万葉集に、何故惹かれるのか?
その答えに窮するのは、私だけではないはず
専門家でもない私が惹かれるのは、いや、専門家ではないからこそ、惹かれるのかもしれないが、まず非常に透明な歌の感じを受ける
それから、イメ−ジの多様性...これは、定説があまり持ちいれられない自由性
逆に言えば、よむ人それぞれの想いが大まかに、許容されること
これらの原因となるものは、この和歌集が、生まれた背景にあると思う 万葉集ほど、様々な分野で研究がなされている歌集はない
文学として、あるいは歴史、言語...それぞれが、多くの専門家によって、
極端に言えば、四千五百余首の中の、たった一首を選んで、
その研究に余念のない専門家もいる
後世の我々...いや、まったくの素人の私には、その魅力が何であるか
そして、何故そんな現実とは思えない研究が今もなお続けられるのか
不思議でならなかった...少なくとも、自分自身で接してみるまでは... 
このHPのスタ−トした時点では、私が感じた、ほぼ私だけのイメ−ジで構成しようと思い込んでいたものが
この歌集の複雑な構成に、とても生半可な気持ちでは出来ないと思い始めてきた
専門家でないとはいっても、的外れな感じ方を書けば、その歌に対して失礼になる

 歌から浮かぶイメ−ジを書こうとしても、まったく間違った解釈からでは、笑い話のタネになるだけ...
もっとも、人にはいろいろな感じ方がある、その自由奔放な受け止め方が出来る歌集、
というのが、そもそも万葉集だと、解釈していた
 この辺で、ある程度の「万葉集案内」はしておくべきだと
本日(2002年5月18日)、このペ−ジを設けることにした


 
 万葉集って?
 収録歌の想像を絶する年代感 収録されている最後の歌の年が淳仁天皇の天平宝宇三年(759)で、それは、まがりなりにも律令の国家体制を経た時代の作歌。
その作歌年は、何かの意図がない以上問題は起こらない。
では、何が問題となるのか?
万葉集で一番古い作歌と言われているのが、巻二の磐姫皇后の相聞歌四首。
この皇后は、第16代仁徳天皇(即位406年)の皇后。
万葉集巻一、いわゆる冒頭歌は21代雄略天皇(456年)、実に5世紀初頭から8世紀中葉までの約350年間の歌集と言うことになる。
そこで、多くの専門家が語るように、初期の作歌は、記紀歌謡からの引用や異伝なので、後世の作が伝説的なエピソ−ドに付会されたと解釈した方が自然かもしれない。 でもよく考えてみると、8世紀初頭の記紀以前の現存する資料は存在しないのに、どうして万葉集にのみ、そうした歌謡が引き継がれるのか。
記紀以前の書物が現存しないことと、存在しなかったこととは大きく違うが、少なくとも万葉集の編者はその手掛かりを持っていたことになる。
これが、また大きな謎となっている。 この時代に編纂された意味は 集中最後の年に歌われた作が759年であるため、編纂されたのが759年以降であることは、容易に出せる結論であっても、その長きに渡る収録歌及び表記的な面からの多くの研究で
初期万葉集と言われる、巻一巻二を基本として以降の巻とを区別している。
 とは言っても、巻一から最終巻の巻二十まで一貫して時代順ではなく、題材に於いてもその構成は複雑になっている。
多くの作歌が集中し、それを編纂のピ−クと考えれば、幾つもの編纂時期が考えられる。
そして、そのとき考慮されるべきが、この7世紀から8世紀にかけての、日本という国の国家体制だと思う。
 実質的に万葉集が花咲いたのは、舒明・皇極・孝徳・斉明の飛鳥朝、天智・弘文の近江朝、天武の飛鳥朝、持統・文武の藤原朝、元明・元正・聖武・孝謙・淳仁の奈良朝。
この14代の約130年間だと思われる。
この間に特筆すべきことは、正史「日本書紀」の成立(720年)で、古事記はその前、712年の成立だが、正史というよりは天皇家の家伝的なものだ。
そして正史の成立に先駆けて、「壬申の乱」(672年)という内戦と、「大化の改新」(645年)といわれる権力闘争があった。 自然に感じられることは まさに、この正史を通じてこれらの大事件を知ることになる。
その意味は、この重大な変革を、正史の名の下に記録することで、後世に事実である、と認めさせることだと思う。
正史「日本書紀」が、すべてではないにしても、多くの矛盾に満ち、部分的に拾い出せば記事の事実が裏付けされても、全体の整合性、何よりも関わり合いの深い半島や大陸の史書(正史)との整合性が不充分だ。
 隣国である当時の世界随一の超大国「唐」にならって、導入した律令体制も、その実効力においては、まだまだ不充分だった。
そんな中で、「万葉集」は誰が、どんな立場の人が編纂しえたのか。日本語と言う、表記がまだままならぬ時代...。
 ちなみに、「日本書紀」は漢語で書かれている。漢字を表音文字として使っているのではなく、漢語で書かれている。...と言うことは、当時の支配階級は、その意志伝達の手段として漢文を解さなければならない。それは、半島の支配状況でも同じことがいえる。
 勿論、漢語ではなくすでに日本語はあっただろう。漢字の音を借り、単なる表音として使用したのが「古事記」であり「万葉集」といえる。
とにかく、かなりの知識層及び支配階級に属していなければ、これらの文字・言語を駆使しての書物の編纂は不可能だと思う。
なのに...「万葉集」の編者について、「日本書紀」以降の正史では何も言及されていない。
従って、この歌集は勅撰歌集ではないことになっている。しかし、どうも納得しがたい。これだけの文字を駆使した歌集を、一般の者が、この場合は国の実権者から任命されずに成すことが出来たのか、と。
 古歌、伝承歌などの採録には、まさに国家的な資料収集の事実があるはず。それでもなお、正史にその存在を触れられていない「万葉集」とは...。
 ひねくれた見方をすれば、公に出来ない歴史の側面あるいは裏面に、この「万葉集」は位置づけられないか、と。
事実、国家に対する謀反が発覚し、そのために死に追い詰められた者たちへの同情もしくは、それが、姦計によるものだと、はっきり題詞に書いて作られた歌も、この「万葉集」には載っている。
 この種の研究書や学説は、随分刊行されているし、その面から「万葉集」にアプロ−チするのも充分面白いと思う。 初めに理解しなければならないこと 万葉集に初めて触れるのが、小学校だったか中学校だったか忘れたが、いずれにしても、私の覚えている限りでは、少なくとも声に出して読むことに、それほど難しさを感じなかったこと。
 使い慣れない言葉を、スム−ズにこそ読めはしなかったものの、読み方が解らなかった、ということはなかった。
 と言うことは、現代でも読める言葉...ひらがな混じりだったからだろう...ところが、後になって知ったことは、この四千五百余首すべて漢字で書かれている。
そしてほとんどの歌が、漢字本来の意味を生かして用いてはいない。
主にその字音を拝借して、結果的に現在のカナ文字と同じ役割をはたしている。
 そこで「万葉仮名」と、言われるようになった。これは、簡単に想像できることだけど、この「万葉仮名」の使われ方が非常に特殊だったため、その読み方一つ数多くの見解が出現する。当然、読み方が違えば、その意味する日本語も大きく違う場合もある。
 わが国初の勅撰歌集「古今集」は、延喜五年(905)に醍醐天皇の勅命で、当時の大歌人・紀貫之らが完成させたが、このときの仮名序で、紀貫之はその使命に対する大いなる喜びを書いている。
 そこで、引き合いに出されるのが、「万葉集」であるが、「万葉集」の編纂から百数十年...漢詩文の隆盛で和歌というものの存在が危うかった頃のことだった。
「古今集」の編者たちが、いかにして「万葉集」の歌人たちを訓んでいたか、そして、どう感じていたか窺い知ることが出来る。
 しかし、この「古今集」よりさらに下って第二勅撰和歌集「後撰集」の作業が、村上天皇天暦五年(951)に始まるが、そのときの主な作業は、勅撰の和歌集を撰ぶことと同時に「万葉集」に訓点...つまり「ヨミガナ」を付けることだった。それだけ、「万葉集」はもう難解な歌集になっていたということになる。
 そして、現在私たちが読める「万葉集」という歌集は、このときの「訓点」をもとにしたものとなる。
 当然、その「訓み」が定着するのは、簡単ではなかった。この「訓点」作業は、図らずもその難解性を示したに過ぎず、ますます、この歌集は...手の届かないところへ祭り上げられてしまった。
 江戸時代になってから、ようやく本格的な研究が始まった。それまで、和歌の本は紛れもなく「古今集」だったのだ


 万葉仮名
 万葉仮名を使っていた八世紀以前の人たちは、どんな言語を日常で使っていたのか。これは「万葉集」の読み方と大きな関わりを持つと思う。ほとんど一字一音が原則と言っても、初期万葉集などは表意的な使われ方もしている。と言うことは、字音、字訓の入り乱れる非統制な歌も存在する。
 柿本人麻呂歌集という歌集があって、その実態はまだ定説がなかったと思うが、この歌集が人麻呂本人の作歌による歌集なのか、あるいは人麻呂が古歌や伝承歌を集めて自身の歌集に取り込んだものなのか...。「万葉集」の「柿本人麻呂歌集より出る」とされている歌は、実に多い。そして、問題になっているのが、その表記方法だ。
 古歌伝承歌ではなく、年代もほぼ確定できる歌については、基本的には「一字一音」が守られており、訓み方も後世の三十一文字の形に訓むことは難しくない。
しかし、この「人麻呂歌集」の中には、いわゆる助詞を排した「略体歌」が多く、それが、人麻呂の作ではないだろうと言われてもいるが、漢字に表意の役割もさせている類例はかなりある。 それを、先の「訓点」作業において、三十一文字に読ませるのは、並大抵の作業ではないはず。しかも、それが現在に至るまでの訓みの基本になっている。ならば、その訓みが果たして妥当なのかどうか...。それが、また多くの研究者のほとんど永遠のテ−マにもなっている。
 万葉の時代...この時代は、まさに半島、大陸そして大和をはじめとする日本は、混沌とした時代でもあったことを忘れてはならない。言い換えれば、周辺諸国の影響、文明の影響も大きかった。その中で、言葉の影響は正史が漢文で書かれていることからも推測できるように、絶大なものだったに違いない。その時代に生きた歌聖・柿本人麻呂。彼が駆使する言葉の綾は、我々の想像を超えたものであったと思う。

 万葉集の読み方
 現在私たちが、少なくとも「万葉集」を読めるのは、多くの先人たちの直観力によるものだと思う。
彼らの長い長い解読への努力が、現在漢字仮名まじり、五七五七七の調子、その格調の高い和歌としての愛着を与えてくれる。
 だが...じっくり考えてみたい。
「万葉集」の本文は、実際には平安朝以来の歌人や学者、特に江戸時代前期の契沖、中後期の国文学者賀茂真淵、本居宣長など、まさに彼らをはじめとする多くの人たちの「創作」でもあったのではないか、と。そんな見方も成り立つと思うこのペ−ジのベ−スの一部にもなっている大岡信「万葉集を読む」(岩波書店)からその一例を引用する。-------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------- 
  394 標結ひてわが定めてし住吉の浜の小松は後もわが松  巻三  
  (しめゆひてわがさだめてしすみのえのはまのこまつはのちもわが松)

巻三の「譬喩歌」の章にある余明軍(金明軍とする本もある)の歌。
「しめなわを結わえて、この中は私のものと定めておいたこの住吉の浜辺の愛らしい小松はいついつまでも私のもの」というので、小松は若い娘の譬喩である。住吉の浜に住む娘と契りを結んだ男が、心変わりせずにお前を愛しつづけると誓っている歌である。
訓読に従って読めば何の困難もない。しかし、万葉仮名の原文はどうだろうか。印結而 我定義之 住吉乃 浜乃小松者 後毛吾松この第二句の「義之」がなぜ「テシ」と訓読できるのか。現代の注釈書はすべて簡明にその理由を教えてくれる。義之をテシと訓むのは、王羲之はすぐれた書家(手師)であったからの義訓。(中略)義と羲と通用した。(岩波日本古典文学大系「頭注」)なるほどそうか、と感心してそのまま通り過ぎることも出来る。だが、義之→羲之→書家→手師→てし、と言う一連の推理は、一体だれが最初に解決したことだったのか。ちょっと立ち止まって見直してみれば、これはまさに推理小説のタネにもなりうる話だと気づく。

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(私見) 以下契沖の「万葉代匠記」での「義之=テシ」の試み、賀茂真淵は「義」は「篆」の草体の誤りだと苦しいこじつけ。それらの長い苦悶のあと、真淵の弟子宣長によって一応の解決をみる。

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「本居宣長全集」(筑摩書房)第六巻の「万葉集玉の小琴」印結而 我定義之(394)
 義之は、てしと訓へし、此外、四巻四十一丁言義之鬼尾(664)、七巻三十一丁結義之(1324)、十巻三十丁織義之(2064)、また逢義之(2066)、十一巻二十丁触義之鬼尾
(2578)、十二巻二十丁結義之(3028)、これら皆同し。てしと訓へきこと明らけし、さて、是をてしとよむは、義字を、ての仮字に用いたるにはあらす、故に義之(テシ)と続けるのみにて、義(て)とのみいへるは一ツもなし、義は皆羲字の誤にて、から国の王羲之といふ人の事也、此人書に名高き事、古今にならびなし、御国にても、古より此人の手跡をば、殊にたふとみ賞する故に、手師の意にて書る也、書のことを手といふは、いと古き事にて、日本紀にも、書博士をてのはかせ共、てかき共訓たり、さて又、七巻三十一丁十一巻二十二丁に、結大王(ムスビテ   シ1321,2602)、十巻三十三丁に、定大王(サタメテシ2092)、十一巻四十七丁に、言大王物乎(イヒテシモノヲ2834)、これらの大王もてしと訓て、義理明らか也、ふるくはかく訓べきことをしらすして、いたく誤りよめり、是もかの王羲之がことにて、同しく手師の意也、其故は、羲之が子の王献之といへるも、手かきにて有ければ、父子を大王小王といひて、大王は羲之がことなれば也、かかればかの義之と、此大王とを相照し証して、共にてしと訓べき事をも、又王羲之なることをも、おもひ定むへし、師の説には、義之をてしと訓は、義は篆(テン)の誤也といはれしかど、篆を仮字に用いたる例なく、又義之とつつけるのみにて、義(て)とはなして一字書る所もなければ、義之と二字つづきたる意なる事うたがひなし、又大王(てし)は天子の意也といはれしかど、天子(てんし)の字音をとりて、訓に用ふべきにもあらず、又其意ならば、直に天子と書る所もあるべく、天皇(てし)などども書る所もあるべきに、いづこもただ大王とのみ書けるは、決て其意にはあらずと知へし、「万葉集玉の小琴」は、万葉集巻一から巻四までの歌のうち、問題ある歌の語句につき訓詁注釈を試みたもので、直接には師の賀茂真淵の「万葉考」に述べられている説の不備を、徹底した実証主義によって、是正する目的で執筆されたものである。(中略)以上ほんの一つの例をあげるにとどめるが、いずれにしてもわたしたちが現在やすやすと読むことが出来るようになった「万葉集」は、実際にはおびただしい先人たちの苦心と創造的努力によって今ある姿にまで、整えられてきたのである。(後略)
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 万葉集は、こんなにも先人のもがきにも似た苦悩の結果だったということを、今更のように思い知る。
ただし、集中のどの歌も、それがたとえ作者の意図をはなれたものであったとしても、ならば、原作者ではなく実作者といえるかもしれない平安時代の学者・歌人そして江戸時代に至る宣長など、彼らの感性の歌声と割り切って訓む方法もある。それを了解できなければ、自分が納得するまで徹底的に和歌を分解すればいい。
 「万葉集」はそこが魅力であり、そこが厄介なところだと思う。
 この歌集は、以降の勅撰歌集とは違って、明確な歌の心だけではなく、その時代の持つ厳しさや優しさ、ひいては日本語という言語そのものにまで触れなければ、決して解明できないものだから...。
 もっとも、どんなに英知を集めたとしても、その解明のほんの少しの手掛かりにしかならないだろう。何しろ現存する最古の書物が...あの8世紀の「日本書紀」なのだから...。
日本の何処かに、いや半島、大陸をも含めた何処かに、その手掛かりは、きっとあると思う。
その夢を見ながら、一首一首のドラマに想いを馳せるのも...いいものだと思う。



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