アンハルト=ケーテン侯国の若き領主、レーオポルト侯(1694-1728)は、自らも音楽をやる大変な音楽好きであった。1717年から23年の6年程の間、バッハは宮廷楽長を勤めたが、彼の生涯においてとりわけ輝かしく幸福な時期となる。ケーテン宮廷楽団にソロ奏者が8人、合奏のみの奏者が4人、トランペット奏者が2人写譜家が2人いた。バッハは前任者の2倍の33ターラーで、この宮廷の臣下の第2位という高給であった。しかし、この時期にバッハは教会音楽をほとんど作曲していない。バッハの作曲は世俗器楽音楽中心になる。それは、この侯国がまもる教派が100年来カルヴァン派の改革派であったためで、この教派は教会音楽を重んぜず、制限もあった。ルター派信徒のバッハがこの宮廷で働くことには支障はなかったことは事実である。この侯国にもルター派教会があったしルター派の学校もあった。レーオポルト侯の母はルター派の信徒でもあり、この点に関しては寛大であった。
バッハが宮廷楽団と取り組んだ最も重要な分野は協奏曲であった。そしてそれらの協奏曲の中でも突出した作品は「ブランデンブルク協奏曲BWV1046-1051」(全六曲からなるこの作品がケーテン時代に作曲されたかどうかは論議があるが)である。この「ブランデンブルク」というネーミングの由来は、ケーテン時代の1712年3月24日にブランデンブルク辺境伯クリティアン・ルートヴィヒに自筆総譜(但しオリジナルからの筆写譜)を献呈したことにある。バッハは、また新しい職場をこの時期に求め始めていたので、転職活動のための献呈だったかもしれない。この作品の特徴は、イタリア音楽の影響を全面的に受けており、各曲が全く違った個性や楽器編成を持っている点である。しかもこの時代に見られがちであった単なる御用音楽家の範囲をはるかに超え、1曲ずつ熱のこもった新しい協奏曲の世界へ踏み出す挑戦的な創意に満ちている。
バッハは、ヘンデルが1719年の5月か6月頃、ロンドンから故郷のハレに帰って来たといううわさを聞き、ヘンデルを訪ねるため駅馬車で30キロの道のりを行った。ハレに着いてみるとヘンデルはドレースデンに向けて出発したとことであった。ヘンデルはオペラ作曲家としてロンドンで大成功を収め、国際的名声を得ていた。
1720年、5月から7月にかけて侯爵のお供で、カールスバートへ保養に行った。帰国して知るのだが、13年間連れ添ったマリア・バルバラ(1684-1720)が急死し、帰国の10日前程の7月7日にすでに埋葬されたという。2人の間に、7人の子をもうけたが、その時4人の子供が残されていた。
1720年11月の秋、ハンブルクの聖ヤコブ教会のオルガニストのポストを考え、赴いて試験演奏(11月28日)をしようとするが、23日にケーテンに向かわなくてはならなくなったので、聖カタリーナ教会のオルガンを非公式ながら市の有力者たちを前に2時間あまりも演奏してわかせ、聖ヤコブ教会のオルガニスト就任を乞われるが断った。
1721年9月25日の洗礼式(ケーテンのカルヴァン派の聖ヤコブ教会で)があったが、その記録に代父、代母5人の中に楽長バッハと女性歌手アンナ・マグダレーナ・ヴィルケの名がある。アンナ・マグダレーナ(1701-1760)は当時20歳でソプラノ歌手として宮廷に籍を置いていたところであった。この洗礼式から2ヶ月少しの11月3日に二人の結婚式が行われた。ルター派の教会での挙式は喜ばれなかったのか、侯の命令で自宅で式は行われた(花嫁20歳、花婿36歳)。結婚後は13人の子をもうけ、バッハの仕事の協力者(写譜の手伝いもこなした)ともなる。
アンナ・バルバラは1歳年上ということもあり、夫ヨハン・セバステイアンとは友人のような感じがあったと思える。バッハ一族に属していたし、バッハと同じく内向的で芯の強い性格であったろう。後妻となるマリア・マグダレーナの方はバッハ一族とは異なり、外向的で楽天的な性格であった。これらは各々の子どもにも受け継がれている。
1歳年上のバルバラは7人、16歳年下のマグダレーナは13人の子をもうけたが、各々2人ずつが名のある音楽家になった。バルバラから、ヴィルヘルム・フリーデマン(1710-84)とカール・フィリップ・エマヌエル(1714-88)、マグダレーナからヨハン・クリストフ・フリードヒ(1732-95)、とヨハン・クリスチャン(1735-82)。「フリーデマンのためのクラヴィーア小曲集」と2冊の「アンナ・マグダレーナのクラヴィーア小曲集」といわれる楽譜帳を残しているが、教育家や家庭人としてのバッハの姿を示すものといえよう。前者は「インヴェンション」や「平均律クラヴィーア曲集第1巻」(一部)が含まれ、音楽教育者バッハの高さを示し、後者は「フランス組曲BWV812-817」や「パルティータBWV825-860」の一部が含まれるが、バッハや子供たちのアンナ・マグダレーナに対するほほえましい夫婦愛や家族愛が示されている。
バッハが再婚した8日後に、彼が仕えるレーオポルト侯も19歳の花嫁を得た。バッハを失望させたのは、この侯妃が音楽に興味がなく、レーオポルト侯までもが音楽に熱意をなくしてしまった点であった。以前より教会音楽への関心のないケーテンからの転職を考えていたので、このことが拍車をかけた。
1722年6月にライプツィヒの聖トーマス教会のカントルのクーナウ(1660-1722)が亡くなったので、後任選びをしているのをバッハは知っていた。内定していたテーレマンが辞退したので、22年末に応募する気持ちを固め、志願したのだった。テーレマンとグラウプナー(1683-1760)の続いての辞退後、バッハが紆余曲折の結果、クーナウの後任に正式に契約を交わしたのは23年5月5日、就任式は6月1日であった。これがバッハにとっての永久就職となった。聖トーマス教会のカントルは、トーマス教会付属のトーマス学校の教師と、市の音楽監督という二重の職務があった。
|