万葉集をよむ                新編日本古典文学全集・小学館「万葉集」のはじめに 古典への招待  

  万葉集の重み  
 活字に目慣れた私たちは、古典文学作品の成立当時の体裁や料紙の質、文字の形や大きさなどを忘れ勝ちである。万葉集にしても、振り仮名付きの原文や書き下し文だけで一冊を成す類の本が幾つか世に在り、また入手も容易である。しかし、近世初頭の寛永版本が世に出るまではどうだったろうか。
『更級日記』の作者は十三歳の時、源氏の五十余巻、櫃に入りながら手にした喜びを語っているが、それを参考にして万葉集の原本の姿を考えてみたい。(中略:天治本万葉集の巻第十三、巻子本一軸の写真掲載)実物は京都市北区小松原の福井氏所蔵ということであるが、今はこの複製本をもとに大体のところを想像してみよう。天地25.5センチ、全長11.75メートル、重さ450グラムである。ただし短歌五十六首の平仮名別提訓の分を差し引いて漢字文だけで計算すれば、概算400グラム、そしてこの巻第十三の分量が平均より小さいことを考慮して二十五倍すれば、二十巻全体の重量は10キログラム前後となり、中型の段ボール箱一つにほぼ収まるという大きさを思い描けば、大よその見当がつく。巻の長短に合わせて軸の直径を按配すれば、各巻、大した不ぞろいもなくなるだろう。
 奈良朝末期の宝亀の頃か、大伴家持の枕辺にあった原本万葉集、それがしばしば手を入れることがあったと思われるため、第何次の「原本」であったかは別にして、そのような箱入り万葉集がかつてあったことは確実であろう。先程引いた『更級日記』の作者が読みふけった『源氏物語』は「五十余巻」とあるが、実際は冊子本で五十数帖、万葉集より少し大きいくらいの櫃に入っていたのではなかろうか。
 
  万葉集の謎語性 
 中古に入ってしばらく万葉集は世の人々から忘れられる。漢風が盛行し、和歌が息を潜めたからである。菅原道真撰かと思われる『新撰万葉集』は万葉集を評して、「文句錯乱、詩に非ず賦にも非ず、字対雑揉、入り難く悟り難し」と言っている。それは、漢字ばかりで書かれているが漢詩とも思えず、さりとて「やまとことば」を写したとも考えられない、謎だらけの「怪物」に首をかしげた当時の学者歌人たちの困惑を示している。
 しかし、『古今集』に次ぐ勅撰集『後撰集』の撰者である源順らの梨壺の五人は、この万葉集の解読に着手した。時の帝、村上天皇の下命によるものであろうが、その苦労は想像に余る。強いて近いものを求めるならば、近世の『蘭学事始』が述懐する『解体新書』の訳出の苦心談の難渋に通ずるものがあったろう。漢字ばかりが並び、しかも行草が交じり、時に一字なのか二字なのかも定かでなく、音・訓何れによって書いたのかも分からない。参考すべき辞書・索引の類もなく、途方に暮れたに違いない。それでも短歌は何となく意味がたどれ、時に『古今集』などにも載っている歌が見つかり手がかりとなって、思わず快哉を叫ぶこともあったのではないか。それでも長歌は句切りの位置さえはっきりせず、しばしば長大息することもあったであろう。例えば、今日、一般に、

 
籠もよ み籠持ち ふくしもよ みぶくし持ち この岡に 菜摘ます児 家告らせ 名告らさね・・・

と読まれている巻頭の雄略天皇の御製、句間をあけないで原文で示せば、

 籠毛与美籠母乳布久思毛与美夫君志持此岳尓菜採須児家告閑名告紗根・・・

と書かれてある歌に、古くは二通りの読み方があったらしい。

 A コケコロモ チフクシモヨミ フクシモチ コノヲカニ ナツムスコ カイヘキケ ナツケサネ・・・
 B コモヨコモ チフクオモフモ ヨミケキミ モチコノヲカニ ナモツマス コノイヘキカナ カサネ・・・

このうちAのほうが恐らく源順らの最初の試訓であったろうが、このような試行錯誤、暗中模索から万葉集の読み解きは始められた。『新撰万葉集』から約六十年後のことである。驚くべきことにその歌数は約四千首と言われ、それは一部にこじ付け珍訓もあるが、全体としてはよく勘所を押さえ、かつ今日のわれわれよりも年代が近いだけに古語の意味形式に熟達した、大いに学ぶべき訓が多々ある。これが古点である。
 一角が崩されると、やがてこの謎解きに興味を持ち、挑戦する人々が現れる。藤原道長などの高官の名もその中にあった。万葉集が一種のクイズと考えられていたのではなかろうか。そのうちに漢字抜きの読み下し文、仮名本の万葉集も編まれて広まり、平安朝人の好尚に合った、一部の歌は彼らの「今」の世の歌と共に公私の歌集に収められ、また自らの歌作りの参考にも利用されて、中古も後半期になると、一種の万葉ブームともいうべき盛行を見る。この時期に訓を付された歌を幅広く次点と呼んでいるが、実数は必ずしも明らかではない。約三百数十首かとする説もある。

  仙覚の功績  
 鎌倉期に入って、万葉集の愛好者は更にその層を広げたようで、源実朝など万葉調の歌を詠む人も現れる。筆写もここかしこでなされ、時には巻々の枠を外して内容・素材・長歌短歌の別などによって分類した類聚本も作られる。そしてやがて専門的研究者が現れた。常陸国生れで鎌倉に住む学僧仙覚がその人である。
 最初は将軍藤原頼経の命を受けて源親行が数種の本の校合を始めた。それまで転写され続けて系統が分かれ、あちらこちらに異文のある本を見比べることによって原本の姿を復元しようとする。最も基礎的な作業が校合である。仙覚ははじめその助手的な存在であったが、後に彼が中心となる。寛元四年(1246年)、彼が四十四歳の時にでき上がったのが第一次の仙覚本、寛元本である。
 その約二十年後、更に新たに見ることを得た数種の本を校合し、彼自らの研究も進んで一段と古代語法にかなった第二次仙覚本が生れる。文永二年(1265年)の成立で文永二年本と呼ばれるが、今日それは伝わらない。今日一般に万葉集研究の底本とされる西本願寺本万葉集は、その翌年に成った同三年本の姿をよく伝えていると考えられている。彼はまた古点・次点が読み余していた百五十二首の歌に新たに訓を付した。これが新点であり、西本願寺本などには朱で訓が書かれている。その中の幾つかは今日でも難訓とされるが、その代表格である巻第一の額田王の歌(9)を西本願寺本によって示せば次の通りである。

 莫囂円隣之大相七兄爪謁気吾瀬子之射立為兼五可新何
  (ユフヅキノアフギテトヒシワガセコカイタタセルガネイツカアハナム)

 その論拠は、その三年後、彼の六十七歳の時に著した『万葉集註釈』世にいう『仙覚抄』に記されている。残念ながら今では研究史的な意義しかないが、彼のひたむきな学問的情熱には心打たれるものがある。仙覚という人がいなかったら今日の万葉学はなかったであろう。
 戦国時代の間、万葉集はまた眠りにつく。元和偃武、江戸時代に入って平和が戻り、文芸復興し、各種の古典の出版が行われるようになり、万葉集も寛永二十年(1643年)に寛永版本と呼ばれる整版印刷本が出現する。今日の万葉集の普及とは比較にならないが、こうして万葉集は一般大衆生活に融け込んで行った。

 ひとっぱもわからず万葉もおきやァがれ (『柳多留』百二十四別篇)

と、ひやかす者もあったが、市民はこの紺表紙の二十冊本を手に取り、それなりの理解・関心を示したに違いない。念のために言えば、「ひとっぱも」は「ちっとも」の意の近世語、勿論「万葉」の対で縁語である。
 近代以降、さまざまな形で万葉集は刊行され、上下に広く読まれるようになり、研究も種々の角度から行われている。訓や解釈も諸家の間で差があって、時に不審を抱かせることもなくはない。その諸説が分かれる最も大きな原因は、数多い古写本の漢字のどれを良しとするか、またそれをどう読み解くかについて、研究者の間で必ずしも一致を見ないことにある。しかし、それが万葉集の魅力の一つとも言える。読者の一人ひとりが、その種の疑問を持って本書(私注・日本古典文学全集)を読まれることを私たちは期待する。
  万葉集の読み方
 歌は世につれ世は歌につれ、というが、歌でその時代を推し量るという点では、万葉集は奈良時代の世相、当時の人々の物の考え方をよく反映し、またその用語も一部の難解なものを除けば割合に平明で、何となく今の世の中の人の心にすっと入り込んで来るようなところがある。殊に、正岡子規が排撃した『古今集』以下の勅撰集一般に見られるような観念的、類型的、表現技巧に走り過ぎる傾向がここにはほとんど認められず、結果として、良く言って素朴平明、悪く言って素人好きのするその分かり易さが、明治末以来の、写生尊重、リアリズム合理主義を唱えるアララギ派を中心とする近代歌人たちから歓迎された。
 また、万葉集の持つ懐ろ深さ、多様性の強みということも、これが「愛される古典」の資格の一つと言えよう。万葉集は、開けばどこかに回帰すべき心の拠り所を提供してくれそうな親しみ易さを備えている。戦前戦中は「醜の御楯」という防人歌の中の語を流行させ、戦後は「憶良らは今は罷らむ子泣くらむ」に優しい家長像を見つけ、また「夏痩せに良しといふものそ」の歌が夏の土用の丑の日に鰻屋の客寄せに貼られるという有様である。
 しかし、時として万葉集の歌が我流に歪めて引かれることがあれば問題であろう。例えば、巻第十三・3248(私注・旧国歌大観番号)の長歌に続く反歌、

 磯城島の大和の国に人二人ありとし思はば何か嘆かむ (3249)

は、「あなたという方が二人とないからこそ嘆かずにはいられない」という意味であるのに、「あなたと二人、二人のために世界はある」と解釈する歌人がかつてあった。長歌との結びつきを無視し、万葉集独特の解釈のルールを破って安易な読み方をして、これで万葉集を読んだと言って良いだろうか。
 また、「恋」という言葉は、古典では一般に、逢いたい人に逢うすべがなくてひとり悩む、という意味である。つい最近までも「恋の重荷」「恋の闇路」など、その延長線上で用いられた。ところが今や、男女の情事、濡れ事を表わす、「灼熱の恋」「恋多き女」などと用いられて、その語はほとんど原義を失った。この誤用を溯らせては万葉の「恋はすべなし」「恋ふれば苦し」などの心は理解できないであろう。
 万葉集を読むということは己を空しくすることから始まる。発音する意味のヨムの上からも歪んだ読み方に従うべきでなかろう。少壮の頃誦み習った賀茂真淵以来の訓が脳裏を去らず、その近世式の読み方で訓を付した注釈書もなおある。その人々は「あかねさす紫草野(ぬ)行き標野(ぬ)行き」「心も思努(しぬ)に古思ほゆ」と読まないと万葉集を読んだような気がしない、というのである。係助詞「ぞ」の清濁もこれと無関係でない。今、特殊仮名遣や語の清濁を語る場合でないため省略するが、本書は四冊(私注・全二十巻を四冊に収めてある)のうちのどこかでその種の疑問にもできるだけ答え、正しい万葉集理解の糸口を示す努力をしようと、今、私たちは考えている。

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