バッハ Johann Sebastian BACH  (1685〜1750、ドイツ) 

 このサイトでバッハのことを書くのは、あくまで好きな曲のエピソードにともなう私的なこと。研究者も多いこの作曲家については、どこでもしっかりとした資料が手に入ると思う。だから簡単に年譜だけを取り上げておきたい。

 

 

以下の年譜は、国本静三氏のサイト「音楽サロン」の中の「バッハの生涯」から承諾を戴いての引用です


 

誕生とアイゼナハ時代

 

1685年3月21日

 ドイツ・アイゼナハで生まれる。町楽師であった父、ヨーハン・アンブロージウスと、母エリーザベトの第8子であった。生まれて2日後にゲオルク教会で洗礼を受ける。アイゼナハは宗教改革(1517)のルター(1483-1546)と大変園の深い町である。ゲオルク教会付属学校にルターが通い、後にアイゼナハ郊外ヴァルトブルク城で聖書を翻訳した地である。有名なパッヘルベル(1653-1706)が1677年に宮廷オルガニストに就任し、父ヨーハン・アンブロージウスとも親しく交わっていた。バッハが生まれた時はパッヘルベルはエファルトに移っていたが、バッハの長兄ヨーハン・クリストフは、彼から教えを受けた。

 

 

1693年〜95年

 8歳〜10歳

 1693年から1695年までラテン語学校に在籍するが、非常に欠席が多かったという。1694年の春、母が死去、同年11月に再婚した父が、翌年2月20日に亡くなった。それに伴い下2人の子供、ヨーハン・ヤーコプとセバスティアンは、長兄の所へ引き取られていった。長兄ヨーハン・クリストフはすでにオールドルフでオルガニストとして一家をなしていた。


 

オールドルフ時代

 

1695年〜1700年

 10歳〜15歳

 オールドルフの高等中学校在校名簿に1696年7月20日からバッハの名がある。おそらくこの時、パッヘルベルから教えを受けた長兄から音楽教育を受けていたと思われる。この兄は、当時有名だったフロールベルガー、ケルル、、パッヘルベルたちのクラヴィーア曲集を所持していた。しかし、バッハは見せてもらえなかったという。毎夜秘密で月明かりで写し取ったといわれている。最後には兄に見つかり、取り上げられてしまったらしい。こうしてバッハは、15歳を迎える。


 

リューネブルクとヴァイマル時代

 

1700年〜03年

 15歳〜18歳

 1703年3月15日、友人ゲオルク・エールトマンとともに、北の町リューネブルクに行く。目的はミカエル教会とその付属高等中学校である。2人はミカエル教会からは聖歌隊員、教会付属学校からは給費生として迎えられた。聖歌隊ではバッハはボーイ・ソプラノで有能ぶりを発揮したが、まもなく変声期を迎えて隊員としては役に立たなくなったようだ。この町のヨハネ教会にベームという優れたオルガニストがいて、バッハは彼から大きな影響を受けた。

 

 リューネブルクから北約50キロにハンブルクがある。ハンブルクは北ドイツ最大の都市で音楽的にも最も盛んな地の一つであった。バッハにとってハンブルク訪問の最も魅力的な目的は聖カタリーナ教会のオルガニスト、ネーデルランドの特にスウェーリンクのオルガン芸術によって育まれたラインケンの演奏を聴くことであった。またハンブルクはオペラにおいても盛んな所で、バッハにまたとない体験となった。

 

 また、リューネブルク南のツェレの宮廷では、領主がフランス人の妻を娶っていたのでフランス音楽が盛んであった。この宮廷楽団からバッハは、フランス音楽を吸収することになり、フランス風音楽を身につけることができた。

 

 1702年ザンガーハウゼンのヤコブ教会のオルガニストの職に応募するが、うまくいかなかった。1703年3月にヴァイマルのヨーハン・エルンスト公の私的楽団のヴァイオリンとヴィオラ奏者として半年勤めている。このときの大きな収穫は、重音奏法で有名なヴァイオリニスト、ヴェストホフと知り合ったことであった。後の無伴奏ヴァイオリン曲は、彼から影響を受けた。


 

アルンシュタット時代

 

1703年〜07年

 18歳〜22歳

 1703年、アルンシュタインの新しくできた教会の初代オルガニストになった。この時期のバッハは、人間的にも未熟で、血気盛んな若者であった。リューベックへの旅の経緯からも分るであろう。それは1705年秋、4週間の休暇をとり、リューネブルクへ向かった。その目的は、マリア教会のオルガニスト、今はときめく大音楽家ブクステフの音楽を把握するためであった。アルンシュタットから400kmキロの道のりを、徒歩で出かけたとも言われている。この休暇を無断で4ヶ月に延長したとも言われている(実際は3ヶ月だった。)。これは、ブクスフーデの音楽にいかに魅せられたかが分るであろう。聖マリア教会での催し「夕べの音楽Abendmusiken」では、彼のカンタータが演奏された。バッハにはオルガン作品に大きな影響を与えた。パッヘルベルの構築性に加えて幻想的かつ劇的な要素が加わる。アルンシュタットの会衆には不評ではあったが。

 

 個性を抑圧せず大胆に解放する表現性であった。礼拝におけるバッハの演奏は大胆、前衛的なものとなり、コラールの伴奏に装飾や不協和音を用い、間奏では目もくらむような即興演奏をしたと言われる。2月21日に教会当局によって、この点と聖歌隊指導の怠慢、休暇の無断延長が問題にされ、叱責を受けた。さらに11月に当時女人禁制であったルガン席で、おそらく未来の妻バルバラを歌わせたと言う譴責も加わった。こうした中でバッハが新しい職場を求めるようになったとしても不思議はない。ともあれブクスフーデ体験が「トッカータとフーガニ短調BWV565」や「トッカータ、アダージオとフーガハ長調BWV564」等の情熱的な作品を生んだ。


 

ミュールハウゼン時代

 

1707年〜08年

 22歳〜23歳

 アルンシュタットの北西50キロあまりに位置するミュールハウゼンの聖ブラジウス教会のオルガニストを勤める。07年7月以降からで、この年の10月17日、バッハ(22歳)と親戚の娘マリーア・バルバラ・バッハ(23歳)は結婚する。このミュールハウゼンにおいて教会カンタータの作曲と演奏にも熱意を示した。08年2月に聖マリア教会で市参事会員交代式のために、大編成による壮麗なカンタータ「神はわが王BWV71」が演奏され、市の費用で楽譜が印刷された。バッハの生前に印刷された唯一の作品である。

 

 当時、ルター派には敬虔派と正統派の対立があり、バッハは音楽を重んじる正統派を支持したが、彼の勤める聖ブラジウス教会の牧師は敬虔派で、音楽の役割を軽視した。6月にザクセン=ヴァイマル公ヴィルヘルム・エルンストの宮廷オルガン奏者に応募して採用され、6月25日にミュールハウゼンに辞表を出した。


 

ヴァイマル時代

 

1708年〜17年

 23歳〜32歳

 1708年7月、バッハは2度目のヴァイマル宮廷に仕えとなる。今度は実権を持っていた兄のザクセン=ヴァイマル領主ヴィルヘルム・エルンスト公の宮廷音楽家兼宮廷オルガニストとして勤めた。この時代に、大多数のオルガン曲と、20曲あまりのカンタータを作曲した。バッハの俸給はミュールハウゼン時代の2倍近い150フロリンで一人前の音楽家として迎えられ、14年には250フロリンになった。高い評価を得ていたことが分る。それとともに長女カタリーナ・ドロテア(1708年)と立派な音楽家となる息子たちヴィルヘルム・フリーデマン(1710年)、カール・フィーリプ・フリーデマン(1714年)、ヨーハン・ゴットフリート・ベルンハルト(1715年)が生まれていった。

 

 バッハはこの時、テューリンゲン以外でも知られる存在になっていた。一介の宮廷楽団員であることに不満を覚え、ハレの聖母教会オルガニストの職に応募し採用決定となった。これを知ったヴィルヘルム公は、俸給を増額しバッハを手放そうとしなかった。さらに、それまでなかった楽師長という地位をバッハのために設けた。この時、アイゼナハの宮廷に仕えていたテーレマン(1681-1767)とも親しく交際ができた。

 

 1713年7月にバッハのイタリア音楽体験が起こった。オランダのユトレヒトに留学していたヨーハン・エルンスト公子(後にエルンスト二世になる。バッハが仕えていたヴィルヘルム・エルンスト公の甥)がヴァイマルに帰ってきた。オランダでイタリアやフランスの音楽に接し、多くの協奏曲などの楽譜を集めてきた。ヴィヴァルディ(1678-1741)、テーレマン、A.マルチェッロ(1684-1750)、B.マルチェッロ(1686-1739)、トレッリ(1658-1709)のものであった。エルンスト公子はそれらと自作の協奏曲を鍵盤楽器曲に編曲するように、バッハの母方の親戚であるヴァルター(1684-1748)とバッハに依頼した。

 

 このヴィヴァルディを中心とするイタリアの協奏曲がバッハにとってたいへん大きな意味を持った。バッハのイタリア体験は、これらの協奏曲の楽譜を通してであった。特にこれらの編曲により、新しい協奏曲の形式とイタリア音楽を深く学ぶことになった。バッハが編曲したヴィヴァルディによる作品は現在10曲判明しているが、全般に単なる編曲ではなく、原曲とはかなり異なったものになっているものもある。「4つのクラヴィアのための協奏曲BWV1065」は管弦楽付きであるが、他はクラヴィアかオルガンの独奏用である。華やかなイタリアの協奏曲を一人で弾いて楽しみたいと依頼者のヨーハン・エルンスト公子は考えたのだろう。このエルンスト公子の5つの協奏曲も含まれている。

 

[バッハの編曲作品]

 

原曲作者名

原   曲

J.S.バッハの編曲

Vivaldi

vn協奏曲ニ長調       Op.3-9 RV230

clv協奏曲ニ長調   BWV972

Vivaldi

vn協奏曲ト長調       Op.7-8 RV299

clv協奏曲ト長調   BWV973

A.Marcello

ob協奏曲

clv協奏曲ニ長調   BWV974

Vivaldi

vn協奏曲ホ長調       Op.3-12 RV265

clv協奏曲ハ長調   BWV976

原曲不明

clv協奏曲ハ長調   BWV977

Vivaldi

vn協奏曲ト長調       Op.3-3 RV31

clv協奏曲ヘ長調   BWV978

Torelli

vn協奏曲

clv協奏曲ロ短調   BWV979

Vivaldi

vn協奏曲変ロ長調     Op.4-1 RV383a

clv協奏曲ト長調   BWV980

B.Marcello

協奏曲

clv協奏曲ハ短調   BWV981

J.Ernst

協奏曲

clv協奏曲変ロ短調 BWV982

原曲不明

clv協奏曲ト短調   BWV983

J.Ernst

協奏曲

clv協奏曲ハ長調   BWV984

Telemann

vn協奏曲

clv協奏曲ト短調   BWV985

原曲不明

clv協奏曲ト長調   BWV986

J.Ernst

協奏曲

clv協奏曲ニ短調   BWV987

J.Ernst

協奏曲

org協奏曲ト長調   BWV592

Vivaldi

2vn協奏曲イ短調     Op.3-8 RV522

org協奏曲イ短調   BWV593

Vivaldi

vn協奏曲ニ長調       Op.7-11 RV208a

org協奏曲ハ長調   BWV594

J.Ernst

協奏曲

org協奏曲ハ長調   BWV595

Vivaldi

2vn、vc協奏曲ニ短調 Op.3-11 RV565

org協奏曲ハ短調   BWV596

Vivaldi

4vn、vc協奏曲ロ短調 Op.3-10 RV580

4clv協奏曲イ短調 BWV1065

★ 管弦楽を伴い、4台の鍵盤楽器の協奏曲は前代未聞で、史上稀有な作品である。

 

 バッハが仕える殿様であるヴァイマルの本家ヴィルヘルム・エルンスト公は、彼の甥エルンスト・アウグスト公とはたいへん不仲であった。にもかかわらずバッハはアウグスト公の宮廷(「赤の館」といわれていた)にも出入りして、彼の弟であり、バッハにイタリア音楽をもたらしたヨーハン・エルンスト公子(エルンスト二世)と一緒に演奏したりした。これはヴィルヘルム・エルンスト公に厳禁されていたことであったのに。

 ヴァイマル時代のバッハはオルガン奏者、作曲家としても名高く、17年のマッテゾン著「庇護されたオルケストラ」の中でも称賛され、文献中にバッハの名が出る最初のものである。バッハにとってのオルガンは後世のパガニーニやショパンのように、楽曲と作曲者の世界は一体化している。一例として「オルガン小曲集BWV599-644」(1713-15,c.40)は興味深い。この曲集では簡素に音を切り詰めることによって、コラールの旋律と歌詞内容を浮かび上がらせようとしている。45曲から形成されているこの曲集は教会歴に従い実用的な教会音楽であるが、時と場を超越した内省的な名作となっている。

 

 1717年8月5日にケーテン公の宮廷楽長に任命されたが、ヴァイマル公はバッハの辞任を許可せず、11月6日から12月2日の間4週間バッハを拘禁した。だが、この後に解放されケーテンに移る。


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ケーテン時代

 

1717年〜23年

 32歳〜38歳

 アンハルト=ケーテン侯国の若き領主、レーオポルト侯(1694-1728)は、自らも音楽をやる大変な音楽好きであった。1717年から23年の6年程の間、バッハは宮廷楽長を勤めたが、彼の生涯においてとりわけ輝かしく幸福な時期となる。ケーテン宮廷楽団にソロ奏者が8人、合奏のみの奏者が4人、トランペット奏者が2人写譜家が2人いた。バッハは前任者の2倍の33ターラーで、この宮廷の臣下の第2位という高給であった。しかし、この時期にバッハは教会音楽をほとんど作曲していない。バッハの作曲は世俗器楽音楽中心になる。それは、この侯国がまもる教派が100年来カルヴァン派の改革派であったためで、この教派は教会音楽を重んぜず、制限もあった。ルター派信徒のバッハがこの宮廷で働くことには支障はなかったことは事実である。この侯国にもルター派教会があったしルター派の学校もあった。レーオポルト侯の母はルター派の信徒でもあり、この点に関しては寛大であった。

 

 バッハが宮廷楽団と取り組んだ最も重要な分野は協奏曲であった。そしてそれらの協奏曲の中でも突出した作品は「ブランデンブルク協奏曲BWV1046-1051」(全六曲からなるこの作品がケーテン時代に作曲されたかどうかは論議があるが)である。この「ブランデンブルク」というネーミングの由来は、ケーテン時代の1712年3月24日にブランデンブルク辺境伯クリティアン・ルートヴィヒに自筆総譜(但しオリジナルからの筆写譜)を献呈したことにある。バッハは、また新しい職場をこの時期に求め始めていたので、転職活動のための献呈だったかもしれない。この作品の特徴は、イタリア音楽の影響を全面的に受けており、各曲が全く違った個性や楽器編成を持っている点である。しかもこの時代に見られがちであった単なる御用音楽家の範囲をはるかに超え、1曲ずつ熱のこもった新しい協奏曲の世界へ踏み出す挑戦的な創意に満ちている。

 

 バッハは、ヘンデルが1719年の5月か6月頃、ロンドンから故郷のハレに帰って来たといううわさを聞き、ヘンデルを訪ねるため駅馬車で30キロの道のりを行った。ハレに着いてみるとヘンデルはドレースデンに向けて出発したとことであった。ヘンデルはオペラ作曲家としてロンドンで大成功を収め、国際的名声を得ていた。

 

 1720年、5月から7月にかけて侯爵のお供で、カールスバートへ保養に行った。帰国して知るのだが、13年間連れ添ったマリア・バルバラ(1684-1720)が急死し、帰国の10日前程の7月7日にすでに埋葬されたという。2人の間に、7人の子をもうけたが、その時4人の子供が残されていた。

 

 1720年11月の秋、ハンブルクの聖ヤコブ教会のオルガニストのポストを考え、赴いて試験演奏(11月28日)をしようとするが、23日にケーテンに向かわなくてはならなくなったので、聖カタリーナ教会のオルガンを非公式ながら市の有力者たちを前に2時間あまりも演奏してわかせ、聖ヤコブ教会のオルガニスト就任を乞われるが断った。

 

 1721年9月25日の洗礼式(ケーテンのカルヴァン派の聖ヤコブ教会で)があったが、その記録に代父、代母5人の中に楽長バッハと女性歌手アンナ・マグダレーナ・ヴィルケの名がある。アンナ・マグダレーナ(1701-1760)は当時20歳でソプラノ歌手として宮廷に籍を置いていたところであった。この洗礼式から2ヶ月少しの11月3日に二人の結婚式が行われた。ルター派の教会での挙式は喜ばれなかったのか、侯の命令で自宅で式は行われた(花嫁20歳、花婿36歳)。結婚後は13人の子をもうけ、バッハの仕事の協力者(写譜の手伝いもこなした)ともなる。

 

 アンナ・バルバラは1歳年上ということもあり、夫ヨハン・セバステイアンとは友人のような感じがあったと思える。バッハ一族に属していたし、バッハと同じく内向的で芯の強い性格であったろう。後妻となるマリア・マグダレーナの方はバッハ一族とは異なり、外向的で楽天的な性格であった。これらは各々の子どもにも受け継がれている。

 

 1歳年上のバルバラは7人、16歳年下のマグダレーナは13人の子をもうけたが、各々2人ずつが名のある音楽家になった。バルバラから、ヴィルヘルム・フリーデマン(1710-84)とカール・フィリップ・エマヌエル(1714-88)、マグダレーナからヨハン・クリストフ・フリードヒ(1732-95)、とヨハン・クリスチャン(1735-82)。「フリーデマンのためのクラヴィーア小曲集」と2冊の「アンナ・マグダレーナのクラヴィーア小曲集」といわれる楽譜帳を残しているが、教育家や家庭人としてのバッハの姿を示すものといえよう。前者は「インヴェンション」や「平均律クラヴィーア曲集第1巻」(一部)が含まれ、音楽教育者バッハの高さを示し、後者は「フランス組曲BWV812-817」や「パルティータBWV825-860」の一部が含まれるが、バッハや子供たちのアンナ・マグダレーナに対するほほえましい夫婦愛や家族愛が示されている。

 

 バッハが再婚した8日後に、彼が仕えるレーオポルト侯も19歳の花嫁を得た。バッハを失望させたのは、この侯妃が音楽に興味がなく、レーオポルト侯までもが音楽に熱意をなくしてしまった点であった。以前より教会音楽への関心のないケーテンからの転職を考えていたので、このことが拍車をかけた。

 

 1722年6月にライプツィヒの聖トーマス教会のカントルのクーナウ(1660-1722)が亡くなったので、後任選びをしているのをバッハは知っていた。内定していたテーレマンが辞退したので、22年末に応募する気持ちを固め、志願したのだった。テーレマンとグラウプナー(1683-1760)の続いての辞退後、バッハが紆余曲折の結果、クーナウの後任に正式に契約を交わしたのは23年5月5日、就任式は6月1日であった。これがバッハにとっての永久就職となった。聖トーマス教会のカントルは、トーマス教会付属のトーマス学校の教師と、市の音楽監督という二重の職務があった。


 

ライプツィヒ時代

 

1723年〜50年

 38歳〜65歳

 1723年5月22日にバッハは、家族と家具を伴ってライプツィヒのトーマス教会内の改装なった住居に移った。だが、ライプツィヒ市参事会による難航した後任選びの中でいえることは、バッハについては高い評価がなされていたわけではなかった。彼のオルガン奏者としての評価は高いが、総合的な職務カントルとしての能力について疑問視されていた。バッハが、なぜケーテンの高い地位から、俸給が安くて問題の多い硬派な仕事を選んだかは不思議であり、興味深いことでもある。だがライプツィヒではかなりの副収入があったとも言われている。ケーテンでは、妻マグダレーナも歌手として俸給を得ていたが、ライプツィヒでは単なる主婦となる。大都市での生活費の高さと子だくさんのバッハ家は楽なものではない。加えて幾度も市当局や校長とのごたごたもあり、何度かライプツィヒを去ることも考えることとなる。何故ならカントルは複数の上司の支配下にあって、音楽以外にも雑務の多い地味な仕事であった。

 

 カントルKantorは合唱指揮者とか教師をも含む職務である。しかも、トーマス教会付属トーマス学校は音楽学校ではない。現在のギムナジウムに当たる12歳から23歳に当たる大学に入る前の50人から60人ほどの教育機関であった。ルター派ラテン語学校で、基礎科目と古典語、宗教教育、そして音楽も教えられた。カントルの学校教師としての仕事は、まず上司としての校長が上におり、大きなストレスをもたらした。14条ある契約書の第1条には「高潔でつつましい生活態度を守りながら、生徒たちの範たるべくつとめ、校務に専念し、かつ、生徒たちに誠意ある授業を行うこと」とある。生徒たちの声楽と器楽のレッスンを行い、年13週は生徒の生活の管理役を務め、葬儀の際に奉仕する生徒に付き添い、墓地までの道のりを歩かなければならなかった。ラテン語の授業も重要な任務であったが、これは自分で年棒の払って人に任せた。(なんと自分の年棒の半額であった!)

 

 カントルの市の音楽監督としての仕事は市参事会の権威の下にあり、主要教会の音楽を司るという仕事であった。トーマス教会とニコライ教会、マタイ教会、ペテロ教会の4つの教会の日曜と祝日の礼拝の奉仕のために、トーマス学校の生徒のボーイソプラノによる聖歌隊が能力別に4つに分けて派遣された。最も優秀な第一聖歌隊がカンタータを演奏した。バッハは教会歴に従って、週に1曲というペースでカンタータ作曲と演奏をしていくが、これが最も大変で重要な仕事であった。だが、演奏には人数が足らず、その都度エキストラを調達する難問もあった。と言う具合に驚異的な多忙さであった。カンタータの作曲は1723年から28年位に集中することになる。日曜日と祝日の年間の数は60日位で、その数だけカンタータが必要だったのである。大変な激務が死ぬまで続くのである。

 

 1733年7月、ドレースデンのザクセン選帝侯兼ポーランド王にキリエとグローリアからなるミサ曲を献呈し、宮廷作曲家の称号を願った。バッハはすでにケーテンとヴァイセンフェルスの宮廷楽長の肩書きを有していた。今までよりもはるかに大きなドレースデン宮廷は、より権威ある肩書きであった。3年待って、しかも再度1736年に請願にして達成された。

 

 1733年、かつてのバッハの弟子であったシャイベ(1706-1776)は、彼が編集していた雑誌「批評的音楽家」の中で、激しいバッハ批判を行った。それはバッハの複雑な対位法による音楽は、旋律の流れも聞き取れないほど不自然である、と言う内容であった。当時すでに新しい音楽として対位法によらないモノディ様式が現れていた。つまり、主旋律に和音を付けたもので、バロックの終わりと新しい音楽様式との葛藤が見られる。

 

1750年7月28日

 65歳 死

 晩年のバッハは、一種の白内障の兆候を見せ始め、1749年5月頃にはもう楽譜を書く仕事が不可能になった。ライプツィヒ市当局は、6月8日に、ハラー(1703-55)を呼んで、次期カントルの試験演奏を行っている。(バッハの死後、バッハの息子エマヌエル等をさしおいて、ハラーが選ばれた)

 眼科医ティラー(1703-73)がライプツィヒに来て評判を集めているのを聞いたバッハは、白内障の手術を1750年3月末日に受けた。、一旦うまく行ったかに見えたが、症状が再発し、一週間後に二度目の手術を受けたが、結果は失敗で、薬剤の副作用が致命的な結果をもたらした。以後目の見えぬままに病床に伏す身となる。7月18日、不思議にも両眼は視力を回復。だが数時間後に卒中が起こり、高熱に見舞われる。そのまま病魔と闘い、10日後の7月28日の夜に世を去った。

 

 


 

 遺骸は3日後、聖ヨハネ教会の墓地に埋葬された。アンナ・マグダレーナはバッハより10年長く生きるが、晩年は貧困に陥り、子供たちの援助のないままに生涯を閉じた。1894年、聖ヨハネ教会の墓地が発掘され、樫材の棺の初老の男性の骨が掘り出された。調査の結果、ハウスマンの描く肖像画(1748年)から知る骨格とほぼ一致することから、バッハのものと断定された。1950年、遺骸は聖トーマス教会の祭壇登り口の地下に移された。そして現在に至っている。

 

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