石舞台古墳については、多くのサイトで解説されており、ここで改めて紹介することもないだろう。
ここでは、石舞台に纏わる、というより、蘇我馬子の墓と言われているため蘇我滅亡の舞台、というページにしたい。
蘇我氏の出自は、多くの謎をはらんでいる。古来より、天皇家(当時は大王)を補佐する豪族と言えば、物部氏、大伴氏が語られるが、蘇我氏はいつごろから正史に登場するようになったのか。
蘇我氏の台頭が日本書紀に登場するのは、6世紀の継体王朝からだ。その頃、半島では新羅と百済が半島南部の伽耶地方を占領しようと紛争を起こしている。百済から救援要請を受けた継体朝は、大和から軍勢を派遣するが、北九州の豪族磐井が新羅側からの懐柔で、その派兵を拒んでいる(磐井の反乱)。そこで今度は物部氏の族長・麁鹿火(あらかい)を将軍として筑紫に派遣し、磐井を倒し反乱軍は征討された。しかし、当初の目的であった半島南部は新羅によって占領され、伽耶の金氏は、後の新羅による半島統一に大きな功績を残している。
この派兵失敗が、蘇我氏の台頭を許す結果になった。
そもそも、新羅の伽耶地域占領に対して、百済は大和政権に応援要請したが、時の実力者大伴金村が新羅に伽耶四県割譲も已む無し、という外交策に出ていた。それが他の豪族たちの反目にあい、最終的には、その割譲を認めた四県の奪回作戦として、半島に派兵を決定したものだ。その結末は、前述の通りだが、派兵の理由、そしてタイミングのまずさから、大伴氏は大きく権威を落としてしまう。
とはいっても、物部氏以上の勢力を誇る大連・大伴氏を、簡単には追い落とせない。そこで物部麁鹿火(あらかい)が没したあとに族長となった大連・物部尾輿は大臣となった新興豪族・蘇我稲目と謀り、大伴氏の失脚を画策し、それが成功し大伴氏は滅ぶ。以降蘇我稲目は外交・財政を担当するようになり、次代の馬子、蝦夷、入鹿へと権力のトップへと登り詰める。が、問題はこの稲目の娘たちを大王家へ妃として嫁がせるに至るその過程が謎となる。大王家の外戚として権勢を欲しいままにすることは理解できるが、そこまでの道のりに、十分に理解できる背景が分からない。
これについては、「蘇我入鹿」について別のページで書こうと思うので、ここでは触れない。
この稲目から三代後の入鹿の時代に、蘇我本宗家は滅亡するのだが、その前の馬子の時代は、まさに蘇我政権、蘇我王朝の観がする。幾人もの娘を大王家へ入れ、その発言力を強めることに命を懸けているかのように見える。でも、それはあくまで「記紀」に基づく蘇我氏だ。蘇我氏の実の姿は、果たしてどうだったのか。
それが、この石舞台古墳に少しはヒントがあるように思える。大王家を凌ぐほどの権勢、横暴さを理由にしての「大化の改新」
しかし...蘇我氏がそうした立場であったら...つまり、大王家の立場であったら... この石舞台も、元はきちんと盛り土された古墳だったろう。それが何らかの事情により、もしくは意図的に剥き出しにされた。これは、その凄まじい何かの工作めいたものを感じさせる。明治時代に比定された歴代の王墓、古墳はその検証を行えずに今日に至っている。伝承や文献を参考に
していることは確かだが、その検証は...行われていない。
石舞台のような巨石を用いた墳墓は、他の石室と比して、どうなのだろう。この石舞台の一画には、小規模だが幾つかの古墳もあり、それをこの石舞台古墳を造営するために削り取っている。つまりぶっ壊しても造れるほどの権力者が、この石舞台の埋葬者となる。重層遺跡、重層古墳の実際はどう評価されているのか私には分からないが、尋常ではないことは、想像できる。
日本書紀が上梓された時代から、まだ一世紀ほどしか遡らない時代のことだ。推古紀に記される「桃原」の地、嶋ノ庄の地名...それが、この石舞台の地でもある。
石舞台の横から、遠く西を見る。
飛鳥時代には欠かせない物語の二上山が、水墨画のように、霞んで浮かぶ。悲劇の山、二上山からも見守られる石舞台。今は飛鳥歴史公園として、多くの人で賑わっている。
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