無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第2番ニ短調「シャコンヌ」 BWV1004-5

                                             

 

 2004.06.10.記

バッハ Johann Sebastian Bach (1685〜1750、ドイツ)


 


 率直に言って、バッハの音楽は非常に解かりづらい。勿論私にとってのことで、バッハファンや研究者の方たちからすれば、そんなことはない、と言われるのは当然のこと。私が解かりづらいとするその理由の一つに、どれもが同じような旋律、そして音色がある。音色について言えば、当時の鍵盤楽器の一つであるクラヴィアが、バロック音楽そのものを印象づけているために、もうバロック音楽全体が、同じに聴こえてしまう。クラシックを聴き始めた中学生の頃でも、古典派以降のモーツァルトやベートーヴェンのピアノ曲なら、それぞれの曲をメロディで聴きわけることは容易だった。ところがどうした訳か、それがクラヴィアの音色で象徴されるバロック音楽になると、途端にこの曲は誰の曲だったかなぁ、となってしまう。そのクラヴィアの音色に惹きこまれていくのは...中学生の私から、はるかに時を経なければならなかった。

 おそらく、20代の後半ではなかったか。一度その魅力に取り付かれると、今度はなかなかその魔力のようなクラヴィアの音色に逆らえなくなってしまう。いつもBGMは、そのクラヴィアの奏でる、バロック調の音楽を好んで聴いていた。

 

 さらりと聴き流せるときがほとんどであり、ちょうど好きになりかけた頃の文学に影響を与えていたのかもしれない。まるで条件反射のように、本を手にすると、決まってクラヴィア曲を流してしまう。音楽を聴きたいと積極的に思うときは、どうしてもベートーヴェンやブラームス、あるいはワーグナーなどの重々しく、壮麗なオーケストラ曲が、私にはまだ主流だったころのこと。だから、BGMで流すには最適な音色でも、どの曲を好んで聴いていたのか、それはあまり覚えていない。今、これだけ大好きなバッハでさえも、当時の私には、心地よい音色を聴かせてくれる作曲家程度の捉えかただった。

 

 

 そんな私のバロック観をひっくり返したのが、今日取り上げた「シャコンヌ」だった。

 勿論、それまでにもバッハのヴァイオリン、バロック作曲家のヴァイオリン協奏曲は普通に聴いていたが、この「シャコンヌ」を聴いた途端、その時読んでいた本を閉じてしまった。

 無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第二番ニ短調第五曲「シャコンヌ」

 バッハは、無伴奏ヴァイオリン・パルティータを3曲作っている。セットで買ったCDを順番に聴いてゆき、この「シャコンヌ」の響きが私を襲ったとき、本を閉じてしばらく、すべての感覚が「シャコンヌ」に吸い取られてしまったように身動きできなかった。ひょっとすると、息さえも...それはないだろうが、今そのときのことを思い浮かべると、本当に呼吸も止まっていたのでは、と思えるほど衝撃的だった。「シャコンヌ」が終わり、次の第3番の「プレリュード」を聴く前に、この曲が第何番の何番目の曲なのか解説書を読み直した。そして、「シャコンヌ」だと知ると、その珍しいそして美しい響きの名前に、ますます惹かれてしまった。この第2番を、もう一度第1曲から聴きなおし、「シャコンヌ」へ辿りつくのを楽しみにしていた。すると、雰囲気は変わっているが、どれも第5曲の旋律に似ており、あれっ、この曲だったかな、ちょっと違うな、などと不安になっていたところ、やはり「シャコンヌ」が始った途端に、また全身に衝撃を感じた。それまでの似たような旋律は当然のことで、よく聴きなおすと、同じ旋律の変奏曲に違いない、と思った。その頃には、すでに「音楽の捧げもの」という単調な旋律の変奏の素晴らしさを知っていたので、「音楽の捧げもの」ほどの明確さはないけれども、まさにこれは「変奏曲」だ、と思った。

 その集大成が、最終の第5曲「シャコンヌ」であり、凝縮されたエネルギーがヴァイオリンの持つ性能の限界ぎりぎりまで高められ、それを聴く方も何故か「哲学者めいた」気分にさせてくれる。

 そもそも、「無伴奏」という形式に気づいたのも、この「シャコンヌ」からだったように思う。ただ漠然と、本来は伴奏を必要とする楽器だと思っていたので、まるでピアノを指一本で演奏するのと同じようなことなんだろうな、としか思っていなかった。

 ヴァイオリンの弦は、4本ある。これは当時から知っていた。しかし、重奏といっても、せいぜい2本の弦を同時に弾くことくらいしか思っていなかった。ところが、このバッハは...その4本の弦全部を重奏してしまう。そうなっては、もうヴァイオリン・ソナタで、ピアノの伴奏は要らない。だから、そんなことが出来るのか、と信じられなかったが、「シャコンヌ」を聴く限り、まさにヴァイオリン一つで「オーケストラ」を出現させていた。私の知らないだけのことで、それはバロック時代でも、よくあることなのかも知れないが、私にとっては、一気にバロック観を覆した瞬間だった。勿論、単に技巧的なことだけではない。それまでのバロックは、BGMとしても最高の心地よさを与えてくれたのだが、この「シャコンヌ」は、それを許さない。「俺と対峙しろ!」、そう思わせる無言の力を感じる。人の本質は古来から変わらぬものだと思う。しかし、バロックのそれまで聴いていた甘美で快適なメロディ、そして音色が、当時の音楽家たちの芸術の表現なのだ、と思っていたものが、「シャコンヌ」は現代の彷徨う魂をも表現しているように聴こえる。時代を超えて、とよく言われるが、それは物質的な時代観のことなのだ。精神的な時代観は、どこにも時代区分は出来ないように思える。

 

 現代人が、密室で古代人と対話するのを想像する。あるいは、江戸時代の日本人でもいい。何に戸惑う。お互いに戸惑うのは、それぞれの認識できる「物」の相違だけではないか。歌を朗詠し、人の心を探る。そこに時の隔たりはないのだと思う。

 

 

 無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第二番ニ短調 BWV1004

   (1)Allemanda

   (2)Corrente

   (3)Sarabanda

   (4)Goga

   (5)Ciaccona

 

   
  作曲家別INDEX  バッハ   
音楽の部屋