本文批評のこと   参考:日本古典文学全集、小学館
 

 現在数多くの写本が残されているが、 校本万葉集に記されたところによって、それらの本文や訓の実体を知ることが出来る。また、その中の幾つかには、複製本も備えられている。このように現存古写本に見られる異同を比較検討することによって、原本の姿を再現しようとする作業を本文批評というが、万葉集に関していえば、その方面の研究は、かなり進み、効果も上がっている。しかし、当然のことながら、研究者の間で是とする基準が異なり、部分的には学書によって相互に開きがあり、また同じ研究者であっても、歳月の経過にしたがって結論が微妙に変化することがあって、そのためこれぞ原本の姿と信ずべき定本はない。 従来の本文批評、特に校本万葉集が出現するまでのそれは、古代語の音韻や語法に必ずしも十分に通じておらず、かつ後世人の想像や尚古癖で歪曲された、恣意的な作物であったといってよい。しかし、原本が一字一句誤りなく完全無欠であった、と言い切ることができるだろうか。おそらく、編纂者にとっても、随所に意味不明な箇所のある原資料を、疑問に思いながらそのまま転記するようなことがあったに違いない。

   
 万葉集原本の不確実性
 
 この際、他の文献については述べないが、万葉集に関していうならば、どうにも庇いようのないあやまりがある。その一部を示すならば、編纂者に擬せられる大伴家持自記と目される部分にさえそれが認められる。例えば、彼が天平十八年(746)越中国守となって赴任する時に叔母の坂上郎女が詠んだ歌(3949、3950)の題詞に、
 
  大伴宿禰家持、天平十八年閏月七月を以って、越中国守に任ぜらる。即ち七月を取りて任所に赴く。ここに姑大伴坂上郎女、家持に贈る歌二首(原文「大伴宿祢家持以天平十八年閏月七月被任越中国守即取七月赴任所於時姑大伴坂上郎女贈家持歌二首」) とある。この部分は、閏七月に着任するように七月(二十日前後か)平城京を出発した、というのであろう。ところが、この天平十八年に閏はあるが、それは九月の翌月であり、これは何かの間違いであろうと言われている。思うに、家持は後年この記事を書くにあたって、天平十年の暦を見てきにゅうしたのでなかろうか。天平十年ならば「閏七月」がある。

 またその五年後、越中国守の任果てて少納言となって帰京する時の記事(4272)の歌の前の、
   七月十七日を以って、少納言に遷任す。仍りて悲別の歌を作り、朝集使掾久米朝臣広縄の館に贈り胎す二首 
   (原文「以七月十七日遷任少納言仍作悲別之歌贈胎朝集使掾久米朝臣広縄之館二首)」)  
ここに「朝集使」とあるが、これは「正税帳使」の誤り。この少し前、二月二日の歌(4262)の左注に、  
  右、判官久米朝臣広縄、正税帳を以って、京師に入るべし。よりて守大伴宿禰家持この歌を作る。(原文「右判官久米朝臣広縄以正税帳応入京師仍守大伴宿禰家持作此歌也」) とあり、時期の上からも正税帳使でなければならない。因みに朝集使の上京は毎年十一月十日と定まっており、このあと上京の途中、越前に立ち寄った家持は帰任する広縄と遇って、そこでは正しく「正税帳使掾久米朝臣広縄」と記している。これも、後年になってあやふやな記憶で書いたからに違いない。家持も、時に頼りないことがあった、といってよさそうである。 このように本人自記にかかる部分でも誤りがあり、それに気づかないままに書き進められているのである。これらはたまたま証拠があって、誤りであることが明白な場合であるが、証拠が発見できない場合には確かめようもなく、不自然と思いながらもなるべくそのままにするしか方法がない。自筆本だからミスはない、という保証はどこにもない。 また、万葉集原本の姿を再現しようと努めたとしても、そもそも万葉集の原本というものが、ただ一つしかなかったと考えるならば、それは誤りというべきであろう。仮に万葉集という歌集がかつて或る時期にほぼ今日見るのに近い形にまとめられることがあったとしても、編纂者が折に触れて部分的に手直しして、その結果、改善することもあり、時に改悪することもまたあったのではないか。これはあくまでも一つの仮説であるが、或る時期に万葉集の第一次原本というべきもの「A」が成ったとする。それは家の集ともいうべくかなり個人臭の濃い覚書風のものであった。その後、その記録者は折々それに加筆して、ちょっと見ただけでは分らないが厳密には少しずつ異なる本「A1」、「A2」...ができた。更に十数年を経て、それらの中の或る本に形式的統一を加えると共に、内容的にも修正を加えて、いうなればよそ行きの形に整えようとした。その試みは必ずしも成功せず、部分的には新たな誤りさえ生じた。これを、「a1」と仮称する。第二次原本といってもよい。その「a1」も世に広まり、複数の他人の手で転写され、「a2」、「a3」...などと分かれて伝わり、その一部は散逸した、というようなことは考えられないだろうか。今日さまざまの万葉集の古写本が、大綱は同じでも小異を示して現存する原因として、そんなことがあったのではないだろうか。 古写本によって、その内容が異なる代表的な巻は第十七である。非仙覚本系の元暦校本と仙覚本系の西本願寺本とを並べて見れば随所にそれが指摘できる。たとえば、3938~3943の連作の前の題詞に、
  十六年四月五日に、独り平城の故宅に居りて作る歌六首(原文「十六年四月五日独居平城故宅作歌六首」)、とあって、六首の歌が続き、そのあとの左注が次のように分かれている。   元暦校本 右、大伴宿禰家持作る(原文「右大伴宿禰家持作」)
   西本願寺 右の六首の歌、天平十六年四月五日に、独り平城郷の旧宅に居りて、大伴宿禰家持作る(原文「右六首歌者天平十六年四月五日独居於平城故郷旧宅大伴宿禰家持作」)  この二通りの左注のうち元暦校本の書式の方が古く、西本願寺本は題詞の内容を重ねて書いたいわば蛇足に堕している。「天平」の二字も、この巻の最初に「天平二年」とあるのに任せて一切これを記さない元暦校本の形の方がすっきりしている。この類の蛇足はこの巻第十七全体に及び、西本願寺本などの文永本系のみならず神宮文庫本などの寛元本系もまたこの体裁である。おそらく元暦校本の形が家持の第一次原本の姿を伝えていると考えられる。 更に言えば、元暦校本に代赭色で校合書き入れされた、本来、元暦校本とは別系統の、仮に元赭と呼ばれる本の記載もまた別の意味で注目すべく思われる。一例を示せば、家持が三ヶ月ぶりに逢った掾の大伴池主と飲楽する時に詠んだ歌(3983)の左注が、
  元赭
 此の時復白水郎の船ありて波浪に浮かび漂ふ(原文「此時也復有泉郎船浮漂波浪」)
  西本願寺本 此の時復漁夫の海に入り瀾に浮けり(原文「此時也復漁夫之船入海浮瀾」) 
と相違し、元暦校本はおおむね、後者、西本願寺本の形に近い。これについて判断することは容易ではないが、一つの可能な想像を述べるならば、家持の推敲の跡を示すものというべく、元赭の形は家持自ら捨てた最初の案ではなかろうか。この類の元赭の記事は、この後3987題詞、3991前文、4000前文などにもあり、そしてその中の一部は検天治本や京都大学本(京大本)の赭の書き入れ(いわゆる京赭)とも一致する。
 これらのほかで、歌詞に関して注目すべき異同がある。それは巻第二十の防人歌群に挟まれた家持の「防人が悲別の情けを陳ぶる歌」と題する長歌(4432)の前から三分の一辺り、防人兵士の門出を見送る家族の悲嘆のさまを叙するくだりで、母父が別れを惜しんで言った言葉、 

 ・・・・・・「鹿子じもの ただひとりして 朝戸出の かなしき我が子 あらたまの 年の緒長く 相見ずは 恋しくあるべし 今日だにも 言問ひせむ」と 惜しみつつ 悲しびませば (原文「可奈之備麻世婆」)・・・・・ 

の中の「悲しびませば」に関する異同である。元暦校本及び西本願寺本などの仙覚文永本にはこのようになっているが、類聚古集と神宮文庫本などの仙覚寛元本には「可奈之備伊麻世」とある。この「悲しびいませ」は、万葉には例の多い已然形で言い放つ法と呼ばれる確定条件の一種に当たり、マセバもイマセも共に成立可能な語法のように思われる。しかし已然形で言い放つ法は、原則的には理由を表し、この歌においては適当ではない。なんとなれば、この句の後に更に妻子の慕い憂えるさまの叙述が続き、この確定条件は並立を表す偶然確定でなければならない。おそらく家持は最初イマセとし、あとでその不適切であることに気づき、マセバと直したのではないだろうか。
 以上、見来った異同ないし明らかに誤りと分るものは、いずれも大伴家持の作かその自記と考えられるところにかかり、編纂者としての家持が他人の作品に手を加えたとみるべき確証はない。これらから、家持が自分の書いたものにあとから推敲加筆したと考えるのは当然の推理だろう。
 この推測は、家持にかかわりある周辺の人々の作の記録(筆録者は家持であろう)にも拡げてよい。たとえば、巻第二十の末尾に近いところ、橘奈良麻呂事件で反藤原仲麻呂派が一掃された後、家持や市原王・大原今城らの中立穏健派が中臣清麻呂宅に集まり、宴を催した時の歌の題詞についても指摘できる。その歌数の記事が本によって相違するのである。まず4520の前にある題詞を西本願寺本によって示す。
   二月に、式部大輔中臣清麻呂朝臣の宅にして宴する歌十首 (原文「二月於式部大輔中臣清麻呂朝臣之宅宴歌十首」) 
  大部分の古写本が右の通りであるが、元暦校本や古葉略類聚鈔などには「十五首」とある。これはこの時の集宴者たちの社交儀礼的応酬の十首と、同じ顔ぶれが引き続いて、二年前に崩じた聖武太上天皇を追慕するあまりに、先帝遺愛の高円離宮跡の荒廃を嘆いて詠んだ五首(4530~4534)とを合算した数である。その追加の離宮思慕の五首の歌の前にも、興に依り、各高円の離宮処を思ひて作る歌五首(原文「依興各思高円離宮処作歌五首」)とあること故、その前の「二月於式部大輔中臣清麻呂朝臣之宅宴歌」の歌数は「十首」でよい。しかし、同じ面々で同時に詠んだという意味で「十五首」と合算した数にするのにも一理ある。これと同じようなケースは、これより三年前、橘諸兄がその子奈良麻呂の宅で宴を催した時の歌(4478~4480)においても見られる。西本願寺本によって題詞だけ抜き出して示せば次のようになっている。

 A 十一月二十八日に、左大臣、兵部卿橘奈良麻呂朝臣の宅に集いて宴する歌一首 (原文「十一月廿八日左大臣集於兵部卿橘奈良麻呂朝臣宅宴歌一首」)
 B 天平元年班田の時に、使いの葛城王、山背国より薩妙観命婦などの所に贈りし歌一首」)(原文「天平元年班田之時使葛城王従山背国贈薩妙観命婦等所歌一首」)
 C 薩妙観命婦の報へ贈る歌一首 (原文「薩妙観命婦報贈歌一首」) 

 Aの歌の内容は、その日降った雪を見て諸兄が詠んだもので、B、Cはその時、興に乗じて二十五年も昔の天平二年(730)早春の贈答歌を思い出して披露したものである。この西本願寺本の書き方では、B・CとAとがいかなる関係にあるのか分りにくい。ところが、ここでも元暦校本にはAの歌数が「三首」となっている。これはB・Cをも合算した数を示したもので、重複の嫌いはあるが、三首相互の関係がよく理解できる。本によって歌数の掲出方針が分かれるのは、先に示した中臣清麻呂の宴歌の場合とまったく同じである。この奈良麻呂宅の宴歌の中に家持の作歌はないが、おそらくこの席に列していて聞いた歌を書きとめたのは家持であろう。「十五首」とするか、「十首」とするか、「三首」か、はたまた「一首」かは、歳月の経過に伴って彼の記載の基準に変化が生じたためと考えて誤りないだろう。
 以上、列挙した事実以外にも同趣の例があるが、これだけからでも万葉集の原本は決してただ一本ではなく、第一次、第二次などと仮称した複数の本から出て分れ伝わった、というような複雑な生成過程を想像することは自然な推理ではなかろうか。
 それを更に裏書するのが目録の有無、あっても本によって大差がある事実である。仙覚が文永本の巻第二十の奥書に記すところの、諸本の分類に関するものを要約するならば次のごとくである。
 本により、巻々の目録に異同がある。
  (1) 二十巻すべてに目録がある本(ただし詩句に各小異あり)
   a  巻第二十の目録に諸国防人の名字をことごとく載せる本 
   b  巻第二十の目録に武蔵一国のみ防人の名を載せ他は歌数だけあげてある本
   c  巻第二十の目録に諸国防人の歌の数のみを載せる本
 (2) 巻第十五までの毎巻目録を有し、十六以下目録の存しない本
 (3) すべて目録のない本 
 このうち(1)の「a」及び(3)に当たるものは現存しない。(1)の「b」は神宮文庫本などの仙覚寛元本、(1)の「c」は西本願寺本などの仙覚文永本、そして(2)は元暦校本などの非仙覚本であり、尼崎本もまた目録を欠く。春日本も巻第十九の巻首の断簡が現れたが、首題に続いて本条が書かれていることから同類であることが知られる。右の仙覚の証言に従う限り、彼は(3)の目録を欠く本を見ている。「代匠記」はそれこそ「正本」だったろうという。先ほど第一次原本Aと仮に呼んだものもそれに当たる可能性が大きい。ただし、「A1」・「A2」などと仮称したものが現存する非仙覚本のどの系統に近いかは答えようがない。ただ「代匠記」や「古義」をはじめとする先賢によって指摘され、あまねく知られていることだが、二十巻すべてに目録のある本のそれが誤り多いもので、「愚拙の者のしわざ」といわれるのも当然であり、中古以後、例えば本集を初めて読み解いた梨壺の五人あたりの作り物でないかとする説さえある。今は一々例を示さないが、確かに、(1)の類の巻第十六以下の目録には本条の内容を理解していると言えないような、投げやりな仕上がりがかなり頻繁に目立つが、この五巻分の目録を中古以降の成立と断定するのは、万葉集原本の構成を完全無欠だったと過信する買い被り的見方というべきだろう。 思うに、万葉集の目録は短期間に一挙に成ったものではなく、またある程度、形式を全体的観点から統一調整しなければならなかったろうし、それが案外手間な作業であることにも気づいて、本条の内容が煩瑣な巻第十六にさしかかった途端放り出し、その後また幾ばくかの年月を経て、このまま捨て置くこともできないと、怠りがちな心を励まして、曲がりなりに巻第二十までやり遂げたのではないか。この目録の成立の時期を中古に押し下げるべき根拠はない。仙覚は、寛元本段階では(1)の類でも格別に粗悪な「b系統(巻尾九十数首を欠く本によって目録を作った)」の伝本を不本意ながら採ったが、文永本段階ではそれを捨て、「c系統」の本に換えたのである。
 このように考えるならば、目録を目安にしていえば、万葉集の原本は、

 (3)→(2)→(1)と、それも奈良時代の範囲内で生成発展していった、と推測するのが最も自然であろう。


   
 古写本の意改
 
 このようにして万葉集の原本は幾種類か出来上がったと思われる。しかし、先にも言ったように、人間わざの常として、それらはいずれも多かれ少なかれ捜せば何がしかの欠点が見つかる体のものであった。それが更に次々と書写が繰り返されるうちに、また新たな瑕疵が発生したであろうことも想像に難くない。 総じて古写本には誤字がつきものである。書本自体が誤っていることや、中に判読できない字が混じっていることもあるし、写し手の側についても学力や体力の不足、疲労などの原因で誤写することもある。誤字・誤脱・衍字・文字転倒など、人間である以上、過ちは避け難い。それを世に魯魚(ろぎょ)または焉馬(えんば)の誤りという。言うなれば、無意識の誤りである。万葉集に関しても、校本万葉集を見ればすぐ分るようにその類のおびただしさ、指摘するまでもないが、一例を示すならば、巻第四の神亀元年(724)甲子冬十月紀伊国行幸の時に娘子に頼まれて笠金村が作った長歌(546)の中に、   ・・・・・・麻裳吉 木道尓入立・・・ (あさもよし 紀伊路に入り立ち) とある部分が、桂本・元暦校本・紀州本などの諸本では「水道尓・・・」としており(仙覚本系諸本と類聚古集とには「木道尓・・・」とある)、それらの共通祖本に既に「水道」とあったことが知られる。字形の近さから「木」→「水」と誤ったに違いない。 この類については今は特に触れない。触れるべき警戒すべきもう一つは、無意識でない故意の、写し手の賢しらの本文改変、意改であり、後世の我々にとって複数の字面のいずれを採るべきか迷う場合である。例をあげるなら、巻第四の563、   孤悲死牟後者何為牟生日之為社妹乎欲見為礼 (恋ひ死なむ 後は何せむ 生ける日の ためこそ妹を 見まく欲りすれ) の第二句に問題がある。これは底本である西本願寺本によって示したものであるが、西本願寺本に限らず、すべての仙覚本がこの通りである。ところが、この「後」の字が桂本・元暦校本・紀州本などの諸本に「時」とある。これによれば、「こひしなむときは」と読むしかない。しかも、巻第十一の2597、   恋死後何為吾命生日社見幕欲為礼 (恋ひ死なむ 後は何せむ 我が命 生ける日にこそ 見まく欲りすれ) という類歌があり、その方が意味も通りやすそうである。右の巻第四の方も「後」とある本を採って、「時」を顧みない注釈書が多い。しかし、「・・・む日に」「・・・む時は」などという形で一種の仮定条件を表すことがある。   鶴が音の聞えむ時は我が名問はさね  (古事記・85)  萩の花 散らむ時にし 行きて手向けむ  (970)  これらから推せば「孤悲死牟時者何為牟」で差し支えないではないか。 ここで忘れてならないことは、常にそうだとはいわないが、平安期の歌人たちが彼らの作歌の参考に万葉集の歌を利用することはあっても、その万葉歌は、時に平安朝人の好みで歪められていて、後世人の我々からみてもそれなりによくも読んだものと感心することがあるが、一字一字に忠実に学問的に正確に読んだとは限らない仮名書の抄出本によったものだ、ということである。右の「恋ひ死なむ・・・」の歌にしても、本文が「時」となっている諸本でも訓は「こひしなむのちは・・・」「コヒシナムノチハ・・・」とある。訓と本文とが合わないのである。この訓が尊重されると、本文が疑われ、ともすれば改められることになる。現に今の場合、仙覚本に至って、本文も「後」に意改されたのである。 この例だけでは見通せないが、それでも、本文に二通り以上の伝来がある場合、概して訓と合うほうが二次的な形と疑ってよいのではないか、という予想が立てられそうである。次の15の歌もその一例である。同じく西本願寺本の形で示そう。   渡津海乃豊旗雲尓伊理比祢之今夜乃月夜清明己曾 (わたつみの 豊旗雲に 入日ねし 今夜の月夜 すみあかくこそ)  この第五句にも訓義に問題があるが、今は触れない。第三句の「伊理比祢之」は陽明本など同じ文永本系でもこうなっている。神宮文庫本などの寛元本系そしてその流れを汲む寛永版本では「沙之」とあって仙覚は一時それを採っていた。「祢之」としたのは、その後見得た二条院御本の本文を良しとしたからである。サシ系は紀州本および秘府本に「佐之」とあるが、今日では「沙之」(ないしそれの修正推定本文の「紗之」)を採るものが多い。ところが、元暦校本と類聚古集とには「伊理比弥之」とあり、これによれば「入日見し」と読むべきことになる。ただし、それら元・類二本も訓は「いりひさし」とあり、それは「袖中抄」「綺語抄」や「和歌童蒙抄」「夫木和歌抄」などの抄出仮名書本の訓と同じである。これも右の見通しから、本来「弥之」であったのに、平安朝人はこれを勘で「入日さし」と読み、これに合わせて「・・・佐之」「・・・沙之」などと本文を改めたのであろう。あるいは、「入日見し今夜」という言葉続きに疑問を覚えたのかも知れないが、上代(のみでないが)民間では一般に日没ないし日の出をもって一日の始まりとする習慣があって、ここはその前者の場合によったと解すれば、不審はなかろう。これは元暦校本・類聚古集の本文が優れている一証である。   古尓恋良武鳥者霍公鳥盖哉鳴之吾恋流其騰 (いにしへに 恋ふらむ鳥は ほととぎす けだしや鳴きし 我が恋ふるごと)  これは112を西本願寺本によって示したものであるが、この第五句「吾恋流其騰」の「恋」は元暦校本・金沢本・類聚古集・紀州本などに「念」となっており、それによって読めば「あがおもへるごと」とするしかない。しかるに、「念」となっているこれら諸本の訓も「恋」とある本のそれと同じく「わかこふること」「ワカコフルコト」とある。あるいは「わがおもへるごと」と読めば字余りになると考えてそれを回避したのかも知れないが、それに合わせて「吾恋流其騰」という二次的本文が作られたと考えるのは、これまでの成り行きからみて自然な推定であろう。同じことは521についてもいえる。   春日野之山辺道乎与曾理無通之君我不所見許呂香裳 (春日野の 山辺の道を よそりなく 通ひし君が 見えぬころかも)  この第三句は金沢本以下、全古写本がこうなっており、元暦校本のみが「於曾理無」(訓「おそりなく」)とある。ただ金沢本は本文「与曾理」だが訓は「おそり」となっている。西本願寺本などの文永本とほぼ同時に成った「仙覚抄」には「ヨソリナクトハソバヘヨルコトモナクカヨヒシトヨメル也」と注しており、それは寄り道せず、の意であろうし、最近の注釈書でもこれに従っているものがある。これは恐ルという動詞がもともと上二段活用であったことが忘れられ、オソリという言葉遣いが理解されなくなって、写す人が「与曾理」の誤りではないか、と考えて改めたからだと思われる。元暦校本だけであるが、「於曾理」とするのはこの本の校勘資料として貴重な存在であることを示す一証である。   人事繁哉君乎二鞘之家乎隔而恋乍将座 (人言を 繁みや君を 二鞘の 家を隔てて 恋ひつつをらむ)  この歌(688)は「大伴坂上郎女七首」とあるもののうち一首である。この歌の第二句「繁哉君乎」は、元暦校本に「・・・君之」(訓も「きみの」)とあるのを除けば、あとはすべてこのようになっており、桂本さえもその例外ではない。これによれば、動詞恋フが格助詞ヲを受ける極めて稀な例外の一つということになり、また作者が女性の坂上郎女であることを思えば、隣同士の近さで恋しく思いながら逢えないのをじれったく思う、というのも落ち着かない感じがする。それよりは、「君之」とあるのによって「君」を主格とし、人の噂に気兼ねをして訪れてくれない男を誘い出そうとする歌と解する方が自然であろう。結句の「将座」もそれに応じてイマサムと読むのが良い。これまた元暦校本の本文の優秀さを物語る一証である。順序は前後するが、77に戻る。   吾大王物莫御念須売神乃嗣而賜流吾莫勿久尓 (我が大王 物な思ほしそ 皇神の つぎて賜へる 我がなけなくに)  この歌の第四句「嗣而賜流」の訓は、すべての古写本・注釈書が「つぎてたまへる」と読んでいる。しかし、この「嗣」を「副」に作る本がごく一部ではあるが存する。冷泉本と紀州本と金沢文庫本の三本がそれである。この「嗣」と「副」は行書では互いに誤られやすく、校本万葉集首巻の「校異を出さざる異体字ならびに通用字の表」に、両方共列挙された異体字を比べてみれば明らかであろう。これは、元暦校本・類聚古集も誤ることがあるという一例である。次にあげる124の歌も、元暦校本の本文が必ずしも常に優れているわけではないことを示す。   人皆者今波長跡多計登雖言君之見師髪乱有等母 (人皆は 今は長しと たけと言へど 君が見し髪 乱れたりとも)  この第一句は神宮文庫本・西本願寺本などすべての仙覚本系諸本にこのようになっており、金沢本などもまた「人皆者」である。ところが、元暦校本と紀州本とには「人者皆」とあり、訓も「ひとはみな」「ヒトハミナ」となっている。そればかりでなく、金沢本でも、本文は「人皆者」としながら訓は「ひとはみな」とあって、本文と訓とが一致していない。念のためにいえば、中古語ではごく稀に「みなひとは」ということもあるが、それよりも「ひとはみな」という形が圧倒的に多い。あるいはミナの語が本来の名詞的性格を薄め、副詞的働きに転じたのでもあろうか。これに平行して万葉集の歌の一部の訓にも金沢本のごとく「ひとはみな」が現れ、やがて元暦校本・紀州本のように本文までも「人者皆」と歪められる本が出現したのである。 次の歌(493)も元暦校本の本文が意改で歪められている例であるが、これには金沢本・類聚古集も同調している。   真野之浦乃与騰乃継橋情由毛思哉妹之伊目尓之所見 (真野の浦の 淀の継ぎ橋 心ゆも 思へや妹が 夢にし見ゆる)  この第三句「情由毛」の「由」が元・金・類の三本に「田」とあり、訓も「こころたも」(元暦校本のみ「こころにも」)となっている。副詞的ダモが和歌に現れるのは「和泉式部集」あたりといわれるが、写し手はそれを思い浮かべて本文を「田毛」に作ったのであろう。中古人は「ユ」という助詞が耳慣れず、意味の面でそれに近い「ニ」などに置き換えたのだが、仙覚は仮名書に照らして「ユ」という助詞の存在を知り、従来の訓を改めた。「仙覚抄」に、   此歌中五文字、証本皆同ク漢字ハ「情由毛」トカキテ、仮名ハ「心タモ」ト点ゼリ。又或本ニハ「田」ニカケリ。是ハ仮名ニヨリテカケルニヤ (以下略) とあるのは、書写者が仮名訓を尊重し、これに合わせて本文を賢しらに改める傾向が見られることを、七百年以上も前に先覚は指摘していたのである。

   
 近世以降の諸学書の本文改変
 
 近世初頭、寛永版本が刊行され、これの普及によって万葉集も庶民にとって身近なものとなり、万葉集研究も大きく前進し、またさまざまな分野の文芸作品に影響を与えることになる。ただ、これを手にした人の目には奇異に映ったものか、その資料価値についても過小に評価されたと思しく、少しでも疑わしい箇所に逢着すると、誤字でないか、誤解・衍字・文字転倒ではないかなど、疑心暗鬼に駆られ、私意で本文や訓を改めた。しかし、仮にそれが誤りであってたとしても、寛永版本のみの過失であることも稀にはあるが、それ以前に、先ほど述べたような写本の意識的ないし無意識の改変を受け継いだものであったり、更に遡れば、原本段階で編纂者にも不可解な難訓であったりすることが少なくなかった。それにもかかわらず、不審・非難のほこ先は寛永版本に向けられ、誇張していえば、近世万葉学は版本のあら探しの観を呈した。稀には、契沖や荒木田久老のように、偶然、古写本を実見する機会を得、それによって版本以外の本文に接した学者もあるが、大部分の研究者は恣意によって、めいめい己が「万葉集」を作ることに努めた。 その場合、万葉集のみならずさまざまな古代文献に見える特殊な表現や語彙に関する知識が不充分であったり、あるいは偏狭な尚古思想が災いしたりして、歪んだ物差しで計った誤断や思いつきが生じ、時には後世に誤った本文や語形を押し付ける恐れもなくはない。特に賀茂真淵は「今本に錯乱誤字甚多し」といって、私に巻の順序を大幅に差し替えたのみならず、少しでも意味が通じなかったり内容が不穏当であったりすると、大胆に誤字説を出した。例えば、巻第一の人麻呂の長歌(38)に、   ・・・・・高殿を 高知りまして 登り立ち 国見をせせば たたなはる(原文「畳有」) 青垣山 やまつみの 奉る御調と・・・・・ とある、その「畳有」について「冠辞考」は、タタナヅクならば、「古事記」(景行)に「多々那豆久」とあるのをはじめ、本集にも「多田名附」、「立名附」などと見えるのに合わせて、「有は付を誤れるものとす」とし、タタナヅクと読んだ。また、巻第四「紀郎女怨恨歌」(646)の、   世の中の 女にしあらば 我が渡る 痛背の川を(原文「痛背乃河乎」) 渡りかねめや の「痛背乃河」を「疣背乃河」と改め、「妹背の川」と解し、   痛は疣の誤ならんか、伊凡と伊毛と云通へば、疣の字をかりしを痛に誤れるか。 と注する。更にいえば、巻第十三の問答の中の、泊瀬妻問いで女が答えた歌(3326)、   こもりくの 泊瀬小国に 夜這ひせす 我が天皇よ(原文「吾天皇寸与」) 奥床に 母は寝ねたり 外床に 父は寝ねたり 起き立たば 母知りぬべし 出でて行かば 父知りぬべし ぬばたまの 夜は明け行きぬ ここだくも 思ふごとならぬ こもり妻かも のうち、第四句「吾天皇寸与」(全古写本かくあり、寛永版本のみ「吾大皇寸与」に誤る)について、「吾夫寸美与」の誤りと断じ、   (上略)考えるに、夫を天に誤、美を皇に誤りぬ。(中略)人を貴みいふも限こそあれ、女の己が夫をいとも恐く天皇といへること、かりにも有べしと思へるにや、身もわななかれて恐し、ただ天皇を尊み恐み奉るによりて、天下平かに、蒼生安けき事とする、我朝の大道を忘れて、後世に他の国ぶりなすものどものわざなりけり。よく我朝の古を知てこそ、我古のふみを取なすべけれ。 と注する。真淵説でも従うべきものがなくはないが、右にあげた類は採り難い最たるものに属する。「畳有」についていえば、「名義抄」に「委、タタナハル」と見え、その「委」は「万象名義」に「累也」と注してある。「久里多々祢」(3746)の「タタネ」とこれとは、清メ-清マハル、懸ケ-懸カハルと同類の対応で意義分化したと考えればよい。「疣=妹」説も、疣をいつ頃からイボといったか不明であり、またその語源について「蟷螂考」などを参考にして「新撰字鏡」のイヒボムシリとあるいは関連あるかと想像しても、いまひとつ確かでなく、ましてこれをイモ(妹)の借訓とするのは思いつきの説である。「吾夫寸美与」に至っては弁護の余地がないが、その後、「略解」「古義」もこれを受け継いでいることを思えば、真淵の影響力の大きさ一通りでなかったことが想像される。 誤脱説もまた盛んで、特に長歌においてかなり長大な句を補う試みがなされた。もっとも、中でも「代匠記」が、巻第八の春相聞の、笠金村が遣唐使に贈った長歌1457の前半部、一部分を原文のまま示せば、   ・・・・・息の緒に 我が思ふ君は 虚蝉之○命恐 夕されば 鶴がつま呼ぶ 難波潟 三津の崎より・・・・・ の「○」を付した部分に「世人有者大王之」の二句があったのを脱したとするのは、同じ金村の歌集中に「虚蝉乃代人有者大王之御命恐美」(1789)、「虚蝉乃世人有者大王之御命恐弥」(1791)と二回も見えること、「命」の字がイノチとも読まれ、「ウツセミノ」-「イノチ」と続いた例もあることなどから思うに、原本段階で既に目移りが原因の誤脱があったと考えられ、従うべき説といってよい。 しかし、以下に列挙するがごときは、注者が必要以上に対句に興味を持って、添削というべき無用な補入をしたものと考えられる。共に問題の箇所は西本願寺本の原文によって示す。その一つは巻第一の柿本人麻呂の吉野行幸供奉の際の歌(36)で、   やすみしし 我が大君の 聞こし食す 天の下に 国者思毛沢二雖有○山川之清 河内跡 御心を 吉野の国の・・・・・ の「○」を付した部分について、橘守部は「万葉集墨縄」および「万葉集檜嬬手」の中で「里者志母多雖有」を由阿本により補った、とする。由阿は仙覚より約百年後に出た人で、「詞林采葉抄」などの著述があるが、そのどこにもそのような本文があった確証を見ることができなかった。守部はまた「檜嬬手」において、巻第二の人麻呂作河島皇子挽歌(194)の書き出し部分で、   飛ぶ鳥の 明日香の川の 上瀬尓生王藻者下瀬尓流触経○玉藻成彼依比依 なびかひし 夫の命の・・・・・ の「○」の所に「飛鳥毛登備母能煩良受」の二句を補った。特殊仮名遣いを知らず、この仮名の甲乙の違いに思い至らなかったのは仕方ないにしても、いらざる入れ事ではあった。この種の誤脱説は、近世の大抵の注釈書が試み、流行といえるばかりであったが、幸いにして今日その累が及んだとみるべきものはない。 しかし、近世以降の諸学書で、もし古代的表現や習慣について充分な理解がなく、みだりに本文を改変しそれが今日も採られて歪んだ解釈を下し、そのために多数の読者を誤らせるがごときことがあったとしたら、その弊害は大きい。例えば、巻第四の冒頭の、難波天皇の妹の歌(487)、その第四句を原文のままに示せば、   一日こそ 人も待ち良き 長き日を 如此所待者 ありかつましじ とある、その第四句は旧訓で「カクマタルレバ」、元暦校本などは「カクシマタレバ」と仮定に読んでいた。ところが、本居宣長が「玉の小琴」において、   「所」は「耳」の誤りにて、「かくのみまてば」なるべし。「所」と「耳」とも似たり、又「可」の誤りにて「まつべくは」なるか、「所」と「可」とも似たり(下略) という説を出した後、これに追従する者がだんだん現れ、塙書房版本や「日本古典文学全集」本もそれを免れなかった。思うに宣長は、「所待者」を文字通り「待たるれば」(ないしは「待たれば」)と読むならば受身と解せざるを得ず、それでは歌意を得ないし、強いて受身と解するならば「待たせられば」などとあるべきだ、それならば「所」を「耳」の誤りとする方が早い、とでも考えたのではなかろうか。 しかし、いうほどに「所」と「耳」とは行書でも滅多に誤写されないし、自発の「待たる」という形も決して珍しいものではなかった。即ち、「古今集」にも「立ち待たれつつ」(772)、「待たるることのまだもやまぬか」(774)、「月夜には来ぬ人待たる」(775)とあるばかりか、「拾遺集」の「あらたまの年立ちかへるあしたより待たるるものは鶯のこゑ」(5)は中でも有名である。確定か仮定かについては今触れないが、この場合「待たる」(上代語では「待たゆ」という形の方が一般的であったか)と読み、この句は、こんなにあなたのお帰りが待たれるのでしたら、解釈して差し支えなかったのである。  万葉集には、いまだに定訓のない、いわゆる難語難訓が数多くある。塙書房版本によって数えれば歌数で十九首、件数で二十三個を算するが、その他にもこれこそ定訓といえるものがなく、従って諸注によって異説が分かれる、いうなれば準難訓を加えるならばこれに数倍する数に上ろう。これらの難訓・準難訓を読み解くに当たって盛んに誤字説が試みられる。例えば、巻第十二の寄物陳思のうちの、雨に寄する一首(3060)を第一・二句原文のままに示すならば、   左佐浪之波越安蹔仁 降る小雨 間も置きて 我が思はなくに  この第二句「波越安蹔仁」のうちの「安蹔」が難訓である。旧訓には「アサ」とあったが、その後「童蒙抄」が「あぜ」という試訓を出し、畦の義とした。しかし、「蹔」の字をゼと読むことは漢字音の面からも従い難く、また「左佐浪」は湖西の地名ではあり得ても、サザレナミ(小波)と同一視することは不可能である。近代になって「萬葉集新考」(井上通泰)は、巻第七の羈旅作中に見える近江の山名「連庫山(なみくらやま)」(1174)と結びつけて、第二句を「波鞍蟹仁」の誤りとした。「連庫が嶺に」と解するのであるが、このような大胆な誤字説は、いかに調べが整い、万葉歌らしく響いても、従うわけにはいかない。いま一つ付け加えるならば、巻第四の笠女郎が家持に贈った歌二十四首の中に次のような一首(609)がある。第三句だけは原文のままに示す。   我も思ふ 人もな忘れ 多奈和丹 浦吹く風の 止む時なかれ  この第三句は旧訓に「おほなわに」とあるが、類例がなく、そのためにさまざまな誤字説が提出された。今はその一々の列挙は省略するが、そのうちの比較的に新しい「万葉集注釈」に「多奈乃和乃」の誤字ではないかとし、現在の大阪府泉南郡岬町淡輪に擬する説が出された。この淡輪は「雄略紀」九年の「田身輪邑」に当り、万葉当時、一時的に「多奈・・・」と称したとすべき証はない。 ほかの文献についても大同小異であろうが、当面の対象である万葉集に限っていえば、原本からして誤りがあり、決して完全無欠ではなかった。しかも、複雑な生成の過程を経たと思われ、その原本も第一次、第二次などというふうに内容に相互微差があったと考えられる。それらがそれぞれ伝写されていくうちに、無意識の誤写も生じたろうが、書写者の私意で歪められた故意の変革もあったろうことは疑いない。このような雑多な性質の歪曲の重層を負って伝わった写本ないし刊本の本文や訓を、後人の感覚や理解不足で軽々しく誤りと断じて、放恣な誤字説を唱えることは正しくない。 そのような従来の本文批評の在り方に対する反省の気持ちから、本書(新編日本古典文学全集:小学館)ではできる限り古写本に残された文字を尊重し、私意を排し、そのため訓義未詳の語句が生じても牽強付会することをせず、多少、歌意が不明になりまた、歌がらが卑しく感じられる結果となっても、それは原典が拙かったからだと考える立場を貫こうと努めた。 

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