であることを表しているのではないかと。意味は「交叉した状態にある」という自動詞で、その名詞形として「海と陸地、ないし陸地と陸地とが交叉している所、すなわち海岸線ないし現世と黄泉国との境界地」といった地形をさして言ったものと考えるのである。こういう地形は自然に形成されるものであるから、自動詞が登場するのである。この種の動詞に「裂(さ)く」がある。これにも四段と下二段の二種があることはよく知られている。しかしなお上二段の例があって、「さき(乙類)で」(「裂(さき)手(で)」で、あかぎれのいった手) の「裂(さ)く」という、自然に裂けてくるという自動詞である。このように、四段・下二段の他に上二段もあるという動詞の例があるように、「交(か)ふ」にも上二段活用があったことは認めてよい。そうすると、「甲斐国」に「なまよ(乙類)み(甲類)の」(半ば黄泉国の) という枕詞がかかっているというのであるから、まさに「甲斐国」の地勢がそういうことであったと認められていたからなのではないか。すなわち、現(うつ)し国と黄泉国(よもつくに)との境界にある国という認識があったので、「生黄泉(なまよみ)の甲斐(かひ)」と命名されたものであろう。(拙著、古典集成『古事記』)。このような地勢と認識に基づく国名の命名法は他に「熊野(くまの)」(死者の隠野(くまの))があり、神武天皇仮死説話を残すように、山隠(やまごも)る地勢を死者への国と認識したことによる命名だと考える。 |
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三 | 388 | 可奈和 | |
(385) | 「万葉集註釈」〔仙覚、文永六年(1269)成〕 (吉志美我嵩、一説云太和國也。) 霰零吉志美我高嶺乎險跡草取可奈和妹乎手取《アラレフルキシミカタケヲサカシミトクサトルカナワイモカテヲトル》 此歌、肥前國風土記ニ見タリ。 杵島《キシマ》郡、縣(ノ)南二里有2一孤山1、從v坤指v艮(ニ)、三(ノ)峰《ミネ》相(ヒ)連(ラナル)。是(ヲ)名(テ)曰(ク)杵島《キシマ》。坤(ハ)者、曰2比古《ヒコ》神(ト)1、中(ハ)者曰2比賣《ヒメ》神(ト)1、艮(ハ)者、曰2御子《ミコ》神(ト)1。【一名(ハ)軍神動則兵興矣。】閭士女《サトノヲトコヲナコ》、提v酒抱v琴、毎歳春秋、携v手(ニ)登望、樂/飯《(マヽ)》奇/無《(マヽ)》、曲盡而歸。 歌詞云、婀邏礼符縷《アラレフル》、耆資熊多塏塢《キシマカタケヲ》、嵯峨紫弥占《サカシミト》、區縒刀理我泥底《クサトリカテヽ》、伊母我提塢刀縷《イモカテヲトル》。 【是杵島曲】然集歌ハ、キシミカタケヲトカケリ。シマト、シミト云ヘル、同内相通ノ故歟。歌ノ心ハ、キシマカタケヲサカシミト、クサヲトルカ、イモカテヲソトルト云ヘル心ナリ。 |
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「万葉集管見」〔下河辺長流、寛文年間(1661~1673)成〕 あられふるきしみか嶽 ―― あられふるきしみとつゝけたるは、あられふる音のかしましといふ心なり。きとかと五音通なり。みとまと又通す。 さてきしみかたけは、肥前國杵島の山なり。彼國風土記に、毎歳の春秋、かの所の士女、酒をもち琴をかゝへ、手を携て此たけに上りて、樂飲し歌舞し曲つきてかへる時の歌に云、 あられふるきしまかだけをさかしみと、草とりかてゝいもか手をとると云々。 |
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「万葉拾穂抄」〔北村季吟、貞享・元禄年間(1684~1704)成〕 あられふるきしみかたけをさかしみと草とるかなやいもか手をとる 霰零 吉志美我高嶺乎險跡草取可奈和妹手乎取 あられふるきしみかたけ 仙曰此哥肥前國風土記見えたり 杵島《キシマ》郡ノ縣ノ南ニ有2一《ヒトツノ》孤山1從v坤《タツミ》指v艮《ウシトラニ》三ノ峰相連ル号《ナツケテ》曰フ2杵《キ》島ト1坤《タツミハ》者曰ヒ2比古《ヒコ》神ト1中者曰2比賣《ヒメ》神ト1艮《ウシトラハ》者曰2御子《ミコ》神ト1一名耳子神閭《サトノ》士女提《サケ》v酒ヲ抱キv琴ヲ毎歳春秋/携《タツサヘテ》v手ヲ登望《ノホリノソミテ》樂飲歌舞《ラクインカブス》曲盡テ而即歌テ曰アラレフルキシマガタケヲサカシミト草トリカテヽ妹カ手ヲトル是杵島ノ曲也しかるに此集の哥にはきしみかたけをとかけりしましみ同内相通故歟哥の心はきしまか嶽をさかしと草とるが妹が手をそとるといへる心也愚案或本云右一首或云吉野人味稲カ與ル2柘枝《ツミノキノ》仙|/《ヒメニ》1歌也但見ニ2柘枝カ傳ヲ1無v有2此歌1 |
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「万葉代匠記」〔契沖(1640~1701)、貞亨四年(1687)成〕 霰零吉志美我高嶺乎險跡草取可奈和妹手乎取 《アラレフルキシミカタケヲサカシミトクサトルカナヤイモカテヲトル》 仙覺抄云、此歌肥前國風土記に見えたり、杵島郡縣有二里有(リ)2一孤山1、從v坤指(テ)v艮(ヲ)三峰相連、是名(ヲ)曰2杵嶋1、坤者曰2比古神1、中者曰2比賣神1、艮者曰2御子神1、【一名耳子神、靱則兵與矢、】閭士女提v酒抱v琴毎v歳春秋携(テ)v手登望、樂飲歌舞曲盡而歸、歌詞曰、 阿羅禮符縷耆資麼加多塏塢嵯峨紫彌苫《アラレフルキシマカタケヲサカシミト》、 區縒刀理我泥底伊謀哉提塢刀縷《クサトリカネテイモカテヲトル》、【是杵島/曲《フリナリ》、】然るに此集の歌にはきしみがたけをとかけり、しまといひしみといへる同内相通の故歟、歌の心はきしまがたけをさかしみと草をとるか、妹が手をぞ取といへる意なり、 今按此仙覺注に肥前風土記を引れたるはよくて其他は分明ならず、霰零吉志美とそへたるは第二十に、阿良例布理可志麻とつゞけたる如し、加と吉と通し、麻と美と通して、霰の音のかしましとよせたり、今の歌にては吉野に吉志美我高嶺有と見えたり、草取カナヤは險しき處にては木の根に縋葛を攀る習なり、文選班孟堅幽通賦云、夢(ニ)登v山而迥眺兮、覿2幽人之髣髴(ニ)1、攬《トツテ》2葛藠1而授v余兮、眷《カヘリミテ2峻谷1曰勿v墜(ルコト)孫綽天台山賦云、攬《トリ》2樛《キウ》木之長蘿1、援《ヒク》2葛藠之飛莖1、和の字は十一にも十三にもやとよめり、わとやと同韻相通なり、妹ガ手ヲ取とは注にある味稻が仙女の手を取をいへり、古事記に隼別皇子雌鳥皇女と倉梯山を越たまふとての御歌に、堦立の倉梯山を險しみと、妹は來かねて我が手とらすも、此と似たり、草取かなやは草にはあらず、妹が手を取といはむ爲なり、古事記に仁徳天皇八田若郎女に賜ふ御歌に、矢田の一本管は、子持たす立か荒なむ、借ら菅原、言をことすげ原と云はめ、惜らすがし女とよませ給ふ如く、言をこそ草取といはめ、妹が手を取なり、仙覺の引る肥前風土記の歌の中の耆資熊の熊は愍にや、熊をまと用べぎやうなし、麻と美と通していへるか、和名云、杵島郡杵島、【木之萬、】同郡に島見【志萬美、】と云所あるは杵島を見る處とて名付たるか、景行紀に筑後の御木郡の九百七十丈の歴木《クヌキ》、朝日の輝に當て杵島山を隱しきとあるは此島なり、 |
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「万葉集童蒙抄」〔荷田春満、享保年間(1716~35)成〕 霰零吉志美我高嶺乎險跡草取可奈和妹手乎取 あられふる、きしみがたけを、さがしみと、くさとるかなわ、妹がてをとる 霞零 此あられふると讀みたるは、きしみがたけの山路のあらくけはしきことを兼ねて、あられとよみ出でたると見えたり 吉志美 通例の本には、美の字を脱せり。一本にはこれあり。殊更此歌肥前風土記にも見えたり。其歌にも耆資態加多?塢とあれば、決してしの字を脱せりと見えたり。よりて今之を加へて記せり。倭名鈔卷第九國郡部云、肥前國杵島郡木之萬郷の名にもあり 高嶺乎 肥前風土記に、假名書にて右に記せる如く、多?塢とあれば、高嶺の二字たけと讀むなり。倭名鈔卷第一地部云、嶽蒋魴□[土+力]、韵日、嶽、高山名也、五角反、又作v岳、訓與v丘同、未詳、漢語抄云美太介 草取可奈和 一本には草取所奈と計あり。風土記には區縒刀理我泥底、如v此あり。いづれを正義とも難v考。先づ此本の儘にて釋せば可奈は兼也。和は吾也。然ればきしみがたけを登るに險難の地故、草をとらへ妹が手をもかねてとるとの義と聞ゆる也。さかしき山路故、いもをたすけて草をとりかねて、われは妹が手をとらゆるとの歌也。一本の草取所奈妹手乎とあるに從へば、草はとりそな、いもが手をとれと下知したる意と見ゆる也。此本の意は風土記の意は同じく、かねていもが手を取とよめる意に聞ゆる也。いづれにまれ、歌の意はきしみのたけはさかしき故、妹に怪我過ちなからん樣に、又草をもとらへ、又かねて妹が手をもとるとの義と聞ゆる也 此歌は左注、味稻與柘枝仙媛歌とあり。兩人とも吉野に住めるものなるに、はるばると肥前國のきしまがたけを詠める意、いかなる所以とも知れ難し。風土記に此歌を載せたるは、木島嶺を詠める上古の歌故、閭士女、春秋の樂飲の歌舞の曲となせる事実を記したるもの也。男女携v手登山する時のことにかなへる歌故、此歌を歌舞の曲とはなせると見えたり。至つて古き歌と知るべし 肥前國風土記云、杵島郡縣南二里有2一孤山1、〔從v坤指v艮三峯相連、是名曰2杵島1、坤者曰2比古神1、中者曰2比賣神1、艮者曰2御子神1【一名耳子神、靱則兵與矢、】閭士女提v酒抱v琴毎v歳春秋携v手登望、樂飲歌舞、曲盡而歸。 歌詞云、あられふる、きしまがたけを、さかしみと、くさとりかねて、いもがてをとる【これきじまふり】〕 |
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「万葉考」〔賀茂真淵、宝暦十年(1760)成〕 霰零《アラレフル》、 冠辭 吉志美我高嶺乎《キシミガタケヲ》、 たかねの加禰の約計なれば多計といふ後世たけのたを濁るはわろし初言を濁る事此國にはなし 險跡《サカシミト》、草取可奈《クサトルカナ》、 上の金村の語繼金とよめる所の考に引たる歌にも紀の顯宗室賀の詞にも皆加禰とあり中にもかの御詞(ニ)烏野羅甫屡何禰也《ヲヤラフルカネヤ》と有事今と同言なればここの奈は禰を誤る歟又音を通して奈といふにもあるべしさて彼金村の歌にいへるごとくこは二度延たる言にてまつ草刀肩と令する言なるを其禮を延れば刀良禰となる(良禰約は即禮なり)又其良を延れば草とる加禰と成ぬ(留加約即良なり)然れば此歌の意はさばかり嶮き山に登るには草をとらね草にはあらで妹が手をとるよと他よりねたむさまなり 和妹手乎取《ワギモガテヲトル》、」 こはいさゝかも柘枝の仙にあづかれる事なしいかなる人かこゝにはかきけん或人いふ肥前風土記に里人ども春秋の比其國の杵島の嶺に登て宴する時此歌をうたへるをこゝに誤て入つらんとげにさもあるべしかくておもふに記に隼別(ノ)王女鳥女王をゐて倉橋山を登り給ふ時の歌に「はしだてのくらはし山をさかしみと妹は來かねて我手とらすも」と有を所をかへ言をもかへて彼杵島嶺の遊にうたひけんを誤て柘枝仙にあたふる歌とせしか又始に云如くならんか【或人云肥前風土記には草取可弖々妹(カ)手乎取と有奥人案に拾穗抄には何によれるにや草取/可奈和《カナワ》妹(カ)手乎取と有狛大人云卷三長歌に卒和《イサヤ》出弖見武又卷十一に秋柏潤/和《ヤ》川邊之云云和の字を也の假字に用ゐたりされば草取可禰弖|和《ヤ》妹手乎取なりといへりしかれば大人は此注むづかしく歌もかく唱ばやすらかなり奥人案に肥前國風土記曰杵島郡(ノ)縣(ノ)南二里(ニ)有2一《ヒトツノ》孤山1從v坤指v艮三(ノ)峯相連/號名《ナツケテ》曰2杵島1坤者曰2比古《ヒコ》神1中者|毘賣《ヒメ》神艮者曰2御子《ミコ》神1(一名耳子神)閭(ノ)士女堤v酒抱v琴毎歳春秋携v手登望樂飲歌舞曲盡而即歌曰「あられふるきじまがたけをさがしみと草とりかてて妹が手をとる」是杵島(ノ)曲也】 |
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「万葉集略解」〔橘千蔭、寛政十二年(1800)成〕 霰零。吉志美我高嶺乎。險跡。草取可奈和。妹手乎取。 あられふり。きしみがたけを。さかしみと。くさとりかなわ。いもがてをとる。 アラレフリ-枕詞。左註に言へる如く、げに歡の意も次二首と異にて、柘枝を詠める事とも無し。是れは前に端詞有りて此歌は載せけんを、端詞の失せたるにやあらん。 キシミノタケ-吉野に聞えず。肥前風土記に杵島《キシマ》の郡杵島有り。其れによりて肥前に有りと思はる。さて風土記に、四の句を區縒刀理我泥氐《クサトリカネテ》として、杵島の嶺に里人の遊ぶ時歌ふ歌と言へり。宣長説に、此歌は古事記速總別王の御歌に、波斯多氐能《ハシタテノ》くらはし山をさかしみと岩かきかねて我手とらすも、と云ふ歌の轉じたるものなり。然れば草トリカナワとは、彼歌の岩カキカネテと同じ意なるが、詞の轉じたるなり。可奈は不v得《カネ》の意、和は下に付けたる辭にて、神武紀に怡奘過怡奘過《イサワイサワ》(過音倭)と有るも、いさいさとさそふ意なるに同じ。右の古事記の岩カキカネテは岩へ掻付きて登らんとすれども登りかねて我手へ取付きて登ると言ふ意なりと有り。又按ずるに卷十三、長歌に十羽《トバ》能松原みどり子と、率和出將見《イサワデテミン》云云、卷十一、秋柏潤和《アキカシワウルワ》川邊、又朝柏/潤八《ウルヤ》河邊と有るを思ふに、和と也と通ひ用ひしと見ゆれば、此歌の可奈和はカネヤと言ふに同じく、嶮しき山を登る時、かづら草などに手を懸けすがるにかねて、妹が手を取ると言ふなるべし。さて柘枝と言へるは、古へ吉野の男女仙と成りて在りしが、同じ所に味稻《ウマシネ》と言ふ男の川に梁打ちて魚とるに、其仙女柘枝と化《な》りて流れ來て其梁にとどまりぬ。男それを取りて置くに、美はしき女となりしを愛でて、相住みけると言ふ事なり。此事懷風藻の詩に作れり。仁明紀の長歌にも出でたり。事長ければ略きつ。さて柘枝と化りし故に、其れを則ち仙女の名に呼べるなり。 |
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「万葉集攷証」〔岸田由豆流、文政十一年(1828)成〕 草取可《クサトリカ》奈和《・ナワ》。 まへに引る肥前風土記に、この歌を載たるにも、この句を區縒刀理我泥底《クサトリカネテ》として、古事記下卷、速總別王《ハヤフサワケノミコ》御歌に、波斯多弖能久良波斯夜麻袁佐賀志美登《ハシタテノクラハシヤマヲサガシミト》、伊波迦伎加泥天《イハカキカネテ》、和賀天登良須母《ワガテトラスモ》とあるも、この歌と全く同じ調《シラベ》の歌なるが、加泥天《カネテ》とあるは、こゝも必らず草取《タサトリ》可ねてとありつらん事、疑ひなけれど、その文字しりがたければ、改むる事あたはず。又、宣長の説に、今本、和をやと訓は、ひがごと也。わと訓べし。誤字とするもわろし。可奈和《カナワ》といふ言、心得がたきが如くなれど、もと、この歌は、古事記の速總別王《ハヤフサワケノミコ》の御歌の轉じたるもの也。然れば、草取かなわとは、かの歌の、岩かきかねてとは、山路の嶮《サカシ》きに、巖へ掻付てのぼらんとすれども、登りかねて、わが手へとり付てのぼるといふ意也。されば、こゝも、草にとり付ても、とりかねて、妹が手にとりつくといふ意也。但し妹が手をとるといふは、意をかへて戀の心にもあるべし。されど、四の句の意は、古事記の歌と同じくて、可奈は不得《カネ》の意なり。哉《カナ》にはあらず。さて、和《ワ》は下に付たる詞にて、日本紀に、いざわいざわとあるも、いざいざと、さそふ意なるに同じ。此集十三卷【三十四丁】にも、率和《イザワ》とある也。右の古事記の四の句を、妹は來かねての誤りなりと師はいはれたれど、そはひが言也。さて、この歌を、柘枝の歌とするは、柘枝がよめるとにはあらで、柘枝にあたへたる歌といふ事か。しからざれば、妹が手をとるといふ事かなはず。とにかくに、この一首は、柘枝の事にはあらじを、傳への誤れるなるべし云々と見えたれど、猶こゝろゆかず。一首の意は明らけし。 |
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「万葉集古義」〔鹿持雅澄、天保十三年(1842)成〕 霰零《アラレフリ》。吉志美我高嶺乎《キシミガタケヲ》。險跡《サガシミト》。草取可奈和《クサトリカネテ》。妹手乎取《イモガテヲトル》。 〇霰零《アラレフリ》は、枕詞なり、契冲云、霰零吉志美《アラレフリキシミ》、とつゞくることは、霰零音の、かしましきといふこゝろなり、かときと通じ、まとみと通ずるなり、第七第廿に、あられふりかしま、とつゞけたるは、やがてかしまし、といふ心につゞけたり、 ○吉志美我高嶺《キシミガタケ》(志(ノ)字、活字本に无は、落たるなり、)は、和名抄に、肥前(ノ)國杵島(ノ)郡杵島、木之萬《キシマ》、景行天皇(ノ)紀に、秋七月辛卯朔甲午、到2筑紫(ノ)後(ノ)國御木(ニ)1、居2於高田(ノ)行宮(ニ)1時(ニ)、有2僵樹《タフレキ》1、長九百七十丈焉、云々、有2老夫1曰、是樹者/歴木也《クヌキナリ》、嘗(テ)未(リシ)v僵薩之先、當(テハ)2朝日(ノ)暉(ニ)1、則隱(シ)2杵島(ノ)山(ヲ)1、當(テ)2夕日(ノ)暉(ニ)1、覆(シキ)2阿蘇山(ヲ)1也、天皇曰、是(ノ)樹者/神木《アヤシキキナリ》、故(レ)是(ノ)國(ヲ)、宜v號2御木《ミケノ》國(ト)1、と見えたり、 ○險跡《サガシミト》は、險さにの意にて、跡は助辭なり、 ○草取可奈和《クサトリカネテ》は、草取は、險阻《サガシキ》地を行に、落まじき料に、草を取(ル)ことなり、可奈和は、荒木田氏、可禰手を寫誤れるなり、と云り、 ○歌(ノ)意は、杵島(ノ)嶺の、甚く險阻が故に、取草《トリクサ》に草を取て、登らむと思へど、草を取事をも得爲ずして、妹が手を取(ル)と云るなり、此(ノ)歌は、古事記に、速總別王、女鳥王と、倉椅山を越賜ふ時の御歌に、波斯多弖能久良は斯夜麻袁佐賀斯美登《ハシタテノクラハシヤマヲサガシミト》、伊波迦伎加泥弖和賀弖登良須母《イハカキカネテワガテトラスモ》、とあるを取て、所々詞を換て、杵島曲《キシマブリ》に用ひたるなり、杵島曲とは、肥前(ノ)國風土記に、杵島(ノ)郡(ニ)、有2一孤山1、名曰2杵島(ト)1、郷閭の女士、毎v歳春秋、登望樂飲歌舞(ス)、歌詞曰、阿羅禮符縷耆資麼加多※[立心偏+豈]塢嵯峨紫彌占《アラレフルキシマガタケヲサガシミト》、區縒刀理我泥底伊謀我堤塢刀縷《クサトリカネテイモガテヲトル》、是杵島曲とあり、今は全(ラ)此歌なり、 |
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「万葉集全釈」〔鴻巣盛広、昭和5~10年成〕 霰零《アラレフリ》 吉志美我高嶺乎《キシミガタケヲ》 險跡《サガシミト》 草取可奈和《クサトリカナワ》 妹手乎取《イモガテヲトル》 (霰零)杵島ノ嶽ガ險阻ナノデ、登ルノニ草ニツカマラウト思ツテモ、草ニモ取リツカレナイデ、妻ノ手ヲ捕ヘテ相輔ケテヤツト登ツタ。 ○霰零《アラレフリ》――枕詞。霞の降る音は、かしましいから、かしまとつづくのを、轉じて吉志美《キシミ》に連ねたのである。卷七に霞零鹿島之崎乎《アラレフリカシマノサキヲ》(一一七四)、卷二十に阿良例布理可志麻能可美乎《アラレフリカシマノカミヲ》(四三七〇)とある。 ○吉志美我高嶺乎《キシミガタケヲ》――吉志美は和名抄に肥前國杵島郡杵島、木之萬とある杵島の轉訛である。杵島は景行紀にも見えて、古來名高い山である。 ○險跡《サガシミト》――さがしさにの意。 ○草取可奈和《クサトリカナワ》――草取りかねての意であらう。可奈和は可禰手《カネテ》の誤だらうと、久老は言つてゐる。肥前風土記の歌には區縒刀理我泥底《クサトリカネテ》とある。 〔評〕 この歌は肥前風土記に「杵島郡、縣南二里有2一孤山1從v坤指v艮三峯相連、是名曰2杵島1坤者曰2比古神1、中者曰2比賣神1、艮者曰2御子神(一名軍神、動則兵興矣)郷閭(ノ)士女提v酒抱v琴、毎v歳春秋携v手登望、樂飲歌舞、曲盡而歸、歌詞曰、阿羅禮布縷《アラレフル》、耆資麼加多※[土+豈]塢嵯峨紫彌苫《キシマガタケヲサガシミト》、區縒刀理我泥底《クサトリカネテ》、伊母我堤塢刀縷《イモガテヲトル》、是杵島曲也」とあるものと全く同歌で、異なつてゐる部分は、ただ發音の訛つたに過ぎない。常陸風土記によると、崇神の朝に建借間命《タケカシマノミコト》が、この杵島曲《キシマブリ》を七日七夜遊樂歌儛したと見えてゐて、太古から廣く知られてゐた歌舞の曲である。古事記に速總別王が女鳥王と倉椅山を越え給ふ時の歌に、波斯多弖能久良波斯夜麻袁佐賀斯美登伊波迦伎加泥弖和賀弖登良須母《ハシタデノクラハシヤマヲサガシミトイハカキカネテワガテトラスモ》とあるのも、この杵島曲を歌ひ更へたものである。宣長はこの萬葉の歌を、古事記の歌の轉じたものと言つてゐるが、さうではなくて、古事記の歌もこの歌も、共に杵島曲から出たもので、却つてこの方が原形その儘といつてもよい程に酷似してゐる。否、寧ろ風土記の歌よりも古い感じもするのである。 兎も角この歌は、吉野にゐた仙女柘枝には關係はなく、民間に歌はれてゐた民謠であるが、左註のやうな傳説が行はれてゐたので、ここに記載したのであらう。 |
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「万葉集全註釈」〔武田祐吉、昭和23年~25年成〕 霰/零《ふ》り 吉志美《きしみ》が嶽《たけ》を 嶮《さか》しみと、 草取り放《はな》ち、 妹が手を取る。 霰零《アラレフリ》 吉志美我高嶺乎《キシミガタケヲ》 險跡《サカシミト》 草取〓奈知《クサトリハナチ》 妹手乎取《イモガテヲトル》 【譯】 霰が降つてきしむ、その吉志美が嶽が嶮岨なので、つかんだ草を放して、妻の手を取ることだ。 【釋】 霰零 アラレフリ。枕詞。霰が降つてきしむというので、吉志美に懸かるとされている。なお霰が降つてかしましいというので、鹿島にも冠せられている。 吉志美我高嶺乎 キシミガタケヲ。吉志美が嶽は、吉野山中の一嶺と考えられるが、今のいずれであるかあきらかでない。タケは、高くあるものの義から、高嶺を讀んでいる。 險跡 サカシミト。嶽ヲ險シミの形で、高嶺が嶮しくしての意になる。 草取叵奈知 クサトリハナチ。 クサトリハナチ(定本) ―――――――――― 草取可奈和《クサトルカナワ》(細一種) 草取可奈和《クサトルカナヤ》(矢) 草取可奈和《クサトリカナヤ》(玉) 草取可禰手《クサトリカネテ》(槻) 神田本には、草取可奈知に作つている。集中の例を按ずるに、ハと讀むべき處に、可を用いた例として、「之可夫可比《シハブカヒ》」(卷五、八九二)の如きがある。この上の可は叵の誤りかと推測されるので、今叵に作つて、この句をクサトリハナチと讀む。トリは接頭語で、下の動詞の意を強調する。手にした草を放しての意。叵を字音假字として使用した例には「不v思人〓《オモハズヒトハ》 雖v有《アラメドモ》」(卷十三、三二五六)がある。この字は、不可の意の字で、音ハである。 妹手乎取 イモガテヲトル。イモは、ここでは、同行した女子をいう。愛人というほどの意である。 【評語】 この歌は、民謠として流布していたらしく、類歌が傳えられている。妹と呼ばれる人と共に山に登るという特殊な内容は、山中において催される歌垣などの場處での發生であることを語つている。 【參考】 一 別傳。 此の歌、肥前國風土記に見えたり。杵島《きしま》郡、縣の南二里に一の孤山あり。坤《ひつじさる》より艮《うしとら》を指して三峰あひ連る。是の名を杵島と曰ふ。坤なるは比古《ひこ》神と曰ひ、中なるは比賣《ひめ》神と曰ひ、艮なるは御子神と曰ふ。【一の名は軍神、ウゴクときは兵興る。】郷閭の士女、酒を提げ琴を抱き、歳毎の春秋、手を携へて登り望み、樂飲し歌舞し、曲盡きて歸る。歌詞に曰はく、霰降る杵島が嶽を嶮《さか》しみと草取りかねて妹が手を取る【是は杵島曲なり。】(萬葉集註釋) 二 類歌。 梯立《はしだて》の倉梯《くらはし》山を嶮しみと岩かきかねてわが手取らすも(古事記七〇) 右一首、或云、吉野人味稻、與2柘枝仙媛1歌也。但見2柘枝傳1、無v有2此歌1。 右の一首は、或るは云ふ、吉野人味稻の、柘の枝の仙媛に與へし歌なりといへり。但し柘枝傳を見るに、この歌あることなし。 【釋】 或云 アルハイフ。何によつているか、また何人の言であるか、不明である。下の與柘枝仙媛歌也までをさしている。 吉野人味稻 ヨシノビトウマシネ。柘の枝の説話中の人物。味稻は、懷風藻に美稻、續日本後紀に熊志禰とあり、ウマシネと讀まれる。語義は、神事にそなえる神聖な稻の義である。吉野川で簗《やな》を打つており、漁者と解せられ、この點、海幸山幸の説話、浦島の説話の男主人公と共通するものがある。 與柘枝仙媛歌 ツミノエノヤマヒメニアタヘシウタ。柘の枝の仙媛は、柘の枝に化した仙女の義。この説話は、元來わが國の古傳説が、外來の神仙思想を取り入れて神仙譚化したものと考えられる。もと天女というが如き思想であつたものが、仙女として取り扱われるに至つたものであろう。吉野人味稻が、その柘の枝の仙媛に與えた歌であると、或る人がいうのである。 柘枝傳 サシデニ。柘の枝の説話を取り扱つた文章、または書籍の名であろうが、他に何の文獻もないので、一切不明である。その柘枝傳を見るに、この歌がないというのである。丹後國風土記の逸文には、伊預部《いよべ》の馬養《うまかひ》に、浦島の説話を書いた文がありといい、その風土記自身も、その説話を取り扱つて歌物語を構成している。奈良時代初期前後の文人が、在來の説話を素材としてかような神仙譚を作り成したものは、相當の數に上るべく、柘枝傳もそのようなものの一つであつたであろう。しかしその柘枝傳に、この歌がないにしても、他の傳えには、民謠として傳えられたこの歌を取り入れたものがあつたのであろう。 |
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「評釈万葉集」〔佐佐木信綱、昭和23~29年成〕 仙《やまびと》の柘枝《つみのえ》の歌三首 霰/零《ふ》り吉志美《きしみ》が嶽《たけ》を嶮《さか》しみと草取りかなわ妹が手を取る 右の一首は或は云ふ、吉野人味稻の柘枝仙媛に與へし歌なりと。但、柘枝傳を見るに、この歌あることなし、 〔題〕 仙の柘枝の歌三首左註に見える柘枝傳といふのは今傳はらないが、恐らく漢文で書いてあつたと推察される。内容は今この三首と、懷風藻の詩と、續日本後紀に見える興福寺の僧の長歌とによつて大體察せられる。それによると、神婚説話ともいふべく、吉野の人/味稻《うましね》(美稻・熊志禰とも見える)が吉野川で鮎を取つてゐると、梁《やな》に柘の枝がかかつた。あまり美しいので家に持つて歸ると、美女と化した。味稻はこの仙女と契つたが、後、女は常世の國に飛去つたといふ、悲劇の傳説である。 〔譯〕 吉志美が嶽があまりけはしいので、草に取りつきかねて、愛人の手を取つたことである。 〔評〕 平素まだ遠慮のあつた戀人同士が嶮しい山を登るのをきつかけに手を取りあつた、といふ趣が見える。草の根を取りそこねて、思はずも女の手を取つた。女も幾分はにかみながら、その手につかまつた。かうして相扶けて山を登つたのである。素朴にしてしかも新味のある歌である。いつの時代にも若い男女の間にかうした事は多いであらう。この歌は、古くから廣く流布してゐた歌舞の曲たる杵島曲《きしまぶり》から出たものであらうと思はれる。肥前風土記に、杵島《きしま》郡に杵島といふ山がある。郷閭の士女は春秋の頃、酒や琴をもつてこの山に登り、遊飲歌舞した。その時歌つた歌詞が、「霰零る杵島が嶽を險しみと草取りかねて妹が手を取る」で、即ち杵島曲である、といふことが出てゐる。また常陸風土記には、行方《なめかた》郡の條に、崇神天皇の朝、建借間命《たけかしまのみこと》が七日七夜杵鳥曲を唱つて遊樂歌舞したと見えてをり、諸方に廣く行はれた曲であつたことがわかる。古事記に速總別王が女鳥王と倉椅山に登られた時、「梯立の倉椅山を嶮しみと岩掻きかねて我が手とらすむ」と歌はれたとある。この三者の先後は俄に知り難いが、互に聯繋あることは確であらう。 〔語〕 ○霰零り 枕詞。霰がふつてきしきしと音のする意でかけたとも、かしましい意で鹿島にかけたのが、似てゐるので杵島にも轉用したともいふ。 ○吉志美が嶽 和名抄に見える肥前國杵島郡杵島の轉とする説があるが、吉野にある山かとも思はれる。 ○草とりかなわ 玉の小琴に「かな」は「不得」の意で「わ」は下に添へた語とあるが、十分ではなく、久老は「可禰手」の誤としてゐるが、猶考究を要する。 |
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「万葉集私注」〔土屋文明、昭和24~31年成〕 仙柘枝歌三首 霰零 吉志美我高嶺乎 險跡 草取可奈和 妹手乎取 あられふり きしみがたけを さがしみと くさとりかなわ いもがてをとる あられ降り吉志美が嶽をさかしみと草取りかなわ妹が手を取る 【大意】 吉志美が嶽が険阻なので、其の草を取り登ることが出来ずに反つて妹が手をとる。 【語釈】 クサトリカナワ 草を手に取ることが出来ないで、草をもつかみかねてである。本文は多くの本に「可奈和」 とあり、訓もカナワであるが、それでは意をなさぬから、前述風土記に見える如く「カネテ」 と有るべきが誤り伝へられたのかも知れぬ。或はカナワはカネテと同義の方言などであらうか。定本に「和」 は神田本により「知」 とし、「可」 は「叵」 の誤とし「叵奈知(ハナチ)」 としたのは文字の上では道理あることと思はれるが、ハナチでは一首中の句としてはやはり据わりが悪い。私案では「可」 は「不」 の誤、「不奈」 は「不知」 であるから、「和」 は間投詞と見てカネワ即ちカネテと同義ではないかとも思はれる。更に言へば、カネワがカナワに訛つたとも考へられようか。 |
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「萬葉集本文篇」底本西本願寺本萬葉集〔塙書房・佐竹昭広、昭和38年成〕 霰零 吉志美我高嶺乎 險跡 草取可奈和 妹手乎取 あられふり きしみがたけを さかしみと くさとりかなわ いもがてをとる |
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「万葉集注釈』〔澤潟久孝、昭和32~37年成〕 霰零 吉志美我高嶺乎 險跡 草取所奈知 妹手乎取 アラレフリ キシミガタケヲ サガシミト クサトリソナチ イモガテヲトル 【口訳】 吉志美が嶽がけはしくて、草を取り損ねて妹の手を執ることよ。 【訓釋】 草取りそなち―― 「草取」 の下の三字、流布本に「可奈和」 とあり、細井本などに「カナワ」 とあるが、玉の小琴に「可奈は不得の意」「和は下に付たる辭」 として「率和(イザワ)」(13・三三四六) を例にしてゐるのは従ひがたく、槻乃落葉には「可祢手」 の誤としたが、「手」 と「和」 とは草体としてはいかにも誤字の可能が認められるけれども、三字のうち二字まで誤字とする事に不安があり、全註釈には「和」 が古写本に「知」 とあるにより、「可」 は「之可夫可比(シカフカヒ)」(5・八九二) の上の「可」 を「叵」 の誤とすると同じく、今も「叵」 の誤としてハナチと訓み、草を取り放ちと解されたが、草を取り放ちといふ事はこの場合適切とは思はれない。今流布本の三字に相当するところの諸本の文字を並べてみると、 可所奈知 (古葉略類聚鈔) 可奈知 (紀州本) 可奈和 (西本願寺本・細井本・陽明文庫本萬葉集、その他) 所奈知 (細井本2)「細井本2」とは、細井本は巻四の後半がなく、そこに巻三の後半が重複してはひつてゐる。それが巻三に前出してゐたものと違つてゐるものがある。それを注した 所奈□[矢+妹) (無点本萬葉集2)「2」の表記については、細井本について述べたものと同じ となつてをり、流布本の「可」 が「所」 となつてゐる本があり、古葉略類聚鈔には「可所」 の二字になつてゐる。それは他にも例があるやうに、一字は校異を傍書したものが本文の中へ入れられたものと認むべきだと考へる。即ち「可」 とある本と「所」 とある本と二種の本があつたので、そのいづれがもとであつたかと考へると、その字体の上から「所」 の草体がくづれて「可」 となつたと認めるのが自然であらうと思ふ。次に「知」 と「和」 とを較べると、写本の時代とここにあるべき語意とを考へ合はせて「知」 の方が原文であらうと思はれる。即ち流布本の「可奈和」 は「所奈知」 から誤つたもので、我々の考察は一旦本文を「所奈知」 にかへした上でそこから出発すべきものだと思ふ。さてこの三字をそのまま訓めばソナチとなる。しかしさう訓んでみてもなほ語意は不明であるが、タ行四段の動詞を想定する事は出来て「草取り」につづく語としてカナワよりは認めやすい。今はこの考察の出発点をあげるにとどめて後考を俟つ事にする。唯しひて憶測を一つ述べれば、「所奈知」 を更に「所本知(ソホチ)」 の誤とする案である。「取り」 は他動詞であり、「そぼち」 は自動詞であり、両者の結びつきに無理があるが、草を手に取り、その草の露にぬれて、といふ風にとればとれないでもないかと思ふ。しかしこれは牽強の一案たるに過ぎない。いづれにしても風土記には「區縒刀理我泥底 (クサトリカネテ)」、仁徳記には「伊波迦伎加泥弖(イハカキカネテ)」 とあり、今の句は「草とりかねて」 から出たものである事は確実であるが、それは伝写の誤とみるべきものでなく、伝誦の間の転訛と見るべきものであるから、槻乃落葉のやうにカネテの訓にかへす文字を考へるよりも「所奈知」 の文字から別の語意を考へるべきものだと私は考へる。 |
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[注「草取りはなち」(有斐閣「萬葉集全注巻三-385)] (この巻三の筆者・西宮一民) 草取りはなち―― 「草取」の下が、底本以下「可奈和」 とあり、カナワと訓まれたりしたが、意味がとりにくい。一方、古葉略類聚鈔に「可所奈知」 と写し、細井本(2)に「所奈知」 と写し、紀州本に「可奈知」 と写す。これらに対し、定本は、「叵奈知(ハナチ)」 と誤字説を出し「放ち」 と解した。これは認められる説だと思う。「叵(ハ)」 が見慣れぬ文字であるため「可」 に誤った例は「之可夫可比」(5・八九二) において、やはり定本が「叵(ハ)」 の誤りとして本文を意改したのにも見られる。「叵(ハ)」 は「破」 と同音(ただし四声は異なる)。そして「可」 は更に「所」 に誤られる例も甚だ多い。一方「知」 と「和」 の誤写も甚だ多い。かくして「叵奈知(ハナチ)」 を想定し、「放ち」 と解するならば意味が通るものとなる。「取り放つ」というのはおかしいとの意見もあろうが、この行為が「妹が手に取る」 ことの態(わざ)との行為となっているところに、歌としての面白さがあるのである。山が険しいのなら、草をしかり握っていればよいのであって、それを「取り放ち」 と表現するところに、口実を設けた下心あっての行為となるからである。 |
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394 | 船木伐 樹尓伐歸都 | ||
(391) | 「万葉集註釈」〔仙覚、文永六年(1269)成〕 鳥總《トフサ》立《タツ・タテ》足柄山尓船木伐樹尓伐《アシカラヤマニフナキキリキニキリ》歸《〔カケ〕〔カヘ〕ヨセ》都安多羅船材乎《ツアタラフナキヲ》 此トフサト云事ハ、此集ニ、一兩所侍ルナリ。然ヲ先達是ヲ尺スルニ、トフサトハ、草木ノスエナリト云ヘリ。此歌トモハ、シカニハアラス。又此歌ノ發句、古點ニハ、トフサタツト點セリ。然ニ第十七卷ノ歌ヲ、カムカフルニ、登夫佐多底船木伎流等伊有能登乃島山今日見者許太知之氣思物伊久代神備曾《トフサタテフナキキルトイフノトノシマヤマケフミレハコタチシケシモイクヨカミヒソ》ト云ヘリ。仍今ノ歌ノ發句、トフサタテト點スヘシ。トフサト云ハ、マサカリ也。サテトフサタテ、アシカラ山ニトツヽケタル詞、タトヒ其イヒナクトモ、加樣ニツヽカムコト、クルシカルヘキニハアラス。ソレニトリテ、コレハ/マサカリ《鉞》オノ《斧》ナトノヤウノ物ニテ、木ヲキルニ、クタケテチルカラヲハ、ソマ人トモアカシト云也。然者トフサタテ、アシカラ山トツヽケタル也。サテ歌ノ心ハ、船木ヲキルニハ、カマヘテ、カタハラノ木ニキリカケシトスル也。若ソハナル木ニモ、キリカケツレハ、イカニヨキ木ナレトモ、船木ニセヌ也。船ハ、物ニサヘラルヽヲイムヘキ故ナルヘシ。サレハ、木ニキリヨセツアタラ船木ヲトヨメリ。此歌ノタトヘタル心ハ、日來ヨリ心ニシメサシテカヨヒキタリ、足手ヲツクシテ、誠ヲイタセトモ、思ノ外ニヤラシト思フ方ニナヒキハテヌレハ、チカラオヨハテヤムヘキヲ、アタラシム心ニタトフル也。思ヒノコトクニタニモ、舟ニツクラレマシカハ、クチハテムマテニ、我ニシタカィ、我モ身ヲヤトススミカトシテ、イツクノ浦マテモ、ハナレサラマシトヨメル也。 |
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「万葉集管見」〔下河辺長流、寛文年間(1661~1673)成〕 とふさたて足から山に舟木きり とふさは、鳥總なり。 木切に、こけらのたつを、鳥の毛のちるやうに見て、かくはよめるなり。 舟木は、舟つくる木なり。先達さまさまに釋しをかれたれ共、たしかにもあらぬは不載之。 |
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「万葉拾穂抄」〔北村季吟、貞享・元禄年間(1684~1704)成〕 とふさたてあしから山にふなきゝりきにきりかへつあたらふな木を 鳥総立足柄山尓船木伐樹尓伐歸(よせ)都安多良船材乎 ふさたてあしから山 ―― 此哥八雲抄袖中抄童蒙抄等にも木にきりかへつとあり八雲云とふさは木の梢也杣に入て木を切ては必木の末をきりてきりたる木の跡にたつる也たとへはかはり也仍木にきりかへつとはよめる也舟木は舟にする木也足柄山さかみ也若つくしにある歟愚案此御説義は分明也但たとへたる所を顕さす師説ニ足柄山を舟の足輕きによせて讀し所譬の心也足から小舟とも讀類也童蒙抄にはとふさは鐇《タツキ》を云と有八雲抄にはたつきをも木の末と同と有祇曰とふさとはをのをもいへり又木きる時/屑《クツ》のちるをもいふ又木の末をもいふ舟木きるにはかたはらの木に切よせじとする也舟は物にさへらるゝをいむ物なれは其故によき木なれとも舟にせぬ也されはあたら舟木をとよめり心は戀の哥也心にしめて過にし人思ひの外にやらじとおもふかたになひきぬれはあたらふな木をとよそへたり愚案此祇注は木にきりよせつと点したる本にしたかひ仙抄の義につけり仙抄の譬喩の哥あまりにたとふるほとに哥の本意にたかへると見ゆる事おほし心をつけて可用之 |
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「万葉代匠記」〔契沖(1640~1701)、貞亨四年(1687)成〕 鳥□[糸+怱]立足柄山爾舩木伐樹爾伐歸都安多良舩材乎 《トフサタテアシカラヤマニフナキキリキニキリヨセツアタラフナキヲ》 發句は第十七にも登夫佐多氐船木伎流等伊有能登乃島山《トブサタテフナギキルトイフノドノシマヤマ》、云云、仙覺これを引てトフサタツと云古點を破せらる、但古點も一准ならざる歟、袖中抄にはとふさたてとあり、さて説々あり、別に是を注す、足柄山は相模なり、彼國の風土記に足柄山の杉を伐て舟に造けるに其舟の足の輕かりければ山の名とせるとかや、さてこそ第十四にも百津島足柄小舟あるきおほしなどはよみけめ、伐歸都とは舟造るべきほど伐集め寄るなり、此譬る意は彼觀音寺の造營題の下に云如く久しく事ゆかずして元正天皇養老七年までに及ける故に滿誓を別當に成し給ふにより、滿誓觀音寺に到て□[手偏+僉]校せらるゝに、寺作るべき良材をば多く運び寄ながら有司怠慢にして徒に年月を積るを、足柄山の上品の舟木は伐寄せながら造ること延引して徒に腐すに事よせて前の有司を刺らるゝなるべし、かゝる事を近く云へば勅を奉れる人の爲にもあしければ、遠くあらぬ事に云成して誡しめ諌めらるゝなるべし、是諷諭の法なり、撰者此微意を顯はさんために此に至て造觀音寺別當とはいへり、第十九に、春の日にはれる柳を取持て、見れば都の大路思ほゆと云歌の詞書に、攀2楊黛1思2京師1とかけるも攀柳條などは云はで黛の字を加へたれば、春女の群がり行緑黛を想像意を露はさんとなり、叉木に伐よせつとは誤て傍なる繁き木の中に伐懸つれば取事の煩らはしさにたゆみて捨置を懈怠に譬るか、仙覺の云、若そばなる木にも伐懸つればいかによき木なるとも舟木にせぬなり、舟は物にさへらるゝを忌べき故なるべし、されば木に伐よせつあたら舟木をとよめり、舟木伐やう如此なるか、推量て申されけるにや、 |
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「万葉集童蒙抄」〔荷田春満、享保年間(1716~35)成〕 鳥總立足柄山爾船木伐樹爾伐歸都安多良船材乎 とぶさたて、あしがら山に、ふなきゝり、きにきりよせつ、あたらふなきを 鳥總立 ―― 此集中第十七卷目の歌にもあり。登夫佐多底船木伎流等云々。後撰集「後拾遺和歌集戀部輔親歌」 にも、[わが思ふ都の宮のとぶさゆゑ君もしづえのしづ心あらじ。] 此とぶさたてといふ事、斧の事といふ説あり。また古説に、草木の末をとぶさといふとの義もあれど、語釋濟みがたき説なり。八雲御抄の御説にも、伐木の末を立て、山神を祭る義とあり。此御説相かなへる義ならんか。師案には、ともぬさ立といふ義なるべしと也。ともはむなり。むはふ也。夫といふ濁音はむなれば、ともぬさの略語と見ゆると也。御抄にも伐木の末を立て、山神を祭る義との御説なれば、義相かなへるならんか。又はふはぬなれば、とは發語にてたゞぬさ立といふ義歟。右兩義と見る也。いづれにまれ、杣人の山神を祭る事をいへる義也。古へ材木を伐るにも木の末をぬさとして、山神を祭る也。今とても杣人など木を伐り初めるには山入と云て、御酒を山人に供へて、あとを頂戴するなど云事あるも古の遺風なるべし 足柄山爾 ―― 伊豆國也。仙覺抄には木をきり、そのきりくずをあかしといふにより、とぶさはまさかりの事、其まさかりにてきる木のあかしといふ義に、あしからとつゞけたるとの事は、いかにとも心得難き注解也。十七卷に、能登のしま山ともあれば にはあらず。いづかたにても、繁茂したる山より伐り出せる處の當然を詠める義と見ゆる也。尤伊豆國は船を作れる古例の所以もあれば、あしがら山は高山、しげれる山故、如v此よめる歟。船木は大木の杉を用意ゆるなれば、能登のしま山、此あしがら山、古大木の杉多くありしゆゑ、伐りたるときこえたり。その時代の事實と見るべし 樹爾伐歸都安多良船材乎 ―― 船に造る木は、山にて伐る時も、外に障る事を忌みける也。これは海路にて、船のものにさはれば反覆することをを忌みて也。切角船木にせんとて、伐りても外の木にかゝりよれるは、忌避けて不v用故、あたら船木乎とは詠める也 歌の意は、他覺抄には戀歌の樣に釋せられたれど、滿誓歌とあれば、此釋は心得難し。笠朝臣麻呂ともあれば俗の時の歌にもあらん。されば戀歌とも見らるべき歟。標題に別當沙彌などあれば出家の後の歌ときこゆる也。然らば唯その當然のものゝたとへと見ゆる也。譬へば觀世音寺をつくるに、外方の役にも不v立木をきりあつめたる當然を譬へいへる歟。又足柄山にて船木を切るを見て、外に何ぞ譬へ思ふ事ありて、かく答へたる歟。たとへたる意は、いかにとも難v知ければ注しがたき也 |
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「万葉考」〔賀茂真淵、宝暦十年(1760)成〕 鳥總立《トブサタテ》、―― 冠辭 足柄山爾、船木伐《フナキキリ》、―― 卷六に足加利小船とも足加利乃安伎奈乃也萬爾引船ともよみ又伊豆手船といひむかし枯野てふ大船も伊豆國より奉れり伊豆と相模の足柄は地相交れば何れにいふもひとしきなりさて此山に大なる杉多かりし事右の船木に用ゐ又今も埋杉ありて筥に作るなどおもひ合すべし卷七に登夫佐多底船木伎流等伊布能登乃島山ともよみつ 樹爾伐《キニキリ》歸《ヨセ・ユキ》都《ツ》、―― なみなみの材とするなり 安多良/船材乎《フナキヲ》、」―― あたら船木と重ねいへるを思ふに三の句は船木伐と先いひ擧てさて其船木とすべきよき木をすゞろなる材に伐集め置ぬるよと惜むなり此三の句のいひなし後世かたくななる心もてはえよみあへじかくて譬たる意は我うつくしとおもひ慕ひし女を大内或はよき家などへよびて多くの中になめげにておかるゝををしむこゝろなり |
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「万葉集略解」〔橘千蔭、寛政十二年(1800)成〕 鳥總立。足柄山爾。船木伐。樹爾伐歸都。安多良船材乎。 とぶさたて。あしがらやまに。ふなききり。きにきりゆきつ。あたらふなきを。 トブサタテ、枕詞。アシガラは相模足柄郡。集中あしがら小舟などと詠みて。專ら此山より舟材を伐り出せしと見ゆ。 古訓キニキリヨセツと有れど、宣長云、歸は集中ユクとのみ訓める例なり。さて四の句、キニキリユキツは、舟木ニと言ふべきを、上に讓りて舟の言を略けるなり。あたら舟木を、よそへ舟木に伐りて行きつと言ふなりと言へり。譬へたる意は、我物と思ひ意ひし女を、他し人の得たれば惜み歎くなり。 |
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「万葉集攷証」〔岸田由豆流、文政十一年(1828)成〕 鳥總立《トブサタテ》。足柄山爾《アシカラヤマニ》。船木伐《フナギキリ》。樹爾伐《キニキリ》歸《ユキ・ヨセ》都《ツ》。安多良船材乎《アタラフナギヲ》。 鳥總立《トブサタテ》―-- 枕詞にて、冠辭考に出たれど、其論うけがたし。久老が別記の説に、鳥總《トブサ》と翅《ツバサ》と音通へば、とぶさは、つばさの意。立《タテ》はたゝせの意にて、足柄《アシガラ》を足輕《アシカル》の意にとりなして、つゞけたるよし、いへり。これに從ふべし。そのよしは、かの別記につきて、くはしくしるべし、代匠記に、相模國風土記ニ、足柄山ノ杉ヲ伐テ舟ニ造リケルニ、其舟ノ足ノ輕カリケレバ、山ノ名トセルトカヤ云々とあるなど思ふべし。猶くはしくは、予が冠辭考補正にいふべし。 足柄山爾《アシガラヤマニ》―― 和名抄郡名に、相模國足上【足辛乃加美】足下【准v上】とある、この二つながら、今本には、足の下に柄の字あれど、活字本によりて略けり。すべて、諸國郡郷の名、必らず二字に書べき例なれば也。さて、この山は、古事記中卷に足柄之坂本ともありて、集中にも多く出たり。(頭書、あしがら小舟。) 船木伐《フナギキリ》―― 書紀、推古天皇二十六年紀に、舶材《フナキ》ともありて、船にすべき料の木也。十七【四十九丁】に、船木伎流等伊布能登乃島山《フナギキルトイフノトノシマヤマ》ともあり。 樹爾伐《キニキリ》歸《ユキ・ヨセ》都《ツ》―― 宣長云、歸は、集中、ゆくとのみよめる例也。さて、きにきりゆきつは、舟木にといふべきを、上にゆづりて、舟の言を略ける也。あたら舟木を、よそへ、舟木に伐てゆきつといふ也云々。この説の如し。歸をゆくと訓る事は、上【攷證三上九丁】ににいへり。 安多良船材乎《アタラフナギヲ》―― あたらは、あたらし、あたらしくとも活らく言にて、古事記上卷に、又離2田之阿1埋v溝者、地矣阿多良斯登許曾《トコロヲアタラントコソ》、我那勢之《アガナセノ》命、爲v如v此登、詔雖v直云々。下卷御歌に、夜多能比登母登須宜波古母多受《ヤタノヒトモトスゲハコモタズ》、多知迦阿禮那牟《タチカアレナム》、阿多良須賀波良《アタラスガハラ》、許登袁許曾須宜波良登伊波米《コトヲコソスガハラトイハメ》、阿多良須賀志賣《アタラスガシメ》云々。書紀雄略紀歌に、阿□雁陀倶彌皤夜《アタラタクミハヤ》云々。また婀□羅斯枳偉儺謎能陀倶彌《アタラシキヰナベノタクミ》云々などありて、集中にもいと多し。皆、惜む意にて、今俗言に、あつたら物、あつたらこと、などいふも、これ也。さて、一首の意は、戀の歌にて、滿誓僧、思ひかけたりし女のありけんが、それに人のかよひける事などありしを、船木によそへて、わが船木にすべき、あたら船木を、人の船木に切ゆきつとなるべし。 |
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「万葉集古義」〔鹿持雅澄、天保十三年(1842)成〕 鳥□[糸+怱]立《トブサタテ》。足柄山爾《アシガラヤマニ》。船木伐《フナキキリ》。樹爾伐歸都《キニキリユキツ》。安多良船材乎《アタラフナキヲ》。 〇鳥□[糸+怱]立は、(上野(ノ)國神名峰といふ物に、多胡(ノ)郡鳥□[糸+怱](ノ)明神あり、此(ノ)神名、今の歌の鳥□[糸+怱]に由あることか、又夫木集七に、卯花も神のひぼろきときてけりとぶさもたわにゆふかけて見ゆ、と有、此(ノ)とぶさいかゞ尋ぬべし、十七にも、登夫佐多底船木伎流等伊有《トブサタテフナキキルトイフ》(有(ノ)字は、布の誤なり、)能登乃島山《ノトノシマヤマ》云々と見えたり、(鳥□[糸+怱]は、いと意得がてなれど、嘗《コヽロミ》に云ば、鳥□[糸+怱]と書るは借(リ)字にて、材を割拆《ワリサク》料の器(ノ)名にはあらざるにや、袖中抄にも、とぶさたてとは、たづきたてと云る詞なりと云り、たづきは、鐇《タヅキ》なり、土佐(ノ)國幡多(ノ)郡(ノ)方言に手斧を、とものと云り、この登《ト》は、敏謙《トカマ》の敏《ト》にて、敏物《トモノ》と云ことゝ聞えたれば、登夫佐《トブサ》は、敏物拆《トモサ》といふにて、材を拆(ク)器を、古(ヘ)しか稱《イヒ》し事の有しなどにもやあらむ、立(テ)とは其(ノ)器を振立る謂なり、さて此(ノ)一句は、次の足柄山と云(フ)へは直に續かず、船木伐といふへ係(レ)る詞なること、上に引る十七の歌を考(ヘ)て知べし、 ○足柄《アシガラ》山は、相模(ノ)國足柄(ノ)郡にある山なり、相模風土記に、足柄山の杉を伐て、船に造りけるに、その足のいと輕かりければ、山(ノ)名とせるよし見えたり、 ○樹爾伐歸都(伐(ノ)字、類聚抄に代と作るはわろし、)は、本居氏のキニキリユキツと訓べし、舟材にといふべきを、上にゆづりて、舟の言を略けるなりと云り、按(フ)に、百千鳥千鳥者雖來《モヽチドリチドリハクレド》、茅草刈草刈婆可爾《チガヤカリカヤカリバカニ》など云る、皆同例なり、 ○安多良船材乎《アタラフナキヲ》(材(ノ)字、拾穗本には木と作り、)は、惜船材《アタラフナキ》なるものをの意なり、アタラは、古書どもに、惜□などの字をよめり、安多良《アタラ》某と云る例は、古事記仁徳天皇(ノ)御歌に、阿多良須賀波良《アタラスガハラ》、雄略天皇(ノ)紀(ノ)歌に、阿□[手偏+施の旁]羅陀具彌鐇夜《アタラタクミハヤ》、また婀□[手偏+施の旁]雁須彌儺鐇《アタラスミナハ》などあり、又古事記に、離田之阿埋溝者地矣阿多良斯登許曾我那勢之命爲如《ハナチタノアウムルミゾハトコロヲアタラシトコソワガナセノミコトハカクシツラメ》、此(ノ)集十(ノ)卷に、秋芽子戀不盡跡念雖思惠也安多良思又將相八方《アキハギニコヒツクサジトオモヘドモシヱヤアタラシマタアハメヤモ》、十三に、安多良思吉君之老落惜毛《アタラシキキミガオユラクヲシモ》、(此(レ)等皆、惜(ノ)字(ノ)意なり、) ○歌(ノ)意は、吾(ガ)物にせむと思ひて心をつくせし女を、他人のものにしたるを、をしめる事を譬へたるにて、わが船材に爲む、と思へる材なる物を、他人の伐て去《ユキ》つるがいたくをしきことゝ云るなり、或説に、これは滿誓が俗にて在し時の歌を、出家して後に聞て、造筑紫云々とは載しならむと云り、さも有べし、 |
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「口訳万葉集」〔折口信夫、1916~17年成〕 とぶさ立て足柄《アシガラ》山に舟木伐《フナギキ》り、木に伐りゆきつ。あたら丹木を あゝ惜しい木であつたが、足柄山で舟木を伐つて、それを舟材にする爲に、他人が持つて行つてしまうた。惜しい舟木をば。(女が他人に縁づいたのを、隱して述べてゐる。) |
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「万葉集全釈」〔鴻巣盛広、昭和5~10年成〕 鳥總立て 足柄山に 船木伐り 樹に伐り行きつ あたら船木を 鳥總立《トブサタテ》 足柄山爾《アシカラヤマニ》 船木伐《フナギキリ》 樹爾伐歸都《キニキリユキツ》 安多良船材乎《アタラフナギヲ》 私ガ船ヲ造ル材ニシヨウト思ツテヰタノニ、足柄山ヘ(鳥總立)船材ヲ伐リニ、木ヲ伐リニ人ガ行ツタ。アツタラ惜シイ船材ダノニ。 私ガ物ニシヨウト思ツテヰタ女ヲ、人ガ横取リシテシマツタ。惜シイ女ダツタノニ。 ○鳥總立《トブサタテ》――枕詞。樵夫が山で木を伐る時、鳥總を立てて置くから、船木伐りとつづく。鳥總に就いて諸説があるが、昔、樵夫が山で木を伐つた時、山神を祭る爲に、梢の方だけを殘して立て置く習慣があつたらしい。宇鏡集に朶の字をトブサ、エダなどと訓んであり、堀河百首や、謠曲「右近」にも、梢の義に用ゐた例があるから、梢のことと見るべきであらう。 ○足柄山爾《アシガラヤマニ》――相模國の足柄山は、船材を伐り出す古來の名所で、相模風土記にはこの山の杉を以て舟を造つたところが、その船足が輕かつたので足柄の名が起つたとある。○樹爾伐歸都《キニキリユキツ》――舟木として伐りに行つた。 ○安多良船材乎《アタラフナギヲ》――あつたら惜しい舟木だのにの意。安多良《アタラ》は可惜の意。 〔評〕 三句目以下に頻りにキの音を繰返してゐる。第四句目が少しく無理に聞えるのも、その爲であらう。僧侶の歌らしくないから、滿誓が俗人の時の作でらうとする説もある。けれども滿誓は筑紫にあつて、女と通じて子を生ませたとも言はれてゐるから、僧になつてからの歌であらう。次の百代の歌と並んでゐるのでも、太宰府での作たることは疑もない。 |
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「万葉集全註釈」〔武田祐吉、昭和23年~25年成〕 鳥總《トブサ》立て 足柄山に 船木《ふなぎ》伐《き》り、 樹に伐り行きつ。 あたら船材《ふなぎ》を。 鳥總立《トブサタテ》 足柄山尓《アシガラヤマニ》 船木伐《フナギキリ》 樹尓伐歸都《キニキリユキツ》 安多良船材乎《アタラフナギヲ》 【譯】 樹の葉先を立てて、足柄山に船材を伐る。そのように材木として伐つて行つた。惜しい船材であつた。 【釋】 鳥總立 トブサタテ。「登夫佐多氐《トブサタテ》 船木伎流等伊布《フナギキルトイフ》 能登乃島山《ノトノシマヤマ》」(卷十七、四〇二六)の「登夫佐多氐《トブサタテ》」と同語と認められる。トブサは數説あるが、顯昭の袖中抄に、木の末をいうとする説が有力である。字鏡集に、朶にトフサの訓があり、朶は、枝葉の茂つている樹梢をいう。「わが思ふ都の花のとふさゆゑ君もしづえのしづ心あらじ」(後拾遺集卷十三、大中臣の輔親)、「卯の花も神のひもろぎかけてけりとふさもたわにゆふかけて見ゆ」(堀川百首、源の俊頼)のトフサも、この意である。この句は、樹木を伐つて、その伐り跡に樹梢の枝葉を伐つて插す風習があるにより、第三句の、船木伐リの説明となつていると解せられている。これは山の神に奉る意味のもので、延喜式の大殿祭の祝詞に「今奧山乃大峽小峽爾立留木乎《イマオクヤマノオホカヒヲカヒニタテルキヲ》、齋部能齋斧乎以《イムベノイムヲノヲモチ》、伐採氐《キリトリテ》、本末乎波山神爾祭□《モトスヱヲバヤマノカミニマツリテ》、中間乎持出來氐《ナカホドヲモチデキテ》」とあるのも、この意であるとされる。以上は講義の説く所によつたのであるが、今日ではこの説が穩當とされる。ほかには、トブサを斧の義とする説があり、樹を伐る時に、斧を立てる風習があるといつている。 足柄山尓 アシガラヤマニ。足柄山は、神奈川縣と靜岡縣との縣境の山で、古くから船材の産地として知られていた。この歌では、ただ船材の産地として擧げられただけで、特別の關係があるのではなかろう。 船木伐 フナギキリ。フナギは、船材。當時、船材としては巨樹を要したので、巨樹を伐る意になる。 樹尓伐歸都 キニキリユキツ。キニは、船材としての意。樹木を船材として伐つて行つたの意。句切。 安多良船材乎 アタラフナギヲ。アタラは、惜しいの意の語で、副詞である。「阿多良須賀波良《アタラスガハラ》」(古事記六五)、「安多良佐可里乎《アタラサカリヲ》 須具之弖牟登香《スグシテムトカ》」(卷二十、四三一八)などの用例がある。ヲは感動の助詞で、フナギヲは、船材なるかなの如き意である。氣分としては、上の敍述を顧みる意があるが、船材を伐り行きつとして片づけるのは不可である。まだ古いヲの用法が殘つていると見るべきである。 【評語】 寓意はあきらかで、ある女を船材の樹木に比したと見られる。作者が僧侶であるから、かような戀の歌があるべきでないとして、在俗の時の作であろうともいい、また戀の歌ではないとして解釋する説(代匠記)もあるが、それは當つていないであろう。滿誓が觀世音寺に住してから、寺に屬する女子に通じたことは、三三六の歌の條に記した。この歌はその事件と關係があるかないかは知れないが、この人に戀の歌があつたとして何の不思議もない。また沙彌の語は、在家のままで剃髪している人にもいうのであつて、戒律嚴重の僧とは違う所がある。形だけは佛徒の姿をし誦經などを事としても、生活その他は一般人とあまり相違しなかつたのであろう。靈異記には、出家をして、一方には妻子をもち、家事をいとなんでいた生活を語つているものがある。これは特殊のことではない。後世の書であるが、元亨釋書に「國俗、不v全(クセ)2梵儀(ヲ)1、有(ル)2妻子1者(ノ)在(ルヲ)v家(ニ)、稱(ス)2沙彌(ト)1」とある。歌の調子は、歌いものふうなところがあり、詠嘆これを久しうしたという氣分が出ている。ひそかに目がけていた女を、人が手をつけてしまつた。既に老境にはいつていたであろう作者の、それを見せつけられた氣特が歌われていると見られる。 |
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「評釈万葉集」〔佐佐木信綱、昭和23~29年成〕 鳥總《とぶさ》立て足柄山に船木《ふなぎ》伐《き》り樹に伐り行きつあたら船材《ふなぎ》を 〔題〕 沙彌滿誓 「三三六」參照。 〔譯〕 足柄山に、船木を伐りに、樹を伐りに人が行つたことである。惜しい船木であるのになあ。 〔評〕 相模の足柄山は、古くから船材をもつて聞えてゐた。この歌は足柄山に船木を伐りに行くことに、人が女を領ずる意を寓したものであらう。 結句の嘆聲の中に、その女が豫て自分が思を懸けてゐた女であつたことを語つてゐるやうに解せられる。第三・四句のあたりが佶屈で、解釋を困難ならしめてゐる。 〔語〕 ○鳥總立て 諸説あるが「とぶさ」は、字鏡集に「朶」は枝、梢の義で、木を伐つた後梢をその伐り跡に立てて、神を祀る習慣があつたといふ萬葉集傳説歌考の説がよからう。 足輕にかからないで、「船木伐る」にかかることは、「鳥總立て船木伐るといふ能登の島山」(四〇二六)でも知られる。 ○足柄山 相模風土記に、この山の杉で船を作ると、特に船脚が輕かつたから、足輕山と名づけたといふ。 ○樹に伐り行きつ 樹は「フナギ」といふべきを略したとする宣長説がよい。 |
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「万葉集私注」〔土屋文明、昭和24~31年成〕 鳥總立 足柄山爾 船木伐 樹爾伐歸都 安多良船材乎 とぶさ立て足柄山に船木伐り木に伐り行きつあたら船木を 【大意】 足柄山に船材となるべき木を伐り、ただの材木として伐つて行つてしまつた。惜しい船木であるのを。 【語釋】 トブサタテ 枕詞。トブサは立木の最頂部であるといふ。木を伐つた後にはそれを立てて置く習慣があるので、トブサタテをフナギキリの枕詞にしたのだといふ。 アシガラヤマニ 今の箱根一帯の山地で、船材の産地として知られて居た。 フナギリ 船舶用の木を伐り。これは船舶用となすに足るべき立派な木を伐りといふ位の意がこめられてあるものと思はれる。 キニキリユキツ キニキルは上のフナギに対して、普通の用材、ただの木材として位の意であらう。さもないと一首の意のある所がつかめない。 アタラフナギヲ 惜しむべき船材ともなるべきものをと解すべきだ。 【作者及作意】 作者沙彌満誓のことは〔三三六番歌〕に述べた。造筑紫観世音寺別当は続日本紀養老七年二月の紀に「丁酉、勅遣僧満誓-俗名従四位上笠朝臣麿-於筑紫、令造観世音寺」 とある時別当に任ぜられたものであらう。別当は寺の長官であるが、之は特に造寺の為の別当であるから後の修理別当の如きものであつたろう。紀の文には僧とあるが、彼が沙彌であつたことは此所に記すごとくであり、沙彌に戒律のゆるかつたことは述べた。つまり満誓の造寺別当は実質は俗別当の如きものであつたらう。恋愛の歌を得意になつて作つても不思議でない。之は後世の座主僧正の輩の好んで恋愛歌を作つたものとも亦別で、相当の実感の背景があつたものと考へてもよいわけだ。譬喩の目差すところは、吾がものともすべかりしあたらをみなを、空しく他人のものとして持ち去られたといふのであらう。キニキリユキツを語釋の如くとらぬと此の歌は解けない。此の歌の如きは譬喩歌の體、少なくとも譬喩的技巧を意識しての作であらうと思ふ。 |
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「万葉集注釈』〔澤潟久孝、昭和32~37年成〕 木に伐り行きつ 「樹尓伐歸都」 を旧訓「キニキリヨセツ」 とあつたのを槻乃落葉に「キニキリユキツ」 と改めた。「歸」 をユクと訓む事は屡(二四〇、二八〇、その他) あり、この改訓に従ふべきもののやうに思はれるが、その「木に伐りゆく」 とはどういふ意味か、それについて二つの解釈がある。 一つは「万葉考」 に「なみなみの材とするなり」 とある解釈で、船材とすべき木ではあるが船材にしないでただの材木とするといふ意であり、今一つは略解に宣長伝、として「舟木にと言ふべきを、上にゆづりて舟の言を略ける也。」 といふ解釈である。考の説の出たのは下に「あたら船木を」 とあるからで、「あたら」 は「安多良佐可里乎(アタラサカリヲ) 須具之弖牟登香(スグシテムトカ)」(廿・四三一八) の如く今もなほ用ゐるところであり、「恡夜(アタラヨ)」(九・一六九三) の例もあつて、惜しいの意であるところから、井上氏新考に云はれてゐるやうに、「船材を船材に伐りゆきたらむにはアタラとはいふべからず。他の用に供したらむにこそアタラといふべけれ」 と思はれるからである。つまり第三句の「舟木伐り」 は実際に舟木として伐つたのではなくて、舟木とすべき良い木を他の用材として伐つたと解するので、考には「此三の句のいひなし後世かたくななる心もてはえよみあへじ」 とさへ讃辞を加へてをり、この意をわかりやすく訳したのは金子氏の評釈で、「足柄山で船になる木を伐り、それを船材にでもする事か、ただの材木に切つて持つて往つたよ、勿体ない船材なのをさ。」 とある。なる程かう云はれるとこれがわけ知りの解釈で、船材として伐つたのでは、「一首の意のある所がつかめない」(私注) やうにも見える。しかし、「船木伐り木に伐りゆきつ」 を船材に伐るべき木をただの用材に伐つて行つた、と訳する事はむりである。古義に「百千鳥(モモチドリ) 千鳥者雖来(チドリハクレド)」(十六・三八七二)、「茅草刈(チガヤカリ) 草刈婆可尓(カヤカリバカニ)」(十六・三八八七) などの例をあげてゐるやうに、「舟木伐り木に伐り」 といふ云ひ方は、上の句の語のくりかへしを略し、舟木として伐つたと見るのが自然であらう。「木に」 の「に」 は「雲にたなびく」(四四四) などの「に」 と同じとする。それならば、結句に対してはどうなるかといふに、既に宣長は今の右の引用につづけて「あたら舟木を、よそへ舟木に伐て行つといふ也」 と云つてゐるのである。舟木を舟木として伐つたといふだけならば「あたら」 となげく事はないであらうが、作者は「伐りゆきつ」 と云つてをるのであり、即ち「よそへ持つて行つてしまつた」 のだから「あたら舟木を」 となるのである。しかもその「あたら舟木を」 の「を」 を従来ともすると「舟木なるものを」 と訳されてゐる為に、舟木でないものとして伐るといふ考に誘はれるのであるが、この「を」 はさうした逆説的な意味をこめた詠歎の「を」 とする必要はない。全註釈には「ヲは感動の助詞で、フナギヲは、船材なるかなの如き意である。」 とあるが、さう解するにも及ばない。右の宣長の言に「あたら舟木を云々」 とつづけてをり、又折口氏の口訳にも「惜しい舟木をば。」 とあるやうに、格助詞の「を」 と見て少しもさしつかへないのである。萬葉には、詠歎の「を」 と見られがちであるが、格助詞と見てよいものが存外に多いこと前(二五二) にも述べたが、これもその一つである。即ちこの結句は第三句に語を補つてくりかへした形なのである。仮に第三句以下を散文に直せば「あたらしき舟木を伐りゆきつ」 とだけに短縮する事も出来るのであるが、「木」 をみだびくりかへし、「伐り」 を二度かさね、「あたら舟木を」 を結句に据ゑて詠歎の情を示さうとしたのである。かうした語と句との排列技巧に注意すれば右に述べた解釈は一層明らかに認められるであらう。なほこの句の考の説をたすける為に佐伯梅友君(「伐る船木」国語・国文-第十五巻第六・七号昭和廿一年九月) は第三句を「伐船木(キルフナキ)」 の顛倒でないかと云はれ、集中に文字の顛倒と思はれる例をいろいろ挙げられてゐる。さうすれば考の解釈が自然になるが、やはり言葉が足らぬ感は同じであり、しひて顛倒とするには及ばないと思ふ。また加藤諄氏(「木に伐りよせつ」国文学研究-第丗七号、昭和丗二年九月) はヨセツといふ仙覚の訓を復活し、解釈も仙覚抄の「船木ヲキルニハ、カマヘテ、カタハラノ木ニキリカケジトスル也。若ソバナル木ニモ、キリカケツレバ、イカニヨキ木ナレドモ、船木ニセヌ也。船ハ、物ニサヘラルルヲイムベキ故ナルベシ。サレバ、木ニキリヨセツアタラ船木ヲトヨメリ。」 とあるに帰るべきだとされてゐる。氏がこの考を思ひつかれたのは、昭和廿九年栃木県益子町上大羽地蔵院本堂の外陣壁板にある夥しい墨書落書群の中から、 とふさ□つあし□ら山ニ舟木き流 木ニきり□けつ あ□ら舟木ヲ 堅三尺一寸餘の部分に三行、墨痕うすれて、僅かに判読する事が出来るほどのものを発見された事が因となつてゐるよしである。その寺は宇都宮朝綱開基と伝へて、本堂は文明年中の再建になるもの、墨書の年代はほぼ室町時代末期かおそくも江戸の初期を下るまい、と考へられ、「ともあれ軒朽ちて廂傾いた寺の壁に見えるこの和歌はいずれ巡礼者が堂籠りのつれづれに筆を走らせたものであつて、けつして歌学者流の伝本筆写にかかるものではない。恐らくは歌を解し萬葉を心得た者が、素直にその譬喩するところを思ひつつ伝誦のままを書きつけたものと見ていい。」 といはれ、そのキリカケツの訓は歌林良材集(下) に見え、袖中抄などにカヘツとあるもカケツの変体仮名よりの誤である事を氏はくはしく述べ、カケツはまたヨセツと同じ意味だとされ、「歸」 を久老がユクと訓んだ例の中には疑はしいものもあり、「歸」 は「依歸」 の意でヨルと訓める字であるのみならず、ヨスと訓む例も神代紀(上) に「歸(ヨセ)罪過於素戔嗚尊」 と諸本に見え、西大寺本金光明最勝王経白點に「稽首歸誠至心禮敬彼諸世尊」 の歸字の傍に古体仮名でヨセと訓んでをり、今の「歸」 もヨセと訓んでよく、解釈は仙覚が云つてゐる如く、「木は目指す舟木の周囲にある立木である。舟木を伐つたところが、その木が他の立木に倒れかかつてしまつた。もはや舟木の用には立たない。」 そこで「あたら舟木を」 といふ事になるわけで、譬喩歌としては「舟木を女性として、思いの外に、他へ靡きよつた歎きを言つている」 とされ、上の「舟木伐り」 といふ連用形中止法の形は「そして」 と訳するよりは「が~」 とすべきところだらうとして、右の如く解されてゐるのである仙覚抄がしるすところの習俗の存在は認められ、それは貴重な記録と考へられるが、しかし「舟木伐り木に伐りよせつ」 と訓むにしても、この二句からさういふ解釈が果たして可能であらうか。近代の諸家が仙覚の説を採らなかつたのも、やはりその解をうべなひ難く思つたからではなからうか。「木に伐りよせつ」 とのみあるを、「周囲にある立木に倒れかかつてしまつた」 と解する事は考に「なみなみの材とするなり」 といふのと同様、むしろそれ以上に無理ではなからうか。それに、「歸」 をヨセと訓む事も漢字の字義としては認められ、用例も他にはあるとしても、集中の例としては他に確証なく、やはりユク、カヘルと訓むべきものと思はれ、その点からもこの解は成立しない。加藤氏が仙覚説復活を思ひ立たれたのは全く地蔵院落書の発見によるものであり、それに興味を催された気持には十分同感するのであるが、それは岸本由豆流が新撰字鏡の「阿太牟(アタム)」 によつて「敵見有(アタミタル)」 (二・一九九) の新解を試みたにも似たもので、落書の存在は仙覚抄復活の論拠になるにはやはり不十分と云ふべきであらう。ただこの落書の発見には十分敬意を表したく、右に氏の記されたままの文字で紹介したのもその意味であるが、先年法隆寺の五重塔に見出された「奈尓波都尓佐久夜己(ナニハツニサクヤコ)」 の落書(『古径』三所収「『冬木成』攷」参照) には及ばないやうである。 |
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[注「船木伐り木に伐り行きつ」(有斐閣「萬葉集全注巻三-385)] (この巻三の筆者・西宮一民) 原文は「船木伐樹尓伐歸都」 とあって、「船木伐」 を「フナギキリ」 と訓むか「フナギコリ(船材を専門に伐採する木樵/キコリ)」 と訓むかの問題は残るが、「歸都」 は旧訓ヨセツとあったのを槻落葉にユキツと訓んだのがよい。しかるに、この句の解釈においては、考の「なみなみの材とするなり」 と、略解所引宣長設の「舟木にといふべきを、上にゆづりて舟の言を略ける也、あたら舟木を、よそへ舟木に伐て行つといふ也」 との二つに分かれる。前者は、船材にすべき木であるのに船材にしないで、ただの材木として伐ってしまうという理解であり、後者は、船材として伐って、よそへ持って行ってしまったという理解である。私は、後者の説は意をなさぬのではないかと考える。「伐り行きつ」 とあるから「よそへ持って行った」 と解したのであろうが、船材として伐ったのなら、やがて浜辺へ持って行って造船すればよいのであって、「よそへ」 という意味を考えること自体無意味なはずである。まして他所の造船所へ持って行ったなどとは、この表現からは考えられないことである。それに比べると、前者の説は「訳知りの解釈」 という非難(注釈) は別にして、内容的に論理性がある。ただこの解釈を是認させる上では、文法上の納得のいく説明が必要であろう。その一つの試みは佐伯梅友によって、第三句を「伐船木」 と顛倒させて訓む説が生まれた(「伐る船木」国語・国文昭和二十一年九月)。しかし「船木伐」 を「伐る船木」 と訓むのは、顛倒例の多寡にかかわらずやはり無理であろう。私はこの第三句「船木伐」 をそのままフナギキリと訓んでよいと考える。そして、第四句の「木に伐り」 の「木」 と「船木」 とは同じ物をさしてはいても、「ただの材木」 というのと「船材」 というのとの評価上の差がはっきり表現されているのだと考える。すると、第三句の「船木伐り」と第四句の「木に伐り行きつ」 との間には文脈上の逆転があると言わなければならない。すなわち文法的に言えば、これは連用中止法で、逆接の意味をもつものということになるのである。ここで、連用中止法について用例を示して説明しておこう。かの有名な「わたつみの豊旗雲に入日さし今夜の月夜さやけくありこそ」(1・一五) の「さし」 の連用中止法では、上三句が客観の景、下二句はそれを理由にした判断(「こそ」を断定の助詞とみた場合) もしくは期待(「こそ」を願望の助詞とみた場合) を表す文脈であって、上句と下句の関係は「理由」 に基づく「判断」 であるから、〈順接〉となる。一方「大君のみこの柴垣八節結(しばかきやふじま)り結(しま)りもとほし切れむ柴垣焼けむ柴垣」(清寧記、一〇九) の「もとほし」 の連用中止法では、上四句と下二句の関係は、「めぐらしていても、やがてはきれるであろう」 というのであって〈逆接〉となる。このように、連用中止法には順接の二種があって(拙稿「古事記私解――歌謡の部」皇學館論叢昭和四十六年十月)、今の場合は、「船木」 と「木」 に意味上の落差があり、かつ結句「あたら船木を」 において「惜しい船木であったのに」 と述べているように、文脈的には〈逆接〉の連用中止法である。船木として伐るべき立派な木であったのに、ただの木として伐って行ってしまった、というのである。「行きつ」 の「ツ」 は行クという人為的行為の完了を表す助動詞。 |
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406 | 如何為鴨 | ||
(403) | 「万葉集管見」〔下河辺長流、寛文年間(1661~1673)成〕 朝にけに 朝とはよめれ共、只けふといふ心なり。歌にけさとよみて、今日といふ心なることおほし。朝夕朝夕にまさる心なり。有しよりけにといふ、同し心なり。此歌は、家持か、我妻坂上の大孃をよめるなり。女は、朝けのすかたとて、ことにめてたきものにいへは、朝な朝なにいやまさると云心なるべし。 |
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「万葉拾穂抄」〔北村季吟、貞享・元禄年間(1684~1704)成〕 あさにけに見まくほりする其玉をいかにしてかも手にさけさらん [朝尓食尓欲見其玉乎如何為鴨従手不離有牟] あさにけに見まくほり 朝夕見まほしく思ふ玉をいかて手をはなたす朝夕見んと也坂上大嬢を玉に譬也朝にけ朝夕也 |
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「万葉代匠記」〔契沖(1640~1701)、貞亨四年(1687)成〕 朝爾食爾欲見其玉乎如何爲鴨從手不離有牟 [アサニケニミマクホリスルソノタマヲイカニシテカモテニサケサラム] 如何爲鴨、【校本云、イカニシテカモ、當v從v之、】 |
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「万葉集童蒙抄」〔荷田春満、享保年間(1716~35)成〕 朝爾食爾欲見其玉乎如何爲鴨從手不離良牟 あさにけに、みまくほりする、そのたまを、いかにしてかも、手にかれざらん 朝爾食爾 あけくれにといふ意也。又あしたくれにといふ意も同じき也 其玉乎 大孃を指して也。これ喩へ也 歌の意聞えたる通也。玉を娘に喩へていか樣にしてか、常住不2相離1なれそひぬらんと也。すあの約さ也。よりてすあらんをざらんとは讀む也 |
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「万葉考」〔賀茂真淵、宝暦十年(1760)成〕 朝爾食爾、 既出 欲見《ミマクホリスル》、其玉乎《ソノタマヲ》、 大孃子を譬 如何爲鴨、從手不離有《テユカレザラ》牟、」 手從は手よりかれずあらんなり此從を後世は手にといへり古事記に從手とも阿斯/用由《ユユ》久ともありて手の隨《マヽ》足のまゝといふに同じき事なり こゝに佐伯宿禰赤麻呂贈娘子と書歌有けんを今は落し物なり左に報といひ又更贈ともあればなり |
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「万葉集略解」〔橘千蔭、寛政十二年(1800)成〕 朝爾食爾。欲見。其玉乎。如何爲鴨。從手不離有牟。 あさにけに。みまくほりする。そのたまを。いかにしてかも。てゆかれざらむ。 玉は大孃子を譬ふ。如何にせば、其玉を常に手より放たず有らんやとなり。 |
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「万葉集攷証」〔岸田由豆流、文政十一年(1828)成〕 朝爾食爾《アサニケニ》。欲見《ミマクホリスル》。其玉乎《ソノタマヲ》。如何爲鴨《イカニシテカモ》。從手不離有牟《テユサケザラム》。 朝爾食爾《アサニケニ》。 朝《アサ》に日《ケ》にゝて、朝も日《ヒル》もといふに同じ。この事は、上【攷證此卷五十五丁】にいへり。 其玉乎《ソノタマヲ》。 女にまれ、男にまれ、思ふ人を玉にたとへたる事、集中いと多し。上【攷證二中廿二】考へ合すべし。こゝは女をたとへたり。 從手不離有牟《テユサケザラム》。 不離有を、考にも、略解にも、かれざらんと訓り。集中、離の字をば、かるとも、さくとも訓て、いづれにても聞ゆるやうなれど、猶、舊訓のまゝに、さけざらんと訓べし。そは本集四【四十丁】に、殊放者奧從酒甞湊自邊瀦經時爾可放鬼香《コトサケバオキユサケナメミナトヨリヘツカフトキニサクベキモノカ》云々などありて、集中いと多く、皆、はなるゝ意にて、こゝは手よりはなさゞらんといふにて、 この歌は、女を玉によそへて、時となく、朝も日《ヒル》も見まぼしき玉を、いかにしてかも、手より離さず、持るわざのあらんとなり。 |
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「万葉集古義」〔鹿持雅澄、天保十三年(1842)成〕 朝爾食爾《アサニケニ》。欲見《ミマクホシケキ》。其玉乎《ソノタマヲ》。如何爲鴨《イカニシテカモ》。從手不離有牟《テユカレザラム》。 〇朝爾食爾《アサニケニ》は、上に云り、俗に、不斷常住、といふ意におつる詞なり、 ○欲見は、ミマクホシケキと訓べし、(ミマクホリスルとよめるは、いみじくわろし、) ○其玉《ソノタマ》は、大孃をたとふ、 ○從手不離有牟は、テユカレザラムと訓べし、手をはなさずあらむといふ意なり、玉は手に纏て飾装《ヨソ》ふものなれば、かく云り、 ○歌(ノ)意は、不斷常住に、見まほしく思ふ其(ノ)玉を、いかにしてか、手をはなさずにあらむ、いかで常に手に纏て、弄びたきものなるを、と大孃を玉に比へて云たるなり、四(ノ)卷坂上(ノ)大孃贈2大伴(ノ)家持(ニ)1歌に、玉有者手二母將卷乎鬱瞻乃世人有者手二卷難石《タマナラバテニモマカムヲウツセミノヨノヒトナレバテニマキガタシ》とあり、 ○此間に、佐伯(ノ)宿禰赤麻呂贈2某(ノ)娘子(ニ)1歌と有て、其(ノ)歌も有つらむを、共に漏脱《モレ》しならむ、 |
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「口訳万葉集」〔折口信夫、1916~17年成〕 朝に日《ケ》に見まくほりする其玉を、如何にしてかも、手/從《ユ》離《カ》れざらむ 毎日毎朝見てゐたいと思ふ其玉をば、どうすれば暫くでも、手から離さずにゐられようか。(おまへさんを、始終側において置きたい。) |
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「万葉集全釈」〔鴻巣盛広、昭和5~10年成〕 朝にけに 見まくほりする その玉を 如何にしてかも 手ゆかれざらむ 朝爾食爾《アサニケニ》 欲見《ミマクホリスル》 其玉乎《ソノタマヲ》 如何爲鴨《イカニシテカモ》 從手不離有牟《テユカレザラム》 毎朝毎日私ガ見タイト思ツテヰルソノ玉ヲ、ドウシタラ手カラ放サナイデヰラレルダラウ。私ハ始終逢ヒタイト思ツテヰル貴方ト、ドウカシテ何時マデモ放レナイデヰタイト思ヒマス。 ○朝爾食爾《アサニケニ》――朝に日に、毎朝毎日の意。食《ケ》は借字。 〔評〕 坂上大孃を玉に譬へた歌で、はつきりとした素直な作である。 |
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「万葉集全註釈」〔武田祐吉、昭和23年~25年成〕 朝にけに 見まく欲《ほ》りする その玉を、 いかにすれかも 手ゆ離《か》れざらむ。 朝尓食尓《アサニケニ》 欲v見《ミマクホリスル》 其玉乎《ソノタマヲ》 如何爲鴨《イカニスレカモ》 從v手不v離有牟《テユカレザラム》 【譯】 朝から一日中、見たいと思うその玉を、どうしたならば、手から離れないでいられるだろう。 【釋】 朝尓食尓 アサニケニ。既出(卷三、三七七)。ケは時の意。食の字は訓を借りている。朝にも時にもで、朝を初めとし何の時でも。 欲見 ミマクホリスル。見むことを欲するの意。 其玉乎 ソノタマヲ。愛人なる坂上の大孃を玉に譬えている。 如何爲鴨 イカニスレカモ。類聚古集以下、イカニシテカモと讀んでいる。カモは、疑問の係助詞。どのようにしてかの義とされる。同句は、「大船乃《オホブネノ》 絶多經海爾《タユタフウミニ》 重石下《イカリオロシ》 何如爲鴨《イカニスレカモ》 吾戀將v止《ワガコヒヤマム》」(卷十一、二七三八)にも見えている。爲の字を使つてシテの語を表示する場合は、多く爲而と書いているが、爲の一字だけで而を添えない例も、數個ある。「身祓爲《ミソギシテ》 齋命《イハフイノチモ》 妹爲《イモガタメコソ》」(卷十一、二四〇三)、「人皆《ヒトミナノ》 如v去見耶《ユクゴトミメヤ》 手不v纏爲《テニマカズシテ》」(卷十二、二八四三)、「照日《テルヒニモ》 乾哉吾袖《ヒメヤワガソデ》 於v妹不v相爲《イモニアハズシテ》」(同、二八五七)、「手向爲《タムケシテ》 吾越往者《ワガコエユケバ》」(卷十三、三二四〇)は、その例である。それでイカニシテカモの訓は成立するのであるが、新訓としてイカニスレカモの訓も成立するのではないだろうか。スレは已然形であるが、イカニ、カモの如き疑問の辭を伴なうことによつて、假設法を構成して、どのようにしたならの意を表示するのだろう。たとえば「水鳥二四毛有我《ウニシモアレヤ》 家不v念有六《イヘオモハザラム》(卷六、九四三)は、作者が鵜でないことは明白であるが、鵜であつたとしたら、家を思わないだろうかの意を表示している。「妹與吾《イモトワレ》 何事在曾《ナニゴトアレゾ》 紐不v解在牟《ヒモトカザラム》」(卷十、二〇三六)は、何事があつたらの假設の意を、ナニゴトアレゾで表示している。 從手不離有年 テユカレザラム。テユは、手から。カレザラムは、離れずにあらむで、上のカモを受けて反語になつている。 【評語】玉は、しばしば愛人の譬喩に使用されている。この歌もそれで、しかもその玉の説明も平凡である。年代は不明であるが、家持初期の作である。 |
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「評釈万葉集」〔佐佐木信綱、昭和23~29年成〕 朝に日《け》に見まく欲《ほ》りするその玉を如何にしてかも手ゆ離《か》れざらむ 〔題〕 坂上家の大孃 父は大伴宿奈麿、母は大伴坂上郎女である。田村大孃の異母妹に當る。「大孃」とは、年長の娘の意。 〔譯〕 毎朝毎日、自分が見たいと思うてゐるその玉を、どうしたらまあ、手から離さずにゐられるであらうか。いつもいつも見たく思うてゐるあなたを、どうしたらば、自分は手許に引寄せて置くことが出來るであらうか。 〔評〕 意中の人を玉になぞらへた歌は、集中にも多く見える。表現の上に特異な點は認められないが、平明率直な、僞りのないところが、多感な若き日の家持らしい面影を示してゐる。 〔語〕 ○朝に日に 毎朝毎日。この語は「いや日けに」(四七五)「日にけに」(一六三二)などと似て居り、從來は共に「日」の意に考へられてゐたが、遠藤嘉基氏の説に、この「朝爾食爾」の「食」は乙類の假名、かの「彌日異」の「異」は甲類の假名であるから、兩者意義の相違することが知られる。即ち「日にけに」の方は、日のたつたにつれて愈々その樣子の進行してゆく意であるといふ。 ○見まく欲りするその玉を 見たいと思うてゐるその玉をの意。玉は大孃を譬へてゐる。 ○如何にしてかも どうしてまあの意。 |
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「万葉集注釈』〔澤潟久孝、昭和32~37年成〕 朝尓食尓 欲見 其玉乎 如何為鴨 従手不離有牟 あさにけに みまくほりする そのたまを いかにせばかも てゆかれずあらむ 朝に日に見まく欲りするその玉をいかにせばかも手ゆ離れずあらむ 【口譯】 毎日毎朝見たいと思ふその玉をどうしたならば、手から離れずあるだらうかナア。 【訓釋】いかにせばかも手ゆかれずあらむ 「如何為鴨」 を類聚古集に「イカニシテカモ」 とあり、諸本諸注はそれに従ひ異論を見ない。然るに、 大船乃(オホフネノ) 絶多經海尓(タユタフウミニ) 重石下(イカリオロシ) 何如為鴨(イカニセバカモ) 吾戀将止(ワガコヒヤマム) 巻十一・二七三八 の「何如為鴨」 も旧訓には「イカニシテカモ」 とあつたのを略解に「イカニセバカモ」 と改めて以来、諸注それに従ふに至つた。一方は旧訓に従ひ、他方は略解に従つたのは十分それ相当の理由があつての事か、それともこの二つの例のある事も気づかず、只一方には略解の改訓が無かつた為に旧訓に従つたといふだけの事か。今この第四句の訓の決定の為には結句の訓が問題になると思ふが、「離」 を旧訓に「サケ」 とあつたのを童蒙抄に「カレ」 と改めてより諸注多くそれに従つたのである。しかもさう訓みながら略解に「はなたずあらむや」 と譯してをり、攷證には再び旧訓にかへして、「かる」 は「はなるる意にて、ここは手よりはなさざらんといふにて」 と述べ、井上氏新考にも「かる」 が自動詞である事を、後世の例もあげて述べられてゐる。まことに「かる」 は自動詞である。しかしここは自動詞ではいけないか。「さく」 と他動詞にしたらそれでよいか。「さけざらむ」 ならば「はなさないであらう」 といふ意味になるわけであるが、それではをかしい。もし「はなす」 といふ言葉を用ゐるのならば「はなさずにゐられようか」 とこそあるべきところである。しかし「さげざらむ」 と訓んでさういふ意味にとる事は無理である。それが「はなれないであらうか」 といふのであればおちつくのである。もう一つの「いかにせばかも我が戀やまむ」 の例を見ても、「戀」は、いつもいふやうにあるじの意志を超えたものであり、「どうしたら戀をやめよう」 といふのではなく、「どうしたら戀がやむだらうか」 と願ふところに戀する人のなげきが深いのである。それと同じやうに今もどうしたら玉が手からはなれずにあるだらうかといふのである。二つの表現は同じである。右に述べたやうに、はなさずにゐられようかといふのならばわかるが、はなさずにあらうか、では、戀をやめようか、といふにも似て関西の人なら「あほかいな」 といふであらう。その点講義に「『サケ』といへば、故意にする意となる。ここは故意にする意にとる時は、不都合なれば、考のよみ方をよしとす。」 とあるのを正しい解釋といふべきであるが、ただ「不都合」 とだけではわかりにくく少し説明が足りないやうに思ふ。そこで「カレ」 と訓みつつもたとへば、「ドウシタラ手カラ放サナイデヰラレルダラウ」(全釋) とか、「どうしたらまあ、手から離さずにゐられるであらうか」(佐佐木氏評釈) とかいふ譯になるのであるが、これでは誤譯を二重にした形になる。しかもなぜさういふ事になるかと云へば、上に「その玉を」 とあるからである。ではどうするか、といふにここではじめて第四句が問題になる。「玉を」 とあり、「かれず」 としてしかも「いかにしてかも」 といふ旧訓を後生大事に守つたから無理が生じたのである。これを巻十一の例のやうに「いかにせばかも」 にすれば問題は忽ち解決するのである。「その玉をいかにせばかも (その玉は) 手ゆかれざらむ」 であれば主語転換がすなほに出来るが、「その玉をいかにしてかも (その玉は) 手ゆかれざらむ」 ではゆきつまるのである。「花を折つたら散る」 とは云へるが、「花を折つて散る」 とは云はない。「花を折つて」 ならば「散らす」 である。「その玉を、どうしたならば、手から離れないだらう。」(全註釈) とあつてはじめて筋の通つた解釋になるが、しかもそれこそ正に「イカニセバカモ」 の解釋なのである。武田博士もその後そこに気づかれたのであらう、巻十一の場合は「イカニスレカモ」 と改め、今の作も増訂本には同様に訓まれてゐるが、「イカニスレカモ」 ならば、「スレ」 が已然形になつて、「止まむ」「ざらむ」 とは打合はない。 如何為鴨 従手不離有牟 イカニセバカモ テユカレザラム 何如為鴨 吾戀将止 イカニセバカモ ワガコヒヤマム 共に「イカニセバカモ」 と訓んでこそおちつくので、前者のみ「イカニシテカモ」 の訓が用ゐられてゐたのは、略解が前者の改訓に気づかなかつた為に、後の学者たちもただ深く考へずに旧訓に従つたといふだけの事であつて、旧訓尊重に意味はなかつたのである。「シテ」 の訓を肯定しようとして、「為」 の讀例をしらべるなどは無用のせんさくである。「かも」 の「か」 は疑問、「も」 は詠歎。どうしたならばその玉が手から離れないであらうかナア、といふのである。大嬢を玉にたとへた事云ふ迄も無い。 |
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[注「いかにせばかも手ゆ離れずあらむ」(有斐閣「萬葉集全注巻三-403)] (この巻三の筆者・西宮一民) 朝尓食尓 欲見 其玉乎 如何為鴨 従手不離有牟 アサニケニ ミマクホリスル ソノタマヲ イカニセバカモ テユカレズアラム 〔訳〕 毎朝毎日、見たいと思うその玉を、どうしたらいつも手から離れないでいるだろうか。 【注】 いかにせばかも手ゆ離れずあらむ 「いかにせばかも」 は原文「如何為鴨」 とある。類聚古集に「イカニシテカモ」 とあり、諸本諸注いずれもこれに従ったが、注釈において「イカニセバカモ」 と改めた。この改訓に従うべきである。 もし「イカニシテカモ」 であるなら、「どのようにして、その玉を手から離れないでいるだろうか」 と訳すことになるのであって、これでは全く文章が成り立たなくなる。それで、従来「離」 の訓読をサケ(旧訓) からカレ(童蒙抄) などとし、またその訳を「放つ」(略解)、「離す」(攷證) などとしてきた。しかし原文「従手不離有牟」 とあるので、「テユカレズアラム」 としか訓めず「カル」 は自動詞である。したがって、「はなさずにいられようか」 の意でもなくまた「はなれられないだろうか」 の意でもなく、「離れないでいるだろうか」 の意である。ところが前述の如く、それでは「その玉を」 の格助詞が始末に困る。結局これは「如何為鴨」 を「イカニシテカモ」 と訓んだために生じた無理であるとして、注釈は「イカニセバカモ」 と改訓したのである。この改訓によるならば、「その玉をどうしたら」 というように格助詞もうまく収まることになる。この「イカニセバカモ」 の例は「大船のたゆたふ海に碇下(いかりおろ)し如何為鴨(イカニセバカモ)あが恋止(や)まむ」(11・二七三八) に見える。これも旧訓に「イカニシテカモ」 とあったのを略解に「イカニセバカモ」 に改めて以来定訓になった。折角これに気づきながら、今の歌の改訓にまで及ばなかったために諸説を生んだに過ぎない。「手ゆ」 の「ユ」 は「~」から、の意。「離(か)る」 は下二段の自動詞。離れる。「ム」 は推量の助動詞の連体形で、上の「カ」 の結び。 |
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418 | 此旅人□[忄+可]怜 | ||
(415) | [注「この旅人あはれ」 (有斐閣「萬葉集全注巻三-415)] (この巻三の筆者・西宮一民) -「アハレ」 は原文「□[忄+可]怜」 」 とある。元来「可怜(ベシあはれム)」 の意だが、その「可」 を「□[忄+可]」 と記したもの。この「□[忄+可]」 の用例は多く(4・七六一、7・一四〇九、一四一七、11・二五九四)、アハレと訓まれ、また「怜□[忄+可]」 (1・二) は「ウマシ」 と訓まれ、また東大寺諷誦文稿(280行) の「□[忄+可]怜」 にはオモシ(「ロシ」を加えて理解すべきもの) の訓がある。このように、悲喜その他の深い感動を表す語であるが、ここでは、いたましい・可哀そうだ、の意。題詞に「悲傷」 とあるからである。 |
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四 | 521 | 於曽理無 | |
(518) | [注「恐りなく」 (有斐閣「萬葉集全注巻四-518)] (この巻四の筆者・木下正俊) 寛永版本に「與曾理無」 とあり、古写本も金沢本・古葉略類聚鈔をはじめ、紀州本・神宮文庫本・西本願寺本など大部分の本に「與曾理無」 とある。これに対して元暦校本には「於曾理無」 とある。これによれば「おそりなく」 と読むべく、恐れることなく、の意と解される。動詞「オソル」 は中古以前に上二段活用であったことが知られている。「與曾理無」 とある本によれば「よそりなく」 と読むべく、その場合「ヨソル」 の語義は「寄ル」 のそれに近いものと解されている。仙覚抄が既に、 ヨソリナクトハ、ソバヘヨルコトモナクカヨヒシトヨメルナリ と言っており、色葉和難集に、 よりそなくとは、またことがたに、よこがたに、よこいることもなくといふなり(巻四) とあるのは更に分かり易い。注釈が「道よりもしないで」 と解するのが一般で、代匠記精撰本の「ヨソリナクハ、伴ナヒテヨリ所トスル人モナキナリ」 というのは同じ「ヨソリ」説でも少し変わっている。「ヨソリ」説はまた歌柄の上から「オソリ」説を排斥しようとする。「恋故に恐れも無く」(全註釈) などと解すると「ひどく無味乾燥になる」(私注) というのである。また注釈は本文批評の上からも「ヨソリ」 を古い形とされる。それは、元暦校本より成立年代の古い古今和歌六帖にこの歌が引かれ、その第三句が「よきりなく」 となっていることを重視されてのことである。 わたくしは「於曾理」 を採る。この歌を直接に扱ったのではないが、これに類する幾つかの例を通覧して、意改は近世以降の注釈書ばかりでなく、古写本の書写者もこれを行っていることを論じた(「万葉集写本の意改」文学昭和五五年一月)。古・次点期の訓はおおむね中古歌人の鋭い直観力によって付され、必ずしも原文の漢字一字一字を忠実には追わない。古今和歌六帖の「よきりなく」 は、先に引いた和難集の中の語「ヨコイル」 がつづまった、立ち寄る意の「ヨキル」を連想して生じた訓であろう。同じ「過」 の訓でも、その地に寄らずに素通りする意の「~ヲ過グ」 の他に、その地に立ち寄って行く意の「~ニヨキル」 というのがあった。その「ヨキル」 と「ヨソリ」 といずれが先にこの歌の訓として現れたか、的確に指摘することは難しいが、その「ヨソリ」 の訓によって金沢本などの「與曾理」 の本文が出来たものとわたくしは考える。ただし、金沢本も訓は「おそり」 とあって、漢字本文と合わない。この矛盾に筆者が気づかなかったのは、金沢本が平仮名別掲訓形式の本だからである。仙覚が文永本の奥書に、自分が片仮名傍訓形式を採用したのは料紙の節約という実利の他に「和漢相並見合無煩」 すなわち和漢相離れた別掲訓だと訓の誤りが隠れ易いという欠点があるからだ、と言っている。古や紀、更には宮、細、西、陽などの諸本において「與曾理」-ヨソリ となってその矛盾が解決されたのは、それが片仮名傍訓の本だからである。西本願寺本は「與曾」 の右に「於曾古」とある。寛元本整定の時には見えなかったが、文永本の校合には用いた証本の或るものに「於曾理・・・」 とあるものがあったことを示すのであろう。 万葉集に「ヨソル」 という語はある。それは、或る男女に関して第三者が噂する、言い寄せる、の意の下二段「ヨス」に対するその受身動詞、言うなれば、言い寄せられる、噂される、の意であり、 新田山ねには付かなな我に餘曾利はしなる児らしあやにかなしも(14・三四〇八) ひとねろに言はるものからあをねろにいさよふ雲の餘曾里妻はも(14・三五一二) などがその例である。これらによって「所依」「所縁」 などと書かれたものも「ヨソル」 と読むべきことは「我に寄そり」(五六四) の所で後述する。もしこの歌において「與曾理無」 の本文を採るならば、右の意に解さなければならない。歌柄の上から「恐りなく」 は適切でないというのは一理あるが(通う男が言うのでないからほとんど願慮の要はない)、「ヨソリ」 と読んでそのため「ヨソル」全体の語義を歪めるが如き態度は本末転倒であろう。 代匠記初稿本は「ヨソリナク」 と読んではいるが、「ヨ」と「オ」 と相通、「オソリナク」 の意とし、「山への道には、山賊猛獣などもあるを、それにもおそれずかよひし君が・・・」 と解している。道らしい道もない密林をしかも夜中に踏み分けて通う男は恐ろしいと思わないのだろうかと作者は思い遣っていたのであろう。古典集成も「オソリナク」 と読んでいるが、「神の社があるので『恐り』と言ったもの」 と注するのは、巻第三の ちはやぶる神の社しなかりせば春日の野辺に粟蒔かましを(四〇四) などを考慮したものか。もし今日の春日大社をさしているのであれば、その創建の時期の点で疑問がある。和銅七年の安麻呂薨時にそれがあった可能性が少ないからである。正倉院文書天平勝宝八年の東大寺図には御藍(三笠) 山の西の現在の社地に「神地」の文字が見え、巻第十九の藤原清河が遣唐大使となった時に春日祭神のことがあり、歌(四二四〇) が詠まれたのは、その五年前の勝宝三年であった。 |
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四 | 524 | 庭立 (麻手苅干) | |
(521) | [注「庭立 (麻手苅干)」 (有斐閣「萬葉集全注巻四-521)] (この巻四の筆者・木下正俊) -庭に立つ- 「ニハ」は作業をする場所を広くさす語で、脱穀や麻の皮剥ぎなどいわゆる庭仕事をする所をいうが、ここは農家の戸口に近い蔬菜や蕎麦・麻などを植えてある畑を言ったのであろう。催馬楽に「庭に生ふる唐薺(からなづな)は良き菜なり」とある。「タツ」は植物が丈高く成育することをいうのであろう。高天原から特命を帯びて葦原の中つ国に遣わされた天稚彦(あめのわかひこ)が居付いてしまい、報告を怠っているのを怪しんで、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)が無名雉(ななしききし)に偵察に行かせた、という神代紀下の記事に、その雉が天稚彦の門前に「所植湯津杜木(ゆつかつら)」の枝に飛び降った、とあって、その「所植」に「多底婁(たてる)」の訓注がある。東歌の「庭に立つ麻手小衾(あさでこぶすま)」(14・三四五四) もその趣である。麻は高さが約二・五メートルに達することもあり、「タツ」というにふさわしい植物である。古義が、「ニハニタチ」と読むべきだとし、娘子が庭に立って、と解するのは一理あるが、右の東歌の原文が「尓波尓多都」と仮名書きになっているのに合わせた方が良かろう。 |
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四 | 540 | 痛寸敢物 | |
(537) | [注「痛寸敢物」 (有斐閣「萬葉集全注巻四-540)] (この巻四の筆者・木下正俊) -堪へかたきかも- 通訓「あへかたきかも」 原文には「痛寸敢物」 とあり、古点は「イタキトリモノ」、仙覚本の紺青訓は「イタキキスソモ」 で、仙覚抄には「痛キ傷ナンドアラムヤウニ悲シカルベシ」 と解した。「取」 が「敢」 の誤字でないかとする説は、既に古義の「偲不敢物(シヌヒアヘヌモノ)」、新考の「有不敢物(アリアヘヌモノ)」 などあるが、「取」 だけを改め、「痛寸」 を「タヘガタキ」、「敢物」 を音仮名として、全体を「タヘガタキカモ」 と読む菊沢季生氏の説が最も優れている。塙本などにおいて、これによりつつ「アヘカタキ」 としたのは、上代語には「堪」 を「タフ」 と読むべき確例がないからである。菊沢氏が「痛寸」 を「タヘガタキ」と読んだのは、名義抄に「痛、タヘカタシ」 とあるのによったものである。なお言えば、「敢」 は談韻古覧切で、淡藍覧甘三蹔などその韻の字は、「ダム・ラム・カム・サム・ザム」 のように「アム」の母音を有し、「淡(たび)等」 「梅乃散覧(らむ)」 「甘(かむ)南備」 「神思知三(さむ)」 「和蹔(ざみ)」 などと二音仮名にも使われる。これら唇内韻尾の字はまた、後続字が「m」子音または「b」子音である場合、「情有南(な)畝」 「神南(な)備」 のように、その韻尾を省略したような使用例が見られることがある。この場合も「物」 が「m」子音の字であるため、「敢物」を「カモ」 と読むことに不都合はない。 |